2020年8月9日礼拝メッセージ
『第一の戒め(永遠)と第二の戒め(時間)の十字架』
【マタイ22:36~39(招詞)、出エジプト20:1~17(交読)、ルカ10:25~37】
はじめに
十字架には不思議な力があります。十字架を見ると、なぜか心が平安になります。神学生の1年生だった頃、それまで自由気ままに暮らしていた私は神学校の当時の厳しい規則(今は変わりました)の中での生活に順応するのに苦労していました。勉強は楽しかったですが、外出制限があることや男子寮の大部屋の共同生活ではプライバシーが保てないことに戸惑っていました。そんな中、男子寮の窓から見える教会の十字架に、とても癒されていました。
或いはまた、神学生の2年生と3年生の時の日曜日の実習は東京・千葉方面の教会に派遣されていましたから、東急の田園都市線で渋谷方面に向かう途中に窓から見える出身教会の高津教会の十字架をじっと見つめては心の平安を得ていました。見落としたことはほとんどありません。高津教会の十字架は神学校に入学する前も、毎朝通勤で高津駅のホームに立った時に必ず見ていました。それほど十字架は私の精神安定に役立っていました。
残酷な死刑に使われる十字架がどうして人の心に平安を与えるのか、とても不思議です。なぜ十字架は人に平安を与えるのか、今まで折りに触れて思いを巡らし来て、最近その考察が深まったように感じていますから、皆さんと分かち合いたいと思います。
きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。
①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに
①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
十字架を見ると心が平安になるのは、イエスさまが十字架に掛かったことで私の罪が赦されたからであり、その神様の深い愛によって心が平安になるのだ、というのはもちろん基本です。でも、それだけでは無いような気がいつもしています。
少し前から私は十字架の縦方向と横方向はそれぞれイエスさまの第一の戒めと第二の戒めであると感じるようになりました(週報p.2の十字架の図)。

それ以来、十字架を見ると、そこからイエスさまの「神を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」の声が聞こえるような気がしています。イエスさまの第一の戒めと第二の戒めは今日の招きの詞に引用したマタイの福音書に簡潔に記されています。
このように第一の戒めは「神様を愛しなさい」、第二の戒めは「隣人を愛しなさい」です。これは交読で読んだ出エジプト記の「モーセの十戒」も同様ですね。モーセの十戒も第一戒から第四戒までが神様との関係、第五戒から第十戒までが人との関係です。出エジプト記を開いて確認しておきましょう(旧約p.134)。
中心部分だけを取り出して説明すると、第一戒が3節の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒が4節の「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」、第三戒が7節の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」、第四戒が8節の「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」です。この第一戒から第四戒までがイエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」に相当します。
続いて第五戒が12節の「あなたの父と母を敬え」、第六戒が13節の「殺してはならない」、第七戒が14節の「姦淫してはならない」、第八戒が15節の「盗んではならない」、第九戒が16節の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」、そして第十戒が17節の「あなたの隣人の家を欲してはならない」です。この第五戒から第十戒までがイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」に相当します。
②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
イエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」を十字架の縦方向とすると、時間が無い「永遠」の方向と、とても良く合います。今月の教報の「私の神学生時代」にM先生が「宝の霊的体験」と題して、この時間が無い永遠を体験したと書いておられますから、引用します(別紙参照)。これは神学校の寮での体験だそうです。
M先生は、時間の無い永遠の世界をご自身で体験しました。私はこの時間の無い永遠をH兄の病室でH兄が天に召される時に体験しました。そこにイエスさまが来ておられてH兄の呼吸が止まった時にH兄の時間が止まり、H兄はイエスさまによって時間の無い永遠の世界、すなわち天の御国に移されたことを感じました。その一ヵ月前にY兄を天に見送ったばかりでしたから、天の御国を感じやすくなっていたこともあるでしょう。Y兄とH兄を天に見送ったことで私は天の御国が非常に身近にあることを体験しました。ですから、教報でM先生が時間の無い永遠を経験された証しにとても親近感を覚えました。
そこで、先週も週報に載せたト音記号とヘ音記号の楽譜の図に、(天の御国)も加えてみました。天の御国は天の遠い所にあるのではなく、とても近い所にあるのだということを、この図で表してみました。

時間の無い永遠というのはグラフで言えば縦方向です。いま私たちは毎日のようにテレビで日付ごとのウイルス感染者数の変化のグラフを見ていますね。横軸に日付がありますから、右方向に行くに従って時間が進んで行きます。一方、縦方向は時間が進まない方向です。これが、時間が無い「永遠」の方向です。
先週の礼拝メッセージでは、この縦方向の永遠を、今さっきも説明したト音記号とヘ音記号の楽譜の図で示しました。この先週のメッセージは実は今日の十字架を示すための準備でした。先々週の藤本先生による聖会Ⅰと聖会Ⅱでは創世記のヤコブの箇所が開かれました。そこで先週は、その旧約の時代のヤコブの体験は永遠の中におられる父・子・聖霊を通して新約の時代の私たちも共有していることを示しました。そうして先々週と先週と今週とで三週間掛けて縦方向の永遠を理解していただきたいと思いました。この永遠は聖書に親しむなら誰でも体験できるものです。
M先生が神学校の寮で体験された時間の無い「永遠」は誰でも経験できるようなものではありません。極めて個人的な体験です。私がH兄の病室で感じた永遠も、そんなに誰でもいつでも経験できるようなものではないでしょう。
しかし聖書に描かれている永遠を感じることは聖霊を受けて霊的に整えられているなら、誰でも経験することができます。これが聖書の素晴らしさです。聖書によって私たちは誰でも、そしていつでも時間の無い永遠の世界を感じることができます。但し、そのためには霊的に整えられる必要がありますから、毎日静まる時を持つようにしたいと思います。
③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
前のパートでは神様と私たちとの関係について話しました。神様は時間の無い「永遠」の中にいますから、神様との交わりの中にある時、私たちも「永遠」の中にあります。これは霊的な世界です。霊的な世界に入れられるなら、心の平安を得ることができます。
一方、「人との関係」は霊的な世界ではなく現実の世界のことですから、私たちが普通に経験している時間の流れの中にあります。ですからイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」は「横向き」の時間が流れる方向の中で行うことです。時間とは、「隣人を愛する」ために使うものなのですね。このことを私はミヒャエル・エンデの小説『モモ』を通して教えられました。
『モモ』には、人々から時間を奪う悪魔のような時間泥棒が登場します。彼らは、街の人々に巧みに言い寄って、時間を節約させます。例えば、ある時間泥棒は床屋のフージーを上手くだますことに成功しました。床屋のフージーがどうすれば時間を節約できるのかを尋ねた時の時間泥棒の答を引用します。
こうして、時間泥棒が言う通りの生活をするようになった床屋のフージーは、段々と怒りっぽい、落ち着きのない人になって行きました。この『モモ』を読んでいると、「時間」とは「隣人を愛する」ためにあるのだな~ということが、つくづく良~く分かって来ます。
きょうの聖書箇所のルカ10章のいわゆる「善きサマリア人」の記事も、そのことを良く表していますね。善きサマリア人は、強盗に襲われて半殺しの目に遭った人を一晩たっぷりと時間を使って介抱しました。ルカ10章33節と34節をお読みします(新約p.136)。
そして35節に、「次の日」と書いてありますから、このサマリア人は怪我人の介抱のためにたっぷりと一晩を掛けています。怪我人の宿代もサマリア人が払ったのでしょう。そうして、さらにデナリ二枚を宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、わたしが帰りに払います。」
帰りはいつになるのでしょうか?昔の旅のことですから、早くても何日か先であり、もしかしたら何週間か何か月か先のことかもしれません。いずれにしても、このサマリア人はゆったりとした時間の中を生きていることが分かります。
このサマリア人がどんな信仰を持っていたのかは一切書かれていませんが、ゆったりとした時間の中を生きていた彼は心の平安を得ていた人だということが分かります。ゆったり生きればゆったり生きるほど時間が流れない「永遠」に近づきますから、神様との交わりの中で平安を得ることができます。つまり善きサマリア人は第一の戒めの「神を愛しなさい」が、「永遠」の方向でできていたために平安を得ていた人だということが想像されます。
サマリア人というのはイスラエル人と異邦人との混血の民族です。もともとはイスラエルの北王国の十部族に属していましたが、北王国がアッシリアに攻め滅ぼされた時に、アッシリアの混血政策によって混血にさせられてしまった人たちです。ですから元々イスラエルの神様への信仰を持っていました。怪我人を一晩たっぷりと時間を掛けて介抱した善きサマリア人は、神様を愛する第一の戒めを「永遠」の方向で守って平安を得ていたからこそ、第二の戒めの「時間」の方向の隣人を愛することも、しっかりできたのでしょう。
すると、31節と32節に登場する祭司とレビ人は、第一の戒めがしっかりとできていなかったことが見えて来ます。31節と32節をお読みします。
祭司もレビ人も、神殿での祭儀を司る職業の人たちです。ですから、表面上は第一の戒めの神様を愛することがしっかりできているように見える人たちです。しかし、実際は神様を愛することができておらず、ただ形式的に祭儀を行っていただけなのでしょう。まるでマラキ書に出て来る祭司たちのようです。マラキ書1章6節をお読みします(週報p.2)。
主を愛することができない、すなわち第一の戒めを守ることができない者なら、第二の戒めを守ることは難しいでしょう。
④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに
3年前に私は「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」という本を出版しました。この本のサブタイトルは
です。覚醒とは目覚めるということです。「永遠」は時間とは直角の縦方向にあり、平和を実現するには、この「永遠」に目覚めることが必要だと書きました。つまり、きょう話していることと同じです。しかし、3年前はまだ第一の戒めと第二の戒めとの関係には思い至っていませんでしたから。3年たった今、段々と時が満ちて来ていることを感じています。
先週の木曜日の祈祷会は8月6日の広島に原爆が投下された日で、説教ではマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」の「平和をつくる者」とは、「御子イエス・キリストの十字架を宣べ伝える者」であろうという話をしました。そして、きょうの8月9日は長崎に原爆が投下された日で、いま第一の戒めと第二の戒めの十字架の話をしています。
第一の戒めと第二の戒めがしっかりと90度の直角方向で分離できずにゴチャ混ぜになっていると、第一の戒めの方向からの聖霊の声をしっかりと聴くことはできないでしょう。すると、お祈りも過った方向のお祈りをしてしまうことになります。
75年前の8月6日に広島に原爆を投下したB29爆撃機のエノラ・ゲイ号が太平洋上の島のテニアン島を離陸したのは夜明け前の2時45分でした。この離陸に先立ち、牧師は乗組員たちの前で次のように祈ったそうです。
この牧師は第一の戒めと第二の戒めの分離が上手くできていませんでした。第一の戒めの「永遠」の方向を分離できて聖霊の声に耳を澄ますことができていたなら、神様が原爆という兵器の使用をどんなに悲しんでいるか、またどんなに憤っているかが分かった筈です。
第一の戒めと第二の戒めがゴチャ混ぜになってはならないのは、戦争のような大きな場面に限らず日常の場面においても同様です。ルカ10章の「善きサマリア人の例え」の記事のすぐ後でマルタとマリアの姉妹の記事があるのは、示唆に富んでいます。
マルタはもちろんイエスさまとマリアの両方を愛していました。そうしてイエスさまをもてなすための準備を一生懸命していました。
しかしマルタは隣人である妹のマリアを愛することが上手くできていませんでした。それは、主イエスを愛することを、「永遠」の方向でではなく、横方向の忙しい「時間」の中で行っていたために、神と隣人がゴチャ混ぜになってしまっていたからでしょう。そのことが、ゆったりと生活していた善きサマリア人の直後にマルタが登場することで、良~く見えて来ます。マルタは「永遠」の方向にいる主イエスをゆったりと時間を使って愛することができていなかったので、隣人を愛することが上手くできなかったのでしょう。
一方、妹のマリアはイエスさまを縦方向の「永遠」の中で愛することができていました。この縦方向の永遠に目覚めているなら、善きサマリア人のように平安の中で隣人を愛することができるでしょう。
イエスさまはマルタに言いました。
おわりに
神様を愛することと、隣人を愛することはどちらも大切なことですが、ゴチャ混ぜにしてはなりません。先ずは神様を愛することが大切です。すると、どのように隣人を愛せば良いのかの神様の導きの声が聞こえるようになるでしょう。両方がゴチャ混ぜになっていると、人間的な思いが混じって神様の御心とは違う方向へ行ってしまいます。B29の乗組員のために祈った牧師も神を愛し、隣人を愛していました。しかし、間違った祈りをしてしまいました。
マルタもイエスさまを愛し、妹のマリアのことも愛していました。しかし、忙しい「時間」の中でイエスさまを愛していたので、マリアのことで心を乱してしまいました。
私たちも毎日の生活は忙しく過ごさざるを得ない人も多いと思いますが、せめて日曜日は、ゆったりと心を静めて、神様に心を向けたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『第一の戒め(永遠)と第二の戒め(時間)の十字架』
【マタイ22:36~39(招詞)、出エジプト20:1~17(交読)、ルカ10:25~37】
はじめに
十字架には不思議な力があります。十字架を見ると、なぜか心が平安になります。神学生の1年生だった頃、それまで自由気ままに暮らしていた私は神学校の当時の厳しい規則(今は変わりました)の中での生活に順応するのに苦労していました。勉強は楽しかったですが、外出制限があることや男子寮の大部屋の共同生活ではプライバシーが保てないことに戸惑っていました。そんな中、男子寮の窓から見える教会の十字架に、とても癒されていました。
或いはまた、神学生の2年生と3年生の時の日曜日の実習は東京・千葉方面の教会に派遣されていましたから、東急の田園都市線で渋谷方面に向かう途中に窓から見える出身教会の高津教会の十字架をじっと見つめては心の平安を得ていました。見落としたことはほとんどありません。高津教会の十字架は神学校に入学する前も、毎朝通勤で高津駅のホームに立った時に必ず見ていました。それほど十字架は私の精神安定に役立っていました。
残酷な死刑に使われる十字架がどうして人の心に平安を与えるのか、とても不思議です。なぜ十字架は人に平安を与えるのか、今まで折りに触れて思いを巡らし来て、最近その考察が深まったように感じていますから、皆さんと分かち合いたいと思います。
きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。
①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに
①イエスさまの第一の戒めと第二の戒めの十字架
十字架を見ると心が平安になるのは、イエスさまが十字架に掛かったことで私の罪が赦されたからであり、その神様の深い愛によって心が平安になるのだ、というのはもちろん基本です。でも、それだけでは無いような気がいつもしています。
少し前から私は十字架の縦方向と横方向はそれぞれイエスさまの第一の戒めと第二の戒めであると感じるようになりました(週報p.2の十字架の図)。

それ以来、十字架を見ると、そこからイエスさまの「神を愛しなさい」と「隣人を愛しなさい」の声が聞こえるような気がしています。イエスさまの第一の戒めと第二の戒めは今日の招きの詞に引用したマタイの福音書に簡潔に記されています。
22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
このように第一の戒めは「神様を愛しなさい」、第二の戒めは「隣人を愛しなさい」です。これは交読で読んだ出エジプト記の「モーセの十戒」も同様ですね。モーセの十戒も第一戒から第四戒までが神様との関係、第五戒から第十戒までが人との関係です。出エジプト記を開いて確認しておきましょう(旧約p.134)。
中心部分だけを取り出して説明すると、第一戒が3節の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、第二戒が4節の「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」、第三戒が7節の「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」、第四戒が8節の「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」です。この第一戒から第四戒までがイエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」に相当します。
続いて第五戒が12節の「あなたの父と母を敬え」、第六戒が13節の「殺してはならない」、第七戒が14節の「姦淫してはならない」、第八戒が15節の「盗んではならない」、第九戒が16節の「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」、そして第十戒が17節の「あなたの隣人の家を欲してはならない」です。この第五戒から第十戒までがイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」に相当します。
②「神を愛せよ」の第一の戒めは「永遠」の方向
イエスさまの第一の戒めの「神を愛しなさい」を十字架の縦方向とすると、時間が無い「永遠」の方向と、とても良く合います。今月の教報の「私の神学生時代」にM先生が「宝の霊的体験」と題して、この時間が無い永遠を体験したと書いておられますから、引用します(別紙参照)。これは神学校の寮での体験だそうです。
10時の消灯の後、8畳の和室に、両側の先輩に守られるように敷かれた布団に正座をして、いつものように無言でお祈りをしておりましたが、この夜は、深刻な現状を心を注ぎ出して、主に申し上げたのでした。切に切に祈るうちに、体の感覚がなくなり自由な状態で、まぶしくはないのですが、どこまでも光輝く所におりました。
「主イエス様、ここは時間の無いところなのですね。ここにずっと居たいです」と申し上げた時に、未だ救われていない家族の姿が見えました。「救われていない家族を導かなければなりません。元に戻して下さい」とお願いしましたら、正座をして祈っている体に戻っていました。永遠とは時間の無い世界と知りました。この不思議な体験は、今に至るまで私の宝となっています。
「主イエス様、ここは時間の無いところなのですね。ここにずっと居たいです」と申し上げた時に、未だ救われていない家族の姿が見えました。「救われていない家族を導かなければなりません。元に戻して下さい」とお願いしましたら、正座をして祈っている体に戻っていました。永遠とは時間の無い世界と知りました。この不思議な体験は、今に至るまで私の宝となっています。
M先生は、時間の無い永遠の世界をご自身で体験しました。私はこの時間の無い永遠をH兄の病室でH兄が天に召される時に体験しました。そこにイエスさまが来ておられてH兄の呼吸が止まった時にH兄の時間が止まり、H兄はイエスさまによって時間の無い永遠の世界、すなわち天の御国に移されたことを感じました。その一ヵ月前にY兄を天に見送ったばかりでしたから、天の御国を感じやすくなっていたこともあるでしょう。Y兄とH兄を天に見送ったことで私は天の御国が非常に身近にあることを体験しました。ですから、教報でM先生が時間の無い永遠を経験された証しにとても親近感を覚えました。
そこで、先週も週報に載せたト音記号とヘ音記号の楽譜の図に、(天の御国)も加えてみました。天の御国は天の遠い所にあるのではなく、とても近い所にあるのだということを、この図で表してみました。

時間の無い永遠というのはグラフで言えば縦方向です。いま私たちは毎日のようにテレビで日付ごとのウイルス感染者数の変化のグラフを見ていますね。横軸に日付がありますから、右方向に行くに従って時間が進んで行きます。一方、縦方向は時間が進まない方向です。これが、時間が無い「永遠」の方向です。
先週の礼拝メッセージでは、この縦方向の永遠を、今さっきも説明したト音記号とヘ音記号の楽譜の図で示しました。この先週のメッセージは実は今日の十字架を示すための準備でした。先々週の藤本先生による聖会Ⅰと聖会Ⅱでは創世記のヤコブの箇所が開かれました。そこで先週は、その旧約の時代のヤコブの体験は永遠の中におられる父・子・聖霊を通して新約の時代の私たちも共有していることを示しました。そうして先々週と先週と今週とで三週間掛けて縦方向の永遠を理解していただきたいと思いました。この永遠は聖書に親しむなら誰でも体験できるものです。
M先生が神学校の寮で体験された時間の無い「永遠」は誰でも経験できるようなものではありません。極めて個人的な体験です。私がH兄の病室で感じた永遠も、そんなに誰でもいつでも経験できるようなものではないでしょう。
しかし聖書に描かれている永遠を感じることは聖霊を受けて霊的に整えられているなら、誰でも経験することができます。これが聖書の素晴らしさです。聖書によって私たちは誰でも、そしていつでも時間の無い永遠の世界を感じることができます。但し、そのためには霊的に整えられる必要がありますから、毎日静まる時を持つようにしたいと思います。
③「隣人を愛せよ」の第二の戒めは「時間」の方向
前のパートでは神様と私たちとの関係について話しました。神様は時間の無い「永遠」の中にいますから、神様との交わりの中にある時、私たちも「永遠」の中にあります。これは霊的な世界です。霊的な世界に入れられるなら、心の平安を得ることができます。
一方、「人との関係」は霊的な世界ではなく現実の世界のことですから、私たちが普通に経験している時間の流れの中にあります。ですからイエスさまの第二の戒めの「隣人を愛しなさい」は「横向き」の時間が流れる方向の中で行うことです。時間とは、「隣人を愛する」ために使うものなのですね。このことを私はミヒャエル・エンデの小説『モモ』を通して教えられました。
『モモ』には、人々から時間を奪う悪魔のような時間泥棒が登場します。彼らは、街の人々に巧みに言い寄って、時間を節約させます。例えば、ある時間泥棒は床屋のフージーを上手くだますことに成功しました。床屋のフージーがどうすれば時間を節約できるのかを尋ねた時の時間泥棒の答を引用します。
「おやおや、時間の倹約の仕方くらい、お分かりでしょうに!例えばですよ、(床屋の)仕事をさっさとやって、余計なことはすっかりやめちまうんですよ。一人のお客に半時間も掛けないで、15分で済ます。無駄なおしゃべりはやめる。年寄りのお母さんと過ごす時間は半分にする。一番いいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですね。そうすれば1日にまる1時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!(あなたが好きな女性の)ダリア嬢の訪問は、どうしてもというのなら、せめて2週間に1度にすればいい。寝る前に15分もその日のことを考えるのもやめる。とりわけ、歌だの本だの、ましていわゆる友だち付き合いだのに、貴重な時間をこんなに使うのはいけませんね。ついでにおすすめしておきますが、店の中に正確な大きい時計を掛けるといいですよ。それで使用人の仕事ぶりをよく監督するんですな。」(大島かおり訳、岩波少年文庫p.98 一部のひらがなを漢字に変換)
こうして、時間泥棒が言う通りの生活をするようになった床屋のフージーは、段々と怒りっぽい、落ち着きのない人になって行きました。この『モモ』を読んでいると、「時間」とは「隣人を愛する」ためにあるのだな~ということが、つくづく良~く分かって来ます。
きょうの聖書箇所のルカ10章のいわゆる「善きサマリア人」の記事も、そのことを良く表していますね。善きサマリア人は、強盗に襲われて半殺しの目に遭った人を一晩たっぷりと時間を使って介抱しました。ルカ10章33節と34節をお読みします(新約p.136)。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
そして35節に、「次の日」と書いてありますから、このサマリア人は怪我人の介抱のためにたっぷりと一晩を掛けています。怪我人の宿代もサマリア人が払ったのでしょう。そうして、さらにデナリ二枚を宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、わたしが帰りに払います。」
帰りはいつになるのでしょうか?昔の旅のことですから、早くても何日か先であり、もしかしたら何週間か何か月か先のことかもしれません。いずれにしても、このサマリア人はゆったりとした時間の中を生きていることが分かります。
このサマリア人がどんな信仰を持っていたのかは一切書かれていませんが、ゆったりとした時間の中を生きていた彼は心の平安を得ていた人だということが分かります。ゆったり生きればゆったり生きるほど時間が流れない「永遠」に近づきますから、神様との交わりの中で平安を得ることができます。つまり善きサマリア人は第一の戒めの「神を愛しなさい」が、「永遠」の方向でできていたために平安を得ていた人だということが想像されます。
サマリア人というのはイスラエル人と異邦人との混血の民族です。もともとはイスラエルの北王国の十部族に属していましたが、北王国がアッシリアに攻め滅ぼされた時に、アッシリアの混血政策によって混血にさせられてしまった人たちです。ですから元々イスラエルの神様への信仰を持っていました。怪我人を一晩たっぷりと時間を掛けて介抱した善きサマリア人は、神様を愛する第一の戒めを「永遠」の方向で守って平安を得ていたからこそ、第二の戒めの「時間」の方向の隣人を愛することも、しっかりできたのでしょう。
すると、31節と32節に登場する祭司とレビ人は、第一の戒めがしっかりとできていなかったことが見えて来ます。31節と32節をお読みします。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
祭司もレビ人も、神殿での祭儀を司る職業の人たちです。ですから、表面上は第一の戒めの神様を愛することがしっかりできているように見える人たちです。しかし、実際は神様を愛することができておらず、ただ形式的に祭儀を行っていただけなのでしょう。まるでマラキ書に出て来る祭司たちのようです。マラキ書1章6節をお読みします(週報p.2)。
マラキ1:6 「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』。
主を愛することができない、すなわち第一の戒めを守ることができない者なら、第二の戒めを守ることは難しいでしょう。
④「永遠」に目覚めないと神と隣人がゴチャ混ぜに
3年前に私は「『ヨハネの福音書』と『夕凪の街 桜の国』」という本を出版しました。この本のサブタイトルは
~平和の実現に必要な「永遠」への覚醒~
です。覚醒とは目覚めるということです。「永遠」は時間とは直角の縦方向にあり、平和を実現するには、この「永遠」に目覚めることが必要だと書きました。つまり、きょう話していることと同じです。しかし、3年前はまだ第一の戒めと第二の戒めとの関係には思い至っていませんでしたから。3年たった今、段々と時が満ちて来ていることを感じています。
先週の木曜日の祈祷会は8月6日の広島に原爆が投下された日で、説教ではマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」の「平和をつくる者」とは、「御子イエス・キリストの十字架を宣べ伝える者」であろうという話をしました。そして、きょうの8月9日は長崎に原爆が投下された日で、いま第一の戒めと第二の戒めの十字架の話をしています。
第一の戒めと第二の戒めがしっかりと90度の直角方向で分離できずにゴチャ混ぜになっていると、第一の戒めの方向からの聖霊の声をしっかりと聴くことはできないでしょう。すると、お祈りも過った方向のお祈りをしてしまうことになります。
75年前の8月6日に広島に原爆を投下したB29爆撃機のエノラ・ゲイ号が太平洋上の島のテニアン島を離陸したのは夜明け前の2時45分でした。この離陸に先立ち、牧師は乗組員たちの前で次のように祈ったそうです。
「全能の父なる神よ、あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちと同じく、あなたのお力を知りますように。そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることができますように。戦争の終りが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。わたしたちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名によって、アーメン」
( http://www.kirishin.com/2011/08/06/37392/ から引用)。
( http://www.kirishin.com/2011/08/06/37392/ から引用)。
この牧師は第一の戒めと第二の戒めの分離が上手くできていませんでした。第一の戒めの「永遠」の方向を分離できて聖霊の声に耳を澄ますことができていたなら、神様が原爆という兵器の使用をどんなに悲しんでいるか、またどんなに憤っているかが分かった筈です。
第一の戒めと第二の戒めがゴチャ混ぜになってはならないのは、戦争のような大きな場面に限らず日常の場面においても同様です。ルカ10章の「善きサマリア人の例え」の記事のすぐ後でマルタとマリアの姉妹の記事があるのは、示唆に富んでいます。
マルタはもちろんイエスさまとマリアの両方を愛していました。そうしてイエスさまをもてなすための準備を一生懸命していました。
しかしマルタは隣人である妹のマリアを愛することが上手くできていませんでした。それは、主イエスを愛することを、「永遠」の方向でではなく、横方向の忙しい「時間」の中で行っていたために、神と隣人がゴチャ混ぜになってしまっていたからでしょう。そのことが、ゆったりと生活していた善きサマリア人の直後にマルタが登場することで、良~く見えて来ます。マルタは「永遠」の方向にいる主イエスをゆったりと時間を使って愛することができていなかったので、隣人を愛することが上手くできなかったのでしょう。
一方、妹のマリアはイエスさまを縦方向の「永遠」の中で愛することができていました。この縦方向の永遠に目覚めているなら、善きサマリア人のように平安の中で隣人を愛することができるでしょう。
イエスさまはマルタに言いました。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
おわりに
神様を愛することと、隣人を愛することはどちらも大切なことですが、ゴチャ混ぜにしてはなりません。先ずは神様を愛することが大切です。すると、どのように隣人を愛せば良いのかの神様の導きの声が聞こえるようになるでしょう。両方がゴチャ混ぜになっていると、人間的な思いが混じって神様の御心とは違う方向へ行ってしまいます。B29の乗組員のために祈った牧師も神を愛し、隣人を愛していました。しかし、間違った祈りをしてしまいました。
マルタもイエスさまを愛し、妹のマリアのことも愛していました。しかし、忙しい「時間」の中でイエスさまを愛していたので、マリアのことで心を乱してしまいました。
私たちも毎日の生活は忙しく過ごさざるを得ない人も多いと思いますが、せめて日曜日は、ゆったりと心を静めて、神様に心を向けたいと思います。
このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。