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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

沈黙の期間に着々と背後で働く神(2020.12.6 アドベント第二礼拝)

2020-12-07 11:00:23 | 礼拝メッセージ
2020年12月6日アドベント第二礼拝メッセージ
『沈黙の期間に着々と背後で働く神』
【マルコ1:14~15、Ⅱコリント12:1~10、ルカ1:8~20】

はじめに
 きょうのアドベント第二礼拝で注目する人物はザカリヤです。特にザカリヤが、口がきけなくなって話せなくなったことに注目したいと思います。
 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①口がきけなくなって沈黙したザカリヤ
 ②沈黙の中間時代に実現した「ローマの平和」
 ③沈黙を強いられた戦時下のホーリネス系教会
 ④本格始動前のパウロのタルソでの神体験
 ⑤コロナ禍による沈黙期間中も背後で働く神様

①口がきけなくなって沈黙したザカリヤ
 5節からだと朗読箇所が長くなるので8節から司会者に読んでいただきましたが、ザカリヤの箇所は5節から始まります。5節から7節をお読みします。

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

 皆さんがご存知の通り、ザカリヤはバプテスマのヨハネの父親です。ルカの福音書1章にはバプテスマのヨハネが生まれた経緯が書かれています。そして、そこに挿入するような形で、イエス様の母のマリアが受胎告知を受けた場面が記されています。

 マリアが御使いのガブリエルから受胎告知を受けた時、ザカリヤは口がきけないでいる期間の真っ只中にいました。ザカリヤが、口がきけなくなった経緯は司会者に読んでいただいた8節から20節に掛けて書かれています。8節と9節、

8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、
9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。

 ザカリヤは神殿に入って香をたくことになりました。くじで決まったということですから、ここには神様が介入しています。ザカリヤは神様に呼び出されて神殿に入って行きました。そうして御使いのガブリエルがザカリヤに現れて、妻のエリサベツが男の子を産むと告げました。しかし、ザカリヤもエリサベツも年を取っていましたから、ザカリヤは言いました。18節です。

18 ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」

 すると御使いはザカリヤに答えました。19節と20節、

19 「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。
20 見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」

 この場面を読むと私は、ザカリヤのことを少し気の毒に思います。例えばアブラハムの妻のサラも不妊の女で子がありませんでした。そしてサラは子を産むことをあきらめていて、子を産むと聞かされた時には信じませんでした。でもサラが、口がきけなくされることはありませんでした。

 或いはまた、「何によって知ることができるでしょうか」というような言い方で神様にしるしを求めた人物は過去にもいました。例えば士師記のギデオンがそうです。士師記6:17でギデオンは言いました(週報p.2)。

士師記6:17 ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。」

 こう言ってしるしを求めたギデオンが、口がきけなくされることはありませんでした。ですからザカリヤのことを私は少し気の毒に思います。しかし、ザカリヤが沈黙を強いられたことが、聖書の中間時代の沈黙と重なると考えると、とても意味があることだと感じます。

②沈黙の中間時代に実現した「ローマの平和」
 聖書の中間時代とは、旧約聖書と新約聖書の間の約400年間の沈黙の期間のことです。旧約聖書の最後のマラキ書の時代からイエス様の誕生まで、約400年間の沈黙の期間がありました。神様の大きな御業が行なわれる前には沈黙の期間があるようです。その代表がこの400年間の中間時代ですが、ザカリヤの約1年間の沈黙はそのミニチュア版とも言えるかもしれません。

 ここで少し時間を取って聖書の中間時代について説明します。
 この400年間の沈黙の期間の間、人々は主の到来を待ち望み続けていました。讃美歌の「久しく待ちにし」にあるように、人々は長い間主が来られることを待っていました。しかし、主はなかなか来ませんでした。それは時が満ちていなかったからです。そうしてマラキ書の時代から400年が経って、ようやく時が満ちました。きょうの招きの詞で引用したように、イエス様はおっしゃいました(週報p.2)。

マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

 どのように時が満ちたのか、一番大きな出来事は、ローマ帝国が地中海沿岸一帯を安定して支配するようになったことでしょう。

 エルサレムは紀元前586年にバビロニア帝国によって滅ぼされました。その後、バビロニアはペルシャに征服され、ペルシャはギリシャに征服され、という具合にユダヤを支配する国は次々と入れ替わっていきました。しかし、紀元前27年にアウグストゥス帝が即位して始まった帝政ローマ帝国は長い間、この地中海沿岸一帯を支配し続けました。

 ルカ2章1節から3節には、このように書かれていますね。

ルカ2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。

 そうして4節にあるようにヨセフとマリアはベツレヘムに行って、そこでイエス様が生まれるわけですが、注目すべきは1節です。「そのころ、全世界の住民登録をせよ」という勅令が初代皇帝のアウグストゥスから出されました。「全世界」ということばが決して大袈裟ではないほどにローマ帝国の支配は広範囲の地中海沿岸一帯に及んでいました。そうして、人々が住民登録のために安全に移動できるほどに平和が広い地域に亘って保たれていて、しかも道路網の整備も進んで通行しやすくなっていました。

 後にパウロが伝道旅行でアジア・ヨーロッパの広い地域を巡って宣教ができたのも、ローマ帝国の一国支配によって平和が保たれていて自由に移動できたからこそです。このことで、イエス・キリストの福音が広く伝えられて行きました。そうして4世紀前半のコンスタンティヌス帝の時にはキリスト教が保護されるようになり、4世紀後半のテオドシウス帝の時代にキリスト教は遂にローマ帝国の国教、国の宗教になりました。もしバビロニア、ペルシャ、ギリシャと次々と支配国が変わっていた時代にイエス様が生まれていたとしたら、とてもこんな風にキリスト教が広く伝わることはなかったでしょう。

 人々が長い間待ち望んでいた主の到来がなかなか実現しなかったのは、時が満ちていなかったからでした。ローマ帝国によって「ローマの平和」が実現したことで、ようやく時が満ちました。

 旧約聖書と新約聖書の間の中間時代は聖書が沈黙していた時代でしたが、神様は背後でしっかりと働いており、着々と準備を進めていました。

③沈黙を強いられた戦時下のホーリネス系教会
 このように沈黙の期間に神様が背後で働いておられた事例と言えば、私たちのインマヌエル教団の創設者の一人の蔦田二雄先生も正にそうですね。主(おも)にホーリネス系の牧師が狙い撃ちにされて拘束された事件は「ホーリネス弾圧事件」として知られています。今年の6月26日のクリスチャン・プレスには次のような記事が載っていました。

「6月26日はホーリネス弾圧事件のあった日です。1942年のこの日早朝、日本政府により牧師96人が「治安維持法違反容疑」(キリストが統治者として再臨することを説いたのが天皇制を否定するものとされました)で逮捕されました(翌年の第二次検挙と合わせて124人)。」

 蔦田二雄先生は最初に逮捕された96名のうちの一人でした。逮捕された牧師のうちの7名は獄死したそうです。想像を絶するほどに過酷であったであろう2年間の獄中生活については、戦争体験がない小さき者の私が軽々しくコメントすべきではないかもしれません。しかし、そのような中にあっても神様は働いておられたことを覚えます。

 この2年間に蔦田先生はどれほど深く神様との対話をしていたことでしょうか。いまコロナ禍の中にあって私は以前と比べて少しだけ神様との対話を深められるようになったと感じています。まして戦時下の獄中であれば、この沈黙を強いられた期間に、どれほど深く神様との対話を掘り下げていたことだろうかと思います。

④本格始動前のパウロのタルソでの神体験
 沈黙の期間に神様との対話を深めた器の事例として、もう一人、パウロを挙げたいと思います。きょうの聖書交読で第二コリント12章を開くことにしたのは、そのためです。もう一度、第二コリント12章を見ることにしたいと思います(新約p.370)。

Ⅱコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。

 2節でパウロは「私はキリストにある一人の人を知っています」と書いていますが、これはパウロ自身のことです。何故こんなややこしい書き方をしているかというと、パウロはこの神体験をとても誇らしく思っていたからです。でも同時に、誇ることは益を生まず、却って害悪のもとになるだけであることをパウロは知っていましたから、こういう書き方をしているのでしょう。それがよく表れているのが1節です。「私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。」

 こういう神体験は極めて個人的な体験ですから、人に話しても決して分かってもらえるものではありません。そういう共感してもらえない個人的なことを誇るなら、人から疎まれたり妬まれたりします。或いは逆に、過大に評価されるかもしれません。いずれにしてもそれらは害悪を生むだけで益にはなりません。ですから決して誇ってはなりません。でも、その体験があまりに素晴らしいと、ついつい誇りたくなってしまうのですね。

 パウロは続けます。3節と4節、

3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。

 この素晴らしい出来事をパウロは「十四年前」に体験したと2節に書きました。パウロの手紙が書かれた時期は概ね分かっていて、第二コリントが書かれたのは紀元55年か56年頃とされています。それより14年前というと紀元41年か42年頃で、これはパウロが故郷のタルソに戻っていた時期です。そこへ、バルナバがパウロを探しに出かけて行き、タルソにいたパウロをアンティオキアに連れて来ました。

 パウロの異邦人伝道が本格的に始まったのは、このアンティオキアからでしたから、パウロのタルソ時代は言わば沈黙の時代と言えます。タルソでも多少の宣教活動はしていたと思いますが、タルソ時代のことでパウロが書き残しているのは、この素晴らしい体験のことだけです。それほどパウロはこの体験を誇らしく思っていました。しかし誇っても良いことはないので第三者的な書き方をしています。5節と6節、

5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

 この神体験はよほど素晴らしかったのでしょうね。パウロは7節でもう一度その体験の素晴らしさを語ります。7節、

7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。

 パウロの体験した神体験はあまりに素晴らしかったので、それゆえに高慢にならないようにと、とげを与えられたとパウロは書いています。よほど素晴らしい神体験だったのでしょうね。

 この素晴らしい神体験がパウロの宣教活動を根底から支えたことは確実です。これほどの体験を与えて下さった神様のためにパウロは粉骨砕身働きました。このように神様は、タルソにいてまだ本格的な宣教を始める前のパウロに幻を見せて、着々と準備をしていました。

⑤コロナ禍による沈黙期間中も背後で働く神様
 今のコロナ禍の中、私たちは外へ向かっての伝道活動ができない、沈黙の期間の中にいます。しかし、きっと神様はコロナ後に備えて着々と準備を進めて下さっていることでしょう。ですから私たちは、今は神様との交わりを深める時としたいと思います。もしかしたらパウロのような神体験を与えて下さるかもしれません。パウロほどではなくても、何らかの幻を見せて下さるかもしれません。或いは個人的に語り掛けて下さるかもしれません。そうして整えられて、コロナの終息後には、神様の御声がもっとさやかに聞こえるようになり、御心にかなった活動ができるようになっていたいと思います。

 ザカリヤも、口がきけないでいる間、神様との交わりを深めていたことと思います。それゆえ息子のバプテスマのヨハネが生まれた時に口がきけるようになったザカリヤは聖霊に満たされて神様を賛美しました。まずルカ1章64節、

ルカ1:64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。

 そして68節と69節、

68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。

 少し飛ばして76節から79節、

76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」

 ルカ1章12節で見たように、神殿で御使いが現れた時、ザカリヤは恐怖に襲われました。しかし、息子のバプテスマのヨハネが生まれて、この恐怖の体験は素晴らしい体験に変わりました。

 自分自身のことを思い返しても、神様との距離が近づく時は恐ろしさを感じていたと思います。もしかしたら神様は自分を用いようとしているかもしれないと初めて思った時には恐怖を感じました。しかし、そこから一歩前に踏み出すことで、多くの恵みをいただきました。

 このコロナの沈黙の期間中、私たちは神様との交わりを深めて、神様が私たちの一人一人に役目を与えて下さろうとしていることを感じたいと思います。それは小さな役目かもしれませんし、人によっては大きな役目かもしれません。それらを感じ取りたいと思います。そうしてコロナ後には私たちも喜びに包まれたいと思います。

 神様との関係がそれまでよりも近くなる時には恐怖を感じることもあるかもしれません。しかし、恐れずに前に進んで行きたいと思います。そうしてザカリヤのように神様をほめたたえたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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大役を果たして静かに退場したヨセフ(2020.11.29 アドベント第一礼拝)

2020-11-30 08:35:24 | 礼拝メッセージ
2020年11月29日アドベント第一礼拝メッセージ
『大役を果たして静かに退場した父ヨセフ』
【ヨハネ17:21(招詞)、ルカ2:41~52(交読)、マタイ1:18~25(朗読)】

はじめに
 きょうから主の到来を待ち望むアドベントの期間に入ります。この期間中、イエス様のご降誕の前後に福音書に登場する人物にスポットを当てることにしていて、礼拝では男性の登場人物、祈り会では女性の登場人物に注目する予定です。

 アドベント第一礼拝のきょうは、イエス様の地上での父親のヨセフに注目します。次の五つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①ひっそりとフェイドアウトした父ヨセフ
 ②イエスそして私たちの父である天の御父
 ③ナザレでは評価されていなかったヨセフ
 ④妻子を守り通した「正しい人」のヨセフ
 ⑤世の人々でなく、神様に評価される生涯

①ひっそりとフェイドアウトした父ヨセフ
 イエス様の母のマリアとは対照的に、父のヨセフはひっそりとフェイドアウトしました。フェイドアウトというのは段々と消えてなくなる様子のことです。例えばラジオ番組で掛かる音楽は、放送時間の関係で曲を最後まで掛けられない場合がありますね。そのような時に、曲の途中でブチっと切れると後味が悪いですから、音が段々と小さくなるように絞って行きます。これがフェイドアウトです。

 福音書の中の父ヨセフは最初は目立っていますが、上手くフェイドアウトしていて、いつの間にかいなくなっています。一方、母のマリアは福音書の途中にも、最後の方にも登場し、使徒の働きの最初でも登場します。

 例えば、先週開いたマルコの福音書では、悪霊を追い出していたイエス様のことを「イエスはおかしくなった」と言う人々がいて、それを聞いたイエス様の身内の者がイエス様を連れ戻しに来たことが書かれていました。その身内の者とは、母マリアと兄弟たちであったことが、続く箇所に書かれています。

 或いはまた、ヨハネの福音書にはイエス様の十字架のすぐ近くに母マリアがいたことが記されています。そして使徒の働き1章14節には、このように書かれています(週報p.2)。

使徒1:14 彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。

 このように母のマリアは使徒の働きに至るまで、存在感をしっかりと示しています。しかし、父のヨセフはいつの間にかいなくなっているという感じです。父のヨセフがイエス様と共に暮らしていた記述があるのは、きょうの交読箇所のイエス様が12歳だった頃の出来事が記されているルカ2章までです。ここでルカは「両親」という形でヨセフがそこにいたことを示しています。2章41節(p.112)、

ルカ2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。

 そして「両親」という言葉が続く42節にも43節にも使われ、さらに48節、49節、50節と51節でも使われています。また、「両親」という言葉以外にも母マリアを通じても父ヨセフの存在が示されています。48節です。

48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」

 いなくなっていた12歳のイエス様は宮、すなわち神殿にいました。46節にあるように両親は三日も探し回っていましたから、見つけた時には父も母もいろいろなことをイエス様に言ったことでしょう。しかしルカは父ヨセフのことばをここには残していません。どうしてでしょうか?

②イエスそして私たちの父である天の御父
 それは49節のイエス様のことばから想像できます。49節、

49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」

 宮、すなわち神殿は神の家です。神の家はイエス様の父の家です。イエス様はもともと天から来られた方ですから、イエス様にとっての父は天の神様でした。ですからヨセフがいると話がややこしくなるということなのでしょうか。これ以降、ヨセフは登場しません。

 イエス様が30歳の頃に地上でペテロたちを弟子にして宣教していた時、母のマリアは登場するのに父のヨセフは登場しないことから、ヨセフは早くに死んだのではないかと考える人も少なくないでしょう。そうなのかもしれません。しかしヨセフがずっと生きていたことも十分に考えられると思います。ヨセフが登場しないのは単に天の父と地上の父の両方がいると話がややこしくなるため、という理由があるのかもしれません。

 30歳の頃のイエス様はペテロたちに天の父のことをいろいろと教えました。地上にいる者たちは天の父に会ったことがありませんが、イエス様は天の父のみもとから地上に来られた方ですから、天の父のことをよくご存知でした。そうして私たちはイエス様によって天の父のことをより良く知ることができるようになりました。

 イエス様は多くの箇所で「父よ」と言って、天の父に呼び掛けています。例えば、きょうの招きの詞でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。

 イエス様がこのように天の父に祈って下さいましたから、私たちは天の父に大胆に近づき、一つとされることができるようになりました。聖霊を通して御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただき、神の子どもとなるようにして下さいました。

 このように私たちがイエス様を信じて神の子どもとされるなら、天の御父は、私たちの父でもあります。それゆえイエス様は、祈る時には先ず「天にいます私たちの父よ」と天の父に呼び掛けるように弟子たちに教えました。ですから私たちがお祈りする時には、まず天の父に呼び掛けます。

③ナザレでは評価されていなかったヨセフ
 ヨセフに話を戻します。後で見ますが、ヨセフは妻のマリアと幼子のイエス様を守るという大きな働きをしました。しかし、ヨセフはナザレでは少しも評価されていませんでした。例えばルカ4:22には次のような記述があります(週報p.2)。

ルカ 4:22 人々はみなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いて、「この人はヨセフの子ではないか」と言った。

 これはイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読んだ時のことです。人々はイエス様をほめ、「この人はヨセフの子ではないか」と言いました。これはつまり、ナザレの人々はヨセフのことを軽く見ていたということですね。ヨセフはナザレの人々にまったく評価されていませんでした。

 これは勝手な想像ですが、もしかしたらナザレの人々は身重の妻をベツレヘムの宿屋に泊まらせてあげることができなかったヨセフのことを甲斐性なしと思っていたかもしれません。住民登録の時にナザレの町からベツレヘムに行っていた人は他にもいたことと思いますから、マリアが家畜小屋で子供を生んだことが人々の間で知れ渡っていたかもしれません。羊飼いたちがお祝いに駆け付けたのを見ていた人は少ないでしょう。ですからこの素晴らしい出来事は伝わらないで、宿屋に泊まれずに家畜小屋で出産したことだけが伝わっていたのかもしれません。

 いずれにしても、ナザレの人々はヨセフを少しも評価していませんでした。しかし、ヨセフは妻のマリアと幼子のイエス様を守るという大きな働きをしました。

④妻子を守り通した「正しい人」のヨセフ
 きょうの聖書箇所のマタイ1章を見ましょう(新約p.1)。18節と19節をお読みします。

マタイ1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 18節にマリアが聖霊によって身ごもっていることが分かったと書いてありますが、この時点でヨセフはまだそのことが理解できていませんでした。それで、婚約者のマリアを密かに離縁しようと思いました。マリアをさらし者にしたくなかったからです。

 律法には次のように書いてあります。開かなくて良いですから、聞いていて下さい。旧約聖書・申命記22章の23節と24節をお読みします。

申命記22:23 ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、
24 あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。

 律法には続けて次のようにも書いています。申命記22章25節です。

申命記22:25 もしある男が婚約中の娘を野で見かけ、彼女を捕まえて一緒に寝たなら、彼女と寝たその男だけが死ななければならない。

 つまり婚約中の処女の娘が男と町で寝たなら娘と男の両方が石打ちで殺されます。しかし、娘が野で男に襲われたなら、男だけが石打ちになります。ただし、たとえ娘が石打ちにならずに済んだとしても、世間のさらし者にはなります。町であっても野であってもマリアはどちらかには該当するはずでした。

 そこで正しい人のヨセフはマリアを密かに離縁して、彼女をさらし者にしないようにすることを考えていました。律法を厳格に適用するなら、ヨセフはマリアをさらし者にしなければなりませんでした。しかしヨセフは律法を杓子定規的に厳格に適用することは考えていませんでした。

 これは後のイエス様に通じるところがありますね。イエス様は働いてはならないとされる安息日に人々の病気を治しました。このことを律法を杓子定規的に厳格に守っていたパリサイ人は批判していました。しかし、イエス様はそんなパリサイ人たちに言いました。

マルコ3:4 「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」

 イエス様はいのちを救うことが安息日の規定に優先することを説きました。正しい人であったヨセフも、マリアを守ることが申命記の規定に優先すると考えていました。マリアと寝た男が実際にいて逮捕されていたならともかく、そのような男はいませんでした。聖霊によって身ごもったという話は理解できなくても、とにかくマリアを守らなければならないと考えました。ヨセフは相当に苦悩したことでしょう。そうしてマリアを密かに離縁しようと考えました。

 そんなヨセフに御使いが現れて言いました。20節と21節、

マタイ1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

 それでヨセフはマリアと離縁しないことにしました。すごいなあと思います。私たちの多くは聖霊のことがまだあまり良く分からないでいます。聖書には御霊や聖霊ということばがたくさん出て来ますが、聖霊は分かりづらいと感じます。それなのにヨセフは、御使いに「その胎に宿っている子は聖霊によるのです」と言われて、それをそのまま信じました。まさにヨセフは正しい人でした。

 そうしてヨセフがマリアを守ったからこそイエス様が生まれて、私たちはインマヌエルの神の恵みに与っています。22節と23節、

22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 22節の預言者というのはイザヤのことですね。旧約聖書のイザヤ書7章14節には、次のように書かれています(週報p.2)。

イザヤ7:14 主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。

 インマヌエルとは23節にあるように、「神が私たちとともにおられる」ということです。今年の5月の前半、私は聖餐式のセットを持参してY兄のご自宅を訪問しました。その聖餐式の場にイエス様が共にいて下さったことを強く感じました。また6月にはH兄の臨終の時に立ち会わせていただきました。その時にもイエス様が共にいて下さり、Hさんを天へと連れて行って下さろうとしている様子を感じていました。イエス様はいつでも私たちと共にいて下さり、天に召される時も一緒にいて下さることは本当に心強いことだと思います。

 このインマヌエルの神の恵みに私たちが与ることができるのも、ヨセフがマリアと幼子のイエス様を守ってくれたからこそのことです。ヨセフは自分に与えられた役目をしっかりと果たしました。

⑤世の人々でなく、神様に評価される生涯
 ヨセフは自分の役割を果たした後、イエス様が12歳の頃を最後にフェイドアウトして、表舞台からひっそりと退場して行きました。ヨセフってカッコイイな~と思います。

 宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」で、賢治は最後にこんな風に書いていますね。

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ(日照りの時は涙を流し)
 サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)
 ミンナニデクノボートヨバレ(みんなに「デグノボー」と呼ばれ)
 ホメラレモセズ(褒められもせず)
 クニモサレズ(苦にもされず)
 サウイフモノニ(そういう者に)
 ワタシハナリタイ(私はなりたい)

 宮沢賢治が理想とした人にヨセフは近かったように感じます。身重の妻をベツレヘムの宿に泊めることができなかったヨセフは、皆に「デクノボー、甲斐性なし」と呼ばれたかもしれません。そうしてヨセフは褒められもせず、イエス様が宣教を開始した時には「この子はヨセフの子ではないか」という言われ方をされていました。

 ヨセフは誰からも褒められることなく表舞台から退場しました。ヨセフは神に仕える者の理想の姿を示したと思います。

 私などは人から褒められるとうれしくなり、褒められないとガッカリします。そういう人の評価から自由になりたいと思いつつも、縛られていて、なかなかヨセフの境地に至ることができません。人の評価をすぐに気にしてしまいます。

 大切なことは、人に褒められることでなく、神様に褒められることです。神様に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と褒めていただくことこそが目指すべきことです。そのことを分かっているつもりでも、私はすぐに人の評価を気にしてしまいます。そんな私にとって、ヨセフの姿は神に仕える者の理想だと感じます。

 ヨセフの働きはナザレの人々には評価されませんでしたが、神様は高く評価しています。ヨセフは妻のマリアと幼子のイエス様を守る大きな働きをしましたから、神様は天に召されたヨセフに「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってヨセフの労をねぎらったことでしょう。

おわりに
 イエス様がこの地上に生まれて下さったことで、私たちはイエス様を通して天の父のことを知ることができるようになりました。そしてイエス様が十字架に掛かって下さったことで神様から背を向けていた私たちの重い罪が赦されました。さらに、イエス様が天に帰ってからはイエス様を信じる者には聖霊が注がれて、神様が共にいて下さるインマヌエルの恵みに与ることができるようになりました。

 それもこれも皆、ヨセフが幼子のイエス様と妻のマリアを守る働きがあったからこそであることを覚えたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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序盤から「聖霊」を強調する福音書(2020.11.22 礼拝)

2020-11-23 08:07:20 | 礼拝メッセージ
2020年11月22日礼拝説教
『序盤から「聖霊」を強調する福音書』
【ガラテヤ5:22~23(招詞)、マルコ1:1~12(交読)、マルコ3:20~30(朗読)】

はじめに
 きょうはアドベントの前の最後の聖日です。きょうの礼拝でもまた、「聖霊」について語ることにしたいと思います。

 11月1日の礼拝メッセージでは、『イエスを信じたなら聖霊の内住も信じる』という説教題で、イエス様を信じている私たちは聖霊が内に住んで下さっていることも信仰によって信じるべきことをお勧めしました。

 どうして聖霊の話を多く語るのか、それは四つの福音書がどれも聖霊を受けることの重要性を陰に陽に熱心に語っているからです。福音書にはイエス様の言動が書かれていますから、私たちは先ずイエス様に注目しますが、聖霊にも注目するなら、福音書が聖霊についていかに熱心に語っているかが、良く見えて来ます。

 今年の私たちの教会の標語聖句は第二コリント13章13節の「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」です。ここでパウロは父・子・聖霊の三位一体の神の重厚な恵みがコリントの教会の人々に与えられように祈っています。

 ですから、この標語聖句に沿って今年の礼拝メッセージでは、年末に近づいたら聖霊の恵みを分かち合うことを最初から目指していました。今年の半ばはコロナウイルスの感染拡大があったり、二人の兄弟を天に見送ったりして方向性がぶれたこともありましたが、年末を控えて聖霊の恵みをしっかりと分かち合いたいと願っています。

 きょうは週報p.2に載せた四つのパートで話を進めて行きます。

 ①「聖霊とは何か」、「聖霊の働き」の復習
 ②冒頭から「聖霊」を語り始めるマルコの福音書
 ③助け主(聖霊)の助けが必要なマルコ3章の理解
 ④聖霊を冒瀆して内住を拒む者は永遠に赦されない

①「聖霊とは何か」、「聖霊の働き」の復習
 教会ではイエス様のことだけでなく、天の父と聖霊についてもよく語られます。天の父については旧約聖書を読めばそれなりに分かると思いますが、聖霊については良く分からないという方も少なくないと思います。

 それで先週の礼拝メッセージでは、聖霊を「イエスの霊」、或いは「イエスの御霊」と考えると理解しやすいと話しました。イエス・キリストを信じて聖霊が内に住んで下さるようになると、助け主である聖霊が働いて、イエス様が福音書でおっしゃっていることが段々よく分かるようになります。それはつまり、イエス様の霊が私たちの内に住むようになって、私たちに直接語り掛け、教えて下さるということです。ですから、聖霊とはイエス様の霊と考えると、聖霊のことが分かりやすくなると思います。

 このように、聖霊にはイエス様の教えの理解を助ける助け主としての働きがあります。そしてまた、聖霊には私たちの心をきよめる力があります。聖霊は神様ですから、私たちの内に住んでいただくためにはきよめていただく必要があります。きよめられないでそのままで住んでいただくには、私たちの心はあまりにも汚れています。聖霊はその私たちの心をきよめて下さり、住んで下さるようになります。自分の心はまだまだそんなにきよめられていないと思うこともあるかもしれませんが、聖霊が働いて下さっていて、きよめて下さっていることを信じたいと思います。

 そして聖霊は私たちに宣教の力を与えて下さり、私たちをイエス様の証人にします。聖霊は私たちの心の内に御霊の実を結ばせて、イエス様に似た者に変えて行ってくださいます。先週も引用しましたが、今週はこのガラテヤ書の箇所を招きの詞にしました(週報p.2)。パウロがガラテヤ人への手紙に書いたように、

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

 この御霊の実が私たちの内で結ばれて育つなら、私たちはイエス様に似た者にされて行き、イエス様の証人になります。イエス様に似た者にされるなら、その人はキリストの香りを放ちます。

 このように聖霊は私たちに宣教の力を与えて下さり、私たちに御霊の実を結ばせてキリストの香りを放つようにして下さり、イエス様の証人になるようにして下さいます。

 また聖霊は、宣教の最善のタイミングと進むべき方向も示して下さることを先週のメッセージで話しました。パウロが第一次伝道旅行へと押し出されて行ったのは、彼が異邦人伝道のための器としてイエス様に召し出されてから10年以上も経ってからでした。神様は時が満ちて最善の時に、私たちを宣教へと押し出して下さるお方です。私たちは御霊の実を結んで育てて、その最善の時のために備えていたいと思います。

②冒頭から「聖霊」を語り始めるマルコの福音書
 この聖霊を受けることの重要性を、四つの福音書は陰に陽にとても熱心に説いています。ヨハネの福音書のイエス様が弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃったことは、先日ご一緒に見ましたね。週報のp.2にも載せたヨハネ20章22節です。

ヨハネ20:22 (イエスは)こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 また、ルカの福音書11章のイエス様はこのようにおっしゃっています(週報p.2)。少し長い箇所なので抜粋してあります。

ルカ11:9-13(抜粋)「求めなさい。そうすれば与えられます。だれでも、求める者は手に入れます。天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

 このようにルカの福音書のイエス様も聖霊を天の父に求めるべきことを説いています。一方、マタイの福音書は表立っては聖霊を受けることの重要性をあまり語っていません。しかし、山上の説教でイエス様が語っている、「あなたがたは世の光です」(マタイ5:14)は、明らかに聖霊のことです。「あなたがたは世の光です」とおっしゃった後、イエス様は続けました。マタイ5章16節です(週報p.2)。

マタイ5:16 あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。

 これは、聖霊を受けて御霊の実を結んでイエス様に似た者にされなさいと言っているのと同じことですね。

 そしてマルコの福音書では、きょうの交読で読んだように、かなり始めの方で聖霊への言及があります。交読箇所のマルコ1章をご一緒に見ましょう(p.65)。

 マルコの福音書はイエス様が生まれた頃のことを書いていません。バプテスマのヨハネに関する記述から始まります。そのバプテスマのヨハネが、1章の8節という非常に早い段階で聖霊に言及しています。8節、

マルコ1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 バプテスマのヨハネは、こう言ってイエス様が聖霊のバプテスマを授けるお方であることを人々に語りました。イエス様が聖霊のバプテスマを人々に授ける働きをするようになったのは、イエス様が十字架で死んで復活した後に天に昇ってからの、ペンテコステの日以降のことです。

 地上生涯のイエス様は人の病気を癒したり、悪霊を追い出したり、様々な働きをしましたが、人々に聖霊を授ける働きはしていません。それは天に帰ってからの働きです。それなのに、バプテスマのヨハネは、先ずイエス様が聖霊を授けるお方であると言いました。私たちが聖霊を受けることがいかに大切なことであるかが、ここから良~く分かると思います。

 大切なことなので、もう一度繰り返します。マルコがバプテスマのヨハネを通して福音書の冒頭で語ったことは、イエス様が天に帰ってからの働きについてでした。イエス様の地上での働きではなく、イエス様が天の父のみもとに帰り、天から聖霊を私たちに遣わす働きについて先ず語りました。私たちが天から聖霊を与えられることは、それほどまでに重要なことなんだということを、しっかりと覚えていたいと思います。

③助け主(聖霊)の助けが必要なマルコ3章の理解
 聖霊を受けることが、どうしてそんなに大切なのでしょうか?

 先ほど、聖霊の働きについての復習をしました。聖霊を受けなければ、様々な聖霊の働きの恩恵を受けることはできません。その中でも、助け主の助けを得ることは特に大事ではないかと個人的には思っています。助け主の助けを受けないことには、イエス様が何をおっしゃっているのか、難しくて分からないからです。イエス様の言葉は本当に難解です。でも助け主の助けを得るなら、だんだん分かるようになります。これは本当に大きな恵みだと思います。

 きょうのマルコ3章のイエス様のことばも難しいですね。特に3章28節と29節が難しいと感じます。イエス様は「まことにあなたがたに言います」、ギリシャ語では「アーメン」と前置きしています。新共同訳では「はっきり言っておく」と訳しています。この前置きがあるということは、これはとても大切なことだということです。そんなにも大切なことなのに難解で分かりにくいです。28節と29節、

マルコ3:28 「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

 どうして神を冒涜しても赦していただけるのに、聖霊を冒瀆する者は赦されないのでしょうか?これは聖霊を受けて助け主の助けを得なければ、絶対に分からないことだと言えるでしょう。これから、その説明をします。先ず、20節から見て行きます。

20 さて、イエスは家に戻られた。すると群衆が再び集まって来たので、イエスと弟子たちは食事をする暇もなかった。
21 これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。

 ここでイエス様は悪霊を追い出す働きをしていました。それを見て、「イエスはおかしくなった」と言っている者たちがいました。これは少し分かる気がします。悪霊退散の祈りなどは、神道にもお祓いがあるように多くの宗教に見られると思いますが、あまりに熱がこもっていると傍目(はため)には、怪しく見えることもあるかもしれません。もしかしたら、イエス様もそんな風だったのかもしれません。続いて22節、

22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼はベルゼブルにつかれている」とか、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」と言っていた。

 ベルゼブルというのは悪霊のかしらのことです。そこでイエス様は彼らに言いました。23節から26節、

23 「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。
24 もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。
25 もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。
26 もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。」

 悪霊を追い出しているイエス様が悪霊のかしらだとしたら、それは内部分裂です。しかし、イエス様の現場では内部分裂は起きていませんでした。イエス様は悪霊よりももっと強い者として悪霊を追い払っていました。27節、

27 まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。

 そうしてイエス様はおっしゃいました。28節と29節、

28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」

 先ほども言いましたが、どうして神を冒涜することを言っても赦していただけるのに、聖霊を冒瀆する者は、永遠に赦されないのでしょうか?このことについてマルコは次の30節のように説明していますが、これもそんなに分かりやすいとは言えません。30節、

30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

④聖霊を冒瀆して内住を拒む者は永遠に赦されない
 神学校のBTCに入ったばかりの頃の私にとって、この箇所のイエス様のことばは謎でした。しかし、信仰によって聖霊の内住を信じるようになってからは、助け主の助けを得て、段々と分かるようになりました。

 このイエス様のことばは、神と聖霊の位置関係を考えれば分かりやすいと思います。神とは天の父のことですから、天におられます。一方、聖霊は私たちがいる地上に遣わされています。

 聖霊を受ける前の私たちにとって、天におられる父は遠い存在です。天は地上とは違う世界にありますから、天におられる父は聖霊を受ける前の私たちにとっては、良く分からない存在です。ですから、良く分からないままで天の父を冒涜しても赦されます。

 さてしかし、聖霊は天から地上に遣わされる身近な存在です。聖霊はイエス様を信じるなら聖霊を受けることができます。ですから、「イエスは汚れた霊につかれている」などと言ってイエス様を信じない者は聖霊を受けることができません。

 始めに復習したように、聖霊は「イエス様の霊」、或いは「イエス様の御霊」ですから、「イエスは汚れた霊につかれている」と言ってイエス様を冒瀆することは聖霊を冒瀆しているのと同じです。このようにイエス様を冒瀆し、聖霊を冒瀆する者は決して聖霊を受けられませんから永遠のいのちを得ることができません。永遠のいのちが得られなければ、永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。

 聖霊を冒瀆する者は聖霊の内住を拒む者ですから永遠に赦されません。「厳しいなあ」と思います。でも、ここには希望も見出せると思います。なぜなら、私たちの周囲の方々はイエス様のことをまだほとんど知らないからです。知らないから、イエス様を冒瀆することもありません。ただし、多くの方々は天の父と無関係に生きています。天地万物を創造して私たちの命を造った天の父を崇めずに背を向けていますから、天の父である神様のことを冒涜しています。

 そういう方々に私たちはイエス様をお伝えして、イエス様を通して天の父のことを知っていただき、天の父を冒涜した罪を赦していただけるように働きたいと思います。その働きのために、私たちは御霊の実を結んで、イエス様に似た者にされて、イエス様の証人になりたいと思います。週報p.2に記したマタイ5章の14節と16節を、もう一度お読みします。

マタイ5:14 「あなたがたは世の光です。」
16 「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。」

 このように人々が天の父を崇めるようになるなら、天の父を冒瀆した罪は赦されます。

おわりに
 次の聖日からアドベントに入ります。神の御子のイエス様が天から地上に来てヨセフとマリアの子になって下さったことで、私たちはイエス様を通して天の父を身近に感じることができるようになりました。それ以前は天の父は遠い存在でしたから、よく分からないでいて、分からないままに冒瀆していました。天の父を冒瀆することは本来なら赦されない重い罪です。それなのに憐み深い神様は赦して下さいました。

 その罪の赦しのためにはイエス様の十字架という尊い犠牲があったことを忘れてはなりません。

 罪のこと、イエス様の十字架のことは聖霊を受けて助け主の助けを得ることで、より深く分かるようになります。きょうご一緒に見たように、マルコの福音書は、序盤から、聖霊を拒まずに受けることの重要性を説いています。マタイの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書も、聖霊を受けることの重要性を説いています。四つの福音書のすべてが聖霊を受けることの重要性を説いています。

 このことを覚えながら、アドベントに備えて行きたいと思います。
 しばらく、ご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

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宣教の力を与え、時と方向を示すイエスの御霊(2020.11.15 宣教聖日礼拝)

2020-11-16 08:40:56 | 礼拝メッセージ
2020年11月15日宣教聖日礼拝メッセージ
『宣教の力を与え、時と方向を示すイエスの御霊』
【使徒1:8(招詞)、13:1~5(朗読)、16:1~10(交読)】

 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①聖霊は「イエスの御霊」と考えると理解しやすい
 ②宣教の力を与え、御霊の実を結ばせて下さる聖霊
 ③宣教すべき時のタイミングを示して下さる聖霊
 ④宣教すべき方向を示して下さる聖霊
 ⑤コロナ禍の今は御霊の実を結んで育てる時

①聖霊は「イエスの御霊」と考えると理解しやすい
 キリスト教会では、天の父と御子イエス様のことだけでなく、聖霊についても良く語られます。でも、「聖霊って何だろう?」と今一つ分からないでいる方もおられるかもしれません。私自身も、高津教会の信徒だった時、実は聖霊についてはあまり良く分かっていませんでした。

 そういう方にお勧めしたいのは、聖霊とは「イエス様の霊」、或いは「イエス様の御霊」と考えることです。ヨハネ14:26でイエス様はこのようにおっしゃっています。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 聖霊は助け主であり、イエス様が弟子たちに話したことの理解を助けて下さいます。それはつまりイエス様の霊が私たちの内にいて語り掛けて下さっているということです。そうして私たちは段々とイエス様に似た者へと変えられて行き、イエス様の証人になります。

 先々週の礼拝メッセージでは、『イエスを信じたなら聖霊の内住も信じる』というタイトルで話して、聖霊が自分の内にいることを、信仰をもって信じるべきことをお勧めしました。聖霊の内住を信じるなら助け主の助けを得て、イエス様のことばが段々と理解できるようになります。

 ですから私たちは、イエス様の御霊である聖霊が私たちの内に住んで下さっていることを信じたいと思います。
 
②宣教の力を与えて下さる聖霊
 聖霊の働きはいろいろあります。宣教聖日礼拝の今日は、主に宣教面での働きに注目して分かち合いたいと思います。

 きょうの招きの詞にあるように、使徒の働き1章8節でイエス様はおっしゃいました。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 聖霊を受けると私たちは宣教の力を得て、イエス様の証人となり、イエス様を証します。イエス様の証人となるとは、イエス様の十字架を宣べ伝えることもありますが、もっと大切なことは、御霊の実を結んで、キリストの香りを放つことでしょう。パウロはガラテヤ人への手紙に、御霊の実について次のように書いています(週報p.2)。

ガラテヤ5:22-23御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

 この御霊の実を結ぶことで、キリストの香りを放ち、イエス様の証人になることができます。自分自身、私自身のことを思うなら、まだまだ至りません。足りない者であることを覚えます。だからこそ、御霊の実を結んでイエス様に似た者にされ、キリストの香りを放つイエス様の証人になれるよう、変えていただきたいと願っています。

③宣教すべき時のタイミングを示して下さる聖霊
 聖霊は宣教すべき時のタイミングを示して下さいます。

 きょうの聖書箇所の使徒の働き13章を見ましょう(新約p.259)。ここにはパウロが第一次伝道旅行に出発した時のことが書かれています。第一次伝道によってイエス様の福音は地中海沿岸のアジア一帯に広がって行きました。1節、

使徒13:1 さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳(ち)兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。

 サウロというのはパウロのことです。キリスト教会は最初エルサレムで誕生しました。しかしステパノが迫害に遭って信徒がエルサレムから散らされました。そうしてできた教会の一つが異邦人伝道の拠点となったアンティオキア教会です。このアイティオキア教会はパウロの伝道旅行の拠点ともなり、この13章からいよいよパウロの第1次伝道旅行が始まります。続いて2節と3節、

2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。
3 そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。

 ここで先ず注目したいのは、「聖霊」が彼らに語り掛けたということです。聖霊は「イエス様の御霊」です。イエス様が彼らに、「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。」とおっしゃいました。

 もう一つ注目したいのは、このイエス様の御霊である聖霊が「さあ」と言ってパウロを伝道旅行に押し出したのは、パウロがダマスコで回心してから、実に10年以上、恐らくは14,5年も経っていたということです。パウロはダマスコで回心してから3年ほどはダマスコとアラビア方面で伝道していましたが、その後、故郷のタルソに戻ります。そうして約10年間、故郷のタルソにいました。

 パウロをタルソからアンティオキアに連れて来たのはバルナバです。13章の少し手前の11章25節と26節に、このことが書かれています。

使徒11:25 それから、バルナバはサウロを捜しにタルソに行き、
26 彼を見つけて、アンティオキアに連れて来た。彼らは、まる一年の間教会に集い、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンティオキアで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 パウロは異邦人伝道のためにイエス様がダマスコで召し出した器です。しかし、約10年間、故郷のタルソにいました。タルソでは異邦人伝道は十分にはできなかったことでしょう。バルナバに連れられてアンティオキアに来てからは異邦人伝道の働きができるようになりましたが、それでもアンティオキアに留まる限りはイエス様の福音は広がって行きません。パウロが伝道旅行に出たからこそ、イエス様の福音が地中海沿岸のアジアとヨーロッパ一帯に広がって行きました。

 その伝道旅行へと押し出すイエス様の「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」ということばがあったのはパウロがダマスコで召し出されてから10年以上の後、恐らくは14,5年後であったということを見ると、神様は闇雲に指示を出すのではなく、時を見計らって、時が満ちた時に指示を出すお方だということが、よく分かりますね。
 
④宣教すべき方向を示して下さる聖霊
 聖霊は宣教すべき方向を示して下さいます。

 交読で読んだ使徒16章を見て下さい(新約p.267)。ここにはパウロたちの宣教がアジアからヨーロッパへと広がって行った時のいきさつが書かれています。きょうは時間の関係で地図は開きませんが、是非ご自身で地図を見ながら、この箇所を味わってみていただきたいと思います。

 6節から見て行きます。6節と7節、

使徒16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。

 これはパウロの第二次伝道旅行の時の出来事です。6節にあるようにパウロたちはアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、7節にあるようにビティニアに進もうとしましたが、イエスの御霊がそれを許しませんでした。6節には聖霊とあり、7節にはイエスの御霊とありますが、どちらも同じ聖霊です。きょうのメッセージの①番目のパートで、聖霊はイエスの御霊と考えれば理解しやすいと言いましたが、その根拠はこの使徒16章の6節と7節にあります。

 さて、パウロたちはビティニアに進むことも許されませんでしたから、8節にあるようにトロアスに下りました。トロアスというのは、今のトルコにあるエーゲ海に面した港町で、ギリシャの対岸にあります。先日、大きな地震があった地域より少し北側にあります。そして9節、

9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。

 この幻も聖霊がパウロに見させたものでしょう。マケドニアはヨーロッパのギリシャにありますから、聖霊はパウロたちへヨーロッパの方向に行くようにと示しました。続いて10節、

10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

 こうして聖霊はパウロたちにヨーロッパに向かうように示して、イエス・キリストの福音はアジアからヨーロッパへと広がって行きました。そして、それらの地域でイエス様の証人が増えて行きました。

⑤コロナ禍の今は御霊の実を結んで育てる時
 いま私たちは新型コロナウイルスの感染拡大のために、伝道の働きができないでいます。秋の特別伝道もできませんでしたし、クリスマスの伝道の働きもできません。しかし③番目のパートで話したように、神様は時を見計らって時が満ちた時に指示を出すお方です。ですから今は「御霊の実を結んで育てる時」です。週報p.2に載せたガラテヤ5章22節と23節をもう一度お読みします。
 
ガラテヤ5:22-23御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

 私たちは、この御霊の実を結び、大きく育てて、やがて来る時が満ちる時に備えたいと思います。イエス様が「さあ」と言って、私たちを伝道へと押し出す時に備えたいと思います。この備えのために、次週も聖霊についてのメッセージを取り次ぐことにします。

 イエス様の御霊である聖霊は、宣教の力を与え、御霊の実を結ばせ、宣教の時と方向を示して下さるお方であることを、覚えたいと思います。

 このことを覚えて、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。
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イエスを信じたなら聖霊の内住も信じる(2020.11.1 礼拝)

2020-11-02 08:59:23 | 礼拝メッセージ
2020年11月1日礼拝メッセージ
『イエスを信じたなら聖霊の内住も信じる』
【ヨハネ14:26(招詞)、マタイ18:21~35(交読)、ヨハネ20:19~23(朗読)】

①聖霊が内にいる確信が無いと助け主の助けが得られない
 きょうは先ず、聖宣神学院でのK先生の授業の思い出話から始めます。

 確か1年生の時だったと思いますが、K先生が教室にいる神学生に向かって「皆さんは聖霊が内にいることを確信していますか?」と聞きました。その時私は、「聖霊が内にいると感じる時もありますが、感じない時もあります」と答えました。するとK先生はおっしゃいました。「人間の心は安定しないから聖霊を感じたり感じなかったりすることがあるけれど、聖書にはイエスを信じた者の内にいる聖霊のことが書いてあるのだから、自分の内にも聖霊がいると信仰によって信じるべきです。」

 表現は少し違ったかもしれませんが、K先生は、そのようなことをおっしゃいました。それまでの私は聖霊をとらえどころのない、あまり良くわからないものだと感じていました。それで聖霊が内にいることを感じたり感じなかったりで、私にとっての聖霊はとても曖昧な存在でした。しかし聖霊が内にいることは信仰によって信じるものなのだということを教わってからは、聖霊が内にいることを確信できるようになり、聖書の理解が深まるようになって行きました。

 それはつまり、聖霊が内にいると信じたことによって、助け主の助けを以前よりもずっと得られるようになったということです。自分の内にいるのかいないのか分からない助け主に助けをお願いするのでなく、いると確信してお願いするのですから、助けを得られることが格段に多くなりました。きょうの招きの詞で引用したように、イエス様はヨハネ14章26節で言いました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 イエス様の教えはいろいろと分かりにくいことが多いですが、助け主が理解を助けて下さいます。しかし、聖霊が内に入ると自動的に分かるようになるのではなくて、聖霊が内にいるという確信がないと助け主の助けが十分に得られないのですね。このことを皆さんにお伝えしていなかったから、私の説教は分かりづらかったのだということに、ようやく気付きました。

 神は霊です。ですから、聖書の世界は霊的な世界です。世俗を離れて聖書の霊的な世界に入って行くためには、助け主に助けていただくことが必要です。

 音楽も同じですね。音楽を深く楽しむには日常の仕事や家事を離れて音楽の世界に深く入ることが必要でしょう。詩も同じです。俳句や短歌も同じです。俳句は日常で使う散文ではなくて詩の韻文の世界ですから、詩の韻文の世界に入らないと散文的な俳句しか作れません。



 実はこれは最近読んでいる俳句の本の受け売りです。最近私は長谷川櫂という俳人が書いた『一億人の切れ入門』(角川俳句ライブラリー)という本を読んでいます。「切れ」とは例えば「や」を使って俳句の中を切ることです。「や」を挟んで俳句を一旦そこで切ることで、そこに「間」ができます。時間と空間の「間」です。この「間」を作ることで、俳句はたった十七文字しかないのに、広々とした時間と空間が俳句の中で広がるようになります。

 これは俳句に親しんでいる人には常識なのかもしれませんが、『一億人の切れ入門』にはさらに興味深いことが書いてあります。それは俳句の前と後にも「切れ」があるのだそうです。例えば松尾芭蕉の「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」には「切れ」が三つあると著者の長谷川櫂さんは書いています。「切れ」を/の斜線で表すと、次のようになります。

/夏草や/兵どもが夢の跡/

 このように「夏草や」の「や」の「切れ」の他にも最初と最後、すなわち「夏草や」の前と「夢の跡」の後にも「切れ」があるそうです。それは、散文の「日常の心」から韻文の「俳句の心」へと切り替えるスイッチなのだそうです。そうして散文の日常の中にいる俳句の作者と読者は最初の「切れ」によって韻文の詩的な俳句の世界に入って行き、十七文字の俳句が終わったら、また詩の世界から出て日常に戻って行きます。

 聖書も同じです。聖書を読む時は日常から神の霊的な世界へとスイッチを切り替えることが必要です。そうして読み終わったら霊的な世界を離れて日常に戻ります。しかし助け主の助けが得られないなら神の霊的な世界に入ることができずに、日常の世俗の感覚のままで聖書を読むことになります。それでは御父と御子との豊かな交わりを感じることはできないでしょう。

 それで今日のタイトルを『イエスを信じたなら聖霊の内住も信じる』としました。「内住」とは「内に住む」ということですから、つまり「内にいる」ということです。そして今日のメッセージは週報p.2に記したように、次の四つのパートで話を進めています。

 ①聖霊が内にいる確信が無いと助け主の助けが得られない
 ②「平安があるように」と三度も言った主イエス
 ③一人一人が聖霊による平安を得れば世は平和に向かう
 ④信仰でイエスを信じたなら信仰で聖霊の内住も信じる

②「平安があるように」と三度も言った主イエス
 ①は既に話しましたから、次に②について話します。

 きょうの聖書箇所でイエス様は「あなたがたに平安があるように」とおっしゃった後で、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。ヨハネの福音書20章21節と22節です。

21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 イエス様は19節でも「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。19節の終わりに「平安があなたがたにあるように」とありますね。そうして21節で再び「平安があなたがたにあるように」とおっしゃってから、22節で「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。つまり、聖霊を受けないと平安は得られないということです。

 22節で「聖霊を受けなさい」と言った時、イエス様は弟子たちに息を吹きかけました。この場面は創世記で神様が最初の人のアダムを造られた時に鼻から息を吹き込んだ場面を思い起こしますね。

 皆さんは22節のイエス様が弟子たちに息を吹きかけた場面をどれくらいの距離感で読んでいるでしょうか。距離感の近さ遠さで聖書の霊の世界に入っているかどうかが分かると思います。私の場合、昼の忙しい時にここを読むと第三者的に距離を置いて読んでしまいますが、朝の朝食前の心が静まっている時にここを読むと、イエス様の顔がすぐ近くに迫って来て、まるで自分に息が吹きかけられているように感じます。短い箇所ですから、ぜひ皆さんも試してみて下さい。静まって心が整えられている時に21節と22節を読むと、本当にイエス様を近くに感じると思います。これが内にいる聖霊の働きです。ただし助け主の助けが十分に得られないと、日常の世俗から霊の世界への切り替えが上手く行かないと思いますから、自分の内に聖霊がいることを確信していただきたいと思います。

 私たちはイエス様を身近に感じれば感じるほど深い平安を得ます。それはイエス様が平安を与えて下さるからです。先ほど今日の招きの詞のヨハネ14章26節を引用しましたが、イエス様はその26節の後の27節で(週報p.2)、

ヨハネ14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

とおっしゃいました。26節で聖霊の話をして、27節で「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます」とおっしゃっています。つまりイエス様から与えられる平安は聖霊によって与えられるということです。そうして20章に戻っていただいて、イエス様は20章26節でもう一度、「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。つまりイエス様は三度も「平安があなたがたにあるように」とおっしゃいました。

 この福音書の最後の方の20章で「平安があなたがたにあるように」とイエス様が三度も言ったということは、これがヨハネの福音書の重要なメッセージの一つであることは間違いありません。最も重要であると言っても過言ではないかもしれません。何度も話していることですが、このヨハネの福音書のイエス様の第一声は(週報p.2)、

ヨハネ1:38 「あなたがたは何を求めているのですか。」

です。これがヨハネの福音書に出て来るイエス様の最初の言葉です。第二声が

ヨハネ1:39 「来なさい。そうすれば分かります。」

です。このイエス様の招きの詞に応じてイエス様に付き従い、イエス様と一緒に1章から20章までを旅します。そして、この20章の最終盤で「平安があなたがたにあるように」と三度もおっしゃっています。ですから、私たちが求めているものとは、聖霊による「平安」ではないでしょうか。そうしてヨハネは20章31節で、

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

と書きました。イエス様が神の子キリストと信じるなら、私たちはいのちを得ます。聖霊が与えられることによって私たちは永遠の命を得ます。そうして聖霊による深い平安を得ることができます。

③一人一人が聖霊による平安を得れば世は平和に向かう
 この「平安」をギリシャ語では「エイレーネー」と言い、「平和」とも訳します。新改訳はこの「エイレーネー」を「平安」と訳したり「平和」と訳したりしていますが、新共同訳では一貫して「平和」と訳しています。ですから、この「平安があなたがたにあるように」を新共同訳では「あなたがたに平和があるように」と訳しています。

 つまり新共同訳ではイエス様は20章で三度も「あなたがたに平和があるように」とおっしゃっています。一人一人が平安を得れば、世は平和に向かいます。

 私たちの一人一人が聖霊を受けてイエス様の平安を得て、それが一人また一人と増えて行けば、世は必ず平和の方向に向かっていくはずです。イエス様が「平安があなたがたにあるように」、また「あなたがたに平和があるように」、とおっしゃっているのですから私たちは、このことのために祈り、働きたいと思います。一人一人に平安が与えられて世が平和に向かうよう祈り、そのために働きたいと思います。

 20章21節でイエス様は「平安があなたがたにあるように」とおっしゃった後で弟子たちに「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」とおっしゃいました。そうして22節で、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。イエス様は聖霊を受けた私たち全員を世に遣わして平和を告げ知らせるようにおっしゃっているのだと思います。牧師はもちろん、そのために世に遣わされています。牧師は皆、平和を告げ知らせるために世に遣わされています。しかし、世に遣わされているのは牧師だけではありません。イエス様を信じて聖霊を受けた者は皆、世に遣わされています。なぜなら、聖霊を受けて人の罪を赦すことができるようにならなければ、世は平和に向かわないからです。

 22節で「聖霊を受けなさい」とおっしゃったイエス様は23節でおっしゃいました。

ヨハネ20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 人の罪を赦すことは難しいことですが、私たちは神様に罪を赦していただいた者たちですから、人の罪も赦したいと思います。罪が残るなら平和は訪れません。

 きょうの聖書交読ではマタイの福音書18章を開きました。もう一度、ご一緒に読みたいと思います(新約p.37)。

マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」

 私たちはたった1回でも人を赦すことは難しいことです。ですから7回も人を赦せる人がいたとしたら、相当に寛容な人だと普通は思いますね。ペテロもそういうつもりで多めに言ったのでしょう。しかし、22節、

22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。

 7回を70倍するまで、つまり無限に赦しなさいということです。それは、私たちもまた神様に罪を赦していただいているからです。そうしてイエス様はこんな例え話を話されました。23節から27節までをお読みします。

23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

 こうして家来は一万タラントの負債を免除してもらいました。1タラントは6千デナリですから、1デナリを1万円とすれば1万タラントは6千万円×1万で6千億円です。ところが、この家来は、自分は莫大な金額の負債を免除してもらったのに、自分の仲間に貸した100デナリを返せと要求したんですね。そして、返さなかった仲間を牢に入れてしまいました。それを聞いた主君は怒りました。少し飛ばして32節と33節、

32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

 人を赦すことは難しいことですが、私たちは神様に罪を赦していただいているのですから、人を赦すべきです。聖霊を受けているなら、それができます。なぜなら聖霊を受けた私たちの中にはイエス様がいらっしゃるからです。イエス様は十字架の苦痛と恥辱を受けたにも関わらず、「父よ、彼らをお赦しください」とおっしゃいました。ルカの福音書23章の33節と34節です(週報p.2)。

ルカ23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」

 聖霊を受けた私たちの中には、このイエス様がいて下さいます。私たちの内には聖霊がいて、イエス様がいます。このことの確信を持ちたいと思います。

④信仰でイエスを信じたなら信仰で聖霊の内住も信じる
 12年前の2008年から2012年までの4年間、聖宣神学院の神学生として私は多くのことを学ばせていただきました。その多く学んだ中で最も有益だったことの一つがK先生から学んだ「聖霊が内にいることを信仰をもって信じる」ことです。これを信じることで助け主の助けを得て、聖書を読む時には神の霊の世界に入ることができるようになりました。

 最初に言ったように、音楽には音楽の世界があり、俳句や短歌などの詩には詩の世界があります。俳句の世界に入らずに日常のままで俳句を作るなら、日常の散文的な俳句になってしまいます。聖書も助け主の助けを得て神の霊の世界に入らなければ日常の世俗の中で聖書を読むことになってしまいます。すると御父と御子との交わりに入れていただくことはできません。

 私たちは十字架のイエス様を信じるべきことは何度も何度も繰り返し教わります。しかし、聖霊が内にいることを信じるべきことはあまり教わりませんね。でも聖霊が内にいることを信じなければ助け主の助けを十分に得られませんし、罪の理解も深まりません。自分が神様に赦された者であることにもなかなか思い至ることができません。それゆえ、この世はなかなか平和に向かいません。

おわりに
 私たちはイエス様を信じて聖霊を受けたなら、聖霊を信じて、聖霊が自分の内にいることを信仰をもって確信したいと思います。そうして助け主から教えを受けながら、平安の中を歩み、遣わされたこの世で平和を告げ知らして行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。
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次の四半世紀を導く全能AI(オールマイティ・インテリジェンス)の神(2020.10.26 教団創立記念礼拝)

2020-10-26 08:44:57 | 礼拝メッセージ
2020年10月25日教団創立記念礼拝メッセージ
『次の四半世紀を導く全能AI(オールマイティ・インテリジェンス)の神』
【ヨブ42:2(招詞)、エレミヤ32:16~27(交読)、ヨハネ1:14~18(朗読)】

はじめに
 きょうの教団創立記念礼拝のメッセージのタイトルは、『次の四半世紀を導く全能AI(オールマイティ・インテリジェンス)の神』です。全能AIの意味はメッセージの中で説明します。この全能AIのAIはオールマイティ・インテリジェンスであって、人工知能のAIのアーティフィシャル・インテリジェンスではないことを覚えておいていただけたらと思います。

 きょうは教報p.2に載せた次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①伝道・農耕・医務・保育の4部制の草創期
 ②創立25年目と50年目の1970年と1995年
 ③AI(人工知能)を遥かに超える全能の神
 ④次の25年を導くAI・EI・II・OI・UIの神
 ⑤全能の神を私たちに説き明かした御子イエス

①伝道・農耕・医務・保育の4部制の草創期
 10月21日は私たちの教団・イムマヌエル綜合伝道団の創立記念日でした。この10月21日という日は、祈りの中で創設者たちが共に一緒になって新しい行動を起こすことを神様に示された日付とされています。その日から教団設立のための体制が整えられて行きました。そして、綜合伝道を行うという方針が定まって行きました。綜合伝道とは、単に伝道だけを行うのではなく、時代に合わせて、その時代に必要なことを総合的に行いつつ伝道するということです。

 その目的のために、草創期の教団は伝道部・農耕部・医務部・保育部の4部局から成っていました。伝道部は分かるとして、農耕部には少し驚きます。それほどまでに戦後の食糧事情が悪かったかということです。栄養状態が悪く、また戦災の焼け跡に粗末な小屋を建てて住んでいる人も多かったですから衛生状態も悪くて人々は病気になりがちでしたから医務部もありました。また、戦争で両親を失った戦災孤児もいましたし、戦争が終わって新しく生まれた乳幼児も増えて保育部も設けられました。

 このようにイムマヌエル綜合伝道団が神様から与えられた使命は、時代に合わせて総合的に伝道して行くことです。そのために牧師も教団独自の神学校で養成することにして、教団設立の4年後の1949年に聖宣神学院ができました。また、最近では2年前の2018年に新しく信徒局ができました。これからの時代の信徒の働きは個々の教会内だけでなく教団においても期待されているということです。

②創立25年目と50年目の1970年と1995年
 さて、今年は教団設立75周年の年です。75年というと3/4(4分の3)世紀です。そこで、この75年を25年ごとに区切ってこれまでの75年を簡単に振り返り、その後でこれからの次の25年を展望してみたいと思います。

 終戦直後の1945年頃のことはいま簡単に話しましたから、次に終戦から25年経った1970年頃について話したいと思います。

 1970年は大阪万博があった年ですね。高度経済成長が続いていた時期で、日本も世界も活気がありました。前年の1969年にはアメリカのアポロ11号が月着陸を果たしました。日本の東名高速道路が全線開通したのも1969年です。既に全線開通していた名神高速道路とつながって東京から大阪まで高速道路での通行が可能になり、この輸送路は鉄道と共に日本の経済成長を力強く支えるようになりました。

 1970年当時、私は安東小学校の4年生と5年生でした。日本では安保闘争があり、世界ではベトナム戦争やアメリカとソ連の冷戦などが暗い影を落としていましたが、全体として多くの人々が明るい未来を展望していたのではないかと思います。特に小学生の私はそうでした。当時、「21世紀」という言葉には科学万能のバラ色の理想社会がそこにあるかのように夢想して小学生の私はうっとりとしていました。

 インマヌエル教団も着実に成長を続けていました。教団の歴史を見ると、70年代にはまだ次々と新しい教会が開拓されていました。最初は借家の小さな会堂で始めて、何年かすると新しい会堂が建てられて行きました。

 会社も終身雇用制で毎年の昇給が約束されていましたから、会堂献金に多く献げてもすぐに給料でどんどん収入が入るので少しも困らなかったそうです。年金と退職金も約束されていて、老後の心配も今と比べれば少なかったことでしょう。今と全然違いますね。今は例え正社員でも、会社がいつ無くなるか分かりません。年金もあまり期待できません。コロナで不況になりましたから、状況がさらに悪化する心配もあります。

 このように1970年の明るさと今の2020年の暗さはとても対照的ですが、その予兆は中間の1995年より少し前から始まっていました。いわゆるバブル崩壊ですね。バブル崩壊は1991年から1993年までの景気後退期のことを指すそうです。そして1995年には阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件がありました。

 オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件は宗教のイメージをとても悪いものにしました。1995年の私はまだ教会に通っていませんでしたから、宗教を怪しいものと感じていました。勤めていた大学の留学生が聖書を読む会のチラシを配っているのを見て、怪しいことをしているとすら感じていました。

 このように1995年から2020年までの四半世紀は暗い話題の方が多かった印象があります。2001年には同時多発テロがありました。2011年には東日本大震災がありました。地震で言えば熊本地震や北海道の地震による電源喪失などもありました。また、温暖化により豪雨が日本各地で多発しました。世界的にも大きな洪水が多発しました。台風やハリケーンも狂暴になっています。もちろん明るい話題もありましたが、暗い話題の方が多かったと感じます。

 教会の教財勢も右肩下がりで多くの教会で高齢化が進みました。牧師も1970年頃までに献身された先生方が次々に引退の時期を迎えて教団が牧師不足に陥っています。1995年から2020年までの25年間は教団にとっては大変な時期であったとハッキリ言えるでしょう。そのような中で教団の運営の重責を担って来られた先生方は本当にご苦労が多かっただろうと思います。今の教団の運営を担っている先生方のためにお祈りしていたいと思います。

③AI(人工知能)を遥かに超える全能の神
 さて、ここからは2020年以降のこれからの25年を展望してみたいと思います。これからの25年、私たちはAIの神様に導きを仰ぐべきことをもっと強く意識する必要があるのではないでしょうか。

 AIというのは、タイトルにある全能のオールマイティ・インテリジェンスのことです。この全能のオールマイティについて話す前に、先ず一般的な人工知能のAI、アーティフィシャル・インテリジェンスの今の状況について話したいと思います。

 コンピューターの人工知能は1970年以前から既にありました。アメリカのアポロ宇宙船が月まで行って無事に帰って来られたのはコンピューターがあったからです。今のコンピューターに比べれば遥かに性能は劣っていたものの、人間よりもずっと速く計算することができました。人工知能は50年以上昔からあり、計算速度もこの50年間で一貫して向上して来ました。それなのに昔はそれほどAIのことが騒がれず、ここ5年ほどで急にAI、AIと言われるようになったのは、どうしてでしょうか。

 考えられることは、自動車の自動運転が可能なほどに人工知能が進化したことや、日本においてはここ5年で囲碁と将棋のプロ棋士がAIに歯が立たなくなったことが大きい気がします。52年前に公開された映画『2001年宇宙の旅』では人工知能のHALが宇宙船をすべてコントロールしていました。そんなことは50年前はただの夢物語でしたが、今は現実的な話になって来ています。

 将棋で言うと、10年前の2010年頃はまだ人間の方が強かったのですが、その後、AIが人間と良い勝負をするようになり、5年前からは人間がまったく勝てなくなりました。ですから、わずか10年の間に状況は全く変わってしまいました。また、将棋の観戦方法もここ2,3年の間に急速に変わりました。プロの将棋のインターネット中継では多くの場合、AIによる勝つ確率の評価値が表示されるようになりました。勝負が始まる前は二人の対局者の勝つ確率はどちらも50%と50%ですが、先手と後手が決まって対局が始まると、将棋は先手の方が有利なので先手の勝つ確率が51%になります。そうして、段々と勝負が進んで行くと、有利な形を作った方の勝つ確率が60%、70%と増えて行き、終局間際で相手が「負けました」と言って投了する直前には99%が表示されるようになります。ただし勝つ確率が99%でも、間違えて悪い手を指してしまうと、逆転することもあります。特に時間を使い切って1分で指さなければならない時には間違いが起きやすいです。その数字の上下を見ていると将棋がそんなに良く分からなくても観ていて面白いですから、今や将棋のネット観戦ではAIが欠かせなくなりました。それぐらい状況はここ2,3年で大きく変わっています。

 自動車の自動運転の実用化が真剣に議論されるようになったのも、ここ5年ぐらいのことですね。沼津では自動運転による路線バスの一般市民を乗せての実験も始まっています。今や私たちの周りでは大半のことがAIに依存しています。今後ますます人工知能のAIへの依存度は増して行くことでしょう。特に今年はコロナで多くの会議や大学の講義などがリモートで行われるようになりました。週報p.3で案内したインマヌエルのYSB(社会人向けユース・ステーション)もリモートで行われます。このようなリモート会議や講義は人工知能が進化したからこそできることです。私たちは人工知能への依存症になる危険の中にあります。何もかも、すべてを人工知能に任せてしまうようになりつつあります。これは大変に危険なことだと思います。

 ですから、今の時代、私たちには全能のオールマイティの神様がおられることを忘れないでいて、神様に信頼を置いて日々の生活を送っていきたいと思います。全能の神様は人工知能を遥かに上回るお方ですから、私たちは全能の神様に導きを仰ぎながら日々を過ごしたいと思います。

 それために今日の招きの言葉をヨブ記42章2節としました。

ヨブ42:2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

 ヨブは神様にはすべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを知りました。このように聖書には神様が全能のお方であることを示す記述があちこちにあります。きょう聖書交読したエレミヤ書32章にも神様が全能のお方であることが書かれています。エレミヤ32章17節でエレミヤは言いました。

エレミヤ32:17 『ああ、、主よ、ご覧ください。あなたは大いなる力と、伸ばされた御腕をもって天と地を造られました。あなたにとって不可能なことは一つもありません。


 神様にとって不可能なことは一つもありません。また27節では、主ご自身が自分で「わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか」と仰せられています。

エレミヤ32:27 「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。

 私たちにはこの全能のAIの神様がおられます。これからの25年、私たちは人工知能に頼り過ぎることなく、全能の神様に導いていただきながら進んで行きたいと思います。

④次の25年を導くAI・EI・II・OI・UIの神
 このAlmighty Intelligenceの神様がどのようなお方かの理解を助けるために、きょうはさらにEI・II・OI・UIも補足して考えてみたいと思います。AIだけだと人工知能と間違えられやすいですから、さらにEI・II・OI・UIも付け足して全能の意味を補強したいと思います(週報p.2)。

   《 A,E,I,O,Uの五つの母音で表わす神様の知能 》

   AI:Almighty(オールマイティ) Intelligence(全能の知能)
   EI:Eternal(エターナル) Intelligence(永遠の知能)
   II:Ideal(アイディール) Intelligence(理想的な知能)
   OI:Optimum(オプティマム) Intelligence(最適な知能)
   UI:Ultimate(アルティミット) Intelligence(究極の知能)

 A,E,I,O,Uの5文字は母音です。日本語で言えば「あいうえお」の5文字です。母音は母なる音と書きますから、この母なる音で神様の知能を表してみたいと思います。

 AIの下のEIはEternal Intelligence、すなわち「永遠の知能」です。神様は永遠の中におられますから、これから起きることも知っておられます。私たち人間には1分先のことも分かりません。しかし永遠の中におられる神様は未来のこともすべて知っておられます。

 その下のIIはIdeal Intelligence、すなわち「理想的な知能」です。私たち人間の視野は狭いですから、狭い範囲では理想的と思っても広い目で見ると良くないということが多くあります。神様はすべてを見渡して私たちを最善に導いて下さる「理想的な知能」をお持ちの方です。

 その下のOIはOptimum Intelligence、すなわち「最適な知能」です。神様は私たちの一人一人に最適な導きを与えて下さるお方です。人それぞれで与えられた賜物が違いますから、最適な進路は一人一人で違います。神様は私たちの一人一人を最適な方向に導いて下さいます。

 最後のUIはUltimate Intelligence、すなわち「究極の知能」です。この先、人工知能がどんなに進化したとしても、神様の「究極の知能」には遠く及ばないでしょう。ここ数年で量子コンピューターの研究が進んでいますから、人工知能のAIの計算能力はさらに向上することでしょう。しかし、人工知能が「究極の知能」を持つ全能の神様に追いつくことは決してありません。ですから、私たちは全能の神様に導いていただいて進んで行きたいと思います。

⑤全能の神を私たちに説き明かした御子イエス
 全能の神様が私たちを導いて下さっていることは、とても感謝なことです。しかし、「究極の知能」をお持ちの方ですから、人間が神様を理解することはとても難しいことです。それゆえ神様は御子のイエス様を地上に遣わして下さいました。今日の聖書箇所のヨハネの福音書1章14節、

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 そうして神の御子イエス様が神を説き明かして下さいました。18節、

18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 イエス様は天の父のみもとにいたお方ですから、父のことを良くご存知です。そうして地上に遣わされたイエス様は先ずペテロたちに神について説き明かして、私たちが神様を知ることができるよう準備して下さいました。

 全能の神様を知るのはペテロたちにも難しいことでした。神様のことを耳で聞いて頭で理解するのは難しいことです。しかし聖霊が内に入るなら、頭でなく魂で理解できるようになります。ヨハネの福音書14章26節でイエス様はおっしゃいました(週報p.2)。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 私たちもまたイエス様を信じて聖霊を受けるなら、聖霊が全能の神様のことを教えて下さいます。そうして人工知能のAIではなくて、全知全能の「究極の知能」を持つ神様に導きを仰ぐことができるようになります。

 さてしかし、三位一体の神様であられる聖霊に私たちの内に入っていただくには、私たちの内側はあまりにも罪で汚れています。その罪を赦し、罪に汚れた私たちを聖めるためにイエス様は十字架に掛かり、血を流して下さいました。このことを覚えてイエス様に深く感謝してイエス様を信じ、聖霊に私たちの内に入っていただき、全能の神様についての理解を深めて行きたいと思います。

おわりに
 いま私たちの多くが持ち歩いているスマートフォンは小型の人工知能です。この小型の人工知能は電波で大型の人工知能とつながっていて様々な情報のやり取りを通信によって行っています。

 日本でスマホのiPhoneが発売されたのは12年前の2008年です。当初は一部の人々が使っていただけです。多くの人々が使うようになったのは、やはりここ10年のことでしょう。

 ここ10年で私たちの社会は人工知能にどっぷりと依存するようになりました。私たちが人工知能への依存症に陥ることなく、賢く使いこなすためには、聖霊によって全能の神様との通信をしっかりと確保しておく必要があります。

 例えるなら、私たち人間の一人一人は小さな頭脳を持ったスマホのようなものです。携帯電話のスマホは電波によって大型の人工知能と絶えず通信していなければ大して役には立ちません。私たちも聖霊によって絶えず全能の神様と通信していなければ大したことはできず、イエス様のお役に立つこともできません。週報p.2に載せたようにヨハネの手紙第一1章3節でヨハネは、

Ⅰヨハネ1:3 私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。


と書きました。私たちは聖霊によって御父また御子イエス・キリストとの交わりを絶やさないようにしたいと思います。

 75年前の終戦直後は戦災の廃墟の中を生き抜くために教団には農耕部・医務部・保育部が必要でした。そして75年後の現代は人工知能にどっぷり依存する社会の中を生き抜くために、私たちは今まで以上に御父また御子イエス・キリストとの交わりを強く意識する必要があります。聖霊を通して御父と御子にしっかりとつながり、全能の神様に導きを仰ぎながら、日々を歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りの時を持ちましょう。
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イエスを通してのみ行ける父のみもと(2020.10.18 礼拝)

2020-10-19 09:15:35 | 礼拝メッセージ
2020年10月18日召天者記念礼拝メッセージ
『イエスを通してのみ行ける父のみもと』
【ヨハネ14:1~6】

はじめに
 召天者記念礼拝の今日の招きの言葉はピリピ人への手紙3章20節からとしました。

ピリピ3:20 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

 この聖句は、藤枝霊園にある静岡教会の墓地の墓石に刻まれているみことばですね。墓石には、

「我らの国籍は天に在り」

と刻まれています。
 きょうは先に天に召された信仰の先輩方のことを思いながら、次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①地上より遥かに望ましい所の天の御国
 ②望兄と周兄から教わった御国の身近さ
 ③天に場所を用意して下さるイエス様
 ④空っぽになってイエスの「道」を歩む

①地上より遥かに望ましい所の天の御国
 9月から10月に掛けての1ヶ月ほどの間に私は3回藤枝霊園に行きました。望兄の納骨式を前にして、1回目は納骨室の中の様子を確かめておくこと(この夏は大雨の日が何度もありましたから水が入っていないか等)と石屋さんに墓碑に望さんの名前を刻んでもらう場所を示す写真を撮るためでした。2回目は墓碑に刻まれた望さんの名前の確認のため、そして3回目が先週の納骨式でした。3回目はご遺族が一緒でしたが、1回目と2回目は一人で行きました。

 一人で墓地へ行った時の時間は、天の神様と一対一で向き合う時間になりますから、とても厳粛な気持ちになります。もしかしたら、私にとっては墓地が地上で一番御国に近い場所なのかもしれません。教会の礼拝堂も御国を近くに感じる場所ですが、私にとっては日常生活の場でもありますから、神様を近くには感じても、御国が近いという感じはあまりしません。一方、墓地の場合は車で30分ぐらい掛けて郊外の静かな非日常的な場所に出て行きますから、その分だけ厳粛な気持ちになり、御国を近くに感じるのかもしれません。

 天の御国は地上よりも遥かに望ましい場所です。先週ご一緒に見たピリピ1章23節でパウロは、

ピリピ1:23 私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

と書いていましたね(週報p.2)。

 きょうの聖書交読の箇所のヘブル書11章もアブラハムたちについて、このように書いています。ヘブル11章13節から、お読みします。

ヘブル11:13 これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。

 私たちもまた地上では旅人であり、寄留者です。地上は私たちの本当の故郷ではありません。続いて14節と15節、

14 そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。
15 もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。

 アブラハムはユーフラテス川の下流域にあるウルの町の出身です。もしアブラハムが思っていたのが故郷のウルだったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし16節、

16 しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

 アブラハムたちだけでなく私たちも、神様のみもとで憩うことができる天の故郷に憧れることが許されていることは、とても幸いなことだと思います。

 昨年、私は還暦の年に約40年ぶりで生まれ故郷の静岡に戻って来ました。生まれ故郷はやはり落ち着き、いろいろな面で良いなと思います。昭和40年代の小学生時代は安東小学校の生徒でしたが、ちょうど同じ時期に玉子姉も安東小学校の教師をしておられました。担当された学年が違いましたから、お互いに知りませんでしたが、何十年も後になって、同じ教会で礼拝を献げることができる恵みをいただいています。こういう恵みをいただける生まれ故郷は本当に良いなあと思いますが、天の故郷はもっと良い所ですから、イエス様を信じて、そこに行くことが約束されていることは本当に幸いなことだと思います。

②望兄と周兄から教わった御国の身近さ
 さて今さっき、私にとっては墓地が地上で一番御国に近い場所なのかもしれないと話しました。御国を近くに感じるようになったきっかけは、今年天に召された望兄と周兄の病室に身を置いたからだと思います。お二人を天に見送ったことで、天の御国をとても身近に感じるようになりました。

 このことはもう何度も礼拝メッセージの中でお証しさせていただきましたが、きょうの召天者記念礼拝に際して、もう一度短く証しさせて下さい。

 先ず5月21日に天に召された望さんは、とても穏やかな顔をしておられました。この日はちょうどペンテコステの日の10日前、イースターから40日目のイエス様が天に昇った昇天日でした。それで望さんはイエス様と一緒に天に昇ったから、こんなにも穏やかで平安な顔をしているのだなと思いました。そうして、それからわずか1ヵ月後の6月23日に周さんが天に召されました。

 望さんがイエス様と一緒に天に昇った時のことがまだ強く心の中に残っていた時でしたから、イエス様が周さんの病床の枕元にいて一緒に天に昇ろうとしていることを感じました。そうして天へと旅立った周さんを見ていて、天の御国をとても身近に感じました。

 この秋、藤枝霊園の墓地に一人で行った時に天の御国をとても身近に感じたのは、それゆえだろうと思います。

③天に場所を用意して下さるイエス様
 ここから、きょうの聖書箇所のヨハネ14章をご一緒に見て行きたいと思います。ヨハネ14章ですから、これは最後の晩餐の場面です。最後の晩餐でイエス様は、やがて自分が去って行くことを弟子たちにほのめかし始めます。それで弟子たちは動揺します。それゆえイエス様はおっしゃいました。14章1節、

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 そして2節、

2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

 このイエス様の言葉を弟子たちはどれくらい理解していたでしょうか。3節、

3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。


 このイエス様の言葉は、私たち聖書の読者なら、イエス様が天の御国に私たちの居場所を用意して下さることだと分かります。しかし、この時の弟子たちには分かるはずがありません。

 それなのにイエス様は言います。

4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 これがヨハネの福音書の大変に面白いところです。このヨハネの福音書の執筆目的は、20章31節にあるように(週報p.2)、

ヨハネ20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。


です。ヨハネは私たち読者がこの福音書を通してイエス様と出会い、イエス様が神の子キリストであると信じて永遠の命を得るために、この書を書いています。ですから、イエス様の言葉は弟子たちへの言葉であると同時に私たち読者への言葉でもあります。私たちは最初は何が書いてあるのか分からなくても、何度も何度も繰り返し読むうちにイエス様がどういうお方かが段々と分かるようになり、そうしてやがてイエス様を信じるようになります。ですから、私たちはイエス様がどこに行くのか、その道を知っています。

④空っぽになってイエスの「道」を歩む
 しかし、弟子たちにはまだ分かっていませんでしたから、トマスはイエス様に聞きました。14章5節、

5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 トマスは「道」を、人が歩く道路のように思っていたのでしょうか。そんなトマスにイエス様は言いました。6節、

6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 イエス様ご自身が「道」です。ですから私たちはイエス様という道を通らないと天の御国に行くことはできません。望兄も周兄もイエス様が迎えに来て下さり、一緒に天に昇りましたから、天の御国に行くことができました。

 きょうは週報と一緒に96名の召天者のリストもお配りしました。この信仰の先輩方も天の御国で憩っておられます。このリストを見ると、本当に多くの方々がこの教会に集っておられたのだなと思います。沼津教会の召天者のリストはもっと少ないものでした。

 しかし今の時代、教会に新しい方がなかなか来ません。どうしたら良いのかと思います。きょうの召天者記念礼拝に際して、何か希望のメッセージを語れないだろうかと、ここ一週間ずっと考えていました。しかし、なかなか示されませんでした。そんな時、一昨日の金曜日の朝、NHKの朝ドラの『エール』を見ていたら、出演者の一人の薬師丸ひろ子さんが戦災の廃墟で讃美歌の「うるわしの白百合」を歌っている場面が流れました。焼けて崩れ落ちた自宅の跡に力無く座り、最初の歌い出しは力のないものでしたが、歌っている間にどんどん力強くなって行きました。

 この「うるわしの白百合」は復活の希望を歌ったものです。『エール』の登場人物たちも戦争で失ったものが余りにも大きかったので失意のどん底に落とされますが、やがて力強く歩み始めることでしょう。薬師丸ひろ子さんの「うるわしの白百合」の力強い賛美の場面は、そのことを予感させる本当に素晴らしいシーンでした。

 ですから私たちも希望を持ってイエス様の道を歩んで行きたいと思います。その時には空っぽになった墓のように、今一度自分を空っぽにしてイエス様に付き従って行きたいと思います。福音書にはイエス様を葬った墓が空っぽになったことが記されています。弟子たちの心も大きなショックで空っぽになっていました。しかし、その後に復活したイエス様が現れて弟子たちは力を得ました。75年前の日本の人々も敗戦で心が空っぽになっていました。しかし、敗戦直後から再開されたキリスト教の宣教によって多くの人々が教会に集いました。この静岡教会もインマヌエル教団に合流して力強い宣教を始めました。

 いま新型コロナウイルスの影響で教会では力強く讃美歌を歌うこともできません。マスクをして小さな声でしか歌えません。しかし、やがてまた力強く賛美できる時をイエス様は備えて下さっています。その時に備えて、今一度、心を空っぽにして様々な思い煩いから解放されてイエス様に付き従って行きたいと思います。

 イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 こうおっしゃって下さっているイエス様だけを見て、イエス様と共にこの道を歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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はるかに望ましいことが先にある幸い(2020.10.11 礼拝)

2020-10-13 11:00:42 | 礼拝メッセージ
2020年10月11日望兄記念礼拝メッセージ
『はるかに望ましいことが先にある幸い』
【ピリピ1:21~25】

 きょうは礼拝後に偲ぶ会を予定していますから、メッセージは少し短めです。次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①パウロの獄中書簡の一つのピリピ書
 ②病の獄中で囚人になっていた望兄
 ③生きることはキリスト、死ぬことは益
 ④はるかに望ましいことが先にある幸い

①パウロの獄中書簡の一つのピリピ書
 きょうの聖書交読と聖書朗読で開いたピリピ人への手紙は、パウロの獄中書簡と呼ばれる四つの手紙の中の一つです。四つとはエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙です。

 『使徒の働き』によれば、パウロは第三次伝道旅行を終えて神殿があるエルサレムを礼拝のために訪れたところを捕らえられてしまいます。その捕らわれの身のまま裁判のためにローマに送られます。そのローマで囚人になっていた時に書かれた書が獄中書簡です。獄中で囚人になっていたと言うと鉄格子がある監獄のような所を想像してしまいますが、『使徒の働き』の記述によれば軟禁状態であったようです。狭い監獄ではなく普通の住宅で暮らしていたようです。しかし監視付きで外出は許されず、いつ引き出されて拷問や刑罰を受けるか分からない状態での生活であったと思われます。

 そのような捕らわれの身の生活の中でパウロはさらに聖められて天のイエス様と近い関係にあったのでしょう。エペソ書とコロサイ書にはとても気宇壮大なものを感じますし、ピリピ書とピレモン書には、とても聖いものを感じます。

 家に閉じ込められていたパウロの生活は、言わば後の「修道院」に似た生活だったのかもしれません。キリスト教の歴史の中で修道院が登場するのは4世紀以降のことです。4世紀までのキリスト教は迫害の中にありました。ローマ帝国の皇帝は間欠的にではありますが、クリスチャンを激しく迫害していました。しかし迫害を恐れずに信仰を守り抜くクリスチャンの姿は却って民衆の心を捉えて信徒が増えて行きました。

 そのように信徒が増えて行く中で4世紀に入ってコンスタンティヌス帝がキリスト教を保護するようになって迫害が止みました。そして4世紀の後半にはテオドシウス帝によって遂にキリスト教はローマ帝国の国教になりました。そして、その過程でキリスト教は世俗的になって行ったと言われています。迫害されていた時のクリスチャンの信仰は命がけでした。命がけでイエス・キリストを信じて信仰を守り通しました。しかしキリスト教が保護され国教になると、信仰が生ぬるいものになりました。4世紀と21世紀では違うかもしれませんが、私のアメリカ人の友人はクリスチャンですがイエス・キリストを信じていません。親がクリスチャンですから彼もクリスチャンですが、イエス様を信じていません。

 修道院は、そうして世俗化された信仰を嫌って、世間との接触を絶って聖い信仰生活を送ることを願う者たちによって作られました。パウロも軟禁されて世俗と切り離されることで、ますます聖められて行ったと想像します。しかも自主的に修道生活に入ったのではなくて、捕らわれの身ですから、いつ痛い目に遭ったり死刑になったりしてもおかしくない状況でした。そういう状況でパウロとイエス様との距離はどんどん縮まって行ったことでしょう。エペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の四つの獄中書簡が気宇壮大で聖いのはイエス様との距離がとても近かった故であると思います。

②病の獄中で囚人になっていた望兄
 望さんもガンの末期ということで、いつ天に召されてもおかしくない状態の中を1年以上に亘って生かされていましたから、病という監獄の中で囚人となっていたと言っても良いでしょう。その病の獄中でパウロと同じようにイエス様との距離がどんどん縮まって行ったのだろうと思います。そうしてイエス様によって死の恐怖から解放されたのだと思います。

 きょうの招きの詞はヘブル人への手紙2章14節と15節の聖句です。ここを選んだのは望さんが正にイエス様によって死の恐怖から解放されたことの証人であると思うからです。

2:14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

 14節には先ず、イエス様もまた私たちと同じように血と肉を持つ人間になったことが書かれています。神は霊ですから、もともと肉体を持っていません。しかしイエス様はヨセフとマリアの子として生まれることで肉体を持つ人間になりました。それは、死の恐怖の奴隷になっている私たちを解放するためであったとヘブル書は書いています。

 イエス様は私たちの全ての罪を負って十字架に付きました。それゆえイエス様が十字架で死んだ時、悪魔も一緒に死にました。そしてイエス様は復活して私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放して下さいました。ですから私たちはイエス様を信じて、イエス様に近づけば近づくほど死の恐怖から解放されます。

 望さんは胃癌で食べたい物も次第に食べられなくなり、体も弱って行動範囲も狭まり、また新型コロナウイルスの影響で人との接触も余計に減り、パウロのようにイエス様との距離をどんどん縮めて行ったのだと思います。望さんは癌の末期なのに不思議と平安が与えられていると何度も証ししておられましたね。それはイエス様が死の恐怖を滅ぼして下さったからこそでしょう。

③生きることはキリスト、死ぬことは益
 パウロもまた死の恐怖から解放されていました。きょうの聖書箇所のピリピ1章21節からを見ましょう。21節、

1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。

 「私にとって生きることはキリスト」とは、どういうことでしょうか。これは、次の「死ぬことは益です」と対比する形になっています。22節と23節も参照して考えましょう。22節と23節、

1:22 しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
1:23 私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。

 ここまで読むと、「私にとって生きることはキリスト」とは、「苦難の道を歩むこと」であることが分かります。イエス・キリストもまた苦難の道を歩みました。病気を癒したり、悪霊を追い出したりするという面では人々に歓迎されてもてはやされましたが、イエス様が説く教えを理解できる人はほとんどいませんでした。ペテロなどの弟子たちでさえほとんど理解できていなかったのですから、まして他の人々には全く理解されませんでした。

 そういう理解されない孤独の中をイエス様は歩み、最後はユダの裏切りによって捕らえられて弟子たちも逃げ去る孤独もまた味わいました。そしてローマの総督のもとに送られ、裸にされて鞭打たれる辱めと苦痛を受け、あざけられる中で十字架に付けられて苦しみながら死にました。パウロもまた多くの苦難に遭っていました。それが「私にとって生きることはキリスト」ということではないでしょうか。

 ですからパウロにとって死ぬことは益でした。23節でパウロは書いています。「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。」この世で苦難の道を歩むよりも、天のイエス様のみもとに行って安らぐほうがパウロにとってははるかに望ましいことでした。詩篇23篇(週報p.2)でダビデが

23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。

と主を賛美したように、パウロにとっては天の牧場で一匹の子羊としてイエス様のみもとで憩うことのほうが、ずっと幸せなことでした。しかし24節と25節、

1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
1:25 このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。

 パウロはピリピの教会の信徒たちの「信仰の前進と喜びのため」には、自分が生きていることが必要だと書いています。

 このピリピ1章21節から25節までを読んで、望さんもパウロと同じような心境であったのかなと思いました。口から物を食べられなくなった時、食べられることの幸いを話して下さいましたね。望さんは口から食べられない生活を長く送るよりも、早くイエス様のみもとに行くほうが、遥かに望ましいと思っておられたかもしれません。しかし、この静岡教会の信仰の前進と喜びのために、少しでも長く生きながらえることを選びました。

 そうして望さんはこの教会の将来を心配して、様々な提言をして下さいました。本当に感謝なことでした。望さんは教会を愛し、教会のために生きて下さいました。或いはまたご家族を愛して、ご家族のために生きました。

④はるかに望ましいことが先にある幸い
 最後の④番目の「はるかに望ましいことが先にある幸い」のパートに入ります。これは今日のメッセージのタイトルでもあります。パウロも望さんも、自分一人の益のためでなく、キリストの苦難の道を選びました。自分一人が天のイエス様のみもとに早く行って安らぐのではなく、地上の隣人を愛し、隣人のためにキリストの苦しみを受けながら生きる道を選びました。

 ですから私たちもそれを見習って、隣人を愛し、隣人のためにこの地上の世を生きたいと思います。様々な艱難があるこの世の生活ですが、それはイエス様もまた辿った道ですから、隣人を愛し、隣人のために生きたいと思います。私たちは誰でも、いずれはこの地上生涯を終えます。その時には今よりも遥かに望ましいところに行ける幸いが約束されているのですから、そのことを楽しみにしながら、この地上の世を生きたいと思います。

 私たちの周囲には、このはるかに望ましいことがまだ約束されていない方々も多くいらっしゃいます。その方々に、イエス様と出会ってイエス様を信じることの幸いを証して行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

1:21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
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王の食卓に招かれている私たち(2020.10.4 聖餐式礼拝)

2020-10-05 08:48:34 | 礼拝メッセージ
2020年10月4日聖餐式礼拝メッセージ
『王の食卓に招かれている私たち』
【マタイ27:27~37】

はじめに
 2013年にキリスト教の書籍で大変に話題になったスコット・マクナイト著『福音の再発見』(中村佐知・訳、キリスト新聞社)という本があります。最近この本が新装改訂版として復刊されましたから、改めて読んでみました。

 この本の原題は“The King Jesus Gospel”です。直訳すれば「王イエスの福音」です。きょうはこの本の内容に深く立ち入ることはしませんが、イエスは旧約聖書の時代から到来が待望されていた王であるという観点は、とても大事なことだと思いますから、きょうは「イエスは王である」ということを皆さんと分かち合い、その上で聖餐式に臨みたいと願っています。それゆえ今日のメッセージのタイトルを「王の食卓に招かれている私たち」としました。

 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①スケールを共有しにくい神と、共有しやすい王
 ②王として入京して王として死んだイエス・キリスト
 ③悪を滅ぼし、神の王国の御座に就く王なるイエス
 ④真の王を必要としている騒然とした現代の世
 ⑤王の食卓に招かれている私たち

①スケールを共有しにくい神と、共有しやすい王
 イエス様が生まれた時に東方の博士たちがヘロデ王を訪ねて来たマタイ2章の記事で、博士たちは聞きました(週報p.2)。

マタイ2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

 博士たちは赤ちゃんのイエス様を「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と言っています。或いはまた、きょうの招きの詞で引用したように、イエス様はゼカリヤ書が預言したように、王としてろばの子に乗ってエルサレムに近づきました。

 また、きょうの聖餐式の後で歌う予定の賛美歌の「栄の冠を」では、折り返しの部分で繰り返し「王なるイエスよ」と歌っています。

 このように、私たちは聖書と賛美歌が繰り返し「イエスは王である」と言っていることを良く知っています。しかし、どうでしょうか。私たちは「イエスは神である」というほどには「イエスは王である」と思ってはいないのではないでしょうか?

 「イエスは神である」ということは毎日思っていても、「イエスは王である」とは、そんなに毎日は思っていないのではないでしょうか。少なくとも私はそうでした。それが今回、復刊された『福音の再発見』の“The King Jesus Gospel”という原題のKingが目に入って、「そうか、イエスはKingなんだ」と改めて思いました。

 そして、「イエスは王である」という思いを「イエスは神である」と思うのと同じくらいに毎日持つべきだと思うようになりました。それは次の理由によります。

 私たちの一人一人が考える神様のスケールは、人によってかなり違うのではないでしょうか?ある人は神様を人間スケールで考えているでしょう。また、ある人は神様を宇宙スケールで考えているでしょう。宇宙スケールもいろいろです。太陽系のスケール、私たちの地球がある天の川銀河のスケール、或いは無数の銀河を持つ大宇宙のスケールです。

 私自身は神様のスケールを、「大宇宙のスケール」でイメージしています。ですからイエス様のことも、私たち一人一人に寄り添う「人間スケール」のお方であると同時に宇宙全体に遍く存在する「大宇宙のスケール」のお方であるとイメージしています。

 そうすると、神様のスケールをそこまでは大きく考えていない方々とは当然、噛み合わない部分が出てくるのだろうと思います。もしかしたら私が語る神様としてのイエス様があまり理解されていないのも、そのせいかもしれません。その観点から言うと、王のスケールはそんなに人によって違わないのだろうと思います。神様は宇宙全体を支配していますから、スケール観が人によって違ってしまいますが、王様は地上の私たちを支配していますから、宇宙にまで広がって行くことはありません。そういうわけで、王様ならスケールを共有しやすいのだろうと思います。

②王として入京して王として死んだイエス・キリスト
 そのようにイエス様の大きさが私たちの間である程度は共有できていないと、まだイエス様と出会っていない方々にイエス様をお伝えすることも難しいのかもしれません。ですから大きさを共有しやすい王様としてのイエス様への理解を深めることは、とても重要であろうと思わされています(後ほど、さらに重要と思われる点を指摘します)。

 ここで、イエス様が王としてエルサレムに入京して王として死んだことを確認しておきましょう。

 エルサレムに近づいたイエス様は弟子たちに言いつけて、ろばの子を連れて来させました。それは預言者を通して語られたことが成就するためであったと福音書は書いています。その預言が、きょうの招きの詞です。

マタイ21:5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」

 このゼカリヤ書の預言には、「あなたの王があなたのところに来る」とあります。この「あなたの王」がイエス様です。そうして民衆はイエス様を熱狂的に歓迎しました。マタイ21章の6節から9節までをお読みします。

マタイ21:6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」

 そしてイエス様が捕らえられて十字架に付けられる時にはローマ兵たちが「ユダヤ人の王様、万歳」と言ってからかいました。きょうの聖書箇所のマタイ27章から先ず27節と28節をお読みします。

マタイ27:27 それから、総督の兵士たちはイエスを総督官邸の中に連れて行き、イエスの周りに全部隊を集めた。
28 そしてイエスが着ていた物を脱がせて、緋色のマントを着せた。

 緋色はスカーレットですね。鮮やかな赤のマントですから、王様がまとうマントを着せたということですね。そして29節、

29 それから彼らは茨で冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王様、万歳」と言って、からかった。

 ローマ兵たちは王様がかぶる王冠を茨で編んでイエス様の頭に置き、王様が持つ杖を持たせました。そうして「ユダヤ人の王様、万歳」とからかいました。ローマ兵はからかったつもりですが、実はイエス様こそが真の王様です。

 そして十字架のイエス様の頭の上には「これはユダヤ人の王である」という罪状書きが掲げられました。少し飛ばして37節、

37 彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。

 こうしてイエス様はユダヤ人の王として死にました。

③悪を滅ぼし、神の王国の御座に就く王なるイエス
 イエス様を「十字架に付けろ」と叫んだユダヤ人たちや、イエス様を実際に十字架に付けたローマ兵たちは、イエス様がユダヤ人の王だとは思っていませんでした。ユダヤ人たちは人間の王国を再建するダビデのような王を期待していました。しかし、イエス様は「神の王国」の王様です。イエス様こそが真の王です。イエス様は悪を滅ぼし、神の王国の御座に就く真の王様です。

 福音書には「国」ということばがたくさん出て来ますね。マタイの福音書では「御国」ということばが多く使われ、マルコの福音書とルカの福音書では「神の国」ということばが多く使われています。

 この「国」のギリシャ語は「バシレイア」です。「バシレイア」は「王国」という意味を持ちます。ですから、英語訳の聖書では皆、「kingdom」という英語が使われています。国というと私たちの多くは「country」とか「nation」という英語を思い浮かべると思いますが、英語訳では「kingdom」が使われています。ですからイエス様が「主の祈り」を教えて下さっているマタイ6:10の「御国が来ますように」も、英訳では「may your kingdom come」になっています(mayが有る英訳と無い英訳があります)。

 マルコの福音書やルカの福音書の「神の国」は、「the kingdom of God」です。マルコ1:15でイエス様は

マルコ1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

とおっしゃいましたね。この「神の国が近づいた」は「the kingdom of God is near」です。

 私たちはもっと、「御国とは神の王国のことである」ということを意識すべきなのでしょう。そうして、イエス様はこの神の王国の王様であることをもっと意識すべきなのでしょう。

④王を必要としている騒然とした現代の地上の世
 きょうのこのメッセージの始めに、神のスケール観は人間サイズのレベルから大宇宙のレベルまで人それぞれであるけれども、王様のスケール観は人によってそんなに違わないだろうという話をしました。まだイエス様を知らない方々にイエス様を宣べ伝えるためには、私たちはイエス様の大きさを共有するべきであろうと話しました。そのためにイエス様を王様であると考えることはとても有効です。

 そうして、このメッセージの準備を始めましたが、もっと重要なことがあるということを示されています。それは、今の私たちを取り巻く周囲の状況があまりにも騒然としているということです。この騒然とした世の中を静めることができるのは王様であるイエス様だけです。この騒ぎ立つ世の中をイエス様に静めていただくためにも、イエス様は王であるという意識を持つことが重要だと思わされています。

 きょうの聖書交読で開いた詩篇2篇を、もう一度開いて下さい。1節、

詩篇2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。

 世界もそうですが、今の日本は騒ぎ立って騒然としています。新型コロナウイルスの感染がまだ収まっていないのにGo to Travelによって多くの人々が移動を始めています。有名人の自死・自殺の連鎖が止まらずにいて世間は騒然としています。温暖化で狂暴化した台風の恐怖に怯えて騒然としています。また、新しく発足した政権は学術会議のメンバー6名の任命を見送り、学者の世界への介入を始めました。放っておけば次は宗教者の世界への介入を始めるかもしれません。特に戦前そうであったように、キリスト教は狙い撃ちにされるかもしれません。

詩篇2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。

 アメリカもひどいことになっています。西部の森林火災はかつてない規模に広がって家屋も燃え、死者も出ています。温暖化が原因の一つとも言われています。世界が一つになって取り組まなければならない温暖化対策、そしてコロナウイルス対策にトランプ大統領は熱心ではありません。そのトランプ大統領を支持する勢力と支持しない勢力とが激しく対立してアメリカは分断が進んでいます。そうして先週はトランプ大統領自身と大統領夫人、そして側近がウイルスに感染していたという大きなニュースが流れてアメリカ、そして世界は騒然としています。

詩篇2:1 なぜ国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は空しいことを企むのか。

 その騒ぎ立つ国々に向かって主は仰せられます。6節、

6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」

 このお方こそ王なるイエス様です。そして10節と11節、

10 それゆえ今 王たちよ 悟れ。地をさばく者たちよ 慎め。
11 恐れつつ に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。

 騒然としたこの世を静めることができるのは王であるイエス様だけです。

 この騒然とした世の中で私たちは怯え、右往左往しています。そんな私たちの一人一人にイエス様は寄り添って下さり、平安を与えて下さいます。しかしイエス様は寄り添って下さるだけのお方ではありません。騒ぎ立つ世を静める力をも持つお方です。弟子たちが乗った舟が突風で沈みそうになった時、イエス様は風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」とおっしゃって嵐を静めました。イエス様は騒然としたこの世も、嵐を静めたように静めることができるお方です。この王様としての力あるイエス様に私たちは仕えていきたいと思います。

 考えてみると、日本でキリスト教が大きく広まった時代は、日本そのものが大きく変化した時代でした。戦国時代から信長・秀吉・家康らによって諸国が統一されて行った時代、明治維新、そして第二次世界大戦後です。インマヌエル教団も戦後まもなく創設されました。そうして若い人々が続々と教会に殺到しました。

 国が変化する時代には、若い人々の血が騒ぎ立ちます。そうして若い人々のある者は起業し、ある者は政治を志し、またある者は王であるキリストに仕えるようになります。彼らは新しい製品によって、新しい政治よって、新しいメッセージによって自分たちも変化に一役買おうと新しいことを始めます。

 今のコロナウイルスの禍も、国が大きく変わるきっかけになるでしょう。これだけの騒乱があっても国が変わらないようなら、それは私たちの熱気が足りないのかもしれません。若い人々の血が騒ぎ、イエス様に仕える若い人々が続々とおこされて、そうして国が良い方向へと変わるように、私たちは熱心に祈るべきなのだと思います。

 牧師不足で沼津教会は解散し、静岡教会も常駐牧師がいない二年間を過ごしました。若い人々が牧師を志さないからです。定年を迎えてから牧師になる器が与えられていることはとても感謝なことですが、若い人々がもっと続々と王なるイエス様に自分の人生を献げ、仕えるようになることを願い、祈りたいと思います。

⑤王の食卓に招かれている私たち
 これから聖餐式に臨みます。私たちは王様の食卓に招かれています。イエス様は王様であるにも関わらず、へりくだって弟子たちの足を洗いました。そして、十字架に掛かって下さいました。ローマ兵にあざけられ、裸にされたみじめな姿で十字架に掛かって下さいました。それは私たちの罪をイエス様の血によって洗いきよめて、私たちが神の王国に入ることができるようにするためです。

 罪に汚れた者はそのままでは神の王国に入ることができません。しかしイエス様を信じて罪が赦され、聖霊によって罪の汚れから聖められるなら、私たちは神の王国に入ることができます。

 聖霊が与えられた私たち一人一人の中には神の王国が既にありますが、私たちの周囲は依然として騒然としていて神の王国は来ていません。イエス様がこの騒乱を静めて下さり、多くの方々がイエス様を信じて神の王国に入ることができるよう、お祈りしたいと思います。

 お祈りします。

詩篇2:6 「わたしがわたしの王を立てたのだ。わたしの聖なる山シオンに。」
11 恐れつつ に仕えよ。おののきつつ震え 子に口づけせよ。
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七回へりくだって聖くなる

2020-09-28 05:19:37 | 礼拝メッセージ
2020年9月27日礼拝メッセージ
『七回へりくだって聖くなる』
【創世記33:3~4、列王記第二5:8~14】

はじめに
 先週の礼拝メッセージでは、年老いた晩年のヤコブが主に「ヤコブよ、ヤコブよ」と語り掛けられて、「はい、ここにおります」と答えた場面をご一緒に見ました。この時、主はヤコブに対して「エジプトに下ることを恐れるな」(創世記46:3)と仰せられました。そうしてヤコブはエジプトに行って、ヨセフと再会しました。創世記46:29(週報p.2)にその場面があります。

46:29 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、首にすがって泣き続けた。

 父と子の感動の再会の場面ですね。創世記のヤコブの記事には感動的な場面がいくつかあり、この父と子の再会の場面は最も感動的な場面と言えるかもしれません。が、もう一つ、これに負けず劣らず感動的な場面と私が感じているのが、きょうの招きの詞に引用した、兄と弟の再会の場面です。創世記33章3~4節をもう一度お読みします。

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。
33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

 これはヤコブがペヌエルで神様と格闘して祝福を勝ち取ったすぐ後のことです。神様と格闘する前のヤコブは四百人を引き連れた兄のエサウが自分たちを襲うのではないかと恐れていました。それで当初の作戦では贈り物を持った者たちを先頭にして、自分は最後尾を行く予定でした。しかし神様から祝福されたことで恐れが消えたのでしょう、ヤコブは一行の先頭に立って兄のエソウがいる所に向かいました。

 その時ヤコブは七回地にひれ伏したと3節にあります。日本的な言葉を使うなら七回土下座したということです。私は「七回」という回数が重要な鍵であると感じています。一回や二回ではなく七回が重要であると考えます。このことを分かち合うために、きょうは先ずアラムの将軍のナアマンがヨルダン川に七回身を浸した記事を先に見ておきたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①心に鎧を着けていたナアマン
 ②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
 ③一回だけでは聖くなれない
 ④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる

①心に鎧を着けていたナアマン
 聖書朗読は列王記5章8節から読んでいただきました。8節、

5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

 この8節の前に何があったかを簡単に見ておきましょう。アラムの軍の長のナアマンはツァラアトに冒されていました。この病気をイスラエルの預言者なら治せるであろうという話を聞いて、ナアマンはアラムの王の手紙を携えてイスラエルの王の所に行きました。しかし7節、

5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」

 アラムとイスラエルの間ではかつて戦いがあり、両国の関係は良くありませんでした。また、北王国の王たちは伝統的に不信仰な王ばかりで、エリシャのような預言者は目障りな存在でした。それでイスラエルの王は機嫌を悪くしたのでしょう。そんな王にエリシャは8節で、「その男を私のところによこしてください」と言いましたから、ナアマンはエリシャの家にやって来ました。8節、

5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。

 ナアマンは戦車でやって来たとあります。ここから、ナアマンは軍人としてのプライドが非常に高い人物であったことが分かります。ナアマンは軍人のプライドという鎧を心にしっかりと着けていました。続いて10節、

5:10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」

 エリシャは出て来ないで代わりに使いの者が出て来ましたから、ナアマンのプライドは激しく傷付けられました。しかもヨルダン川に入るようにということです。11節と12節、

5:11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。

 ナアマンが激怒したのは無理もないことだと思います。ナアマンはアラムから遠路はるばるイスラエルにやって来ましたが、最初に会ったイスラエルの王に相手にされませんでした。そして次にやって来たエリシャの家ではエリシャに会うことができませんでした。プライドの高いナアマンが怒るのは当然です。しかし13節、

5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

 有能な将軍には有能な部下がいるものなのですね。部下は、ナアマンにヨルダン川に入るように説得しました。

②心の鎧を脱ぐと浸みて来る神様の深い愛
 それゆえナアマンは部下の言うことを聞いてヨルダン川に入ることにしました。しかし、最初のうちは不平たらたらで、決して納得していたわけではないと思います。

「何でこのワシが、裸になってヨルダン川に入らなければならないのだ。ワシは将軍じゃぞ。」

 こんな感じでしょうか。しかし、裸になって川に入ったことで心に変化が生じ始めます。何重にも着こんでいた心の鎧を一つ脱いで、心が少しだけ身軽になった気がしました。

「何だ、これは。何だか分からないけど、ちょっと気持ちが良いぞ」

と思ったかもしれません。ヨルダンの水はアラムのアマナやパルパルのようにきれいでなく、入るのは気持ちが悪かったかもしれません。それが何故か気持ち良く感じました。意地を張っていると疲れますが、意地を張ることを止めた時に、ふと感じる気持ち良さ、そんな感じでしょう。

 そうして2回目からはナアマンは自ら進んで川に入るようになりました。そして入れば入るほど心の鎧が取り去れて行き、心が軽くなるのを感じて行きます。そうしてナアマンは次第に神様を感じるようになり、さらには神様の愛を感じるようになります。

 人が心に鎧を着けるのは、自分で自分を守ろうとするからです。しかし神様が自分を守ってくれていると気付くなら、鎧を着ける必要がなくなります。ダビデが巨人のゴリアテと対戦した時、ダビデはサウルが与えた鎧を着けずに戦いの場に出て行きました。ダビデは主が守って下さると確信していましたから、彼に鎧は必要ありませんでした。

 プライドが高かったナアマンは自分を守るために、何重にも心の鎧を着けていました。その心の鎧を脱ぐように神の人のエリシャは言っていたのですね。

 そうして心の鎧を脱いだナアマンはヨルダン川の水の中で神様と対話するようになり、神様にへりくだるようになったことでしょう。そうするとヨルダン川の水に浸かることが、とても気持ち良く感じるようになります。聖書に戻ります。14節、
 
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

 言うまでもありませんが、ナアマンの体が幼子のようになってきよくなったのは、ヨルダンの水が薬のように効いたからではありません。プライドの鎧を何重にも心に着けて、神様も信じないでいたナアマンが心の鎧を脱ぎ、神様に対してへりくだったから、神様がきよくして下さったのですね。ナアマンは神様によって心と体の両方がきよめられました。

③一回だけでは聖くなれない
 私たちの心に着いている罪はとても分厚いものですから、一度や二度へりくだったぐらいで簡単にきよめられるようなものではないのでしょう。ナアマンも七回へりくだってようやくきよめられました。

 この説教を準備していて私は12年前に勤めていた大学を辞めて神学生になった時に、何度もへりくだらされる経験をしたことを思い出しました。私自身は大学教員というプライドを持っているという自覚はありませんでしたが、実はかなり分厚いプライドの鎧を着込んでいたことが神学院で寮生活をするうちに思い知らされて、その度に鎧を脱ぐことを強いられました。

 神学院に入ったばかりの頃、M先生とこんな会話をしたことを覚えています。神学院教会の奉仕で墓前集会に行った時だったと思います。神学院の中では先生と雑談をする機会などありませんでしたが、郊外の墓地へ行ったことで雑談できる状況だったのでしょう。

 M先生は私に言いました。「神学院での生活は大変でしょう?」確かに大変でしたが、私は答えました。「大丈夫です。これまでいろいろな経験をしていますから」

 それまで本当にいろいろ経験していました。特に専門を理工系の研究から文系の日本語教育に変えた時は大変でした。そういう経験をしていますから、神学院での生活も多少の苦労はあっても大丈夫だろうと思っていました。

 するとM先生は言いました。

「神学院では、そういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」

 この言葉に私はムッとして、M先生のことを、何て嫌なことを言う人だろうと思いました。もちろんそれは嫌な言葉ではなく、親切な助言であったことが後になって分かりましたが、とにかくその時はムッとしました。自分の大学教員としての経験を否定されたからです。まるで軍人としてのプライドを傷つけられて激怒したナアマンのようです。

 ナアマンとしてはアラムからイスラエルまで遠路はるばる自分のほうから出向いたというだけで、十分にへりくだっているつもりだったでしょう。しかし、エリシャの家に戦車で乗り付けるほど軍人としてのプライドをまだ持っていました。

 私も神学院への入学が決まり、自宅のマンションを売却して多くの物を処分して少しの荷物で神学院の男子寮に入った時、大半のプライドを脱ぎ捨てて来たつもりになっていました。しかし、過去の自分の頑張った経験を誇りに思って「大丈夫です」と言った時に、M先生に「神学院ではそういう経験が邪魔をすることもあるんだよ」と言われてムッとしたということは、まだまだプライドの厚い鎧を着けていたということです。

 主はそんな私のプライドを容赦なく何度も打ち砕いて下さり、何度もへりくだることを教えて下さいました。しかし、二度や三度打ち砕かれても、プライドの鎧はそんなには簡単に脱げるものではありません。ナアマンも七回ヨルダン川に身を浸すまでは体がきよめられませんでした。

 今このメッセージを聞いてらっしゃる皆さんの中にはもしかしたら、自分にはそんなプライドは無いと思ってらっしゃる方もおられるかもしれません。しかし、プライドが全く無い人などいないんだろうと思います。どんな人でも悔しかったり、みじめに思ったり、腹を立てたりすることがあるでしょう。それはプライドがあるから悔しかったり、みじめに思ったり、怒ったりするんだと思います。しかし、そんなマイナスの感情が心の中に湧いた時に神様のことを思うなら、神様がそれらを取り払って下さいます。ナアマンにもエリシャに軽く扱われた悔しさと腹立たしさ、そして裸になって水に入るみじめさが最初はありました。しかし、へりくだって水に入ることで神様がプライドを取り去って下さり、きよくして下さいました。

 きょうの招きの詞のヤコブに戻りたいと思います。創世記33章3節、

33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

 ヤコブは神様に祝福されて恐れが無くなっていました。しかし、まだまだプライドはしっかりと持っていたかもしれません。神様と戦って祝福を勝ち取ったというプライド、伯父のラバンの下で苦労して多くの財産を築いたというプライドなどなどです。そういうプライドも、七回地にひれ伏していく間に取り去られていきました。地にひれ伏すということは、エサウに対してへりくだると同時に、神様に対してもへりくだることでした。そうしてヤコブの心はナアマンと同じようにきよめられていきました。33章4節、

33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

 兄のエサウの目にも弟のヤコブのひれ伏す姿がただのパフォーマンスではなくて、純粋にへりくだっている姿に映ったのだと思います。この兄弟の再会の場面は本当に感動的だと思います。

④次の礼拝に向けて七朝(七晩)へりくだる
 最後に、イエス様ご自身がへりくだったお方であったことを分かち合いたいと思います。私たちは毎週日曜日にここに集い、十字架のイエスさまを仰いで礼拝を捧げます。その際には私たち自身もへりくだった者として整えられて礼拝に臨みたいと思います。

 イエス様は最後の晩餐でへりくだり、弟子たちの足を洗ったことがヨハネの福音書13章に記されています(週報p.2)。ヨハネ13章3節と4節、

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 そしてピリピ人への手紙2章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。6節から8節、

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエス様は裸にされて十字架に付けられました。ナアマンも裸になりましたが、周囲にいたのは部下など身内の者だけでした。しかしイエス様は過越の祭りでエルサレムに集まって来ていた多くの人々が見ている前で裸にされて十字架に付けられて、さらし者にされました。イエス様は神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 私たちの罪を赦すためにへりくだって十字架に掛かって下さったこのイエスさまを覚えて私たちは礼拝を捧げます。ですから私たちもまたへりくだって、整えられて礼拝に臨みたいと思います。

 そのために私たちは礼拝が終わった翌日の月曜日の朝から次の礼拝の日曜日の朝まで七朝掛けてへりくだって備えます。それぐらいの気持ちで礼拝に臨みたいと思います。人によっては神様と向き合う時間帯が朝ではなく晩だという方もおられるでしょう。その場合は七晩掛けて備えます。

 少し大げさに感じるかもしれませんが、これぐらいしないと十字架のイエス様を覚えて礼拝する者としてふさわしく整えられないのだろうと思います。もちろん私自身、そんなにしっかりと整えられているわけではありません。礼拝の時が近づけば近づくほど、まだ準備が出来ていなくて焦ってバタバタしてしまうことが良くあります。しかし、心掛けとしては七朝掛けて整えられて礼拝に臨む者でありたいと思います。

 十字架のイエス様を覚えつつ、七回地にひれ伏したヤコブを思い、また七回ヨルダン川に身を浸して聖くされたナアマンを思い、私たちも毎週七回へりくだって聖くされて、礼拝に臨ませていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
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公私で祝福して下さる主(2020.9.20 礼拝)

2020-09-21 10:16:36 | 礼拝メッセージ
2020年9月20日敬老感謝礼拝メッセージ
『公私で祝福して下さる神様』
【創世記46:1~4】

はじめに
 きょうは敬老感謝礼拝です。そこで聖書に登場する人物の、年老いてからの晩年に注目してみたいと思います。

 聖書には様々な人物の晩年が描かれていますね。アブラハムの晩年、イサクの晩年、ヤコブの晩年、ヨセフの晩年、モーセの晩年、ヨシュアの晩年、サムエルの晩年、ダビデの晩年などなど、多くの人物の晩年が描かれています。

 それらの人物の中で、きょうはヤコブの晩年をご一緒に見ることにします。7月26日に藤本満先生が午前と午後の2回にわたってヤコブについて語って下さいましたから、その後の年老いてからのヤコブについて見るのは、ちょうど良いだろうと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①ペヌエルで神様と格闘して以降のヤコブ
 ②年老いてからも苦労が絶えなかったヤコブ
 ③なぜ「イスラエルよ」ではなくて「ヤコブよ」か?
 ④「はい、ここにおります」と答えられる幸い

①ペヌエルで神様と格闘して以降のヤコブ
 早いもので藤本満先生がヤコブを語って下さってから8週間が経ちました。午前の聖会ではベテルでの出来事が語られました。父イサクからの兄への祝福を、ヤコブは兄のエサウになりすまして横取りしました。このことにエサウは激怒して弟のヤコブを殺そうと考えます。そこでヤコブは遠く離れたハランの地に住む伯父のラバンの所に逃げます。逃げる途中のベテルで、神様は石を枕にして眠りに就いたヤコブの夢の中に現れて言いました。創世記28章15節です(週報p.2)。

創世記28:15 「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

 素晴らしい祝福ですね。父親を欺いて兄への祝福を横取りした、言わば罪びとのヤコブを神様はどうしてこんなにも愛されたのでしょうか?そのことが午後の聖会で明らかにされました。

 午後はその20年後のペヌエルでの出来事についてでした。伯父のラバンの所で20年を過ごしたヤコブに神様がまた現れて、生まれ育ったカナンの地にまた戻るように命じました。そこでヤコブは家族と共に伯父の家を離れてカナンに向かいますが、その途中で兄のエサウが四百人を引き連れてヤコブを迎えに来るという情報が入ります。

 四百人を引き連れたエサウに襲われることを恐れたヤコブは祝福を求めて神様と格闘しました。それまでのヤコブはずる賢い人物でしたが、とにかく祝福を得ることに貪欲だったのですね。父を欺いてまでも、本来エサウに与えられるべき祝福を得ました。そして20年後のペヌエルでは神様と格闘してまでも祝福を得ました。この祝福への貪欲さが、神様がエサウよりもヤコブを愛した理由であろうと午後の聖会では語られました。この神様の祝福への貪欲さが無いと、いつの間にか神様から離れてしまいます。私たちも神様と格闘するぐらいに貪欲に祝福を祈り求めたいと思います。

 さて、カナンに戻ってからのヤコブには、さらにいろいろな出来事が待っていました。中でも、溺愛していた息子のヨセフを失ったことはヤコブにとって最も悲痛な出来事でした。ヨセフの兄たちがヨセフをエジプトに向かっていた商人に売ってしまったのですね。しかし兄たちはヤコブに嘘をついて、ヨセフは獣に食い殺されたことにしました。その箇所をご一緒に見ておきたいと思います。創世記37章の31節から35節までをお読みします(旧約p.70)。31節の「彼ら」というのはヨセフの兄たちのことです。兄たちは血の付いたヨセフの服をヤコブに見せました。

37:31 彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎを屠って、長服をその血に浸した。
37:32 そして、そのあや織りの長服を父のところに送り届けて、言った。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」
37:33 父はそれを調べて言った。「わが子の長服だ。悪い獣が食い殺したのだ。ヨセフは確かに、かみ裂かれたのだ。」
37:34 ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、何日も、その子のために嘆き悲しんだ。
37:35 彼の息子、娘たちがみな来て父を慰めたが、彼は慰められるのを拒んで言った。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい。」こうして父はヨセフのために泣いた。

 ヤコブはヨセフのために何日も嘆き悲しみました。ヤコブにはレアとラケルの二人の妻がいました。レアとラケルは姉妹で、姉のレアは早くから多くの子を生みました。それがヨセフの兄たちです。一方、妹のラケルの胎は長く閉じられていました。ヨセフはその長く胎が閉じられていたラケルにようやく与えられた子で、ヤコブはレアよりもラケルを愛していましたから、ヤコブはヨセフを溺愛しました。

 しかしヤコブがヨセフを溺愛した理由は、ヨセフがラケルの子であるということだけではない気がします。神様がヨセフと共にいることにヤコブは気付いていたのではないかと思います。ヨセフはとても利発で、霊性も豊かな少年でした。

 ヤコブは神様と格闘するほど神様と近い関係にありましたから、自分の息子たちの中でもヨセフがとりわけ霊性に恵まれた者であることに気付いていたんだろうと思います。そんなヨセフの将来に、ヤコブは大いに期待を寄せていた筈です。それだけにヨセフを失ったショックはあまりにも大きかったのではないか、そんな気がします。

②年老いてからも苦労が絶えなかったヤコブ
 そして年老いてからの晩年のヤコブにはさらなる困難が待ち受けていました。それは全地が飢饉になったことでした。カナンの地もエジプトの地も作物が獲れなくなりました。しかし、エジプトには備蓄した穀物が豊富にありました。それは皆さんご承知のように、エジプトに売られたヨセフがエジプトの王のファラオの夢の解き明かしをして、不作になる前の豊作の年に食糧をしっかりと蓄えていたからですね。

 それで全地の人々は食糧を買いにエジプトへと向かいました。ヤコブの一家も、食べ物に困ったために、息子たちがエジプトに行って穀物を買うことにしました。貧乏な家庭では穀物を買うお金すら無いと思いますから、ヤコブの一家は裕福であったということですが、裕福なら裕福なりに一族を養うことは大変なことだったでしょう。

 後にヤコブの一家はエジプトに向かいます。きょうの聖書箇所の46章にそのことが書かれていますが、46章の26節にその一家の人数が書いてあります。26節、

46:26 ヤコブに属する者、彼の腰から生まれ出た子でエジプトにやって来た者は、ヤコブの息子たちの妻を除いて、全部で六十六人。

 大変な数ですね。これに息子の妻たちや使用人たちも加わります。飢饉でなくても、大家族を養うことには苦労があったと思います。ですから、飢饉になって本当に困っただろうと思います。ヤコブは若い時は伯父のラバンの下で苦労して、カナンに戻ってからも愛していた息子のヨセフを失い、年老いてからも食糧が無くなるという苦労をしました。ヤコブの人生は、苦労の多い生涯であったと思います。

 そんな苦労の多かったヤコブに、エジプトに行って穀物を買って来た息子たちから朗報がもたらされました。死んだと思っていた息子のヨセフが実はエジプトで生きていて、王のファラオに次ぐ地位に就いているというのです。45章の26節と27節をお読みします。

45:26 彼らは父に告げた。「ヨセフはまだ生きています。しかも、エジプト全土を支配しているのは彼です。」父は茫然としていた。彼らのことばが信じられなかったからである。
45:27 彼らは、ヨセフが話したことを残らず彼に話して聞かせた。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見ると、父ヤコブは元気づいた。

 これは、苦労の多い生涯を歩んで晩年に至ったヤコブへの、神様からのプレゼントとも言えるかもしれませんね。28節、

45:28 イスラエルは言った。「十分だ。息子のヨセフがまだ生きているとは。私は死ぬ前に彼に会いに行こう。」

 イスラエルというのはヤコブのことです。ヤコブはペヌエルで神様と格闘した時に、イスラエルという名前を与えられていました。

③なぜ「イスラエルよ」ではなく「ヤコブよ」か?
 こうして、イスラエルの一族は食糧のないカナンを逃れてエジプトへ行くことにしました。46章の1節と2節、

46:1 イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」

 ここからは、神様はなぜイスラエルに「イスラエルよ、イスラエルよ」ではなくて、「ヤコブよ、ヤコブよ」と語り掛けたのかを、考えてみたいと思います。かつてペヌエルでヤコブと格闘した時に神様は、創世記32章28章のように仰せられました(週報p.2)。

創世記32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。

 さらに35章10節でも、もう一度同じことを仰せられました(週報p.2)

創世記35:10 神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが、あなたの名となるからだ。」こうして神は彼の名をイスラエルと呼ばれた。

 それなのに、なぜ神様は「ヤコブよ、ヤコブよ」と呼び掛けたのでしょうか?

 考えられることは、「イスラエル」とは公の公人としての名前であり、「ヤコブ」は私の私人としての名前であるということです。

 ヤコブはイスラエル12部族の父です。ヤコブの12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先になり、モーセの時代を経てヨシュアの時代に占領した地がそれぞれの部族に割り当てられました。ヤコブは公には、そのイスラエル12部族の父でした。そして、主はイスラエル12部族を大いに祝福しましたから、それは公の顔の、イスラエル12部族の父としてのヤコブを、主は大いに祝福したということです。

 一方で、主は一個人としての私人のヤコブも祝福して下さいました。それが「ヤコブよ、ヤコブよ」という呼び掛けに表れているのではないでしょうか。

④「はい、ここにおります」と答えられる幸い
 ヤコブが生まれた時、ヤコブは先に生まれた双子の兄のエサウのかかとをつかんで生まれて来ました。それゆえヤコブの名が付けられました。母のリベカのお腹の中で、ヤコブはエサウを先に出すまいと懸命にかかとをつかんでいました。先に生まれた方が長子の権利を得ますから、ヤコブはそれを阻止しようと生まれる前から必死でした。ヤコブはそれほどまでに長子として祝福を受けることに貪欲でした。

 主の「ヤコブよ、ヤコブよ」には、両親が赤ちゃんのヤコブに語り掛けるような優しい響きがあったのだと思います。年老いていたヤコブでしたが、彼は幼子のような素直さで答えました。

「はい、ここにおります」

 私たちは子供から大人になると、社会の中で様々な公の顔を持つようになります。仕事だけでなく、町内の掃除当番や防災係、組長などの係も順番に回って来ます。それらの係を公人として務めます。教会も一つの社会であり、私たちはそれぞれに与えられた賜物に従って奉仕をします。それも公の私の働きでしょう。その働きに対して主は「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってほめて下さり、祝福して下さいます。

 しかし同時に主は、赤ちゃんのように、ただそこに存在しているだけの個人としての私もまた祝福して下さり、優しく呼び掛けて下さいます。年を取って様々な働きの第一線から退くと、私たちは段々と公の公人としての私から、私人としての私に戻って行きます。そうして主は私人となった私のことも豊かに祝福して下さいます。

 このメッセージの準備をしていて、3月まではH兄がいつもこの会堂の一番前の席におられたことを思い出しました。

 H兄は電器屋のご主人として働き、教会でも役員を務めて公人として重要な働きをされました。そして、それらすべての公の働きから退いた後のH兄は、ヤコブのように幼子に戻って「はい、ここにおります」と返事をしに礼拝に集っていたのだなと思いました。

 私たちはH兄を天に見送りましたが、この教会にはなお多くのご高齢の方々がここに集い、「はい、ここにおります」という姿を見せて下さっていることを、とても感謝に思います。これからもできるだけ長く、お元気に礼拝に集い続けることができますように、お祈りしています。

 創世記46章に戻ります。「はい、ここにおります」と答えたヤコブに神様は仰せられました。3節と4節、

46:3 すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。
46:4 このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」

 神様はヤコブに、「エジプトに下ることを恐れるな」と言い、「このわたしが、あなたとともにエジプトに下る」と仰せられました。どこに行っても神様は、私たちと共にいて下さいます。H兄も今年の4月以降は、住み慣れたご自宅を離れて、病院と施設とを行ったり来たりしておられました。そのようにご自宅を離れて教会の礼拝に出席できなくなってからも、神様はいつも兄弟と共におられました。そして天に召された日は、息子さん夫妻がずっと側に付いていて、そこにはイエス様も共にいて下さいました。

 私もその場にいさせていただき、神様は私たちが母親の胎の中にいる時から天に召される時まで、そして召された後もずっと共にいて下さる方であることを改めて感じました。

 ですから、例え様々な事情で家族に看取られることなく天に召されるとしても、イエス様はいつもそばにいて下さいます。H兄も、他のご家族は臨終に間に合いませんでしたし、もしコロナウイルスによる面会規制が一番厳しい時だったら誰も看取ることができなかったかもしれません。しかし、例えそうだったとしてもイエス様はいつもそばにいて下さいます。このことはとても心強いことだと思います。そして、このことを神様に感謝しつつ賛美して礼拝できるクリスチャンの幸いを改めて感じました。

おわりに
 神である主は私たちが年老いて公人としての働きができなくなってからも個人的に話し掛けて下さり、どこへ行っても共にいて下さることを約束して下さっています。

 そのことに心から感謝したいと思います。そして年老いてからも幼子のように「はい、ここにおります」と答えられる幸いが与えられていることにもまた、心一杯感謝したいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
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御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒す(2020.9.13 礼拝)

2020-09-14 15:59:59 | 礼拝メッセージ
2020年9月13日礼拝メッセージ
『御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒す』
【マタイ11:25~30】

はじめに
 きょうの中心聖句はマタイの福音書11章の27節と28節です。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 28節のみことばは、とても有名ですから、皆さんも良くご存知だと思いますし、ご自身がこのみことばによって癒されたという経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。この28節に加えて27節も中心聖句とするのは、27節の前半にあるように、すべてのことが天の父からイエス様に渡されているから、イエス様はすべての疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができる、このことを皆さんと分かち合うためです。きょうのメッセージのタイトルに示したように、御父と一つだから御子の愛は深く人の心を癒します。

 このことを今日は次の四つのパートで話して行きます(週報p.2)。

 ①多くの人々の心を癒して来たマタイ11:28
 ②羊飼いの父(詩篇23)と一つの子(ヨハネ10:30)
 ③大人に成長して子や教え子を持つと分かる親の愛
 ④震災で家族の絆が見直された日本で伝えたい父と子の愛

①多くの人々の心を癒して来たマタイ11:28
 2年前の静岡聖会は10月7日と8日に磐田グランドホテルで持たれました。講師は基督兄弟団・西宮教会牧師の小平牧生先生でした。この時の聖会Ⅰで小平先生は阪神大震災への対応で燃え尽きそうになった時に、このマタイ11:28のみことばに癒され励まされて、再び立ち上がることができたという先生ご自身の体験のお証しを語って下さいました。

 この説教の後で、私は小平先生に話し掛けて、私自身もまたこのマタイ11:28に励まされた経験があることを話しました。沼津教会が他教団の教会と合併して解散することは、信徒の皆さんにとってとてもショックの大きいことでしたが、牧師にとっても大きなストレスが掛かることで、私は燃え尽きかけていました。そんな時に、このマタイ11:28のみことばにとても癒されました。

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 人間にとって休むことはとても大切なことです。休まないと人は壊れてしまいます。仕事の休みを取って体を休めても心が休まらないでいると、やがて心は壊れてしまいます。イエス様が私たちの心を休ませて下さることは、とても感謝なことです。

②羊飼いの父(詩篇23)と一つの子(ヨハネ10:30)
 それにしても、イエス様の言葉はどうしてこんなにも私たちの心を癒すのでしょうか?

 イエス様の言葉がどうしてこんなにも私たちの心に響くのか、それはイエス様が天の父と一つのお方だからです。きょうの中心聖句のマタイ11章27節と28節をもう一度通してお読みします。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 27節の前半でイエス様はおっしゃいました。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。」つまり、イエス様は天の父と一つのお方です。だからこそ疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができます。

 イエス様が天の父と一つのお方であることは、イエスさまご自身がおっしゃっています。きょうの招きの詞のヨハネ10章28節から30節までをもう一度お読みします。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」

 このように30節でイエス様は、「わたしと父とは一つです」とおっしゃっています。きょうの聖書交読では詩篇23篇を開きました。ダビデは羊飼いである天の父に癒されていました。イエス様はこの羊飼いである天の父と一つのお方なのですね。

23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 イエス様は、この羊飼いである天の父と一つのお方ですから、疲れた人、重荷を負っている人を癒すことができます。

③大人に成長して子や教え子を持つと分かる親の愛
 ただし、羊飼いである天の父の愛がどれほど大きいものであったかを知るには、私たちの信仰が子供から大人へと成長する必要があります。

 私たちが子供だった頃、私たちは自分に注がれる親の愛を当たり前のように思って育ちました。しかし、成長して大人になると、親が多くの犠牲を払って苦労して子供の自分を育ててくれたのだなということが分かるようになります。さらに自分も子供を持って親になると、さらに親の苦労がよく分かるようになります。

 私には子供がありませんが、これは学校の教師と生徒の師弟関係でも同じことが言えると思います。私は大学の研究室で、恩師から研究のイロハを教えていただきました。そうして自分も大学の教員になって自分の教え子を持った時、恩師の先生は苦労して学生の私たちを育てて下さったんだなと初めて分かって、とても感謝に思いました。研究者の卵である大学院生が成長するためには、学内での日頃の研究ももちろん大切ですが、学外で持たれる国内の学会や国際会議、また海外での国際会議に出席することはとても大切なことです。これらの場で一流の研究者と討議し、また同年代の若い研究者と親交を持つことで研究へのモチベーションが一層高まります。しかし学生は貧乏ですから自分で旅費を出すことはできません。ですから大学の先生は苦労して資金援助して学生に学会出席などの貴重な経験を積ませます。

 私が大学教員になって教え子を持った時、私はあまり多くの資金援助ができませんでしたから、そういう貴重な経験を自分の教え子に少ししか積ませてあげることができませんでした。ですから、自分の教え子にはとても申し訳なく思うと同時に、自分を育てて下さった恩師に感謝しました。また、苦労して学費を払い続けてくれて私に好きなだけ勉強させてくれた自分の親に対しても、とても感謝に思いました。

 このように私たちの多くは子供の頃には親の愛をあまり理解せずにいて、大人に成長して初めて親の大きな愛が分かるようになります。信仰も同じなのでしょう。信仰が成長して初めて天の父の大きな愛が分かるようになるのでしょう。ですから私たちは天の父の大きな愛が分かるよう、信仰において成長したいと思います。

 話をマタイ11章に戻します。マタイ11章25節でイエス様は、

11:25 「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。」

とおっしゃいました。天の父は「天地の主」です。父は天地を創造して動植物を造り、私たち人間の命も造りました。だから天の父は私たちを愛して下さっています。

 今年私は朝顔の種とコスモスの種を駐車場の脇に蒔きました。自分で種を蒔くところから始めると、やっぱりとても愛おしく感じます。今年の夏は暑かったですから、朝と晩に水やりをすることが欠かせませんでした。午後に用事で外出した時なども、以前だったら外でゆっくりしてから帰ることもありましたが、夕方に水やりをするために急いで戻っていました。

 まして皆さんの多くはご自分のお子さんを育てられ、或いはまた教え子を育てられましたから、どんなに多くの愛情をお子さんに注いだことだろうかと思います。

 そういうわけで私たちの命を造った天の父も私たちの一人一人にたっぷりと愛情を注いで下さっています。そして天の父はもちろんイエス様のことも愛していました。イエス様がバプテスマを受けた時、天から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」という声がありましたね。マタイ3章16節と17節です(週報p.2)。

3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 そして天の父は愛するイエス様に大きな重荷を負わせていました。それは天の父ご自身の言葉を人々に伝えることと、最終的には十字架に付かなければならないという重荷でした。イエス様はヨハネ12章の49節と50節でおっしゃいました(週報p.2)。

12:49 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。」

 このように天の父はイエス様に話すべき言葉を授けて、その父の言葉をイエス様は人々そして弟子たちに伝えていました。しかし、聖霊を受ける前の弟子たちにとってはイエス様の言葉を理解することは難しいことでした。罪によって弟子たちの目と耳は閉じられていたからです。

 イエス様はご自身が教師となって弟子たちに教えました。そして自分の言葉を弟子たちが理解できていないことを通して、段々と十字架に付かなければならないという最大の重荷を受け入れていったのではないかなと思うことです。十字架に付くことは神の御子であるイエス様にとっても途轍もなく恐ろしいことだったでしょう。肉体的に激しい痛みを受けなければならないだけでなく、霊的にも天の父から切り離されて死に、陰府(よみ)に下らなければなりません。それはイエス様にとっても想像を絶する恐怖だったことでしょう。しかしイエス様が十字架で血を流さなければ弟子たちの罪はきよめられず、罪がきよめられなければ聖霊を受けることができず、聖霊を受けることができなければ霊的な目と耳は決して開かれません。

 ですからイエス様は十字架に付くという天の父からの重荷をどうしても負わなければなりませんでした。この重荷を負う苦悩をイエス様ご自身が味わっていたからこそ、イエス様は疲れた人々、そして重荷を負っている人の心を自分のことのように分かり、そして癒すことができます。

 どうしてイエス様の言葉は私たちを癒すのか、それはイエス様ご自身が十字架の重荷を負っているからでもあるのですね。

④震災で家族の絆が見直された日本で伝えたい父と子の愛
 このイエス様の十字架の重荷は、有名なヨハネ3:16のみことばのように、天の父が私たちを愛していたゆえにイエス様に負わせたものです。ヨハネ3:16(週報p.2)、

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 そしてイエス様がこの十字架の重荷を負うことを受け入れたのも、イエス様が私たちを愛して下さっているからです。

 この父と子の大きな愛を、静岡の方々、日本の方々にお伝えしたいと思います。

 あと半年で東日本大震災から10年になります。9年半前の東日本大震災では津波によって多くの方々が家族を失いました。そして悲しみの中で家族の絆が見直されました。この家族の絆が見直された日本で、天の父と子の愛をお伝えしたいと思います。天の父と御子イエス・キリストもまた太い愛の絆で結ばれていました。そして十字架の悲しみを経験しました。この父と子の愛と悲しみを日本の方々と分かち合いたいと思います。

 東日本大震災の悲しみもまだ癒えない中で、今はさらに地球温暖化による気象災害と新型コロナウイルスの感染により人々はさらに悲しみを負い、また疲れています。災害からの復興に当っている方々、医療に従事している方々、被害に遭った方々への補償に当っている方々が負っている重荷もまた大変なものです。悲しんでいる方々、疲れている方々、重荷を負っている方々の心をイエス様が癒して下さり、休ませて下さいますように、お祈りしたいと思います。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。

11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
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聖霊の礼服が必要な天の御国(2020.9.6 礼拝)

2020-09-07 07:44:25 | 礼拝メッセージ
2020年9月6日礼拝メッセージ
『聖霊の礼服が必要な天の御国』
【Ⅰヨハネ1:7(招詞)、マタイ13:1~16(交読)、マタイ22:1~14(朗読)】

はじめに
 クリスチャンではない方から良く言われることの一つに、「神様が愛に溢れている方であるなら、どうして全員が天国に行けるようにしないのか。イエスを信じなければ天国に行けないのなら、それは愛の神じゃないんじゃないの?」というのがありますね。皆さんの中にも、お知り合いからそう言われたことがある方も、いらっしゃるのではないでしょうか。私も複数の友人・知人から言われたことがあります。

 それに対して以前の私は教わったことの受け売りで答えていました。「神様は人に自由を与えているんです。神様が人の自由を奪って強制的に天国に入れるなら、それは<愛>ではありません」、と答えていました。しかし、そう答えながら、これは自分自身の言葉になっていないなと感じていました。教わったことを受け売りで言っているだけですから当然です。相手にも理解してもらえません。

 それが最近、このことは<天の御国>の「聖さ」に関係していると示されています。M先生から「もっとウェスレーを勉強するように」というアドバイスをいただき、また7月26日には藤本満先生が聖会で聖めのメッセージを語って下さり、聖めについて改めて考えるようになりました。そうした中で、神様の側では全員を救いたいと願って聖霊の礼服を与えようとしているけれども、人の側で拒んでいることが見えるようになりました。聖所である<天の御国>の聖さを汚さないことだけは神様としては譲れない一線ですから、神様は人に聖霊の礼服を与えようとしています。しかし拒否する人たちがいます。

 きょうはこのことを、次の四つのパートで話して行きます。

 ①聖書の中で透けて見えている天の御国
 ②聖霊を受けないとハッキリ見えない御国
 ③聖所であるがゆえに聖霊の礼服が必要
 ④地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習

①聖書の中で透けて見えている天の御国
 <天の御国>は聖い場所、すなわち聖所ですから、入るには聖霊の礼服が必要です。このメッセージが与えられたのは、先月の8月にEテレの「100分de名著」で紹介されたファンタジー小説の『モモ』について思いを巡らしていた時でした。ミヒャエル・エンデ作のこの小説の中で、主人公のモモは天国のような場所の<時間の国>に行きます。この天国のような場所には神様のようなマイスター・ホラという人がいます。ですから、『モモ』と聖書は一見すると良く似ています。しかし、実はとても大きな違いがあります。それは、『モモ』の<時間の国>の入口はとても分かりづらい場所にあり、しかも、こちら側とあちら側との境い目には目に見えないバリアーがあって、あちら側の<時間の国>に近づくことは容易ではありません。

 一方、聖所である<天の御国>と地上の私たちの間にバリアーはありません。旧約の時代には私たちの側と聖所の間には垂れ幕があって仕切られていましたが、イエス様が十字架で死なれた時にこの垂れ幕は真っ二つに裂けましたから、バリアーはなくなりました。それゆえ、<天の御国>の様子は透けて見えています。ですからクリスチャンの私たちは、地上にいながらにして、聖所である<天の御国>に大胆に近づくことができます。ヘブル人への手紙4章16節に書いてある通りです(週報p.2)。

ヘブル 4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 私たちの<天の御国>は遠い所にあるのではありません。近づくことを邪魔するバリアーもありません。<天の御国>は私たちのすぐ近くにあって透けて見えています。これが私たちの<天の御国>の大きな特徴であると言えるでしょう。
 
②聖霊を受けないとハッキリ見えない御国
 たった今、私たちの<天の御国>は透けて見えていると話しました。しかし、実は透けて見えているのは聖霊を受けたクリスチャンだけで、聖霊を受けていないと<天の御国>の様子は見えて来ません。不思議なことですが、これは私たちが実際に経験していることですね。まだイエス様を信じていなかった頃、聖書に何が書いてあるのかさっぱり分かりませんでした。それがイエス様を信じてからは少しずつ段々と分かるようになります。同じ聖書なのにイエス様を信じる前は分からず、イエス様を信じると分かるようになります。

 その意味では聖書も『モモ』と同じなのかもしれません。『モモ』では、こちら側とあちら側の<時間の国>との間にはバリアーがあります。聖書も、イエス様を信じていない間はこちら側とあちら側の<天の御国>との間にはバリアーがあります。

 さて、イエス様を信じないと聖書が分からないのは、イエス様を信じない者には奥義を知ることが許されていないからです。きょうの聖書交読では、マタイの福音書13章の「種蒔きの例え」の記事の前半部分を読みました。マタイ13章に戻りましょう(新約p.25)。

 ここでは道端に落ちた種、岩地に落ちた種、茨の間に落ちた種、また良い地に落ちた種がどうなったかが書かれています。良い地に落ちた種は実を結んで何十倍、或いは百倍にもなりましたが、それ以外は実を結びませんでした。

 そしてイエス様がこの例えを話すと、弟子たちは10節でイエス様に聞きました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか?」するとイエス様は答えました。

13:11 「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。

 イエス様を信じない者には天の奥義を知ることが許されていません。ですからイエス様を信じる前の私たちは聖書を読んでも、何が書いてあるのかさっぱり分かりません。これはイザヤ書で預言されていたことでした。少し飛ばして14節と15節、

13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

 そうしてイエス様はおっしゃいました。16節、

13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。

 21世紀の私たちもイエス様を信じて聖霊が与えられているなら、奥義を知ることが許されていますから幸いです。

 さて、きょうのメッセージの冒頭で、「神様が愛に溢れた方なら、全ての人が天国に行けるようにすべきではないか」、とクリスチャンではない方からよく言われるという話をしました。今の種蒔きの例えに当てはめるなら、「神様が愛に溢れた方であるなら、全ての人に<天の御国>の奥義を知らせるべきではないか」、ということになります。次にこのことを考えましょう。

③聖所であるがゆえに聖霊の礼服が必要
 <天の御国>の奥義を知ることが許されていることは、<天の御国>に入ることが許されているのと同じことです。そうすると、やはり誰でも無条件で<天の御国>に行けるようにするというわけにはいきません。いくら神様が愛に溢れたお方であってもフリーパスで全ての人を<天の御国>に入れることはしないでしょう。なぜなら<天の御国>は最高に聖い「聖所」だからです。ですから罪人である私たちは聖められなければ<天の御国>に入ることはできません。神様に背いていた私たちの罪は自分で償って神様に赦していただけるほど軽いものではありません。

 例えば旧約聖書の最後の書であるマラキ書1章2節には、このように書かれています。
 
マラキ1:2 「わたしはあなたがたを愛している。──は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。

 主はイスラエルの民を愛しておられます。それなのに民の側は全く分かっておらず、「どのように愛して下さったのですか?」などと聞き返しています。何という不信仰でしょうか。これが八百万の神々の話なら分からないでもありません。例えばサッカーの神様が野球の選手に「わたしはあなたがたを愛している」と言っても、野球選手の側は???(はてな)でしょう。しかし、私たちの神である主は万物を創造して支配しているお方ですから、神様は私たちの一人一人を造り、私たちの何から何まで全てをご存知であり、その上で私たちを守って下さっています。万物の創造主である神様は私たちを愛し、私たちのすべてに関係して下さっています。

 この神様の愛を知らずに神様に背いて自分勝手にやりたい放題をすることは重大な罪です。神様によって滅ぼされても少しもおかしくないほどに重い罪ですが、憐み深い神様はひとり子のイエス様に私の罪を負わせて十字架に付けて私の罪を赦して下さり、聖めて下さり、<天の御国>に入ることを許して下さいました。このことをヘブル書は10章の19節と20節で次のように記しています(週報p.2)。

ヘブル 10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 私たちはイエス様が十字架で流した血によって罪が赦され、その十字架のイエス様を信じるなら聖霊を受けて、聖霊が私たちを聖めて下さいます。そうして初めて聖所である<天の御国>に入ることが許されます。罪にまみれたままでは決して<天の御国>に入れていただくことはできません。ですから私たちが<天の御国>に入るためには、聖霊の礼服を着る必要があります。

④地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習
 きょうの聖書箇所のマタイ22章にこの「礼服」という言葉が出て来ます。この「礼服」とは聖霊のことであると読み取れます。1節から見て行きましょう

22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

 この例え話も他の例え話と同じように聖霊を受けていない者には分かりづらい話ですが、聖霊を受けているなら理解できます。

22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。

 この箇所は旧約の時代のイスラエルの民が神様にくり返し背いていた様子が見て取れると思います。王が遣わしたしもべとは、エリヤやイザヤ、エレミヤなどの預言者たちです。4節から6節、

22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。

 イスラエル人たちは預言者たちを迫害して侮辱して、殺してしまいました。特に南王国のマナセ王は残虐で、多くの血が流されたことが旧約聖書に記されています。7節と8節、

22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。
22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。

 イスラエルの北王国もまた南王国も、不信仰のゆえに主を怒らせて、主が送った外国軍によって滅ぼされてしまいました。続いて9節と10節、

22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 ここから新約の時代に入ったのでしょう。新約の時代にはイエス・キリストを信じるなら、誰でも聖霊を受けて<天の御国>に入ることが許されます。しかし11節、

22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。

 どういうわけか、聖霊を受けていない者が紛れ込んでいたようです。新約の時代に入って多くの人々がイエス・キリストを信じましたが、中には信じない人もいました。特にユダヤ人たちの多くは信じようとしませんでした。こういう人は神様がせっかく礼服を与えようとしているのに拒否している人です。神様は当然、怒ります。13節と14節、

22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』
22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

 <天の御国>は聖所ですから、誰でもフリーパスで入れるわけではないのですね。聖霊の礼服を着て聖められた者でなければ聖所に入ることはできません。

 もちろん罪深い私たちは地上で生きている限りは完全に聖められることは難しいでしょう。地上生涯を終えて天に召される時には完全に聖められますが、地上にいる間は様々な誘惑があって困難が伴います。しかし、だからと言って、どうせ完全に聖められないなら地上での信仰生活は真似ごと程度でいい加減に済ませておけば良いということにはならないでしょう。地上の礼拝は天の結婚披露宴の予行演習とも言えます。ですから、私たちは日曜日に教会に集って礼拝をささげて、召される日に備えたいと思います。今年天に召された横山兄と萩原兄も召される少し前まで礼拝出席に励み、備えておられました。兄弟たちがこのような善き証しを立てて下さったことは本当に感謝なことでした。

 きょうの招きの詞の第一ヨハネ1章7節をもう一度お読みします。

1:7 もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

 私たちが光の中を歩み、良い交わりを持つなら、イエス様は私たちを洗礼を受けた頃よりもさらに聖めて下さいます。そうして聖められれば聖められるほど、<天の御国>が以前よりも、もっとハッキリと見えるようになります。奥義を知ることが許されたことで、聖書をより深く理解できるようになり、<天の御国>が透けて見えるようになります。聖霊を受ける前はバリアーがあって見えなかった<天の御国>が、良く見えるようになります。そうすれば地上にいながらにして<天の御国>に入ったも同然ですから、深い平安が得られます。

 死んで初めて<天の御国>を見ることができるのではありません。聖霊の礼服を着て礼拝出席に励み、聖められて行くなら<天の御国>が見えるようになりますから、必ず御国に入れるという確信を持つことができます。

 私たちは毎週礼拝で主の祈りをささげて、「御国を来たらせたまえ」すなわち「御国が来ますように」と祈ります。しかし実はもう御国は半分は来ているのですね。毎週の礼拝で結婚披露宴の予行演習をして、私たちは毎週<天の御国>を確認したいと思います。

おわりに
 新型コロナウイルスの感染拡大で、大都市圏の教会の多くは今、予行演習の礼拝がオンラインでしかできないでいます。幸いにも私たちはこうして集う形での礼拝ができています。しかし安全のために礼拝出席を控えている方々もおられます。或いはまた、クリスマスの季節に近隣の方々を招待する働きも残念ながらできません。神様が早く今のコロナの災いを終息させて下さり、多くの方々を結婚披露宴の予行演習にお招きできるようにしていただきたいと思います。

 すべての人はやがては地上生涯を終えます。ですから、すべての方が<天の御国>での本物の結婚披露宴に門前払いされずに出席できるよう願い、祈りつつ、礼拝に励みたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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イエスを内に迎え入れて知る本来の自分(2020.8.30 礼拝)

2020-08-31 12:40:27 | 礼拝メッセージ
2020年8月30日礼拝メッセージ
『イエスを内に迎え入れて知る本来の自分』
【ルカ19:1~10】

はじめに
 明後日の9月1日は防災の日です。9月1日は97年前に関東大震災があった日であり、また台風の被害が起きやすい二百十日の時期ということで防災の日に定められています。きょうの賛美歌の「遠き国や」は関東大震災の当日に東京にいたアメリカ人宣教師のJ. V. Martinが作ったものだということは、皆さんよくご存知のことと思います。

 地震や台風などの自然災害は科学が発達した21世紀においても昔と変わらず大きな被害をもたらします。地震はいまだに予知が難しいですし、台風は何日も前からおよそのコースが分かっていても、なお大きな被害をもたらします。しかし、それでも科学によって地震や台風について多くのことが分かるようになったことは大きな恩恵だと思います。昔は何も分からずに、ただおびえていただけでした。

 ジョン・ウェスレーがイギリスからアメリカに渡った時も、大きな嵐に何度も遭いました。その度にウェスレーは死の恐怖におびえていたことが、ウェスレーの日記に記されています。

 先週はジョン・ウェスレーが初めて野外説教を経験した1739年の出来事について話しましたが、きょうはその3年前の1736年にウェスレーが船でイギリスからアメリカに渡った時のことから話を始めます。ウェスレーがアルダスゲイトで回心したのが1738年のことですから、アメリカへの渡航はその約2年前のことです。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①嵐の船上で恐怖に震えた英国人と平安だったドイツ人
 ②あなたは本当に自分自身を知っていますか?
 ③人から聞いたイエスでなく自分自身でイエスに出会う
 ④本来は神のかたちに造られた私たち(神は愛です)

①嵐の船上で恐怖に震えた英国人と平安だったドイツ人
 先ほどウェスレーは1736年にイギリスからアメリカに渡ったと言いましたが、ウェスレーが渡航のための船に乗り込んでロンドンを立ったのは彼の日記によれば1735年の10月14日です。しかし彼が乗った船が本格的に大西洋上に出たのは年が明けた1736年の1月でした。それまでの2ヶ月半はずっとヨーロッパ大陸の沿岸にいました。アメリカ大陸に向けての順風がなかなか吹かず、ずっと逆風の状態だったからです。12月1日の日記には、一緒に乗り込んだ人の中には順風が吹かないことにいら立って下船し、ロンドンに帰ってしまった人もいたことが記されています。このこと一つ取っても、18世紀の航海がいかに大変なものであったかが分かります。蒸気エンジンを積んだ蒸気船が発明されたのは19世紀初めのことです。そして19世紀の半ばの1853年にアメリカのペリーが蒸気船の黒船の艦隊で浦賀沖に現れて、江戸時代の日本人がビックリ仰天することになるのですね。

 さて1736年の1月にようやく大西洋上に出たウェスレーは、今度は嵐で大変な目に遭います。嵐は一度や二度ではありませんでした。船がアメリカのジョージア州サバンナに着いたのが2月5日でしたから、ウェスレーたちが乗った船は約1ヶ月間、大西洋上にいて、その間、何度も嵐に遭いました。

 1月25日の日記には次のように記されています。

 正午、第三回目の荒天となった。午後四時、それは以前二回の荒天よりも猛烈なものとなった。実にこの時、私たちはこう言わねばならなかった。「波浪のうねりは巨大にして狂暴を極め、天上高く逆巻くかと思えば、たちまちにして地獄の底に低く這いつくばえり」と。風は四方にほえたけって、その叫びたるや正に人間の叫びに似ていた。船は前後に激しく揺れるだけでなく、不規則に振動し、衝撃し、きしった。乗客の困惑は非常なもので、何かにつかまらないではいられないほどだった。つかまらないでは、一刻も立っておられなかったのである。十分間ごとに、船尾か舷側かに衝撃が起きるので、船が粉砕されんばかりだった。

 この嵐の中でウェスレーは死の恐怖におびえます。しかし、そんな中で同じクリスチャンのモラビア派という宗派に属するドイツ人たちは平静を保っていました。このことがとても気になったウェスレーはドイツ人たちに近づいていきます。そして彼らが礼拝中に再び嵐が襲います。ウェスレーの日記を再び引用します。

 彼らの礼拝の真っ最中、大波が船上に砕け散って、帆を寸断し、船を呑んで両甲板に流れこんできたので、私たちは大深淵に呑み込まれたかの感があった。恐ろしい金切声が、英国人の中に起こった。ところがドイツ人たちは、上を見て、中断せずに静かに歌い続けた。後で、私は彼らの一人に質問した。私「あなたは恐ろしくありませんでしたか?」彼「ありがたい事に、恐ろしくありませんでした。」私「しかし、ご婦人たちと子供たちは恐ろしかったでしょう?」彼「どういたしまして。わが婦人たちも子供たちも、死を恐れていません」と、彼は穏やかに答えた。

 この頃のウェスレーは、自分が救われているという確証が持てず、従って心の平安も得られずに悩んでいました。アメリカに渡る決意をしたのも、アメリカン・インディアンというキリスト教を何も知らない異教の民に伝道することで、自分の信仰をもう一度見つめ直し、魂の救いを得たいという思いがあったからでした。

②あなたは本当に自分自身を知っていますか?
 こうしてウェスレーはモラビア派のクリスチャンの信仰に強い関心を持つようになりました。それでアメリカに上陸して早々に、先にアメリカに来ていたモラビア派のリーダー的存在のシュパンゲンベルグに会いに行きました。そして、自分が救いの確証を得ていないことは話していないのに、すぐに見抜かれてしまいました。その日の日記には、次のように書かれています。

 私は自分の行動についてシュパンゲンベルグ氏に助言を求めた。彼は、「兄弟、それでは初めに質問させていただきます。あなたは、自分の内に確証がありますか?自分が神の子であるということを、自分自身の霊とともに、神の御霊は証ししていかすか?」と尋ねた。私は驚いてしまった。なんと答えて良いか分からなかった。彼はそれに気づいたのか、続けて「あなたはイエス・キリストを知っていますか?」と尋ねた。私は少し間をおいて、「主がこの世界の救い主であることを知っています」と答えた。すると彼は、「確かにそうです。しかし主があなたを救われたということを知っていますか?」と尋ねた。私は答えた。「主が死なれたのは、私をも救うためであったことを望んでいます」。それに対して、彼は「あなたは本当に自分自身を知っていますか?」と加えただけであった。「はい、知っています」と答えたものの、それらが空しい言葉であると自分では判っていた。

 牧師なのに救いの確証を得ていないことを少し会話しただけで見抜かれてしまったウェスレーのショックはさぞや大きかったことでしょう。このモラビア派のシュパンゲンベルグ氏とウェスレーとの問答で見えて来ることは、ウェスレーはイエス・キリストとまだ本当の意味で出会ってはいなかったということです。シュパンゲンベルグの最後の質問の、「あなたは本当に自分自身を知っていますか?」は、とても鋭い質問だと思います。イエス・キリストに本当の意味で出会う前の私たちは、偽りの自分を生きていると言って良いでしょう。それは偽りの声に導かれながら生きているからです。

 きょうの教会学校の聖書箇所でもありましたが、創世記3章でアダムとエバは蛇による偽りの声に導かれて、神様に食べてはいけないと命じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。その時から人は偽りの声を聞きながら生きるようになってしまいました。そんな私たちを救い出して下さったのがイエス・キリストです。イエス・キリストと本当に出会うなら、偽りでない本当の自分自身に出会うことができます。

 しかし、この時のウェスレーはまだ本当の意味でイエス・キリストに出会っていませんでした。牧師の息子として生まれたウェスレーはイエス・キリストについて両親から多くのことを学びました。また自分自身でも本を読み、また大学で出会った仲間たちと議論してイエス・キリストとはどのようなお方かの知識を増し加えていました。しかし、それらは皆、人から聞いたイエス・キリストであり、自分自身が直接イエス様に会って知ったイエス・キリストでは無かったのですね。

③人から聞いたイエスでなく自分自身でイエスに出会う
 ここからは、では本当の意味でイエス・キリストに出会うとはどういうことかを、聖書を見ながら考えて行くことにします。

 きょうの聖書交読ではヨハネ4章を開きました。もう一度開いて下さい(新約p.184)。42節から見ます。この箇所でサマリア人たちは言いました。

4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 このようにイエス様の声を自分で直接聞くということが、イエス様に本当の意味で出会うということです。現代の私たちは霊的な耳で聞きます。この本当の出会いは、先ずはイエス様の側から人に近づくことで始まります。ページを戻していただいて4章の5節を見ていただくと、ここにイエス様がサマリアの町に来られたことが書かれています。まずはイエス様がサマリアに来られました。そうしてサマリアの人々が救われました。最初に救われたのはサマリア人の女性でした。7節ですね。イエス様は彼女に、「わたしに水を飲ませて下さい」と言いました。こうしてイエス様はサマリアの女の心の扉をノックしました。きょうの招きの詞の黙示録3章20節でイエス様はおっしゃっています。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 まずはイエス様の方から私たちへのアプローチがあります。日本人が救われるようになったのは、宣教師が海外から日本へ来たからです。戦国時代にはヨーロッパから、江戸時代の末期と明治以降はアメリカとヨーロッパから、戦後は欧米に加えて韓国などからも宣教師が来るようになりました。イエス様を信じる宣教師の中にはイエス様がいますから、これはイエス様が日本に来たのと同じことです。こうしてイエス様は私たち日本人の心の扉もノックして下さっています。

 サマリアの女はイエス様に話し掛けられて9節で応答します。初めのうちサマリアの女は不審に思います。これは日本人も同じですね。「あなたはユダヤ人なのに、どうして日本人の私に飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人と日本人はほとんど付き合いがありませんから、日本人の反応はサマリアの女と似たようなものです。しかし、対話が始まってサマリアの女は次第に心を開いて行きます。そして彼女はイエスがキリストと信じるに至ります。29節、

4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

 彼女の「もしかすると、この方がキリストなのでしょうか」という表現の仕方はやや微妙ですが、本当に大変な事が起きた時とは、こういうものでしょう。東日本大震災の津波の映像を見た時、これは本当のことだろうか?と思いました。新型コロナウイルスで世界中の活動が停滞した時、これは本当に現実のことだろうか?と思いました。救い主が現れることも、逆の意味で大変なことです。キリストが来ることは聞いていたけれど本当に現れたんだ!という驚きが、このような言葉になったのでしょう。

 そうして、今度は彼女が宣教師の役目に回ってサマリアの町の人々をイエス様の下へと導きます。

 29節の「来て、見てください」からは彼女の興奮が伝わって来ます。私たちは良いお店を見つけた時や、いい映画を観た時なども、「行って見て下さい」と人に勧めますね。イエス様との出会いはそれ以上の喜びがありますから、救われたばかりの頃、私たちの多くは人に教会に行くように勧めたと思います。「教会に来て、見て下さい」。けれども時が経つと段々と救われた時の感動が薄れて来て、サマリアの女のように情熱を持って「教会に来て、見てください」と言えなくなります。私も救われたばかりの頃、けっこう人を教会に誘っていたことを思い出します。ですから救われたばかりの頃の感動を失うことなく、持ち続けていたいと思います。

 さて39節と40節、

4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。

 サマリア人たちはイエス様のところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願いました。つまり心の扉を開けてイエス様を心の内に招き入れたのですね。そうしてサマリアの町の人々は女に言いました。42節、

4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

 心の扉を開けてイエス様を心の内に招き入れた彼らは、イエス様が本当に世の救い主だと分かりました。それまでは女の話のイエス様に会っただけでしたが、本当に出会うことができました。

 ウェスレーの場合は、まだ人の話の中のイエス様に出会っただけでずっと足踏みをしていたのですね。幼い頃から両親にイエス様についての話を聞き、自分でも聖書と様々な本を読んでイエス様への理解を深めていましたが、心の扉を開けることができていませんでした。知識が邪魔をしていて単純に信じることができていなかったのかもしれません。

④本来は神のかたちに造られた私たち(神は愛です)
 イエス様に本当の意味で出会うと、本来の自分が段々と分かるようになります。それは心の内に入って下さったイエス様と食事をすることで、偽りの自分から解放され始めるからです。創世記1章26節と27節にあるように、人は神の似姿に造られました(週報p.2)。

1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 このように私たちは「神のかたち」に創造されました。ヨハネの手紙第一4章16節(週報p.2)にあるように、「神は愛です」。ですから人間は「愛」である神のかたちに造られました。つまり本来の人間は愛で溢れていました。神を愛し、隣人を愛するように造られていました。それゆえ、イエス様を信じて心の内に迎え入れると本来の自分はこんなにも神を愛し、隣人を愛したい者だったんだと気付くようになります。

 きょうの聖書箇所のルカ19章の有名なザアカイの記事は、正に、ザアカイがイエス様を招き入れたことでザアカイの中の本来の愛が回復した様子が描かれています(新約p.157)。

 この場合も先ずはイエス様がザアカイに近づいて行きました。1節でイエス様はエリコの町に入りました。そうしてザアカイに話し掛けました。5節ですね。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

 取税人の頭であったザアカイは人々からは浮いた存在でした。隣人との交わりに入らず、疎まれていましたから、群衆の中に入って行くこともできませんでした。そういう浮いた存在であったザアカイに降りて来るように言いました。そうしてイエス様を内に迎え入れて、本来の自分は実は隣人を愛したい者だったのだと気付いたザアカイは言いました。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」財産にこだわっているあたりがザアカイらしくて、まだまだぎこちない感じがしますが、ここからザアカイの聖めが始まります。

 イエス様はおっしゃいました。

「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 救いとは、イエス様の愛に触れることであり、自分の中で失われていた愛を回復することだとも言えるでしょう。もともとは愛に溢れていた筈の人間は罪が入ることで上手に人を愛することができなくなりました。世に争い事が絶えないのはそのためです。教会の中にさえ争い事があるのは、パウロの手紙やヨハネの手紙などを見ても良く分かります。新約聖書のいたるところに互いに愛し合い、尊敬し合うべきことが書かれています。

 イエス様と出会ったばかりの頃は、まだまだ上手に隣人を愛することができませんが、日々をイエス様と共に過ごすなら、イエス様は少しずつ私たちの心の内を聖めて下さいます。ジョン・ウェスレーも1738年にアルダスゲイトの回心を経験してから、御霊に導かれて本来の聖めの道を歩むようになりました。

おわりに
 イエス様を信じて心の内にお迎えした私たちの中にはイエス様が住んで下さっていますが、忙しさの中で日々をバタバタと過ごしていると、本来の自分を見失なってしまいます。そのようなことがありませんように、本来の自分は神を愛し、隣人を愛したい気持ちで溢れている者であるのだということを自覚しながら、日々歩んで行きたいと思います。
 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
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魂のふるさとへの帰郷(2020.8.23 礼拝)

2020-08-24 13:57:43 | 礼拝メッセージ
2020年8月23日礼拝メッセージ
『魂のふるさとへの帰郷』
【ルカ4:16~21】

はじめに
 皆さんはジョン・ウェスレーについて、これまでどれくらい学んで来られたでしょうか?ある程度のことは礼拝などの集会の説教で聞いていることと思いますが、それほど深くは学んでいないのかもしれません。

 ウェスレーの神学はインマヌエル教団の教理の土台に据えられていますから、私も神学校ではウェスレーの神学と彼の生涯について、一通りのことは学びました。しかし、その後は私自身もあまり学びを深めて来なかったことに気付かされています。

 そこで静岡の皆さんと共にウェスレーについて学びを深めて行くことは、とても有意義ではないかと思うようになりました。ただし、そんなに組織立てて系統的に学ぶことはせず、その時その時に示されたテーマについて語ることにしたいと思います。系統的に学んでみたい方は、ウェスレーに関する本を読んでいただいてご自身で学びを深めていただくこともまた、良いことではないかなと思います。

 コロナウイルスの感染拡大によって、これからの私たちは以前とはまた違った世の中を生きることになります。そのような時に、インマヌエルの信仰の原点に立ち返ることは、私たちの信仰の成長のためにも大切なことであろうと思わされています。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①野外説教で三千人に福音を語ったウェスレー
 ②人々の魂が渇いていた18世紀のイギリス
 ③変化の中で不変の「魂の故郷」を慕う人々
 ④御国へ招くイエス様は私たちのことでもある

①野外説教で三千人に福音を語ったウェスレー
 きょうの聖書箇所のルカ4章の、イエス様がご自身の故郷のナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読んだ箇所は、ジョン・ウェスレーが初めて野外説教を行った時の説教箇所です。1739年の4月、ウェスレーが35歳の時でした。この日のウェスレーの日記には約3千人の聴衆がいたと記されています。

 ジョン・ウェスレーは1703年の6月にイングランドで牧師の息子として生まれました。英国の国教会では幼児洗礼を授けますから、ジョンは生まれた時からクリスチャンでした。そして1725年、22歳の時にジョン自身も牧師になります。この頃までの彼はどちらかと言えば厳しい親の教育方針に従う形で信仰の道を歩んでいました。しかし、これ以降、ジョンは自らの意志で熱心に信仰を追い求めるようになり、刑務所訪問など慈善事業にも励み、善い行いを積み重ねます。この頃の彼はオックスフォードにいましたから、自ら信仰に励むようになったことを回心したとして、「オックスフォード回心」と呼ぶ人もいます。しかし様々な行いに励みながらも、ジョンは自分が救われているという確証が持てずにいて長い間苦しみます。このことからオックスフォードでは回心に至っていないと考える人々もいます。

 ジョンが救いの確証を得たのは35歳になる少し前の1738年の5月24日のことでした。アルダスゲイト街の集会所で救いの確証を得る回心を経験したことから、「アルダスゲイト回心」と呼ばれます。オックスフォードで熱心に信仰に励み始めてから約13年の時が経っていました。この間、彼はアメリカに渡っての宣教も行いますが、救いの確証を得ていないことで精神面でも安定しておらず、人々から誤解を受けることも多く、挙句には裁判で訴えられたりもして、傷心のうちにイギリスに帰国します。これらのことも、今後の説教で少しずつ話すことができたらと思います。

 さて、ジョンが初めて野外説教を経験したのはアルダスゲイトでの回心の翌年の1939年の4月2日のことです。オックスフォードの後輩のホイットフィールドが既に野外説教を行っていて、ホイットフィールドがアメリカに渡ることになったために、ジョンに引き継いで欲しいと熱心に誘われたからでした。この日の日記にジョンは次のように記しています。

午後4時、私は自らを卑しくして、公道において人々に救いの福音を宣べ伝えた。聴衆は約3千。私の語った聖句は、「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。」(ルカ4:18~19)

 野外説教を後輩に頼まれた時のジョンは、まったく気が進まず様々な理由を付けて断っていました。しかし粘り強い説得に渋々引き受けることにしました。そんな後ろ向きの気持ちで野外説教に臨んだジョンでしたが、自分の説教を聞いた人々がイエス・キリストを信じて次々に回心する様子を目撃してジョンは驚きました。以降、ジョンはこの野外説教にも、生涯を通して熱心に取り組むようになります。

②人々の魂が渇いていた18世紀のイギリス
 この野外説教での驚くべき体験の後のジョンの日記には、次はどこどこで説教して会衆は5,6千とか、どこどこで会衆2千、どこどこで会衆3千以上などという記述がしばらくの間続きます。多くの人々がイエス・キリストの福音を求めていて、そのことにジョン自身も驚き、興奮していた様子が伝わって来ます。

 私が持っている『ウェスレイ日記』(山口徳夫訳、全四巻)は10年前に引退されたF教会のY先生から神学生の時にいただいたものです。先生は日記中の会衆の人数の2千や3千、5,6千という箇所に赤鉛筆で線を引いておられます。霊的で迫力のある説教者であったY先生は、このように何千人もの人々が福音を求めて押し寄せるリバイバルを今の時代においても願い、祈っておられたのだなと思うことです。

 さて、初めての野外説教はブリストルの郊外で行われました。ブリストルはロンドンの西170kmぐらいの所にありますから、静岡と東京の距離と同じくらいですね。このブリストル郊外には炭鉱がありました。ですから集まった聴衆の多くは炭鉱で働いている人々であったとされています。

 炭鉱で働いている人というと、私は山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』に出て来る、夕張の炭鉱で働く高倉健さんの姿を思い出します。炭鉱での労働は黄色いハンカチの時代の20世紀後半でも過酷だったと思いますから、ウェスレーの時代の18世紀は、もっと劣悪な環境の中での過酷な労働だったことでしょう。

 18世紀の前半に石炭がどんな用途で使われていたのかを、今回少し調べてみました。こういう科学技術史のようなことは神学校では教えてくれませんし、ウェスレーに関する本にも書かれていません。当時と現代の科学技術の状況を比較することで、現代の伝道へのヒントが何か得られるかもしれないと思って少し調べてみました。

 18世紀の前半は、まだ産業革命の前夜であったようです。蒸気機関は既に発明されていましたが、効率の良い蒸気機関への改良がワットらによって進んだのは18世紀の後半のことです。この効率の良い蒸気機関によって製造業の機械化が進んで18世紀後半に産業革命が起こります。さらに蒸気機関車が発明されて鉄道網が広がって行きますが、それは19世紀に入ってからです。

 ですからジョン・ウェスレーが野外説教を始めた18世紀前半に集まった炭鉱夫たちが掘った石炭の主要な用途は蒸気機関などの燃料用ではなく、多くは鉄の製錬に用いたようです。酸化した鉄鉱石から鉄を得るには還元して酸素を取り除く「製錬」が必要です。この製錬のために古くから木炭が使われていましたが燃料用と製錬用に大量の木が伐採されて多くの山がハゲ山になりました。そこで木炭に代わって石炭が使われるようになりました。ウェスレーが野外説教を始めた18世紀の前半は、ちょうど鉄の製錬に石炭のコークスが使われるようになった頃です。

 石炭が大量に必要とされる時代に入って間もない頃ですから、様々な面で整っておらず、炭鉱夫たちは劣悪な労働環境で働かされていたと想像されます。炭鉱はとても危険な場所で、20世紀に入ってからも落盤や粉塵爆発、メタンガスの噴出や一酸化炭素中毒などで多くの死亡事故がありました。命の危険を感じながらの作業は肉体にきついだけでなく精神面でも多くのストレスがあったことでしょう。

 そのような人々が主の平安を求めて、野外説教に集ったのでしょう。3千人という数は尋常ではありませんね。炭鉱夫たちの多くは教会になど行ったことが無い人々であったそうです。落盤や爆発などでいつ命を落とすか分からない危険な中で仕事をしていた人々にとって、ウェスレーが語った主の福音は大きな慰めになったことだろうと思います。

③変化の中で不変の「魂の故郷」を慕う人々
 ウェスレーたちの野外説教に多くの人々が集まった背後には、いま話したように炭鉱夫たちが絶えず命の危険にさらされていたことがあったと思いますが、その他にも、時代の変化への不安があったのではないかと思います。まだ産業革命の前夜であったとはいえ、時代の変化の速度が少しずつ速まって来ている時であり、人々は漠然とした不安の中にいたのではないかと想像します。

 人は時代がそんなに激しく変化していない時でも、自分自身が年を取るに従って子供から大人、そして高齢者へと変化して行きますから、絶えず漠然とした不安の中にいます。まして、時代の変化が激しい時には一層不安は募るでしょう。

 そういう時、人は変わらない不変のものを慕い、そこに戻ることで心の平安を得るのだと思います。私が高津教会を訪れて通うようになったのは41歳の時でした。それ以前はよくお寺や神社に行っていました。特にお寺の仏像を見るのが好きでした。古い仏像であればあるほど、そこに変化しない不変の永遠のようなものを感じて、心の平安を得ていたのだと思います。

 ふるさとに帰省することもまた、心の平安を得るためには大切なことです。お盆やお正月に多くの人々が帰省するのは、変化の激しい都会から、変化の少ない田舎に戻って心の平安を得たいという理由が大きいでしょう。21世紀に入って田舎も都会化されましたが、それでも自分が子供時代を過ごしたふるさとに戻ることは、心に平安を与えてくれます。それは大人の自分は日々変化する中にいるけれども、子供時代の自分は永遠に変化しないで、昔の時代にとどまってくれているからだろうと思います。

 私は18歳の時に故郷の静岡を離れましたが、お盆と正月には大体静岡に帰省して、心の平安を得ていました。そうして53歳の時に沼津教会の牧師という形で静岡県に戻って来ました。沼津市は静岡市ではありませんが、それでもやっぱり、「静岡は落ち着くなあ」としみじみ思いました。そうして去年、還暦の年に故郷の静岡市に戻って来ました。当り前ですが、沼津よりももっと落ち着くなあと感じています。

 さてしかし、私が子供の頃に住んでいたのは城北高校の近くの大岩です。七間町の映画館までは来ていましたが、それより西の駒形・田町方面に来るのは安倍川の花火を見に来る時ぐらいでした。ですから、今でも田町から大岩方面に行く時は、ふるさとに帰省する気分になります。いまN姉が礼拝に出席できなかった時には月曜日に週報と説教原稿などを池ヶ谷に届けています。その時には大岩を通って行きます。毎週のことだと帰省とは言わないかもしれませんが、毎週であっても行く度にふるさとに帰った気分になります。大岩も随分と変わりましたが、変わらない部分も多いですから、やはり人は変化しない変わらないものに心の平安を得るのだなと思うことです。

 ルカの福音書15章の放蕩息子も父の家から離れた遠い外国で我に返った時、故郷を懐かしく思い出して父の家に帰って行きました。交読した詩篇42篇の詩人がエルサレムの神殿を慕って魂が渇いていたのも、そこが魂の故郷だからです。神様の霊を最も強く感じることができるエルサレムの神殿は旧約の時代の人々にとっては魂の故郷でした。

 しかし、もっと遡るなら、本当の魂の故郷はエデンの園であると言えるでしょう。きょうの招きの詞は創世記2章の8節と9節の御言葉です。

2:8 神であるは東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
2:9 神であるは、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 この「いのちの木」がある場所が、本当の意味での魂の故郷でしょう。この「いのちの木」は永遠の中の御国にあります。ですから私たちはいずれその魂の故郷に戻ることができます。黙示録22章の1節と2節に書いてある通りです(週報p.2)。

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 ここには私たちがいずれ入る御国のことが書かれていますが、イエス・キリストを信じて永遠の命を得ている者は既にこの御国に入っているのと同じですから、私たちは魂の平安を得ることができます。

 しかし多くの人々はこの魂のふるさとのことを知らずにいて、心の不安を抱えたままで日々を過ごしています。

④御国へ招くイエス様は私たちのことでもある
 ジョン・ウェスレーが初めての野外説教で語ったルカ4章18節と19節で、イエス様はイザヤ書の巻物を読んでいます。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

 そして、イエス様は21節で「今日、この聖書のことばが実現しました」と人々に言い、この良い知らせを伝えるために遣わされた者とはご自身のことであるとおっしゃいました。イエス様は人々を御国に招くために遣わされました。そうしてイエス様を信じて御国に入ることが約束された捕らわれ人は解放され、霊的な目が閉じられていた人の目は開かれ、虐げられている人は自由の身になります。なぜなら永遠の中にある御国は黙示録21章4節にあるような場所だからです(週報p.2)。

21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。

 そして、人々を御国へ招くイエス様は教会に集う私たちのことでもあります。先ずは私たちも招かれる側ですが、招かれてイエス様を信じて永遠の命が与えられたなら、今度はイエス様の証人になって人々を御国に招く側に回ります。

 教会はキリストの体であり、イエス様はその頭(かしら)です。そして私たち教会員の一人一人は体の各器官です。ある者は心臓、ある者は肺、ある者は胃、ある者は腸です。私たちの一人一人は与えられた賜物に従って、集会の司会や教会学校、音楽やお花、お掃除や食事、写真係や俳句の会など教会運営に関わる様々なご奉仕をします。そうして私たちは、地域の方々が魂のふるさとに戻ることができるように、イエス様のお手伝いをします。

おわりに
 変化の激しい今の時代においては、多くの方々が日々不安の中を過ごしています。本人は気付いていませんが魂が渇いていますから、神の霊の水による潤いを求めています。もちろん、魂の渇きに気付いている人もいます。詩篇42篇の詩人は、自分の魂が渇いていることに気付いていました。

42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

 ウェスレーの時代に野外説教を聴きに集まった数千人の人々も自分には魂の潤いが必要だと気付き始めていました。しかし、現代の人々の多くは魂の渇きに気付かないまま日々を不安の中で過ごしています。

 これら自分の魂の渇きに気付いていない方々に私たちは福音をお伝えしたいと思います。私たちの一人一人はキリストの体である教会の各器官ですから、私たちは御霊の一致を保って、イエス様に仕え、多くの方々が魂のふるさとに帰郷できるように働きたいと思います。

 この働きに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
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