平和への道

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御霊の一致を熱心に保った弟子たち(2014.5.21 祈り会)

2014-05-22 17:24:51 | 祈り会メッセージ
2014年5月21日祈り会メッセージ
『御霊の一致を熱心に保った弟子たち』
【使徒2:40~47/ガラテヤ5:13~26/エペソ4:1~6】

はじめに
 前回と前々回は使徒の働き2章のペテロの説教の箇所を読みました。きょうは、その続きの箇所です。使徒の働き2章の40節から47節までを交代で読みましょう。

2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
2:42 そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
2:43 そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。
2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

聖霊を受けたユダヤ人たち
 41節に、ペテロのことばを受け入れた者は、バプテスマを受けたことが書いてあります。ここでバプテスマを受けたのは、エルサレムにいたユダヤ人たちでした。その数は三千人ほどであったと書かれています。ここにはハッキリとは書いてありませんから見落とされがちだと思いますが、この三千人ほどのユダヤ人たちには、ここで聖霊が注がれました。この箇所には「聖霊」という言葉が使われていませんから、この箇所でユダヤ人たちに聖霊が注がれたことを、うっかりすると見落としてしまうかもしれませんが、私たちはサマリヤ人たちに聖霊が注がれた時のことを知っていますから、大丈夫ですね。
 使徒の働き8章で、最初にピリポがサマリヤ人たちにキリストを宣べ伝え、サマリヤ人たちはその教えを信じましたが、その時点では聖霊を受けていませんでした。サマリヤ人たちが聖霊が受けたのは、ペテロとヨハネがエルサレムからサマリヤに下って行って彼らの上に手を置いた時でした。私たちは、先回りして8章のサマリヤ人たちに聖霊が下ったことを知っていますから、この使徒2章のエルサレムのユダヤ人たちにも、間違いなく聖霊が下っています。
 そして、聖霊を受けた彼らは42節にあるように、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈っていました。また、44節以降にあるように、信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていました。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していました。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれました。つまり聖霊を受けた彼らは、御霊の一致を熱心に保つ生活をしていたということですね。

聖霊が注がれているゆえの御霊の一致
 私たちイエス・キリストを信じる者たちには、皆、聖霊が注がれています。それゆえに私たちは、御霊の一致を熱心に保つことが求められます。しかし、どうも私たちは、このことを、しっかりと理解できていないように感じます。きょうは是非、このことを皆さんと分かち合いたいと願っています。
 教会にいる私たちが一つになって助け合わなければならないのは、そのほうが道徳的に正しいからではなく、私たちに聖霊が注がれているからです。聖霊という一つの神で私たちは一つにされていますから、自然と一つになるようにされています。
 しかし、私たちは罪深いですから、一つなることに逆らおうとします。ですから御霊の一致を保つことが必要になって来ます。私たちは頭でっかちですから、すぐ頭で物事を考えて、私たちは一つになって助け合うのが道徳的に正しいから一つになるべきだと考えがちです。しかし、そうではなくて、イエスを信じる私たちは既に御霊によって一つにされています。
 このことを確認するために、ガラテヤ人への手紙の5章を開きましょう。まず13節から15節までを交代で読みましょう。

5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

 この14節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」というのは、下の脚注の引照にもあるようにレビ記19章18節にある律法です。この旧約の律法の段階では、私たちは頭で理解する必要があります。しかしエレミヤが預言したように(エレミヤ31:31~34)、律法は聖霊によって私たちの心に書き記されました。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよという律法は、新しい戒めの「互いに愛し合いなさい」となって既に私たちの心に刻み込まれています。ですから私たちは、後は御霊に導かれて歩んで行けば良いわけです。
 では、続きの5章16節から21節までを交代で読みましょう。

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

 これらの良くないことのリストは、人に聖霊が注がれる前に人が行っていることです。もちろん、聖霊が注がれた後でも、サタンの誘惑がありますから、これらの罪を行うことはあります。しかし、基本的には聖霊が注がれた人はこれらの罪の奴隷状態からは自由になって御霊の下に一つになることができます。
 御霊の一致が得られるのは、次のような御霊の実が与えられているからですね。今度は22節から26節までを交代で読みましょう。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

 22節と23節にあるような御霊の実があるから、私たちは御霊の一致が保たれるわけですね。ここには「御霊の一致」という言葉は用いられていませんが、パウロはここで個人の道徳について説いているのだというよりは、教会が一つになるために必要なことを説いているのだということは、しっかりと確認しておきたいと思います。それは13節の「愛をもって互いに仕えなさい」からも分かりますし、26節の「互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」からもわかります。

主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ
 ですから私たちに聖霊が注がれるのは、私たちの一人一人が救われて道徳的な生活をするためというよりは、私たちが御霊の一致を保って一つになることができるようにするためなんですね。ヨハネの福音書でイエス・キリストが「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)と言ったのもそのためであり、最後の晩餐の最後の祈り(ヨハネ17章)で私たちが一つとなることができるように熱心に祈って下さったのも、そのためです。
 ここで、御霊の一致を熱心に保つことについて、パウロが直接言及しているエペソ人への手紙をご一緒に読みたいと思います。エペソ人への手紙4章の1節から6節までを交代で読みましょう。

4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

 5節にあるように主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。そして6節の最後にあるように、すべての者の父なる神は一つです。使徒の働き2章で聖霊を受けたエルサレムのユダヤ人たちは、このことを霊的にしっかりと理解できていたので御霊の一致を熱心に保つ生活ができていたのですね。

おわりに
 最後に、もう一度、使徒の働き2章に戻りましょう。44節から47節までを、交代で読みましょう。

2:44 信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
2:45 そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

 教会にいる私たちが一つになって助け合わなければならないのは、そのほうが道徳的に正しいからではなく、私たちに聖霊が注がれているからです。私たちは既に聖霊によって一つにされているのだということを、心にしっかりと、刻んでおきたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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