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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

大人の常識に溺れない信仰を育める21世紀の恵み(2020.8.16 礼拝)

2020-08-17 09:27:54 | 礼拝メッセージ
2020年8月16日礼拝メッセージ
『大人の常識に溺れない信仰を育める21世紀の恵み』
【マタイの福音書14章22~33節】

はじめに
 きょうの礼拝メッセージは、最近の(大人のための)教会学校で話題になったことが基になっています。

 先週と先々週の教会学校で、イエス様が湖の上を歩いたことを信じられるか?が話題になっていました。それを後ろの方の席で聞いていて、何か礼拝メッセージが与えられそうな気がしていました。それで、この1週間思いを巡らし、神様からの語り掛けをいただきながらまとめたのが、今日のメッセージです。きょうは次の5つのパートで話を進めます。

 ①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
 ②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
 ③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
 ④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
 ⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み

①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
 まず、きょうの聖書箇所のイエス様が湖の上を歩いた箇所を見ておきましょう。マタイの福音書14章22節27節までを交代で読みましょう(新約p.29)。

14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 25節に、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた」とあります。教会学校では、これを奇跡として、この奇跡が信じられるか?ということが話題になっていました。確かに、常識的には湖の上を歩くことは不可能ですから、これは奇跡なのかもしれません。そうして、奇跡を信じることは非科学的なことなのかもしれません。それが常識なのでしょう。きょうは、この常識について、もう少し掘り下げてみたいと思います。

 イエス様が湖を歩いたことは奇跡なのでしょうか?そのことを信じることは非科学的なことなのでしょうか?

②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
 人が水の上を歩けないのは、私たちの体が地球の重力によって、いつも地球の中心に向かって引き付けられているからですね。固い地面なら体が地面の中に沈んで行くことはありませんが、湖の水は固くありませんから、体は当然沈みます。

 重力の下向きの力は体重が重い人ほど大きくなります。ですから子供から大人へ成長して体重が重くなればなるほど、人は重力をたくさん感じるようになります。

 フィギュアスケートでは、今の採点方法では4回転ジャンプを飛べるほうが高い得点が出ますから、体重が軽い選手が高得点を出す傾向がありますね。特に女子はそれが顕著で10代半ばの選手がメダルを取ります。しかし年齢と共に体重が増えて重力の影響を大きく受けるようになって勝てなくなります。

 スキーも体重との関係が顕著です。学生時代、北海道出身の友人がスキーについて言っていました。北海道の子供は小さい頃からスキーに馴染んでいますが、大人になって体重が増えるとスピードが出やすく、しかも転んだ時の衝撃が大きくなるのでスキーが恐くなるそうです。子供の時はそんなにスピードも出ず、転んでも大した衝撃はないのでガンガン攻めるスキーができたけれど、体重が増えるとなかなかそれができないと言っていました。ここから、子供は大人ほどには重力を感じていないことが分かります。

 それで思い出しましたが、私は子供の頃によく家のブロック塀の上に昇って、その上を歩いていました。どれだけ速く歩けるかを友達と競ったりしました。そうして塀の上を歩き終わると大人の背の高さぐらいの所から平気で飛び降りていました。今の私の体重で飛び降りたら、すぐに膝を悪くしてしまいます。子供の頃の私は身軽で重力をそんなに感じていなかったのだなと思います。

 このように、子供は大人ほどには重力を感じていません。ですから、イエス様が湖の水の上を歩いて自分の方に来たら、大人は怖がるかもしれませんが、子供なら喜ぶ子が多いのではないかと思います。きょうの招きの詞のマルコ10章15節でイエス様はおっしゃいました。

10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。

 私たちは子供から大人へと成長する過程で、様々な常識を身に着けます。その大人の常識が神の国に入ることを妨げることがあることを覚えたいと思います。

③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
 重力の中で暮らしていると、それが当たり前になり、イエス様が重力から自由になっていることに恐怖を感じてしまうようになります。そんな弟子たちの中でペテロは一番弟子だけあって、多少は子供のような信仰を持っていたようです。ペテロはイエス様に倣って水の上を歩こうとしました。28節から33節までを交代で読みましょう。

14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

 ペテロも結局は大人の常識に溺れてしまいました。イエス様は人間の常識の中にはいないお方です。ですからイエス様と出会ったなら、新しい常識の中を生きて行きたいと思います。そうでなければ罪の中で溺れて沈んでしまいます。

 きょうの聖書交読で開いた詩篇51篇では、罪に溺れて沈んだダビデが神様に助けを求めています。ペテロが「主よ、助けてください」と叫んだように、ダビデも神様の憐みを求めて叫んでいます。詩篇51篇1節と2節をお読みします(週報p.2)。

51:1 神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。

 ダビデはイスラエルの王様になったことで富と権力を手に入れ、その中で暮らしている間にいつしか富と権力があることに慣れて溺れてしまい、ウリヤの妻のバテ・シェバとの間で過ちを犯し、遂にはウリヤを戦争の最前線に送って殺してしまいました。富と権力を持っていることが当たり前の中で生活していると、そのような重大な罪を犯してしまいます。そのようなリーダーの例は現代においても会社の社長や自治体の長、あるいは一国のリーダーなどで、たくさんの例が見られますね。

 すべてのものは神様によって与えられたものです。しかし私たちはいつしかそのことを忘れて、神様への感謝の思いを忘れがちになります。ペテロやダビデのように溺れて沈んでしまわないように、いつもイエス様の方を向いていたいと思います。

④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
 イエス様に出会うと、それまで当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなります。イエス様に出会う前の私は自分の人生は自分で切り開いて行くのが当たり前だと思っていました。勉強することで自分の力を蓄え、様々なものを自分の力で獲得して、そうして満足度の高い人生を追求するのが当たり前の人生観だと思っていました。しかし、イエス様と出会ってからは、すべてのものは神様によって与えられたものだということが段々と分かるようになりました。私の命も、日ごとの食べ物も、すべて神様が与えて下さったものだということが少しずつでしたが、段々と分かるようになりました。

 そういう風に考えると、重力もまた神様によって与えられたものなのですね。神様は万物を創造した時に、重力もまた造りました。重力が無ければ私たちの体が浮くだけでなく地面の土砂や岩石もバラバラになり、私たちは安定した地盤の上で暮らすことはできません。水や空気も地球に大きな重力があるからこそ、地表にとどまります。もし急に重力が無くなったら空気は皆、宇宙空間に飛んで行ってしまって私たちは呼吸ができなくなります。雨が下に落ちることもなくなりますから水も無くなるでしょう。私たちが生きて行くのに不可欠な空気と水は、重力があるからこそ、地表にとどまります。或いはまた太陽と地球との間に巨大な重力が働いているから、地球は太陽の周りを回り続けることができます。もし急に重力が無くなったら、地球は太陽からどんどん離れて行き、私たちはたちまち凍え死んでしまいます。

 私たちは重力があることに感謝するべきです。そして重力を創造した神様を畏れ、賛美しなければなりません。イエス様が重力から自由になって湖の水の上を歩いたことを奇跡だと言っている場合ではありません。重力があること自体が奇跡で、重力を創造した神様をほめたたえなければなりません。

 とは言え、ペテロたちの時代には重力のことは分かっていませんでしたから、湖の上を歩くイエス様を怖がったのは仕方のないことかもしれません。しかし21世紀の私たちは重力のことを知っていますから、湖の上を歩くイエス様を奇跡と考えるのではなく、神様がすべての物に働く重力を造って下さったことを素晴らしい奇跡として感謝し、ほめたたえたいと思います。

 それで、重力の発見の歴史について簡単に話したいと思います。皆さんはルターによる宗教改革が16世紀の前半の1517年にあったことは、よくご存知ですね。私たちがいま使っている聖書新改訳2017は1517年の宗教改革から500周年という特別の年に発行されましたから、そのことを記念して2017という年号がそのまま付けられています。

 このルターが生きた時代と同じ時代を、地動説を唱えたコペルニクスは生きました。コペルニクスは太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽の周りを回っているとしたほうが、天体の動きをより的確に表せることに気付きました。この地動説に基づいて、ケプラーという科学者が惑星の運行に法則性があること、すなわちケプラーの法則を発見しました。しかし、コペルニクスもケプラーも惑星の運行の背後にどんな力が働いているのかは気づいていませんでした。

 力の存在に気付いたのはニュートンです。ニュートンの前の時代にガリレオ・ガリレイが地上で物体の落下に関する実験をいろいろと行いました。そしてニュートンは、地上の物体の落下運動と宇宙の天体の運動は同じ法則に基づいていることに気付き、すべての物体の間には引力が働いていること、すなわち万有引力があることを発見しました。コペルニクスの地動説から約1世紀半後の17世紀の後半のことでした。

 しかしニュートンといえども、どうして天体と天体の間に引力が働くのか、どうして太陽と地球とは引き付け合っているのかは分かっていませんでした。そのニュートンが分からなかったことを説明したのが20世紀の科学者のアインシュタインです。ニュートンの時代からさらに200年以上が経った1916年のことです。

 アインシュタインの一般相対性理論によれば、太陽のような巨大な質量がある周囲では時空が歪んでいるとのことです。そして、その時空の歪みは、皆既日食の時に太陽の方向に見える星の位置を観測することで今から100年前の1919年に確かめられました。星の光が地球に向かって進んで来る時、太陽の近くを通ると時空の歪みに沿って軌道が変わることが、太陽の近くを通らない時の星の位置の観測との比較で分かりました。

 ただ、私はこの時空の歪みのことを今一つイメージできないでいました。それが、数年前に重力波が観測されたというニュースを見て、ようやくイメージできるようになりました。皆さんもこの重力波の観測に成功したニュースはご覧になったことと思います。二つのブラックホールが合体したことによって生じた時空の歪みの変化が波として地球まで伝わって来て、それを観測することに成功したということで、2017年のノーベル物理学賞は、この観測プロジェクトのリーダーたちに与えられました。重力波が宇宙空間を伝わっていく様子をシミュレーションした動画を見て、私はようやく時空の歪みがイメージできるようになりました。そうして、時空の歪みという形で重力を造った神様って本当にすごいなと思いました。

⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み
 いま時間を使ってコペルニクスから現代の重力波の観測に至る重力の発見の歴史について語りましたが、それは21世紀の現代は神様の創造の御業の素晴らしさに子供のようにワクワクできる恵みに溢れていることをお伝えしたかったからです。世間の人々は、科学が進歩すればするほど神様を信じることは非科学的なことになっていくというイメージを持っているかもしれません。しかし、それは逆です。科学が進歩すればするほど神様の創造の御業の素晴らしさが分かるようになります。このように21世紀の現代は神様への信仰がますます深まって行く恵みに溢れています。ただし、この恵みに与るためには大人の常識に捕らわれないで子供のようなワクワク感を保ち続ける必要があります。

 重力の例で示したように、神様は素晴らしい方法で私たちに重力の恵みを与えて下さり、私たちを守って下さっています。この神様の素晴らしい御業へのワクワク感を保ち続けていたいと思います。

 それは物理学に関することだけでなく生物学においても同様です。20世紀の半ばの1953年にワトソンとクリックによって遺伝子のDNAの二重らせん構造が明らかにされました。すべての生物は、このDNAによって子孫に遺伝情報が伝達されて行きます。人間も動物も植物も、皆、DNAに書き込まれた情報に基づいて造られるんですね。21世紀に入ってDNAの情報の研究が飛躍的に進んでいます。もはや生物に関することはDNA抜きで考えることはできないのだろうと思います。

 聖書を読み始めたばかりの頃の私は、創世記の始めの頃の人物の寿命が900年とか書いてあることを、ぜんぜん信じられないでいました。例えば創世記5章5節にはこのように書かれています(週報p.2)。

創世記5:5 アダムが生きた全生涯は九百三十年であった。こうして彼は死んだ。

 しかし考えてみると植物の樹木は種類によっては1000年も2000年も生きます。一方、植物であっても1年以下の短命のものもあります。教会の駐車場のフェンスに咲いている朝顔はひと夏の間に種を作って枯れてしまいますから、半年の命です。それらの寿命に関する情報はDNAの中に書き込まれている筈です。DNAによる遺伝情報の伝達という仕組みを造ったのもまた神様ですから、神様がDNAをちょっと書き換えれば、人間だって植物のように何百年も生きるようにすることも可能でしょう。或いは、いま最長で120年の人間の寿命を犬や猫のように20年以下にすることもまた可能でしょう。

 DNAのことを良く知らないでいるなら、創世記の人物の寿命が900年もあったことを信じられないかもしれませんが、生物学の進歩でDNAのことが段々と分かって来ると、神様ならそれがお出来になることが分かり、こういうDNAを造った神様は素晴らしいという気持ちになります。
 
おわりに
 このように、科学の進歩は神様の創造の御業を次々と明らかにしてくれます。そして私たちはその素晴らしさを知り、神様を賛美します。科学の進歩が緩やかだった時代には、大人が子供のようにワクワクするような新しい発見は滅多に無かったかもしれません。しかし、21世紀の現代は次々に新しいことが分かりますから、大人でも子供のようにワクワクできます。この子供のようなワクワク感を私たちは大人になっても保ち続けていたいと思います。大人の常識に捕らわれてしまうことなく、神様の創造の御業を知ることに、いつもワクワクしていたいと思います。

 21世紀の現代はそれができる恵まれた時代です。この素晴らしい恵みを多くの方々と分かち合い、神様を心一杯賛美したいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
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第一の戒め(永遠)と第二の戒め(時間)の十字架(2020.8.9 礼拝)

2020-08-10 06:09:00 | 礼拝メッセージ
2020年8月9日礼拝メッセージ
『第一の戒め(永遠)と第二の戒め(時間)の十字架』
【マタイ22:36~39(招詞)、出エジプト20:1~17(交読)、ルカ10:25~37】

はじめに
 十字架には不思議な力があります。十字架を見ると、なぜか心が平安になります。神学生の1年生だった頃、それまで自由気ままに暮らしていた私は神学校の当時の厳しい規則(今は変わりました)の中での生活に順応するのに苦労していました。勉強は楽しかったですが、外出制限があることや男子寮の大部屋の共同生活ではプライバシーが保てないことに戸惑っていました。そんな中、男子寮の窓から見える教会の十字架に、とても癒されていました。

 或いはまた、神学生の2年生と3年生の時の日曜日の実習は東京・千葉方面の教会に派遣されていましたから、東急の田園都市線で渋谷方面に向かう途中に窓から見える出身教会の高津教会の十字架をじっと見つめては心の平安を得ていました。見落としたことはほとんどありません。高津教会の十字架は神学校に入学する前も、毎朝通勤で高津駅のホームに立った時に必ず見ていました。それほど十字架は私の精神安定に役立っていました。

 残酷な死刑に使われる十字架がどうして人の心に平安を与えるのか、とても不思議です。なぜ十字架は人に平安を与えるのか、今まで折りに触れて思いを巡らし来て、最近その考察が深まったように感じていますから、皆さんと分かち合いたいと思います。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
 ②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
 ③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
 ④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに

①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
 十字架を見ると心が平安になるのは、イエスさまが十字架に掛かったことで私の罪が赦されたからであり、その神様の深い愛によって心が平安になるのだ、というのはもちろん基本です。でも、それだけでは無いような気がいつもしています。

 少し前から私は十字架の縦方向と横方向はそれぞれイエスさまの第一の戒めと第二の戒めであると感じるようになりました(週報p.2の十字架の図)。



 それ以来、十字架を見ると、そこからイエスさまの「神を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」の声が聞こえるような気がしています。イエスさまの第一の戒めと第二の戒めは今日の招きの詞に引用したマタイの福音書に簡潔に記されています。

22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

 このように第一の戒めは「神様を愛しなさい」、第二の戒めは「隣人を愛しなさい」です。これは交読で読んだ出エジプト記の「モーセの十戒」も同様ですね。モーセの十戒も第一戒から第四戒までが神様との関係、第五戒から第十戒までが人との関係です。出エジプト記を開いて確認しておきましょう(旧約p.134)。

 中心部分だけを取り出して説明すると、第一戒が3節の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒が4節の「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」、第三戒が7節の「あなたは、あなたの神、の名をみだりに口にしてはならない」、第四戒が8節の「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」です。この第一戒から第四戒までがイエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」に相当します。

 続いて第五戒が12節の「あなたの父と母を敬え」、第六戒が13節の「殺してはならない」、第七戒が14節の「姦淫してはならない」、第八戒が15節の「盗んではならない」、第九戒が16節の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」、そして第十戒が17節の「あなたの隣人の家を欲してはならない」です。この第五戒から第十戒までがイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」に相当します。

②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
 イエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」を十字架の縦方向とすると、時間が無い「永遠」の方向と、とても良く合います。今月の教報の「私の神学生時代」にM先生が「宝の霊的体験」と題して、この時間が無い永遠を体験したと書いておられますから、引用します(別紙参照)。これは神学校の寮での体験だそうです。

 10時の消灯の後、8畳の和室に、両側の先輩に守られるように敷かれた布団に正座をして、いつものように無言でお祈りをしておりましたが、この夜は、深刻な現状を心を注ぎ出して、主に申し上げたのでした。切に切に祈るうちに、体の感覚がなくなり自由な状態で、まぶしくはないのですが、どこまでも光輝く所におりました。

 「主イエス様、ここは時間の無いところなのですね。ここにずっと居たいです」と申し上げた時に、未だ救われていない家族の姿が見えました。「救われていない家族を導かなければなりません。元に戻して下さい」とお願いしましたら、正座をして祈っている体に戻っていました。永遠とは時間の無い世界と知りました。この不思議な体験は、今に至るまで私の宝となっています。

 M先生は、時間の無い永遠の世界をご自身で体験しました。私はこの時間の無い永遠をH兄の病室でH兄が天に召される時に体験しました。そこにイエスさまが来ておられてH兄の呼吸が止まった時にH兄の時間が止まり、H兄はイエスさまによって時間の無い永遠の世界、すなわち天の御国に移されたことを感じました。その一ヵ月前にY兄を天に見送ったばかりでしたから、天の御国を感じやすくなっていたこともあるでしょう。Y兄とH兄を天に見送ったことで私は天の御国が非常に身近にあることを体験しました。ですから、教報でM先生が時間の無い永遠を経験された証しにとても親近感を覚えました。

 そこで、先週も週報に載せたト音記号とヘ音記号の楽譜の図に、(天の御国)も加えてみました。天の御国は天の遠い所にあるのではなく、とても近い所にあるのだということを、この図で表してみました。



 時間の無い永遠というのはグラフで言えば縦方向です。いま私たちは毎日のようにテレビで日付ごとのウイルス感染者数の変化のグラフを見ていますね。横軸に日付がありますから、右方向に行くに従って時間が進んで行きます。一方、縦方向は時間が進まない方向です。これが、時間が無い「永遠」の方向です。

 先週の礼拝メッセージでは、この縦方向の永遠を、今さっきも説明したト音記号とヘ音記号の楽譜の図で示しました。この先週のメッセージは実は今日の十字架を示すための準備でした。先々週の藤本先生による聖会Ⅰと聖会Ⅱでは創世記のヤコブの箇所が開かれました。そこで先週は、その旧約の時代のヤコブの体験は永遠の中におられる父・子・聖霊を通して新約の時代の私たちも共有していることを示しました。そうして先々週と先週と今週とで三週間掛けて縦方向の永遠を理解していただきたいと思いました。この永遠は聖書に親しむなら誰でも体験できるものです。

 M先生が神学校の寮で体験された時間の無い「永遠」は誰でも経験できるようなものではありません。極めて個人的な体験です。私がH兄の病室で感じた永遠も、そんなに誰でもいつでも経験できるようなものではないでしょう。

 しかし聖書に描かれている永遠を感じることは聖霊を受けて霊的に整えられているなら、誰でも経験することができます。これが聖書の素晴らしさです。聖書によって私たちは誰でも、そしていつでも時間の無い永遠の世界を感じることができます。但し、そのためには霊的に整えられる必要がありますから、毎日静まる時を持つようにしたいと思います。

③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
 前のパートでは神様と私たちとの関係について話しました。神様は時間の無い「永遠」の中にいますから、神様との交わりの中にある時、私たちも「永遠」の中にあります。これは霊的な世界です。霊的な世界に入れられるなら、心の平安を得ることができます。

 一方、「人との関係」は霊的な世界ではなく現実の世界のことですから、私たちが普通に経験している時間の流れの中にあります。ですからイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」は「横向き」の時間が流れる方向の中で行うことです。時間とは、「隣人を愛する」ために使うものなのですね。このことを私はミヒャエル・エンデの小説『モモ』を通して教えられました。

 『モモ』には、人々から時間を奪う悪魔のような時間泥棒が登場します。彼らは、街の人々に巧みに言い寄って、時間を節約させます。例えば、ある時間泥棒は床屋のフージーを上手くだますことに成功しました。床屋のフージーがどうすれば時間を節約できるのかを尋ねた時の時間泥棒の答を引用します。

「おやおや、時間の倹約の仕方くらい、お分かりでしょうに!例えばですよ、(床屋の)仕事をさっさとやって、余計なことはすっかりやめちまうんですよ。一人のお客に半時間も掛けないで、15分で済ます。無駄なおしゃべりはやめる。年寄りのお母さんと過ごす時間は半分にする。一番いいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですね。そうすれば1日にまる1時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!(あなたが好きな女性の)ダリア嬢の訪問は、どうしてもというのなら、せめて2週間に1度にすればいい。寝る前に15分もその日のことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だち付き合いだのに、貴重な時間をこんなに使うのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きい時計を掛けるといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんですな。」(大島かおり訳、岩波少年文庫p.98 一部のひらがなを漢字に変換)


 こうして、時間泥棒が言う通りの生活をするようになった床屋のフージーは、段々と怒りっぽい、落ち着きのない人になって行きました。この『モモ』を読んでいると、「時間」とは「隣人を愛する」ためにあるのだな~ということが、つくづく良~く分かって来ます。

 きょうの聖書箇所のルカ10章のいわゆる「善きサマリア人」の記事も、そのことを良く表していますね。善きサマリア人は、強盗に襲われて半殺しの目に遭った人を一晩たっぷりと時間を使って介抱しました。ルカ10章33節と34節をお読みします(新約p.136)。

10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。

 そして35節に、「次の日」と書いてありますから、このサマリア人は怪我人の介抱のためにたっぷりと一晩を掛けています。怪我人の宿代もサマリア人が払ったのでしょう。そうして、さらにデナリ二枚を宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、わたしが帰りに払います。」

 帰りはいつになるのでしょうか?昔の旅のことですから、早くても何日か先であり、もしかしたら何週間か何か月か先のことかもしれません。いずれにしても、このサマリア人はゆったりとした時間の中を生きていることが分かります。

 このサマリア人がどんな信仰を持っていたのかは一切書かれていませんが、ゆったりとした時間の中を生きていた彼は心の平安を得ていた人だということが分かります。ゆったり生きればゆったり生きるほど時間が流れない「永遠」に近づきますから、神様との交わりの中で平安を得ることができます。つまり善きサマリア人は第一の戒めの「神を愛しなさい」が、「永遠」の方向でできていたために平安を得ていた人だということが想像されます。

 サマリア人というのはイスラエル人と異邦人との混血の民族です。もともとはイスラエルの北王国の十部族に属していましたが、北王国がアッシリアに攻め滅ぼされた時に、アッシリアの混血政策によって混血にさせられてしまった人たちです。ですから元々イスラエルの神様への信仰を持っていました。怪我人を一晩たっぷりと時間を掛けて介抱した善きサマリア人は、神様を愛する第一の戒めを「永遠」の方向で守って平安を得ていたからこそ、第二の戒めの「時間」の方向の隣人を愛することも、しっかりできたのでしょう。

 すると、31節と32節に登場する祭司とレビ人は、第一の戒めがしっかりとできていなかったことが見えて来ます。31節と32節をお読みします。

10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 祭司もレビ人も、神殿での祭儀を司る職業の人たちです。ですから、表面上は第一の戒めの神様を愛することがしっかりできているように見える人たちです。しかし、実際は神様を愛することができておらず、ただ形式的に祭儀を行っていただけなのでしょう。まるでマラキ書に出て来る祭司たちのようです。マラキ書1章6節をお読みします(週報p.2)。

マラキ1:6 「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍のは言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』。


 主を愛することができない、すなわち第一の戒めを守ることができない者なら、第二の戒めを守ることは難しいでしょう。

④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに
 3年前に私は「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」という本を出版しました。この本のサブタイトルは 

~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~


です。覚醒とは目覚めるということです。「永遠」は時間とは直角の縦方向にあり、平和を実現するには、この「永遠」に目覚めることが必要だと書きました。つまり、きょう話していることと同じです。しかし、3年前はまだ第一の戒めと第二の戒めとの関係には思い至っていませんでしたから。3年たった今、段々と時が満ちて来ていることを感じています。

 先週の木曜日の祈祷会は8月6日の広島に原爆が投下された日で、説教ではマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」の「平和をつくる者」とは、「御子イエス・キリストの十字架を宣べ伝える者」であろうという話をしました。そして、きょうの8月9日は長崎に原爆が投下された日で、いま第一の戒めと第二の戒めの十字架の話をしています。

 第一の戒めと第二の戒めがしっかりと90度の直角方向で分離できずにゴチャ混ぜになっていると、第一の戒めの方向からの聖霊の声をしっかりと聴くことはできないでしょう。すると、お祈りも過った方向のお祈りをしてしまうことになります。

 75年前の8月6日に広島に原爆を投下したB29爆撃機のエノラ・ゲイ号が太平洋上の島のテニアン島を離陸したのは夜明け前の2時45分でした。この離陸に先立ち、牧師は乗組員たちの前で次のように祈ったそうです。

 「全能の父なる神よ、あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちと同じく、あなたのお力を知りますように。そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることができますように。戦争の終りが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名によって、アーメン」
( http://www.kirishin.com/2011/08/06/37392/ から引用)。


 この牧師は第一の戒めと第二の戒めの分離が上手くできていませんでした。第一の戒めの「永遠」の方向を分離できて聖霊の声に耳を澄ますことができていたなら、神様が原爆という兵器の使用をどんなに悲しんでいるか、またどんなに憤っているかが分かった筈です。

 第一の戒めと第二の戒めがゴチャ混ぜになってはならないのは、戦争のような大きな場面に限らず日常の場面においても同様です。ルカ10章の「善きサマリア人の例え」の記事のすぐ後でマルタとマリアの姉妹の記事があるのは、示唆に富んでいます。

 マルタはもちろんイエスさまとマリアの両方を愛していました。そうしてイエスさまをもてなすための準備を一生懸命していました。

 しかしマルタは隣人である妹のマリアを愛することが上手くできていませんでした。それは、主イエスを愛することを、「永遠」の方向でではなく、横方向の忙しい「時間」の中で行っていたために、神と隣人がゴチャ混ぜになってしまっていたからでしょう。そのことが、ゆったりと生活していた善きサマリア人の直後にマルタが登場することで、良~く見えて来ます。マルタは「永遠」の方向にいる主イエスをゆったりと時間を使って愛することができていなかったので、隣人を愛することが上手くできなかったのでしょう。

 一方、妹のマリアはイエスさまを縦方向の「永遠」の中で愛することができていました。この縦方向の永遠に目覚めているなら、善きサマリア人のように平安の中で隣人を愛することができるでしょう。

 イエスさまはマルタに言いました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

おわりに
 神様を愛することと、隣人を愛することはどちらも大切なことですが、ゴチャ混ぜにしてはなりません。先ずは神様を愛することが大切です。すると、どのように隣人を愛せば良いのかの神様の導きの声が聞こえるようになるでしょう。両方がゴチャ混ぜになっていると、人間的な思いが混じって神様の御心とは違う方向へ行ってしまいます。B29の乗組員のために祈った牧師も神を愛し、隣人を愛していました。しかし、間違った祈りをしてしまいました。

 マルタもイエスさまを愛し、妹のマリアのことも愛していました。しかし、忙しい「時間」の中でイエスさまを愛していたので、マリアのことで心を乱してしまいました。

 私たちも毎日の生活は忙しく過ごさざるを得ない人も多いと思いますが、せめて日曜日は、ゆったりと心を静めて、神様に心を向けたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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父・子・聖霊・私たちの合唱が世界を救う(2020.8.2 礼拝)

2020-08-03 06:24:27 | 礼拝メッセージ
2020年8月2日礼拝メッセージ
『父・子・聖霊・私たちの合唱が世界を救う』
【Ⅰヨハネ1:3~4(招詞)、エレミヤ24:1~10(交読)、ヨハネ1:43~51(朗読)】

はじめに
 7/26の藤本満先生をお招きしての礼拝と聖会Ⅰ・聖会Ⅱは本当に祝されて恵まれた集会だったと思います。7月に入ってからコロナウイルスの感染が再び拡大する中、8月の開催であったら難しかったと思います。延期していた特別集会の開催日程について6月の末に先生にメールで8月開催を提案したところ、先生から7/26はどうですか?と返信がありました。それゆえ開催できましたから、神様のご配慮に心から感謝したいと思います。

 きょうは先ず7/26のメッセージを振り返りつつ、次の5つのパートで話を進めます。

 ①極めて霊的だった7/26の聖会Ⅰと聖会Ⅱの説教
 ②父・子・聖霊の交わりの中へ私たちを招くヨハネ
 ③主イエスと組むアルトの私はヤコブとナタナエル
 ④悪いいちじくがもたらす世界的な洪水・疫病の災い
 ⑤個人から民族・世界の救いへ Think global, act local

①極めて霊的だった7/26の聖会Ⅰと聖会Ⅱの説教
 創世記28章と32章のヤコブの箇所からの藤本先生の説教は、極めて霊的であったと思います。「霊的な説教」とは、人によって定義は異なるかもしれませんが、「聖霊が働いていることを感じる説教」が霊的な説教と言えるでしょう。

 例えば、創世記28章でヤコブは自分を殺そうとしている兄のエサウから逃れて伯父のラバンがいるハランへ向かう途中、石を枕に寝ている時に夢の中でに出会いました。週報p.2にその場面を引用しましたから、お読みします。創世記28章12節と13節です。

28:12 すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。
28:13 そして、見よ、がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。

 ヤコブはと出会いました。藤本先生はこのことを「ヤコブはイエスさまに出会った」とおっしゃいました。本当にその通りです。三位一体の神様であるイエスさまは天地創造の初めからいて、天の父と一つのお方ですから、確かにヤコブはイエスさまと出会いました。

 しかし、創世記の文章にはイエスさまのことは一言も書かれていませんから、ヤコブはイエスさまと出会ったのだと分かるのは聖霊を受けた者だけです。それゆえ霊的なメッセージです。

 或いはまた、ヤコブはその後で枕にした石に油を注いでその場所をベテルと呼び、誓願を立てて、こう祈りました(週報p.2)。

28:20 「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださるなら、は私の神となり、
28:22 石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」

 この中の「無事に父の家に帰らせてくださるなら」は、「私たちにとっては天の父の所に帰ること、すなわち天の御国に帰ることだ」と藤本先生はおっしゃいましたね。なるほど、本当にそうだなと思いました。しかし、ここに書いてあることを字義通りに解釈するなら、ヤコブの父の家、すなわち父イサクの家へ帰ることです。それを天の御国と言い換えても「本当にそうだな」と納得するのは、聖霊が働いているからでしょう。こういう説教が霊的な説教です。

 さて、創世記28章のベテルに現れた神様がイエスさまであるなら、32章のペヌエルでヤコブと格闘した神様もまた、イエスさまですね。創世記32章でヤコブと格闘した人、すなわちイエスさまはヤコブに「あなたの名は何というのか?」と聞きました。その場面の32章27節と28節をお読みします(週報p.2)。

32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

 かつてヤコブは父イサクを欺いて、自分のことを「エサウです」と答えました。しかし、ここペヌエルでイエスさまと格闘した時、ヤコブは正直に「ヤコブです」と答えました。するとイエスさまは言いました。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。」

 こうしてヤコブは祝福を受けて、イスラエル12部族の父となります。イスラエル12部族はエジプトで奴隷になりましたが、モーセの時代に祝福されてエジプトを脱出して律法を授かりました。神様の祝福はヤコブ個人の救いからイスラエルの民族の救いへと移って行ったのですね。

②父・子・聖霊の交わりの中へ私たちを招くヨハネ
 この創世記のヤコブの箇所には三位一体の神である父・子・聖霊がすべて出て来ましたね。旧約聖書ですから、ここにいる神様は天の父です。それと同時に、イエスさまでもあります。イエスさまと天の父は一つのお方だからです。このことが分かるのは聖霊を受けた者だけですから、聖霊もここにいます。

 そして、ここにいるヤコブは私たちのことでもあります。創世記28章でヤコブはと出会い、ヤコブはの圧倒的な恵みに与りました。それまでヤコブはに祈ることはありませんでした。父のイサクが熱心に祈る姿は見ていましたが、自分自身で祈ることはしていませんでした。それなのにはヤコブに圧倒的な恵みを一方的に注ぎました。私たちも同じですね。のことを知らずに熱心に祈ることもしていなかった私に対しては一方的に恵みを注いで下さいました。

 創世記32章で神と格闘するヤコブもまた私たちですね。普段あまり熱心に祈っていなくても人生のピンチの時には神様を求めて必死に祈ります。そんな私たちに神様は尋ねます。「あなたの名は何というのか?」私たちは正直に答えます。「ヤコブです。」私たちもヤコブのように、自分の知恵と力だけでいろいろなことを切り抜けようとして来ました。しかし、行き詰った時に神様を求めました。

 洗礼の恵みに与る洗礼式で、牧師はまず受洗者の名前を呼びますね。そして、受洗者は大きな声で「はい」と答えることを求められます。牧師に名前を呼ばれて「はい」と答えることは、「はい。ヤコブです」と答えることです。「はい、私もヤコブのように人のかかとをつかんで離さないような者でした」。「私はヤコブです」。そう正直に答える私たちに主は圧倒的な恵みを注いで下さいます。

 この素晴らしい恵みを、もっと多くの方々と分かち合いたいですね。ヨハネもそう考えました。きょうの招きの詞はヨハネの手紙第一1章の3節と4節でしたが、1節からお読みします。聞いていて下さい。ヨハネの手紙第一1章の1~4節。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ここから3節)
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 ここに「聖霊」という言葉は使われていませんが、ここには当然、聖霊もいます。御父と御子と交わるためには聖霊を受けている必要があるからです。このようにヨハネは父・子・聖霊の三位一体の神様の交わりの中に私たちを招いています。

③主イエスと組むアルトの私はヤコブとナタナエル
 いまお読みしたヨハネの手紙第一1章のことを実現するために、ヨハネはヨハネの福音書を書いたのでしょう。

 ヨハネは、どうしたら読者が御父と御子との交わりの中に入ることができるだろうかと懸命に祈り、考えたのでしょう。そうして神様から霊感を与えられて書かれたのがヨハネの福音書です。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書1章に登場するナタナエルの箇所から、そのことを共に感じたいと思います(新約p.177)。ナタナエルは45節から登場します。45節、

1:45 ピリポはナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

 ピリポはナタナエルを御父と御子との交わりの中へ招いています。ここで律法とは、モーセ五書、すなわち創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記のことです。先ほど言ったように創世記のヤコブに現れたのはイエスさまです。このようにピリポはナタナエルを御父と御子との交わりに招いています。

 するとナタナエルは言いました。

1:46 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」ピリポは言った。「来て、見なさい。」

 このナタナエルは私たちですね。イエスさまと出会う前は、「キリスト教って何だかつまらなそう」と馬鹿にしていた人も少なくないでしょう。そんなナタナエルのような私たちに「来て、見なよ」と教会に誘って下さった方がいたことは本当に感謝なことでした。そうして私たちはナタナエルのようにイエスさまに出会うことができました。47節、

1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

 このナタナエルはヤコブでもありますね。ヤコブもまた、かつては父イサクが祈る姿を見て、「神様に祈って何か良いことがあるだろうか」と思っていました。そんなヤコブでしたが、ピンチに陥った時にはヤコブの方から神様に近づいて行きました。ナタナエルも自分でイエスさまの方に向かって行きました。それを見たイエスさまは言いました。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」これは正にイエスさまがヤコブに対して言った言葉と同じですね。

 「エソウです」ではなく、「ヤコブです」と偽りなく正直に答えたヤコブにイエスさまは「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」と言いました。そして48節、

1:48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」

 いちじくの木はイスラエルの民族の象徴です。ですからイエスさまはご自身がヤコブに現れた時のことを言っています。この時、ヤコブは初めてと出会いました。49節、

1:49 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

 ヤコブが自分に現れた人を神であると認識したように、ナタナエルもイエスさまを神の子と認識しました。私たちもまた、イエスさまと出会ってイエスさまを神の子キリストと信じました。そうして洗礼式で名前を呼ばれた時には「はい」と答えます。50節と51節、

1:50 イエスは答えられた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったから信じるのですか。それよりも大きなことを、あなたは見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」


 創世記28章でヤコブは天が開けて神の御使いたちが梯子を上り下りするのを見ました。私たちもやがてイエスさまが再臨する時に天が開けてイエスさまが下りて来られるのを見ます。このようにナタナエルはヤコブであると同時に私たちでもあり、ヨハネは三位一体の神様との交わりの中に私たちを招いています。

 この私たちの三位一体の神様との交わりを週報p.2のようにト音記号とヘ音記号の楽譜で表してみました。



 主旋律のソプラノは主イエスさまです。そして重低音で全体を支えるバスのパートは天の御父です。私たちがアルトなのかテノールなのかは迷うところですが、先週の聖会で二人の姉妹型が二重唱を歌って下さったのを思い出して、アルトにしました。イエスさまはいつも私と共にいてデュエットで歌っています。しかし、実はそこにはテノールの聖霊と重低音のバスである御父の下支えもあります。

 福音書の主役はイエスさまですが、そこには御父も聖霊も私たちもいて、合唱をしています。これはヨハネの福音書に限らず、マタイの福音書も、マルコの福音書も、ルカの福音書も同じです。主役はイエスさまですが、父と聖霊、そして私たちも参加しています。

④悪いいちじくがもたらす世界的な洪水と疫病の災い
 きょうの聖書交読はエレミヤ書24章を開きました。それは「いちじく」(ヨハネ1:48)のことがここに書かれているからです。もう一度、エレミヤ24章を見ましょう(旧約p.1335)。

 3節ではエレミヤに尋ねました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか?」エレミヤはに答えました。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」

 いちじくの木は、先ほどナタナエルがいちじくの木の下にいるのをイエスさまが見たと話した時に言ったように、イスラエルの民族の象徴です。ですから、いちじくの実の一つ一つはイスラエルの民ですね。は5節で仰せられました。

24:5 「イスラエルの神、はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」

 主は良いいちじくに祝福を与えようとしておられます。

24:7 わたしは、わたしがであることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。


 しかし、悪いいちじくに対しては、このように仰せられます。8節をお読みします。

24:8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことには言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。

 そして10節、

24:10 「わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」

 主はユダの王ゼデキヤ王とその高官たちを名指しして滅ぼすと仰せられました。はいちじくの木であるイスラエルの民族を救いたいと願っておられますが、悪いいちじくの実は滅ぼそうとしています。それは、には、その先の展望があるからです。それは世界全体を救うというご計画です。

 主は先ずヤコブ個人を救い、次いでヤコブの子孫であるイスラエルの民族を救い、そしてやがては世界全体を救おうとしておられます。その計画の邪魔をする悪い者たち、すなわちゼデキヤ王のような悪いリーダーを滅ぼそうとしておられます。

 このエレミヤ書24章を読んで、私は今の温暖化による豪雨とコロナの災いのことを思いました。国が経済発展ばかりを優先し過ぎると、被害は増し加わって行きます。地球温暖化の問題が深刻であることは既に20世紀の頃から叫ばれていました。1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた国連の地球サミットで気候変動枠組み条約が採択されて、1997年に京都で開かれたCOP3では、京都議定書が採択されて先進国の二酸化炭素排出抑制の目標が決められました。しかし、この枠組みから脱退した国もあって足並みはそろいませんでした。ここには「悪いいちじく」がいるのかもしれません。

 今でも良く覚えていますが、この20世紀の頃に盛んに言われていたのは、地球の温暖化が進むと、南極の氷が溶けて海面上昇が起きて南太平洋の小さな島々が水没するというものでした。「それは大変だ」と思ったものですが、南太平洋の島々ということで、そこに住んでいない私にとっては、今一つ切迫感が無かったように思います。そうして温暖化対策がなかなか進まないうちに、海面上昇の被害に先んじて温暖化による豪雨やスーパー台風の被害が深刻になってしまいました。

 南太平洋の被害なら他人事でしたが、豪雨やスーパー台風はもはや他人事ではありません。もし20世紀のうちから温暖化対策にもっとしっかり取り組んでいれば、この事態をもう少し先送りできたかもしれませんし、もしかしたら止められたかもしれません。他人事のように考えていた私自身も悔い改めなければなりません。

 こうなった原因は経済発展を優先し過ぎたからです。経済を優先させ過ぎると広い地域で災いが起きることは、今のコロナの災いでも、その通りになっていますね。

⑤個人から民族・世界の救いへ Think global, act local
 クリスチャンが建国したアメリカは経済発展を優先して地球温暖化防止の枠組から撤退して、さらにコロナの災いのさ中にあるのに世界保健機関WHOからの脱退も通告しました。こういうリーダーは「悪いいちじく」だと言わざるを得ないでしょう。またイギリスもEUから脱退して独自の道を歩もうとしています。

 クリスチャンが建国した国で、どうしてこういうことが起きているのか、それは、今のキリスト教が個人の救いを重視し過ぎているからであろうと考えます。個人の救いを重視し過ぎると、個人の救いから世界の救いへという主の壮大なご計画が見えにくくなります。

 話が大きくなっていますが、今日このことを話すことにしたのは、日本のクリスチャンの私たちであっても、主のご計画は世界を救うことであることを頭に入れておく必要があると思うからです。

 主はまずヤコブを救い、そしてイスラエルの民族を救い、そしてユダヤ人のペテロやパウロを用いて異邦人の救いへと導き、世界を救おうとなさっています。21世紀の今はその途上にあります。しかし、今や世界は温暖化による豪雨とコロナの疫病に苦しめられています。それは主のご計画を理解せずに個人の救いばかりを重視して来た結果、各国が協調して世界規模の問題に取り組もうとする姿勢が失われているからであろうと思います。

 もちろん、個人の救いは大切です。個人の救いの積み重ねがあってこそ、世界は救われます。しかし、世界を救いに導くという主の大きなご計画を理解していないなら、どんなに個人が救われても、温暖化は止まらず、仮に今回のコロナが終息してもまた別の疫病に苦しめられることになるでしょう。

 地球環境問題はThink global, act localが重要だとかつて良く言われました。今もその重要性は変わらないと思います。世界規模で考えつつローカルな地域で活動すべきです。キリスト教の伝道も同じだと思います。主の目は世界全体を見ていますから、そのことを覚えつつ、私たちは静岡のローカルな地域で身近な人々を救いに導く働きをしたいと思います。

おわりに
 私たちの小さな働きは、主の大きな働きの一部であることを覚えたいと思います。私たち一人一人にできることは小さいですが、大きな働きの中にあることを覚えるなら、主は大きな力を与えて下さいます。主イエスの力を信じてお委ねするなら、わずか五つのパンと二匹の魚で五千人が満腹する働きができます。

 そのことを信じて、祈りたいと思います。

(祈り)
 世界は今バラバラです。それぞれが自国優先、個人優先で動き、その結果、雨が降れば豪雨になり、新型コロナウイルスも世界的な流行のパンデミックになってしまいました。

 どうかバラバラではなく、世界が協調してこれらの問題に取り組むことができますように。私たちにできる働きは小さいですが、世界が協調するには小さな働きの積み重ねが必要ですから、私たちの小さな働きも祝して用いて下さい。

 その働きのために、「主が大きなことを為さろうとしていること」を信じる力も私たちに与えて下さい。小さな私たちは主の力を小さく考えがちです。しかし主は私たちが思いもよらない大きなことを為さるお方です。この、「主は大きなことを為さるお方だ」ということを信じる力も、どうか私たちに与えて下さい。
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海をおおう水のように聖霊に満たされる(2020.7.19 礼拝)

2020-07-20 07:51:49 | 礼拝メッセージ
2020年7月19日礼拝メッセージ
『海をおおう水のように聖霊に満たされる』
【イザヤ書11:1~9】

はじめに
 この教会の2階の応接室には本田弘慈先生が毛筆で書いた「霊に燃え、主に仕えよ」という色紙が額に入れて掲げてありますね。この本田先生の「霊に燃え、主に仕えよ」の書額はあちこちのインマヌエルの教会で見たことがあります。インマヌエルの本部があるお茶の水のOCCビルの玄関ロビーには確か大きなサイズの書額が掲げてあったと思います。

 この「霊に燃え、主に仕えよ」のみことばは今日の招きのことばにあるローマ12:11の「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」から取ったものですね。きょうは「霊に燃え、主に仕える」を出発点にして、聖霊に満たされたいと思います。メッセージの最後では、人知を遥かに超えたキリストの愛の大きさに思いを巡らして、この会堂が聖霊に満たされることを願っています。きょうは次の四つのパートで話を進めます(週報p.2)。

 ①霊に燃えて主に仕えた松村導男牧師
 ②主を知ることが「霊に燃える」ことの第一歩
 ③「究極の平和」の実現を目指している主
 ④聖霊の深海でキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知る

①霊に燃えて主に仕えた松村導男牧師
 きょうの招きのことばをもう一度、お読みします。

12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
12:12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。

 このみことばは、松村導男先生が天に召された時に行なわれた教団葬の告別式で、当時の総理の朝比奈寛先生が説教で引用した聖句でもあります。この説教で朝比奈先生は松村導男先生の生涯は正にこのみことばの通りであったと語っています。

 この朝比奈総理の説教は導男先生の追悼文集の「燃えて輝く燈火」の中に収録されています。この追悼集は、2階の応接室の書棚にもありますが、これは沼津教会の信徒の方に、私が沼津にいた時にいただいたものです。この文集の前半は、朝比奈総理による告別式の説教、伊作先生による前夜式の説教、教団幹部や横山五朗勧士などによる追憶の辞が収録されています。そして後半には静岡教会の会員の皆さんの追憶のことばなどが集められていますが、その教会員による追憶の筆頭に載っているのが萩原周兄のことばです。萩原兄は朝比奈総理が告別式で引いたローマ12章11節と12節を再び引用して、導男先生のご生涯は本当にその通りであったと書き、ご自身もまたそのようにありたいと書いています。萩原兄も、正にその通りのご生涯を歩んだのだと思います。

 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えることは本当に大切なことです。しかし単に勤勉なだけで霊に燃えることがないなら、それは律法主義的になってしまいます。霊に燃えることなく単にまじめに礼拝に出席したとしても、あまり意味がないでしょう。教会に通い始めの頃は、もちろん霊に燃えていなくても構いません。霊的なことがまだ分かりませんから、霊に燃えるのは難しいでしょう。しかし洗礼を受けて、何年か信仰生活を送るようになったなら、霊に燃えるようになりたいと思います。繰り返しますが、霊に燃えずにただ勤勉なだけなら律法主義的になってしまいます。律法主義的な人というのは、イエスさまが批判したパリサイ人たちのような人たちです。パリサイ人たちは規則を厳格に守ることばかりに囚われて、隣人を愛することを忘れてしまっていました。

 例えばパリサイ人たちは、イエスさまが安息日に病人を癒したことを咎めました。律法では、安息日には働いてはいけないことになっているからです。しかし、そのような人々にイエスさまはおっしゃいました。

マルコ3:4 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」

 霊に燃えないで形式だけを重んじるなら、パリサイ人たちのような律法主義者になってしまいます。

 ですから私たちは、霊に燃え、主に仕える者たちになりたいと思います。そして牧師が語る礼拝メッセージは、私たち皆が霊に燃えるようになるものでありたいと思います。

②主を知ることが「霊に燃える」ことの第一歩
 では、どうしたら私たちは霊に燃えることができるのでしょうか。そのことに思いを巡らしていた時に示されたのが、きょうの聖書箇所のイザヤ書11章です。この箇所は先週、静岡の他の教会の牧師先生と話をしていて、その先生がその日の朝のディボーションで読んで恵まれたと話していた箇所でした。それで、その日の次の朝に私も読んだところ、霊に燃やされて来ることを感じましたから、きょうの聖書箇所にさせていただきました。

 イザヤ書11章9節の後半には「を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである」とありますね。やはり「主を知る」ことが「霊に燃える」ことの第一歩なのだろうと思います。主を知らなければ、霊に燃えて主に仕えることはできませんね。このイザヤ書11章には「主を知る」ことのヒントがたくさん隠されているような気がします。1節から見て行きます。

11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 エッサイはダビデの父親です。そのダビデの家系からイエスさまが生まれましたから、この1節の若枝とはイエスさまのことですね。続いて2節、

11:2 その上にの霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、を恐れる、知識の霊である。

 イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が天から降りましたから、やはりこれはイエスさまのことですね。続いて3節から5節、

11:3 この方はを恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。
11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。

 ここには裁きのことが書かれています。イエスさまはヨハネ5章の27節と30節で、次のようにおっしゃっています(週報p.2)。

5:27 また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。
5:30 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

 イエスさまは天の父から聞いたとおりに裁きますから、正義と公正をもって裁くことができます。このようにイエスさまは天の父と一つのお方です。ですからイエスさまを知れば天の父を知ることができますし、逆もまた然りで、天の父を知ればイエスさまをもっと知ることができます。

③「究極の平和」の実現を目指している主
 イザヤ書11章の6節から9節までを読むと、主は「究極の平和」を目指しておられるのだな、ということをしみじみと感じます。6節、

11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。

 狼も豹も肉食の猛獣です。しかし、ここには猛獣が子羊と子やぎを襲うことなく共に住む平和な世界のことがここには書かれています。若獅子、つまり若いライオンもここにいますが、やはり小さな子どもを襲うことなく平和に暮らしています。11節、

11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。

 熊もライオンも草食動物のように草をはみ、藁を食べて、弱い者たちを襲うことはありません。肉食動物のライオンが藁を食べて生きていけるのか、などと余計なことを考える必要はありません。草食動物も肉食動物もすべて創造主である神様がお造りになりました。ですから、主は肉食動物を草や藁で養うこともできます。主に不可能なことは一つもありません。

 主を知ることの第一歩は、主はすべてをお造りになった全能の創造主であり、不可能なことは何一つないことを知ることかもしれませんね。続いて8節、

11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。

 コブラもまむしも猛毒を持つ恐ろしい蛇ですが、幼子たちを襲うことはありません。とても分かりやすい平和な光景の描写ではないでしょうか。人間同士が争わないという描写ではなく、肉食の猛獣や猛毒を持つ蛇が子供を襲わないという描写のほうが、平和な光景をもっと生き生きと描いていると感じます。9節、

11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。

 猛獣も蛇も子羊や子やぎ、幼子たちに害を加えることはありません。それは、主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである、とイザヤは預言しています。主は一切の争いごとを望んではおられません。主は「究極の平和」を望んでおられます。そのことを猛獣や蛇でさえも知るほどに、主を知ることが地に満ちる時が来ます。その時には主を知ることが海水のように地に満ちます。

 その時には、すべての生き物が聖霊の深い海にどっぷりと浸かり、神様の大きな愛に包まれます。何と素晴らしいことでしょうか。

④聖霊の深海でキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知る
 先週の礼拝メッセージでは、ルカが書いたルカの福音書と使徒の働きが互いに重なり合っていることを話しました。二つの書は、とても良く似た形で進行して行きます。ルカの福音書は「テオフィロ様」で始まり、イエスさまが聖霊を受けて、歩けない人を立たせ、百人隊長の信仰をほめます。そしてイエスさまはエルサレムで逮捕されます。使徒の働きも「テオフィロ様」で始まり、弟子たちが聖霊を受けて、ペテロが歩けない人を立たせ、百人隊長のコルネリウスたちがイエスさまを信じて聖霊を受けます。そしてパウロがエルサレムで逮捕されます。

 このルカの福音書と使徒の働きは川の流れのように横につながっているのではなく、海の水のように縦に重なっていて聖霊の深い海を造っています。ルカの福音書だけでは浅い海ですが、使徒の働きが縦方向に積み重なることで聖霊の深い海ができます。そうして私たちはこの聖霊の深い海にどっぷりと浸かって聖霊に満たされることができます。

 同じようにイザヤ書は旧約聖書と新約聖書が縦に積み重なっていることを教えてくれています。有名なイザヤ書53章のしもべが苦しむ場面には新約聖書のイエスさまの十字架の場面が積み重なっています。いまご一緒に読んだイザヤ書11章には新約聖書の黙示録の「究極の平和」が実現した時の光景が積み重なっています。猛獣も蛇も幼子たちを襲わない光景は黙示録21章4節(週報p.4)の光景に重なります。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 子供が猛獣に襲われたら、親は泣き叫びます。しかし、終わりの時には、そのような光景は見られなくなり、究極の平和が訪れます。

 このように旧約聖書と新約聖書は重なっていて、そこには神の愛が満たされていて、聖霊が深い海のようになっています。私たちはその聖霊の深い海にどっぷりと浸かって神の愛で満たされたいと思います。それがイザヤ書11章9節の、「主を知ることが海をおおう水のように地に満ちるからである」の意味するところではないでしょうか。

 それはまた、エペソ書3章でパウロが書いた、人知を遥かに超えたキリストの愛の大きさを知ることにもつながります。パウロはエペソ人への手紙3章の16節から19節で御父に祈りましたね(週報p.2)。

3:16 どうか御父が…御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 御霊、すなわち聖霊を受けると私たちの心のうちにキリストが住んで下さいます。そのことでキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが少しずつ分かるようになります。そして主を知れば知るほど、そのキリストの愛の大きさが分かるようになり、それは人知を遥かに超えていることが段々と分かるようになって来ます。そうしてキリストの愛の深さ広さが分かれば分かるほど、神の満ち溢れる豊かさに満たされるようになります。これは素晴らしい恵みです。主を知れば知るほど、私たちはこの恵みの大きさが分かるようになります。何と素晴らしいことでしょうか。

 私たちは聖霊の深い海にどっぷりと浸かり、人知を遥かに超えたキリストの大きな愛に包まれたいと思います。ることができるようになりたいと思います。そして、この素晴らしい恵みを多くの方々にお伝えできるようになりたいと思います。

 それが「霊に燃え、主に仕える」ということではないでしょうか。主を知り、主の深い愛に包まれ、そうして霊に燃え、主に仕える私たちでありたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。
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百人隊長の記事から溢れ出す深い聖霊の恵み(2020.7.12 礼拝)

2020-07-13 11:57:29 | 礼拝メッセージ
2020年7月12日礼拝メッセージ
『百人隊長の記事から溢れ出す深い聖霊の恵み』
【ルカ7:1~10】

はじめに
 きょうの聖書箇所の記事にある、イエスさまが百人隊長の信仰に驚いた記事は、1週間前の7月5日の教会学校で開いた箇所です。この日、私は教会学校の開始時間の9時になって、急遽教師を担当することになりました。あいにく、この記事は以前から良く分からないでいてモヤモヤしていた箇所でしたから、先週の教会学校はグダグダになってしまいました。大変申し訳ありませんでした。

 ただし、よく分からない箇所をモヤモヤのままにしておくこと自体は、そんなに悪いことではないと思います。下手に無理やり理解しようとせずに、分からない箇所は分からないままにしておくと、後になって急に分かるようになることがあります。すると、その箇所の理解が深まるだけでなく、聖書全体の理解も深まることがよくあります。

 例えば、黙示録3章で主はラオディキアの教会にこのように言っていますね。

3:15 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。

 この中の「冷たいか熱いかであってほしい」に、私はずっとモヤモヤしていました。熱いほうが良いのは当り前としても、冷たいのもまたOKなのが何故なのか、よく分からないでいました。それが最近になって分かりました。先日、市内の牧師の懇談会がこの教会でありました。先生方とコロナの緊急事態宣言が出ていた期間中のそれぞれの教会の対応について分かち合っていた時、ある教会の先生がこんな風におっしゃいました。「ウチはイースターからペンテコステまでの50日間をヨベルの期間として一切何もしませんでした。礼拝も祈祷会もせず、教会員への印刷物や手紙の発送もしませんでした。熱いか冷たいかの方が良いと考えたからです。冷たくしたら却って教会員の信仰が熱くなりました」とおっしゃったんですね。

 それまで私は「熱いか冷たいか」を一人一人の中にある信仰というイメージで捉えていました。でも、この先生は「熱いか冷たいか」を教会員に対する対人的な行いに適用していました。確かにそうかもしれません。パウロもマルコに対して「熱いか冷たいか」で接しました。第一次伝道旅行の途中で脱落したマルコに対してパウロは冷たかったですが、このことが後のマルコの成長につながりました。イエスさまの人々への態度も熱いか冷たいかで、生ぬるいことはありませんね。このことを通して、牧師としての私の対人面が生ぬるいことを示されています。

 このように、モヤモヤした箇所は下手に無理やり解釈しないで、そのままにしておくと、神様はちょうど良いタイミングで、その箇所の意味を教えて下さり、行いの面においても改めるべきことを示して下さいます。

 福音書の百人隊長に関する記事も、私の中でモヤモヤのままになっていた記事の一つです。それが今回、グダグダの教会学校になって申し訳なく思い、改めて思いを巡らしたことで以前よりも理解が深まったと感じていますから、きょうはそのことを皆さんと分かち合いたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①ルカ7章8~9節のモヤモヤした分かりにくさ
 ②聖霊の時代に書かれた四福音書から溢れ出す聖霊の恵み
 ③ルカの福音書と使徒の働きの重なりが作る聖霊の深海
 ④コルネリウスと私たちを称賛する永遠の中のイエスさま

①ルカ7章8~9節のモヤモヤした分かりにくさ
 まず、このルカ7章の記事の概略を理解しておきましょう。まず1節、

7:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。

 カペナウムはイエスさまがガリラヤ地方での宣教の拠点にしていた町ですね。2節、

7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。

 ここで百人隊長は異邦人であることを覚えておきたいと思います。当時のユダヤ・ガリラヤの地域一帯はローマ帝国に支配されていましたから、ローマ軍か、或いはまたガリラヤ地方の領主の軍でしょう。ガリラヤを統治していた軍の隊長ですからユダヤ人ではなくて異邦人です。

 その百人隊長の部下が病気で死に掛けていました。そこで百人隊長はユダヤ人の長老をイエスさまの所に送って、部下を助けて下さいとお願いしました。それでイエスさまが百人隊長の家の近くまで来たところ、使いを出して、こう言いました。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」

 この、「あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありません」ということばから、百人隊長がとてもへりくだった人物であることが分かります。また、「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」からは、イエスさまが病を癒す権威と力を持っていることをしっかり理解している立派な信仰の持ち主であることが分かります。けれども、続く8節と9節がどうもモヤモヤします。

 百人隊長は、「私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます」と言っています。・・・百人隊長はへりくだった人ですから、百人隊長が部下にではなく<上司>に「『行け』と言われれば行きますし、『来い』と言われれば来ます」と言っているなら、すんなり理解できます。なぜ、自分の部下に「行け」や「来い」ということが、イエスさまが驚くほどの立派な信仰なのか、今一つ分からずモヤモヤします。部下に命令することと立派な信仰とが、どう結び付くのでしょうか?

②聖霊の時代に書かれた四福音書から溢れ出す聖霊の恵み
 福音書のモヤモヤした箇所をスッキリさせたい場合、聖霊を補って考えると解決する場合がよくあります。そこで今回、私はこの百人隊長の記事の理解に、聖霊を補って考えてみることにしました。福音書に聖霊を補うとスッキリするのは、福音書がペンテコステより後の聖霊の時代に書かれた書物だからです。

 福音書への理解が深まれば深まるほど、福音書とは読者が聖霊の恵みを得るために書かれた書物であることが分かって来ます。福音書は、表面上はイエスさまの伝記のような形になっていますが、宣教を開始する前の若い頃のイエスさまのことについては、ほとんど書かれていません。書かれているのは赤ちゃんの時代と12歳の頃のことぐらいで、10代の後半から20代に掛けてのイエスさまの青春時代については書かれていません。なぜでしょうか?それはつまり、福音書はイエスさまの伝記ではなくて、イエスさまがキリストであると読者が信じて聖霊を受けることを一番の目的として書かれた書物であるということでしょう。

 福音書が聖霊を受けることの重要性を伝えている書物であることは、例えばマルコの福音書の導入部分の1章8節に、このように書かれていることからも分かります(週報p.2)。これはバプテスマのヨハネのことばです。

マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 バプテスマのヨハネは多くのことばを人々に語ったことでしょう。マルコはその多くのことばの中からこれを選んで記録に残しました。それは聖霊を受けることの重要性を読者に伝えたかったからでしょう。

 マタイの福音書も同様です。マタイの5章から7章に掛けての「山上の説教」の大半は、聖霊を補って考えなければ分かりません。例えばマタイは5章14節から16節に掛けて週報p.2に載せたように、

マタイ5:14 あなたがたは世の光です。16 あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

と書いています。このような世の光になるためには、聖霊を受けることが不可欠です。聖霊を受けることなしに世の光になれるわけがありません。或いはまた、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます」(マタイ9:17、マルコ2:22)の「新しいぶどう酒」も、聖霊のことです。

 このように、マルコもマタイも、聖霊を受けることの大切さを陰に陽に説いています。陰に陽にの「陽」の記事では、聖霊という言葉を使っていますが、むしろ聖霊という言葉を使っていない「陰」の記事、すなわち陰(かげ)に隠れた形で聖霊の大切さを説いている記事の方が圧倒的に多いと言えるでしょう。

③ルカの福音書と使徒の働きの重なりが作る聖霊の深海
 前のパートではマルコとマタイの福音書の例を挙げましたが、ルカの福音書の場合は、さらに聖霊の恵みが強調されている書だと思います。これはルカの福音書単独でも感じることですが、ルカの福音書の続編の使徒の働きを重ね合わせるなら、さらに聖霊の恵みを豊かに感じます。

 3年前だったと思いますが、インマヌエル教団のeラーニングでルカ文書を学びました。eラーニングは毎年2つの講座が開かれています。牧師だけでなく信徒も受講できるようになっていますから、受けたことがある方もいらっしゃるでしょうか。私は毎回ではありませんが、半分以上は受講しています。中でも3年前に受けたルカ文書の講座は最も有益な講座であったと感じています。ルカ文書というのはルカが書いたルカの福音書と使徒の働きのことで、両方を合わせてルカ文書と呼びます。講師は山崎ランサム和彦先生でした。

 この講座を受けて、ルカの福音書と使徒の働きが重なり合う構造を持つことを初めて知りました。これは100年以上前から言われていることだそうで、ルカ文書が専門の聖書学者の間では常識のようです。どのように重なっているかと言えば、例えば週報p.2に載せたようなことです<参考図書:C.H.タルバート『ルカ文学の構造』(加山宏路訳、日本基督教団出版局 1980)>。細かく見ればもっとありますが、分かり易いものを挙げてあります。使徒の働きの上に「現代」も載せてありますが、これについては後で説明します。

共通点 テオフィロ様 聖霊降臨 病者が立つ 百人隊長の信仰 エルサレムでの逮捕
 現代
 使徒  1章   2章    3章     10章      21章
 ルカ  1章   3章    5章      7章       22章

 ルカの福音書も使徒の働きも、共に1章で「テオフィロ様」への言葉から始めています。そして、ルカ3章でイエスさまに聖霊が降り、使徒2章で弟子たちに聖霊が降るという共通点があります。さらにルカ5章では、イエスさまが中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」(24節)と言うと中風の人は立って床を担いで家に帰りました。同様に使徒3章ではペテロが生まれつき足が不自由な人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と言うと、その人は立ち上がって歩きました。

 ルカ7章と使徒10章の「百人隊長の信仰」については、後で説明します。そしてルカ22章ではイエスさまがエルサレムで「最後の晩餐」の後に逮捕されました。同様に使徒21章では第三次伝道旅行を終えたパウロがエルサレムで逮捕されました。このようにルカの福音書と使徒の働きはとても良く似た構造を持ち、重なり合うような関係になっています。

 ではルカは、何故このような重なり合う関係の二つの文書を書いたのでしょうか?分かりやすい説明は、聖霊を受けたペテロやパウロたちの中にはイエスさまがいたということを示すためではないでしょうか。聖霊はイエスさまの霊ですから、聖霊を受けた者の中にはイエスさまが住んでいます。そうして、その者はイエスさまに似た者とされてイエスさまの証人になります。

 きょうの招きの詞で読んだように、使徒の働き3章6節でペテロは生まれつき足が不自由な人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。この少し前の使徒2章でペテロは聖霊を受けていましたから、ペテロの中にはイエスさまがいました。つまり、足が不自由な人を歩かせたのは、ペテロというよりは、ペテロの中にいたイエスさまです。

 エルサレムで逮捕されたパウロの中にもイエスさまがいました。このようにルカの福音書と使徒の働きを重ねることで、聖霊を受けたペテロやパウロたちの中にはイエスさまがいたことをルカは教えてくれている、というのが一番分かりやすい説明であろうと思います。そして読者の私たちは、この重なり合いの厚みから、聖霊の豊かな恵みを感じることができます。ルカの福音書単独でも聖霊の豊かな恵みを感じることができます。使徒の働きだけからでも聖霊の豊かな恵みを感じることができます。しかし、二つが重なり合うことでさらに豊かに聖霊の深い恵みを感じることができます。そうして聖霊の恵みの深い海にどっぷりと浸かることができます。

④コルネリウスと私たちを称賛する永遠の中のイエスさま
 きょうの聖書交読で読んだ使徒10章には、コルネリウスという異邦人の百人隊長が登場します(新約p.253)。2節でルカは、彼が敬虔な信仰の持ち主であると書いています。そして3節でコルネリウスは幻の中で御使いを見ました。御使いは彼に言いました。5節です。

10:5 さあ今、ヤッファに人を遣わして、ペテロと呼ばれているシモンという人を招きなさい。

 それでコルネリウスはしもべ二人と部下をヤッファのペテロの所に遣わしました。つまり、百人隊長のコルネリウスは自分の部下に「行け」と言って行かせました。このペテロの中にはイエスさまがいましたから、ルカ7章の百人隊長の記事と同じ状況ですね。
 ページをめくっていただいて使徒10章24節には、このように書いてあります。

10:24 そして次の日、ペテロはカイサリアに着いた。コルネリウスは、親族や親しい友人たちを呼び集めて、彼らを待っていた。

 つまりコルネリウスは親族や友人たちに「来い」と言って来させたのですね。これもルカ7章の百人隊長の記事の状況に似ています。そして25節、

10:25 ペテロが着くと、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。

 ルカ7章の百人隊長はイエスさまを家までは呼びませんでしたから、ここはちょっと違いますが、足もとにひれ伏してペテロを拝んだという点で、へりくだった人物であることはルカ7章の百人隊長と同じです。

 そうして、ペテロは彼らに向かって話し始めました。すると44節、

10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。

 聖霊が下ったということは、彼らの信仰が正しい信仰であることを天の父とイエスさまが認めたということです。こうしてユダヤ人とサマリア人だけでなく、異邦人もまたイエスさまを信じて聖霊を受けました。そしてパウロたちの伝道によってガラテヤ地方やエペソなどのアジアの異邦人たちも聖霊を受け、さらにヨーロッパの異邦人たちも聖霊を受け、現代の私たちも、イエスさまを信じて聖霊を受けました。

 週報p.2のルカ文書の重なり合いの表の上には現代も載せてあります。それは私たちもまたイエスさまを信じて聖霊を受けたからです。私たちも伝道会などでは百人隊長のコルネリウスのように家族や知人を呼びます。

 聖霊は一つですから、ペテロやパウロが受けた聖霊も、コルネリウスたちが受けた聖霊も、私たちが受けた聖霊も、みな同じ聖霊です。このように私たちは時代を超えて深い海のような聖霊の恵みの中にどっぷりと浸かっています。この聖霊の深い海の中にいるイエスさまは永遠の中にいるイエスさまです。この永遠の中にいるイエスさまがルカ7章で百人隊長の信仰を称賛したようにコルネリウスの信仰も称賛し、私たちの信仰も称賛して下さっているのですね。

 いえ、私はイエスさまに称賛されるような立派な信仰は持っていません、と多くの方々は思うでしょう。その謙遜さは立派だと思いますが、あまり謙遜になり過ぎると、聖霊の恵みの豊かさを受け損ねてしまうかもしれません。

 皆さんはこれまで、家族や知人を教会に誘って下さいました。その信仰をイエスさまは褒めて下さっています。そのことを素直に喜びましょう。皆さんの誘った方がイエスさまを信じないことも多いと思いますが、それは誘われた方がイエスさまを受け入れなかったのですから仕方がありません。誘った側の問題ではなくて誘われた側の問題です。冷たい言い方のようですが、熱いか冷たいかのどちらかであってほしいとイエスさまもおっしゃっていますから、冷たくしたほうが却って良いのかもしれません。

おわりに
 7月26日には特別集会を開きます。コロナ禍で近隣へのチラシ配布は行いませんが、この集会に家族を呼び、この会堂が聖霊で満たされるようにしたいと思います。イエスさまが驚くほどの信仰がここに現れされて私たち一同が聖霊の深い恵みにどっぷりと浸かりたいと思います。

 この聖霊の深い恵みに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。

7:8 私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
7:9 イエスはこれを聞いて驚き、言われた。「あなたがたに言いますが、わたしは、これほどの信仰を見たことがありません。」

10:44 ペテロがなおも話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
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聖餐式の恵みを考える(2020.7.5 礼拝)

2020-07-06 10:31:34 | 礼拝メッセージ
2020年7月5日礼拝メッセージ
『聖餐式の恵みを考える』
【第一コリント11章23~26節】

はじめに
 静岡教会での聖餐式は元旦礼拝以来、半年ぶりになります。4月の第一聖日に予定していた聖餐式はコロナウイルス対策で中止にしました。私たちの教団では原則として年に4回聖餐式を行うべきことが条例で決まっていますから、次の予定は7月の第一聖日でした。それをどうするか、先週の運営委員会で話し合って聖餐式を行うことにしましたから、このメッセージの後で聖餐式を行います。

 運営委員会が終わった後で思ったのですが、これまで私は教団の条例に「年4回」と書いてあるから年4回行っていただけだなと思い、反省しました。インマヌエルの教会の中には聖餐式を毎月行っている教会もあります。カトリックや聖公会では毎週聖餐式を行っています。それほど聖餐式は重要な聖礼典です。

 そこで、先ず私自身が、聖餐式の恵みについてもっと思いを巡らして、皆さんと分かち合うことにしようと思いました。ただし今回、聖餐論についての新たな勉強はほとんどしていません。1週間という短い時間の中で付け焼刃で聖餐論を勉強してそれをお伝えするよりも、思い巡らしの中で示されたことを分かち合ったほうが良いと思ったからです。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①洗礼式と聖餐式がプロテスタント教会の聖礼典
 ②最後の晩餐と十字架の死を覚えて行う聖餐式
 ③イエスさまが現代に来る?私たちが1世紀に行く?
 ④永遠の中にある最後の晩餐と十字架

①洗礼式と聖餐式がプロテスタント教会の聖礼典
 聖餐式は聖礼典であることを、まず覚えたいと思います。プロテスタントは、洗礼式と聖餐式の二つが聖礼典です。カトリックでは、「七つの秘蹟」と呼ぶ七つの儀式が聖礼典に相当するそうです。その七つの儀式のうちの二つは洗礼式と聖餐式で、その他にも私たちにとっては映画のシーンなどでおなじみの「懺悔」などがあります。プロテスタントは懺悔を行いませんが、映画のシーンなどでカトリックの信徒が小さな部屋に入って罪を告白するのを司祭が聞いている場面を見ることがありますね。或いはまた、カトリックには「病者の塗油」という儀式があるそうです。塗油は油を塗る儀式です。これは病気になった信徒や臨終間際の信徒に司祭が油を塗る儀式だそうです。今年の春、新型コロナウイルスによる死者が急増していたイタリアでは、司祭がこの塗油を行っていたことでウイルスに感染して多くの司祭が亡くなったと報じられていましたね。

 プロテスタントにはこのような塗油や懺悔は無く、洗礼式と聖餐式の二つだけが聖礼典です。そして、洗礼式と聖餐式は按手礼を受けた教職しか執行できないことになっています。もちろん例外もあります。臨終間際の病床洗礼に牧師が間に合わない場合には、その場にいる信徒に洗礼を託すことがあります。また、遠隔地で牧師がなかなか行けない場合などにも教職でない牧師に代理の執行を託すこともあります。しかし、それは例外で、基本的には洗礼式と聖餐式の司式は按手礼を受けた教職の牧師しかできないことになっています。

 私たちの教団の場合、教職になるための試験を受けるには、原則として5年間の伝道者としての経験が必要です。そうして6年目に試験を受けますから、教職になるのは最短で7年目からです。例外もありますが、基本的には7年目からです。試験は私の時には論述試験と面接試験がありました。かなり大変でした。そうして試験に合格すると按手礼を受けて教職になり、洗礼式と聖餐式の司式ができるようになります。

 聖餐式はそれほど重要な礼典です。洗礼式の司式が按手礼を受けた教職でなければできないのは、何となく分かりますね。洗礼を授ける礼典を、神学校を卒業したばかりの新人の牧師には託せないことは、何となく分かります。しかし聖餐式がそれと同じくらいに重要だというのは、少し分かりにくいかもしれません。

 例えば、結婚式や葬式などの司式は神学校を卒業したばかりの牧師でもできます。結婚式も葬式も、神聖で重要な式ですね。これらの司式はできるのに聖餐式の司式は新人の牧師には許されていないのは、どうしてでしょうか?

②最後の晩餐と十字架の死を覚えて行う聖餐式
 最初に話した通り、今回は聖餐論の新たな勉強をしていませんから、これから話すことは今の私の知識の範囲内での思い巡らしの中で示されたことです。

 聖餐式は最後の晩餐と十字架の死を覚えて行います。きょうの聖書箇所の第一コリント11章23節から26節までを、交代で読みましょう。これはパウロがコリントの信徒に書いた手紙です。

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 イエスさまはパンを取り、「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言い、杯を取って「わたしを覚えて、これを行いなさい」と言いました。そうしてパウロは26節で、「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまでの死を告げ知らせるのです」と書きました。そういうわけで、私たちは最後の晩餐とイエスさまの十字架の死を覚えて聖餐式を行います。言うまでもなく、最後の晩餐と十字架は非常に重要な出来事です。現代の結婚式や葬式ももちろん重要ですが、最後の晩餐と十字架を覚える聖餐式はもっと重要ですから、新人の牧師では司式が許されていないのでしょうか?どうなのでしょうか?

 或いは、聖餐式では洗礼を受けた者だけがパンとぶどう液を受け取ることができますから、洗礼を授ける資格がある教職の牧師だけがパンとぶどう液を配ることができるのでしょうか?

 いま、「洗礼を受けた者だけがパンとぶどう液を受け取ることができる」と言いましたが、このことに関しては異なる考え方の教会もあります。多くの教会は洗礼を受けた者に限定していると思いますが、中には未受洗の方にもパンとぶどう液を配る教会もあります。これには「フリー聖餐」という名前が付いていますから、そういう立場の教会も一定数あるのでしょう。単立の教会では牧師の考えでフリー聖餐を行っている教会もあるのかもしれません。しかし、教団の傘下にある教会では教団の方針に従わなければなりません。インマヌエルはフリー聖餐を認めていません。ある教団では、独自の判断でフリー聖餐を続けていた牧師に退任勧告をして退任しなかったので、罷免しました。

③イエスさまが現代に来る?私たちが1世紀に行く?
 私はインマヌエルの牧師ですから、もちろんインマヌエルの規則に従って、受洗者にしかパンとぶどう液を配りません。新しく来た方がこの場にいる場合は、自己申告で本人が受洗していると言えば、ご一緒に聖餐の恵みに与っていただきます。教団の規則ですから、未受洗の方にはパンとぶどう液を配りません。

 ただ、「教団の規則だから、そうする」というのでは、あまりに自分の考えが無いという気もします。もっと信念を持って「未受洗の方にはパンを配ることはできません」と言えるようになりたいと思います。

 実は私は未受洗の方にパンとぶどう液を配れないことを、心情的にはとても心苦しく思っています。と言うのは、19年前の2001年に高津教会に毎週通い始めていた頃、初めての聖餐式礼拝で仲間はずれにされたような気がして、ショックを受けた経験があるからです。教会のことを何も知らずに教会に通い始めた私でしたから、聖餐式が始まって、何やら今日はパンをいただけるようだということで、すごくワクワクしました。それが、いよいよパンを配る段階になって、洗礼を受けていない方はパンを受け取らないで下さいと言われて、ガーンとショックを受けました。そうして、呆然としながら、高津教会の皆さんがパンを食べ、ぶどう液を飲む様子を眺めていました。

 当時の式文ではパンを配る直前に未受洗の方はパンを受け取らないで下さいという文言がありましたから、ワクワクしながら式文を聞いていた私は余計にショックが大きかったのですね。この式文は今は改められていて、かなり早い時点で「洗礼を受けていない方はパンを受け取らないで下さい」と言うようになっています。それで今は私の頃よりは多少はショックが小さいかもしれません。

 いずれにしても教会のことを何も知らずに通っていた当時の私は仲間はずれにされたようでとても大きなショックを受けました。前の週まで親し気に話し掛けて下さっていた信徒方のことも冷たく感じてしまい、寂しく思いました。それで、「もう教会に行くのをやめようかな」とさえ、思いました。幸い、気を取り直して次の週にも教会に行って、12月のクリスマス礼拝で受洗の恵みに与りましたが、あの日に受けたショックのことは、今でも忘れられません。

 未受洗の方にもパンを配るフリー聖餐の牧師の考え方も、未受洗の方を仲間はずれにしてはならないということだと思います。誰にでも等しくパンを配るのでなければ、キリストの愛に反する、ということだと思います。もし21世紀のこの場にイエスさまがいたとしたら、イエスさまはきっと全員にパンを配ることでしょう。

 もし、この聖餐の場が21世紀の食事の場であれば、私はこのフリー聖餐の考え方に、かなりの部分で賛同したいと思います。では、なぜここでは未受洗の方にパンを配らないのか、それは、イエスさまが21世紀の現代に来るというよりは、むしろ私たちが二千年前の紀元1世紀の最後の晩餐と十字架の現場に行くからだろうと思います。もちろん、それは霊的な領域の話です。私たちの肉体は決して21世紀から離れることはできません。しかし、イエス・キリストを信じて聖霊を受けるなら、霊的に1世紀に行くことは可能でしょう。

④永遠の中にある最後の晩餐と十字架
 ただし、現実問題として、かなり霊的に整えられた人でなければ1世紀に行くことはできないでしょう。たぶん私たちの大半は無理でしょう。私自身もそこまで霊的に整えられることはないと思います。

 しかし、1世紀ではなく、永遠の中にいるイエスさまにならお会いできると思います。イエスさまを信じて聖霊を受け、永遠の命をいただいているなら、永遠の中にいるイエスさまからパンとぶどう液を受け取り、永遠の中にある最後の晩餐に参加できるでしょう。聖餐式という場はそのような場であろうと今回示されています。それゆえイエス・キリストを信じていることを公に告白した者だけが聖餐式でパンとぶどう液を受け取ることができるのだと考えます。

 私たちは永遠の中にいるイエスさまにお会いします。実際、先月私は、H兄が最期の時を迎えている時、その病室に永遠の中にいるイエスさまがいて、H兄が天の御国に行く準備をしている様子を見守っていることを感じていました。そうして1分間当たりの呼吸がゼロになった時、イエスさまはH兄を時間の無い永遠の中にある天の御国へと連れて行って下さいました。

 私たちが天の御国へ行くのはもう少し先のことですが、イエス・キリストを信じて聖霊を受け、永遠の命が与えられている者であれば、永遠の中にいるイエスさまを感じることができます。そうして永遠の中にいるイエスさまからパンとぶどう液をいただきます。

 最後の晩餐と同じで、十字架もまた永遠の中にあります。永遠には時間の前後関係がありませんから、イエスさまの十字架はどの時代に犯した罪でも赦します。十字架の前に犯した罪を赦すと同時に、十字架の後に生まれた私たちの罪をも赦します。普通の時間順の前後関係で言うならば、先ず罪を犯し、その後に十字架の贖いによって過去に犯した罪が赦されるはずです。でも永遠の中にある十字架には時間の前後関係がありませんから、十字架より後に生まれた私たちが現代の生活の中で犯した罪もまた、十字架によって赦されます。

おわりに
 これから聖餐式に移りますが、是非、この場に永遠の中のイエスさまがいらっしゃることを感じながら、パンとぶどう液を受け取ってみていただけたらと思います。7月5日の11時5分という時間から解放されて永遠の中にいるイエスさまと共に私たちもまた、永遠の中に入るなら、聖餐式の恵みをもっと多く受け取ることができると思います。

 お祈りいたします。
 
わたしはいのちのパンです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
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二人の兄の遺産を礎にしてコロナ後を歩む(2020.6.28 礼拝)

2020-06-30 07:39:38 | 礼拝メッセージ
2020年6月28日礼拝メッセージ
『二人の兄の遺産を礎にしてコロナ後を歩む』
【ペテロの手紙第一5章1~7節】

はじめに
 先月の5月21日にY兄が天に召され、先週の6月23日にH兄が天に召されました。3月の末まではお二人とも礼拝に出席しておられましたから、大きな喪失感を覚えます。3月の末には、3ヵ月後の静岡教会がこのようなことになっていようとは思っていませんでした。特にH兄に関してはそうでした。

 私たちはコロナウイルスのことでも、今年の元旦礼拝の時点では3月には学校が休校になり4月には教会も無会衆礼拝にしなければならない事態になるとは考えもしませんでした。本当につくづく人間には先のことが全く分からないということを思い知らされています。

 しかし私はこんな風にも思っています。もしお二人が半年前までのような世の中全体が忙しく動いている中で天に召されていたなら、喪失感ばかりが大きかったのではないか。しかし、二人の兄弟は、コロナウイルスへの警戒から世の中全体がゆっくり動いている中で、段々と天に召される時が近づいて行きました。それゆえお二人が天に召されていることを通してとても大切なことを学べたのではないかと思うのです。

 きょうは、そのことを皆さんと分かち合いたいと願っています。

 ①特別な場所であるN病院
 ②「永遠」への旅立ち
 ③大きかった1ヶ月前の昇天日の召天
 ④二人の兄の遺産を礎にして歩む

①特別な場所であるN病院
 最初のパートでは私自身のお証しをさせていただきます。

 今回、私は特別な思いを持ってN病院に入院しているH兄のお見舞いに行っていました。と言うのは、N病院は19年前の2001年の6月11日に私の父を看取った病院だったからです。私はこの19年前のN病院での出来事をきっかけにして教会に通うようになり、同じ2001年の12月のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。

 亡くなった父は昭和2年生まれで、H兄は大正14年生まれでしたから生まれた年が近いこともあって、19年前のことを思い出しながら、N病院へお見舞いに行っていました。

 ここから19年前の6月の出来事を少し話させて下さい。父がN病院に入院したという連絡が母から入ったのは6月1日の金曜日でした。それで翌日の土曜日は仕事が休みでしたから、私は日帰りで当時住んでいた川崎市の高津区から静岡のN病院に父の見舞いに行きました。この9日後に父は亡くなる訳ですが、その時はそんな風には思っていませんでしたから、あまり心配せずに日帰りで高津に戻りました。

 ただ不思議なことに、戻る時にN病院からまっすぐ静岡駅に向かわずに七間町の吉見書店に寄って、そこで携帯用の新約聖書を買いました。当時私は、親しくなった韓国人から聖書を読むように勧められていました。教会に行くことも勧められていましたが、ぜんぜん行くつもりはありませんでした。でも静岡に日帰りで戻ったついでにどういう訳か吉見書店に寄って、新約聖書を買ったんですね。今思い返しても、とても不思議なことです。

 さて母から次に連絡があったのは6月4日の月曜日でした。検査結果が出てすい臓がんの末期であることが分かり、あと1週間か2週間の命だと医師に告げられたとのことでした。とても驚きましたが、そうであれば私も少し長く仕事を休まなければなりませんから、そのための算段を付けるのに三日間を要して、次に静岡に戻ったのは6月7日の木曜日の晩でした。その7日から父が亡くなる11日までの足掛け5日間は、私は大半の時間を父の付き添いでN病院で過ごしました。夜は簡易ベッドで父の隣で寝ました。母は疲れていたので7日以降の父の付き添いは私が担当しました。当時、兄は海外に住んでいて、兄が帰国したのは9日の土曜日の午後でした。父は土曜日の午前までは普通に会話ができていましたが、痛みが激しいので痛み止めの注射をして欲しいと訴えました。それで土曜日の昼に痛み止めの注射をしてもらったところ安らかな顔になって眠りに付き、臨終まで二度と起きることはありませんでした。

 父が眠っていた土曜の夜、帰国した兄と母が葬式の相談を始めました。母は、お父さんはクリスチャンだけど、どうしようかと言うんですね。その時になって私は父がクリスチャンであることを初めて知りました。若い時にキリスト教会で洗礼を受けたそうです。しかし母と結婚してからはぜんぜん教会に行っていませんでしたから、教会とのつながりは無くなっていました。それで結局葬式はいつも法事をしてもらっているお寺にお願いすることになりました。

 その土曜の夜、父に付き添い始めてから三日目の晩でしたが、私はクリスチャンの父のために聖書を読んであげたいと思い、聖書を読むことを勧められていた韓国人に電話をしてどこを読んであげたら良いか聞きました。その韓国人は教会の人に聞いてくれて、ヨハネの福音書の14章という回答がしばらくしてからありました。それで私は眠り続けている父の枕元でヨハネの福音書14章を読みました。もちろん意味などぜんぜん分かりませんでしたが、一週間前に吉見書店で買ったばかりの聖書を読みました。これも本当に不思議なことだったと思います。

 多分、この時の経験が私の魂に変化を与えたのではないかと思います。寺での父の葬式を終えて高津に戻ってから、クリスチャンの父のために教会で祈りたいと思い、東京の韓国人教会に連れて行ってもらいました。その時に聖歌隊の賛美歌の合唱を聞いて父を亡くした悲しみがとても癒されましたから、次の週も教会に行きました。そうして三回ほど続けて通った時、日本人の教会に行って日本語の説教を聞くように勧められました。

 聖歌隊の賛美歌に癒されて通っていたので、他の教会に行くように言われて腹が立ちましたから、しばらくは教会に行きませんでした。しかし8月に入って、一度ぐらいは日本人の教会に行ってみようかなと思い、それでつまらなかったら二度と教会には行かないぞという気持ちで、近所にあった高津教会を訪ねました。2001年の8月12日のことでした。偶然、その日は藤本満先生によるガラテヤ人への手紙の講解説教の第1日目でした。信仰に熱心になればなるほど形式主義に陥って、却って神様から離れてしまうことがあるという逆説に興味を持って、次の週の説教も聞きたくなり、そのまま1回も礼拝を休まずに12月のクリスマス礼拝で私は洗礼を受けました。

②「永遠」への旅立ち
 2001年の6月に父の病室に泊まり込んでいた時、人が死んでいく過程を私は生まれて初めて見ました。祖父や祖母が亡くなった時は、亡くなる前に見舞いに行きましたが、亡くなる過程は見ていませんでした。それで19年前の41歳の時に初めて、人が亡くなる過程を克明に見ました。その時の私は科学者の目で父を観察していたと、父の死後に兄が私を批判しました。親の死に際に冷静な目で観察している私に兄は怒りを感じたようです。でも、兄は父が亡くなった後で信仰に目覚めることはありませんでしたが、私の方はこの経験を通して信仰に目覚めましたから、そんなに悪いことではなかったと今でも思っています。

 この時に父を観察していて私の最も目を引いたことは、呼吸が段々と浅くなっていったことでした。試しに父の浅い呼吸に合わせて自分も浅い呼吸を続けてみました。すると当然、苦しくなって浅い呼吸を続けられなくなります。しかし父はそんな浅い呼吸のままで生命を維持していました。ということは、ほとんどの臓器はもう働いていないのだなと思いました。臓器が機能を停止しているから浅い呼吸でも生命を維持できているのだなと考察しました。私はその考察の結果を兄に話し、兄は私が親の死に際にそんなことを考えていることに怒りを覚えたそうです。

 あれから19年後の先週の6月23日の午前に、H兄の娘さんから連絡が入りました。息を引き取るのは今日中のようだと弟から連絡があったとのことでした。それで午後1時に私もN病院に行って病室に入った時、H兄の呼吸は既に浅くなっていました。それを見て、19年前の父と同じだなと思い、天に召される時が近づいているとすぐに分かりました。そして、そこにイエスさまが来ておられることを感じました。H兄がイエスさまに伴われて、天の御国に旅立つ準備をしていると感じました。

 ただし、今すぐにという状況では無いと思いましたから、いつものように詩篇23篇をお読みしてお祈りをして、しばらくはご家族と雑談をしていました。しかし2時を過ぎた頃からH兄の呼吸はますます浅くなり、呼吸の間隔もあいて来て、その時が迫っていると感じましたからH兄の頭に手を置いて「臨終の祈り」を捧げさせていただきました。その後、無呼吸の状態がしばらく続いては、また呼吸を始めるということを繰り返し始めました。そうして、最後は完全に呼吸が止まりました。

 この天に召されていく過程をずっと見ていて、H兄は永遠の世界へ旅立ったのだと分かりました。永遠の世界は時間が無い世界です。一方、この世ではほとんどすべての物事が時間に基づいています。きょうは忙しいと言う時には同じ時間の中でたくさんのことをしなければならない時です。きょうはゆっくりできるというのは同じ時間の中ですべきことがあまり無いということです。あの人のしゃべるスピードは速いとか遅いということもよく思います。ごはんを食べるのも速い人と遅い人とがいて、あの人はせっかちだとか、ノンビリだとかとも言います。庭の花も、思ったより早く咲いたとか、なかなか咲かないなどと言います。とにかくほとんどすべてのことを時間に基づいて判断します。

 H兄の呼吸や脈拍数も、この世にいる間は1分間に何回というように数えられていました。しかし1分間に10回以上あった呼吸が数回になり、ついにゼロ回になりました。そうしてH兄は時間に支配にされたこの世から、時間の無い永遠の世界に旅立ちました。

 きょうの招きの詞をもう一度お読みします。ヨハネの福音書10章の27節と28節です。これはイエスさまのことばです。

10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。

 イエスさまは28節で、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」とおっしゃいました。私たちはイエス・キリストを信じるなら、「永遠のいのち」を得ます。この「永遠のいのち」を得るとは、これから先、一億年も百億年も生きることではなく、時間の無い世界に行くことなのだとH兄が、分かりやすく示して下さいました。永遠の命を得るとは、「忙しい」とか「暇だ」とか、「せっかちさん」だとか「のんびり屋さん」だとか、時間に支配されたこの世から解放されて時間の無い世界に行くことなのだと、イエスさまはH兄を通して教えて下さいました。

③大きかった1ヶ月前の昇天日の召天
 今回、病室にイエスさまが来ておられることを感じたのは、Y兄が1ヶ月前のイエスさまの昇天日に天に召されたばかりだったことが大きかったと思います。

 Y兄の時は臨終に間に合いませんでしたが、穏やかな顔を拝見して、「ああ確かにY兄は天の御国に行って安らいでいるな」と思いました。その少し後でクリスチャン手帳を開いて、その日がイースターから40日目のイエスさまの昇天日であったことに気付き、天に昇るイエスさまと一緒に、Y兄は天に昇って行ったと分かりました。そして、すごいなあと思って御名を崇めました。

 Y兄の臨終には娘さんも間に合いませんでした。娘さんが駆け付けた時には既に天に召されていました。でも、その悲しみの中で娘さんは連絡をして下さいました。そうして私はY兄のご自宅に向かう途中で、これから急激に忙しくなることに緊張を覚えていました。教会員が天に召されると、牧師は本当に忙しくなりますから、まだ葬儀の経験が少ない私は不安を覚えていました。しかし、Y兄がイエスさまの「昇天日」に天に召されたと分かって、すごいなあと思い、不安が消えて心が平安に包まれました。

 5月の後半に入ってから、Y兄はいつ天に召されてもおかしくない状態にあったと思います。そのY兄を神様はイエスさまの昇天日に天に召して、Y兄のような信仰生涯を歩むなら、確実に天の御国に行けるのだということをハッキリと示して下さいました。イエスさまの昇天日にY兄は穏やかな平安に包まれた顔で息を引き取ったのですから、これほど分かりやすいことはありません。この日を選んで神様がY兄を通して大切なことを教えて下さったことに感謝して、御名を崇めました。

 この1ヶ月前の経験がありましたから、先週の6月23日の午後、間もなく天に召されようとされているH兄の病室にイエスさまが来て下さっていることを感じました。そうして、Y兄の時と同じようにH兄を伴って一緒に天に昇って行って下さるのだと感じていました。

 そのようにして、イエスさまの臨在を感じている中で、H兄の呼吸が少なくなって行き、最後に呼吸が停止しましたから、これが「永遠」の世界に行くことなのだなと良く分かりました。そこにイエスさまがいらっしゃらなかったら、呼吸が停止することと「永遠」とは結び付かなかったかもしれませんが、そこにイエスさまがいましたから、これが「永遠」の世界に行くということであり、「永遠」とは時間の無い世界なのだということが、よく分かりました。

④二人の兄の遺産を礎にして歩む
 最後のパートに進んで、きょうの聖書箇所の第一ペテロ5章をご一緒に見ましょう(新約p.471)。まず5章の1節から4節までを交代で読みましょう。ここに出て来る長老を、私たちより先に天に召された信仰の先輩のH兄とY兄のこととして、読んでみたいと思います。

5:1 私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。
5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。
5:3 割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。

 3節にあるように、H兄とY兄は群れの模範でした。体が弱っていく中でも礼拝に出席し続けて、私たちに模範を示して下さいました。H兄は3月の末までの1年半、一度も礼拝を欠席することなく出席し続けました。Y兄も栄養剤の袋をチューブでつなげたままで礼拝出席に励んでいました。それはお二人が喜びをもって礼拝に出席していたからでしょう。礼拝出席することが何よりの喜びだったからこそ、礼拝に出席し続けたのでしょう。

 そうしてお二人のもとに4節にある大牧者のイエスさまが現れました。そうしてお二人は、しぼむことのない栄光の冠をいただきました。すごいことだなと思います。

 私たちはこの二人の長老に続く「若い人たち」です。今度は5節から7節までを交代で読みましょう。この5節以降の「若い人たち」は私たちです。年齢は関係ありません。何歳であっても、私たちは皆、お二人の長老に続く若い人たちです。5節から7節までを交代で読みます。7節はご一緒に読みます。

5:5 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
5:6 ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

 Y兄とH兄は、私たちクリスチャンは確かに天の御国に行けること、そして天の御国に行くとは永遠の世界に行くことであると、とても分かりやすい形で示して下さいました。私たちはこの二人の長老に従いたいと思います。私たちはこのH兄とY兄の信仰を礎にして、これからを歩んで行きたいと思います。

おわりに
 週報のp.2に、24日の早朝に咲いた朝顔の花の写真を載せました。



 H兄が天に召された23日の翌朝のことです。23日は娘さんの静岡への到着が夕刻になりましたから、葬儀の日程の相談は24日にされることになりました。

 ですから24日の朝、私は少し緊張して不安を覚えていました。1ヶ月前のY兄が天に召された時もそうでしたが、先週の24日も、これから急激に忙しくなるぞと思い、少し不安を覚えていました。

 その不安を紛らそうと、朝早く私は教会の駐車場にコスモスの花を見に行きました。すると、思い掛けなく朝顔の花が二輪咲いていました。5月の初めに種を蒔いて、花が咲くのはもう少し先だと思っていましたが、早くも朝顔の花が咲きましたから、私はとても平和な気分になって不安が取り去られました。

 朝顔の種は、上のフェンスに花が咲くことを想定して蒔きました。しかし、まず咲いたのはフェンスの土台の部分でした。それゆえ、この二輪の朝顔の花はH兄とY兄で、神様はこの二輪の花を通して、お二人の長老の信仰を土台にしてこれからを歩むようにと教えて下さっているのかもしれないと思いました。

 この朝顔の種を蒔いた5月の初旬には、まだH兄もY兄もこの世にいました。しかし、種蒔きしてから1ヶ月半を経た今、お二人は天の御国におられます。お二人が天の御国へと準備をしていたこの期間、朝顔は天に向かってツルを伸ばして花を咲かせる準備をしていました。そうして、お二人の信仰を土台にして天の御国への信仰を育んで行くようにと教えてくれています。

 神様の粋な配慮に心一杯感謝したいと思います。

 お二人が遺して下さった信仰の遺産のことを思いながら、しばらくご一緒にお祈りしたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

5:5 同じように、若い人たちよ、長老たちに従いなさい。
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まことの礼拝者(2020.6.27 H兄告別式)

2020-06-29 06:45:19 | 礼拝メッセージ
H兄告別式説教
『まことの礼拝者』
【詩篇122篇、ヨハネ4:23~24】

 はじめに、説教の聖書箇所をお読みします。ヨハネの福音書4章の23節と24節です。

4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 いまお読みした箇所には、「まことの礼拝者」という言葉が出て来ます。この「まことの礼拝者」はH兄にふさわしい呼び方ではないかと思い、きょうのこの告別式の説教のタイトルを「まことの礼拝者」とさせていただきました。

 H兄は今年の3月の終わりまで、毎週ずっと礼拝に出席し続けていました。一番前の席で、そして最初の賛美歌はいつも立って歌っていました。ご高齢の方で立ったり座ったりが大変な方は座ったままで歌っても構わないのですが、いつも立って歌っていました。今年の3月8日で95歳になったH兄が会堂の先頭の席で立って賛美歌を歌っている姿に、私たち教会員は、いつも励まされていました。

 きょう最初に読んだ聖書の箇所は詩篇122篇です。病院にH兄を見舞いに行った時、私はいつも詩篇23篇をベッドの横で読みましたが、この122篇も一度、23篇と併せて読みました(プログラムp.4)。122篇の1節には、

122:1 「さあ主の家に行こう。」人々が私にそう言ったとき、私は喜んだ。

とあります。「主の家」というのはエルサレムの神殿のことです。現代の私たちにとっての「主の家」は教会です。「さあ教会に行こう」、H兄も喜びをもって人々と共に教会に集いました。教会に行くことが、どうしてそんなに喜びなのか、それは、教会では神様を自宅にいる時よりもずっと近くに感じることができるからだと思います。神様は霊ですから、目には見えません。目には見えませんが、神様の臨在を私たちは感じることができます。その臨在を教会に行けば強く感じることができます。

 きのうの前夜式の説教では、H兄が天に召された6月23日の病院での出来事を話しました。H兄が天の御国へ旅立とうとしている時、私はそこにイエスさまがH兄を迎えに来ていることを感じたと話しました。目には見えませんが、神様であるイエスさまがそこにいると感じました。

 教会も、イエスさまがいらっしゃることを感じやすい場所ですから、人々は喜びをもって教会に集うのだと思います。12年前の2008年、私は仕事を辞めて、聖書を学ぶために神学校に入学しました。そして聖書を学ぶと同時に、牧師になるための学びも始めました。その神学校の1年生と2年生の時の夏に、夏期実習でインマヌエルの静岡教会にお世話になりました。実家が静岡の大岩2丁目にありましたから、大岩2丁目から田町3丁目の教会に自転車で通いました。自転車で20分ぐらいの距離です。

 その頃は週に一度、火曜日の早朝に早天祈祷会がありました。朝早くに家を出るのは少し大変でしたが、人通りのない朝の静岡の街を自転車で走るのはとても気持ちの良いことでした。ですから当時の私も喜びをもって教会に向かいました。そしてその早朝の早天祈祷会にH兄も必ず出席していました。それゆえ私にとってのH兄は、礼拝で一番前の席で賛美をしている方であり、早朝の早天祈祷会に必ず出席していた方です。H兄もきっと喜びをもって「さあ。教会に行こう」と心の中で思って、教会に向かっていたことと思います。

 そのように熱心に教会に通っていたH兄は「まことの礼拝者」と呼ぶにふさわしい方であったと思います。今度はヨハネの福音書の4章をご一緒に見ましょう(プログラムp.4)。23節と24節を、もう一度お読みします。これはイエスさまのことばです。

4:23 「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 24節に、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」とあります。この「御霊と真理による礼拝」とはどのような礼拝でしょうか?いろいろな説明の仕方があると思いますが、「御霊と真理による礼拝」とは、「霊性と理性による礼拝」であると説明したいと思います。神様を礼拝する時は霊性と理性の両方を整えて礼拝に臨みたいと思います。御霊とは聖霊のことですから、霊性を整えて聖霊に満たされつつ、理性も整えて、神様は万物を創造してこの世界のあらゆる物事を支配しているお方であることを、頭でしっかり理解しながら礼拝したいと思います。

 礼拝の「礼」はお礼の礼、礼拝の「拝」は拝むの拝です。私たちは毎週日曜日に一週間が守られたことに感謝して、お祈りの中でお礼を言い、これからの一週間もまた神様によって守られるようにと拝み、祈ります。これを毎週繰り返します。

 なぜ毎週繰り返す必要があるのか、それは少なくとも一週間に一回は教会に行って神様を礼拝しなければ、私たちはすぐに神様のことを忘れて、神様から離れてしまうからです。そうすると、たまに教会に行って礼拝しても、なかなか上手く神様との交わりを感じることができなくなります。霊性を整えるのが下手になっていますから、神様の霊と上手く交わることができなくなります。

 スポーツや音楽やいろいろな習い事も同じでしょう。せめて1週間に1回は練習する必要があります。もちろん、本当はもっと練習する必要があります。毎日練習するのが望ましいでしょう。そうすればどんどん上達します。でも大抵の人は忙しくて毎日は無理でしょう。しかし、どんなに忙しくても、せめて1週間に1回は練習しなければスポーツでも音楽でも下手になってしまいます。

 日本には八百万の神といって、たくさんの神々を信仰する風習がありますね。野球の神様とか、サッカーの神様とか言われるのを良く耳にします。ピアノの神様とかバイオリンの神様もいるかもしれません。せめて1週間に1回は練習しなければ野球の神様やサッカーの神様、ピアノの神様から見放されてしまうでしょう。

 しかし実は野球のこともサッカーのこともピアノのことも、すべてが万物を支配する神様の御手の中にあります。菅原道真の学問のことも、交通安全も、家内安全も、全部、万物を造った神様の御手の中にあり、支配されています。それらのことは、理性を使って聖書を探究するなら、分かって来ます。理性によって神様がすべてを造ったお方だということが分かります。ですから私たちは、万物を支配する神様にお礼を言って拝みます。それが礼拝です。それゆえ私たちは霊性を整えて礼拝に臨みます。霊性を整えなければ神様と上手く交わることができないからです。上手く交われないと神様にちゃんとお礼を言うことができません。ですから、せめて1週間に1回は教会に行って、御霊と真理による礼拝を捧げる必要があります。そうしなければ礼拝することが下手になってしまいます。

 話が少し難しくなったかもしれません。でもH兄は、自分の告別式で牧師が少しぐらい難しい話をするのをゆるして下さっていると思います。H兄は寡黙でしたから、私が牧師になってから、ほとんど会話をしていません。けれども一度、H兄を送迎する車の中で、H兄の方から私に質問して静高の何期生か聞いたことがありました。私が「94期です」と答えたら、H兄は「僕は59期だ」とおっしゃいました。H兄の方から話し掛けて来るのは、とても珍しいことですから、そのこと自体が、とてもうれしいことでした。またH兄が私を静中・静高の後輩として認めて下さったことも、とてもうれしいことでした。

 そうして高校時代のことを思い出してみると、静高の先生はけっこう難しい訳の分からない話を良くしていたなあと思います。中学の時はあまりそういうことを感じませんでしたが、高校に入った途端、先生が難しいことを言っているので面食らった覚えがあります。

 高1と高3の時のクラス担任は数学の先生でした。先生は良く、黒板に書いた数式を見ながら、「この数式は実に美しいね」と言っていました。高校生の私には何が美しいのか、さっぱり分かりませんでしたが、大学に進んで数学や物理をもう少し学んで、先生が言っていた、「この数式は実に美しいね」の意味が少しだけ分かるような気がしました。そうして私は物理を探究するようになり、物理の美しさが段々と分かるようになりました。

 いまの私は聖書を探究しています。聖書の伝道者の書には、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」という言葉があります。本当にそうだなと思います。この神様のなさることの美しさを、より深く知るためにも、神様を感じる霊性と、聖書を理解する理性の両方が必要なのだと思います。

 きのうの前夜式の説教で私は永遠とは何かの話をしました。永遠とは時間の無い世界です。それもまた聖書を探究することで分かることですから、理性が必要です。と同時に永遠を感じるためには、やはり霊性も必要です。その永遠が実際に存在することをH兄は病室でしっかりと教えて下さいました。ですから、私たちはH兄がご自身の身をもって教えて下さってこの永遠のことも、しっかりと伝えて行かなければならないと思わされています。

 H兄は、94歳、95歳になっても尚、毎週欠かさず礼拝に出席することの大切さを、会堂の先頭に立つその姿で示し続けて下さいました。もちろん体調が悪い時、都合が悪い時には礼拝を休んでもぜんぜん構いません。体調が悪い時に無理をすれば取り返しのつかないことになりますから、しっかり休むべきです。しかし、スポーツや音楽と同じで、しばらく休んでしまうと神様を礼拝することが下手になるということも、ぜひ覚えておきたいと思います。

 そのことを教えて下さったH兄は、本当に「まことの礼拝者」であったと思います。このことを心一杯感謝して、H兄をお見送りしたいと思います。
 お祈りいたします。

4:23 「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
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永遠の天の御国への旅立ち(2020.6.26 H兄前夜式)

2020-06-29 06:17:43 | 礼拝メッセージ
H兄前夜式説教
『永遠の天の御国への旅立ち』
【詩篇23篇、ヨハネ10:27~30】

 はじめに説教の聖書箇所をお読みします。ヨハネの福音書10章の27~30節です(プログラムp.4)。

10:27 「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

 H兄の地上生涯に関しては、「追憶の辞」(弔辞)で多くが語られましたから、私はH兄が天に召された6月23日の出来事を中心に話したいと思います。

 6月23日の午後2時40分過ぎにH兄は地上のあらゆる重荷から解放されて、天の御国で羊飼いであられるイエスさまのもとで憩っておられます。

 今回私は病院の病室でH兄の地上生涯の最期の時に立ち会わせていただいている時に、その病室にイエスさまが来て下さっていることを感じていましたから、H兄は確かにイエスさまに伴われて天に昇ったと確信しています。

 実は私たちの教会では、つい1ヵ月前にも、一人の兄弟を天に見送りました。その時は、私は臨終には間に合わないで、亡くなられた少し後に病室に入りました。でも、兄弟のとても穏やかなお顔を拝見して、確かにこの兄弟はイエスさまと一緒に天に昇ったなと確信しました。

 今回は臨終の時に間に合いましたから、ご家族と一緒に臨終のお祈りをさせていただきました。そうして天に召される時が段々と近づいていた時、その病室にイエスさまが来て下さっていると感じました。

 ここからは聖書の御言葉を見ながら、6月23日の病室でのことを振り返ってみたいと思います。コロナ規制の緩和で面会が限られた者たちに対して許可されるようになってから、私は何度か病院にお見舞いに行かせていただきました。そして、その度に病室で詩篇23篇を読ませていただきました。H兄が天に召された23日にも、詩篇23篇を病室で読みました。

 その詩篇23篇をご一緒に見ましょう(プログラムp.4)。この詩篇23篇はダビデ王による詩であるとされています。ダビデはイスラエルの王様でしたが同時に戦士でもありましたから、王様になる前も、王様になった後も、人生の多くを戦場で過ごしました。心が休まらない戦場の中にあっても、ダビデは主が共におられることを感じて平安でいることができました。

 H兄も20歳の若い頃は戦地の中国にいたそうですから、この詩篇23篇のダビデの賛歌は兄弟の心に響く詩であっただろうと思います。1節、
 
23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

 ダビデは、自分は羊で、主は羊飼いであるとしています。羊飼いである主が共にいて下さるだけで心が満たされて、何も乏しいことがありません。2節、

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

 戦場に身を置いていると心が殺伐として来ます。人を殺しても何とも思わないという風に心が荒れて、砂漠のように乾いていきます。そんなダビデを主は憩いの水のほとりに伴い、心に潤いを与えて下さいます。続いて3節、

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

 心が潤うことでたましいも生き返ります。そうして主はダビデを正しい方向へと導いて下さいます。そして4節、

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

 戦場では、いつ命を落とすか分かりません。でも主が共にいて下さいますから、ダビデは恐れませんでした。主が共にいて下さるだけで心は平安であり、仮に命を落とすことがあっても、死ねばもっと主に近い所に行くことができますから、死を恐れることはありません。

 ですから、ダビデの心はいつも平安でいられたのですね。H兄は戦地を経験しておられますから、詩篇23篇のダビデの賛歌に、私のような戦後生まれには分からない、もっと大きな平安を感じていたのだろうなと思います。

 6月23日の午後に私が朗読した詩篇23篇がH兄の耳にどれくらい届いたかは分かりませんが、H兄は平安のうちに静かに天の御国へと旅立つ準備に入っていました。H兄の呼吸は既に浅くなっていて、その間隔も段々と開いていきました。そして一時的に呼吸が止まっては、また呼吸し始めるということを何度も繰り返しながら、最期は二度と呼吸をしなくなりました。

 このH兄が天の御国へと旅立つ準備をしている時、先ほども言ったようにイエスさまが天から降りて来て、その場にいて下さっていることを私は感じていました。そうしてイエスさまはH兄を伴って、永遠の世界の<天の御国>へと昇って行かれました。

 次にヨハネの福音書10章の27節から、ご一緒に見て行きたいと思います。これはイエス・キリストがおっしゃっていることばです。27節、

10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。

 イエスさまは羊飼いです。イエスさまは天の父である神様と同じように羊飼いです。それは30節でイエスさまが「わたしと父とは一つです」とおっしゃっているように、イエスさまと天の父とは一つだからです。H兄は羊飼いであるイエスさまを信じて、イエスさまに付いていき、教会生活を送りました。続いて28節、

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。

 イエス・キリストを信じる者には永遠のいのちが与えられます。そうして永遠のいのちが与えられた者は、決して滅びることがありません。「永遠のいのち」というのは、1億年経っても百億年経っても死なない、ということではありません。いつまでも死なないのではなく、そもそも、「いつ」までという「時間」が無い世界が永遠でしょう。1分とか1時間とか1日・1年というような時間が無い世界に行くことが永遠の命を得るということでしょう。

 この時間の無い世界のことは、分かりづらいことかもしれませんが、今回H兄が、とても分かりやすく教えて下さいました。H兄の1分当たりの呼吸数は段々と少なくなって行き、最期は1分当たりゼロ回になりました。そうしてH兄は時間のない世界へと入って行きました。

 私たちは地上に生きている限りは時間に支配されています。呼吸数は1分間に何回とか、脈拍数も1分間に何回とかで計ります。自動車は時速何十kmで走りなさいと道路標識に書いてあります。また、きょうの前夜式は午後6時から始まりますとか、とにかく私たちの生活のほとんどすべては時間に支配されています。

 しかし、永遠の世界は時間に支配されていません。永遠のいのちを得て永遠の世界へ行くとは、この時間の支配から解放されて、時間の無い世界に行くということです。1分間に何回とか1時間に何キロとかとは全然関係のない世界に行くことです。

 そういう世界へ行けば、28節にあるように、決して滅びることはありません。誰もその人をイエスさまの手から奪い去りはしません。この「奪い去る」誰かというのは、どういう人でしょうか?分かりやすい例で言えば、例えば「神様なんかいない」とか、「天国なんてない」などと言う人でしょう。そういう人の話を聞いて、「そうか、神様なんかいないんだ」と思ってしまったら、それはイエスさまの手から奪い去られたことになります。でも羊飼いであるイエスさまとしっかりとつながるなら、決して奪い去られることはありません。

 H兄の病室では6月23日の午後2時40分過ぎから死亡診断がなされて、2時45分に死亡が確定しました。ただし、この2時45分というのはこの地上での時間であり、H兄はイエスさまと一緒に時間の無い「永遠」の世界へと旅立って行きました。

 この死亡診断が為されてお医者さんたちが病室を一旦出てから、私はもう一度H兄のベッドの横で詩篇23篇を病室で朗読させていただきました。そうして、H兄が天の御国のイエスさまのもとで憩っている姿を感じました。

 ですから、H兄に関しては何の心配もすることはありません。でもご遺族は悲しみの中にあります。ご遺族への天からの豊かな慰めをお祈りしていたいと思います。

 お祈りいたします。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
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心を貧しくして周囲へ送るエール(2020.6.21 礼拝)

2020-06-22 09:31:42 | 礼拝メッセージ
2020年6月21日礼拝メッセージ
『心を貧しくして周囲へ送るエール』
【マタイ5:1~4】

はじめに
 きょうの聖書箇所の中にあるマタイ5:3のみことばは、きょうの招きの詞でもあります。両方を重ねることは普段あまりしていませんが、きょうは重ねました。それは、このところ、この聖句がとても心に通っているからです。

 きょうは、このマタイ5:3の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」をご一緒にじっくりと味わってみたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めます(週報p.2)。

 ①心が貧しいとはどういうことか?
 ②宣教開始前の「イエスの信仰」に思いを巡らす
 ③心の貧しいイエスさまが弱者に送るエール
 ④心を貧しくして周囲へ送るエール

①心が貧しいとはどういうことか?
 マタイ5:3がどうして心に通っているのか、それは実は最近まで「心が貧しい」とはどういうことかについて、私の中でなかなかイメージできないでいて、それがようやくイメージできるようになったからです。

 どうしてイメージできないでいたのか、それは多分、「心は豊かであるべきだ」という思い込みに縛られていたからだと思います。私たちは子供の頃から、「心が豊かになるための教育」を受けて来ました。音楽や美術、文学の名作とされるものをたくさん鑑賞することで心が豊かになると教育されて、自分でもそうであろうと信じて、人並み程度には音楽を聴き、古典的な名作と呼ばれる本を読みました。美術の鑑賞はそれほどしませんでしたが、たまには美術館に足を運んだりもしました。それは心が豊かな人間になりたいと思ったからだと思います。

 音楽や美術、文学にたくさん触れることは、決して間違ったことではありません。でも、このことが「心の貧しい者は幸いです」の理解を妨げていたことは確かだと思います。「心は豊かであるべきだ」という考えにずっと支配されていましたから、イエスさまのおっしゃる「心の貧しい者は幸いです」がなかなか理解できないでいました。

 それが、なぜ最近になって分かるようになったかというと、それはY兄が「心の貧しい者」というのはどういう者かを、身をもって見せて下さったからです。

 Y兄は口から食べ物が食べられなくなって以降は腸から栄養剤を入れながら、少しずつやせ細って行きました。そうして体が力を失う中で心からも余計な力が抜けていき、きよめられて行って、最期はとても穏やかな顔で天に召されて行きました。それはイースターから40日目のイエスさまの昇天日のことでした。

 ですからY兄はイエスさまに伴われて一緒に天に昇って行きました。まさに「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」をそのまま言い表しているような最期です。この世の様々な罪や重荷から解放されて本当に心が空っぽになった者、それが「心の貧しい者」であるとY兄が示して下さいました。
 
②宣教開始前のイエスの信仰に思いを巡らす
 マタイ5:3が以前よりも理解できるようになったことで、私は宣教開始前のイエスさまについても少しずつ思いを巡らすことができるようになりました。宣教開始前のイエスさまについて書かれているのは赤ちゃん時代を除けば12歳の時の出来事だけです。

 イエスさまが12歳の時の過越の祭りの時、イエスさまは両親や親族と共にナザレからエルサレムに上りました。そして、祭りの期間を過ぎて帰る途中、両親はイエスさまがいないことに気付きました。一緒にナザレに帰る一行の中にいると思っていたら、いなかったのですね。その時、イエスさまはまだエルサレムの宮の中にいて、教師たちの真ん中に座って話を聞いたり質問したりしていました。聞いていた人たちはみな、イエスさまの知恵と答えに驚いていたとルカの福音書にはあります(2:47)。それで母のマリアはイエスさまに言いました。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」その時イエスさまの答えた言葉がルカ2:49です(週報p.2)。

ルカ2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

 この12歳のイエスさまの言葉は、ちょっと生意気な感じがしないでもありません。ですから、少年時代のイエスさまはもしかしたら、いじめられっ子じゃなかっただろうかという気がします。創世記のヤコブの息子のヨセフも少年時代は生意気でしたね。それゆえ兄たちに疎まれて、ヨセフは商人に売り飛ばされてエジプトに連れて行かれてしまいました。そしてヨセフは監獄に入れられるなどの大変な苦難の中を通ります。しかし、その苦労がヨセフの人格を磨いたのでしょう。ヨセフはエジプトの王のファラオに次ぐ第二の地位に就いて国の政治を任されるようになりました。

 イエスさまも、もしかしたら兄たちにいじめられたり、近所の子供たちにいじめられたりしたかもしれません。それをどういう風に克服していったのか、今まで私はそのことに思いを巡らす手がかりを持ちませんでした。というより、イエスさまも兄たちにいじめられていたかもしれないという想像すら、したことはありませんでした。しかしマタイ5:3が心に通うようになってから、若い頃のイエスさまは心を貧しくすることを学びながら、ご自身の心の問題を克服して行ったのではないか、そんな風に思えて来ました。

 それが「山上の説教」の第一声の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」となって表れたのではないか、そんな風に思えて来ました。

 およそ30歳で宣教を開始したばかりの頃、故郷のガリラヤの人々はイエスさまのことを「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。父のヨセフはイエスさまが生まれた時、ベツレヘムの宿屋に泊まれませんでした。それは貧しかったからでしょう。貧しい家庭では十分な教育を受けられず、字が読めない人も多かったでしょう。そういう貧しい家庭で育ったイエスさまがイザヤ書の巻物を読み、学のある宗教者の雰囲気を漂わせていたことに人々は驚きました。それはイエスさまが心を貧しくすることができたゆえに聖霊に満たされていたからではないでしょうか。

 10代から20代に掛けてのもっと若かった頃のイエスさまは、心を貧しくすることがなかなかできないでいたかもしれません。イエスさまは少年時代から、ご自身が神の子であることを知っていました。神の子であるのに、兄たちや近所の子供たちにいじめられることに心を悩ませていたかもしれません。しかし、心を貧しくし、心を空っぽにして天の父にすべてを委ねていくことを次第に覚えて、克服していったのではないかと思います。

 自分は神の子なのに、どうして馬鹿にされたりいじめられたりしなければならないのか、「どうして?なぜ?」と思っている間は苦悩から抜け出すことはできなかったでしょう。しかし心を空っぽにして心を貧しくすることで天の父にすべてを委ねることができるようになって、心を乱すことなく平安でいられるようになったのではないでしょうか。イエスさまの信仰は、このようにして育まれていったのではないでしょうか。先週の礼拝メッセージでは「イエス・キリストの信仰を我が信仰にする」というタイトルで話をしましたが、これが「イエス・キリストの信仰」だと言えるでしょう。

 Y兄も証ししていましたね。Y兄が長泉町にある県立がんセンターに入院していた時、相部屋の隣のベッドの人が夜中に「ちくちょう。どうしてこんなことになったんだ」と独り言を言って嘆いていたそうです。長泉は沼津の隣町ですから私も戸塚先生からY兄が県立がんセンターに入院していると聞いて、すぐにお見舞いに行きました。ですからY兄は正にその現場で、「そこの隣のベッドにいた人が、『ちくしょう。どうしてこんなことになったんだ』と言ってるのが夜中に聞こえたんだよね。でも自分には信仰があるから、ぜんぜんそんな風には思わなくて感謝だと思ってるんだよね」と私に話して下さいました。

 人は「どうして?なぜ?」と思っている間は、なかなか心の平安を得られません。いま思うと、Y兄は自分ががんの末期であると分かっても、「どうして?なぜ?」と問うことをしないで、すべてを御手に委ねることができていたんだなと思います。心を貧しくし、空っぽにして主の御手に委ねていたから、平安でいられたのだろうと思います。

③心の貧しいイエスさまが弱者に送るエール
 私たちは単に信仰を持つだけでは、なかなか平安を得ることができません。やはり心を空っぽにして主の御手に委ねることを覚える必要があります。Y兄はいろいろ苦労する中で、その術を身に付けていったのだろうと思います。

 ヤコブの息子のヨセフも、エジプトで監獄に入れられて監禁されるという大変な苦難の中を通りました。この苦難がヨセフの人格を練り上げて、後にNo.2の地位に就くことにつながったことは間違いないでしょう。単に主に祝福されているだけでは、用いられる人物へと成長することはなかっただろうと思います。

 使徒パウロもまた、多くの苦難の中を通りました。パウロがローマ人への手紙5章3節から5節に書いたことは、自身の体験を綴ったものでしょう(週報p.2)。

5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ヨセフやパウロと同じように、30歳になるまでのイエスさまもまた、苦難の中を通ったのだろうと思います。それがマタイ5章からの「山上の説教」へと結実して行ったのだと思います。その「山上の説教」の第一声が3節の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」です。イエスさまご自身もまた、苦難を通る中で「自分は神の子なのに、なぜ、どうしてこんな目に遭わなければならないのか?」と問うことを止めて、心を貧しくすることを覚えていったのだろうと思います。

 そう考えると、マタイ5章からの「山上の説教」は、心の貧しいイエスさまから弱い私たちへの応援、エールとも言えるでしょう。いまNHKの朝ドラでは『エール』を放送中ですね。新型コロナウイルスのために撮影ができなくなったために、6月29日からは放送が中断するそうですが、今はまだ放送が続いています。

 朝ドラの『エール』の主人公は、作曲家の古関裕而がモデルです。古関裕而は人を元気にする曲をたくさん作りました。NHKのスポーツ中継の始まりに使われていた「スポーツショー行進曲」、夏の高校野球の時に毎年必ず歌われる「栄冠は君に輝く」、また大阪(阪神)タイガースの応援歌の「六甲おろし」も古関裕而が作曲した曲だそうです。その古関裕而の曲の「一つの集大成」とも言える曲が「オリンピック・マーチ」でしょう。これは1964年の東京オリンピックの開会式の各国選手団の入場行進のために作られた曲です。とても元気が出る行進曲です。だから『エール』です。

 イエスさまの「山上の説教」も弱い人々へのエールと言えるでしょう。弱い私たちにとって天の父である神様の大きな愛に包まれることが何よりの励ましになります。「山上の説教」を「お説教」として聞くのではなく、「励まし」として聞くことで、大きな慰めと深い平安を得ることができると思います。

 その慰めと平安を得るために、イエスさまも若い頃には随分と苦労したのだろうと思いを巡らすことは、有意義だろうと思います。「イエスさまは神の子なのだから、ぜんぜん苦労しなかっただろう」と思うのは大きな間違いで、神の子であったからこそ、「どうして?なぜ?」と思いたくなるような苦難の中を通ったのだろうと思います。

④イエスさまに心を寄せて周囲へ送るエール
 私たちはこの、弱い人々にエールを送るイエスさまに心を寄せたいと思います。イエスさまは、先ずはご自身が心を貧しくして空っぽになりました。それゆえイエスさまは聖霊に満たされて天の父から大きな力を受けました。そうして聖霊の力を受けたイエスさまは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と言って弱い人々を励ましました。また「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と言って悲しむ者を慰め、励ましました。

 弱い私たちも、イエスさまによって慰め、励まされて来ました。ですから、私たちもまた、イエスさまのように周囲の方々を慰め、励ますことができるようになりたいと思います。そのためにすべきことは専ら、心を貧しくして、空っぽになることでしょう。私たちは頑張る必要はないのだと思います。ただひたすら空っぽになれば良いのだと思います。

 Y兄も、空っぽになっていくことで深い平安が得られることを私たちに示して下さり、私たちを励まして下さいました。ですから、私たちも心を貧しくして空っぽになることで、自ずと周囲の方々を励ますことができるようになるのだと思います。

 イエスさまはヨハネの福音書7章38節でおっしゃいました(週報p.2)。
 
7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 生ける水の川とは聖霊のことです。私たちが心を貧しくして空っぽになって、すべてを主の御手に委ねるなら、私たちは聖霊に満たされて、そうして私たちの心の奥底から聖霊が溢れ出て、周囲の方々を励ますことができるようになるでしょう。

おわりに
 最近、教会の玄関の横に置いてあるプランターやポットの花に、そして駐車場の方に咲いているコスモスに、蝶々が飛んで来るようになりました。モンシロチョウやシジミチョウです。何だかとてもうれしいです。チョウの姿に元気をもらい、励まされました。チョウたちは別に私を励まそうと思って来ているわけではありません。ただ無心に花の蜜を求めて飛んでいるだけです。でも、その無心に飛んでいる姿が見る者に平安を与え、励ましを与えてくれます。

 緊急事態宣言が解除されて学校に生徒たちが戻ったことで、静商の高校生たちの部活も再開されました。私は夕刻にはなるべく安倍川の河川敷を走るようにしていますから、野球部やサッカー部の生徒たちが練習している様子が目に入って来ます。彼らが無心でボールを追っている姿を見ていると、見ているこちらも励まされます。チョウチョと同じですね。無心で何かに取り組んでいる姿には、人を励ます力があります。無言のエールですね。言葉や音楽も人を励ましますが、何かに黙々と取り組んでいる人の姿も見る者に励ましを与えます。

 ですから私たちも、今はただ天の父とイエスさまのことだけを思って、心を空っぽにして賛美し礼拝していれば良いのだと思います。そうすれば自ずと私たちの心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるでしょう。特に今はコロナウイルスの関係で積極的な伝道ができませんから、無心で賛美し礼拝していれば良いのだと思います。

 心を貧しくして、いろいろな思い煩いから自由になって、すべてを主の御手に委ねることができるようになりたいと思います。

 イエスさまが「山上の説教」の第一声で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」とおっしゃったことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」
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イエス・キリストの信仰を我が信仰にする(2020.6.14 礼拝)

2020-06-16 06:01:50 | 礼拝メッセージ
2020年6月14日礼拝メッセージ
『イエス・キリストの信仰を我が信仰にする』
【マルコ1:35(招詞)、マタイ6:5~15(交読)、ローマ3:21~24】

はじめに
 コロナ後の教会の歩みはどのようにあるべきか、お一人お一人が神様の語り掛けに耳を傾けてみていただきたいと、ここ何週間かお勧めをして来ました。それはお一人お一人に与えられている賜物が違うからです。ただし、お忙しい皆さんにとっては、心を整えて神様の語り掛けにじっくりと耳を傾ける時間を十分に取ることは難しいかもしれません。

 きょうは牧師の私が、ここ2~3ヵ月の間に語り掛けられていることを話して分かち合いたいと思います。始めはとてもボンヤリしたものでしたが、次第にハッキリとして来たと感じていますから、説教の形にすることで一層ハッキリさせてみたいという意味でも、きょう話をさせていただきます。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①父に祈るイエスさまに心を寄せる
 ②信仰の模範者であるイエス・キリスト
 ③「イエスを信じる信仰」か「イエスの信仰(真実)」か
 ④イエス・キリストの信仰を我が信仰にする

①父に祈るイエスさまに心を寄せる
 きょうの招きの詞はマルコ1:35としました。このマルコ1:35は静岡聖会や林間聖会など、泊まり掛けの聖会の朝の早天祈祷会などで良く開かれる箇所ですね。マルコ1:35、

マルコ1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。

 イエスさまは朝早く起きて、寂しいところで祈っていました。「寂しいところ」とは、静かな場所のことです。祈る時には静かな場所で祈るほうが良いことは言うまでもありませんね。騒々しい場所では祈りに集中できません。

 私が朝起きて静かに祈る場所は2階の応接室です。悩みが深い時や主の語り掛けを格別に欲している時などにはこの1階に降りて来て、会衆席で祈ることもあります。忙しい時には居室で短く祈って仕事に取り掛かることもあります。しかし、それ以外の時は応接室で祈ります。

 この教会の前の<さつま通り>は日中は交通量が多いですが、深夜から明け方に掛けてはほとんど車が通らず、とても静かです。ですから、この田町の会堂の朝は祈るにはとても良い環境だと思います。静かな部屋の中に身を置いていると、時計の秒針の音が1秒ごとにカタッ、カタッと動くのさえ聞こえます。この秒針の音が気になるので、私は応接室の時計を廊下に出してしまいました。

 2階の奥にある私の居室にも秒針が進む音がする時計がありました。私は夜中に目覚めた時に布団の中で聖書のこと、神様のことに思いを巡らすのも好きですから、居室の時計も別の部屋に移しました。そうして、とても静かな部屋で祈っていると、神様との豊かな交わりを感じることができます。イエスさまのように寂しいところ、すなわち静かな場所で祈ることはとても大切なことです。

 さて、イエスさまは天の御父にお祈りをしていました。この、天の御父に祈るイエスさまに心を寄せたいと思います。イエスさまは元々天の父のみもとにいましたが、ヨセフとマリアの子供として地上で生まれて天の父とは離れ離れになりました。しかし、イエスさまは祈ることでいつも天の父とのつながりを保っていました。特に約30歳でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けて聖霊が降ってからは、いっそう天の父との関係が強固になりました。

 ですから地上にいる私たちも祈り、そしてイエスさまを信じて聖霊を受けることで天の父との強いつながりを持つことができます。イエスさまはこのことをご自身で模範的に示して下さいました。ヨハネは第一の手紙の冒頭の1章1節から3節までで書きました(週報p.2)。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
1:2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 2節にあるように、御子は御父と共にありました。そうしてヨハネは、この御父と御子の交わりに私たちを招いています。

 私たちも聖霊を受けて、この御父と御子の交わりに入れていただくなら、地上にいた時のイエスさまが天の御父との強固な関係を保っていたように、私たちもまた天の御父との強固な関係を持つことができます。

②信仰の模範者であるイエス・キリスト
 このように、いつも天の父に祈っていたイエスさまは、弟子たちに信仰について教える時も、天の父を中心に置いて教えていました。例えば、マタイ5~7章の「山上の説教」の中の5章16節でイエスさまはおっしゃいました。

マタイ5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。


 天の父はあがめられるべきお方です。現代の私たちの周囲を見ると天の父は少しもあがめられていません。私たちはこの天の父があがめられる働きをしなければなりません。ですから私たちが良い行いをすべきなのは、私たちが称賛されるためでも、イエスさまが称賛されるためでもなく、天の父があがめられるためなのですね。

 このマタイ5~7章の「山上の説教」には「父」という言葉が何度も出てきます。すべて見る時間はありませんから、少し飛ばして次は6章の3節と4節を見ます。

6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 天の父はいつも私たちを見ています。私たちの行動が他人から称賛されるための表面的な行動なのか、或いは隣人を愛したいという心の奥底からの行動なのか、天の父はすべて見ておられます。イエスさまは、こういう基本的なことを弟子たちに教えました。

 また6節では、

6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

とおっしゃいました。誰も見ていない所で祈ることは、マルコ1:35で見たようにイエスさまも寂しい所で祈っていましたから、イエスさまの信仰は模範的な信仰です。

 そしてイエスさまは弟子たちに「主の祈り」を教えました。9節、

6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。

 祈る時には、まず天の父に呼び掛けるようにと、イエスさまは教えて下さいました。ですから、私たちはお祈りする時にはいつも天の父への呼び掛けから始めます。このようにしてイエスさまは、ご自身の父への信仰を模範として、私たちに信仰のイロハを教えて下さいました。

 きょうの説教のタイトルは「イエス・キリストの信仰を我が信仰にする」です。私たちはイエスさまの信仰を模範として、イエスさまの信仰を自分の信仰にしたいと思います。イエスさまの信仰とは寂しい所で天の父に祈る信仰であり、父をあがめる信仰であり、「山上の説教」でイエスさまが教えて下さった信仰であり、そして最後には父の御心に従って十字架に付いた従順な信仰です。イエスさまはできれば十字架に付きたくはありませんでした。しかし十字架に付くことが御心であるがゆえに従順に父の御心に従いました。

③「イエスを信じる信仰」か「イエスの信仰(真実)」か
 ここまでイエスさまの信仰について話して来ました。この「イエスさまの信仰」或いは「イエス・キリストの信仰」という言葉は聞き慣れない言葉かもしれません。しかし、ここまで話したようにイエスさまが寂しい所で御父に祈っている姿を思い、そして御父の御心にイエスさまが従順に従った十字架の姿を想像するなら、「イエス・キリストの信仰」は決して違和感を覚えるような言葉ではないと思います。

 そして、実はもしかしたらパウロもローマ人へ宛てた手紙の中で(3:22)、そしてガラテヤ人へ宛てた手紙の中で(2:16)、この言葉を使っている可能性もあります。「使っている可能性もある」と言ったのは、新改訳聖書では「イエス・キリストの信仰」という訳し方を採用していないからです。

 きょうの聖書箇所のローマ人への手紙3章の中の22節を見てみましょう。3章22節、

ローマ3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。

 ここでパウロは、「イエス・キリストを信じることによって」、信じるすべての人に神の義が与えられると書いています。実はこれは新改訳聖書が採用している訳し方であって、22節の下の注を見ると、別訳として「イエス・キリストの真実によって」という訳し方もあることが示されています。しかし実はこの第二の訳の他にも第三の訳があります。この注には書かれていませんが、この第三のパートの表題にも書いた「イエス・キリストの信仰」です。

 元のギリシャ語がどうなっているのかという細かい話は、きょうはしませんが、このローマ3:22の訳し方を巡っては異なる見解があるということはお伝えしておきたいと思います。そして私自身は第三の訳の「イエス・キリストの信仰によって」にかなり魅力を感じています。つまり、十字架に付いたイエスさまの信仰によって私たちに神の義が与えられたという解釈です。私がイエスさまを信じるから私に神の義が与えられるのでなく、十字架に付いたイエスさまの従順な信仰のゆえに私に神の義が与えられるという解釈です。私が信じるからでなく、イエスさまが信じるから神の義が与えられます。もちろん私はイエスさまを信じますが、それ以前にイエスさまの信仰があったからこそ私は救われました。私の信仰以前に、イエスさまの信仰がありました。

 いずれにしても、私は聖書学の専門家ではありませんし、ギリシャ語にも詳しくありませんから、このローマ3:22の訳し方については、これ以上言及しないことにします。

 では、なぜ今日、「イエス・キリストの信仰」という考え方をお示ししたかというと、それは、この「イエス・キリストの信仰」という考え方が、これからキリスト教と出会う方々にとっては、この方がアプローチし易いように感じるからです。さらには、これからキリスト教に出会う方々だけではなく、既に信仰を持っている私たちにとっても信仰を深めるための良い指針になると思うからです。

④イエス・キリストの信仰を我が信仰にする
 良い例えかどうかは分かりませんが、イエスさまの代わりに例えば国民栄誉賞を受賞したような、その分野のレジェンドのような人のことを考えてみましょう。国民栄誉賞第1号の王貞治さんとか、最近で言えば将棋の羽生善治さんやフィギュアスケートの羽生結弦さんなどです。

 誰を例にしても良いですが、王さんについて考えてみましょう。王さんは人格的にも優れた面を持っている方だと思いますが、私たちは先ず王さん自身ではなく王さんの野球に注目するでしょう。王さんはバッターとして優れていただけでなく一塁手としての守備でも優れていました。でも何と言っても王さんの魅力はホームランバッターとしての魅力ですね。王さんは血のにじむ努力をして一本足打法を自分のものにして行きました。

 そのように努力を積み重ねてホームランの世界記録を作った王さんですから、人格的に優れた面もあるでしょう。それで私たちは、まずは王さんの野球に注目し、次に王さんの人格に注目します。しかし王さんも人間ですから欠点もあります。ですから王さんの全人格が優れているというわけではないでしょう。それゆえ私たちは王さんの人格が優れていると認めつつも、全人格が優れた人だとは思わないでしょう。

 では次にイエスさまについて考えてみましょう。イエスさまは罪のないお方です。そして、クリスチャンはイエスさまの全人格が優れていると信じています。それはそれで良いのですが、イエスさまの人格から入ってしまうことで、イエスさまの信仰について考えることが疎かになってはいないでしょうか?

 王さんの場合には、まず王さんの野球に注目しました。同様に、イエスさまの場合にも、まずはイエスさまの信仰から注目したほうが良いのではないでしょうか?そのほうが私たちもイエスさまの信仰についての学びが深まり、私たちの信仰も深まるのではないでしょうか?私たちは周囲の方々にイエスさまと出会っていただきたいと願って、イエスさまについて話をしますが、その場合でもイエスさまの信仰についての話から始めたほうが良いのではないでしょうか?

 例えば、私が羽生結弦さんの大ファンだったとして、他の人にも羽生さんを好きになって欲しいと思っていたとします(あくまで例えばの話です)。その時、「羽生君ってすごいんだよ~」と言って、羽生さんの人格面の魅力を一生懸命に人に話すでしょうか?もし私が羽生さんの人格面の魅力ばかりを一生懸命話したら、聞いている人はきっと引いてしまうでしょう。引くだけならまだしも、もう二度と話を聞きたくないとまで思わせてしまうかもしれません。ですから、もし私が他の人に羽生さんを好きになって欲しいと思ったら、羽生さんのスケート技術がいかに優れているか、そもそもフィギュアスケートとはどのようなスポーツで、羽生さんのフィギュアスケートのテクニックがいかに優れているかについて話すでしょう。まずは羽生さんのスケートについて語るでしょう。この羽生さんのスケートがイエスさまの信仰に相当します。

 3月31日に急死した映画監督の佐々部清さんは長所も短所もある、人間的な魅力に溢れた方でした。だからと言って私が佐々部監督について語る場合には、まずは佐々部監督の映画から話を始めます。佐々部監督がどんなに魅力的な人であったとしても、佐々部監督に会ったことがない人にその魅力はなかなか伝わらないでしょう。しかし、佐々部監督の映画はDVDでいつでも観ることができます。ですから、まずは佐々部監督の映画から話を始めます。

 同様に、イエスさまをまだ知らない方にイエスさまをお伝えする場合にも、イエスさまの魅力について話すより、まずはイエスさまの信仰について話をすべきだと思います。イエスさまは短所がないお方ですから、イエスさまの魅力から話を始めたくなるかもしれません。しかし私たちはまず、イエスさまの信仰から話を始めるべきでしょう。そのためには、私たちはイエスさまの信仰について、もっと深く知る必要があると思います。そして、きょうのタイトルのように「イエス・キリストの信仰を我が信仰とする」必要があると思います。

おわりに
 最後に、きょうの話を簡単に振り返ります。

 私たちはイエスさまに魅力を感じ、イエスさまのことを周囲の方々にお伝えします。しかし、なかなか伝わらずにいて、もどかしく思うことが多くあります。もしかしてそれは、王貞治さんや羽生結弦さんの人間的な魅力を語ろうとしているようなものかもしれません。

 王さんや羽生さんにあまり興味がない方に王さんと羽生さんの人間面の魅力を語っても、引かれるばかりでしょう。まずは王さんの野球、羽生さんのスケートについて語るべきでしょう。

 同様に、私たちがイエスさまを周囲の方々にお伝えする場合にも、まずはイエスさまの信仰を語るべきです。イエスさまは寂しいところで天の父に祈りました。そして「山上の説教」で、天の父への信仰について話し、天の父への祈り方について弟子たちに話しました。そうして最後は天の父の御心に従順に従って十字架に付きました。

 このイエスさまの信仰について私たちはもっと理解を深めて、このイエスさまの信仰を自分の信仰にしたいと思います。そのようにして、御父と御子との交わりに入れていただきたいと思います。そうすれば、イエスさまの魅力も自ずと周囲の方々に伝わって行くことでしょう。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

1:35 さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。
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空っぽの私に現れて下さるイエスさま(2020.6.7 礼拝)

2020-06-08 06:32:02 | 礼拝メッセージ
2020年6月7日礼拝メッセージ
『空っぽの私に現れて下さるイエスさま』
【Ⅱコリント12:9(招詞)、マタイ5:1~16(交読)、ヨハネ21:1~6(朗読)】

はじめに
 Y兄が天に召されてから早いもので半月以上が経ちました。あまり日が経たないうちに、Y兄のご葬儀で私がいただいた恵みについて分かち合っておきたいと思います。

 キリスト教はすごいなあと思います。葬儀も礼拝の形式で行いますから葬儀自体が恵みです。ご遺族は深い悲しみの中にありますが、その悲しみを主が豊かに慰めて下さいます。イエスさまがマタイ5:4で「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」とおっしゃる通りです。

 生まれた時から死ぬ時まで、私たちの人生のすべてが主の御手の内にあります。喜びの時も悲しみの時も、主が共にいて下さり、共に喜び、共に悲しみ、慰めと励ましを与えて下さいます。このことを幼い頃から聖書を通して知っている人もいれば、私のように人生の後半に入ってから知る者もいますし、天に召される直前に知る方もいます。人それぞれですが、日本人の多くは一生この恵みを知りません。それは、とても残念なことだと思います。

 きょうは次の四つのパートでイエスさまが与えて下さる恵みを分かち合いたいと思います。

 ①弱さの極みの中でイエスさまと昇天したY兄
 ②弱さの中で響くイエスさまのことば
 ③空っぽの私に現れて下さるイエスさま
 ④あなたはイエスさまを愛していますか?

①弱さの極みの中でイエスさまと昇天したY兄
 Yさんは1年以上の闘病生活の中でゆっくりと体力が落ちて行きました。去年の夏頃でしたか、「重い物がだんだん持てなくなって来たんだよね」とおっしゃっていましたが、足腰はしっかりしていました。

 10月5日の娘さんの結婚式の時にも、バージンロードをしっかりと歩いていました。結婚式の準備の相談を始めた頃、5月の末頃だったと思いますが、10月まで花嫁の父は大丈夫なのだろうか?と心配しましたが、守られていました。そればかりでなく、披露宴の会場でもYさんは出席者のテーブルへ飲み物を注いで回って多くの時間、立ち話をしていました。

 しかし胃腸の働きが弱って行く中で足腰も弱って行き、4月5日を最後に礼拝出席も叶わなくなりました。5月に何度かご自宅を訪問させていただきましたが、とても弱っておられました。そうして5月21日に天に召されました。その日、娘さんの真理さんから天に召されたという連絡を受けて、ともかくもご自宅に駆け付け、「臨終の祈り」をさせていただきました。Yさんの頭に手を置いてお祈りさせていただきましたが、お顔がとても穏やかであったことに感銘を受けました。体はすっかりやせ細っていましたが、とても平安な表情でした。

 そうして、死亡診断時刻をメモしようとクリスチャン手帳を開いた時に、その日がイースターから40日目のイエスさまの昇天日であったと気付き、だからあんなに穏やかな顔をしていたのだなと思い、すごいなあと思いました。天に昇るYさんにイエスさまがずっと伴って下さっていたんだなと思い、大きな慰めと平安をいただきました。

 2週間前の5月24日の礼拝の後、昼過ぎからここで葬儀会場の設営が行われて、たくさんのお花が飾られ、そうして納棺式を行いました。体格が良かったY兄でしたが、すっかり軽くなっていましたから、お体を難なく棺に移すことができました。

 このように極限までやせ細って弱くなったY兄をご葬儀で見送った後、私自身も体力を使い果たして一時的に弱くなっていました。そして、主はこのことを通して多くのことを教えて下さいました。

②弱さの中で響くイエスさまのことば
 皆さんの多くは、弱さの中でみことばに慰められ、励まされて力をいただいたという経験をお持ちだろうと思います。私自身もそういう経験を何度かして来ました。特に沼津教会を閉じるに当っては、多くの慰めをいただきました。

 教団から、沼津教会が他の教会と合流する案を示された時に、いろいろ納得できない点がありました。きょうはライブ配信もしていますから細かい事情は話しませんが、あまり差し障りがないであろう話を一つだけすると、沼津からは数年前に20代の若い献身者を送り出していました。神学校に在学中は祈りと共に金銭面でのサポートもして、学びを支援しました。そして、その方は教団の牧師になりました。静岡教会にも来て証しをしたことがある方ですから、皆さんもご存じでしょう。

 教団が教会の数を減らさざるを得ないのは牧師が足りないからです。教会から献身者が出ないから牧師不足になっているのに、わずか数年前に献身者を送り出した沼津教会が削減の対象になることには全く納得できませんでした。その他にも、ここでは話せない様々なことがあって何とか沼津を守りたいと頑張りましたが、最終的には従うことにしました。頑張ることを諦めた時、私は本当にガックリきました。

 しかし、そのガックリしている私を神様はみことばで慰めて下さいました。それがイザヤ書40章1節と、マタイ11章28節です(週報p.2)。

イザヤ40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。(第3版)

マタイ11:28 「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 この二つのみことばから、私は豊かな慰めをいただきました。そして今回、すっかり弱くなって天に昇ったY兄を見送り、私自身も体力を使い果たして疲れていた時に、イエスさまの山上の説教が心に通い、マタイ5:4の「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」と共に5:9の「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」もまた心に響いて来ました。

 「平和をつくる」というと平和運動のように頑張って平和を作るイメージがありましたが、すべてを主にお委ねした弱い者こそが平和を作る者ではないか、そんな風に示されました。そしてさらに、今まで、あまり共感できないでいたマタイ5:39のイエスさまの言葉の「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」も共感できるようになりました。

 このマタイ5:39のみことばは聖書を読んだことがない日本人の間でも、とても有名ですね。「右の頬を打つ者に左の頬を向けることなんて絶対にできないから、自分はクリスチャンにはなれないよ」と誤解している人も多くいるようです。自分の右の頬を打たれたら左の頬を向けることができる人しかクリスチャンになれないとしたら、私たちのほとんどはクリスチャンになれないでしょうね。私もできません。しかし今回、弱いYさんがイエスさまに伴われて天に昇ったことを私自身も弱っている中で思い巡らしている時に、十字架に掛かった弱いイエスさまが心に通って来て、このみことばに共感できると感じました。

 葬儀を行うことが牧師にとってどれほど過酷なことなのか、私は神学生の時に実習で派遣された教会で目の当たりにしていました。2年生の時に派遣されていたA教会では、中心メンバーの一人として働いていた信徒の方が、突然天に召されて、私も葬儀のお手伝いに行きました。前夜式の直前、ガウンを着た牧師先生が控えの部屋で軽食を食べていましたが、目がうつろで疲れている様子がありありと見て取れました。ガウンは牧師の勝負服ですから、どんなに疲れていてもガウンを着たらシャキッとするはずです。しかし先生は放心状態で力無く軽食を口にしていました。それで側にいた当時中学生の娘さんが、とても心配そうにしていました。

 3年生の時に派遣されていたB教会でお手伝いした葬儀では、今回のY兄の時と同じように礼拝と同じ日に前夜式を行うというものでした。その場合、牧師は日曜日の朝までに礼拝の説教と前夜式の説教の両方の準備をする必要があります。これは本当に過酷です。その日の昼に、午前の礼拝を終えて控えの部屋に戻って来た牧師先生は、「礼拝の教会報告の時は半分意識が無かったよ」とおっしゃっていました。説教の時には意識があったけれど、報告の時は意識が朦朧としていたとのことでした。神学生だった私は、葬儀が牧師にとってそれほどまでに過酷なのだということをお二人の先生を通じて学びました。そして牧師になって実際に初めて葬儀を経験した時に、や~これは本当にきついなあと思いました。

 結婚式の場合は何か月も前から日程が決まっていて備えることができますが、葬儀の場合はいつその時が来るか分かりません。中でも一番大変なのが前夜式と告別式の説教を作ることです。召される日が近いと分かり備えられる場合は大体の説教内容を準備しますが、やはりいざ天に召されてご遺族の方と話をしていると、準備していた説教では使えないということになるんですね。今回のY兄の場合には、天に召されたのがイースターから40日目のイエスさまの昇天日だったということで大きな慰めと平安をいただきましたから、そのことを話すことにして一から説教を作り直しました。告別式の説教も、準備していたものとはぜんぜん違うものになりました。それらの説教作成を、礼拝の説教作成と合わせて行い、さらにプログラムの作成と印刷、そして礼拝の週報の作成と印刷も行う必要がありました。

 そうして、体力を消耗した弱い中で弱いYさんと弱い十字架のイエスさまを思った時、「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」も共感できるようになりました。これは、とても感謝なことでした。平和をつくる働きは、弱い者の働きなのだなと教えていただきました。

③空っぽの私に現れて下さるイエスさま
 きょうの礼拝の招きの詞の第二コリント12章9節です。パウロはコリントの教会への手紙でこのように書きました。

12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

 きょうのこれまでの話で、このパウロのことばの意味も十分に分かっていただけることと思います。Yさんが病気で弱っていく中でも平安でいられたのは、弱いYさんがキリストの力でおおわれていたからですね。1年以上もの期間に亘って徐々に少しずつ弱っていったYさんは、その分、キリストの力におおわれていったのでしょう。ですから私たちも弱さを誇りたいと思います。いろいろな心配事がありますが、すべてをイエスさまにお委ねして、自分の力に頼らずに、イエスさまの力に頼りたいと思います。

 そしてきょうはヨハネ21章も分かち合いたいと思います。イエスさまはヨハネ19章で十字架に掛かって死にましたが、復活して20章で弟子たちの前に現れました。そして21章には、弟子たちに3度目に現れた時のことが書かれています。場所はガリラヤのティベリア湖畔、すなわちガリラヤ湖のほとりでした。

 イエスさまはペテロに21章の後半で「わたしの子羊を飼いなさい」と言っていますから、21章の前半の段階ではペテロたちはまだ自分たちがこれから何をすべきかが分かっていなかったようです。それゆえでしょう、3節でペテロは「私は漁に行く」と言いました。ペテロはもともと漁師でした。これから自分が何をすべきか分からなかったために、ともかくも昔の漁師の仕事をしようと思ったのではないでしょうか。他の弟子たちも「私たちも漁に行く」と言って小舟に乗って湖に出ました。しかし、その夜は何も捕れませんでした。夜通し網を投げては引き上げ、投げては引き上げで、へとへとに疲れていたことでしょう。体はへとへとで網も空っぽ、しかも、これから何をして生きて行ったら良いのかも分からず、ペテロたちは何もかもが空っぽでした。

 しかし、イエスさまというお方は、私たちがそういう空っぽの状態である時にこそ、現れて下さるのですね。4節で現れたイエスさまは5節でおっしゃいました。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」。

 私たちが世の中のことで満ち足りている間はイエスさまは現れて下さいません。たとえ現れても気づくことができません。私たちは自分が空っぽの時にイエスさまに気付きます。放蕩息子が父親の財産を使い果たした時に我に返って父親を思い出したようにして、イエスさまに気付きます。
 
④あなたはイエスさまを愛していますか?
 ペテロたちの前に現れたイエスさまは15節でペテロに聞きました。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」

 ペテロは答えました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」そうしてイエスさまは、ペテロがこれからすべきことを彼に告げました。「わたしの子羊を飼いなさい。」

 さらにイエスさまは重ねて聞きました。16節、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」。ペテロは答えました。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスさまは彼に言われました。「わたしの羊を牧しなさい。」

 イエスさまは三度目もペテロに聞きました。17節、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」ペテロは、イエスさまが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスさまに言いました。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスさまは彼に言いました。「わたしの羊を飼いなさい」。

 もし、皆さんが「あなたはわたしを愛していますか?」とイエスさまに聞かれたら、何と答えるでしょうか?私なら、「はい、愛しています」だけかもしれません。ペテロはいつも一言多いような気がします。でも、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」とイエスさまに三度も繰り返し言えるのは、すごいことだなと思います。

 神学生になったばかりの頃の私は、「はい、愛しています」とは答えられても、「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」とは、なかなか言えないなと、思っていました。こう言えるほどイエスさまを愛しているとの自信はありませんでした。けれども、いつの間にか「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と自分でも言えると思えるようになっていました。

 もっと遡って、高津教会の一般の信徒だった時の私だったら、イエスさまに「あなたは私を愛していますか?」と聞かれたら、何と返事をしたら良いか、きっと戸惑ってしまったと思います。ですから、皆さんの中にも、何と答えたら良いか、戸惑う方もおられるかもしれません。

 「あなたはわたしを愛していますか?」と聞くイエスさまに「はい、愛しています。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と私も言えると思えるようになったのは、神学生になり、牧師になる過程でいろいろな物を手放すことを余儀なくされたからです。イエスさまの他に愛しているものをいろいろと抱えていると、イエスさまに自信を持って「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」とは言えません。しかし、献身していろいろな物を捨て去ると、自然と「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言えるようになります。

 いろいろな物を捨て去って空っぽになればなるほど、イエスさまの恵みをたくさん知ることができるようになりますから、自然と「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言えるようになります。

おわりに
 ですから、もし「はい、主よ」と答える自信が無い方がおられたら、少しでも良いですから、自分が抱え込んでいる何かをイエスさまに捧げたら良いだろうと思います。きょうのタイトルは「空っぽの私に現れて下さるイエスさま」としましたが、完全に空っぽにならなくても、少し手放すならイエスさまはその分だけ恵みを与えて下さいます。そうして、少しずつ空っぽになって行けば良いのだと思います。私もまだ完全に空っぽになったわけではありませんから、これからも少しずつ空っぽを目指したいと思います。

 5月21日にY兄は完全に空っぽになって平安のうちにイエスさまと一緒に天に昇りました。私たちも自分が抱え込んでいるものを少しずつ手放して、召される時にはYさんのような完全な平安をいただきたいと思います。そのことを思いながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

21:16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
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どうすれば「本来の自分」を取り戻せるか?(2020.5.31 ペンテコステ礼拝)

2020-06-01 13:53:25 | 礼拝メッセージ
2020年5月31日ペンテコステ礼拝メッセージ
『どうすれば「本来の自分」を取り戻せるか?』
【ガラテヤ2:20(招詞)、使徒2:1~4、36~47(交読)、9:15~22(朗読)】

はじめに
 きょうは五旬節、ペンテコステの日です。この日、ガリラヤ人の弟子たちと、ペテロの説教を聞いて心を刺されたユダヤ人たちに天から聖霊が注がれました。

 五旬節はイースターから7週間後の日曜日にあります。イースターを1日目とすると50日目に当りますから五旬節です。イエスさまは復活してから40日間地上に留まり、弟子たちに様々なことを教えました。そして40日目に天に上げられました。

 今年は4月12日がイースターでしたから、それから40日目の5月21日がイエスさまの昇天日でした。この同じ5月21日に横山望兄が天に召されました。イエスさまが望兄の召天に伴って下さったということを覚えて私たちは大きな慰めをいただきました。そして5月21日から10日後のきょう31日が五旬節の日です。

 きょうのペンテコステ礼拝のタイトルは『どうすれば「本来の自分」を取り戻せるか』としました。このことと聖霊を受けることとは密接に関係しています。このことを、次の四つのパートでこれから説明して行きます。

 ①自分にうっとりするナルシスト
 ②他人のためにゆったりと時間を使う『モモ』
 ③奥深い自分にゆっくり向き合えない現代人
 ④永遠のいのちに至る食べ物のために働く

①自分にうっとりするナルシスト
 きょうも『自己愛とエゴイズム』という本の内容の紹介から入って行きます。この『自己愛とエゴイズム』は来月原稿を送る教団の『つばさ』誌の「わたしの一冊」で紹介する予定の本です。この本が勧めているのは「奥深い自分の声に耳を傾けて、その声に忠実に生きる」ことで、まだ聖書を知らなかった頃にこの本に出会った私は、奥深い自分の声に忠実に生きることを少しずつ試すようになって教会へと導かれました。奥深い自分の声とは究極的には聖霊の声であり、それはすなわちイエスさまの声です。聖霊を受けなければイエスさまの声をはっきりと聞くことはできません。しかし、奥深い自分の声に耳を傾けることを心掛けるなら、たとえ聖霊を受けていなくても、先行的に与えられる恵みによってイエスさまの導きの声がぼんやりと聞こえるようになります。

 先週は、この『自己愛とエゴイズム』が最初に取り上げているカミュの『転落』という小説を紹介しました。この『転落』の主人公は、かつてはパリで活躍する有能な弁護士でした。彼は弱い人を助け、お金の無い人には無料で弁護を引き受けるなどの善い行いをしていました。

 『自己愛とエゴイズム』の著者のハビエル・ガラルダ先生は、この『転落』の主人公のクラマンスを典型的なナルシストの例として挙げています。クラマンスは人から称賛される自分を美しいと思い、うっとりとしていました。そんな彼は、ある遅い夜、人通りの絶えた橋から川に転落して溺れた女性を助けませんでした。もしそれが昼で、多くの人が見ていたなら、彼はさっそうと川に飛び込んで女性を助けたことでしょう。彼は自分の心の闇に気付いて苦しむようになり、酒と女性に溺れて落ちぶれていきます。

 もし彼が奥深い自分の声に忠実であったなら、たとえ誰も見ていなくても女性を助けたことでしょう。奥深い自分とは神様が造ったままの罪に汚れていない「本来の自分」であり、究極的にはイエスさまであるからです。

 『自己愛とエゴイズム』の著者のガラルダ先生はナルシストについての章を次の文章で締めくくっています。

「ナルシスト(注:本文ではナルキソス)は自分の表面の姿だけ見つめているので、その反対行動はといえば、奥深い自分を見つめることである。

 人から良く思われたい自分になるのでなく、自分がなりたい人間を見つめるという態度である。愛されたい、認められたいという自分の浅い望みに妥協しないで、愛したい奥深い自分に忠実に生きることである。」(p.46)

 ガラルダ先生は聖書のことを表立っては書いていませんからイエスさまにも一切言及していませんが、「自分がなりたい人間」、そして「愛したい奥深い自分」とは、究極的にはイエスさまのことでしょう。

②他人のためにゆったりと時間を使う『モモ』
 ガラルダ先生が『自己愛とエゴイズム』でカミュの『転落』の次に取り上げている作品はミヒャエル・エンデの『モモ』です。その部分を引用します。

「エンデの『モモ』という、大人向きの童話は、なかなか考えさせられる作品である。この主人公のモモという女の子は素晴らしい。本当に、心から、心ゆくまで人の話を聞くので、話している人はインスピレーションを感じて、自分が大切な存在だと信じて、生きる自信がつくことになる。」(p.22)

 ガラルダ先生はエンデの『モモ』の主人公モモを良い例として挙げています。ただし、先生は『モモ』というファンタジー小説の中身についてはそんなに字数を使っていません。それで、きょうは『モモ』がどういう小説なのかを、ここで紹介したいと思います。

 エンデが『モモ』を発表したのは1974年ですから時代設定は1970年代の前半です。主人公の少女モモは、悪く言えば浮浪児で、古代の円形劇場の廃墟に住み付いています。モモは地元の人々に愛されていました。それは彼女が人の話をゆっくり聞いてくれるからです。子供たちもモモが大好きでした。モモがいると、なぜか遊びのアイデアが湧いて来て、想像の翼を広げて楽しく遊べるからでした。こうして、円形劇場がある町にはゆったりとした時間が流れていました。

 しかし、やがて人々は忙しく働くようになって、ゆとりを失って行きます。モモに話をゆっくり聞いてもらうこともしなくなります。それは時間泥棒のグループが暗躍していたからです。時間泥棒たちは町の人々に近づいて、時間を節約するように説き伏せます。あらゆる無駄を省いて、節約した時間を「時間貯蓄銀行」に預けるように勧めます。無駄に使っている時間とは、家族や友人たちとのおしゃべり、映画鑑賞、合唱団の練習、などです。これらの無駄な時間を省き、仕事も効率的に行って節約した時間を銀行に預けて貯蓄すると、将来は預けた時間に利子を付けて倍にして返しますよ、と持ち掛けます。

 そうして時間を節約する人々が増え始め、やがて町中の人々が忙しく働くようになり、それが普通になって行きます。そうすると時間を返して欲しいなどと言う者もいなくなります。これが時間泥棒たちが狙っていることです。時間泥棒たちはもともと時間を人々に返すつもりなどありません。彼らは人々から奪った時間を葉巻タバコにして吸って生きていたからです。この葉巻タバコがなくなると彼らは死んで消滅してしまいます。

 この時間泥棒たちにとってモモは邪魔な存在でした。モモと特に親しくしていた大人や子供たちは時間を節約しようとしないからです。それで時間泥棒たちはモモを捕らえようとしますが、モモは「時間の国」から来たカメに導かれて助かります。このカメはモモ以上にゆったりしていてノロノロと歩くのに時間泥棒から上手く逃げることができました。そしてモモは「時間の国」で重要なミッションを与えられて時間泥棒たちと戦うという、最後はハラハラドキドキという展開になります。

 作者のエンデがこのファンタジー小説を発表したのは1974年で、日本でも1970年に大阪で万博があって世の中全体が急速に忙しくなって行った時代です。ですから、この小説にはそういう忙しい時代への風刺も込められています。

③奥深い自分にゆっくり向き合えない現代人
 しかし、今から考えれば1970年代はまだまだノンビリしていました。個人用のコンピューターのパソコンやワープロが普及し始めたのが1970代の後半からです。私が大学の卒業論文を書いたのは1983年でしたが、まだまだ手書きでした。よく覚えていないのですが、1985年の修士論文も手書きだったように思います。ワープロに比べて手書きは遥かにゆったりしています。1980年代の前半までは、まだまだノンビリしていたのだなと思います。
 しかし80年代の後半からは卒論はワープロで書くのが当たり前になり、そうして90年代の後半に入って電子メールや携帯電話、インターネットが普及し始めると、人々の忙しさはもっと加速して行きます。以前も話したことがあると思いますが、私の学生時代の友人は、北海道と四国との間でほぼ毎週手紙のやり取りをしていました。当時、北海道と四国の間で郵便が届くのに3日ぐらいは掛かったと思います。ですから、どんなに速くても1回の手紙のやり取りに1週間は掛かりました。世界中に瞬時に電子メールが届く現代と比べると、何とノンビリしていたことでしょうか。

 そう考えると、私が『自己愛とエゴイズム』に1991年頃に出会ったのは本当に幸運なことだったなと思います。まだまだ奥深い自分にゆっくりと向き合う時間がありました。しかし、現代人にはそのゆとりがありません。エンデの小説『モモ』の中の時間泥棒に時間を奪われてしまった町の人たちと同じです。

 忙しくなると人間関係は段々とよそよそしくなり、心は潤いを失って乾燥して行きます。そうして奥深くにある魂も乾いて行きます。魂が完全に乾燥してしまうなら、奥深い自分の声を聞くことは不可能でしょう。

 最近はカタツムリを見掛けることも少なくなりましたが、カタツムリは晴れて乾燥している時には殻の中に完全に閉じこもっています。そんな殻に閉じこもったカタツムリに水を少し掛けてあげると、角を出して、水がどれくらいあるかを確かめようとします。そうして水をたくさん掛けてあげると、全身を殻から出して動き始め、全身を使って水分を補給しようとします。

 生まれながらの私たちは皆、この殻に閉じこもったカタツムリのように、罪の殻の中に閉じこもっています。しかし、神様は先行的恵みを注いで下さり、殻から出て来るように促します。先行的な恵みで注がれる水はそんなにたくさんではありません。ですから、反応する人は少ないです。しかし、もし反応して角を出すなら、さらに豊かな恵みをいただくことができるようになります。それが聖霊を受けるということです。

 先週はイエスさまが私たちの心の扉を叩いて下さっていると話しました。先週の招きの詞で引用した黙示録3章20節でイエスさまはおっしゃっています(週報p.2)

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 イエスさまを迎え入れることで乾きかかっている私たちの魂は潤います。それはつまり、聖霊を受けるということです。きょうの招きの詞はヨハネ7章37~38節を引きました。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 そうして、乾燥したカタツムリのように乾いている私たちの魂は聖霊の水によって豊かに潤されます。先行的な恵みによって『自己愛とエゴイズム』という本に出会ったカタツムリの私は、ほんのちょっとだけ角を出しました。そして、それから10年掛かりましたが、カメよりも遅いカタツムリの歩みで教会に導かれてイエスさまを信じ、聖霊を受けました。そうして信仰の道を歩むことでゆっくりと「本来の自分」に近づく恵みをいただいています。

 しかし21世紀に入って世の中はますます忙しくなりました。これではイエスさまのノックの音はますます聞こえにくくなり、人々は疲弊して行くばかりです。こういう時代に、私たちはどんな働きができるでしょうか。どうすれば静岡の街の人々にイエスさまのノックの声を聞いていただき、「本来の自分」を取り戻すお手伝いをすることができるでしょうか?

④永遠のいのちに至る食べ物のために働く
 日々を生きるパンだけのために働くなら、エンデの『モモ』に登場するような時間泥棒にどんどん時間を奪われて行き、人々は疲弊するばかりです。
 イエスさまはヨハネの福音書6章27節でおっしゃいました。

6:27 「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」

 イエスさまは、「永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」とおっしゃいました。それは、どういう働き方でしょうか?それは、私たちの一人一人が奥深い自分に忠実に生きることで、段々と分かって来ることではないでしょうか。最初のほうで引用した『自己愛とエゴイズム』のガラルダ先生の言葉をもう一度引用します。

「ナルシスト(本文ではナルキソス)は自分の表面の姿だけ見つめているので、その反対行動はといえば、奥深い自分を見つめることである。
 人から良く思われたい自分になるのでなく、自分がなりたい人間を見つめるという態度である。愛されたい、認められたいという自分の浅い望みに妥協しないで、愛したい奥深い自分に忠実に生きることである。」(p.46)

 エンデの『モモ』の主人公モモは、奥深い自分に忠実に生きた女の子であると言えるでしょう。そうして、彼女の働きによって人々は時間泥棒に奪われていた時間を取り戻すことができました。モモはカメに助けられましたから、モモにとってのカメは助け主であり、聖霊なのかもしれません。

おわりに
 私たちも、モモのような働きをしたいと思います。忙しく働いている人々にゆったりできる時間を返して差し上げるような働きができたらと思います。それには助け主である聖霊に助けていただく必要があります。カメの歩みのようなゆったりとした時間の中で、奥深い自分から聞こえる聖霊の声に耳を傾けたいと思います。

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言によって、人々はしばらくの間、忙しく働くことから解放されました。しかし、宣言が解除されたことで、世の中は再び忙しさを取り戻して行くことでしょう。するとまた、時間泥棒に時間を奪われるようになってしまいます。

 これを何とか防ぐために、私たちはどんな働きをすれば良いでしょうか?永遠のいのちに至る食べ物のために働くとは、どういうことでしょうか?これからも『自己愛とエゴイズム』を共に学びながら、そして一人一人が奥深い自分の声に耳を傾けながら、ご一緒に考えて行きたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。

6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。
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驚くほどの恵み Amazing Grace(2020.5.25 Y兄告別式)

2020-05-26 06:49:10 | 礼拝メッセージ
2020年5月25日Y兄告別式説教
『驚くほどの恵み Amazing Grace』
【ヨハネ14:1, 6, 27、15:4, 5】

(聖書朗読Ⅰ)
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

(聖書朗読Ⅱ)
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

はじめに
 Y兄がご病気であることを私が初めて知ったのは、昨年の3月の教団の年会の時でした。その時、私は沼津教会の牧師で、年会で静岡教会への異動の任命を受けましたから、前任の戸塚先生と引継ぎの相談をしました。その時にY兄が胃がんで入院しているという話を聞きました。その時の戸塚先生の話では手術すれば治る見込みがあるとのことでした。入院しているのは長泉町の県立がんセンターとのことで、長泉は沼津の隣町ですから、私は沼津に戻ってすぐに、がんセンターにお見舞いに行きました。

ステージ4の告知にも平安でいられたY兄
 その時の病床でY兄が話して下さったことは、手術でがんを摘出してもらうつもりだったけれど、転移していてステージ4なので手術不能だと医師に告げられたということでした。病気がそこまで深刻であると思っていなかった私は、どう言葉を掛けたら良いか分からず、ただ黙って話を聞くことしかできませんでした。しかしY兄は終始穏やかで、淡々と現状を話して下さいました。

 Y兄は、こんな話をしてくれました。「相部屋の病室にいると、隣のベッドから不安や絶望の声が聞こえて来るんだよね」。「『ちくしょう』とか、『なんで、こんなことになったんだ』とか言ってるんだよね。でも自分には信仰があるから平安でいられて、本当に感謝だと思ってるんだよね」と、淡々と話しておられました。

 そのあと、一緒にお祈りをして帰りましたが、帰り道で私は、「自分は牧師だけれど、もし自分がY兄の立場だったら、Y兄のように淡々としていられるだろうか?心の平安を保てるだろうか?」と考えました。それは、去年の4月以降、こちらに着任して以降も、ずっと思っていたことでした。

 いくら信仰があるからと言っても、どうしてY兄がそんなにも平安でいられるのか、その理由の一端が分かった気がしたのが、今月になってY兄のご自宅を訪れた時でした。それまではご自宅を訪れても玄関先で話すだけで中に入ることはありませんでしたが、その日は中に入れていただき、Y兄が寝ているベッドの上にレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵が掛かっているのを見ました。そうしてY兄は、イエスさまの弟子の一人になっていたのだな、だから平安なんだなと思いました。



最後の晩餐でのイエスさまの教え
 Y兄の病室に入って「最後の晩餐」の絵を見た日、私は偶然にも聖餐式のためのパンとぶどう液を持参していました。パンを食べ、ぶどう液を飲む聖餐式は、クリスチャンにとって信仰を新たにする重要な儀式です。イエス・キリストは十字架に付けられる前の晩に弟子たちと最後の食事の時を持ちました。聖餐式は、その「最後の晩餐」のことを思いながら、私たちもまたイエスさまと一緒にパンとぶどう液の食事をする儀式です。

 5月に入ってY兄の地上での残された日々も少ないと思われましたから、天に召される前に、Y兄のお宅で、M姉と共に、イエスさまとの食事の恵みに与りたいと思ってパンとぶどう液を持参したところ、「最後の晩餐」の絵が掛かっていて、私たちはその絵の前でイエスさまと食事をする恵みに与りましたから、そのことで私自身も不思議な平安をいただくようになりました。そうして、私はイエスさまから、ヨハネの福音書の13章から17章までの「最後の晩餐」の場面から説教をするようにという語り掛けを受けるようになりました。

 きょうのプログラムに印刷してある、ヨハネの福音書の14章と15章からのみことばは、イエスさまが「最後の晩餐」の時に、弟子たちに語ったことばの一部です。そしてそれは、私たちに対することばでもあります。Y兄は、この最後の晩餐の中の弟子たちの一人になっていました。そして私たちは誰でも、この食事の場に招かれていて、誰でもイエスさまの弟子になることができます。そうして、Y兄のような心の平安をいただけるようになります。イエスさまは弟子たち、そして私たちにおっしゃいました。14章1節、
 
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 私たちは何かあると、すぐに心を騒がせてしまいます。しかし、イエスさまは心を騒がせてはなりません、とおっしゃいました。そして神を信じ、わたしを信じなさいとおっしゃいました。それはイエスさまが道であり、真理であり、命だからです。6節、

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。


 イエスさまは道です。ですからイエスさまから離れずにいて、一緒に道を歩むなら、天の父である神様のみもとに行くことができます。そのことが約束されていますから、私たちは平安でいられます。27節、

14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

信仰の実を結んで心の平安を得たY兄
 私たちはぶどうの木であるイエスさまから離れないでいれば、この素晴らしい平安をいただけます。イエスさまはご自身がぶどうの木であり、わたしにとどまりなさい、離れないでいなさいととおっしゃいました。15章の4節と5節、

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 「実を結ぶ」とは、「信仰の実を結ぶ」ということですね。どういう人が信仰の実を結んだ人でしょうか?それはY兄のような方ですね。

 長泉町の県立がんセンターで淡々として平安でいたY兄は、病気が思っていた以上に深刻なものであるという告知を受けたばかりの時でした。時間が経てば、段々とそのことを受け入れられるようになる人は他にもいるかもしれません。しかし、Y兄のように告知を受けたばかりなのに心を騒がせずに平安でいられる人は少ないでしょう。

 ほとんどの人は、Y兄の隣のベッドにいた人のように、「ちくしょう。何でこんなことになったんだ」と嘆き、絶望感に支配されてしまうことでしょう。心を騒がすことなく平安でいられたY兄は本当に、信仰の実を結んだ人だったのだな、とヨハネの福音書15章を読んで改めて思わされます。
 Y兄ほどではないかもしれませんが、私もまたイエスさまから大きな平安をいただいています。これは驚くほどの恵み、Amazing Graceです。

驚くほどの恵み Amazing Grace(アメイジング・グレイス)
 Y兄が天に召された日の21日、葬儀の日程が決まった後で私は息子さんと娘さんに、葬儀で歌いたい賛美歌があるかどうか聞きました。娘さんはY兄が好きだった「かいぬし我が主よ」を入れて欲しいと言いました。息子さんは献花の時はAmazing Graceの曲を使って欲しいとのことでした。そして、その他はお任せします、とのことでした。

 それで私はAmazing Graceを献花の時のピアノだけでなく、賛美歌にも入れることにしました。それが、きょう、この後で歌う「いかなる恵みぞ」です。そうして、この歌詞をプログラムに印刷するために打ち込んでいて、この歌詞は今回のY兄の葬儀にピッタリだったなと改めて思いました。プログラムの歌詞を見て下さい。

 1節全体でAmazing Graceを表しています。Amazingは「びっくりするような、驚くような」という意味で、Graceは「恵み」という意味です。イエス・キリストを信じると本当にびっくりするような素晴らしい恵みをいただけます。

1節「いかなる恵みぞ かかる身をも妙(たえ)なる救いに 入れたもうとは」

の妙なるの妙(たえ)は、みょうという感じで、「言葉で表せないほどすばらしい」という意味です。こんな私を素晴らしい救いに入れて下さるとは、何という驚くべき恵みなんだと1節で作詞者は感動しています。

2節「この身もかつては 世の闇路(やみじ)に さまよい出(い)でたる 者なりけり」

Y兄も、かつて若い頃は神様から離れて闇の中にさまよい出ていた者でした。そんな罪人でも救いに入れて下さるとは、本当に驚くべき恵みです。

3節「救いに与(あず)かり 日々保たれ かくあることさえ 奇(くす)しきかな」

「奇しきかな」とは、不思議だなあ、ということです。かつては闇の中を歩いていたのに、救いに与かってこんな風に日々を平安に過ごすことができるなんて、本当に不思議だなあということです。

4節「御国に至らば いよよ切(せち)に恵みの御神(みかみ)を 称えまつらん」

「御国に至らば」とは「天の御国、すなわち天国に行ったら」ということですね。イエスさまは21日に天に召されて今、まさに天の御国にいます。そうして恵みを与えて下さった神様をほめたたえていることでしょう。

 信仰の実を結ぶと、このような素晴らしい、驚くほどの恵みをいただくことができます。そのことを教えて下さったY兄に心から感謝したいと思います。

 お祈りいたします。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。
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イエスさまの昇天日に召天したY兄(2020.5.24 Y兄前夜式)

2020-05-26 06:17:52 | 礼拝メッセージ
2020年5月24日Y兄前夜式説教
『イエスさまの昇天日に召天したY兄』
【ルカ24:50~53】

24:50 それからイエスは、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、手を上げて祝福された。
24:51 そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

はじめに
 15分ほどお時間をいただいて、話をさせていただきます。きょうの前夜式で15分、明日の告別式で15分、これらの二つの話は別々ではなくて、つながった一連のものとして、聞いていただければと思います。

 今回は新型コロナウイルスの感染拡大のために近親者だけでのご葬儀となりました。平時であればY兄のように交友範囲の広い方は多くの方々が、ここに集まり、ご友人やお仕事関係の方々から弔辞が読まれることと思います。今回はそれも叶いませんから、この説教の最初の数分は、弔辞のような思い出話もさせていただきます。

Y兄との思い出
 私が初めてこの静岡教会を訪れたのは確か2003年の元旦礼拝でした。当時の私は川崎市の高津教会の教会員で、年末年始の休暇に静岡に帰省した折に、この教会の元旦礼拝に出席しました。その時は教会の方とは挨拶程度しかしませんでしたから、Y兄とも何か話をしたという覚えはありません。

 Y兄とよく話をするようになったのは、私が東京の職場を辞めて牧師になるための神学校の聖宣神学院の神学生になってからでした。夏季実習で7月と8月の2か月間、1年生だった2008年と2年生だった2009年にこの教会でお世話になった時に、Y兄とは親しく話をさせていただきました。当時の牧師は高桑先生で、その時は朝霧高原にキャンプに行きました。泊り掛けのキャンプでY兄とも寝食を共にしましたから、いろいろな話をすることができました。

 キャンプの思い出は、私が沼津教会の牧師になってからもあります。静岡教会と韮山教会と沼津教会の三つの教会で合同キャンプをしていて、Y兄はこのキャンプにも毎回参加していましたから、私たちは同じ部屋に泊まって寝食を共にして、近況などを報告し合いました。

 キャンプ以外でもY兄は一度、沼津教会の特別伝道会に来て下さいました。確か夏の「海の日」の休日だったと思いますが、お一人でわざわざ沼津まで来て下さいました。ブログに案内を出していましたから、それを見て来たということでした。ブログに上げてある私の説教をいつも読んで下さっているということで、本当にうれしかったです。沼津教会は礼拝出席者が15名ぐらいの小さな教会でしたから説教を聞く人の数も限られています。しかし、ブログに説教を載せることで離れた所にいるY兄も読んで下さっているということで、とても励みになりましたから、Y兄には本当に感謝に思っています。

 昨年の春にこちらの静岡教会の牧師になってからのY兄との思い出話は、また明日の告別式の時に話させていただくことにして、聖書の話に入って行くことにします。

イエスさまの昇天日に召天したY兄
 聖書箇所のルカの福音書24章50節から53節には、イエス・キリストが天に上げられた時のことが書かれています。そして50節と51節には「祝福」という言葉、52節には「大きな喜び」という言葉、53節には「ほめたたえていた」という言葉が使われています。どれも恵みに満ちた、明るい響きがある言葉です。

 先ほど私がこの静岡教会を訪れたのは確か2003年の元旦礼拝だったと言いました。その時の私は43歳でした。私は41歳だった2001年の夏に初めて高津教会を訪れて、42歳になった同じ年の2001年のクリスマス礼拝で洗礼を受けました。41歳になるまで私は教会に通ったことはありませんでした。

 Y家の皆さんは子供の頃から教会に親しんでいたと思いますが、私は41歳までは普通の日本人と同じように、生まれた時は神社にお宮参り、結婚式はキリスト教式、葬式は仏式でという文化に何の違和感も持たずに、それを当たり前のこととして生きて来ました。

 しかし41歳で教会に通うようになって、キリスト教では、生まれた時の献児式も、結婚式も、そして葬儀も全部、キリストの体である教会で行い、すべてが主の御手の中で執り行われることの豊かな恵みを知りました。本当に感謝なことだと思っています。

 喜びの時を教会の中で持つことができるからこそ、悲しみの時でも、同じ教会に身を置くなら、神様が豊かに慰めて下さいます。一人の方が亡くなって天に召されるということは、地上に残された者たちにとっては本当に悲しいことです。しかしY兄を天に召した神様と同じ神様が地上の私たちを慰めて下さり、不思議な平安を与えて下さいます。

 今回私はY兄を通して改めてこの不思議な平安の恵みを感じています。今日は是非、ご遺族の皆さんと、この不思議な平安を分かち合いたいと思います。ご遺族の皆さん程ではもちろんありませんが、葬儀は牧師にとっても大変なことです。結婚式の場合は日程が決まっていますが、葬儀の場合はいつその時が来るか分かりません。そうして曜日の関係で礼拝が絡んで来ると礼拝の準備と前夜式の準備と告別式の準備を短い期間の中でしなければなりませんから、いっそう大変になります。今回、Y兄が木曜日に天に召された時、私はかなり不安になりかけていました。

 そんな時、メモを書き込もうとしてクリスチャン手帳を開いたら、Y兄の召天日の5月21日がイエス・キリストが天に昇った昇天日であることに気付きました。そして、私は不思議な平安に満たされました。ルカ24章51節にはイエスさまが「天に上げられた」とありますが、これは復活してから40日目のことでした。十字架で死んだイエス・キリストは復活して弟子たちの前に現れました。これを祝うのが復活祭のイースターです。今年は4月12日の日曜日でした。

 そしてイエスさまは40日目に天に上げられたと聖書には記されています(使徒1章)。それが今年は4月12日から40日目の5月21日なのですね。Y兄はイエスさまが天に上げられたのと同じ日に、この地上での生涯を終えて天に上げられました。Y兄の召天にイエスさまが伴って下さっていたと知り、だからY兄も穏やかな顔をして天に召されたのだなと納得しました。そうして私は不思議な平安に包まれて、礼拝と葬儀の両方の準備を同時にできるだろうかという不安もなくなりました。

昇天するイエスさまを喜んで見送った弟子たち
 きょうの前夜式のプログラムを見ていただくと分かると思いますが、これは礼拝の形式と同じで、日曜日の礼拝とほとんど同じことが行われます。讃美歌を歌い、お祈りをし、そして聖書を開いて短い説教があり、最後にまた讃美歌を歌います。結婚式も同じでしたね。昨年の10月5日に、この同じ場所でY兄の娘さんの結婚式を行いました。その時も礼拝の形式で、ご一緒に讃美歌を歌い、お祈りをし、聖書を開きました。結婚式の場合には、他にも誓い合う「誓約」の時などがありますが、基本的には礼拝の形式であることは葬儀と同じです。

 私たちは喜びに包まれる結婚式の時も、悲しみに包まれるご葬儀の時も同じ場所で同じ神様の御前で神様を賛美し、祈り、聖書を開いて神様の言葉に触れます。同じ場所で同じ神様の愛に包まれるからこそ、豊かな慰めをいただくことができて不思議な平安を得ます。
 ですから、天に上げられたY兄を見送った地上の私たちも、この神様の平安に包まれていたいと思います。

 天に上げられたイエスさまを地上で見送った弟子たちも平安に包まれていました。ここには悲しんだ様子が書かれていません。それまで弟子たちは、いつもイエスさまと一緒でした。弟子たちは、イエスさまに「私に付いて来なさい」と声を掛けられてから、ずっと一緒に旅をして、寝食を共にしました。先ほど私はY兄とキャンプの時に寝食を共にしたと言いましたが、キャンプはせいぜい2泊3日です。弟子たちはもっとずっと長い間、イエスさまと共に旅をしていました。

 そのイエスさまが天に上げられましたから、弟子たちもきっと寂しかったでしょう。悲しみもあったでしょう。しかし、それを上回る喜びがあったのですね。天の神様のことが、イエスさまが天に上ったことで、それまでよりも、ずっと身近に感じることができるようになりました。52節と53節をお読みします。

24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 天に上げられたイエスさまを見送った弟子たちは「大きな喜びとともにエルサレムに帰り」ました。そうしていつも宮にいて神様をほめたたえていました。宮というのは神殿です。弟子たちは神殿で礼拝する神様のことを、イエスさまが神様のいる天に上ったことで、それまでよりもずっと身近に感じるようになりましたから、神様をほめたたえました。

おわりに
 きょう、私たちもまた教会で讃美歌を歌って神様をほめたたえます。Y兄が好きだったという讃美歌「かいぬしわが主よ」も、羊である私たちを導いて下さる主をほめたたえる歌です。羊である私たちは、すぐに道に迷ってしまい、自分がどこにいるのか、どちらに向かっているのか、分からなくなってしまいます。そんな迷いやすい私たちを主イエスは優しく導いて下さいます。

 Y兄も若い時にはやんちゃをしていて、羊のように迷い出てしまい、神様から離れていてしまった時期があったと伺っています。けれどもイエスさまは迷い出たY兄を優しく抱いて連れ戻して下さいました。そうして、それからはY兄はイエスさまに導かれながら迷うことなく信仰生涯を走り通し、5月21日にはイエスさまと一緒に天に昇って行きました。すごいなあと思います。イエスさまに導かれながら平安のうちに天に上げられたY兄のことを思うと、私たちもまた不思議な平安に包まれます。

 ですからY兄を見送った私たちも、天の神様を礼拝して、ほめたたえていたいと思います。
 一言、お祈りいたします。

24:52 彼らはイエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、
24:53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。
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