2020年5月24日礼拝メッセージ
『奥深い自分の声に忠実に生きる』
【黙示録3:20(招詞)、ルカ15:11~24(交読)、ヨハネ1:35~39(朗読)】
はじめに
きょうからまた、いつもの礼拝のスタイルに戻すことができましたから感謝です。
先週までは教会の活動が停滞して、活動量がどん底まで落ちました。ですから、この機会を利用して、これから回復して行く過程においては、主に導かれながら、以前のことにはこだわらずに新しいことも考えてみたいということを先週は話しました。
そこでメッセージについても、もう一度、一から考え直してみることにしました。偶然にも、教団発行の小冊子の『つばさ』の編集委員会から「わたしの一冊」の原稿執筆依頼が来ていますから、この「わたしの一冊」と礼拝メッセージとを絡める形で、しばらく何回かのシリーズで話をすることにします。
この「わたしの一冊」は、教団の牧師が交代で、自分にとって思い入れの深い一冊を紹介するものです。祈りの本であったり、ディボーションの本であったり、きよめの信仰の本であったり、人それぞれです。
私は以前から、もし自分に原稿執筆依頼が来たら、自分が教会に導かれる10年前に出会った本のことを紹介しようと決めていました。教会に通う前の話ですから、聖書については何も知らない頃に出会った本です。しかし、その本に出会うことで私は教会に導かれました。
つまり人は、聖書を知らなくても信仰の入口までは導かれます。もちろん、イエス・キリストを信じるには聖書知識が少しは必要です。しかし、その手前の段階までは聖書をぜんぜん知らなくても来ることができます。これはウェスレー神学で「先行的恵み」と呼ばれるものです。人は生まれながらにして罪に全面的に縛られていますから、天からの何らかの助けが無ければ信仰に辿り着くことは不可能です。この助けを「先行的恵み」と言います。恵みが先行的に注がれることで、罪人の私たちはたとえ信仰から遠く離れた所にいても、信仰の近くまで導かれて来ることができます。これは本当に感謝なことです。
これから何回かのシリーズで、私が『つばさ』誌で取り上げる予定の一冊を紹介しながら、信仰に至る道について、ご一緒に考えて行きたいと思います。
きょうは『奥深い自分の声に忠実に生きる』というタイトルで、次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。
①奥深い自分の声に忠実に生きる
②本当の声(良心の声)と偽りの声
③奥深い自分は何を求めているのか?
④奥深くにある魂をノックするイエスさま
①奥深い自分の声に忠実に生きる
ご紹介する本は、講談社現代新書の『自己愛とエゴイズム』という本です。

1989年に出版され、私は1991年頃に、当時住んでいた名古屋の官舎の近くの小さな本屋さんで、この本に出会いました。
「エゴイズム」は悪い意味を持つ言葉ですね。では、「自己愛」はどうでしょうか?自己愛も自己中心を思い起こさせますから、一般的には悪いイメージを持つ言葉だと思います。しかし、この本では「自己愛」とは「本来の自分を愛する」という意味で使われていて、これを良いこととしています。つまり、この本は「自己愛」は良いこと、「エゴイズム」は悪いこととしています。
ただし、ある一つの行動が、自己愛からの行動なのかエゴイズムからの行動なのか区別しにくいことがあります。そこで、この本では小説や映画などを題材にしながら、自己愛とエゴイズムの違いは何だろうか?ということを読者に問い掛けながら、共に考えていく構成になっています。
今話したように、この本は小説や映画の例をふんだんに取り入れています。そして表面的には聖書の話はほとんど出て来ません。だからこそ、まだ聖書を知らなかった頃の私の心を捉えたのだろうと思います。もし聖書が前面に出ていたら私は身構えてしまって、この本を手にすることはなかったと思います。けれども、実はこの本はとても聖書的なことが書かれている本です。それで、この礼拝メッセージでは聖書的な説明を補いながら、この本を紹介していくことにします。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。先ほども話したように、この本では、「自己愛」とは「本来の自分を愛すること」です。では、「本来の自分」とはどんな自分でしょうか?ここから早速、聖書を補って解説します。これから話す聖書的な解説は、この本には書かれていません。
「本来の自分」とは、神様が人を造った時の、すべてが非常に良かった時の人、としての自分です(創世記1:31「見よ、それは非常に良かった」)。神様は人をご自身の像(かたち)に造られました。ですから、「本来の自分」は、神様が喜ぶ生き方をします。しかし、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べて人の心に罪が入ったために、人は神様が喜ぶ生き方をすることができなくなりました。
人はいつも偽りの声を聞きながら生きています。悪魔・サタンの声と言っても良いでしょう。そこで、この本では奥深い自分の声に耳を傾けて、その声に忠実に生きることを勧めています。それは神様が喜ぶ生き方を勧める声であり、別の言い方をすれば「良心の声」です。
②本当の声(良心の声)と偽りの声
ここでは、この本が取り上げている小説を紹介することにします。このメッセージのシリーズでは、この本が取り上げている多くの小説や映画から、1回のメッセージにつき一つか二つだけを紹介して行くことにします。随分ともったいぶっていると思うかもしれませんが、それぐらいじっくりと取り組むべき価値があるテーマだと考えています。
この本では、まずカミュの『転落』という小説が紹介されています。カミュは今年、『ペスト』がベストセラーになりましたね。この春、新潮文庫版の『ペスト』の発行部数が100万部を突破したそうです。『ペスト』は1947年に発表された古い小説ですが、新型コロナウイルスの感染が拡大して移動が制限されるようになり、似たような状況が設定されていたこの小説が爆発的に売れました。
『ペスト』は『自己愛とエゴイズム』の中でも取り上げられていますが、この本の著者は先ず、カミュの『転落』を取り上げています。紹介するのが遅れましたが、『自己愛とエゴイズム』の著者はハビエル・ガラルダというカトリックのイエズス会の神父さんで、この本が書かれた1989年の当時の肩書は東京の上智大学の教授でもありました。日本に住んでいる先生ですから、この本も日本語で書かれています。
さてカミュの『転落』です。主人公はフランスのパリで活躍する有能な弁護士でした。しかし、今は転落して落ちぶれています。有能な弁護士だった頃の彼は貧しい人の弁護を無料で引き受けたり、困っている人を喜んで助けたりと、多くの善い行いをしていました。しかし、実はそれらは全て、人から称賛されて自己満足を得るためにしていた善い行いでした。自分では気付いていませんでしたが、あることをきっかけにして彼はそのことに気付かされます。
ある夜、彼が人通りの途絶えた通りを歩いていて橋に差し掛かった時、橋の上から川を見つめている黒服の若い女性がいました。彼は彼女の後ろを黙って通り過ぎ、しばらくすると、後ろから川に人が落ちる音がして女性の叫び声が聞こえました。しかし、彼はその声に振り向くことなく、そのまま歩き続けて帰宅します。
すると、その晩からしばらくして、彼の耳にはどこからともなく人の笑い声が聞こえるようになりました。誰もいないのに笑い声が聞こえるようになり、彼はその笑い声に耐えられなくなって酒と女性に溺れるようになって転落して行った、という話です。
有能だった頃の彼は、人に対してとても親切でした。それは、とても良いことであり、神様も喜ばれることです。しかし、彼は夜遅くに川に飛び込んだ女性を助けませんでした。それは誰も見ていなかったからです。もし、周りに見ている人がいれば彼は上着を脱いでカッコ良く川に飛び込んで彼女を助けたことでしょう。そうして、人々は彼を称賛したことでしょう。しかし夜遅くて人通りが途絶えていて誰も見ていなかったので、彼は女性を助けませんでした。このことで、彼は自分が人から称賛されるために善い行いをしていたことに気付かされます。
この事件が起きるまでは、それまでの彼の行動が心の浅い部分を満足させるだけの行動なのか、奥深い部分を満足させる行動なのか、区別はつきませんでした。しかし、女性を助けなかったことで彼の行動は心の浅い部分だけを満足させるための行動であったことが明らかになりました。奥深い所にある本来の自分は、人が見ていようがいまいが、弱い人を助けたいと考えます。しかしエゴイズムに支配されていると、雑念が入って奥深い自分が何を求めているのかが分からなくなってしまいます。
この『転落』を最初に紹介している『自己愛とエゴイズム』という本に出会った時の私は、この本の底流には聖書的な教えが流れていることなど、もちろんぜんぜん分かりませんでした。しかし、「何だか凄い本に巡り会ったぞ」という気がして、以降、何も分からないままにですが、「奥深い自分の声に耳を澄ます」ということを試すようになりました。そうして、本来の自分が何を求めているのか?ということを少しずつ考えるようになりました。
③奥深い自分は何を求めているのか?
きょうの聖書箇所でイエスさまはヨハネの二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか?」と聞きました。ヨハネ1章38節ですね。38節、
もし、この現場に皆さんがいて、自分のほうを振り向いたイエスさまから「あなたは何を求めているのですか?」といきなり聞かれたら、何と答えますか?突然そんなことを聞かれても、きっと困ってしまうでしょうね。弟子たちも困ったのでしょう。聞かれたことに答えずに、「先生、どこにお泊りですか?」と逆に聞き返してしまいました。
私も、いきなりイエスさまに「何を求めているのですか?」と今聞かれたら、「マスクです」、とか「消毒用のアルコールです」などと答えてしまうかもしれません。本当の自分、奥深い所にある本来の自分の心が何を求めているのか、人はそう簡単に答えることはできません。
でも、それで良いのだと思います。すべてはここから始まります。ここで二人の弟子たちはイエスさまに出会ってはいますが、本当の意味で出会ったわけではありません。「何を求めているのですか?」と聞かれて、「どこにお泊りですか?」と聞き返しているようでは、まだまだイエスさまに出会ったとは言えません。でも、それでも良いのです。なぜなら、まだここは第1章でイエスさまとの出会いの物語が始まったばかりだからです。これから弟子たちはイエスさまと一緒に旅をして、イエスさまとの交わりを深めて、やがて「最後の晩餐」の食卓を共にし、十字架に掛かるイエスさまを見上げ、そして復活したイエスさまと出会います。復活したイエスさまと出会って、ようやくイエスさまと出会ったと言えるでしょう。
④奥深くにある魂をノックするイエスさま
きょうの招きの詞では黙示録3章20節のみことばを引きました。
この会堂の入口の上にも、玄関の扉をたたくイエスさまの絵が掲げてありますね。イエスさまは、いつでも誰に対してでも、その人の心の扉を叩いて、応答するのを待っています。しかし罪に支配されて奥深い自分の声が聞こえなくなっていると、このイエスさまのノックの音さえ聞こえません。たとえ聞こえても、扉を開けてイエスさまを迎え入れるまでには、なかなか至りません。ノックの音が聞こえないところから始まって、ノックの音が聞こえ、イエスさまを迎え入れ、そうしてイエスさまと食事をするようになるまでには、とてつもなく長い期間が掛かるのが普通です。しかも食事をしてもなお、さらにその先の、十字架のイエスさまと復活したイエスさまにも出会う必要があります。
きょうの聖書交読ではルカの福音書15章の有名な「放蕩息子の帰郷」の場面をご一緒に読みました。父の家を離れて遠い外国で放蕩していた弟息子にはイエスさまが彼の心の扉を叩く音が聞こえるはずもありませんでした。しかし、父に分けてもらった財産を湯水のように使い果たした挙句に食べる物にも困るようになった時、彼はドアのノックの音を聞いて、ようやく我に返ったのですね。そうして彼は父の家に帰り、家の中に迎え入れられました。それは心の扉を開いてイエスさまを自分の中に迎え入れたということです。
しかし実は、ここからが弟息子とイエスさまとの出会いの物語の始まりです。弟息子は、まだまだ「先生、どこにお泊りですか?」と聞き返す程度の幼い信仰しか持っていません。すべてはここから始まります。弟息子は長い道のりを歩いて父の家に帰りましたが、信仰の旅の道のりはまだ始まったばかりです。
私が『自己愛とエゴイズム』に巡り会ったのは高津教会を初めて訪れる約10年前のことでした。ここからようやくイエスさまのノックの音が、微かに聞こえるようになりました。そして10年掛かって漸く高津教会を訪れた時にノックの音がハッキリと聞こえるようになりました。しかし、まだ心の扉は開かれていません。教会に行ったというだけの話ですから、イエスさまのことをぜんぜん知りません。私が心の扉を開けたのは、もう少し先のことでした。
神様の先行的な恵みによって、『自己愛とエゴイズム』という本に出会った私は、この本が勧める「奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きること」を実践しようと試み始めました。そうして少しずつ教会へと近づいて行き、ノックの音が次第に大きく聞こえるようになって行ったのだと思います。
きょうの午後は、天に召されたY兄の納棺式を行います。その後で前夜式がありますが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために教会の皆さんは前夜式と告別式に出席できません。そこで納棺式後、前夜式の前に分散して来ていただいて、Y兄と最後のお別れをしていただきます。そして午後6時から前夜式があり、明日の午前10時から告別式を行います。
今回、金曜と土曜の二日間の短い間に礼拝と前夜式と告別式の三つの説教原稿を同時並行で作成しました。そうして、これら三つの説教原稿を作成しながら、Y兄のイエスさまとの交わりについても思いを巡らしました。Y兄の心も10代の若い頃は放蕩息子のように父の家から離れていましたが、父の家に戻りました。そして、イエスさまと出会って少しずつ交わりを深めて行き、やがて本当の意味でイエスさまに出会いました。
Y兄は、この1年あまり、がんの末期で残された期間が少ないと医師に告げられてからは、イエスさまとの交わりをますます深めて行きました。Y兄とイエスさまとの交わりはがんが見つかる前からも既に十分に深まっていましたが、がんの末期と分かって以降、もっともっと深まって行きました。そうしてイースターから40日目のイエスさまが天に上げられたのと同じ日に、Y兄はイエスさまと共に天に上げられました。本当にすごいことだなあと思います。
おわりに
イエスさまとの交わりは、先ずはイエスさまが叩くノックの音に気付くところから始まります。ノックの音が聞こえても心の扉を開けるまでには、また時間が掛かりますし、扉を開いてからも食事をするまでには、なお時間が掛かります。そうして、十字架のイエスさまに出会い、復活したイエスさまに出会い、Y兄が深めて行った領域に至るまでには、もっともっと時間が掛かります。
そう考えると、イエスさまとの信仰の旅路の道のりは本当に長いのだなと改めて思います。ですから、焦らなくても良いのだと思います。ゆっくりゆっくりイエスさまとの関係を深めて行けば良いのだと思います。しかし、先ずはイエスさまのノックの音に気付かなければ何も始まりません。或いはまた、すでに心の扉を開けてイエスさまを迎え入れている方でも、奥深い自分の声に耳を傾けることで、イエスさまとの交わりをもっと深めて行くことができるでしょう。
ですから、すべての方々に、奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きることをお勧めしたいと思います。
これからも、『自己愛とエゴイズム』を紹介しながら何回かのシリーズで、この本からいただける恵みを分かち合って行きたいと思います。
そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
『奥深い自分の声に忠実に生きる』
【黙示録3:20(招詞)、ルカ15:11~24(交読)、ヨハネ1:35~39(朗読)】
はじめに
きょうからまた、いつもの礼拝のスタイルに戻すことができましたから感謝です。
先週までは教会の活動が停滞して、活動量がどん底まで落ちました。ですから、この機会を利用して、これから回復して行く過程においては、主に導かれながら、以前のことにはこだわらずに新しいことも考えてみたいということを先週は話しました。
そこでメッセージについても、もう一度、一から考え直してみることにしました。偶然にも、教団発行の小冊子の『つばさ』の編集委員会から「わたしの一冊」の原稿執筆依頼が来ていますから、この「わたしの一冊」と礼拝メッセージとを絡める形で、しばらく何回かのシリーズで話をすることにします。
この「わたしの一冊」は、教団の牧師が交代で、自分にとって思い入れの深い一冊を紹介するものです。祈りの本であったり、ディボーションの本であったり、きよめの信仰の本であったり、人それぞれです。
私は以前から、もし自分に原稿執筆依頼が来たら、自分が教会に導かれる10年前に出会った本のことを紹介しようと決めていました。教会に通う前の話ですから、聖書については何も知らない頃に出会った本です。しかし、その本に出会うことで私は教会に導かれました。
つまり人は、聖書を知らなくても信仰の入口までは導かれます。もちろん、イエス・キリストを信じるには聖書知識が少しは必要です。しかし、その手前の段階までは聖書をぜんぜん知らなくても来ることができます。これはウェスレー神学で「先行的恵み」と呼ばれるものです。人は生まれながらにして罪に全面的に縛られていますから、天からの何らかの助けが無ければ信仰に辿り着くことは不可能です。この助けを「先行的恵み」と言います。恵みが先行的に注がれることで、罪人の私たちはたとえ信仰から遠く離れた所にいても、信仰の近くまで導かれて来ることができます。これは本当に感謝なことです。
これから何回かのシリーズで、私が『つばさ』誌で取り上げる予定の一冊を紹介しながら、信仰に至る道について、ご一緒に考えて行きたいと思います。
きょうは『奥深い自分の声に忠実に生きる』というタイトルで、次の四つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。
①奥深い自分の声に忠実に生きる
②本当の声(良心の声)と偽りの声
③奥深い自分は何を求めているのか?
④奥深くにある魂をノックするイエスさま
①奥深い自分の声に忠実に生きる
ご紹介する本は、講談社現代新書の『自己愛とエゴイズム』という本です。

1989年に出版され、私は1991年頃に、当時住んでいた名古屋の官舎の近くの小さな本屋さんで、この本に出会いました。
「エゴイズム」は悪い意味を持つ言葉ですね。では、「自己愛」はどうでしょうか?自己愛も自己中心を思い起こさせますから、一般的には悪いイメージを持つ言葉だと思います。しかし、この本では「自己愛」とは「本来の自分を愛する」という意味で使われていて、これを良いこととしています。つまり、この本は「自己愛」は良いこと、「エゴイズム」は悪いこととしています。
ただし、ある一つの行動が、自己愛からの行動なのかエゴイズムからの行動なのか区別しにくいことがあります。そこで、この本では小説や映画などを題材にしながら、自己愛とエゴイズムの違いは何だろうか?ということを読者に問い掛けながら、共に考えていく構成になっています。
今話したように、この本は小説や映画の例をふんだんに取り入れています。そして表面的には聖書の話はほとんど出て来ません。だからこそ、まだ聖書を知らなかった頃の私の心を捉えたのだろうと思います。もし聖書が前面に出ていたら私は身構えてしまって、この本を手にすることはなかったと思います。けれども、実はこの本はとても聖書的なことが書かれている本です。それで、この礼拝メッセージでは聖書的な説明を補いながら、この本を紹介していくことにします。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。先ほども話したように、この本では、「自己愛」とは「本来の自分を愛すること」です。では、「本来の自分」とはどんな自分でしょうか?ここから早速、聖書を補って解説します。これから話す聖書的な解説は、この本には書かれていません。
「本来の自分」とは、神様が人を造った時の、すべてが非常に良かった時の人、としての自分です(創世記1:31「見よ、それは非常に良かった」)。神様は人をご自身の像(かたち)に造られました。ですから、「本来の自分」は、神様が喜ぶ生き方をします。しかし、アダムとエバが食べてはならない木の実を食べて人の心に罪が入ったために、人は神様が喜ぶ生き方をすることができなくなりました。
人はいつも偽りの声を聞きながら生きています。悪魔・サタンの声と言っても良いでしょう。そこで、この本では奥深い自分の声に耳を傾けて、その声に忠実に生きることを勧めています。それは神様が喜ぶ生き方を勧める声であり、別の言い方をすれば「良心の声」です。
②本当の声(良心の声)と偽りの声
ここでは、この本が取り上げている小説を紹介することにします。このメッセージのシリーズでは、この本が取り上げている多くの小説や映画から、1回のメッセージにつき一つか二つだけを紹介して行くことにします。随分ともったいぶっていると思うかもしれませんが、それぐらいじっくりと取り組むべき価値があるテーマだと考えています。
この本では、まずカミュの『転落』という小説が紹介されています。カミュは今年、『ペスト』がベストセラーになりましたね。この春、新潮文庫版の『ペスト』の発行部数が100万部を突破したそうです。『ペスト』は1947年に発表された古い小説ですが、新型コロナウイルスの感染が拡大して移動が制限されるようになり、似たような状況が設定されていたこの小説が爆発的に売れました。
『ペスト』は『自己愛とエゴイズム』の中でも取り上げられていますが、この本の著者は先ず、カミュの『転落』を取り上げています。紹介するのが遅れましたが、『自己愛とエゴイズム』の著者はハビエル・ガラルダというカトリックのイエズス会の神父さんで、この本が書かれた1989年の当時の肩書は東京の上智大学の教授でもありました。日本に住んでいる先生ですから、この本も日本語で書かれています。
さてカミュの『転落』です。主人公はフランスのパリで活躍する有能な弁護士でした。しかし、今は転落して落ちぶれています。有能な弁護士だった頃の彼は貧しい人の弁護を無料で引き受けたり、困っている人を喜んで助けたりと、多くの善い行いをしていました。しかし、実はそれらは全て、人から称賛されて自己満足を得るためにしていた善い行いでした。自分では気付いていませんでしたが、あることをきっかけにして彼はそのことに気付かされます。
ある夜、彼が人通りの途絶えた通りを歩いていて橋に差し掛かった時、橋の上から川を見つめている黒服の若い女性がいました。彼は彼女の後ろを黙って通り過ぎ、しばらくすると、後ろから川に人が落ちる音がして女性の叫び声が聞こえました。しかし、彼はその声に振り向くことなく、そのまま歩き続けて帰宅します。
すると、その晩からしばらくして、彼の耳にはどこからともなく人の笑い声が聞こえるようになりました。誰もいないのに笑い声が聞こえるようになり、彼はその笑い声に耐えられなくなって酒と女性に溺れるようになって転落して行った、という話です。
有能だった頃の彼は、人に対してとても親切でした。それは、とても良いことであり、神様も喜ばれることです。しかし、彼は夜遅くに川に飛び込んだ女性を助けませんでした。それは誰も見ていなかったからです。もし、周りに見ている人がいれば彼は上着を脱いでカッコ良く川に飛び込んで彼女を助けたことでしょう。そうして、人々は彼を称賛したことでしょう。しかし夜遅くて人通りが途絶えていて誰も見ていなかったので、彼は女性を助けませんでした。このことで、彼は自分が人から称賛されるために善い行いをしていたことに気付かされます。
この事件が起きるまでは、それまでの彼の行動が心の浅い部分を満足させるだけの行動なのか、奥深い部分を満足させる行動なのか、区別はつきませんでした。しかし、女性を助けなかったことで彼の行動は心の浅い部分だけを満足させるための行動であったことが明らかになりました。奥深い所にある本来の自分は、人が見ていようがいまいが、弱い人を助けたいと考えます。しかしエゴイズムに支配されていると、雑念が入って奥深い自分が何を求めているのかが分からなくなってしまいます。
この『転落』を最初に紹介している『自己愛とエゴイズム』という本に出会った時の私は、この本の底流には聖書的な教えが流れていることなど、もちろんぜんぜん分かりませんでした。しかし、「何だか凄い本に巡り会ったぞ」という気がして、以降、何も分からないままにですが、「奥深い自分の声に耳を澄ます」ということを試すようになりました。そうして、本来の自分が何を求めているのか?ということを少しずつ考えるようになりました。
③奥深い自分は何を求めているのか?
きょうの聖書箇所でイエスさまはヨハネの二人の弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか?」と聞きました。ヨハネ1章38節ですね。38節、
1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「先生、どこにお泊まりですか。」
もし、この現場に皆さんがいて、自分のほうを振り向いたイエスさまから「あなたは何を求めているのですか?」といきなり聞かれたら、何と答えますか?突然そんなことを聞かれても、きっと困ってしまうでしょうね。弟子たちも困ったのでしょう。聞かれたことに答えずに、「先生、どこにお泊りですか?」と逆に聞き返してしまいました。
私も、いきなりイエスさまに「何を求めているのですか?」と今聞かれたら、「マスクです」、とか「消毒用のアルコールです」などと答えてしまうかもしれません。本当の自分、奥深い所にある本来の自分の心が何を求めているのか、人はそう簡単に答えることはできません。
でも、それで良いのだと思います。すべてはここから始まります。ここで二人の弟子たちはイエスさまに出会ってはいますが、本当の意味で出会ったわけではありません。「何を求めているのですか?」と聞かれて、「どこにお泊りですか?」と聞き返しているようでは、まだまだイエスさまに出会ったとは言えません。でも、それでも良いのです。なぜなら、まだここは第1章でイエスさまとの出会いの物語が始まったばかりだからです。これから弟子たちはイエスさまと一緒に旅をして、イエスさまとの交わりを深めて、やがて「最後の晩餐」の食卓を共にし、十字架に掛かるイエスさまを見上げ、そして復活したイエスさまと出会います。復活したイエスさまと出会って、ようやくイエスさまと出会ったと言えるでしょう。
④奥深くにある魂をノックするイエスさま
きょうの招きの詞では黙示録3章20節のみことばを引きました。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
この会堂の入口の上にも、玄関の扉をたたくイエスさまの絵が掲げてありますね。イエスさまは、いつでも誰に対してでも、その人の心の扉を叩いて、応答するのを待っています。しかし罪に支配されて奥深い自分の声が聞こえなくなっていると、このイエスさまのノックの音さえ聞こえません。たとえ聞こえても、扉を開けてイエスさまを迎え入れるまでには、なかなか至りません。ノックの音が聞こえないところから始まって、ノックの音が聞こえ、イエスさまを迎え入れ、そうしてイエスさまと食事をするようになるまでには、とてつもなく長い期間が掛かるのが普通です。しかも食事をしてもなお、さらにその先の、十字架のイエスさまと復活したイエスさまにも出会う必要があります。
きょうの聖書交読ではルカの福音書15章の有名な「放蕩息子の帰郷」の場面をご一緒に読みました。父の家を離れて遠い外国で放蕩していた弟息子にはイエスさまが彼の心の扉を叩く音が聞こえるはずもありませんでした。しかし、父に分けてもらった財産を湯水のように使い果たした挙句に食べる物にも困るようになった時、彼はドアのノックの音を聞いて、ようやく我に返ったのですね。そうして彼は父の家に帰り、家の中に迎え入れられました。それは心の扉を開いてイエスさまを自分の中に迎え入れたということです。
しかし実は、ここからが弟息子とイエスさまとの出会いの物語の始まりです。弟息子は、まだまだ「先生、どこにお泊りですか?」と聞き返す程度の幼い信仰しか持っていません。すべてはここから始まります。弟息子は長い道のりを歩いて父の家に帰りましたが、信仰の旅の道のりはまだ始まったばかりです。
私が『自己愛とエゴイズム』に巡り会ったのは高津教会を初めて訪れる約10年前のことでした。ここからようやくイエスさまのノックの音が、微かに聞こえるようになりました。そして10年掛かって漸く高津教会を訪れた時にノックの音がハッキリと聞こえるようになりました。しかし、まだ心の扉は開かれていません。教会に行ったというだけの話ですから、イエスさまのことをぜんぜん知りません。私が心の扉を開けたのは、もう少し先のことでした。
神様の先行的な恵みによって、『自己愛とエゴイズム』という本に出会った私は、この本が勧める「奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きること」を実践しようと試み始めました。そうして少しずつ教会へと近づいて行き、ノックの音が次第に大きく聞こえるようになって行ったのだと思います。
きょうの午後は、天に召されたY兄の納棺式を行います。その後で前夜式がありますが、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐために教会の皆さんは前夜式と告別式に出席できません。そこで納棺式後、前夜式の前に分散して来ていただいて、Y兄と最後のお別れをしていただきます。そして午後6時から前夜式があり、明日の午前10時から告別式を行います。
今回、金曜と土曜の二日間の短い間に礼拝と前夜式と告別式の三つの説教原稿を同時並行で作成しました。そうして、これら三つの説教原稿を作成しながら、Y兄のイエスさまとの交わりについても思いを巡らしました。Y兄の心も10代の若い頃は放蕩息子のように父の家から離れていましたが、父の家に戻りました。そして、イエスさまと出会って少しずつ交わりを深めて行き、やがて本当の意味でイエスさまに出会いました。
Y兄は、この1年あまり、がんの末期で残された期間が少ないと医師に告げられてからは、イエスさまとの交わりをますます深めて行きました。Y兄とイエスさまとの交わりはがんが見つかる前からも既に十分に深まっていましたが、がんの末期と分かって以降、もっともっと深まって行きました。そうしてイースターから40日目のイエスさまが天に上げられたのと同じ日に、Y兄はイエスさまと共に天に上げられました。本当にすごいことだなあと思います。
おわりに
イエスさまとの交わりは、先ずはイエスさまが叩くノックの音に気付くところから始まります。ノックの音が聞こえても心の扉を開けるまでには、また時間が掛かりますし、扉を開いてからも食事をするまでには、なお時間が掛かります。そうして、十字架のイエスさまに出会い、復活したイエスさまに出会い、Y兄が深めて行った領域に至るまでには、もっともっと時間が掛かります。
そう考えると、イエスさまとの信仰の旅路の道のりは本当に長いのだなと改めて思います。ですから、焦らなくても良いのだと思います。ゆっくりゆっくりイエスさまとの関係を深めて行けば良いのだと思います。しかし、先ずはイエスさまのノックの音に気付かなければ何も始まりません。或いはまた、すでに心の扉を開けてイエスさまを迎え入れている方でも、奥深い自分の声に耳を傾けることで、イエスさまとの交わりをもっと深めて行くことができるでしょう。
ですから、すべての方々に、奥深い自分の声に耳を澄まし、その声に忠実に生きることをお勧めしたいと思います。
これからも、『自己愛とエゴイズム』を紹介しながら何回かのシリーズで、この本からいただける恵みを分かち合って行きたいと思います。
そのことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
