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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

奥深い自分の声に忠実に生きる(2020.5.24 礼拝)

2020-05-26 05:32:28 | 礼拝メッセージ
2020年5月24日礼拝メッセージ
『奥深い自分の声に忠実に生きる』
【黙示録3:20(招詞)、ルカ15:11~24(交読)、ヨハネ1:35~39(朗読)】

はじめに
 きょうからまた、いつもの礼拝のスタイルに戻すことができましたから感謝です。

 先週までは教会の活動が停滞して、活動量がどん底まで落ちました。ですから、この機会を利用して、これから回復して行く過程においては、主に導かれながら、以前のことにはこだわらずに新しいことも考えてみたいということを先週は話しました。

 そこでメッセージについても、もう一度、一から考え直してみることにしました。偶然にも、教団発行の小冊子の『つばさ』の編集委員会から「わたしの一冊」の原稿執筆依頼が来ていますから、この「わたしの一冊」と礼拝メッセージとを絡める形で、しばらく何回かのシリーズで話をすることにします。

 この「わたしの一冊」は、教団の牧師が交代で、自分にとって思い入れの深い一冊を紹介するものです。祈りの本であったり、ディボーションの本であったり、きよめの信仰の本であったり、人それぞれです。

 私は以前から、もし自分に原稿執筆依頼が来たら、自分が教会に導かれる10年前に出会った本のことを紹介しようと決めていました。教会に通う前の話ですから、聖書については何も知らない頃に出会った本です。しかし、その本に出会うことで私は教会に導かれました。

 つまり人は、聖書を知らなくても信仰の入口までは導かれます。もちろん、イエス・キリストを信じるには聖書知識が少しは必要です。しかし、その手前の段階までは聖書をぜんぜん知らなくても来ることができます。これはウェスレー神学で「先行的恵み」と呼ばれるものです。人は生まれながらにして罪に全面的に縛られていますから、天からの何らかの助けが無ければ信仰に辿り着くことは不可能です。この助けを「先行的恵み」と言います。恵みが先行的に注がれることで、罪人の私たちはたとえ信仰から遠く離れた所にいても、信仰の近くまで導かれて来ることができます。これは本当に感謝なことです。

 これから何回かのシリーズで、私が『つばさ』誌で取り上げる予定の一冊を紹介しながら、信仰に至る道について、ご一緒に考えて行きたいと思います。

 きょうは『奥深い自分の声に忠実に生きる』というタイトルで、次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①奥深い自分の声に忠実に生きる
 ②本当の声(良心の声)と偽りの声
 ③奥深い自分は何を求めているのか?
 ④奥深くにある魂をノックするイエスさま

①奥深い自分の声に忠実に生きる
 ご紹介する本は、講談社現代新書の『自己愛とエゴイズム』という本です。



 1989年に出版され、私は1991年頃に、当時住んでいた名古屋の官舎の近くの小さな本屋さんで、この本に出会いました。

 「エゴイズム」は悪い意味を持つ言葉ですね。では、「自己愛」はどうでしょうか?自己愛も自己中心を思い起こさせますから、一般的には悪いイメージを持つ言葉だと思います。しかし、この本では「自己愛」とは「本来の自分を愛する」という意味で使われていて、これを良いこととしています。つまり、この本は「自己愛」は良いこと、「エゴイズム」は悪いこととしています。

 ただし、ある一つの行動が、自己愛からの行動なのかエゴイズムからの行動なのか区別しにくいことがあります。そこで、この本では小説や映画などを題材にしながら、自己愛とエゴイズムの違いは何だろうか?ということを読者に問い掛けながら、共に考えていく構成になっています。

 今話したように、この本は小説や映画の例をふんだんに取り入れています。そして表面的には聖書の話はほとんど出て来ません。だからこそ、まだ聖書を知らなかった頃の私の心を捉えたのだろうと思います。もし聖書が前面に出ていたら私は身構えてしまって、この本を手にすることはなかったと思います。けれども、実はこの本はとても聖書的なことが書かれている本です。それで、この礼拝メッセージでは聖書的な説明を補いながら、この本を紹介していくことにします。

 前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。先ほども話したように、この本では、「自己愛」とは「本来の自分を愛すること」です。では、「本来の自分」とはどんな自分でしょうか?ここから早速、聖書を補って解説します。これから話す聖書的な解説は、この本には書かれていません。

 「本来の自分」とは、神様が人を造った時の、すべてが非常に良かった時の人、としての自分です(創世記1:31「見よ、それは非常に良かった」)。神様は人をご自身の像(かたち)に造られました。ですから、「本来の自分」は、神様が喜ぶ生き方をします。しかし、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べて人の心に罪が入ったために、人は神様が喜ぶ生き方をすることができなくなりました。

 人はいつも偽りの声を聞きながら生きています。悪魔・サタンの声と言っても良いでしょう。そこで、この本では奥深い自分の声に耳を傾けて、その声に忠実に生きることを勧めています。それは神様が喜ぶ生き方を勧める声であり、別の言い方をすれば「良心の声」です。
 
②本当の声(良心の声)と偽りの声
 ここでは、この本が取り上げている小説を紹介することにします。このメッセージのシリーズでは、この本が取り上げている多くの小説や映画から、1回のメッセージにつき一つか二つだけを紹介して行くことにします。随分ともったいぶっていると思うかもしれませんが、それぐらいじっくりと取り組むべき価値があるテーマだと考えています。

 この本では、まずカミュの『転落』という小説が紹介されています。カミュは今年、『ペスト』がベストセラーになりましたね。この春、新潮文庫版の『ペスト』の発行部数が100万部を突破したそうです。『ペスト』は1947年に発表された古い小説ですが、新型コロナウイルスの感染が拡大して移動が制限されるようになり、似たような状況が設定されていたこの小説が爆発的に売れました。

 『ペスト』は『自己愛とエゴイズム』の中でも取り上げられていますが、この本の著者は先ず、カミュの『転落』を取り上げています。紹介するのが遅れましたが、『自己愛とエゴイズム』の著者はハビエル・ガラルダというカトリックのイエズス会の神父さんで、この本が書かれた1989年の当時の肩書は東京の上智大学の教授でもありました。日本に住んでいる先生ですから、この本も日本語で書かれています。

 さてカミュの『転落』です。主人公はフランスのパリで活躍する有能な弁護士でした。しかし、今は転落して落ちぶれています。有能な弁護士だった頃の彼は貧しい人の弁護を無料で引き受けたり、困っている人を喜んで助けたりと、多くの善い行いをしていました。しかし、実はそれらは全て、人から称賛されて自己満足を得るためにしていた善い行いでした。自分では気付いていませんでしたが、あることをきっかけにして彼はそのことに気付かされます。

 ある夜、彼が人通りの途絶えた通りを歩いていて橋に差し掛かった時、橋の上から川を見つめている黒服の若い女性がいました。彼は彼女の後ろを黙って通り過ぎ、しばらくすると、後ろから川に人が落ちる音がして女性の叫び声が聞こえました。しかし、彼はその声に振り向くことなく、そのまま歩き続けて帰宅します。

 すると、その晩からしばらくして、彼の耳にはどこからともなく人の笑い声が聞こえるようになりました。誰もいないのに笑い声が聞こえるようになり、彼はその笑い声に耐えられなくなって酒と女性に溺れるようになって転落して行った、という話です。

 有能だった頃の彼は、人に対してとても親切でした。それは、とても良いことであり、神様も喜ばれることです。しかし、彼は夜遅くに川に飛び込んだ女性を助けませんでした。それは誰も見ていなかったからです。もし、周りに見ている人がいれば彼は上着を脱いでカッコ良く川に飛び込んで彼女を助けたことでしょう。そうして、人々は彼を称賛したことでしょう。しかし夜遅くて人通りが途絶えていて誰も見ていなかったので、彼は女性を助けませんでした。このことで、彼は自分が人から称賛されるために善い行いをしていたことに気付かされます。

 この事件が起きるまでは、それまでの彼の行動が心の浅い部分を満足させるだけの行動なのか、奥深い部分を満足させる行動なのか、区別はつきませんでした。しかし、女性を助けなかったことで彼の行動は心の浅い部分だけを満足させるための行動であったことが明らかになりました。奥深い所にある本来の自分は、人が見ていようがいまいが、弱い人を助けたいと考えます。しかしエゴイズムに支配されていると、雑念が入って奥深い自分が何を求めているのかが分からなくなってしまいます。

 この『転落』を最初に紹介している『自己愛とエゴイズム』という本に出会った時の私は、この本の底流には聖書的な教えが流れていることなど、もちろんぜんぜん分かりませんでした。しかし、「何だか凄い本に巡り会ったぞ」という気がして、以降、何も分からないままにですが、「奥深い自分の声に耳を澄ます」ということを試すようになりました。そうして、本来の自分が何を求めているのか?ということを少しずつ考えるようになりました。

③奥深い自分は何を求めているのか?
 きょうの聖書箇所でイエスさまはヨハネの二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか?」と聞きました。ヨハネ1章38節ですね。38節、

1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「先生、どこにお泊まりですか。」

 もし、この現場に皆さんがいて、自分のほうを振り向いたイエスさまから「あなたは何を求めているのですか?」といきなり聞かれたら、何と答えますか?突然そんなことを聞かれても、きっと困ってしまうでしょうね。弟子たちも困ったのでしょう。聞かれたことに答えずに、「先生、どこにお泊りですか?」と逆に聞き返してしまいました。

 私も、いきなりイエスさまに「何を求めているのですか?」と今聞かれたら、「マスクです」、とか「消毒用のアルコールです」などと答えてしまうかもしれません。本当の自分、奥深い所にある本来の自分の心が何を求めているのか、人はそう簡単に答えることはできません。

 でも、それで良いのだと思います。すべてはここから始まります。ここで二人の弟子たちはイエスさまに出会ってはいますが、本当の意味で出会ったわけではありません。「何を求めているのですか?」と聞かれて、「どこにお泊りですか?」と聞き返しているようでは、まだまだイエスさまに出会ったとは言えません。でも、それでも良いのです。なぜなら、まだここは第1章でイエスさまとの出会いの物語が始まったばかりだからです。これから弟子たちはイエスさまと一緒に旅をして、イエスさまとの交わりを深めて、やがて「最後の晩餐」の食卓を共にし、十字架に掛かるイエスさまを見上げ、そして復活したイエスさまと出会います。復活したイエスさまと出会って、ようやくイエスさまと出会ったと言えるでしょう。

④奥深くにある魂をノックするイエスさま
 きょうの招きの詞では黙示録3章20節のみことばを引きました。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 この会堂の入口の上にも、玄関の扉をたたくイエスさまの絵が掲げてありますね。イエスさまは、いつでも誰に対してでも、その人の心の扉を叩いて、応答するのを待っています。しかし罪に支配されて奥深い自分の声が聞こえなくなっていると、このイエスさまのノックの音さえ聞こえません。たとえ聞こえても、扉を開けてイエスさまを迎え入れるまでには、なかなか至りません。ノックの音が聞こえないところから始まって、ノックの音が聞こえ、イエスさまを迎え入れ、そうしてイエスさまと食事をするようになるまでには、とてつもなく長い期間が掛かるのが普通です。しかも食事をしてもなお、さらにその先の、十字架のイエスさまと復活したイエスさまにも出会う必要があります。

 きょうの聖書交読ではルカの福音書15章の有名な「放蕩息子の帰郷」の場面をご一緒に読みました。父の家を離れて遠い外国で放蕩していた弟息子にはイエスさまが彼の心の扉を叩く音が聞こえるはずもありませんでした。しかし、父に分けてもらった財産を湯水のように使い果たした挙句に食べる物にも困るようになった時、彼はドアのノックの音を聞いて、ようやく我に返ったのですね。そうして彼は父の家に帰り、家の中に迎え入れられました。それは心の扉を開いてイエスさまを自分の中に迎え入れたということです。

 しかし実は、ここからが弟息子とイエスさまとの出会いの物語の始まりです。弟息子は、まだまだ「先生、どこにお泊りですか?」と聞き返す程度の幼い信仰しか持っていません。すべてはここから始まります。弟息子は長い道のりを歩いて父の家に帰りましたが、信仰の旅の道のりはまだ始まったばかりです。

 私が『自己愛とエゴイズム』に巡り会ったのは高津教会を初めて訪れる約10年前のことでした。ここからようやくイエスさまのノックの音が、微かに聞こえるようになりました。そして10年掛かって漸く高津教会を訪れた時にノックの音がハッキリと聞こえるようになりました。しかし、まだ心の扉は開かれていません。教会に行ったというだけの話ですから、イエスさまのことをぜんぜん知りません。私が心の扉を開けたのは、もう少し先のことでした。

 神様の先行的な恵みによって、『自己愛とエゴイズム』という本に出会った私は、この本が勧める「奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きること」を実践しようと試み始めました。そうして少しずつ教会へと近づいて行き、ノックの音が次第に大きく聞こえるようになって行ったのだと思います。

 きょうの午後は、天に召されたY兄の納棺式を行います。その後で前夜式がありますが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために教会の皆さんは前夜式と告別式に出席できません。そこで納棺式後、前夜式の前に分散して来ていただいて、Y兄と最後のお別れをしていただきます。そして午後6時から前夜式があり、明日の午前10時から告別式を行います。

 今回、金曜と土曜の二日間の短い間に礼拝と前夜式と告別式の三つの説教原稿を同時並行で作成しました。そうして、これら三つの説教原稿を作成しながら、Y兄のイエスさまとの交わりについても思いを巡らしました。Y兄の心も10代の若い頃は放蕩息子のように父の家から離れていましたが、父の家に戻りました。そして、イエスさまと出会って少しずつ交わりを深めて行き、やがて本当の意味でイエスさまに出会いました。

 Y兄は、この1年あまり、がんの末期で残された期間が少ないと医師に告げられてからは、イエスさまとの交わりをますます深めて行きました。Y兄とイエスさまとの交わりはがんが見つかる前からも既に十分に深まっていましたが、がんの末期と分かって以降、もっともっと深まって行きました。そうしてイースターから40日目のイエスさまが天に上げられたのと同じ日に、Y兄はイエスさまと共に天に上げられました。本当にすごいことだなあと思います。

おわりに
 イエスさまとの交わりは、先ずはイエスさまが叩くノックの音に気付くところから始まります。ノックの音が聞こえても心の扉を開けるまでには、また時間が掛かりますし、扉を開いてからも食事をするまでには、なお時間が掛かります。そうして、十字架のイエスさまに出会い、復活したイエスさまに出会い、Y兄が深めて行った領域に至るまでには、もっともっと時間が掛かります。

 そう考えると、イエスさまとの信仰の旅路の道のりは本当に長いのだなと改めて思います。ですから、焦らなくても良いのだと思います。ゆっくりゆっくりイエスさまとの関係を深めて行けば良いのだと思います。しかし、先ずはイエスさまのノックの音に気付かなければ何も始まりません。或いはまた、すでに心の扉を開けてイエスさまを迎え入れている方でも、奥深い自分の声に耳を傾けることで、イエスさまとの交わりをもっと深めて行くことができるでしょう。

 ですから、すべての方々に、奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きることをお勧めしたいと思います。

 これからも、『自己愛とエゴイズム』を紹介しながら何回かのシリーズで、この本からいただける恵みを分かち合って行きたいと思います。

 そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


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どん底からの再興を過ちなく導く助け主(2020.5.17 礼拝)

2020-05-17 15:02:38 | 礼拝メッセージ
2020年5月17日礼拝メッセージ
『どん底からの再興を過ちなく導く助け主』
【ヨハネの福音書14章25~31節】

はじめに
 先週の木曜日に、私たちが住む静岡県の緊急事態宣言が解除になりました。この宣言の期間中は様々な活動がお休みの状態になっていました。これから少しずつ再開されて行き、再興への道を歩み始めることになります。

 様々な活動が停止したことで、日本も世界もどん底の状態にあります。この、どん底からの浮上の仕方を誤ると大変なことになります。空気のボンベを背負って海底の散歩を楽しむスキューバダイビングでは、海底からゆっくり浮上しないと潜水病になって命の危険があると言われます。どん底から浮上する時は、何事も急いてはならないのでしょう。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①再興への道を歩み始めた池江さんと日本
 ②余計な力が入りがちな、どん底からの再興
 ③再興を過ちなく導く助け主
 ④すべてのことを教えて下さる聖霊

①再興への道を歩み始めた池江さんと日本
 1週間前の5月9日の土曜日の晩にNHKスペシャルで、水泳の池江璃花子選手に密着取材した番組が放送されました。とても良い番組で、今年見た番組の中では一番だと私は思いました。

 池江選手は2018年のアジア大会では6種目で金メダルを取り、2020年の東京オリンピックでも金メダルを取ることが期待されて2019年の練習を開始しました。しかし1月の練習では体調不良でタイムがガクッと落ちました。本人も周囲のコーチたちも最初のうちは疲れが溜まっているだけだろうと思っていたそうですが、どうもおかしいということで2月に検査を受けたところ白血病と診断されました。

 泳ぐたびに記録を更新して成長を続けていた池江さんは、突然どん底に突き落とされました。抗がん剤による治療は過酷で、死にたいと思ったこともあったそうです。池江さんは精神面でも肉体面でも、どん底を経験しました。ただ、それがどれ位つらいことであったのか、彼女の精神面のことは私たちには分かりません。いろいろと想像はしますが、内面的なことは目には見えませんから、正直言って分かりません。しかし筋骨豊かでたくましかった彼女がすっかりやせ細ってしまった姿は目に見えますから、そのことが精神面のつらさの想像を助けてくれます。

 退院後にトレーニングを開始した時の動画が番組で流れましたが、懸垂はおろか腕立て伏せも1回もできなくなっていました。抗がん剤の治療はアスリートの体をここまで衰えさせるものなのかと正直驚きました。腕立て伏せができない彼女は笑っていましたが、それはトレーニングを再開できた喜びがあったから笑うこともできたのでしょう。トレーニングを再開できる日が来るかどうかも分からない闘病中の時期は本当につらかったことでしょう。

 池江さんはトレーニングを再開しても、免疫力の回復が進まなかったために、なかなかプールに入る許可が降りませんでした。しかし、ついにその時が来て、水に入って泳ぐ幸せをかみしめる池江さんの幸福感に満ちた表情がとても印象的でした。つらい病気でどん底を経験した彼女は、自分が再び泳ぐ姿を見せることで病気の人たちを励ましたいと語っていました。弱さを経験したことで弱い人々のことを彼女は一番に考えるようになりました。素晴らしいことだなと思います。是非ゆっくりじっくり、焦らずに回復への道を歩んで欲しいと思います。

②余計な力が入りがちな、どん底からの再興
 どん底から回復する場合、気を付けないと力が入り過ぎてしまいます。聖書で言えば、律法を守らなかったために主が怒り、バビロン軍(列王記第二24:2参照)によって滅ぼされたエルサレムの民がそうでした。彼らはバビロンへ捕囚として引かれた後にエルサレムへの帰還が許されて神殿を再建した後には律法を守るようになりました。しかし、いささか力が入り過ぎていたのかもしれません。やがて律法を守ることが形骸化して律法主義に陥って行きます。その典型がパリサイ人たちです。イエスさまは安息日に病人を癒し、そのことを批判したパリサイ人たちに言いました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか」(ルカ14:5)。このように、どん底からの再興では気を付けないと力が入り過ぎて誤った方向に進んでしまいます。

 日本の首相の安倍さんも、どん底を経験した人です。第一次安倍内閣は年金記録問題や閣僚の失言や不祥事で次々に交代するなどして支持率が下がりました。そうして参議院選で惨敗したこともあって安倍さんは首相になって1年経たないうちに辞任に追い込まれました。安倍さんは若くして自民党の重要なポストに登用されて総理大臣への道を一気に駆け上がりました。若さで勢いに乗って日本の頂点に上り詰め、突然崖から谷底に落ちたという点では、池江璃花子さんとも似ています。

 しかし安倍さんと池江さんでは決定的な違いがあります。それは池江さんが弱い人々の方を向いているのに対して、安倍さんは弱い人々の方を向いていないということです。安倍さんもどん底に落ちることで弱さを経験したのですから、もっと弱い人々の方を向いて欲しいと思います。

 私たちクリスチャンがイエスさまを慕うのは、イエスさまもまた弱さを経験した方だからです。イエスさまの両親のヨセフとマリアは貧しいナザレの村の出身でした。それゆえでしょう。ベツレヘムでは宿屋に泊まることができませんでしたから、イエスさまが生まれたのは家畜小屋でした。また、幼子のイエスさまがシメオンに抱かれた時、両親がエルサレムの神殿で捧げたいけにえは羊ではなく鳩でした(ルカ2:24)。貧しくて羊を捧げることができなかったからでしょう。イエスさまがおよそ30歳で宣教を開始した時、人々は「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言いました。或いはまた、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言いました。このように貧しいナザレの村出身のイエスさまは人々から低く見られていました。

 そしてイエスさまが最も低いどん底を経験したのが十字架でした。イエスさまは鞭で打たれ、つばを吐き付けられ、人々からあざけられ、裸で十字架に付けられて死にました。そういう、どん底を知っているイエスさまが弱い私たちに寄り添って下さいますから、私たちはイエスさまを慕います。安倍さんもどん底の弱さを経験したのですから、もっと弱い人々の方を向いて欲しいと思います。しかし、そうならないのは安倍さんが、そして安倍さんを取り巻く人々が罪に支配されているからです。私たちもまた罪に支配されていた者たちですが、十字架のイエスさまを信じることで、罪の支配から解放されました。

 今回の緊急事態宣言では経済活動が停滞して多くの方々がどん底を経験しています。どん底においては多くの人々が謙虚になります。ぜひ十字架のイエスさまを信じて、罪の支配から解放されて欲しいと思います。

③再興を過ちなく導く助け主
 どん底から再興するためには何らかの力が必要です。ただし、自力で浮上しようとすると、つい力が入り過ぎてしまいます。やはり過ちなく回復への道を歩むためには、神様の力が必要でしょう。助け主である神様は霊を注いで下さり、力を与えて下さいます。

 きょうの聖書交読で読んだ列王記第一19章では、どん底のエリヤに主が食べ物を与えて励まします。エリヤはどん底に落ちる前の18章で華々しい活躍をしていました。池江さんも安倍さんもそうですが、どん底に落ちる人の多くはその前に派手な活躍をしています。そういう人はもともと力がある人ですから、回復の力が与えられれば、再び浮上することができます。エリヤが18章でどんな派手な活躍をしたのか、まだ読んだことがない方は、是非ご自分で読んでみて下さい。きょうは19章を見ます。19章1節、

19:1 アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。
19:2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

 アハブは当時のイスラエルの王様です。そしてアハブにはイゼベルという妻がいました。アハブとイゼベルは異教の神々を崇拝して偶像礼拝を行っていました。エリヤは前の18章でアハブ王との勝負に勝ってアハブを打ちのめしましたから、悔い改めて偶像礼拝をやめると期待していたでしょう。しかし、イゼベルは少しも悔い改めることなく2節で使者をエリヤに送って明日までに彼を殺すと予告します。

 続いて3節と4節、ここでエリヤは主に死を願います。

19:3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、
19:4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

 エリヤは華々しい勝利を収めたのに、イゼベルはぜんぜん悔い改めることなく復讐する気が満々です。このことにエリヤは愕然として、生きる気力を失います。すると御使いが現れて彼を励ましました。5節と6節、

19:5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。
19:6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。

 さらに御使いは、エリヤをもう一度励まします。7節と8節、

19:7 の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。
19:8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。

 このホレブでエリヤは主に泣き言を言います。しかし、主はエリヤの泣き言には答えずに、次にすべきことを指示します。時間の関係で途中を飛ばして15節と16節をお読みします。

19:15 は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。
19:16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。

 16節で主はエリヤに、「エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ」と仰せられました。こうしてエリヤからエリシャにバトンが渡されて預言者の働きが引き継がれて行きます。

 今回私は改めてこの箇所を読んで、主がエリヤの泣き言に答えなかったところはヨブ記に似ているなと思いました。少し前にご一緒に開いたヨブ記で主は、ヨブの泣き言には一切答えず、次のように言ってヨブを励ましました。

38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。

 主は泣き言に同情することなしに生きる力を与えて下さる方なのだなと思いました。私たちは時に自分の泣き言を聞いて同情してくれる人を必要とします。ただし聞いてもらうだけでは、なかなか次へつながって行きません。しかし神様は違います。神様は力を与えて下さるお方です。

④すべてのことを教えて下さる聖霊
 回復の力を与えてくれるのは神様だけとは限らないでしょう。しかし、神様以外の力に頼るなら、つい力が入り過ぎたり、間違った方向に進んだりします。過ちなく再興して行くためには、やはり神様に導いていただかなければなりません。

 イエスさまの弟子たちも、イエスさまが十字架に掛かって死んだ時に、どん底に突き落とされました。特に威勢の良いことを言っていたペテロはイエスさまを知らないと三度も言いましたから、弟子たちの中でも最も低い谷底に落ちたことでしょう。そんな弟子たちのためにイエスさまは予め、助け主である聖霊の話を最後の晩餐の時にして下さっていました。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書14章の26節をお読みします。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 助け主である聖霊は、すべてのことをペテロたちに教えます。ペテロたちはペンテコステの日に聖霊を受けて、聖霊に導かれながら、力強くイエス・キリストの証言を始めました。私たちもまた、イエスさまが神の子キリストであると信じて聖霊を受けましたから、この世で様々な困難があっても、毎日を聖霊に導かれながら、生きて行くことができます。そして27節、
 
14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 イエスさまは私たちに平安を与えて下さいます。新型コロナウイルスの感染拡大で世界中が大混乱になり、人々は不安に陥っています。その中にあってイエスさまが平安を与えて下さっていることは、何よりも感謝なことだと思います。日本と違って世界では多くの国でイエス・キリストが信じられていますから、過ちなく復興への道を歩んで欲しいと思います。日本も、この機会に多くの方々にイエスさまを信じていただきたいと願っています。

おわりに
 私たちの教会も、これから復興して行きます。主が許して下されば来週の24日の礼拝から通常の礼拝に戻したいと願っています。いま私たちの教会は最低限の活動しかできていません。つまり、どん底の中にいます。せっかく、どん底の中にいるのですから、助け主の聖霊の導きに従って、礼拝のあり方も、これまでの形式にとらわれずに、考え直してみたらどうでしょうか。

 例えば、教会福音讃美歌を、これまでは月に1回、第3聖日のみに使用していましたが、これからはもっと使う回数を増やしたらどうでしょうか。例えば第1、第3、第5聖日を教会福音讃美歌の日として、第2と第4をインマヌエル讃美歌とひむなるにしてはいかがでしょうか?インマヌエル讃美歌の歌詞の多くは文語体で、しかも、ひらがなで表記されていますから、意味が分からない歌詞がたくさんあります。一方、教会福音讃美歌の歌詞の多くは口語体で、漢字の歌詞も添えられていますから、意味が良く分かります。新しい方をお迎えすることを考えるなら、福音讃美歌の使用回数を増やしたほうが良いのではないでしょうか?

 その他にも、虚心坦懐に、これまでの形式にとらわれずに聖霊の声に耳を澄ますなら、新たな導きが与えられることでしょう。そうして、聖霊に導かれながら、どん底から再興して行きたく思います。

 お祈りいたします。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。


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悲しみも苦しみもない場所への道(2020.5.10 礼拝)

2020-05-10 16:57:16 | 礼拝メッセージ
2020年5月10日礼拝メッセージ
『悲しみも苦しみもない場所への道』
【ヨハネの福音書14章1~6節】

はじめに
 この礼拝のライブ配信はどなたでも見られるようになっていますから個人名は出しませんが、先日私はある方のお宅に伺いました。そのお宅ではレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵の複製が額に入って壁に掛かっていました。その絵のことが床に就くまで強く印象に残り、夜中に目が覚めた時、私はその「最後の晩餐」の絵の中心にいるイエスさまから多くの語り掛けをいただきました。イエスさまはヨハネの福音書13~17章の「最後の晩餐」の記事を通して多くのことを語り掛けて下さいましたから、これらのことを教会の皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 先日の7日の晩の祈り会では、ヨハネ17章からイエスさまと同じ方向を向くことの大切さを分かち合いました。きょうも引き続き、イエスさまと同じ方向を向くことの大切さを分かち合いたいと願っています。きょうの最初のパートでは祈り会に参加しなかった方々のために、その時のメッセージを短く振り返り、次いできょうの主題に入って行くことにします。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①弱い人々の方を向き、父の方を向くイエスさま
 ②イエスさまと共に同じ道を歩んで行きたい
 ③悲しみも苦しみもなく命の水が流れる新天新地
 ④新天新地を周囲の人々に伝えるテレワーカー

①弱い人々の方を向き、父の方を向くイエスさま
 このパートでは先週の祈り会のメッセージを短く振り返ります。

 イエスさまは弱い人々に寄り添い、弱い人々の方を向いて慰め、励まして下さいます。私たちもまた弱い者たちですから、イエスさまは私たちの方を向いて慰め、励まして下さいます。本当に感謝なことです。私たちはこの素晴らしい恵みをいつもいただいています。しかし、この恵みを十分にいただいたなら、今度はイエスさまと同じ方向を向いて私たちもまた弱い方々の方を向いて、弱い方々を慰め、励ますことができるようになりたいと思います。

 たぶん皆さんの多くはこのことが無意識にできているのだろうと思います。イエスさまを信じて聖霊が内に入るならイエスさまに似た者にされて行きます。すると自然と、無意識のうちに弱い方々を慰め、励ますことができるようになることでしょう。しかし、私の場合はこのことがなかなかできません。このことを意識しないと、イエスさまと同じ方を向いて弱い方々を慰め励ますことができません。ですから、意識せずに自然にできるようになれば良いなと、これまでは思っていました。

 さてしかし、祈ることを考えるなら、イエスさまと同じ方向を向くことを、もっともっと意識すべきではないか、ということを今回私は示されています。イエスさまは絶えず天の父に向かって祈っていました。ヨハネの福音書の13章から17章までの「最後の晩餐」の場面でも、最後の17章は全部イエスさまの天の父への祈りのことばです。ですから私たちが天の父に祈る時も、イエスさまと同じ方向を向いてイエスさまと一つになり、イエスさまと一緒に祈るなら、私たちの祈りはもっと強い祈りになるのではないでしょうか。

 これまで私は、天の父に祈る時はイエスさまがどちらを向いているかをあまり考えないで漠然と祈っていました。イエスさまを思い浮かべながら祈るにしても、どちらかと言えば私の方を向いているイエスさまを思い浮かべていました。しかし、そうではなくて、これからは天の父に向かって熱心に祈るイエスさまと同じ方向を向いて、イエスさまと共に祈るようにしたいと思います。

②イエスさまと共に同じ道を歩んで行きたい
 前のパートでは、イエスさまは弱い人々の方を向いて慰め励まし、また天の父の方を向いて祈っていることを話しました。そして私たちもイエスさまと同じ方向を向きたいということを話しました。

 これらに加えてもう一つ、私たちはイエスさまと同じ道を、同じ方向を向いて歩いて行きたいと思います。

 きょうの讃美歌では、福音讃美歌395番の「たとえば私が」を賛美しました。三節目の歌詞をお読みします。

 イェス様とともに 歩きだす時に
 あなたも気づくだろう もうひとつの足あと
 砂の上に続く ふたりの足あとは
 あなたとイエス様の 足あとなのです
 ともに生きる喜び かみしめながら歩いていく
 あなたのそばにはいつも もうひとつの足あと

 21世紀を生きる私たちにとってイエスさまは目に見えないお方ですが、イエスさまと共に歩む時、砂の上にはイエスさまの足あとがしっかりと残るという讃美歌です。クリスチャンではない方が見たら、この歌詞のことを変に思うかもしれませんが、私たちは「分かる~、そうだよね、イエスさまはそういうお方だよね」、とこの歌詞に共感を覚えるでしょう。最初に賛美した福378番「朝つゆの園を」の繰り返し部分にも「イェスとともに歩める喜び尽きず」とありました。イエスさまと共に歩めることは本当に幸いであり喜びです。

 イエスさまはいつも私たちに寄り添い、共に歩いていて下さいます。それはイエスさまが「道」であるからです。きょうの聖書箇所のヨハネの福音書14章6節でイエスさまはおっしゃいました。

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 イエスさまご自身が道です。この道は天の父に通じる道です。イエスさまは「わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とおっしゃいました。ですから私たちは、イエスさまと共に父のみもとに行く道を共に歩みたいと思います。

 ただし、ここでハッキリさせておきたいことがあります。それは、この道は必ずしも天の御国への道とは限らないということです。確かに今のところは、御国は天にあるでしょう。しかし、私たちは「主の祈り」で「御国を来たらせたまえ」と祈ります。私たちは毎週の礼拝で必ず「主の祈り」を捧げて、「御国を来たらせたまえ」と祈ります。そう祈るのは、マタイとルカの福音書に書いてあるように、イエスさまが弟子たちに「御国が来ますように」と祈るように教えたからです。

 イエスさまは、私たちが「御国に行けますように」と祈るようにおっしゃったのではなく、「御国が来ますように」と祈るようにおっしゃいました。私たちのほうが行くのではなく、御国のほうがこちらに来るように祈りなさいとイエスさまはおっしゃいました。

 このように御国が来ることは黙示録の21章に書かれています。すなわち新天新地の到来です。イエスさまの道はこの新天新地へとつながっていますから、私たちは新天新地への道をイエスさまと共に歩んで行きたいと思います。

③悲しみも苦しみもなく命の水が流れる新天新地
 この新天新地、すなわち新しい天と新しい地にはもはや悲しみもなく、苦しみもありません。聖書交読でお読みした黙示録21章を開きましょう。

21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。

 この1節と2節にあるように、新しい天と新しい地では天が地に降って来ます。これが私たちが毎週「主の祈り」で祈る「御国を来たらせたまえ」です。この新しい天と新しい地には悲しみも苦しみもありません。3節と4節、

21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」


 新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、いま多くの人々が亡くなり、悲しみ、叫び声をあげて苦しんでいます。しかし御国が来れば神様は涙をことごとくぬぐい取って下さいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。

 そして、ここにはいのちの水の川が流れています。続いて黙示録の22章を見ましょう。22章の1節と2節、

22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 このいのちの水の川は神と子羊の御座、すなわち御父と御子の御座から流れ出ています。この御座は神殿の建物にあるのではありません。21章の22節にあるように御父と御子ご自身が神殿だからです。21章22節、

21:22 私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。

 ここには、私たちが恐れる暗闇はありません。御父の栄光が都を照らし、御子がその明かりだからです。23節、

21:23 都は、これを照らす太陽も月も必要としない。神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。

 「主の祈り」を捧げる時には、この素晴らしい都の様子を思い浮かべながら、「御国を来たらせたまえ」と祈りたいと思います。

④新天新地を周囲の人々に伝えるテレワーカー
 この黙示録の21章と22章は新しい都の素晴らしい光景を私たちに見せてくれていますから、私はこの箇所がとても好きです。ですから時おり礼拝メッセージで引用しています。しかし、あまり頻繁には引用しないようにしていました。

 それは、この21章と22章があまりに現実離れしていると思われることを恐れていたからです。特に聖書にまだあまり馴染んでいない方々に対して、聖書は現実離れしたおとぎ話の世界を描いている書であるという印象を与えかねないと恐れていたからです。

 しかし、今や私たちは1月の頃には想像もできなかった現実離れした世の中を生きています。もし今年の正月に、今年のゴールデンウイークの観光地はガラガラで、新幹線にもほとんど人が乗っていないなどと言えば、そのような現実離れをした話を誰も信じなかったでしょう。

 今年話題になって出版社も急遽増刷した書に、カミュの『ペスト』と小松左京の『復活の日』があります。私はカミュの『ペスト』は沼津にいた頃に読んでいましたが、小松左京の『復活の日』は読んだことがありませんでしたから、ネット注文で取り寄せて読んでみました。

 『復活の日』は1964年に出版されました。この小説では致死率が極めて高い強力な細菌兵器によって人類のほとんどが数か月の間に滅亡してしまいます。ただし気温が低いと、この細菌兵器は増殖しないために、南極にいた人々は生き残って人類は滅亡を免れました。

 私がこの小説を読んだのはつい最近のことですが、もし今のコロナウイルスの感染拡大が起きる前に読んでいたら、まったく現実味のない空想小説として読んだことでしょう。しかし、今や目に見えないウイルスや細菌によって人類のほとんどが滅亡することは決して絵空事では無くなりました。

 ですから聖書の黙示録21章と22章のような素晴らしい世界、悲しみも苦しみもない世界のことも現実味が無いなどと言って語ることを控えている場合ではないと思わされています。『復活の日』に描かれているこの世の地獄が絵空事ではないのと同様に、地上に降りてくる天国も、決して絵空事ではなく、未来に起きる現実のことです。

 先週のメッセージでお勧めしたように、私たちは天の神様のために地上で働くテレワーカーであるという意識を持ちたいと思います。テレワーカーである私たちが為すべき仕事はイエス・キリストを証言する証人になることです。そうして私たちの証言によって新しくイエスさまを信じる方がおこされるなら、その方も共に新天新地に入ることができます。そのように私たちは一人でも多くの方が、共にイエスさまと同じ方向を向いて新天新地への道を歩んで行くことができるようになりたいと思います。

おわりに
 もう一度ヨハネの福音書14章に戻ります。4節から6節までをお読みします。

14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。


 イエスさまは復活した後、天に上りました。私たちも、この地上での生涯を終えたら天に召されて天のイエスさまにお会いすると信じています。もちろん、それで構いません。しかし、究極的には、天のほうが地上に降って来ます。そこはいのちの水の川が流れる素晴らしい場所です。もしこれが、私たちが生きている間に起きるなら、私たちは天国に行くのではなく、地上にいながらにして、この新天新地へ入ることができます。このことの方が天国へ行くよりも、もっとずっと素晴らしいことではないでしょうか?

 いま地上では、この世の地獄のようなことが起きています。特にアメリカのニューヨークでは悲惨な状況になっているとのことです。そこには悲しみが溢れ、人々は叫び声を上げて苦しんでいます。しかし新天新地が到来するなら、神様は涙をことごとくぬぐい取って下さいます。そこにはもはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。

 そのような御国が来ますように私たちは祈り、そして神様のために働く地上のテレワーカーでありたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

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軽快に天とつながるテレワーカー意識の勧め(2020.5.3 礼拝)

2020-05-03 13:21:17 | 礼拝メッセージ
2020年5月3日礼拝メッセージ
『軽快に天とつながるテレワーカー意識の勧め』
【使徒1:1~11(交読)、マタイ25:14~23(朗読)】

はじめに
 新型コロナウイルスに世界中が苦しんでいる中で、先々週と先週の礼拝メッセージではヨブ記を開きました。ヨブは大変な苦しみに遭いましたが、苦しみが過ぎ去った後で神様はヨブに、苦しむ前の2倍以上の祝福を与えました。今のコロナウイルスの苦しみが過ぎ去った後にも、神様は私たちに2倍以上の祝福を与えて下さることを私は願っています。これまでの2倍以上の人々がヨブのようなへりくだった信仰を持つようになれば感謝だなと思っています。

 そして、このコロナの苦しみの後のことについて、私はまた新しいことを示されていますから、きょうはそのことをお話ししたいと思います。

 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①激しく変化する世の中で変化を求める人々
 ②キリスト教会も激しく変化する時代に成長した 
 ③使徒たちも私たちも天のために働くテレワーカー
 ④旧約の預言者たちもイエスさまもテレワーカー
 ⑤5タラントと2タラントのしもべもテレワーカー

①激しく変化する世の中で変化を求める人々
 いま私たちの皆が戦後最大の困難の中にあります。世界的にも第二次世界大戦以降、最大の危機であると各国の首脳やメディアが発言しています。そして今や世界中の多くの街でついこの間までの風景とは異なる風景が眼の前に広がっています。この教会がある静岡の田町でも、周辺の飲食店の多くが休業の張り紙をしていて、半月ほど前までの風景とは変わってしまっています。

 そんな中で降って湧いたように、学校の9月入学への変更が議論されるようになりました。慎重論も多いですから実際に9月入学になるのかどうかは分かりませんが、賛成意見もかなり聞かれます。国際的には9月入学が主流ですから、日本人の海外留学がし易くなりますし、海外からの留学生も迎え入れ易くなります。この困難をきっかけにして世の中が良い方向に向かうようになって欲しいと多くの人が望んでいることを感じます。

 或いはまた世界では、これを機会に地球温暖化の防止策を加速させるべきだという主張も盛んになって来ています。皆さんお気付きのことと思いますが、いまガソリン価格が安くなっています。1リットル当たり120円台のガソリンスタンドを多く見かけます。それはいま原油価格が安くなっているからです。飛行機が飛ばなくなり、工場が操業を停止して電力もそれほど必要ではなくなっていますから、原油の需要が減って価格が下がっています。コロナウイルスのおかげで化石エネルギーの使用量が減り、二酸化炭素の排出量が下がっています。

 地球温暖化を防止するための取り組みにもっと真剣に取り組むべきと、高校生のグレタ・トゥーンベリさんなどが激しく主張してもなかなか実現しなかったエネルギー使用の抑制が、コロナウイルスの感染拡大で産業がストップすることで実現しています。コロナウイルスの感染拡大が止まれば多くの工場が操業を再開しますが、産業構造の枠組が変わることで地球温暖化にもブレーキが掛かることが期待できます。

 75年前の終戦後も、人々は変化を求めていました。陸海空軍その他の戦力を保持しないという憲法9条を持つ平和憲法を国民の多くが歓迎したのは、戦争はもうこりごりだという思いから国の軍事力に関しても大きな変化を求めたからだと聞きます。大きな混乱があった時に人は大きな変化を求めることが、この事例からも分かります。

②キリスト教会も激しく変化する時代に成長した
 日本のキリスト教会が大きく成長したのも世の中が大きく変化した時でした。明治維新がそうでしたし、75年前の戦後が正にそうでした。私たちの群れのインマヌエル教団が創設されたのも戦後間もない1945年の10月のことでした。この群れにインマヌエル静岡教会の初代牧師の松村導男先生が合流したことは、皆さんご承知の通りです。日本のプロテスタント教会は戦時中は日本基督教団一つに統合されていましたが、戦後次々と新しい教団が創設されて多くのクリスチャンが誕生すると共に、献身する牧師も続々と与えられました。

 これらのことを考えるなら、21世紀のキリスト教会も、今のコロナウイルスの苦しみが終わった後には大きく変化することが期待されます。既にその兆候は現れています。今、多くの教会が礼拝のライブ配信を始めています。そしてキリスト教メディアのキリスト新聞社がライブ配信している教会のリストをホームページで公開し始めています。掲載を希望する教会はどこでも載せてもらえるようになりましたから、インマヌエルの教会も載せてもらっています。インマヌエル静岡教会も載っています。

 このように多くの教会が礼拝のライブ配信を始めたことによって、今まで教会の礼拝に参加したことが無い方々の目にも触れる機会が格段に高まりました。そうして、コロナウイルスの感染が終息した時には、礼拝に行ってみようという人が必ずいるでしょう。私たちの教会にも来て下されば感謝ですが、日本中の多くの教会がライブ配信を始めていますから、このことがきっかけで新しい方をお迎えする教会は必ずあるでしょう。

 その他にも、これまでの私たちには思いもよらなかった新しい取組みが始まって、キリスト教会は変わっていくのかもしれません。成長する教会と成長しない教会の差がこれまで以上に広がって行くのかもしれません。

 そこで私は来るべき変化の時代に備えて、一つの提案をしたいと思います。それは、私たちはもっと軽やかに天の神様とつながる意識を持つようにしたらどうでしょうか?という提案です。宗教には古臭いイメージがつきまといがちですが、もっと軽やかに天の神様とつながるなら、古臭いイメージも払拭できるかもしれません。

 例えば映画館や演奏会などで携帯電話の電源を切っていて、終わった後に電源を入れます。その時に機種によってはサクッと速くつながるものもあれば、立ち上がりに時間が掛かるものもありますね。軽快にサクッとつながると気持ちが良いものです。私たちは24時間いつでも神様とつながっていたいと思いますが、なかなかそうはいかない場合もあります。神様との回線が切れてしまうこともあります。そんな時でも、電源を入れたら、すぐにまた神様とつながることができるようになりたいと思います。

 そのために、「天のために働くテレワーカー」の意識を持つことを提案したいと思います。テレワークを行う時にはインターネットにサクッと軽快につながらないと、なかなか仕事にはならないと思います。

 今、世界的に外出制限が為されていて、多くの人々が勤務先に出勤しないで自宅にいながらテレワークをしています。テレワークというのは「離れた所」という意味のテレ(tele)と「働く」という意味のワーク(work)を合わせた言葉です。「離れた所」のテレは、テレビのテレビジョン、電話のテレフォーン、電報のテレグラム、望遠鏡のテレスコープ、超能力の一つのテレパシーなど、いろいろな言葉で「テレ」が使われていますね。

 そして今、世の中では「テレワーク」あるいは「テレワーカー」という言葉が頻繁に使われるようになりました。これを機会に、クリスチャンは自分が天の神様のために働くテレワーカーであるという意識を持って、神様とサクッと軽快につながることができるようになると良いなと私は思います。

③使徒たちも私たちも天のために働くテレワーカー
 二千年前の使徒たちもテレワーカーでした。きょうの聖書交読で読んだ使徒の働き1章を開きましょう。有名な使徒1章8節で、イエスさまは弟子たちに言いました。

1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 イエスさまは、弟子たちが聖霊を受けて、イエスさまについて証言する証人になると言いました。そうして9節、

1:9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 イエスさまは天に上って行かれました。そして使徒2章には、五旬節の日に弟子たちが天から聖霊を受けたことが記されています。この日以降、弟子たちは聖霊を通して天の父とイエスさまと連絡を取りながら、人々にイエス・キリストを証しして行きました。聖霊が通信の役割を担ったのですね。現代のテレワークではインターネットを通して会社と連絡を取りながら、会社の仕事をします。二千年前の弟子たちは聖霊を通して天の神様と連絡を取りながら、神様のための働きをしました。ですから弟子たちは立派なテレワーカーであったと言えるでしょう。

 21世紀の私たちも、イエスさまが神の子キリストであると信じるなら誰でも聖霊を受けます。その聖霊を通して私たちは神様とつながることができますから、私たちもまた天の神様のために働くテレワーカーです。私たちの働きは使徒の働き1章8節にあるように、イエスさまの証人になることです。日本人の場合には、クリスチャンであるだけで立派な証人です。欧米人の場合はクリスチャンが多いですから、クリスチャンであるだけでは証人と言えるかどうかは分かりませんが、日本人はクリスチャンが少ないですから、クリスチャンであること自体で立派なイエスさまの証人です。これはすごいことだと思いませんか?頑張って働かなくても、クリスチャンであるだけでイエスさまの証人として働いていることになります。

 スマホが日本で発売されたのは2008年でしたから、今の小学6年生は生まれた時には既にスマホがありました。今14~15歳の中学3年生も、2~3歳の物心が付いた頃にはスマホがありました。ですから、今の10代前半は皆、スマホネイティブです。あと5年経てば10代の若い人たちは皆、スマホネイティブになります。そのようなスマホネイティブがこれからどんどん増えて行くことを考えても、私たちは天の神様と軽快にサクッとつながるテレワーカーという意識を持てると良いなと思います。スマホがサクッとインターネットにつながるように、私たちはサクッと神様につながることができます。
 
④旧約の預言者たちもイエスさまもテレワーカー
 弟子たちは聖霊を通して二千年前からテレワーカーとして働いていました。そして、「聖霊を通して」ということで言えば、旧約の時代の預言者たちもまたテレワーカーということができるでしょう。例えばモーセは聖霊を受けた預言者でした。モーセは聖霊を通して天の父から命令を受けて、イスラエルの民のエジプト脱出を率いました。エリヤやエリシャ、イザヤやエレミヤ、エゼキエルたちも皆、聖霊を受けた預言者ですから、やはりテレワーカーであり、聖霊を通して天の神様のために地上で働いていました。

 さらに言えば母マリアから生まれた人の子のイエスさまもまたテレワーカーでした。イエスさまは30歳の頃に地上での宣教を始めるに当たってバプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。その時、天から聖霊が降ったことが福音書には記されています。聖霊が降った時、天の父は「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:4他)と仰せられました。こうして地上のイエスさまは天の父と聖霊によってつながりながら弟子たちに教えを説いていました。

 しかし十字架に掛かった時のイエスさまは天の父との連絡が途絶えていました。十字架のイエスさまは、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と悲痛な叫び声を上げて息を引き取りました。

 イエスさまは私たち人間の罪を背負って十字架に付きました。人間の罪は神様とのつながりが無くなっていることによって生じます。聖霊は天の神様と地上の人間とをつなぐ連絡役であるだけでなく私たちの内にある罪の汚れを洗い流します。その聖霊は十字架に付いたイエスさまが神の子キリストであると信じれば誰でも受けることができます。多くの方がイエスさまを信じることで聖霊に罪を洗い流していただきき、天の神様とサクッと軽快につながることができるようになっていただきたいと思います。

⑤5タラントと2タラントのしもべもテレワーカー
 最後の5番目のパートに進みます。聖書交読した使徒1章の10節と11節には、次のように書かれています。

1:10 イエスが上って行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た二人の人が、彼らのそばに立っていた。
1:11 そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 天に上ったイエスさまはやがて再臨の時にまたおいでになります。きょうの聖書箇所のマタイ25章の5タラントと2タラント、そして1タラントのしもべの記事には、旅に出た主人がまた戻って来ることが記されています。これは天に上ったイエスさまがまた帰って来ることを示しています。この5タラントと2タラントのしもべもまたテレワーカーですね。一方、1タラントのしもべは何の働きもしませんでしたから、テレワーカーではありませんでした。最後にこのマタイ25章の記事を分かち合いたいと思います。

25:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。

 これはイエスさまが天に上るにあたり、弟子たちに地上での働きを託したことと読み取ることができます。15節と16節、

25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。

 この五タラントのしもべは正にテレワーカーですね。主人とは離れた所にいましたが、いつも主人のことを思って主人のために働いていました。ここには書いてありませんが、聖霊を通して主人と連絡を取り合っていたと考えても良いと思います。続いて17節と18節、

25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。

 二タラントのしもべも主人のために働きましたが、一タラントのしもべは主人のために働きませんでした。そうして主人は戻って来ました。19節と20節、

25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』

 この五タラントのしもべを主人はねぎらいました。

25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 二タラントのしもべにも同じ言葉でねぎらいました。23節です。

25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 私たちは、この五タラントと二タラントのしもべのように、天の神様のために働くテレワーカーでありたいと思います。先ほども言いましたが、日本人の私たちは特別な働きをしなくても、ただクリスチャンというだけで、イエスさまの立派な証人になることができます。そうして、「よくやった、良い忠実なしもべだ」とほめていただくことができます。この素晴らしい恵みを多くの方々と分かち合いたいと思います。

おわりに
 天の神様とすぐにつながることができないなら、神様を遠く感じることでしょう。けれども神様といつでもどこでもサクッと軽快につながることができるなら、神様をとても身近に感じることができます。スマホで育った若い方々にも、サクッと軽快につながる神様が身近にいて下さることの幸いを知ってほしいなと思います。
 そのためにも、先ずは私たち自身が天の神様と軽快につながることができる者たちでありたいと思います。

 お祈りいたします。

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神様について確かな事とは?(2020.4.26 礼拝)

2020-04-26 14:45:04 | 礼拝メッセージ
2020年4月26日礼拝メッセージ
『神様について確かな事とは?』
【ヨブ記4:1~9(交読)、42:7~11(朗読)、Ⅰヨハネ4:13(招詞)】

はじめに
 世界中がコロナウイルスの災いで苦しむ今、私はヨブ記をとても身近に感じていると、先週の礼拝で話しました。先週のメッセージの導入部ではヨブ記に特別な思いを抱いている横田早紀江さんの証しを紹介しました。早紀江さんは娘のめぐみさんが突然いなくなって苦しんでいた時に、友人からヨブ記を読むことを勧められたことで聖書に親しむようになってクリスチャンになったそうです。

 ヨブはどうして自分がこんなに苦しまなければならないかが分からずにいて余計に苦しんでいました。早紀江さんもどうして自分の娘が突然いなくなったのかが分からずにいて苦しんでいました。そして私たちもまた、どうしてコロナウイルスがこれほどまでに世界を苦しめているのかが分からずにいて困惑し、苦しんでいます。

 しかし、ヨブ記の終盤では苦しくて泣き言を言うヨブに対して主は、「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(38:2)と言ってヨブを叱ります。この言葉に私たちはハッとさせられます。そして続けて主は、「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(38:3)と言って私たちを励まして下さいます。泣き言を言っている場合ではないという気持ちになります。

 そこで、前回に続いて今回もヨブ記を開きます。前回はヨブの友人たちのことには全く触れませんでしたから、きょうは友人たちのことを主(おも)に見て行くことにします。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①無実のヨブを罪人扱いした友人たち
 ②友人たちのヨブへの言葉を全く評価しなかった神様
 ③私は神様について確かなことを語っているのか?
 ④聖霊を受けた私たちには救いの確証がある 

①無実のヨブを罪人扱いした友人たち
 ヨブ記は大変に長い書で、42章まであります。そのうち3章から37章まではヨブと友人たちの対話です。42章中の実に35章はヨブと友人たちとの対話です。ちなみに1章と2章は天の神様とサタンとの対話で、38章から42章までの5章は神様とヨブとの対話です。

 3章からのヨブと友人たちとの対話は非常に分かりづらいですから、話を分かりやすくするために、テレビドラマで私たちが良く見る、警察の取調室に例えてみたいと思います。取調室では刑事が容疑者に尋問していますが、実は容疑者は何も犯罪を犯していません。それなのに刑事は容疑者が犯人だと信じていますから、「お前がやったんだろ、さっさと白状しろ」と言って、自白を迫ります。それに対して容疑者は自分の潔白を主張して「私はやっていません」と言い通します。

 ヨブは全身に悪性の腫れ物ができて苦しんでいました。友人たちは、ヨブがこんなにひどい目に遭うのは、彼が罪を犯して神様から罰を受けたからだと考えていました。聖書交読で読んだヨブ記4章の7節をお読みします(旧約p.879)。これは友人のエリファズのヨブへの言葉です。

4:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。

 「さあ、思い出せ」とは、「お前がやった悪いことを思い出せ」ということです。「だれか、潔白なのに滅びた者があるか」とは、「もしお前が潔白なら、こんなひどい目に遭う訳が無いではないか」ということです。ヨブは重い病気で死にそうになっていましたから、友人のエリファズは、神様がヨブを滅ぼそうとしているのだと思い込んでいました。

 しかし、先週ヨブ記の1章と2章で見た通り、ヨブが病気になったのは神様とサタンとの間でやり取りがあったからです。神様はヨブの信仰をほめていました。それに対してサタンは、ヨブの信仰が正しいのは神様がヨブを祝福しているからで、もしヨブを苦しめれば彼は神様を呪うでしょう、と言いました。それで神様は、それならヨブを苦しめてみろと言い、サタンがヨブを苦しめることを許します。ただし彼の命を奪ってはならないと釘を刺します。そういうわけで、ヨブは死ぬ一歩手前のとても苦しい目に遭うことになりました。

 ですから、ヨブが苦しむのは、彼が悪いことをしたからではありませんでした。とは言え、ヨブ自身は、自分が誇れるほど正しい者であるとは思っていません。ヨブが自分の無実を友人たちに言い張るのは、友人たちよりも悪いことをした覚えはないからでしょう。友人たちはヨブを悪者扱いしていますが、ヨブから見れば、自分が友人よりも重い罪を犯しているとは到底思えないからでしょう。

 それでヨブは友人たちに自分の無実を訴えます。6章28節から29節までのヨブの言葉をお読みします。

6:28 今、ぜひ、私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。
6:29 思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。
6:30 私の舌に不正があるだろうか。

 このようにヨブは、自分は不正なことをしていないと友人たちに訴えます。しかし友人たちはヨブが悪いことをしたと思い込んでいますから、これ以降も延々とヨブと友人たちとのやり取りが37章まで続いて行きます。

②友人たちのヨブへの言葉を全く評価しなかった神様
 神様はこれら友人たちとヨブとの対話を、全部聞いていました。神様は友人たちの言葉を全く評価しませんでした。ヨブ記42章の7節をお読みします。

42:7 がこれらのことばをヨブに語った後、はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。

 神様は友人のエリファズたちに向かって怒りました。それは彼らが神様について確かなことを語らなかったからです。友人たちは神様についてたくさんのことを語りましたが、それらを神様はまったく評価しませんでした。

 今回、私はこのヨブ記の友人たちの言葉と、神様がそれらを全く評価しなかったことについて思いを巡らしていて、この友人たちのことが、コロナウイルスの感染拡大について語るテレビの情報番組のコメンテーターのように思えて来ました。コメンテーターとしてテレビ番組に出演するような人たちは、ある意味安全な所にいる人たちです。世界の経済が悪化して大不況になっても直ちにお金に困るような人たちではないでしょう。今月の家賃が払えなくて困っている人とは異なる場所にいる人たちがほとんどでしょう。

 或いは、毎日テレビに出ているコメンテーターのような人たちは、仮に体に異変が生じても、優先的に検査を受けたり入院できたりするようなコネを持っている人がほとんどでしょう。なかなか検査を受けられず、入院もできない人たちとは異なる人がほとんどでしょう。そのような安全な場所にいる人たちが、専門家でもないのにコロナウイルスの感染拡大防止策に関して、或いは行政の経済支援策について、分かったふうなことを語ります。彼らは弱い立場の人のことを、どれだけ分かっているのだろうかと思います。

 ヨブの友人たちも、神様について分かったふうなことを語ります。神様とはこういうお方だとヨブに対して説教します。しかし神様のことが一番分かっていたのは、弱い立場に置かれたヨブでした。もちろん、ヨブにも分からないことだらけです。神様はどうして自分にこんな苦しみを与えるのか分かりません。それでも友人たちに比べれば、ヨブはずっと神様に近いところにいました。

③私は神様について確かなことを語っているのか?
 いま私は、ヨブの友人たちはテレビのコメンテーターのように分かったふうなことを語っていると言いましたが、私が言ったこの言葉は、ブーメランのように私自身に返って来ます。牧師の私は神様についてどれだけ確かなことを語っているのか?私もヨブの友人たちのように、分かったふうなことを語っているだけではないのか?そんな思いにさせられます。

 いま世界のキリスト教会の司祭や牧師の多くは、同じような思いの中にいるのではないかと推察します。神様について何か分かったふうなことをこれまで語って来ましたが、今回の新型コロナウイルスの世界的流行のことを予見していた司祭や牧師はいないでしょう。一人もいなかったかどうかは分かりませんが、いたとしてもごくわずかでしょう。残りの司祭や牧師は誰も、世界がこんなに悲惨なことになることを予見できないままに、神様について分かったふうなことを語って来ました。そうして、今のような悲惨な状況になった中で、神様について何を語るべきか戸惑っています。しかし戸惑ってはいるものの、毎週日曜日には何かを語らなければなりませんから、メッセージが与えられるようにお祈りをして思いを巡らし、説教に臨みます。

 そんなふうに過ごしていた時に私に聞こえて来た神様の言葉が、先週開いたヨブ記38章2節の、神様からヨブへの言葉でした。38章2節、

38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 私もまた、たいした知識もなしに言い分を述べていました。このことが分かって打ち砕かれたように思いました。そうして、そのことを素直に認めるべきだと思いました。自分の神様に関する知識はヨブには到底及びません。分かったふうなことを語っていた友人たちのような者でしたし、その友人たちにも届かない者なのだろうと思いました。そう思うと、いっそう砕かれる思いがしました。粉々にされた思いがしました。

 では、そんなふうに粉々にされた私は、確かなことを語れるでしょうか?神様に「彼は、わたしについて確かなことを語らなかった」と言われないような説教をすることができるでしょうか?

④聖霊を受けた私たちには救いの確証がある
 自分は神様について何か確かなことが語れるのか?そんなことを思っていた時、ふと心に浮かんだのが、きょうの招きの詞のヨハネの手紙第一のみことばです。

4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 私は神様について確かなことは語れないかもしれないけれど、神様が私のうちにおられることだけは確かなこととして語れると思いました。それは私には、聖霊を受けて救われている、という「救いの確証」があるからです。

 ヨブの時代は旧約の時代でしたから、聖霊は一部の預言者たちだけにしか注がれていませんでした。しかし、新約の時代を生きる私たちは、イエス・キリストが神の子キリストと信じる者には誰にでも、聖霊が注がれます。そうして聖霊(御霊)が与えられた者は、ヨハネの手紙第一が書いているように、神が自分のうちにとどまり、神もまた自分のうちにとどまっておられることが分かります。そうして聖霊は内側から私に語り掛けて、いろいろなことを教えて下さいます。

 では、自分のうちには聖霊がとどまっているという確証を私たちはどのようにして得るのでしょうか?それは、聖書のみことばが心に響くという一事をもって、私たちのうちには聖霊がとどまっていると言うことができるでしょう。

 私たちの多くは、聖書に親しむ前は聖書のみことばが特に心に響かなかったという経験を持っているでしょう。それなのにイエスさまを信じて救われてからは、聖書のみことばが強く心に響くようになりました。そうして聖書に親しめば親しむほど、聖書のどこを開いても、一つ一つのみことばが心に響いて、みことばから慰めと励ましを受けるようになります。それは聖霊がうちにとどまっていなければ決してできないことです。

 ですから、もし聖書のどこを開いてもみことばから励ましを受けるなら、その人のうちには聖霊がとどまっています。

おわりに
 私たちの手元に聖書があり、聖書を開くならいつでも慰めと励ましを受けることができるのは、素晴らしい恵みです。これは確かなことです。この確かな恵みのことを、私たちは、広くお伝えして行きたいと思います。

 新型コロナウイルスの感染拡大によって、いま多くの方々が不安と苦しみの中にいます。横田早紀江さんがヨブ記に出会って慰めと励ましを受けたように、多くの方々が聖書に出会って慰めと励ましを受けることを願い、祈っていたいと思います。

 ひと言、お祈りいたします。

「あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった。」

「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」
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神様にはすべてのことができる(2020.4.19 礼拝)

2020-04-19 14:23:04 | 礼拝メッセージ
2020年4月19日礼拝メッセージ
『神様にはすべてのことができる』
【ヨブ記40:1~24、42:1~6】

はじめに
 きょうから聖日の礼拝は当面の間、原則として会衆なしのライブ配信のみとすることになりました。5月10日にはまた、いつものように皆さんとこの会堂に集って共に礼拝を捧げたいと願っていますが、状況次第ではこのライブ配信のみの期間が延びるかもしれません。

 このように新型コロナウイルスが猛威を振るい、世界中が混乱に陥っている中で神様とどのように神様と向き合って行けば良いのか、教会員の皆さんも考えておられることと思いますが、牧師の私もいろいろと考えさせられています。そんな中、ふとヨブ記の主のことばが私の心に響いて来ました。そして、それをきっかけにヨブ記のヨブを以前よりもずっと身近に感じるようになりました。ですから、きょうはヨブ記を皆さんと分かち合いたいと願っています。

 きょうは次の五つのパートで話を進めます。

 ①横田早紀江さんとヨブ記
 ②ヨブ記のように舞台裏が分からないコロナの災い
 ③愚か者は心の中で「神はいない」と言う
 ④苦しむヨブに現れた神様
 ⑤二倍以上の物を与えて下さる神様

①横田早紀江さんとヨブ記
 私がまだ川崎市の高津教会の信徒だった時、同じ川崎市に住む横田早紀江さんはヨブ記をきっかけにして聖書に親しむようになり、クリスチャンになったということを聞きました。横田早紀江さんというのは、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母様です。めぐみさんが拉致された時、早紀江さんの一家は新潟に住んでいましたが、その後、関東に転居して、夫の滋さんが定年退職した後は川崎市に住むようになったということです。川崎市の教会では超教派でご婦人方が集まって拉致被害に遭った方々とご家族のために祈る会も持たれている、ということも聞きました。

 横田早紀江さんは、娘のめぐみさんが行方不明になって精神的につらい日々を送っていました。そのように苦しんでいた時に、友人から聖書を読むことを勧められたそうです。その友人は、まずヨブ記を読むことを勧めたそうです。ヨブ記は聖書の書の中でも分かりづらい書に属すると思いますから、「最初にヨブ記を勧めるなんてスゴイな」と思いますが、当時の早紀江さんはヨブの苦しみに深く共感してヨブ記に引き込まれていったそうです。

 ネット上にはヨブ記との出会いについて語る早紀江さんの動画がアップされていて、私もこの説教を準備するにあたって視聴しました(https://biblelearning.net/encount-55/)。

 ヨブ記を読んだ早紀江さんは、「自分の受けている苦しみはヨブほどではないけれど、ヨブの苦しみがとても良く分かる」と思ったそうです。娘さんが失踪してしまった早紀江さんの苦しみはヨブと変わらないだろうと思います。それなのに自分の苦しみはヨブほどではないとおっしゃる早紀江さんは本当に謙虚な方だなと思います。

 一方、私自身は早紀江さんほどの苦しみを味わったことはありません。高津教会の信徒だった頃も、神学校で学んでいた時も、牧師になってからも、そこそこの苦しみはありましたが、早紀江さんほどの苦しみは味わっていません。ですから、これまで実を言えばヨブ記をあまり良く理解できていませんでした。

②ヨブ記のように舞台裏が分からないコロナの災い
 早紀江さんやヨブのような苦しみを味わっていなかった私ですが、いま新型コロナウイルスで世界中が苦しんでいる中、私自身もその同じ苦しみの中にあります。世界中が苦しみの中にありますから、私もその中にあります。これが今回のウイルスの災いがこれまでの災いと大きく異なる点です。

 北朝鮮の拉致被害に遭った方々の苦しみや東日本大震災の大津波で家族や家や財産を失った方々の苦しみは、本当におつらいだろうなと思うものの、やはり私にとっては、どこか他人事のようなところがありました。しかし、コロナウイルスがもたらした苦しみは世界中を覆っていますから、私もその中にいます。そういう中で、ヨブ記を読んだ時、以前と比べて格段にヨブ記を身近に感じるようになりました。

 ヨブ記のヨブは、どうして自分がこんなに苦しまなければならないのかが分からずにいて、それが苦痛を増し加えていました。ヨブが財産や子供たちを失い、さらに病気になったのは悪魔のサタンと神様との間でやり取りがあったためであることがヨブ記の1章と2章に書かれていますが、舞台裏でそんなことがあったことなどヨブは一切知りません。

 ここでヨブ記の1章と2章を簡単に見ておくことにします。1章8節をお読みします。

1:8 はサタンに言われた。「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」


 これに対してサタンは、ヨブが神を恐れているのは神のあなたが彼を祝福しているからで、もしヨブが財産を失えば彼はあなたを呪うでしょう、と言いました。それで主は言いました。12節です。

1:12 はサタンに言われた。「では、彼の財産をすべておまえの手に任せる。ただし、彼自身には手を伸ばしてはならない。」

 こうしてヨブは自分の財産と子供たちを失いました。それでもヨブは神様への信仰を失いませんでした。それでサタンは今度は、ヨブを重い病気にしてしまえば、神を呪うに違いないと言いました。続いてヨブ記2章の6節と7節をお読みします。

2:6 はサタンに言われた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンはの前から出て行き、ヨブを足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打った。

 こうしてヨブは重い病気に苦しむことになりましたが、神様とサタンとの間でこのようなやり取りがあったことなど知りませんから、ヨブはどうして自分がこんなに苦しまなければならないのか分からずにいて、余計に苦しむことになりました。

 横田早紀江さんも、娘のめぐみさんがどうしていなくなったのかが分からないことが苦しみを増し加えていました。めぐみさんがいなくなったのは北朝鮮が拉致したからだということが分かったのは実に20年後のことでした。それまではめぐみさんがどこでどうしているのか、生きているのか死んでいるのかも分かりませんでした。拉致のことが分かって以降も苦しかったと思いますが、それ以前はもっと苦しかったことと思います。

 今のコロナウイルスによる世界の苦しみも、どうしてこんなことになったのか、私たちには分かりません。一つの地域から始まって世界中に広まったことは分かっていますが、どうして、こんなに世界中が混乱することにならなければならなかったのか、私たちには一切分かりません。一つだけ言えることは、神様はこれらのことをすべてご存知だということです。

 では、神様はすべてご存知なのに、どうしてこんなに悲惨なことが起きるのでしょうか?コロナのことでもヨブ記のように神様とサタンとの間でやり取りがあったのでしょうか?それはないと思います。では、どうしてこんなことが起きるのでしょうか?神様はこの世界をどうしようとしているのでしょうか?或いは、ただ静観しているだけなのでしょうか?それも私たちには分かりません?分からないだけに一層不安が募ります。

③愚か者は心の中で「神はいない」と言う
 このパートの見出しは、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」です。
 この「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」は、詩篇の14篇と53篇の第1節にある言葉です。いま私は、「神様はすべてご存知なのに、どうしてこんなに悲惨なことが起きるのでしょうか?」という問いを発しました。この問いは神様の存在が大前提の問いです。それは私の中に、この詩篇の「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」の御言葉が蓄えられているからだろうと思います。

 私とて、今の世界の悲惨な状況を見るとついつい「神様は本当にいらっしゃるのだろうか?」という不信仰な思いが頭の中をよぎることが、正直を言えばあります。しかし、そう思った瞬間にこの「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」の御言葉が私の心の中に響きますから、そのような思いは瞬時に消えます。

 一方、ヨブの場合は、「神はいない」などとは微塵も思いませんでした。「神はいない」という思いが頭の中をよぎることなど一瞬たりとも、ありませんでした。ヨブにとっては「神はいる」がすべての大前提でした。

 そんなヨブは苦しみの中で神様を恨みます。神様を恨むことはサタンの思うツボではないか、それなのにどうして神様はヨブの信仰を高く評価しているのか、以前の私は良く分からないでいました。

 しかし、今は分かる気がします。ヨブはどんなに苦しい目に遭っても、「神はいない」などとは決して思わなかった、そこがポイントだったのではないでしょうか。
 サタンは2章5節で主に、このように言いました。

「彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」


 しかしヨブが神様を呪うことはありませんでした。恨み言は言いましたが、呪いはしませんでした。神を呪うとは、神を神とは思わないことですから、それは神を否定することであり、「神はいない」ということになります。
 一方、神様を恨むヨブは、神様を神様として認めています。神様を恨むことと呪うこととは根本的に違うのだということが、今回私はコロナの災いの中に置かれてみて、初めて分かったように思います。

④苦しむヨブに現れた神様
 苦しむヨブに神様は38章で現れました。ヨブ記38章1節と2節をお読みします。

38:1 は嵐の中からヨブに答えられた。
38:2 知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 主は、神様に恨み言を言うヨブのことを、知識もなしに言い分を述べていると言いました。知識が無いとは、例えば4節ですね。

38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。分かっているなら、告げてみよ。

 神様が大地を造られた時、ヨブはまだ生まれていませんから、神様がどんな風にこの大地を造ったのか、ヨブは知りません。或いは31節、

38:31 あなたはすばるの鎖を結ぶことができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。

 天の星々も神様が造りました。ヨブがその造り方を知るはずがありません。神様は人間の想像を遥かに超えたお方であり、人間の知識では想像が及ばない領域のお方です。その神様に向かって恨み言を言うヨブは神様から見れば「知識もなしに言い分を述べる者」です。
 そして主は40章の2節で言いました。40章の1節と2節、

40:1 はヨブに答えられた。
40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。

 神様がどんな風に天地を創造し、万物を創造したのかヨブは知りません。そんなヨブに神様を責める資格はありません。ヨブは主に答えました。40章の3節と4節、

40:3 ヨブはに答えた。
40:4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

 21世紀を生きる私たちもまた、取るに足りない者です。20世紀から21世紀に掛けて科学は急激な発展を遂げました。この科学の力によって私たちは大きな恩恵を受けました。しかし、発達した科学技術を持つ現代人でもコロナウイルスの世界中への拡散を止めることができませんでした。いまアメリカやフランスなどの軍艦の中でウイルス感染者が多発していると報じられています。軍艦には現代の最高の科学技術がぎっしり詰まっています。そのような軍艦もウイルスには勝てませんでした。人間の力の小ささを思います。

 私たち人間の力では生命を作り出すことができないのですから、ウイルスに翻弄されるのも仕方がないことです。たとえば人間にカバを造る力があるなら、ウイルスも簡単に退治できるのかもしれません。40章の15節から19節まで、

40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。牛のように草をはむ。
40:16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。
40:17 尾は杉の木のように垂れ下がり、ももの筋は絡み合っている。
40:18 骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。
40:19 これは神の作品の第一のもの、これを造った者が、その剣でこれに近づく。

 神様はカバを造りました。しかし人間にカバを造る力はありません。例えばクローン技術を使ってカバの複製を造ることならできるかもしれませんが、細胞を一から造って生命を造ることはできません。神様は初めに何も無いところから生命を造り、カバを造り、私たち人間も造りました。人間には決してそのようなことはできません。しかし、神様にはできます。

 ヨブは42章で言いました。1節から3節、

42:1 ヨブはに答えた。
42:2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
42:3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。

 私たちも、このヨブの信仰に立ちたいと思います。

 科学技術が発達した現代を生きる私たちは、あまりにも傲慢になり過ぎていたのではないでしょうか?様々な知識を獲得して、分かったつもりになっていたのではないでしょうか?しかし私たちの実態は、目に見えない小さなウイルスに怯えて苦しむ弱い者です。私たちはそれほどまでに小さくて弱い存在です。

 今こそ私たちはヨブの信仰に習って、へりくだりたいと思います。

⑤二倍以上の物を与えて下さる神様
 42章の10節に、主はヨブの財産をすべて二倍にされた、とあります。10節をお読みします。

42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、はヨブを元どおりにされた。さらにはヨブの財産をすべて、二倍にされた。
 
 きょうはヨブの友人たちのことは一切話しませんでしたが、ヨブが友人たちのために祈った時、主はヨブの病気を治し、元の二倍の財産を与えました。さらに、ヨブは多くの祝福を得ましたから、二倍以上のものを得たと言えるでしょう。

 このハッピーエンドに関しては、神様は気前が良すぎるんではないか、という感想をどこかで読んだことがあります。もともとヨブは神様に祝福されていて裕福だったのだから、二倍ではなく元通りに戻すだけでも十分ではないかという訳です。私も以前は、そんな風に思っていたこともありました。

 しかし今、コロナの災いの中にあって、神様が二倍以上を与えて下さることは大きな励みになります。今のコロナウイルスの苦しみもいつかは終わるでしょう。いつ終わりになるのかは、分かりませんがいつか必ず終わります。その時には神様は二倍以上のものを私たちに与えて下さるという希望をヨブ記は与えてくれます。

 ただし、神様が与えて下さるのは物質的な財産ではなく、信仰という財産でしょう。例えば、もしかしたらこの私自身もウイルスに感染して倒れるということも有り得ます。しかし、仮に私が倒れても、コロナの災いが終息した後に、多くの方々がヨブのようにへりくだった信仰を持つようになるのなら、それは大きな祝福です。

 私はこのことを大いなる希望として待ち望んでいます。このことを是非、皆さんと分かち合いたいと思います。

 ひと言お祈りして、きょうのメッセージを閉じます。

42:10 はヨブを元どおりにされた。
さらにはヨブの財産をすべて、二倍にされた。
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キリスト教会の非常事態宣言(2020.4.12 イースター礼拝)

2020-04-13 08:27:12 | 礼拝メッセージ
2020年4月12日イースター(復活祭)礼拝メッセージ
『キリスト教会の非常事態宣言』
【ヨハネ20:11~18】

はじめに
 今年のイースター(復活祭)の礼拝は、大変な中で行うことになりました。2020年のイースターは忘れ得ないものになることでしょう。十字架で死んで陰府(よみ)に下ったイエス・キリストは三日目に死からよみがえりました。きょうは、世界中のキリスト教会でこのことが祝われます。しかし、コロナウイルスの猛威で信徒が会堂に集まることができない教会が世界中にたくさんあります。世界の首脳の多くが第二次世界大戦以降、最大の危機と言っていますから、まさに非常事態の中にあります。きょうのイースターを境に、コロナウイルスの感染拡大が収束へと向かうように強く願いながら、メッセージを取り次がせていただきます。

 きょうの礼拝メッセージは次の四部構成で話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①新約聖書はキリスト教会の非常事態宣言
 ②父と一つであるイエス・キリスト
 ③ユダヤ教との分離が進んだ紀元70年以降
 ④万物の創造主にしか鎮められないコロナ禍

①新約聖書はキリスト教会の非常事態宣言
 きょうの説教のタイトルには、「非常事態宣言」という言葉を入れました。

 これまで私は聖書のことを多くの場合、「心の平安を与えてくれる書物」という目で見ていました。これまでに周囲では様々なことが起き、私自身の身にも様々なことが起きましたが、それらは限定的な範囲に限られたものでした。東日本大震災の時も、私がいた横浜でも大きな揺れがあり、余震もずっと続いていましたが、2週間後に遣わされた京都ではまったく揺れが無く、平穏でした。あれだけの広範囲に被害をもたらした震災であっても、やはり限定的なものなのですね。揺れない場所いる時、私にとっての聖書はやはり、「心の平安を与えてくれる書物」でした。

 しかし今、世界全体がコロナウイルスの猛威に圧倒されています。世界各国で非常事態宣言が出され、日本でも大都市圏に緊急事態宣言が出されました。そのような中で聖書を読む時、聖書は「非常事態宣言」を集めた書物であると言えるかもしれない、ということに気付かされています。特に新約聖書はその雰囲気が濃厚であると感じます。

 例えば、新約聖書の『ガラテヤ人への手紙』の中でパウロは、「ああ、愚かなガラテヤ人」(ガラテヤ3:1)と書いて極めて強い調子でガラテヤ人を叱責しています。当時は「割礼派」と呼ばれるユダヤ人たちが、異邦人もモーセの律法を守らなければ救われないと主張していました。イエス・キリストを信じるだけではダメで、ちゃんと律法を守って割礼も受けなければならないと教えていました。この「割礼派」の教えを信じてしまったガラテヤ人の信仰の弱さをパウロは嘆き、イエス・キリストを信じる信仰のみが大切であることを説いています。この『ガラテヤ人への手紙』は一つの「非常事態宣言」と見ることができるでしょう。

 或いはまた、『ヘブル人への手紙』は、激しい迫害によって心が折れそうになっているヘブル人たちを励ますことが執筆目的の一つになっています。迫害が強まっている中でのこの『ヘブル人への手紙』もまた、「非常事態宣言」の一つと言えるでしょう。

 さて、きょう注目する聖書箇所は、ヨハネの福音書の20章17節です。これは復活したイエスさまがマグダラのマリアに言ったことばです。お読みします。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 きょうの礼拝は復活祭の礼拝ですから、復活したイエスさまがマリアに現れた場面を取り上げましたが、ここからも「非常事態宣言」の空気が伝わって来ます。ヨハネは、イエスさまが十字架に掛かった紀元30年頃の出来事を書いていますが、ヨハネがこの福音書を書いた時期は、1世紀末の紀元90年代です(諸説ありますが、多くの学者が紀元90年代説を支持しています)。この『ヨハネの福音書』はマタイ・マルコ・ルカが60~70年代に書いた福音書とは大きく内容が異なります。それゆえ、執筆当時の時代背景が少なからず反映されていると考えるのが自然だと思います。

 1世紀末にはどんな非常事態が発生していたのか、『ヨハネの福音書』から読み取れることを分かち合い、いま私たちが直面している困難に適用したいと思います。
 
②父と一つであるイエス・キリスト
 復活したイエスさまはマグダラのマリアに「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです」と言いました。ここで注目したいのは、イエスさまはまだ「天に上っていない」と言ったのではなく、「父のもとに上っていない」と言ったことです。イエスさまは本来は「父のもと」にいるお方であり、私たちがすがりつくべきは、父と共におられるイエスさまなのですね。

 『ヨハネの福音書』は、神の御子イエス・キリストが天の父と共にいるお方であることを、いろいろな箇所で書いています。この福音書の最初の出だしからそうですね。『ヨハネの福音書』は、

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

で始まります。「神」とは「天の父」のことです。ヨハネは冒頭でイエス・キリストが父と共におられたことをしっかりと書いています。或いはまた、同じヨハネ1章で、

1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

とも書いています。イエスさまが父と共にいることを、ヨハネは「父のふところにおられる」と表現しています。

 天の父と共におられるイエスさまは「父と一つ」ですから、イエスさまはご自身でも、

10:30 「わたしと父とは一つです。」

と言っています。また、最後の晩餐(ヨハネ13~17章)でイエスさまは天の父に次のように祈りました。

17:21 「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」

 その他にも多くの箇所でヨハネはイエスさまが父と一つであることを書いています(ヨハネ8:24,28,58他の「わたしはある」と言うイエスさまも父と一つであることを示しているでしょう)。

 では、なぜ『ヨハネの福音書』はこんなにも天の父とイエスさまとが一つであることを強調するのでしょうか?いろいろ考えられますが、きょうは今のコロナウイルス禍に適用できることに限定して話すことにします。

 考えられることの一つとして、「父と一つであること」を強調しなければ、神様であるイエスさまがどんな神様であるかが分からなくなるという危険があっただろうと思います。キリスト教はパウロたちの働きによって地中海沿岸一帯に広がっていました。これらの地域は、もともとは多神教の神々が信じられていた所でした。そのような多神教の伝統のある地域ではイエス・キリストも「数多くの神々の一人」として見られる危険があったのではないでしょうか。

 日本もまた多神教の国ですから、いろいろな神々が信じられていますね。東照宮に祀られている徳川家康も神です。菅原道真も学問の神として崇められています。私は姫路教会にいた時に、忠臣蔵の赤穂浪士の地元の赤穂市を訪ねたことがあります。そこには大石内蔵助と四十七士らを祀る大石神社があることを、赤穂を訪ねて初めて知りました。そして大石神社の中を歩きながら、「へ~、大石内蔵助も四十七士も神様なんだ。日本では本当に誰でも神様になるのだな」とつくづく思いました。

 そういう多神教の土壌がある日本ですから、イエス・キリストもたくさんいる「神々の一人」だと思われているのでしょうね。私が教会に導かれる前のことを思い返してみても、聖書の天の神様のことをまだ何も知りませんでしたから、確かにイエス・キリストのことを「神々の一人」として見ていたように思います。

③ユダヤ教との分離が進んだ紀元70年以降
 ここで1世紀の末の、当時の時代背景について考えてみたいと思います。

 重要な史実として、紀元70年にエルサレムがローマ軍の攻撃によって陥落し、エルサレムの神殿も炎上して失われたことがあります。エルサレムの住民も散り散りになり、神殿が再建されることは二度とありませんでした。このことによってユダヤ教とキリスト教との分離が加速して行きました。

 ペンテコステの日に聖霊を受けたペテロたちが宣教を力強く開始した時、ペテロたちには「キリスト教」を新しく始めたという思いは一切ありませんでした。これが正当なユダヤ教であると信じていました。イエスさまこそがイザヤ書(61:1)やダニエル書(9:25)で預言されたメシア、すなわち油注がれた者であると信じていました。

 しかし、ユダヤ人たちの多くはそれを信じませんでした。十字架に磔になった者、すなわち木に掛けられて呪われた者(申命記21:23)がメシアである筈がないと考えました。サウロと呼ばれていた頃のパウロも同様で、ペテロたちの主張を異端だとして激しく迫害しました。

 このようにキリストの教えはユダヤ教側から見れば異端と見なされていましたが、それでもエルサレムに神殿があった頃はまだ、ユダヤ教の人々もユダヤ人クリスチャンたちも同じ場所で同じ神様を礼拝していました。異邦人は神殿に入ることが許されていませんでしたが、神殿が存在することで、イエス・キリストは神殿で礼拝されている天の父と一つのお方であるという信仰は保たれていたことでしょう。

 それが、エルサレムの神殿が炎上して失われ、ユダヤ教とキリスト教との分離が加速してからは、イエスさまが聖書の神と一つであることが、特に異邦人クリスチャンの間で怪しくなってしまったことが考えらます。日本人に当てはめるなら、イエス・キリストは徳川家康や菅原道真や大石内蔵助と同じような神々の一人に過ぎないと思われるようになって行ったことが考えられます。

 しかし、イエス・キリストは天の父、すなわち聖書の神と一つのお方です。もう一度、『ヨハネの福音書』の出だしを今度は3節まで読みますから、聞いていて下さい。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

④万物を創造した神なら鎮められるコロナ禍
 ヨハネが福音書の冒頭で書いたように、イエスさまは天の父と共に万物を創造したお方です。

 ここでもう一度、きょうの聖書箇所のヨハネ20章17節をお読みします。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」

 イースター礼拝のきょう、この箇所を開くのは、イエスさまが天の力ある神と一つであることを、改めて確認して、いま世界が苦しんでいるコロナウイルスの猛威を鎮めていただきたいと願うからです。万物を創造した神様なら、コロナウイルスを鎮めることができます。

 十字架で苦しみを受けたイエスさまは、苦しむ私たちと共に苦しんで下さるお方ですが、同時に力ある神として、嵐を静め、コロナの災いも鎮めることができるお方です。私たちはこの力ある神であるイエスさまにすがりつきたいと思います。

 天に上る前のイエスさまは、特定の場所にいる人しか救うことはできませんでしたが、天の父のもとに上ったイエスさまは世界中の苦しんでいる人々を救うことができます。

おわりに
 私たちはこの天の父とイエスさまに、どうかこのコロナウイルスの災いを鎮めて下さいとすがりつきたいと思います。

 天の父は十字架で死んで陰府(よみ)に下ったイエスさまをよみがえらせることができる全能の神様です。イエスさまはこの全能の神さまと一つのお方であり、コロナウイルスを鎮めることができるお方です。

 このことを思いながら、しばらくご一緒にお祈りいたしましょう。
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苦難を予知して共に苦しむイエス・キリスト(2020.4.5 礼拝メッセージ)

2020-04-06 09:43:03 | 礼拝メッセージ
2020年4月5日礼拝メッセージ
『苦難を予知して共に苦しむイエス・キリスト』
【マタイ21:1~11(交読)、マルコ15:6~15(朗読)】

はじめに
 きょうから受難週に入ります。きょうの聖書交読ではマタイの福音書を開いて、エルサレムのすぐ近くまで来たイエスさまを民衆が熱狂的に歓迎した記事をご一緒に読みました。この場面について、ヨハネの福音書では人々がしゅろ(新改訳2017年版では、なつめやし)の枝を持って迎えたとありますから、受難週に入る今日の聖日を「棕櫚の聖日」と言います。

 受難週に入る今日の「棕櫚の聖日」のメッセージは、次の四部構成です(週報p.2)。

 ①自身の受難を予知していたイエス・キリスト
 ②群衆の大きなエネルギーが必要だった十字架
 ③未来が見えていない私たち
 ④苦難を予知して共に苦しむイエス・キリスト

①自身の受難を予知していたイエス・キリスト
 民衆に熱狂的に歓迎されてエルサレムに入ったイエスさまは4日後の夜遅くに捕らえられて5日後に十字架に付けられて死にます。これから数日後に主イエスが死んでしまうことを弟子たちは知りませんでした。しかし、イエスさまご自身は知っていました。例えばマルコの福音書のイエスさまは8章31節、9章31節、10章34節で三度、ご自身が苦しみを受けることを弟子たちに予告しています。
 
マルコ8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

マルコ9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。

マルコ10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

 このようにイエスさまは三度も予告していますが、弟子たちはイエスさまのこの予告をほとんど理解できていませんでした。仮に多少は理解できたとしても、このことが間近に迫っているとは全く思わなかったでしょう。もっとずっと遠い将来のことだと思ったでしょう。
 弟子たちに限らず、私たちは皆、未来に起きることに関しては疎いのが常です。近い将来、静岡も必ず大地震に襲われると予告されていて一応備えていますが、今一つ切迫感が無いというのが正直なところでしょう。

 或いはまた、いま世界はコロナウイルスの感染者が増大して大変なことになっています。現在アメリカで起きていることが数週間後には日本でも起きると予告されていますが、なかなか実感が湧きません。どこか対岸の火事のようなところが自分の中にあることを感じます。もちろんそれではダメですから、しっかり備えたいとは思いますが、やはり未来のことにはなかなか実感が伴いません。

 しかし神の子であるイエスさまは、ご自身の身にこれから起きる十字架刑のことを、しっかりと把握しておられました。そして、このことが確実に成就するために、大胆な行動を取りました。

②群衆の大きなエネルギーが必要だった十字架
 聖書交読で読んだ通り、イエスさまがエルサレムに近づいた時、人々は熱狂的に歓迎しました。このエルサレム入京の記事はマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書のすべてにありますが、マタイを選んだのは、騒ぎの大きさをマタイが最も良く伝えていると感じたからです。マタイ21章をもう一度開いて下さい。マタイは21章の10節と11節にこう書いています。

マタイ21:10 こうしてイエスがエルサレムに入られると、都中が大騒ぎになり、「この人はだれなのか」と言った。11 群衆は「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言っていた。

 都中が大騒ぎになったのは、イエスさまがロバに乗っていたからでしょう。21章の4節から9節までを交代で読みましょう。

21:4 このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
21:5 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」
21:6 そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。
21:8 すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。
21:9 群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」

 イエスさまは旧約聖書のゼカリヤ書で預言されていた、ロバの子に乗ってやって来るという方法でエルサレムにやって来ました。このことで人々は熱狂的にイエスさまを歓迎しました。それにしてもイエスさまは、なぜこんなにも目立つ方法を用いたのでしょうか?それはイエスさまが十字架に付けられるためには、群衆の大きなエネルギーが必要だったためであろうと私は考えています。

 例えば私たちが生きる現代の殺人事件を考えてみます。刑事が登場するドラマなどを見ても分かるように、よほどの憎しみが無ければ人が人を殺すには至らないでしょう。それほどの憎しみがどうして生まれるのか?それは憎む前に相手のことを深く愛していたからでしょう。あるいは信頼して大いに期待していたからでしょう。その愛や信頼・期待の裏返しとして憎しみや不信・失望に変わり、殺人という大きなエネルギーが必要な罪を犯してしまいます。

 無差別殺人のような場合でも、犯人は殺した相手には恨みが無くても社会を恨んでいたというケースが多いようです。なぜ社会を恨むようになったのか、それは恨む前には何らかの期待を持っていたからでしょう。

 このように人が殺される前には何らかの期待があり、それが失望に変わることで殺人事件が起きることが多いのだと思います。イエスさまの場合も、十字架で殺される前に、人々の大きな期待が必要だったのだと思います。なぜなら死刑を決めた総督のポンテオ・ピラトは、イエスさまは無実だと知っていたからです。無実のイエスさまが死刑になるためには、群衆の大きな憎しみ・失望のエネルギーが必要だったのだと思います。

 今度は聖書箇所のマルコ15章を開きましょう(新約p.102)。10節には、こう書かれています。

マルコ15:10 ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。

 つまりピラトはイエスさまが無実であることを知っていました。そして11節、

15:11 しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。

 祭司長たちが群衆を扇動したので、人々のボルテージは段々と上がって行きます。そこで12節と13節、

15:12 そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
15:13 すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」

 群衆はますます熱くなって行きました。それでもピラトはイエスさまが無実と分かっていましたから、なおも言います。14節、

15:14 ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」

 群衆は「十字架につけろ」と激しく叫び続けました。これを放置すると群衆が暴徒化して収拾がつかなくなる恐れがあります。それでピラトは無実のイエスさまを十字架に付けることにしました。15節、

15:15 それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 群衆のボルテージがここまで上がったのは、やはりイエスさまがロバの子に乗るという目立つ方法でエルサレムに来て、人々が熱狂的に歓迎したからだと思います。もしイエスさまがひっそりとエルサレムに入っていたなら、こんなにも群衆が騒ぐことは無かっただろうと思います。ピラトはイエスさまが無実と知っていましたから、群衆が騒がなければ十字架に付けることはなかったでしょう。ですから、イエスさまはすべてを見越した上で、確実に十字架に付くために、ロバの子に乗って派手に振舞ったのだと思います。

③未来が見えていない私たち
 最初に見たマルコ8章、9章、10章のイエスさまの言葉の通り、イエスさまはご自身がやがて苦しみに遭うことをご存知でした。

 それに対して弟子たちも、そして私たちも未来のことには全く疎い者たちです。「一寸先は闇」というのは本当だなあとつくづく思います。ここで、私が最近経験した三つの体験談を話させて下さい。

 三つのうちの一つは皆さんと共通の体験で、コロナウイルスのことです。私たちは皆、コロナウイルスのことで世界がこんなことになろうとは、1月の時点では思いもしなかっただろうと思います。1月には中国の武漢で多くの人が新型コロナウイルスに感染したとニュースになっていましたが、それが中国以外の国にこんなにも広がろうとは、ほとんどの人が思っていなかったでしょう。WHO(世界保健機構)の専門家も楽観視していたと思います。

 二つめは私個人のことです。ひと月前の礼拝メッセージで、教会の2階にキジバトが巣を作って子育てをしていると話しましたね。このハトの子は、あともう少しで巣立ちというところで、カラスに連れ去られてしまいました。その日、窓の外で音がしたので窓を開けて見たら、ちょうどカラスがハトの子を口にくわえて飛び去るところでした。私は思わず「わ、わ、わ、」と声を出してしまいました。そしてカラスは駐車場を隔てた隣の建物の上に一旦ハトの子を置いて嘴(くちばし)でつついてトドメを刺し、再び口にくわえて飛び去りました。

 この残酷な場面を目撃して、私はしばらくの間呆然としていました。連れ去られる30分前には、いつものようにスマホでハトの子の写真を撮っていました。まさかその30分後にカラスに連れ去られることになるとは、全く思っていませんでした。ヒナが小さい頃はカラスに狙われないか心配でしたが、成長するに連れて、すっかり油断していました。後から考えると、賢いカラスはハトの子が食べ頃に成長するまで待っていたのだろうなと思います。

 ハトの子がカラスに襲われた時、「一寸先は闇だ」とつくづく思いました。そして、その時もとても悲しかったのですが、その半月後にもっと悲しいニュースに接することになろうとは、ぜんぜん思っていませんでした。

 5日前の3月31日の火曜日、映画の佐々部清監督が亡くなったと知り、あまりに突然のことで信じられない思いで私は呆然としました。佐々部監督は29日の日曜日までネットで発信していました。29日は今日の時点でもわずか1週間前で、Facebookやツイッターでは1週間前の佐々部監督の発信を今でも読むことができます。

 佐々部監督は毎年3月頃に清水区で行われているチャリティー上映会にここ何年か続けて来ていました。今年も3月中旬に佐々部監督作品の上映とトークショーが予定されていて私も参加予定でしたが、残念ながらコロナウイルス対策で中止になりました。それでも、ここ何年かは毎年、年に2~3回ずつファンの集いや映画・ドラマの撮影のエキストラ出演で佐々部監督に会って挨拶をしていましたから、またそのうち会えるだろうと思っていました。その監督が突然亡くなってしまいました。死因は心疾患ということで、滞在先の下関のホテルで火曜日の朝、死んでいるのが見つかったそうです。

 佐々部監督に初めてお会いしたのは2004年、私が東工大の留学生センターで日韓プログラムという、韓国人留学生の予備教育を担当していた時でした。16年前の2004年に私は渋谷の映画館に『チルソクの夏』という映画を観に行きました。この映画は日本の下関の女子高生と韓国の釜山の男子高校生との純愛物語です。日韓プログラムを担当していた私はこの映画の評判を聞いて早速観に行きました。そして、とても感銘を受けたのでパンフレットを買って帰りました。そのパンフレットに佐々部監督の写真が出ていました。そして、次に新宿の映画館に二度目にこの映画を観に行った時、パンフレットの写真に似た人がいたので「監督さんですか?」と声を掛けて、「そうです」ということでしたので、パンフレットにサインをしてもらいました。

 そうして私は職場の留学生センターで、日韓プログラム5周年記念事業として『チルソクの夏』上映会と佐々部清監督講演会を開催したいと会議に諮ったところ、この企画が通りました。そうして、この上映会と講演会を行ったことで多くの新しい仲間ができて交流が始まり、佐々部監督が撮る映画やドラマにもエキストラ出演するようになりました。中でも広島でロケが行われた映画の『夕凪の街 桜の国』は私も熱心に応援して、広島へ何度も行きました。そうしてこのことを通じて平和の問題にも一層関心を持つようになり、広島へ行くといつも平和公園で「私を平和のために用いて下さい」という祈りをささげるようになりました。そして、この平和への思いが牧師に召し出されることにつながって行きました。

 ですから、佐々部監督との出会いによって私の人生は大きく変わりました。その佐々部監督がほんの数日前にあまりに突然に亡くなってしまいました。まだ62歳でしたから、こんな形でもう会えなくなるとは、まったく予期していませんでした。

④苦難を予知して共に苦しむイエス・キリスト
 人間には一寸先の未来が本当に分からないのだなと、つくづく思います。東日本大震災の大混乱の時にも思いましたが、今回再びコロナウイルスのこと、ハトの子のこと、そして佐々部清監督のことを通して、改めて人間には先が見えないことを思い知らされています。そして、これがイエスさまと私たちとの大きな違いだと感じています。もちろん他にもイエスさまと私たちの間にはいろいろと異なることがありますが、神の子のイエスさまは人の子でもありますから、人としてのイエスさまに私たちは近づいて行くことができます。しかし、神の子として未来を知るイエスさまのようには、この世にいる限りはなれないのですね。

 イエスさまはこれから先に起きることを知っておられます。それは、先のことは既に決まっているという意味ではなく、先のことを知っておられるから、進路変更ができるように導いて下さいます。そうして未来に起きることが変わる可能性があるからこそ、私たちは祈ります。すべてのことが決定済みなら祈る気にはならないでしょう。

 では、未来が変わる可能性があるなら、どうして私たちが住むこの世は、こんなにも悲しみに満ちているのでしょうか。それは、この世はエデンの園の外にありますから、この世が悲しみと苦しみに満ちているのは仕方がないことなのですね。この世は罪のために様々なことが歪んでいますから、悲しみと苦しみがあるのは仕方のないことです。だからこそ、神様は黙示録21章の「悲しみも苦しみもない新天新地」へと私たちを導こうとしておられます。黙示録21章4節(週報p.2)には、このようにあります。

黙示録21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。

 この新天新地に至るまでには、残念ながら私たちは苦しみと悲しみから逃れることはできません。しかし、未来のことを知るイエスさまが私たちのそばにいつも十字架のイエスさまがいて、共に悲しみ、苦しんで下さっています。十字架のイエスさまは私たちの罪だけでなく、悲しみも苦しみも背負って下さり、共に苦しんで下さっています。何と大きな慰めでしょうか。

おわりに
 イエスさまはご自身が苦しみに遭うことを、そのずっと前からご存知でした。しかし、私たちは、この先にどんな苦しみや悲しみが待ち受けているのか分かりません。それでも、この先に起きることを知るイエスさまが共にいて下さり、共に苦しみ、悲しんで下さいます。今すでにもう苦しみと悲しみの中にありますが、イエスさまが共にいて下さっています。十字架を仰ぐと心が平安になるのは、それゆえなのですね。共にいて下さるイエスさまに心から感謝したいと思います。

 猛威を振るうコロナウイルスによって多くの人が苦しみ、悲しんでいる今、イエスさまが共にいて下さる恵みを多くの方々に知っていただきたいと心の底から思います。

 お祈りいたしましょう。
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神様の働きを見られるようにした聖書(2020.3.29 礼拝)

2020-03-30 07:55:53 | 礼拝メッセージ
2020年3月29日礼拝メッセージ
『神様の働きを見られるようにした聖書』
【使徒20:35、第一ペテロ1:8、ルカ10:25~37】

はじめに
 いま日本も世界もコロナウイルスの感染者の増大が止まらずに大変なことになっています。今週の礼拝メッセージも、今のこの状況下で示されていることを話したいと思います。

 いま示されているメッセージは、「困難な時ほど聖書に親しむべき」であるということです。クリスチャンはもちろんですが、クリスチャンでない方々にも、聖書のことを知っていただきたいと思います。不要不急の外出や移動を避けるようにという要請が多くの自治体の長から出されていますから、この機会に聖書を読んでみようという方が一人でも二人でも増えることを願っています。

 きょうの礼拝の後ではギデオン協会の兄弟からの証しもあります。ギデオン協会は一人でも多くの方々に聖書を読んでもらいたいと願って聖書の寄贈を行っています。きょう私たちは、一人でも多くの方が聖書に親しむようになることを願いながら、聖書について思いを巡らしたいと思います。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①菌やウイルスと同様に目に見えない神様の働き
 ②イエスさまの働きを見られるようにした福音書
 ③弟子たちの宣教の時代より後に書かれた福音書
 ④四つの福音書は見えないイエスを見せる顕微鏡
 (マタイ・マルコ・ルカは光学顕微鏡、ヨハネは電子顕微鏡)

①菌やウイルスと同様に目に見えない神様の働き
 いま私たちは毎日のようにテレビや新聞で新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真を目にしています。ウイルスはあまりに小さいので光学顕微鏡でも見えません。電子顕微鏡でようやく見えます。このようにウイルスや細菌など病気の原因になる病原体の多くは小さくて肉眼では見えませんから、知らないうちに口や鼻から体内に取り入れてしまいます。目に見えない細菌やウイルスは本当に厄介です。

 ただし目に見えない菌類は、悪者ばかりではありません。パンや味噌やヨーグルトなどの発酵食品を作るのに必要な酵母菌や乳酸菌などは私たちの生活に欠かせない菌ですね。これらの菌も小さいですから発見されたのは顕微鏡が使われるようになってからです。大体17世紀頃だそうです。聖書にも発酵を利用して作るパンやぶどう酒が頻繁に登場します。当時は、どうしてパンやぶどうが発酵するのかの仕組みは分からずに経験だけで作られていたのですね。その見えない状態が17世紀頃まで続きました。酵母菌や乳酸菌は目には見えないところで人間の役に立つ良い働きをして来ました。
 さて、神様の働きもまた目には見えません。しかし、神様の働きは聖書によって明らかにされています。新約聖書は1世紀に書かれましたから、菌類が顕微鏡で見られるようになった17世紀よりもずっと前、1600年ぐらい前から、見える形になっていたのですね。これは凄いことだと思いませんか?

 神様の働きは見えないところで私たちに大きな影響を与えています。例えば使徒の働きはパウロの次のような言葉を記しています(週報p.2)。

使徒20:35 「このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」

 弱い者を助けることは簡単にできることではありませんが、そうするのが良いことを私たちは聖書を読む前から知っていました。「受けるよりも与えるほうが幸いである」ということも、なかなか実践できない難しいことですが、そうしたほうが良いことは聖書を読む前から知っていました。それはつまり、聖書を読まなくてもイエスさまの教えがちゃんと体の中に入っていたからです。神様は人を作った時に人の鼻にいのちの息を吹き込みました。この時、既に「弱い者を助けなければならないこと」や「受けるよりも与えるほうが幸いである」という教えも神様が鼻から吹き込んでいたのですね。

 すべての人は神様によって作られましたから、聖書を読んでいなくても、このような行動が良いことであることを無意識の中で知っています。東日本大震災の津波の被害では他の人を助けることを優先して自分の命を落とした方がたくさんいます。それら亡くなった方々の多くは聖書を読んでいなかったでしょう。それなのに自分よりも他人を助けることを優先したのは、そうしたほうが幸いであるという教えが鼻から吹き込まれていたからだと思います。人は生まれながらにして、これらの「良い性質」を持っています。

 ただし、自分を犠牲にしてまで人を助けることはそんなに簡単なことではないこともまた、私たちは知っています。それは私たちの中に「罪」があって、この「良い性質」の働きを邪魔しているからです。この罪は細菌やウイルスなどの悪い病原体に例えることができるかもしれません。普段の私たちは罪によって、この良い性質が表に表れにくくなっています。しかし、東日本大震災での大津波のような極限の状況下では、罪によって抑えられていた良い性質が表れるのでしょうか。

②イエスさまの働きを見られるようにした福音書
 いま話したように私たちの中には、「良い性質」が生まれつき備わっています。しかし、私たちの中には「罪」もまたあるために、この「良い性質」が表れにくくなっています。イエス・キリストがこの世に生まれて人々に教えを説いた主な目的の一つは、この「良い性質」と「罪」のことを目に見える形で教えるためでした。

 そうして四つの福音書、すなわちマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書はこれら「良い性質」と「罪」について宣べ伝えるイエス・キリストを描いて、読者に神様の働きが見えるようにしています。

 きょうの聖書箇所のルカ10章の記事は「良きサマリア人」と呼ばれる有名な箇所です。皆さんの大半がよくご存知と思いますから、詳しく読むことはしません。ここに登場するサマリア人は、まさに私たちの中には「良い性質」が備わっていることを示していると思います。30節をお読みします。

ルカ10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

 この半殺しにされた人をサマリア人はかわいそうに思って介抱しました。33節から35節までです。

10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

 私たちの中には「良い性質」が備わっていますから、誰でもこのようにできたら良いなと思うでしょう。そして実際、このようにできる人もいるでしょう。しかし、なかなかそうできない人もいます。私もその一人かもしれません。自分の中に良い行いを邪魔する何かがあります。そうして自分の中で言い訳をして、見て見ぬ振りをしてしまうことがあります。

 この怪我人の近くを通ったレビ人と祭司もそのような人たちでした。31節と32節、

10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 彼らが怪我人を見て見ぬふりをした理由は書かれていません。分かりやすい解釈は、死体に触れると汚れてしまって(民数記5:2、9:6他)、祭儀を司ることができなくなる、それを恐れたというものです。だとすれば、彼らは職務に忠実であったことになります。職務に忠実であることは悪いことではありません。良いことです。しかし、時と場合によります。この場合は、死にかけた人の介抱を優先すべきでしょう。そんなことは誰でも分かっています。しかし、人の中にある「罪」が怪我人を見て見ぬふりをするように仕向けます。

 いま日本も世界も、コロナウイルスの猛威で半分死に掛けています。世界はまるで、このルカ10章の死に掛けている人のようです。この死に掛けた世界を何とかしようと多くの人々が職務で一生懸命に取り組んでいます。しかし、職務に忠実であろうとするあまり、本当に困っている人のことを見て見ぬふりをしているのではないかと思われるようなコロナ対策もあるように感じます。特に日本のコロナ対策はスピードが遅いと感じます。困っている人を守ることよりも保身や慣行を優先しているためにスピードが遅くなっているように感じます。

 いま、世界のそして日本のコロナ対策を見ていると、良きサマリア人のような働きをしている所もあれば、見て見ぬふりをした祭司のようなことをしているような所もあると感じます。私自身の中にもルカ10章の祭司とレビ人のような罪があることを感じますから、今のコロナ対策で誤った方向を向いている人たちを強く批判することは、私にはできません。しかし強く批判はできなくとも、人間の中にはこのような罪があることを、聖書を通して宣べ伝える働きは、しっかりとしなければならないと思わされています。

③弟子たちの宣教の時代より後に書かれた福音書
 ここでルカの福音書を離れて、きょうの聖書交読で読んだペテロの手紙第一を開いて(新約p.464)、招きのことばの第一ペテロ1:8について考えてみたいと思います。1章8節をお読みします。

第一ペテロ1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
 
 ペテロが「あなたがたはイエス・キリストを見たことはない」と手紙に書いた相手は誰かと言うと、それは1節にあります。

1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、

とありますから、ガラテヤを含む小アジア一帯の地域ですね。ここはパウロが第一次伝道旅行で伝道した地域です。イエスさまが教えを説いたのはパレスチナの地域ですから、ガラテヤなどの地域に散っていた人々はイエス・キリストを見たことがありません。しかし、イエスさまを見たことがある弟子たちによる生き生きとしたイエスさまの様子の語りや手紙を通して、まるでイエスさまを見ているように感じたことでしょう。そして9節にあるように魂の救いを得たなら、聖霊を通してイエスさまと出会うことができます。

 では21世紀の現代の私たちはイエス・キリストを見たことがあるでしょうか?あるんですね。21世紀の私たちは福音書を通して生き生きとしたイエスさまのことを知ることができますから、まるで見たことがあるように感じます。そしてイエスさまを信じて聖霊を受けるなら霊的にイエスさまに会うことができますから、なお一層、イエスさまを見たかのように感じます。

 例外も多くて一概には言えませんが、大雑把に言えば、福音書が書かれたのは使徒たちが盛んに手紙を書いていた時代よりも後のことです。福音書は概ね紀元60年以降に書かれ、手紙の多くは福音書よりも早くに書かれています。ペテロは「あなたがたはイエス・キリストを見たことはない」と手紙に書きましたが、福音書が書かれたことで、この状況は大幅に改善されました。

④四つの福音書は見えないイエスを見せる顕微鏡
(マタイ・マルコ・ルカは光学顕微鏡、ヨハネは電子顕微鏡)

 イエスさまを見たことがなく、また使徒たちや弟子たちから話を直接聞くことができなかった1世紀の人々、またそれ以降の私たちにとって福音書は、見えないイエスさまを見せる顕微鏡のようです。

 ここで短く、どうして私が福音書と顕微鏡を結び付けようと思ったかを話しておきたいと思います。いま私は60歳ですが、22歳の大学4年生の時から48歳で神学校に入るまでの26年間のうちの約20年間を電子顕微鏡と共に過ごしました。途中6年間ほど離れていましたが、それ以外の期間はずっと電子顕微鏡と共にいました。特に43歳の時から48歳で神学校に入学するまでの5年間は自分の研究室の実験室に研究室専用の電子顕微鏡を持っていましたから、観察するだけでなく保守・管理の面でも週末を除けば毎日電子顕微鏡と共にいました。それと同時に光学顕微鏡も身近にありました。電子顕微鏡で観察するサンプルの出来栄えを見るには、まずは光学顕微鏡でチェックする必要があったからです。

 今年に入ってからテレビのニュースなどで毎日のように新型コロナウイルスの電子顕微鏡写真を見ていて、ふと福音書はイエスさまを見せる顕微鏡だと思いました。中でもヨハネの福音書はイエスさまを細かいところまで見せる電子顕微鏡です。

 電子顕微鏡を使うと光学顕微鏡では見えないもっと小さな物が見えます。先ほども言いましたが、ウイルスは電子顕微鏡でなければ見えません。私たちは、より細かい物が見えるようになることで、この世界のことも、より良く分かるようになります。例えば、講壇の横にある美しい花は、花として鑑賞するだけでももちろん良いのですが、目を花に近づけていくと、花びらの他にも雄しべや雌しべなどがあることが分かります。雄しべには花粉が付いていて、花粉が雌しべに受粉すると実が成ると私たちは理科で教わりました。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書は花全体を鑑賞しているのに似ています。マタイ・マルコ・ルカの福音書からはイエスさまがどんなお方であるかの全体像を知ることができます。一方、ヨハネの福音書からはイエスさまが人であると同時に神様でもあることが分かります。さらに神様のイエスさまは「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもいて、「旧約の時代」のイエスさまは「モーセの時代」にも「エリヤの時代」にも、その他の預言者たちの時代にもいます。

 私自身は、こういう細かい話が好きなのですが、ヨハネの福音書についてのこういう話は、雄しべの花粉の話をしているようなものなのですね。講壇から花を指して、ここに雄しべがあって、この先に花粉が付いていますなどと話したら、皆さんは引いてしまいますね。ヨハネの福音書について語っていた時は、そんな感じだったと思って申し訳なく思い、反省しています。

 しかし、聖書のことをまだご存知ない方々の中には、もしかしたら、こういう話を面白がってくれる人もいるかもしれません。礼拝ではこれ以上は話さないかもしれませんが、こういう話も発信して行くことができたら良いなと思っています。

おわりに
 大切なことは、いままだ、聖書を知らない方々に、いかに興味を持っていただき、聖書に親しむようになっていただくかです。この課題を皆で共有して、共に考え、取り組んでいけたらと思います。

 最初に言った通り、今は日本も世界もコロナウイルスのことで大変な状況になっています。このような困難な時こそ、私たちは聖書に親しむべきです。外出しないで家にいる人も多いと思いますから、ふだん聖書を読んだことがない方にも、聖書に興味を持っていただきたいと思います。

 私たちは生まれながらに「良い性質」を持っています。しかし、「罪」のために、この「良い性質」が隠されてしまっています。コロナ対策が本当に困っている人の方を向いていないのも、この「罪」のゆえです。

 イエス・キリストは私たちにこの「罪」のことを教えるために、この世に来て弟子たちに教えを説き、十字架に掛かって私たちの罪を赦して下さいました。このことを生き生きと伝えて、まるでイエスさまを本当にこの目で見たようにしてくれる福音書と聖書を多くの方々にお伝えしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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苦しむ世界に覆いかぶさる神様(2020.3.22 礼拝)

2020-03-23 06:55:45 | 礼拝メッセージ
2020年3月22日礼拝メッセージ
『苦しむ世界に覆(おお)いかぶさる神様』
【列王記第二4章32~37節】

はじめに
 いま世界は新型コロナウイルスの感染者の増大で大変なことになっています。昨年の年末頃に、3ヵ月後の世界がこのようになることを予測できた人はほとんどいなかったでしょう。このウイルスが発生したのは昨年だそうですが、今年の1月の中旬でも感染者はまだ中国でしか発見されていませんでした。それが2月にはクルーズ船の乗客など中国以外でも感染者が見つかり、2月から3月に掛けて瞬く間に全世界に広がりました。

 このような状況下では、礼拝メッセージも時宜に適ったものにする必要があると示されています。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①この戦いは、神の戦いである
 ②あきらめずに神の人の所に向かった母
 ③子供に覆いかぶさったエリシャ
 ④世界に覆いかぶさり人々を守る神様

①この戦いは、神の戦いである
 世界各国の首脳の中には、今のこのコロナウイルスとの戦いを戦争に例える人もいます。アメリカのトランプ大統領もその一人です。それゆえ今日は先ず聖書交読で歴代誌第二20章を開くことにしました。もし仮にコロナウイルスとの戦いが戦争であるとしても、これは人類の戦いではなくて神の戦いであると思うからです。

 歴代誌20章を開いて下さい(旧約p.783)。1節をお読みします。

20:1 その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。

 これは南王国のユダの王がヨシャファテ(新改訳第3版まではヨシャパテ)の時のことです。ユダの国にモアブ人とアンモン人が攻めて来ました。それで3節にあるようにヨシャファテ王は恐れ、そして心に決めて主を求め、ユダの全土に断食を呼びかけました。続いて4節、

20:4 ユダの人々は集まって来て、の助けを求めた。実にユダのすべての町から人々が来て、を求めたのである。

 こうして人々が集まって来た時に、主の霊が会衆の中の一人に臨みました。途中を飛ばして14節をお読みします。14節、

20:14 ときに、の霊が会衆の中で、アサフ族の出であるレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタンヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。

 主の霊が臨んだレビ人ヤハジエルは言いました。15節、

20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々、エルサレムの住民、およびヨシャファテ王よ、よく聞いてください。はあなたがたにこう言われます。『この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである。

 主は仰せられました。「この大軍のゆえに恐れてはならない。おののいてはならない。」この場合の「恐れてはならない。おののいてはならない」はパニックになってはならない。浮足立たずに冷静に立ち向かえということでしょう。油断しないために、ある程度は恐れることも必要です。しかし震え上がるように恐れるのでなく、冷静にしっかりと対処せよということです。これは人の戦いではなく、神の戦いであるので闇雲に恐れる必要はないということです。

 コロナウイルスとの戦いも、このような心持ちでいたいと思います。油断すれば目に見えないウイルスは猛威をふるいます。ですから恐れつつ感染を防ぐ必要があります。しかし、目に見えない敵を人間の力だけではとうてい防ぐことはできません。今のコロナウイルスの危機に際して私たちは神様への信仰を深めていかなければなりません。私たちにできることは何でもやりますが、人間の力だけで勝てる戦いではないことを覚えたいと思います。

 続いて17節をお読みします。

20:17 この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられるの救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。はあなたがたとともにおられる。』」

 この戦いが神の戦いであっても、人間は何もしないで、ただ寝ていれば良いのではありません。やはり出陣します。しかし、この時にヨシャファテ王が取った戦術は、とてもユニークなものでした。21節に飛びます。21節の「彼」とはヨシャファテのことです。21節、

20:21 彼は民と相談し、に向かって歌う者たちと、聖なる装いをして賛美する者たちとを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう言うためであった。「に感謝せよ。その恵
みはとこしえまで。」

 彼らは出陣しましたが、武装した者が一番前に出たのではなく、何と、主を賛美する者が前列に出ました。そうして、こう賛美しました。「に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」すると22節、

20:22 彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 こうしてヨシャファテ王のユダは戦うことなく、ただ単に主を賛美するだけでアンモン人たちに勝利することができました。人間の力だけで敵に立ち向かったなら、ユダは打ち負かされていたことでしょう。しかし、主を賛美する者たちが一番前に出ることで、これは神の戦いとなり、神様が敵を倒して下さいました。

 この歴代誌第二20章はとても大切なことを教えてくれていると思います。私たちは戦わないわけではありません。ちゃんと出陣します。しかし、一番前に立つのは武装した者ではなく、賛美する者たちです。このことによって、この戦いは神の戦いとなり、神様が敵を倒して下さいます。このことを覚えて、きょうの礼拝も最後まで心一杯、主を賛美したいと思います。

②あきらめずに神の人の所に向かった母
 今度は今日の聖書箇所の列王記第二4章を開きましょう。旧約聖書のp.654から見て行くことにします。ここには神の人エリシャが死んでしまったシュネムの女の息子を生き返らせた記事が載っています。この記事からは、神様が大きく腕を広げて私たちを守って下さっていることを分かち合いたいと思います。

 簡単に経緯を説明しておきます。列王記第二4章8節に、シュネムの女が神の人エリシャを食事に引き止めたことが記されています。それ以来、エリシャはこの女性の家を度々使うようになりました。そしてエリシャはこの女性には子供が無いことを聞いて、子供が授かるようにしました。しかし、その子はある日、突然死んでしまいました。18節から20節までをお読みします。

4:18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、
4:19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。
4:20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。

 こんな風にして自分の子が死んでしまったら、力が抜けてしまう親が多いのではないでしょうか。しかし、このシュネムの女は違いました。24節と25節、

4:24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」
4:25 こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。

 シュネムの女は凄まじい勢いで神の人エリシャの所に来ました。そして彼女はエリシャに言いました。30節、

4:30 その子の母親は言った。「は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。

③子供に覆いかぶさったエリシャ
 続いて32節、

4:32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。

 この子が死んでから、もうだいぶ時間が経っていたことでしょう。普通なら生き返るはずがありません。実際、31節でゲハジがエリシャの杖をその子の頭の上に置きましたが、子は生き返ることがありませんでした。

 ここでエリシャは驚くべき行動を取ります。エリシャは子が寝かされている部屋に入って戸を閉めて、まず主に祈りました。そして34節、

4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。

 今回、この箇所を改めて読んでいて、エリシャは自分の命を子に移し替えているように感じました。そして、イエスさまの十字架のようであると感じました。この子は腕を広げて寝かされていたわけではないと思います。しかし、十字架のように腕を広げて寝ている様子が思い浮かびます。その上にエリシャも十字架のイエスさまの様に腕を広げて、自分の命をこの子供に与えているかのように感じました。

 実際のエリシャは死んだわけではありません。しかし、かなりの力が吸い取られたことでしょう。福音書の長血の女の記事には、長血の女がイエスさまの衣に触れた時に、イエスさまはご自分の内から力が出て行くのを感じたことが記されています(マルコ5:30他)。長血の女の病気が治るだけでもイエスさまから力が出て行ったのですから、死んだ子が生き返ったこの場面では、エリシャはかなりの力を吸い取られたのではないかと思います。

 きょう、この場面を聖書箇所に選んだのは、コロナウイルスで苦しんでいる今の世界の私たちのことも、神様がこんな風にして守って下さっていると感じるからです。神様は大きなお方ですから、エリシャよりももっと大きく腕を広げて全世界を守って下さっている、そんな風に感じます。きょうはそのことを皆さんと分かち合いたいと思いました。

④世界に覆いかぶさり人々を守る神様
 皆さんは夏の七夕の頃に夜空を見上げる時、はくちょう座の十字架に目を留めることはあるでしょうか。週報p.2にイラストを載せましたが、ハクチョウ座の白鳥は、天の川に橋を架けるようにして翼を広げています。そうしてハクチョウ座の星のデネブと、天の川の両岸にある織姫のベガと彦星のアルタイルの明るい三つの星で「夏の大三角」と呼ばれる三角形を作っています。この三角形を目印にしてハクチョウ座の十字架を見つけることができます。

 私は夏の夜にこのハクチョウ座の十字架を見上げる時、神様が大きく腕を広げて私たちが住むこの地域全体を守って下さっていることを感じます。ハクチョウ座は夏の星座ですから今はまだ見えませんが、春分の日を越えてこれから段々と見えるようになって来るでしょう。しかし、考えてみると、季節によって見えようが見えまいが、ハクチョウ座の十字架はいつでも天にあります。夏以外にはハクチョウ座が見えないのは夏以外には昼の太陽の方向にあるからで、昼でも太陽が隠れる皆既日食になれば、ハクチョウ座も見えることでしょう。つまり、ハクチョウ座の十字架は、見えようが見えまいがいつも天にあります。

 このように、天にある巨大な十字架は春夏秋冬、いつでも私たちを守って下さっています。では、神様が私たちを守って下さっているのなら、どうして、この世は苦しみに満ちているのかと思う方もいるかもしれません。しかし、この世はエデンの園ではありませんから、苦しみに満ちているのは仕方のないことです。こんな苦しみに満ちた私たちの世にイエスさまは共にいて下さり、共に苦しんで下さっています。これは大きな慰めです。神であり人でもあるイエスさまは世界全体に覆いかぶさって守って下さっているのと同時に私たちの一人一人にも寄り添い、共に苦しんで下さっています。

 週報のp.2のハクチョウ座のイラストの右側にはもう一つ、今夜の国際宇宙ステーションの日本付近の進路の図を載せておきました。国際宇宙ステーションは日の出の少し前と日が沈んでからの少しの時間帯しか見えません。それで、JAXAのホームページが、国際宇宙ステーションが何時頃にどの方角に見えるかを教えてくれています。

 皆さんは、この国際宇宙ステーションが天空を横切って行く様子を見たことがあるでしょうか。国際宇宙ステーションは数分間掛けて、ゆっくりと天空を横切って行きますから、安倍川の河川敷のような開けた場所に行けば、肉眼でじっくりと見ることができます。この国際宇宙ステーションは、人間が居住するスペースはそんなに広くはありませんが、太陽電池パネルを広げると全長は約108メートルで、サッカー場ぐらいの大きさがあるそうです。サッカー場は広いですから国際宇宙ステーションは随分と大きいわけですが、日没後に天空を横切る国際宇宙ステーションは小さな「点」でしかありません。それに対して神様は天空で大きく腕を広げて私たちを守って下さっています。国際宇宙ステーションの小さな点が空を横切って行く様子を見る時、私は人間の小ささと神様の大きさを強く感じます。

おわりに
 人間って本当に小さな存在だなあと思います。こんな小さな人間が、人間の力だけで強大な敵に勝てるはずがありません。神様に戦っていただかなければコロナウイルスにも勝つことはできないと思います。

 ですから、私たちは先ず礼拝で神様を力一杯賛美したいと思います。ヨシャファテ王とユダの国の人々のように、戦いの最前線で「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」と賛美したいと思います。

 これらのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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不条理な「外側の罪」からの救済(2020.3.15 礼拝)

2020-03-16 09:28:34 | 礼拝メッセージ
2020年3月15日礼拝メッセージ
『不条理な「外側の罪」からの救済』
【ルカ4:16~21】

はじめに
 先週の水曜日は3月11日でした。9年前の2011年3月11日の午後、私は神学生の3年生で、横浜の聖宣神学院では1年先輩の神学生の卒業式が行われていました。地震が起きた時は来賓の先生がメッセージを取り次いでいる時でした。式は神学院教会のウェスレーチャペルで行われていて、天井から下がっている照明が大きく揺れて危険を感じました。それで司会の先生の指示で私たちは一旦屋外に避難して、揺れがおさまった後でまたチャペルに戻り、卒業式を終わらせました。その後、卒業式に来ていた先生方や関係者は帰途に付きましたが、横浜も東京と同じで鉄道が全面的に止まっていたため、電車で来ていた先生方は駅からまた神学院に戻って来て神学院の寮に泊まり、翌朝、電車の運転が再開してから帰って行きました。

 この日、東日本の太平洋沿岸の多くの地域が津波に襲われました。詩篇69篇の出だしは、まるで津波のことを描いているかのようです。

69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。

 東日本大震災では、東日本の太平洋沿岸の広い地域が揺れと津波の被害に遭ったものの、西日本では揺れも無く被害はありませんでした。私は大震災の2週間後に京都の教会に派遣されて、1か月あまり京都に滞在して礼拝と祈祷会の御用を務めましたが、ずっと余震が続いていた東日本と違って関西ではまったく揺れが無いことに不思議な違和感を覚えました。
 しかし、今の新型コロナ・ウイルスによる被害は日本全体・世界全体に及んでいます。これは本当に深刻なことになっています。ウイルスに感染して発病する危険もさることながら、経済活動が低迷することによるダメージは計り知れないものがあると思います。

 一昨日の13日、私は東京の小金井にある教会と、川崎の高津教会を訪れました。行きも帰りもひかり号の自由席を利用しましたが、余裕で座れました。東京方面へ新幹線の自由席で往復する場合、私は大抵の場合こだま号を利用します。ひかりは混んでいて、席が空いていたとしても三人掛けの真ん中しか空いていない場合が多いからです。しかし今は、ひかり号も空いています。コロナ・ウイルスの影響で人の移動が少なくなっているからです。

 静岡駅で新幹線に乗る前、私は小金井の教会と高津教会へ持って行くおみやげを買って行きました。新幹線に乗る人が少なくなっておみやげやお弁当の売り上げも相当に落ち込んでいることでしょうから、おみやげやお弁当を作るメーカーも生産量を減らさざるを得ません。すると、メーカーに納入する食品材料の量も減ります。ニュースでは学校給食の食材のことが取り上げられていましたが、おみやげや弁当の業界も大変なことになっているだろうと思います。それはまた、農業や漁業など第一次産業に関わる人にも大きく関わって来ますから、今回のコロナ・ウイルスによる社会全体の活動の低下は本当に日本全体、世界全体を巻き込んだ大変な事態だと思います。この大不況による被害もまた、詩篇69篇の状況と同じだと思います。もう一度、詩篇69篇をお読みします。

69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。

 詩篇69篇の詩人のように、私たちは「神よ 私をお救いください」と言わなければなりません。

 この大震災やコロナ・ウイルスは私たちに多大なダメージを与えます。前置きが長くなりましたが、これら大震災やコロナ・ウイルスのことをきょうは「外側の罪」と呼んで、次の三つのパートで話を進めたいと思います。

 ①「内側の罪」と「外側の罪」
 ②聖霊の助けが必要な罪の理解
 ③苦しむ人々を広く迎えて救う「傘の神学」

①「内側の罪」と「外側の罪」
 一昨日の金曜日の午前、私は東京都の小金井市にある日本ホーリネス教団の小金井福音キリスト教会を訪ねて来ました。一昨日の13日の午後は聖宣神学院の卒業式が予定されていて、私は横浜に行く予定にしていましたから、その日の午前はこの小金井の教会を訪問することにしていました。午後の卒業式はコロナ対策で中止になりましたが、予定通りに小金井に行き、午後は高津教会に行って藤本先生と神学院の卒業生に会い、そして礼拝のライブ配信用の機器も見せてもらって来ました。

 午前に小金井の教会に行ったのは、今年の2月に出版された本『人生のすべての物語を新しく シェルターの神学から傘の神学へ』(教文館 2020)の著者の濱和弘先生にお会いして話をするためでした。

 濱先生は2011年の3月に起きた東日本大震災の2週間後にいわき市に、また震災の1か月後に石巻市の津波の被災地に入った時のことを今回の著書に次のように書いています。

(ここから引用)
 著者は、東日本大震災の二週間後にトラックに救援物資を積んで、いわき市の津波の被災地に立っていた。また、一ヶ月後にも石巻市の被災地も訪れ、その津波の被害の大きさに言葉を失った。そして、その被災地の中で、おそらく津波に流され瓦礫となった自分の家であろう、その瓦礫の山の前でうずくまるようにしてしゃがみこんでいる一人の初老の男性の後ろ姿を見た。そのとき、その後ろ姿を見ながら牧師として、また一人のキリスト者としてかける言葉を見つけられない現実に戸惑いと無力感を感じていた。

 目の前にあるこの悲惨な現実、そしてそこに苦悩し、悲しみ、途方に暮れて佇んでいる人がいる。その人にとって、「私たち人間は『罪びと』です。神は、その『罪びと』である私たちを罪とその罪の裁きである死から救うために十字架にかかって死んでくださったのです。それほどまでに神はあなたを愛しているのです」という言葉が、どれだけの力とリアリティがあるのか。何よりも、著者自身が、あの打ち上げられた船や瓦礫の山、津波に流されて何もなくなった家の敷地、そういった現実を見せつけられて、心の中に「神も仏もあるものか」という言葉が沸き上がってくる。このような事態をどう考えたらよいのか。この問いは、著者にとって抜き差しならないものとして答えを求めてくるのである。
(引用ここまで)

 この著者の自問自答から始まった考察で導き出されたのが、「傘の神学」ということです。これまで、ルターの宗教改革から始まったキリスト教のプロテスタント教会では、主に「内側の罪」からの救いを重視して来ました。「内側の罪」とは、例えばパウロがガラテヤ人への手紙5章に列挙したようなものですね(週報p.2)。

5:19 肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。

 私たちは誰でもこのような罪を内に抱えていますね。それゆえプロテスタントの教えでは自分自身もこの罪を持つことを認めて悔い改め、イエス・キリストが十字架に掛かって血を流したのは、私自身の罪のゆえであると信じるなら、罪が赦されて救われるとされています。プロテスタント教会では、この「内側の罪」の「罪の赦し」を非常に重視します。

 一方、「傘の神学」では、「外側の罪」に苦しむ人々を広く救済することを考えます。「内側の罪」からの救いももちろん大切ですが、「外側の罪」からの救いにも、もっと目を向けるべきではないかと提案しています。カトリック教会はこの「外側の罪」を重視しています。しかし、ルターから始まったプロテスタントはルターの影響を受けて「内側の罪」を重視します。東日本大震災での経験を経て濱先生は、プロテスタントももっと「外側の罪」に目を向けるべきと書いておられます。

②聖霊の助けが必要な「内側の罪」の理解
 この2番目のパートでは、濱先生の著書を読んでの私の考えを述べます。

 先月の後半に私は濱先生のこの著書を読んで、自分の中でモヤモヤしていてことを濱先生がとても分かりやすい形で書いて下さったと思いました。かねてから私は自分自身の経験に基づいて、罪の理解は聖霊を受けていなければ難しいと考えていたからです。この「罪」を濱先生が「内側の罪」と「外側の罪」に分けて書いて下さったことで「罪」のことが、とても分かりやすくなったと思いました。

 私たちが普段、「罪」「罪」と言っている事柄は、パウロがガラテヤ書に書いたような「内側の罪」のことですね。自分の中に「内側の罪」があることに気付いて認めることは、もちろん、とても大切なことです。しかし自分の内側にあるがゆえに、自分自身ではなかなか気付きません。マタイの福音書のイエスさまはマタイ7章でおっしゃいましたね(週報p.2)。

7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。

 このように、自分の内側にある罪は気付くのが難しいものです。この内側の罪を深く理解するには、聖霊の助けが必要です。イエスさまは最後の晩餐でヨハネ14:26のことばを弟子たちに言いました。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 ですから私たちは聖霊を受けることが大切です。私たちは「イエスは神の子キリストである」と信じるなら聖霊を受けて、永遠の命を得ることができます。そうして聖霊を受けることで、イエスさまが私自身の罪のために十字架に掛かり、私の罪が赦されたことが理解できるようになります。

③苦しむ人々を広く迎えて救う「傘の神学」
 ここでもう一度、濱先生の著書に戻ります。「外側の罪」は、「内側の罪」とは無関係の極めて不条理なものであると先生は書いています。例えば、津波の被害に遭った人は他の人よりも罪深かったわけではありません。世間一般で言えば善良な人がほとんどでしょう。クリスチャンであっても犠牲になった方が少なくないでしょう。津波は人の「内側の罪」とは無関係に多くの人々を襲い、命を奪い、人々に苦しみを与えました。このような理不尽に人々を苦しめるものが不条理な「外側の罪」です。

 聖書にある、人々を苦しめる「外側の罪」の例として、濱先生は先ずエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を例に挙げています。イスラエル人はエジプトの王から過重な労働を与えられて苦しんでいました。この奴隷の苦しみはイスラエル人が罪深いために与えられたものではありません。それゆえ、とても不条理なものでした。

 或いはまた、濱先生はこのような不条理な「外側の罪」の例の頂点としてヨブ記のヨブを挙げています。ヨブが病気で苦しみことになったのは彼が不信仰であったからではなく、むしろ神様も賞賛するくらいに立派な信仰の持ち主だったからです。この神様の賞賛に対してサタンは、いくらヨブが立派な信仰の持ち主でも、もし彼を病気で苦しめるなら、きっと神を呪うだろうと言いました。それで神様はサタンに「では、彼をおまえの手に任せる」(ヨブ2:6)とおっしゃいました。それでサタンはヨブを足の裏から頭の上まで悪性の腫物で打ちました。それは見舞いに来た友人たちがヨブであることを見分けられないほどひどいものでした。ヨブは立派な信仰の持ち主であったばかりに、このような苦しみを受けなければなりませんでした。これは本当に理不尽で不条理です。

 イエスさまは、そのように不条理な「外側の罪」で苦しむ者たちを多く救いました。その例として濱先生は「長血の女」を挙げています。女が苦しんでいた長血という病気も、彼女が罪深い女だから与えられた病気ではありません。この病気に女は12年間も苦しめられていました。長血の女がイエスさまの衣に触れることで病気が癒された時にイエスさまは彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」このようにして不条理なことで苦しんでいる多くの人々をイエスさまは救いました。

 濱先生の本では引用されていませんが、きょうの聖書箇所のルカ4章は、イエスさまがこのような不条理な「外側の罪」から人々を救うために遣わされたことを、よく表していると思います。ここには、イエスさまが宣教を始めたばかりの頃のことが記されています。ルカの福音書4章の16節と17節をお読みします。

4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。

 イザヤ書の巻物を渡されたイエスさまはイザヤ書61章を読み始めました。18節と19節、

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」

 イザヤ書は、イエスさまが地上に遣わされる何百年も前に書かれた書です。その書を読んでイエスさまは人々に言いました。20節と21節、

4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

 「今日、この聖書のことばが実現しました」とおっしゃったイエスさまは、このイザヤ書61章の「わたし」とはご自身のことであるとおっしゃっています。イエスさまは貧しい人に良い知らせを伝えるために、この世に遣わされました。その人が貧しいかどうかは多くの場合、貧しい家に生まれるかどうかで決まります。どの家に生まれるかについては生まれる本人には選べません。そうして貧しい家に生まれると、少なくとも子供の間は貧しい環境で過ごさなければなりません。そして貧しい家庭では十分な教育を受ける機会にも恵まれませんから、成長してからも貧しい生活が続く場合がどうしても多くなります。

 どこの家に生まれるかという、本人が選べないことで貧しいかどうかが決まることもまた不条理だと言えるでしょう。イエスさまはこのような貧しい人々に良い知らせを伝えて救うために、この世に遣わされました。

おわりに
 教会も、このような不条理な「外側の罪」で苦しむ人々を広く招いて救うべきというのが「傘の神学」です。「内側の罪」を認めて罪の赦しを受けなければ教会の一員になれないという高いハードルを設けるのでなく、傘の中に入るように、入りやすくすることを考えるのが「傘の神学」です。そして、傘の中に入ってイエスさまを信じるなら、「内側の罪」にも気付いていただく必要があります。

 きょうは話しませんでしたが、「内側の罪」で最も重い罪は「神様に背く罪」だと思います。パウロがガラテヤ書に列挙した事柄には、この「神様に背く罪」のことは書かれていませんが、それはガラテヤ人にはまだ難しかったからかもしれません。

 このように、普段、私たちが「罪」、「罪」と一括りで言っている中にも、いろいろな罪があります。罪を法律上の罪と道徳的な罪にも分類できることは、皆さんもご存知の通りです。

 これらの罪を「内側の罪」と「外側の罪」に分けるという見方に、私自身はまた新しい目を開かれた思いがしていますから、3.11の東日本大震災を思うこの時期に紹介させていただきました。私たちの教会での働きを考える上でも、とても参考になると思います。

 イエスさまが不条理な「外側の罪」に苦しむ人々を多く救われたことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしたいと思います。

4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
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まず神の国と神の義を求めよう(2020.3.8 礼拝)

2020-03-09 08:22:14 | 礼拝メッセージ
2020年3月8日礼拝メッセージ
『まず神の国と神の義を求めよう』
【マタイ6:25~34】

はじめに
 礼拝メッセージでは今年は創世記の1章から始めて旧約聖書を順次ご一緒に見て来ました。神様が聖書の時代の人々をどれだけ愛していたかを学び、そのことを通して神様が現代の私たちのことをも愛して下さっていることを改めて確認したく願っています。そして、それらの学びを通して、私たちの一人一人が神様と一対一の関係を築けるようになりたいと思います。

 既に神様と一対一の関係を築いている方々もおられますが、まだ十分には関係が築かれていない方々もおられると思いますから、メッセージが関係作りの手助けになればと願っています。

 そうして、しばらく旧約聖書を開いて来ましたが、きょうは新約聖書のマタイの福音書を開くことにしました。新型コロナウイルスの感染と拡散を防ぐために祈り会をお休みにしたことで普段の集会のサイクルとは異なる中を歩んでいますから、ここでいったん立ち止まることも有意義であろうと思ったからです。

 きょうは次の四つのパート(週報p.2)で話を進めて行きます。

 ①日は昇り・日は沈みのサイクルから抜け出す平安
 ②明日の心配を忘れ、今日は神様に思いを向けよう
 ③なぜ安息日があるのか
 ④安息日の聖日礼拝を存分に楽しもう

①日は昇り・日は沈みのサイクルから抜け出す平安
 先週と今週の祈り会がお休みになったことで、私はこれまでずっと、礼拝→祈り会→礼拝→祈り会→礼拝→祈祷会→・・・の説教作りというサイクルの中で日々を過ごして来たのだなということを改めて強く感じています。そのサイクルの中で、神様との交わりが段々と浅くなっていたかもしれません。

 例えて言うなら、池の水に向かって平たい石を、回転を付けて投げるようなものです。平たい石に回転を付けて投げると、石は水の表面をピョンピョンと跳ねて行きますね。上手く投げれば5回も6回もピョンピョン、ピョンピョンと跳ねて行きます。礼拝→祈り会→礼拝→祈り会の説教作りの繰り返しはこのピョンピョンの繰り返しのようなものだったと思いました。池の水を神様だとすると、このピョンピョンでは神様と浅くしか関わることができません。しかし、この1週間はピョンピョンのサイクルが無くなりましたから、石は水の底に沈みました。そうして神様との交わりの中にどっぷりと入れて頂いたと感じました。

 その中で示されたのが、きょうのマタイ6章の聖書箇所と、聖書交読の箇所の伝道者の書1章です。まずは伝道者の書1章(旧約p.1138)をご一緒に見たいと思います。

 伝道者の書1章の1節から5節までを交代で読みましょう。

1:1 エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
1:4 一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
1:5 日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。

 2節に「空の空。すべては空」とあるように、伝道者はすべてのことを空しく感じていました。

 どうして、そんなに空しいのか、それは伝道者が「日は昇り、日は沈む」の繰り返しのサイクルの中に嵌まり込んでしまっていたからでしょう。同じような毎日の繰り返しであっても、実際は一日一日が異なった日であったはずです。しかし、この繰り返しのサイクルの中に陥ってしまうと、神様との交わりも浅くなってしまいます。神様の恵みを感じることができない中で空しさを感じるようになってしまったように思われます。

 日は昇り→日は沈み→日は昇り→日は沈みと、水の上をピョンピョン飛び跳ねるような日々を過ごしていると、神様の恵みの中にどっぷりと浸る平安を得ることが難しくなります。

 私自身のこれまでの生活のサイクルを改めて思い返すと、日曜日の礼拝が終わって少し休むと、次の祈り会の説教箇所はどこからにしようと思い巡らし始めます。そして同時に次の礼拝の聖書箇所をどうしようということも思い巡らし始めます。その日のメッセージについてもう一度十分に思い巡らすことなく次のことを考え始めます。そうして次のメッセージ、次のメッセージと次のことばかり考えて、水の上をピョンピョン飛び跳ねるような日々の過ごし方になってしまったかもしれません。

 さてしかし、先週はこのピョンピョン飛び跳ねるサイクルから自由になることができましたから、神様の恵みの中にどっぷりと浸ることができました。そうして思いを巡らしている中で、今日の聖書箇所のマタイ6章の最後の34節を示されました。きょうの招きのことばとメッセージのタイトルは一つ前の33節から引いていますが、実は先ず34節が示されました。

②明日の心配を忘れ、今日は神様に思いを向けよう
 マタイ6章34節の最初でイエスさまは「明日のことまで心配しなくてよいのです」とおっしゃっています。
 考えてみると私は明日のことばかりを心配して来たように思います。いま私たちの教会はなかなか新しい人が来ません。そうして教勢と財勢が緩やかに下っています。このままで行くと5年後、10年後はどんなことになるか。そんな明日の心配をしています。明日の心配をすることは、もちろん必要です。しかし、過度に明日の心配をし過ぎていたのではないかとマタイ6章34節を通して示されました。明日のことばかり考えて、神様から離れてしまっているのではないか。自分ではそんなつもりではなくても、先のことを考え過ぎるあまりに、神様の恵みにどっぷりと浸かることができなくなっていたのではないか。そんなことを思わされました。

 そうしてマタイ6章25節から34節までのイエスさまの一連の話を読み直すことにしました。

 マタイ6章の25節から見て行きましょう。25節と26節を交代で読みましょう。

6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

 先月から教会の2階の物干し場でキジバトのつがいが子育てをしています。2月の前半に巣作りを開始して、2月後半の2週間は、ずっと卵を温めていました。そして29日の土曜日に巣の外に卵の殻が落ちていましたから、孵化したことを知りました。ただ親鳥がヒナの上にずっといますから、なかなかヒナを見ることができないでいました。それが先週の中頃からは、どのタイミングで観察したら良いか、分かるようになりました。朝の9時前後と午後の3時台に雄と雌がヒナのお守りを交代しますから、そのタイミングだとヒナが良く見えます。今朝は7時40分でした。雨だからでしょうか?交代に来た方が巣の近くでデデ~ポッポ~と鳴きますから、交代すると分かります。それ以外の時は親鳥がヒナの上に乗って寒くないようにしていることが多いですから、なかなかヒナの様子を見ることができません。

 そして昨日は、雌と雄の交代の直後に親鳥(たぶん雄)がヒナに食事を与えている様子を観察することができました。この様子を見ると、確かに天の父が養って下さっているということに納得します。キジバトは野鳥ですから、もともとは自然の中で子供を生み、育てていました。人間の家に巣を作るようになったのは、かなり最近(ここ何十年)のことのようですが、親が子供に食事を与える与え方は、キジバトという種が造られた時から、ずっと変わらないでしょう。

 つまり天の父に教えられた方法そのままで、長い間、ずっとそうして来たわけです。ただし環境の変化に合わせて、人間の家にも巣を作るようになりました。

 教会のあり方も、そうなんだろうなと思いました。環境の変化に適応していかなければならない面もありますが、基本は天の父とイエスさまが教えて下さった通りに教会を営んで行けば良いのでしょう。現代は環境の変化があまりに激しいので、私などはついつい環境への適応に気を取られて明日の心配ばかりするようになってしまっていましたが、もっと天の父とイエスさまに委ねながら歩んで行くべきなのでしょう。

 少し飛ばして31節と32節を交代で読みましょう。

6:31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
6:32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

 私たちに必要なものは天の父が知っておられますから、必要以上に明日の心配をする必要はないのですね。続いて33節と34節を交代で読みます。

6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 神の国と神の義とは何かについての考察を始めると、話が長くなりますから、今日のところは、とにかく神様とイエスさまの十字架に心を向けるということにしておきたいと思います。私たちは明日の心配をしないで、今日は神様にだけ心を向けていたいと思います。
 
③なぜ安息日があるのか
 イエスさまがおっしゃるように、私たちは明日の心配をしないで、まず神の国と神の義を求めて神様に心を向けていたいと思います。しかし、現実的には神様にばかり心を向けていることはできません。仕事をする時には仕事に集中しなければなりません。仕事は段取りが大切ですから、作業の順番を頭の中で組み立てながら仕事をこなして行きます。料理をするのでも、段取りが悪いと時間が掛かりますが、どうすれば効率よく短時間で済むかを考えながら料理すれば、時間が節約できますね。

 何かを煮る場合も材料を切ってから鍋に水を入れて火を付けるのでなく、お湯を沸かしながら野菜を切ったりしますね。そうすれば時間が節約できます。先に何をして次はこれ、次はあれということを考えながら料理を作ります。そのように次はこれ、次はあれ、と石が水の上をピョンピョンと飛び跳ねて行くようにしなければ仕事になりません。するとどうしても神様から心が離れることになります。

 このように何か仕事をすれば必ず神様から心が離れます。じゃあ、どうしたら良いのでしょうか?だからこそ、安息日があるんですね。一週間のうちのせめて一日だけはなるべく仕事をしないで神様にだけ心を向けていたいと思います。まず神の国と神の義を求めたいと思います。

④安息日の聖日礼拝を存分に楽しもう
 ですから私たちは、安息日の聖日礼拝では神様に精一杯心を向けて楽しみたいと思います。

 このことは、これまでも私たちの間では既に共有していることで、初めて言うようなことではありませんね。

 もっと魅力的な礼拝にするために特別賛美などを充実させよう、或いは礼拝の証し者を月に一人は必ず立てましょうという意見が委員会で出されて、そのようにして来ました。ですから、改めて言うようなことではないかもしれません。しかし、きょうはマタイ6章33節と34節を味わいながら、礼拝を心一杯楽しむということを考えたいと思います。

 イエスさまはおっしゃいました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです」。ですから私たちは安息日の聖日礼拝では明日のことを心配しないで、ただひたすら神様とイエスさまの十字架だけに心を向けていたいと思います。

 そのように明日のことは神様にお委ねして私たちは明日のことを心配せずに今日の礼拝だけに集中して神様に心を向けているなら、自ずと人は集まって来ると信じたいと思います。神様が必ず人を招いて下さると信じたいと思います。

おわりに
 私たちは、せめて日曜日は、ピョンピョンと水の上を飛ぶ石ではなく、池の水の底に沈む石になって、神様の恵みの中にどっぷりと浸かりたいと思います。教会の2階で子育てをしているハトは、明日のことを心配せずに、きょう一日を精一杯生きています。私たちも明日のことを心配しないで、神様に心を向けながら安息日の聖日礼拝を心一杯楽しみたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。
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神は「世」を愛された(2020.3.1 礼拝)

2020-03-02 10:15:52 | 礼拝メッセージ
2020年3月1日礼拝メッセージ
『神は「世」を愛された』
【民数記21:4~9】

はじめに
 先週は出エジプト記3章を開いて、ミディアンの地で羊飼いをしていたモーセが、神様に召し出されてイスラエル人のエジプト脱出のリーダーになった時の記事をご一緒に見ました。元旦から始めた神様の愛を学ぶシリーズでは、少し足早に旧約聖書を見て行くことにしていますから、きょうはモーセで足踏みせずに次に進むことも考えました。

 しかし、モーセが荒野で蛇を上げた民数記21章の記事と、神様の愛を語るヨハネ3章とは切っても切れない関係にありますから、きょうはこの両方の章を見ることにしました。そう決めたのは先週の水曜日でした。そして、その水曜日以降、日本全体がにわかに騒然として来ましたから、やはり、この聖書箇所を選んで良かったと思いました。今こそ私たちは、イスラエル人たちがモーセの蛇を仰ぎ見たように、十字架のイエスさまを仰ぎ見なければなりません。

 先週の水曜日、大規模なスポーツや文化イベントを今後2週間程度、中止か延期するよう首相が求めたことが大きく報じられました。これを受けて様々なイベントが次々と中止になりました。この時、私の中ではまだ単にニュースを見ている感じでした。しかし、木曜日の午後にインマヌエルの教団から今年の春の年会を中止にするという連絡を受けて、急に私の心の中がざわついて来ました。連絡を受ける前から中止になるだろうとは思っていましたが、実際に連絡を受けると受けないとでは、心のざわつき方が全然違うことを実感しました。

 やはり自分に直接関係するかしないかは、心の平安に大きく関わるということを痛感しました。そして、その木曜日の晩には、今度は全国の小中高校を3月2日から臨時休校にするよう要請する旨の発表が首相からありました。これを受けて、今や日本国民の多くの心がざわついています。さらに土曜日の未明には世界保健機構のWHOが、このコロナウイルスが世界的に広がる危険性が非常に高いと、危険性のレベルを引き上げましたから、今や世界中の多くの人々の心がざわついていることでしょう。

 また、人々の心がささくれ立って、怒りが高まって来ていることも感じます。株価が急落して経済停滞そして給与・年金の減額への懸念もあります。日本中・世界中の多くの人々の心が平時と異なった状態にあります。今こそ私たちは十字架のイエスさまを仰ぎ見なければなりません。

 きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①荒野で蛇を上げたモーセ
 ②十字架のイエスを仰ぎ見る者は生きる
 ③神は「世」を愛された
 ④十字架を仰いで祈るしかないほどに悲惨な今の世

①荒野で蛇を上げたモーセ
 まずは民数記21章から見て行きましょう。4節と5節、

21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」

 荒野を歩き回っていたイスラエルの民は、いつものように不平不満を神様とモーセにぶつけていました。この民数記21章がどのような時期であったかを簡単に確認しておきましょう。

 イスラエルの民のうちの成人が約束の地のカナンには入れないことになってしまったのは民数記の14章です。その1つ前の民数記13章で主は、12部族の族長たちに約束の地のカナンを偵察して来るように命じました。そうして偵察して来た族長たちはカナン人たちが強そうであることにおじけづいてカナンに進攻するのは無理だと言い、それを聞いたイスラエル人たちは「エジプトに帰ろう」と言い出しました。

 これに怒った主は、ヨシュアとカレブを除く成人は死に絶えなければならないと言い、イスラエルの民はその時の大人が死に絶えるまで40年近く荒野を放浪しなければならなくなりました。

 そして20章のメルバの水では、モーセとアロンまでもが約束の地のカナンに入れないことになってしまいました。いま開いていただいているp.277の右側のp.276にある20章12節です。

20:12 しかし、はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

 そして20章28節でモーセの兄のアロンが死にました。モーセにとって大変に悲しいことだったでしょう。ここまでモーセは兄のアロンに助けられながら、イスラエル人たちを率いて来ました。その兄が死に、自分も兄と同じように約束の地カナンには入れない、死ぬまでイスラエル人たちと共に荒野を放浪しなければなりませんでした。やるせない気持ちで一杯だったことでしょう。

 そんな中でイスラエルの民たちはまた不平不満を言い出しました。このことに主はまた怒りました。21章の6節、

21:6 そこでは民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。

 燃える蛇とは、どんな蛇でしょうか。恐ろしいですね。イスラエルの民はパニックに陥ったことでしょう。彼らはモーセのところに行って懇願しました。7節、

21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちはとあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるように祈ってください。」モーセは民のために祈った。

 モーセは偉いなあと思います。モーセはイスラエルの民の不平不満にさんざん苦労させられた挙句に、メリバの水の件では彼らのせいで自分自身もカナンに入れないことになってしまいました。その彼らに祈ってくださいと頼まれても、普通ならなかなか祈ってやれないでしょう。しかし、モーセは民のために祈りました。

 それに対する主の答えは、次のようなものでした。8節と9節、

21:8 するとはモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 蛇を仰ぎ見ると生きるとは、どういうことでしょうか。普通、仰ぎ見る対象は神様です。しかし、蛇は神様ではありません。蛇を神様とすることは私たちには有り得ません。ですから、ここは新約の光を当てて読むことにしたいと思います。新約の光を当てるとは、この蛇を罪の象徴として、罪を見つめて悔い改めるということです。

 だからこそ、イエスさまはニコデモとの対話の中で、この民数記の記事に言及したのではないでしょうか。

②十字架のイエスを仰ぎ見る者は生きる
 今度は聖書交読で読んだヨハネの福音書3章をご一緒に見ましょう(新約p.179)。最初のほうは簡単に見るだけにします。まず1節と2節、

3:1 さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

 ある夜、ニコデモがイエスさまのもとに来ました。ニコデモはパリサイ人で、ユダヤ人の議員でした。パリサイ人たちはイエスさまに批判的でしたが、ニコデモはそれほどでもありませんでした。それでも、やはりイエスさまの言うことを理解できませんでした。

 途中を省略して、9節に飛びます。イエスさまのことばを理解できないニコデモは言いました。9節、

3:9 ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」

 そんなニコデモにイエスさまはおっしゃいました。10節、

3:10 イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。

 イエスさまは御霊について話していましたから、ニコデモが理解できなくても仕方のないことかもしれません。御霊のことは霊的に整えられた者にしか分からないからです。12節と13節、

3:12 わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

 神であるイエスさまのことばを信じないことは神を信じないということです。それは大きな罪です。モーセの時代に不平不満を言っていたイスラエルの民と同じ重大な罪を犯しています。それでイエスさまは、この民数記の出来事に言及しました。14節、

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。

 この、「人の子も上げられなければなりません」とは、十字架に付けられて上げられるということですね。15節、

3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 モーセが荒野で上げた蛇を仰ぎ見た者は生きました。同様に、十字架に付けられたイエスさまを信じる者には、永遠の命が与えられます。

③神は「世」を愛された
 次のパートに進んで、16節をお読みします。

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3章16節は「聖書の中の聖書」とも呼ばれるほどで、聖書のエッセンスがここに凝縮されています。このヨハネ3:16が聖書の中で最も好きな聖句だという方もいるでしょう。

 きょうのメッセージのタイトルはこのヨハネ3:16から取りました。ここでヨハネは神様が「世」を愛されたと書いていることに、目を留めたいと思います。神様は私たちを愛して下さっていますから、神様が人間を愛して下さっていることを私たちは良く知っています。しかし、実は神様は「世」を愛しておられることを覚えたいと思います。「世」にはもちろん人間も含まれます。しかし、神様は人間だけでなく「世」全体を愛して下さっています。

 神様は天地創造の第6日目に、ご自分が造られたすべてのものをご覧になって、「非常に良かった」と思われました。創世記1章31節に書いてある通りです(週報p.2)。

1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 神様は天と地をお造りになりました。世とは、天を除く地にあるすべてのものです。ですから人はもちろん含まれますが、地にある生物・無生物のすべてが世に含まれます。神様は「世」のすべてを非常に良かったと仰せられました。

 しかし、創世記3章でアダムとエバが罪を犯したことで、人の内に罪が入りました。そして、21世紀の今、人だけでなく世の様々なものが非常に良くなくなっています。今年に入ってから急速にウイルスが拡散して死者が出ていることが正にそうですし、地球が温暖化していることによる気候変動もその一つです。

 神様は、私たちが罪で汚れていてもなお、愛して下さっていますし、様々な被害をもたらす良くなくなった世をも、なお愛して下さっています。しかし、天地創造の六日目にすべてが非常に良かったと思われた時と比べて、神様は今の世をどのように見ておられるでしょうか?人間の心が罪で汚れているだけでなく、この世の環境が悪化していることを、どのように思われているでしょうか?そして、この環境の中で人間の心がささくれ立ってしまっていることを、どのように思われているでしょうか?

④十字架を仰いで祈るしかないほどに悲惨な今の世
 今回、このメッセージを準備していて、科学技術の負の側面をつくづくと考えさせられています。科学技術の発達がもたらしたマイナスの側面の代表は核兵器であり、原発の事故であろうと私は考えていますが、地球の温暖化も科学技術の発達で便利になったおかげで化石エネルギーを大量に使用するようになった結果です。ウイルスが急速に拡散するのも飛行機や大型船を作る技術の発達によります。また、スマホなどの情報機器の発達によって特定の商品が品薄になっている情報もあっという間に拡散して、商品がお店の棚から消えるようなことが起きます。或いは、インターネットの発達で、ネット上で自分の店を簡単に開くことができるようになり、マスクが高値で転売されるようなことも起きています。

 人の心が罪で汚れているだけでなく、科学技術の発達と人間の罪とが重なり合って世の中全体が悲惨なほどに乱れてしまったことを感じます。もちろん科学技術の発達はたくさんの良い側面を持ち、私たちはその恩恵に浴していますが、人間の罪がそこに合わさると目をおおいたくなるような悪いことが起きます。これらの悪い面を見ていると今の世は本当に悲惨だと思います。もはやイエス・キリストの十字架を仰ぎ見て祈るしかありません。

 この乱れた世の中でまず私たちがすべきことは、十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ることでしょう。これだけ乱れに乱れてしまった世の中を良い方向に向けることは人間には最早できません。私たちは、ただただ十字架のイエス・キリストを見上げて祈ること、まずは、そのことしかできないのではないでしょうか。そうして祈る中で、もし何らかの行動を起こすことを示されたなら、恐れずに行動に移さなければなりません。

おわりに
 最後にヨハネの福音書3章14節から16節までを交代で読みましょう。16節はご一緒に読みます。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。

21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
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好奇心旺盛なモーセを育て用いた神(2020.2.23 礼拝)

2020-02-24 08:02:33 | 礼拝メッセージ
2020年2月23日礼拝メッセージ
『好奇心旺盛なモーセを育て用いた神』
【出エジプト3:1~10、使徒7:17~34】

はじめに
 礼拝メッセージでは今年に入ってから、先週まで創世記を開いて来ましたが、きょうは出エジプト記のモーセに注目することにします。タイトルは『好奇心旺盛なモーセを育て用いた神』です。タイトルの最後に「神」と入れて主役を神様にしたのは、モーセを愛していた神様が将来の目的のために、モーセが幼い頃からその目的のために彼を育てて用いたということに目を留めたいと思ったからです。今年は神様の愛を学ぶことにしています。神様がモーセを育てて用いたことからも、神様の愛を感じることができると思います。きょうは次の四つのパートで話を進めます。

 ①エジプトで最高の教育を受けたモーセ
 ②羊飼いの40年間は心身の修練の期間
 ③好奇心に導かれて神と出会ったモーセ
 ④一匹一匹の羊を愛する飼い主

①エジプトで最高の教育を受けたモーセ
 きょうの聖書箇所の出エジプト記3章は、モーセが80歳になった頃の記事です。それ以前の事情については1章と2章に書いてある訳ですが、きょうの聖書交読で読んだ使徒の働き7章においてもモーセの生涯がステパノによって語られていますから、きょうは最初に、使徒7章(新約p.245)を見ることにしたいと思います。

 この使徒の働き7章にはステパノがエルサレムで捕らえられた時に行った演説が記されています。この後でステパノは石で打たれて殺されてしまいました。ご一緒に見る17節以降はステパノがモーセについて話しているくだりです。まず17節と18節、

7:17 さて、神がアブラハムになされた約束の時が近づくにしたがい、民はエジプトで大いに数が増え、
7:18 ヨセフのことを知らない別の王がエジプトに起こる時まで続きました。

 この時、ヤコブの子孫であるイスラエルの民がエジプトで増えていました。ヤコブの時代に飢きんによってカナンでは食べ物が無くなりましたが、エジプトでは飢きんに備えて食物を大量に備蓄していました。エジプトでその指揮を執っていたのがヤコブの息子のヨセフでした。それでヨセフが家族をエジプトに呼び寄せて、その子孫がエジプトで増え広がりました。しかし、時が経ってエジプトではヨセフのことを知らない者が王の地位に就いていました。19節、

7:19 この王は、私たちの同胞に対して策略をめぐらし、私たちの先祖たちを苦しめて幼子を捨てさせ、生かしておけないようにしました。

 エジプト人はイスラエル人があまりに増え広がっていることに恐怖を感じていました。それでエジプトの王は新しく生まれた子が男の子だったら殺すように助産婦たちに命じていました。20節と21節、

7:20 モーセが生まれたのは、このような時でした。彼は神の目にかなった、かわいい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、
7:21 ついに捨てられたのをファラオの娘が拾い上げ、自分の子として育てました。

 こうしてモーセはエジプトの王家の息子として育てられました。22節、

7:22 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。

 この22節は非常に重要だと思います。モーセは王家の息子として当時の最高の教育を受けることができました。エジプトは四大文明の地ですから、世界最高水準の学問を学ぶことができました。このことが、後に約百万人ものイスラエル人を率いてエジプトを出る一大プロジェクトのリーダーになるための基礎を養うことにつながったことは間違いありません。

②羊飼いの40年間は心身の修練の期間
 使徒の働き7章の続きを見て行きます。23節、

7:23 モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。

 モーセはエジプトの王家の息子として育ちましたが、自分がイスラエル人であることを忘れていませんでした。これはモーセが40歳の時の出来事です。24節、

7:24 そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。

 モーセはイスラエル人を虐待していたエジプト人を打ち殺してしまいました。25節、

7:25 モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。

 それで、28節にあるように同胞のイスラエル人から、「昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか」と言われたために、エジプトを逃げ出さなければならなくなりました。29節です。

7:29 このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。

 モーセはミディアンの地で羊飼いとなり、40年間を過ごすことになりました。この羊飼いとしての40年間はモーセにとって心身の修練の期間、すなわち心と体を整える期間として神様がモーセに与えたものであろうと思います。

 まず心の面ですが、エジプトの王家で育てられたモーセは余計なプライドも持っていたことでしょう。奴隷として苦しんでいたイスラエルの民の目には、モーセは「鼻持ちならない男」ぐらいにしか映らなかったかもしれません。モーセがイスラエル人の味方になろうとしたのに、同胞の者たちが理解してくれなかったのも、モーセに尊大なところがあったからではないかという気がします。

 しかし、モーセのプライドは逃れた先のミディアンで羊飼いになったことで徹底的に砕かれて、へりくだる心が与えられたのではないでしょうか。謙遜さは出エジプトのリーダーになるためには、どうしても必要なものとして神様がモーセに試練を与えて備えさせたのであろうと私は思います。プライドが高くて尊大な心を持っていたのでは、百万人ものイスラエルの民を束ねてエジプトを脱出することは不可能であったことでしょう。

 或いはまた羊飼いとしての40年間は足腰を鍛えて体力を養うための40年間でもあったのでしょう。エジプト脱出を率いるリーダーの足腰が弱々しかったら先頭に立つことはできません。また、リーダーのモーセには様々な訴えや相談がたくさん持ち込まれました。それゆえモーセは常に忙しくて十分な休養も取れなかったでしょう。モーセには強靭な体力も必要でした。

 このようにミディアンでの羊飼いとしての40年間は、エジプト脱出のリーダーになるための心身の鍛錬の期間として神様が与えたものであると言えるでしょう。

③好奇心に導かれて神と出会ったモーセ
 ここからは出エジプト記の3章(旧約p.101)を見て行きましょう。まず1節、

3:1 モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。

 きょうは開きませんが、地図を見るとミディアンの地とホレブ山とは100km以上離れていますから、羊飼いとしてのモーセは相当に長い距離を歩き回っていたことが分かります。このようにしてモーセの足腰は鍛錬されて行ったのでしょう。続いて2節と3節、

3:2 するとの使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。
3:3 モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」

 このモーセのつぶやきからは、彼が好奇心旺盛な人物であったことが分かります。芝が燃え尽きるためには、ある程度の時間が必要でしょうから、モーセは長い時間に亘って芝を観察していたのでしょう。そうして、芝がなかなか燃え尽きないのを見て、なぜ芝が燃え尽きないのか調べに行きました。まるで科学者みたいだと思います。このような旺盛な好奇心の持ち主であったために、モーセは神様と出会うことができました。

 しかし実は、この好奇心も神様によって育てられたと言えるでしょう。モーセのこの旺盛な好奇心はエジプトの王家で最高の教育を受けていた時に培われたはずです。人は幼い頃は誰でも旺盛な好奇心を持っています。大人なら不思議に思わないことでも何でも不思議に感じて、いろいろな質問をします。そのように子供が質問をした時に上手に答えられる大人が側にいるかいないかで、好奇心が育ったり、育たなかったりするでしょう。エジプトの王家には、幼かった頃のモーセが発する様々な質問に上手に答えられる大人がいたであろうと想像します。そうして育まれた好奇心によって80歳のモーセは神様と出会い、出エジプトのリーダーとして召し出されることになりました。

 続いて4節、
 
3:4 は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。

 このようにモーセには主からの呼び掛けをハッキリと聞き、そしてその呼び掛けに、「はい、ここにおります」と素直に応答することができました。都会のエジプトにいた時のモーセであったら霊性も鈍く、主の呼び掛けが聞こえなかったかもしれません。たとえ聞こえてもプライドの高くて尊大であった頃のモーセなら「はい、ここにおります」と素直に応答することもできなかったかもしれません。

 5節と6節、

3:5 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
3:6 さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。

 ミディアンでの40年間で整えられていたモーセは、神が恐れるべき存在であることを良く理解していました。続いて7節から10節までを読みます。少し長いので、交代で読みましょう。

3:7 は言われた。「私は、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
3:8 わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
3:9 今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
3:10 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」

 こうしてモーセはエジプト脱出のリーダーとして召し出されました。エジプトの王家で最高の教育を受けたのは、このことのためでした。ミディアンで羊飼いをするのに最高の教育は必要ではありませんでした。しかし、約百万人を率いてエジプトを脱出するという一大プロジェクトを成功させるためには、必要でした。イスラエル人であるにも関わらず、ファラオの娘に拾われて世界最高水準の教育を受けることができたのは、それが神様のご計画であったからでしょう。

④一匹一匹の羊を愛する飼い主
 それにしても、モーセはどうして羊飼いを40年間している間に旺盛な好奇心を失わなかったのでしょうか?刺激のある都会と違って、ミディアンは田舎でした。新聞もテレビももちろん無くて、毎日を同じように過ごしていたら、段々と好奇心を失って行くのではないでしょうか?

 そんなことを思い巡らしていて、ふとモーセは羊たちを愛していて、一匹一匹の個性を見分けながら大切に飼っていたのではないか、そんな風に思いました。一匹一匹に関心を寄せて羊の顔も見分けることができ、性格までも把握していたから、好奇心を失わなかったのではないか、そんなことを思い、私自身の牧師としてのあり方も考えさせられました。

 そしてまた、私たちの飼い主であるイエスさまも、私たちの一人一人を愛していて下さり、一人一人に関心を寄せて見守り、導いていて下さることをも感じました。私たちの一人一人は皆、育った環境も違いますし、性格も違います。その私たちの一人一人にイエスさまは寄り添って下さっています。

おわりに
 そして教会にも、それぞれに個性があります。私たちの教会には私たちの教会の個性があり、信仰の歩み方も教会によって異なることを感じます。私は牧師としては三つの教会を牧会しただけですが、神学生の時には多くの教会で奉仕をさせていただき、それぞれの教会が皆、違う個性を持つことを感じました。イエスさまはそれぞれの教会の個性に応じて、私たちに最善の道を示して下さいます。ですから私たちはイエスさまの導きを仰ぎながら、進んで行きたいと思います。

 モーセは羊たちを愛し、羊たちを飼っていました。このこともイスラエルの民を率いてエジプトを脱出することに役立っていたのですね。神様のすごさを思わずにはいられません。ですから、私たちも、私たちを愛していて下さるイエスさまを信頼して進んで行けば、間違いありません。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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祝福されるまで神を去らせない(2020.2.16 礼拝)

2020-02-17 09:17:26 | 礼拝メッセージ
2020年2月16日礼拝メッセージ
『祝福されるまで神を去らせない』
【創世記32章22~32節】

はじめに
 今年の礼拝メッセージでは神の愛の下で生きる者たちの姿を聖書から学んでいます。多くの者たちは神様の愛に気付かずに神様に背き、神様から離れて行きます。しかし、ノアやアブラハムのように神様と共に歩む者たちもいました。

 先週は、アブラハムが息子のイサクを全焼のいけにえとして神様に献げる直前まで行った場面をご一緒に見ました。主がそうするようにとアブラハムに言ったので、アブラハムはその主の御声に聞き従ったのですが、これは単に聞き従うというレベルではなく、それ以前にアブラハムは人生の決定権を手放して、主に全面的に委ねていたのだという話をしました。

 ここに至るまで、アブラハムは主から多くの語り掛けを受けて主と共に歩んでいて、信仰を深めていました。それゆえ、イサクを献げるようにという主の御声に背くという選択肢は無かったのだろうという話をしました。それほどまでにアブラハムは主との信頼関係を深めて一体化していました。

 この時、アブラハムの生涯は晩年の時期に近づいていました。ここまで主と共に長い道を歩んで来たからこそ、たどり着いた境地だと思います。

 きょう開いているヤコブの箇所は、ヤコブがまだまだ若かった頃のことです。若いと言っても故郷のカナンを離れてから二十年が経って既に十一人の息子がいましたから立派な大人でしたが、神様との関係はまだそれほど深まっていなかった時期でした。その中でヤコブは人生最大の危機の時を迎えようとしていました。

 その時のヤコブの姿を今日はご一緒に見ることにします。きょうは次の四つのパートで話を進めて行きます。

 ①不安で眠れなかったヤコブ
 ②神との祈りの格闘
 ③悔い改めて神の御前で正直になる
 ④弱いから祝福されて強くなれる

①不安で眠れなかったヤコブ
 きょうの創世記32章の場面以前に、何があったのかを、簡単に見ておきます。

 ヤコブはイサクの子でアブラハムの孫です。ヤコブには双子の兄弟の兄のエサウがいました。ヤコブはエサウの弟です。ある時、ヤコブは長男のエサウが受けるべき祝福を横取りしてしまいました。父のイサクがエサウを祝福しようとした時に、ヤコブはエサウに成りすまして祝福を受けたのでした。祝福を受けられなかったエサウはヤコブを恨み、彼を殺すことを考えます。そこでヤコブは兄から逃れて故郷を離れました。向かった先は母リベカの兄のラバンが暮らすハランの地でした。その地でヤコブは伯父のラバンの二人の娘、レアとラケルを妻に迎えて20年間を過ごしました。

 そうして故郷を離れていたヤコブでしたが、主からの言葉を受けて、いよいよまた故郷に戻る時が来ました。創世記31章3節に、主のことばがあります。

31:3 はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」
 
 この主のことばを受けてヤコブは故郷へ向けて出発しました。31章の17節と18節をお読みします。

31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、
31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分のものとした家畜を連れて、カナンの地にいる父イサクのところへ向かった。

 ヤコブにとって故郷に戻れることはうれしいことでした。しかし、大きな不安もありました。それは、故郷に帰るとなれば兄のエサウが黙ってはいないだろうとうことです。

 この時、エサウはエドムにいました。(巻末の地図2で出発地のパダン・アラムと目的地のシェケムの位置関係、地図6でエドムとペヌエル、シェケムの位置関係を確認)。

 ヤコブは黙ってシェケムに行くのでなく、エドムにいた兄のエサウの所に使いを送って知らせておきました。32章の3節です。

32:3 ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。

 すると戻って来た使いが言いました。6節、

32:6 使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」

 何と、兄のエサウは四百人も引き連れてヤコブを迎えにペヌエルにやって来るとのことでした。これを聞いたヤコブは7節にあるように非常に恐れ、不安になりました。兄は20年前のことをまだ恨んでいて、四百人でヤコブを殺そうとしているのかもしれません。

②神との祈りの格闘
 不安で仕方が無かったヤコブはその夜、神と格闘しました。これは祈りの格闘とも言えるでしょう。32章の24節です。

32:24 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 そして26節、

32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜(よ)が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

 きょうのメッセージのタイトルは、この26節のヤコブのことばから取りました。ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と言いました。

 それだけヤコブの不安が大きかったとも言えますが、この祝福へのヤコブの執念は凄まじいと思います。私たちには、ここまで神様に祝福していただくことへの執念があるでしょうか。私の場合は、ついつい弱気になってしまって、神様は祝福して下さらないかもしれないと思ってしまうことが時にあります。

 しかし、マタイの福音書のイエスさまは、きょうの招きのことばでも引用したように、

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

と言っておられます。

 また、きょうの聖書交読で読んだように、ルカの福音書のイエスさまは不正な裁判官のたとえで、いつでも祈るべきことを説いておられます。開かなくて良いですから、聞いていて下さい。ルカの福音書18章です。まず1節、

18:1 いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。

 ここから不正な裁判官のたとえ話が始まります。

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
18:3 その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
18:4 この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
18:5 このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、 私は疲れ果ててしまう。』」
18:6 主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
18:7 まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。

 不正な裁判官は最初はやもめの訴えを無視していました。そんな、人を人とも思わない裁判官でも、やもめの訴えを聞くことにしたほど、やもめはあきらめずに訴え続けました。まして神は、昼も夜も神に叫び求めている者をいつまでも放っておかれるでしょうかとイエスさまは、おっしゃいました。

 私たち一人一人にはそれぞれの祈りの課題があります。そして、この教会にも祈りの課題があります。それらの祈りの課題がたとえ、なかなか聞かれないことがあっても、私たちは失望することなく祈り続けたいと思います。

③悔い改めて神の御前で正直になる
 ただし私たちは神様の御前で正直である必要があります。創世記32章に戻って、このことを見たいと思います。もう一度26節に戻って、26節と27節をお読みします。

32:26 すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」

 自分の名前を聞かれたヤコブは「ヤコブです」と答えました。神様がヤコブの名前を知らない筈がありませんね。では、どうして神様はヤコブに名前を聞いたのでしょうか。

 私はこう思います。神様はヤコブがエサウから父イサクの祝福を横取りした時に戻して、悔い改めを迫ったのではないでしょうか。

 20年前、ヤコブは兄のエサウに成りすまして父イサクからの祝福を横取りしました。イサクは年老いて目が見えなくなっていました。父が「お前はだれかね」と聞いた時、ヤコブは「長男のエサウです」と答えました(創世記27章)。

 そして20年後の今、エサウは四百人を引き連れてヤコブの所に来つつあります。このことの恐怖からヤコブは神様に祝福を求めていました。神様の側から見れば、祝福を受けたいなら、嘘をついて祝福を受けたことをきちんと悔い改めなさいということではないでしょうか。

 27節でヤコブは、今度は正直に「ヤコブです」と言いました。このことが神様の心に適いました。28節、

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」

 そうして神様はヤコブを祝福しました。

④弱いから祝福されて強くなれる
 神様の祝福を受けたヤコブは恐れることなく、エサウに会いに行きました。前の晩のヤコブは恐ろしくて川を渡ることができませんでした。22節と23節にあるように、ヤコブは家族を先に渡らせました。そして24節にあるように、ヤコブは一人だけ残っていたのでした。

 しかし、祝福を受けた後のヤコブは違いました。33章の3節にあるように、ヤコブは自ら家族の先に立って進みました。1節から読んで行きます。

33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。そこで、ヤコブは子どもたちを、レアとラケルと二人の女奴隷の群れに分け、
33:2 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。
33:3 ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

 神様から祝福を受けたヤコブは、恐れることなく先頭に立って進むことができるようになっていました。ヤコブが祝福を受けることができたのは、ヤコブが自分の弱さを認めて神様に祝福を求めたからです。そして4節、

33:4 エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。

 兄のエサウはもはやヤコブを恨んではいませんでした。もしかしたら、神様の御手がエサウの心にも伸びて、エサウに赦しの気持ちを与えたのかもしれません。こうしてヤコブは、無事に故郷のカナンに戻ることができました。
 
おわりに
 今日ご一緒に見たヤコブの姿からは、多くのことが学べると思います。ヤコブはどちらかというと自分の知恵や策略を武器にして、神様に頼らずに自分の力で生きて来ました。しかし、自分の力ではどうしようもなくなった時に、神様に祝福を求めました。その執念は凄まじく、祝福を受けるまで神様を去らせませんでした。その時のヤコブは自分の弱さを認め、自分を偽って来たことを認め、神様の御前で正直になっていました。

 それが神様の御心に適い、ヤコブは祝福を受けて恐れることなく兄のエサウに会うことができました。
 このヤコブの姿を見ると私は、自分の中途半端さを思います。しかし、こんな私にもイエスさまは

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

とおっしゃって下さっています。

7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

とおっしゃって下さるイエスさまと共に、歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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