2020年8月16日礼拝メッセージ
『大人の常識に溺れない信仰を育める21世紀の恵み』
【マタイの福音書14章22~33節】
はじめに
きょうの礼拝メッセージは、最近の(大人のための)教会学校で話題になったことが基になっています。
先週と先々週の教会学校で、イエス様が湖の上を歩いたことを信じられるか?が話題になっていました。それを後ろの方の席で聞いていて、何か礼拝メッセージが与えられそうな気がしていました。それで、この1週間思いを巡らし、神様からの語り掛けをいただきながらまとめたのが、今日のメッセージです。きょうは次の5つのパートで話を進めます。
①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み
①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
まず、きょうの聖書箇所のイエス様が湖の上を歩いた箇所を見ておきましょう。マタイの福音書14章22節27節までを交代で読みましょう(新約p.29)。
25節に、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた」とあります。教会学校では、これを奇跡として、この奇跡が信じられるか?ということが話題になっていました。確かに、常識的には湖の上を歩くことは不可能ですから、これは奇跡なのかもしれません。そうして、奇跡を信じることは非科学的なことなのかもしれません。それが常識なのでしょう。きょうは、この常識について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
イエス様が湖を歩いたことは奇跡なのでしょうか?そのことを信じることは非科学的なことなのでしょうか?
②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
人が水の上を歩けないのは、私たちの体が地球の重力によって、いつも地球の中心に向かって引き付けられているからですね。固い地面なら体が地面の中に沈んで行くことはありませんが、湖の水は固くありませんから、体は当然沈みます。
重力の下向きの力は体重が重い人ほど大きくなります。ですから子供から大人へ成長して体重が重くなればなるほど、人は重力をたくさん感じるようになります。
フィギュアスケートでは、今の採点方法では4回転ジャンプを飛べるほうが高い得点が出ますから、体重が軽い選手が高得点を出す傾向がありますね。特に女子はそれが顕著で10代半ばの選手がメダルを取ります。しかし年齢と共に体重が増えて重力の影響を大きく受けるようになって勝てなくなります。
スキーも体重との関係が顕著です。学生時代、北海道出身の友人がスキーについて言っていました。北海道の子供は小さい頃からスキーに馴染んでいますが、大人になって体重が増えるとスピードが出やすく、しかも転んだ時の衝撃が大きくなるのでスキーが恐くなるそうです。子供の時はそんなにスピードも出ず、転んでも大した衝撃はないのでガンガン攻めるスキーができたけれど、体重が増えるとなかなかそれができないと言っていました。ここから、子供は大人ほどには重力を感じていないことが分かります。
それで思い出しましたが、私は子供の頃によく家のブロック塀の上に昇って、その上を歩いていました。どれだけ速く歩けるかを友達と競ったりしました。そうして塀の上を歩き終わると大人の背の高さぐらいの所から平気で飛び降りていました。今の私の体重で飛び降りたら、すぐに膝を悪くしてしまいます。子供の頃の私は身軽で重力をそんなに感じていなかったのだなと思います。
このように、子供は大人ほどには重力を感じていません。ですから、イエス様が湖の水の上を歩いて自分の方に来たら、大人は怖がるかもしれませんが、子供なら喜ぶ子が多いのではないかと思います。きょうの招きの詞のマルコ10章15節でイエス様はおっしゃいました。
私たちは子供から大人へと成長する過程で、様々な常識を身に着けます。その大人の常識が神の国に入ることを妨げることがあることを覚えたいと思います。
③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
重力の中で暮らしていると、それが当たり前になり、イエス様が重力から自由になっていることに恐怖を感じてしまうようになります。そんな弟子たちの中でペテロは一番弟子だけあって、多少は子供のような信仰を持っていたようです。ペテロはイエス様に倣って水の上を歩こうとしました。28節から33節までを交代で読みましょう。
ペテロも結局は大人の常識に溺れてしまいました。イエス様は人間の常識の中にはいないお方です。ですからイエス様と出会ったなら、新しい常識の中を生きて行きたいと思います。そうでなければ罪の中で溺れて沈んでしまいます。
きょうの聖書交読で開いた詩篇51篇では、罪に溺れて沈んだダビデが神様に助けを求めています。ペテロが「主よ、助けてください」と叫んだように、ダビデも神様の憐みを求めて叫んでいます。詩篇51篇1節と2節をお読みします(週報p.2)。
ダビデはイスラエルの王様になったことで富と権力を手に入れ、その中で暮らしている間にいつしか富と権力があることに慣れて溺れてしまい、ウリヤの妻のバテ・シェバとの間で過ちを犯し、遂にはウリヤを戦争の最前線に送って殺してしまいました。富と権力を持っていることが当たり前の中で生活していると、そのような重大な罪を犯してしまいます。そのようなリーダーの例は現代においても会社の社長や自治体の長、あるいは一国のリーダーなどで、たくさんの例が見られますね。
すべてのものは神様によって与えられたものです。しかし私たちはいつしかそのことを忘れて、神様への感謝の思いを忘れがちになります。ペテロやダビデのように溺れて沈んでしまわないように、いつもイエス様の方を向いていたいと思います。
④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
イエス様に出会うと、それまで当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなります。イエス様に出会う前の私は自分の人生は自分で切り開いて行くのが当たり前だと思っていました。勉強することで自分の力を蓄え、様々なものを自分の力で獲得して、そうして満足度の高い人生を追求するのが当たり前の人生観だと思っていました。しかし、イエス様と出会ってからは、すべてのものは神様によって与えられたものだということが段々と分かるようになりました。私の命も、日ごとの食べ物も、すべて神様が与えて下さったものだということが少しずつでしたが、段々と分かるようになりました。
そういう風に考えると、重力もまた神様によって与えられたものなのですね。神様は万物を創造した時に、重力もまた造りました。重力が無ければ私たちの体が浮くだけでなく地面の土砂や岩石もバラバラになり、私たちは安定した地盤の上で暮らすことはできません。水や空気も地球に大きな重力があるからこそ、地表にとどまります。もし急に重力が無くなったら空気は皆、宇宙空間に飛んで行ってしまって私たちは呼吸ができなくなります。雨が下に落ちることもなくなりますから水も無くなるでしょう。私たちが生きて行くのに不可欠な空気と水は、重力があるからこそ、地表にとどまります。或いはまた太陽と地球との間に巨大な重力が働いているから、地球は太陽の周りを回り続けることができます。もし急に重力が無くなったら、地球は太陽からどんどん離れて行き、私たちはたちまち凍え死んでしまいます。
私たちは重力があることに感謝するべきです。そして重力を創造した神様を畏れ、賛美しなければなりません。イエス様が重力から自由になって湖の水の上を歩いたことを奇跡だと言っている場合ではありません。重力があること自体が奇跡で、重力を創造した神様をほめたたえなければなりません。
とは言え、ペテロたちの時代には重力のことは分かっていませんでしたから、湖の上を歩くイエス様を怖がったのは仕方のないことかもしれません。しかし21世紀の私たちは重力のことを知っていますから、湖の上を歩くイエス様を奇跡と考えるのではなく、神様がすべての物に働く重力を造って下さったことを素晴らしい奇跡として感謝し、ほめたたえたいと思います。
それで、重力の発見の歴史について簡単に話したいと思います。皆さんはルターによる宗教改革が16世紀の前半の1517年にあったことは、よくご存知ですね。私たちがいま使っている聖書新改訳2017は1517年の宗教改革から500周年という特別の年に発行されましたから、そのことを記念して2017という年号がそのまま付けられています。
このルターが生きた時代と同じ時代を、地動説を唱えたコペルニクスは生きました。コペルニクスは太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽の周りを回っているとしたほうが、天体の動きをより的確に表せることに気付きました。この地動説に基づいて、ケプラーという科学者が惑星の運行に法則性があること、すなわちケプラーの法則を発見しました。しかし、コペルニクスもケプラーも惑星の運行の背後にどんな力が働いているのかは気づいていませんでした。
力の存在に気付いたのはニュートンです。ニュートンの前の時代にガリレオ・ガリレイが地上で物体の落下に関する実験をいろいろと行いました。そしてニュートンは、地上の物体の落下運動と宇宙の天体の運動は同じ法則に基づいていることに気付き、すべての物体の間には引力が働いていること、すなわち万有引力があることを発見しました。コペルニクスの地動説から約1世紀半後の17世紀の後半のことでした。
しかしニュートンといえども、どうして天体と天体の間に引力が働くのか、どうして太陽と地球とは引き付け合っているのかは分かっていませんでした。そのニュートンが分からなかったことを説明したのが20世紀の科学者のアインシュタインです。ニュートンの時代からさらに200年以上が経った1916年のことです。
アインシュタインの一般相対性理論によれば、太陽のような巨大な質量がある周囲では時空が歪んでいるとのことです。そして、その時空の歪みは、皆既日食の時に太陽の方向に見える星の位置を観測することで今から100年前の1919年に確かめられました。星の光が地球に向かって進んで来る時、太陽の近くを通ると時空の歪みに沿って軌道が変わることが、太陽の近くを通らない時の星の位置の観測との比較で分かりました。
ただ、私はこの時空の歪みのことを今一つイメージできないでいました。それが、数年前に重力波が観測されたというニュースを見て、ようやくイメージできるようになりました。皆さんもこの重力波の観測に成功したニュースはご覧になったことと思います。二つのブラックホールが合体したことによって生じた時空の歪みの変化が波として地球まで伝わって来て、それを観測することに成功したということで、2017年のノーベル物理学賞は、この観測プロジェクトのリーダーたちに与えられました。重力波が宇宙空間を伝わっていく様子をシミュレーションした動画を見て、私はようやく時空の歪みがイメージできるようになりました。そうして、時空の歪みという形で重力を造った神様って本当にすごいなと思いました。
⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み
いま時間を使ってコペルニクスから現代の重力波の観測に至る重力の発見の歴史について語りましたが、それは21世紀の現代は神様の創造の御業の素晴らしさに子供のようにワクワクできる恵みに溢れていることをお伝えしたかったからです。世間の人々は、科学が進歩すればするほど神様を信じることは非科学的なことになっていくというイメージを持っているかもしれません。しかし、それは逆です。科学が進歩すればするほど神様の創造の御業の素晴らしさが分かるようになります。このように21世紀の現代は神様への信仰がますます深まって行く恵みに溢れています。ただし、この恵みに与るためには大人の常識に捕らわれないで子供のようなワクワク感を保ち続ける必要があります。
重力の例で示したように、神様は素晴らしい方法で私たちに重力の恵みを与えて下さり、私たちを守って下さっています。この神様の素晴らしい御業へのワクワク感を保ち続けていたいと思います。
それは物理学に関することだけでなく生物学においても同様です。20世紀の半ばの1953年にワトソンとクリックによって遺伝子のDNAの二重らせん構造が明らかにされました。すべての生物は、このDNAによって子孫に遺伝情報が伝達されて行きます。人間も動物も植物も、皆、DNAに書き込まれた情報に基づいて造られるんですね。21世紀に入ってDNAの情報の研究が飛躍的に進んでいます。もはや生物に関することはDNA抜きで考えることはできないのだろうと思います。
聖書を読み始めたばかりの頃の私は、創世記の始めの頃の人物の寿命が900年とか書いてあることを、ぜんぜん信じられないでいました。例えば創世記5章5節にはこのように書かれています(週報p.2)。
しかし考えてみると植物の樹木は種類によっては1000年も2000年も生きます。一方、植物であっても1年以下の短命のものもあります。教会の駐車場のフェンスに咲いている朝顔はひと夏の間に種を作って枯れてしまいますから、半年の命です。それらの寿命に関する情報はDNAの中に書き込まれている筈です。DNAによる遺伝情報の伝達という仕組みを造ったのもまた神様ですから、神様がDNAをちょっと書き換えれば、人間だって植物のように何百年も生きるようにすることも可能でしょう。或いは、いま最長で120年の人間の寿命を犬や猫のように20年以下にすることもまた可能でしょう。
DNAのことを良く知らないでいるなら、創世記の人物の寿命が900年もあったことを信じられないかもしれませんが、生物学の進歩でDNAのことが段々と分かって来ると、神様ならそれがお出来になることが分かり、こういうDNAを造った神様は素晴らしいという気持ちになります。
おわりに
このように、科学の進歩は神様の創造の御業を次々と明らかにしてくれます。そして私たちはその素晴らしさを知り、神様を賛美します。科学の進歩が緩やかだった時代には、大人が子供のようにワクワクするような新しい発見は滅多に無かったかもしれません。しかし、21世紀の現代は次々に新しいことが分かりますから、大人でも子供のようにワクワクできます。この子供のようなワクワク感を私たちは大人になっても保ち続けていたいと思います。大人の常識に捕らわれてしまうことなく、神様の創造の御業を知ることに、いつもワクワクしていたいと思います。
21世紀の現代はそれができる恵まれた時代です。この素晴らしい恵みを多くの方々と分かち合い、神様を心一杯賛美したいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『大人の常識に溺れない信仰を育める21世紀の恵み』
【マタイの福音書14章22~33節】
はじめに
きょうの礼拝メッセージは、最近の(大人のための)教会学校で話題になったことが基になっています。
先週と先々週の教会学校で、イエス様が湖の上を歩いたことを信じられるか?が話題になっていました。それを後ろの方の席で聞いていて、何か礼拝メッセージが与えられそうな気がしていました。それで、この1週間思いを巡らし、神様からの語り掛けをいただきながらまとめたのが、今日のメッセージです。きょうは次の5つのパートで話を進めます。
①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み
①湖の上を歩くイエス様を信じるのは非科学的?
まず、きょうの聖書箇所のイエス様が湖の上を歩いた箇所を見ておきましょう。マタイの福音書14章22節27節までを交代で読みましょう(新約p.29)。
14:22 それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
14:23 群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。
14:24 舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。
14:25 夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。
14:26 イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。
14:27 イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
25節に、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた」とあります。教会学校では、これを奇跡として、この奇跡が信じられるか?ということが話題になっていました。確かに、常識的には湖の上を歩くことは不可能ですから、これは奇跡なのかもしれません。そうして、奇跡を信じることは非科学的なことなのかもしれません。それが常識なのでしょう。きょうは、この常識について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
イエス様が湖を歩いたことは奇跡なのでしょうか?そのことを信じることは非科学的なことなのでしょうか?
②重力の常識に大人ほどは捕らわれない子供たち
人が水の上を歩けないのは、私たちの体が地球の重力によって、いつも地球の中心に向かって引き付けられているからですね。固い地面なら体が地面の中に沈んで行くことはありませんが、湖の水は固くありませんから、体は当然沈みます。
重力の下向きの力は体重が重い人ほど大きくなります。ですから子供から大人へ成長して体重が重くなればなるほど、人は重力をたくさん感じるようになります。
フィギュアスケートでは、今の採点方法では4回転ジャンプを飛べるほうが高い得点が出ますから、体重が軽い選手が高得点を出す傾向がありますね。特に女子はそれが顕著で10代半ばの選手がメダルを取ります。しかし年齢と共に体重が増えて重力の影響を大きく受けるようになって勝てなくなります。
スキーも体重との関係が顕著です。学生時代、北海道出身の友人がスキーについて言っていました。北海道の子供は小さい頃からスキーに馴染んでいますが、大人になって体重が増えるとスピードが出やすく、しかも転んだ時の衝撃が大きくなるのでスキーが恐くなるそうです。子供の時はそんなにスピードも出ず、転んでも大した衝撃はないのでガンガン攻めるスキーができたけれど、体重が増えるとなかなかそれができないと言っていました。ここから、子供は大人ほどには重力を感じていないことが分かります。
それで思い出しましたが、私は子供の頃によく家のブロック塀の上に昇って、その上を歩いていました。どれだけ速く歩けるかを友達と競ったりしました。そうして塀の上を歩き終わると大人の背の高さぐらいの所から平気で飛び降りていました。今の私の体重で飛び降りたら、すぐに膝を悪くしてしまいます。子供の頃の私は身軽で重力をそんなに感じていなかったのだなと思います。
このように、子供は大人ほどには重力を感じていません。ですから、イエス様が湖の水の上を歩いて自分の方に来たら、大人は怖がるかもしれませんが、子供なら喜ぶ子が多いのではないかと思います。きょうの招きの詞のマルコ10章15節でイエス様はおっしゃいました。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。
私たちは子供から大人へと成長する過程で、様々な常識を身に着けます。その大人の常識が神の国に入ることを妨げることがあることを覚えたいと思います。
③常識に溺れたペテロ、富と権力に溺れたダビデ
重力の中で暮らしていると、それが当たり前になり、イエス様が重力から自由になっていることに恐怖を感じてしまうようになります。そんな弟子たちの中でペテロは一番弟子だけあって、多少は子供のような信仰を持っていたようです。ペテロはイエス様に倣って水の上を歩こうとしました。28節から33節までを交代で読みましょう。
14:28 するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
ペテロも結局は大人の常識に溺れてしまいました。イエス様は人間の常識の中にはいないお方です。ですからイエス様と出会ったなら、新しい常識の中を生きて行きたいと思います。そうでなければ罪の中で溺れて沈んでしまいます。
きょうの聖書交読で開いた詩篇51篇では、罪に溺れて沈んだダビデが神様に助けを求めています。ペテロが「主よ、助けてください」と叫んだように、ダビデも神様の憐みを求めて叫んでいます。詩篇51篇1節と2節をお読みします(週報p.2)。
51:1 神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
51:2 私の咎を私からすっかり洗い去り私の罪から私をきよめてください。
ダビデはイスラエルの王様になったことで富と権力を手に入れ、その中で暮らしている間にいつしか富と権力があることに慣れて溺れてしまい、ウリヤの妻のバテ・シェバとの間で過ちを犯し、遂にはウリヤを戦争の最前線に送って殺してしまいました。富と権力を持っていることが当たり前の中で生活していると、そのような重大な罪を犯してしまいます。そのようなリーダーの例は現代においても会社の社長や自治体の長、あるいは一国のリーダーなどで、たくさんの例が見られますね。
すべてのものは神様によって与えられたものです。しかし私たちはいつしかそのことを忘れて、神様への感謝の思いを忘れがちになります。ペテロやダビデのように溺れて沈んでしまわないように、いつもイエス様の方を向いていたいと思います。
④神による重力の創造こそ畏れて賛美すべき奇跡
イエス様に出会うと、それまで当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなります。イエス様に出会う前の私は自分の人生は自分で切り開いて行くのが当たり前だと思っていました。勉強することで自分の力を蓄え、様々なものを自分の力で獲得して、そうして満足度の高い人生を追求するのが当たり前の人生観だと思っていました。しかし、イエス様と出会ってからは、すべてのものは神様によって与えられたものだということが段々と分かるようになりました。私の命も、日ごとの食べ物も、すべて神様が与えて下さったものだということが少しずつでしたが、段々と分かるようになりました。
そういう風に考えると、重力もまた神様によって与えられたものなのですね。神様は万物を創造した時に、重力もまた造りました。重力が無ければ私たちの体が浮くだけでなく地面の土砂や岩石もバラバラになり、私たちは安定した地盤の上で暮らすことはできません。水や空気も地球に大きな重力があるからこそ、地表にとどまります。もし急に重力が無くなったら空気は皆、宇宙空間に飛んで行ってしまって私たちは呼吸ができなくなります。雨が下に落ちることもなくなりますから水も無くなるでしょう。私たちが生きて行くのに不可欠な空気と水は、重力があるからこそ、地表にとどまります。或いはまた太陽と地球との間に巨大な重力が働いているから、地球は太陽の周りを回り続けることができます。もし急に重力が無くなったら、地球は太陽からどんどん離れて行き、私たちはたちまち凍え死んでしまいます。
私たちは重力があることに感謝するべきです。そして重力を創造した神様を畏れ、賛美しなければなりません。イエス様が重力から自由になって湖の水の上を歩いたことを奇跡だと言っている場合ではありません。重力があること自体が奇跡で、重力を創造した神様をほめたたえなければなりません。
とは言え、ペテロたちの時代には重力のことは分かっていませんでしたから、湖の上を歩くイエス様を怖がったのは仕方のないことかもしれません。しかし21世紀の私たちは重力のことを知っていますから、湖の上を歩くイエス様を奇跡と考えるのではなく、神様がすべての物に働く重力を造って下さったことを素晴らしい奇跡として感謝し、ほめたたえたいと思います。
それで、重力の発見の歴史について簡単に話したいと思います。皆さんはルターによる宗教改革が16世紀の前半の1517年にあったことは、よくご存知ですね。私たちがいま使っている聖書新改訳2017は1517年の宗教改革から500周年という特別の年に発行されましたから、そのことを記念して2017という年号がそのまま付けられています。
このルターが生きた時代と同じ時代を、地動説を唱えたコペルニクスは生きました。コペルニクスは太陽が地球の周りを回っているのでなく、地球が太陽の周りを回っているとしたほうが、天体の動きをより的確に表せることに気付きました。この地動説に基づいて、ケプラーという科学者が惑星の運行に法則性があること、すなわちケプラーの法則を発見しました。しかし、コペルニクスもケプラーも惑星の運行の背後にどんな力が働いているのかは気づいていませんでした。
力の存在に気付いたのはニュートンです。ニュートンの前の時代にガリレオ・ガリレイが地上で物体の落下に関する実験をいろいろと行いました。そしてニュートンは、地上の物体の落下運動と宇宙の天体の運動は同じ法則に基づいていることに気付き、すべての物体の間には引力が働いていること、すなわち万有引力があることを発見しました。コペルニクスの地動説から約1世紀半後の17世紀の後半のことでした。
しかしニュートンといえども、どうして天体と天体の間に引力が働くのか、どうして太陽と地球とは引き付け合っているのかは分かっていませんでした。そのニュートンが分からなかったことを説明したのが20世紀の科学者のアインシュタインです。ニュートンの時代からさらに200年以上が経った1916年のことです。
アインシュタインの一般相対性理論によれば、太陽のような巨大な質量がある周囲では時空が歪んでいるとのことです。そして、その時空の歪みは、皆既日食の時に太陽の方向に見える星の位置を観測することで今から100年前の1919年に確かめられました。星の光が地球に向かって進んで来る時、太陽の近くを通ると時空の歪みに沿って軌道が変わることが、太陽の近くを通らない時の星の位置の観測との比較で分かりました。
ただ、私はこの時空の歪みのことを今一つイメージできないでいました。それが、数年前に重力波が観測されたというニュースを見て、ようやくイメージできるようになりました。皆さんもこの重力波の観測に成功したニュースはご覧になったことと思います。二つのブラックホールが合体したことによって生じた時空の歪みの変化が波として地球まで伝わって来て、それを観測することに成功したということで、2017年のノーベル物理学賞は、この観測プロジェクトのリーダーたちに与えられました。重力波が宇宙空間を伝わっていく様子をシミュレーションした動画を見て、私はようやく時空の歪みがイメージできるようになりました。そうして、時空の歪みという形で重力を造った神様って本当にすごいなと思いました。
⑤神様の創造の御業にワクワクできる現代の恵み
いま時間を使ってコペルニクスから現代の重力波の観測に至る重力の発見の歴史について語りましたが、それは21世紀の現代は神様の創造の御業の素晴らしさに子供のようにワクワクできる恵みに溢れていることをお伝えしたかったからです。世間の人々は、科学が進歩すればするほど神様を信じることは非科学的なことになっていくというイメージを持っているかもしれません。しかし、それは逆です。科学が進歩すればするほど神様の創造の御業の素晴らしさが分かるようになります。このように21世紀の現代は神様への信仰がますます深まって行く恵みに溢れています。ただし、この恵みに与るためには大人の常識に捕らわれないで子供のようなワクワク感を保ち続ける必要があります。
重力の例で示したように、神様は素晴らしい方法で私たちに重力の恵みを与えて下さり、私たちを守って下さっています。この神様の素晴らしい御業へのワクワク感を保ち続けていたいと思います。
それは物理学に関することだけでなく生物学においても同様です。20世紀の半ばの1953年にワトソンとクリックによって遺伝子のDNAの二重らせん構造が明らかにされました。すべての生物は、このDNAによって子孫に遺伝情報が伝達されて行きます。人間も動物も植物も、皆、DNAに書き込まれた情報に基づいて造られるんですね。21世紀に入ってDNAの情報の研究が飛躍的に進んでいます。もはや生物に関することはDNA抜きで考えることはできないのだろうと思います。
聖書を読み始めたばかりの頃の私は、創世記の始めの頃の人物の寿命が900年とか書いてあることを、ぜんぜん信じられないでいました。例えば創世記5章5節にはこのように書かれています(週報p.2)。
創世記5:5 アダムが生きた全生涯は九百三十年であった。こうして彼は死んだ。
しかし考えてみると植物の樹木は種類によっては1000年も2000年も生きます。一方、植物であっても1年以下の短命のものもあります。教会の駐車場のフェンスに咲いている朝顔はひと夏の間に種を作って枯れてしまいますから、半年の命です。それらの寿命に関する情報はDNAの中に書き込まれている筈です。DNAによる遺伝情報の伝達という仕組みを造ったのもまた神様ですから、神様がDNAをちょっと書き換えれば、人間だって植物のように何百年も生きるようにすることも可能でしょう。或いは、いま最長で120年の人間の寿命を犬や猫のように20年以下にすることもまた可能でしょう。
DNAのことを良く知らないでいるなら、創世記の人物の寿命が900年もあったことを信じられないかもしれませんが、生物学の進歩でDNAのことが段々と分かって来ると、神様ならそれがお出来になることが分かり、こういうDNAを造った神様は素晴らしいという気持ちになります。
おわりに
このように、科学の進歩は神様の創造の御業を次々と明らかにしてくれます。そして私たちはその素晴らしさを知り、神様を賛美します。科学の進歩が緩やかだった時代には、大人が子供のようにワクワクするような新しい発見は滅多に無かったかもしれません。しかし、21世紀の現代は次々に新しいことが分かりますから、大人でも子供のようにワクワクできます。この子供のようなワクワク感を私たちは大人になっても保ち続けていたいと思います。大人の常識に捕らわれてしまうことなく、神様の創造の御業を知ることに、いつもワクワクしていたいと思います。
21世紀の現代はそれができる恵まれた時代です。この素晴らしい恵みを多くの方々と分かち合い、神様を心一杯賛美したいと思います。このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。