2021年3月14日礼拝メッセージ
『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』
【ルカ16:1~9】
はじめに
きょうのメッセージのタイトルは、『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』です。このタイトルには、「多くの方々に、イエス様との出会いを経験して、心の深い平安を得てほしい」という願いが込められています。
東日本大震災に代表される地震による災害、温暖化によって巨大化する傾向にある台風や豪雨による被害、そしてコロナ禍で多くの方々が苦しみ、深い心の傷を負っています。イエス様はそれらの方々の心の傷を癒して平安を与えることができるお方です。
また、3.11によって影が薄くなりがちですが、3月10日は76年前に東京で大空襲があった日であり、3月13日の深夜から14日の未明に掛けては大阪で大空襲がありました。ここ静岡でも6月19日の深夜から20日の未明に掛けて大空襲がありました。その少し前には浜松でも大空襲がありました。ちょうどその頃、沖縄では地上戦が行われていて戦況は悪くなるばかりで、8月6日と9日には広島と長崎に原爆が投下されました。
争い事は人々の心に平安がない時に起き、小さな争いが大きな争いへと発展すると戦争の危険が高まります。76年前のような戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、多くの方々にイエス・キリストに出会って、心の深い平安を得ていただきたいと願います。
そのイエス様との出会いを手伝うために私たち自身も、もっと深くイエス様のことを知り、イエス様の魅力を味わい尽くしたいと思います。例えば、きょうの「不正な管理人のたとえ」は、一読しただけではイエス様が何をおっしゃりたいのか、よく分かりませんね。でも、分かるようになるとイエス様のことがもっと好きになって、イエス様のお手伝いをもっとしたくなることと思います。私自身も「不正な管理人のたとえ」が分かるようになったことで、イエス様のことがもっと好きになりました。
きょうのルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は注解書によれば、「難解なことで有名なたとえ」なのだそうです。或いはまた、「最も当惑をおぼえるたとえである」と書いている注解書もありますし、「いまだかつて、これほどたくさんの異なった説明を加えられたたとえはない」と書いている注解書もあります。難解であるがゆえに、様々に解釈されて来たということでしょう。
しかし難解なのは、16章1節にある「財産」を、金銀・穀物などの「物質的な資産」だと思い込んでいるからです。「神の愛」や「律法」のような「霊的な資産」もまた「財産」であることが分かれば、この「不正な管理人のたとえ」はそんなに難しくはないと思います。
きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。
①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
②異邦人は守らなくてよい食物規定や割礼
③律法は正しいので守らないのは「不正」
①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
1節から見ていきます。
まず最初に押さえておきたいのは、イエス様が「弟子たち」に対して語ったということです。前の章のルカ15章の「放蕩息子の帰郷」のたとえはパリサイ人や律法学者たちに対して語ったものです。そうして15章は兄息子の話で終わりますから、イエス様はパリサイ人たちに、「あなたがたは兄息子と同じです」と言っています。そして、この16章でイエス様は弟子たちに8節で「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」と話していますから、イエス様は弟子たちに「あなたがたも不正な管理人のように賢く行動しなさい」と言っています。
先々週のルカ15章からの説教では、父親が兄息子と弟息子に分け与えた「財産」とは「律法」のことでもあると話しました。「律法」はイスラエルの民にとっては、神の愛がたっぷりと詰まった「財産」でした。律法には細かい規定がたくさんありますが、それは天の父である神様がイスラエルの民を愛していたからです。信仰の幼かった彼らに、天の父は幼稚園児に教えるように生活のルールを教えました。このルールに、兄息子はパリサイ人がそうであったのと同じように縛られていて、父の愛が見えなくなっていました。
一方、弟息子は財産である律法をさっさと手放す生活をしてすぐに身を滅ぼしました。つまり、律法はガチガチに守って縛られてもいけないし、まったく守らないのもいけないものです。このことが分かると、あとで触れる6節で不正な管理人が「油百バテ」を「五十バテ」にしたことを、主人が「賢く行動した」とほめたことの意味が分かるでしょう。
1節によれば、この管理人は主人の「財産を無駄遣いしていた」ということです。これは放蕩息子ほどではないにしても、弟子たちは律法を守っていなかったということです。具体的に何を守っていなかったのか、いくつか考えられますが、いずれにしても、弟子たちは律法から少し逸脱することをしていました。それで2節、
「財産」を金銀・穀物のような物質的な資産だと思い込んでいると、主人は怒っているように見えます。しかし、実は主人は怒っていません。弟子たちが無駄遣いしていたのは物質的な財産ではなくて律法だったからです。イエス様はペンテコステの日以降の聖霊の時代のことを視野に入れながら、このたとえ話をしています(『ルカの福音書』は続編の『使徒の働き』を視野に入れながら書かれた福音書です)。イエス様は「使徒の時代」の聖霊で満たされた教会に「律法の管理」を弟子たちに任せるつもりはぜんぜんありませんでした。ですから、主人は怒っていません。このことが分かると、この2節のことばにユーモアを感じて、イエス様に一層の親近感をおぼえることと思います。続いて3節と4節、
この4節の「私を家に迎えてくれる」は、後にペテロが異邦人(ユダヤ人ではない外国人)のコルネリウスの家に迎えられたことを重ねると、分かりやすいと思います。使徒の働き10章のその箇所を引用します(週報p.2)。
このように使徒の働き10章のペテロが異邦人のコルネリウスの家に迎え入れられた場面を頭に入れておくと、ルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は、とても分かりやすくなります。
②異邦人は守らなくてもよい食物規定や割礼
レビ記11章に書かれている律法には、食べてはならないものが列挙されています。たとえば豚です。レビ記11章7節をお読みします(週報p.2)。
ユダヤ人にとって豚は汚れたものですから、豚を食べる外国人の異邦人は汚れていました。同様に、割礼を受けていない異邦人はユダヤ人から見れば汚れていました。そういうわけで、ユダヤ人のクリスチャンから見れば、たとえ異邦人がイエス・キリストを信じたとしても、割礼を受けないで汚れている限りは救われたことにはなっていません。それが、「割礼派」と呼ばれるユダヤ人クリスチャンたちが主張していたことでした。
しかし割礼を受けず、豚も食べて汚れているはずの異邦人たちに天から聖霊が降る現場をペテロやパウロたちは目撃していました。それは天の神様はイエス・キリストを信じる者なら誰でもユダヤ人・異邦人を問わずお救いになるということです。それゆえ先日の教会総会の日に開いた使徒15章の「エルサレム会議」の記事で見た通り、一部の律法を除けば異邦人は律法を守らなくても良いことを使徒たちは評決して、異邦人の教会に手紙を書いて通達することにしました。
ルカ16章5節と6節は、そのことを言っているのでしょう。5節と6節、
これは、守るべき律法を半分に減らしてあげたということです。ただ、減らしてもらう側からすれば、どうぜならもっと減らしてもらえるとうれしいのですが、半分なのはどうしてでしょうか?それは、モーセの十戒(殺してはならない、盗んではならないなど)のような道徳的な律法は守る必要があるからでしょう。私たち日本人のクリスチャンも、モーセの十戒は守らなければなりません。
神様は異邦人の私たち日本人にも律法を与え、私たちはそれを守る義務があります。ですから、私たちはモーセの十戒を守ります。ただし、日本人の私たちは豚を食べますし、割礼も受けません。それは、不正な管理人が私たち日本人のために証文を書き換えるように言ってくれたからなんですね。そして7節、
この人は2割しか減らしてもらっていません。サマリア人のように、ユダヤ人にかなり近い生活をしている民族のことでしょうか?サマリア人は混血ということでユダヤ人から見れば汚れていますが、もともとの先祖はユダヤ人と同じイスラエル人ですから、2割減らすだけで良いのかもしれません。続いて8節、
ペテロたちが生きた時代は、経験することの一つ一つのどれもが新しいことばかりで、戸惑ったり面食らったりすることばかりでした。それでもイエス様が地上にいた時にはイエス様に聞けば教えてもらえましたが、イエス様が天に昇ってからは、自分たちで判断しなければなりませんでした。中でも、ペテロが最も面食らったのは、異邦人のコルネリウスらにも聖霊が降って彼らが救われたことでした。ペテロがいかに驚いたか、ルカは使徒の働き10章にたっぷりとページを割いてその様子を描いていますし、さらに11章でも再び説明を繰り返しています。そして、この異邦人の救いの問題に関しては、使徒15章でももう一度取り上げています。
この「異邦人の救い」という難しい問題を、使徒たちは賢く解決しました。それゆえイエス様は彼らが賢く行動したことをほめました。イエス様が弟子たちを「この世の子ら」と呼んだのは、この時代はまだまだ過渡期の時代で光の子らの時代に完全に移ってはいないということなのでしょう。そしてイエス様は弟子たちに言いました。9節の「あなたがた」というのは弟子たちのことですから、これは弟子たちへのことばです。
使徒たちはこのイエス様のことば通りに、異邦人の友をつくりました。救われた異邦人たちの中にはペテロたちより先に天に召された者たちもいたでしょうから、彼らが使徒たちを永遠の住まいの天の御国で迎えてくれました。
③律法は正しいので守らないのは「不正」
それにしても、イエス様はどうして、管理人が行ったことを「不正」と言ったのでしょうか?それは、律法は正しいものだからです。正しいものだから守らないのは「不正」である、ということでしょう。律法は、モーセを通じて主ご自身がイスラエルの民に与えたものです。ですから、律法を与えられた民は、これを守る必要があります。律法を守らないことは「不正」です。
でも、この「不正」は異邦人の私たちにとっては必要な「不正」でした。ですから、イエス様はこの「不正」を賢い行動であるとして、ほめました。イエス様って、つくづく柔軟なお方だな~と思います。そして、ユーモアのあるお方だなと思います。
ここで改めて、2節をもう一度味わってみたいと思います。
きょうのメッセージの最初のほうで話しましたが、ここで主人は別に怒っているわけではありません。そのことを承知して読むと、このイエス様のたとえ話は実にユーモアに富んだ話だと思います。私は、このユーモラスなたとえ話を読んで、イエス様のことがますます好きになりました。
3節もまた面白いと思います。
ペテロやヨハネやヤコブは漁師でしたから、力はあったでしょう。でもイエス様と一緒に病気の人や弱い人々を救う働きをして来た弟子たちは、土を掘る仕事ではなく、人を助ける仕事をしたいでしょう。それを、こういう言い方で表現したイエス様は面白いなあと思います。
4節の「分かった、こうしよう」もお芝居みたいで楽しいですね。私は、この「分かった、こうしよう」で、俳優の加藤武さんの「よし、分かった」を思い出しました。古い映画の話で恐縮ですが、石坂浩二さんが名探偵の金田一耕助を演じた市川崑監督の映画、例えば『犬神家の一族』では、加藤武さんが「よし、分かった。犯人は〇〇だ」と、言う場面があり。とてもユーモラスでした。4節の「分かった、こうしよう」には、加藤武さんのようなユーモアがにじみ出ていて、このセリフをイエス様が言っているところを想像すると、とても楽しくなります。
おわりに
ここまで見て来たように、教会のリーダーであるイエス様はとても柔軟性に富んだお方であり、ユーモアにも溢れたお方です。もちろん、真面目な話もします。10節以降は真面目な話です。しかし、9節までのイエス様は茶目っ気さえ感じる、とても親しみやすいお方であることが分かります。
震災で深い心の傷を負った方々やコロナ禍で苦しんでいる方々、様々な問題・課題の中で不安を抱えている方々に、是非とも親しみやすいイエス様のことを知っていただきたいと思います。戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、イエス様と出会って、心の深い平安を得ていただきたいと思います。世間一般のイメージでは、聖書や教会は「硬い」というイメージがあると思います。しかし、教会のリーダーであるイエス様は、とても「ゆるい」お方です。人を規則で縛るような方ではありません。油百バテを五十バテにした弟子たちをほめたような、ゆるいお方です。
ですから、ぜひ多くの方々に、このゆるいイエス様に心を開いていただき、心の平安を得ていただきたいと思います。そして私たちは、そのためのお手伝いをしたいと思います。
「これは正しいことだから守るべきだ」とか、「正義はこうあるべきだ」と正論を唱えることも必要でしょう。でも、そればかりでなく、ゆるいイエス様の魅力もまた、お伝えできるようになりたいと思います。
しばらくご一緒にお祈りしましょう。

教会の花壇のチューリップ
『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』
【ルカ16:1~9】
はじめに
きょうのメッセージのタイトルは、『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』です。このタイトルには、「多くの方々に、イエス様との出会いを経験して、心の深い平安を得てほしい」という願いが込められています。
東日本大震災に代表される地震による災害、温暖化によって巨大化する傾向にある台風や豪雨による被害、そしてコロナ禍で多くの方々が苦しみ、深い心の傷を負っています。イエス様はそれらの方々の心の傷を癒して平安を与えることができるお方です。
また、3.11によって影が薄くなりがちですが、3月10日は76年前に東京で大空襲があった日であり、3月13日の深夜から14日の未明に掛けては大阪で大空襲がありました。ここ静岡でも6月19日の深夜から20日の未明に掛けて大空襲がありました。その少し前には浜松でも大空襲がありました。ちょうどその頃、沖縄では地上戦が行われていて戦況は悪くなるばかりで、8月6日と9日には広島と長崎に原爆が投下されました。
争い事は人々の心に平安がない時に起き、小さな争いが大きな争いへと発展すると戦争の危険が高まります。76年前のような戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、多くの方々にイエス・キリストに出会って、心の深い平安を得ていただきたいと願います。
そのイエス様との出会いを手伝うために私たち自身も、もっと深くイエス様のことを知り、イエス様の魅力を味わい尽くしたいと思います。例えば、きょうの「不正な管理人のたとえ」は、一読しただけではイエス様が何をおっしゃりたいのか、よく分かりませんね。でも、分かるようになるとイエス様のことがもっと好きになって、イエス様のお手伝いをもっとしたくなることと思います。私自身も「不正な管理人のたとえ」が分かるようになったことで、イエス様のことがもっと好きになりました。
きょうのルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は注解書によれば、「難解なことで有名なたとえ」なのだそうです。或いはまた、「最も当惑をおぼえるたとえである」と書いている注解書もありますし、「いまだかつて、これほどたくさんの異なった説明を加えられたたとえはない」と書いている注解書もあります。難解であるがゆえに、様々に解釈されて来たということでしょう。
しかし難解なのは、16章1節にある「財産」を、金銀・穀物などの「物質的な資産」だと思い込んでいるからです。「神の愛」や「律法」のような「霊的な資産」もまた「財産」であることが分かれば、この「不正な管理人のたとえ」はそんなに難しくはないと思います。
きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。
①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
②異邦人は守らなくてよい食物規定や割礼
③律法は正しいので守らないのは「不正」
①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
1節から見ていきます。
ルカ16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
まず最初に押さえておきたいのは、イエス様が「弟子たち」に対して語ったということです。前の章のルカ15章の「放蕩息子の帰郷」のたとえはパリサイ人や律法学者たちに対して語ったものです。そうして15章は兄息子の話で終わりますから、イエス様はパリサイ人たちに、「あなたがたは兄息子と同じです」と言っています。そして、この16章でイエス様は弟子たちに8節で「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」と話していますから、イエス様は弟子たちに「あなたがたも不正な管理人のように賢く行動しなさい」と言っています。
先々週のルカ15章からの説教では、父親が兄息子と弟息子に分け与えた「財産」とは「律法」のことでもあると話しました。「律法」はイスラエルの民にとっては、神の愛がたっぷりと詰まった「財産」でした。律法には細かい規定がたくさんありますが、それは天の父である神様がイスラエルの民を愛していたからです。信仰の幼かった彼らに、天の父は幼稚園児に教えるように生活のルールを教えました。このルールに、兄息子はパリサイ人がそうであったのと同じように縛られていて、父の愛が見えなくなっていました。
一方、弟息子は財産である律法をさっさと手放す生活をしてすぐに身を滅ぼしました。つまり、律法はガチガチに守って縛られてもいけないし、まったく守らないのもいけないものです。このことが分かると、あとで触れる6節で不正な管理人が「油百バテ」を「五十バテ」にしたことを、主人が「賢く行動した」とほめたことの意味が分かるでしょう。
1節によれば、この管理人は主人の「財産を無駄遣いしていた」ということです。これは放蕩息子ほどではないにしても、弟子たちは律法を守っていなかったということです。具体的に何を守っていなかったのか、いくつか考えられますが、いずれにしても、弟子たちは律法から少し逸脱することをしていました。それで2節、
2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
「財産」を金銀・穀物のような物質的な資産だと思い込んでいると、主人は怒っているように見えます。しかし、実は主人は怒っていません。弟子たちが無駄遣いしていたのは物質的な財産ではなくて律法だったからです。イエス様はペンテコステの日以降の聖霊の時代のことを視野に入れながら、このたとえ話をしています(『ルカの福音書』は続編の『使徒の働き』を視野に入れながら書かれた福音書です)。イエス様は「使徒の時代」の聖霊で満たされた教会に「律法の管理」を弟子たちに任せるつもりはぜんぜんありませんでした。ですから、主人は怒っていません。このことが分かると、この2節のことばにユーモアを感じて、イエス様に一層の親近感をおぼえることと思います。続いて3節と4節、
3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
この4節の「私を家に迎えてくれる」は、後にペテロが異邦人(ユダヤ人ではない外国人)のコルネリウスの家に迎えられたことを重ねると、分かりやすいと思います。使徒の働き10章のその箇所を引用します(週報p.2)。
使徒10:25 ペテロが着くと、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
28 (ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。
28 (ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。
このように使徒の働き10章のペテロが異邦人のコルネリウスの家に迎え入れられた場面を頭に入れておくと、ルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は、とても分かりやすくなります。
②異邦人は守らなくてもよい食物規定や割礼
レビ記11章に書かれている律法には、食べてはならないものが列挙されています。たとえば豚です。レビ記11章7節をお読みします(週報p.2)。
レビ記11:7 豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
ユダヤ人にとって豚は汚れたものですから、豚を食べる外国人の異邦人は汚れていました。同様に、割礼を受けていない異邦人はユダヤ人から見れば汚れていました。そういうわけで、ユダヤ人のクリスチャンから見れば、たとえ異邦人がイエス・キリストを信じたとしても、割礼を受けないで汚れている限りは救われたことにはなっていません。それが、「割礼派」と呼ばれるユダヤ人クリスチャンたちが主張していたことでした。
しかし割礼を受けず、豚も食べて汚れているはずの異邦人たちに天から聖霊が降る現場をペテロやパウロたちは目撃していました。それは天の神様はイエス・キリストを信じる者なら誰でもユダヤ人・異邦人を問わずお救いになるということです。それゆえ先日の教会総会の日に開いた使徒15章の「エルサレム会議」の記事で見た通り、一部の律法を除けば異邦人は律法を守らなくても良いことを使徒たちは評決して、異邦人の教会に手紙を書いて通達することにしました。
ルカ16章5節と6節は、そのことを言っているのでしょう。5節と6節、
5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
これは、守るべき律法を半分に減らしてあげたということです。ただ、減らしてもらう側からすれば、どうぜならもっと減らしてもらえるとうれしいのですが、半分なのはどうしてでしょうか?それは、モーセの十戒(殺してはならない、盗んではならないなど)のような道徳的な律法は守る必要があるからでしょう。私たち日本人のクリスチャンも、モーセの十戒は守らなければなりません。
神様は異邦人の私たち日本人にも律法を与え、私たちはそれを守る義務があります。ですから、私たちはモーセの十戒を守ります。ただし、日本人の私たちは豚を食べますし、割礼も受けません。それは、不正な管理人が私たち日本人のために証文を書き換えるように言ってくれたからなんですね。そして7節、
7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
この人は2割しか減らしてもらっていません。サマリア人のように、ユダヤ人にかなり近い生活をしている民族のことでしょうか?サマリア人は混血ということでユダヤ人から見れば汚れていますが、もともとの先祖はユダヤ人と同じイスラエル人ですから、2割減らすだけで良いのかもしれません。続いて8節、
8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
ペテロたちが生きた時代は、経験することの一つ一つのどれもが新しいことばかりで、戸惑ったり面食らったりすることばかりでした。それでもイエス様が地上にいた時にはイエス様に聞けば教えてもらえましたが、イエス様が天に昇ってからは、自分たちで判断しなければなりませんでした。中でも、ペテロが最も面食らったのは、異邦人のコルネリウスらにも聖霊が降って彼らが救われたことでした。ペテロがいかに驚いたか、ルカは使徒の働き10章にたっぷりとページを割いてその様子を描いていますし、さらに11章でも再び説明を繰り返しています。そして、この異邦人の救いの問題に関しては、使徒15章でももう一度取り上げています。
この「異邦人の救い」という難しい問題を、使徒たちは賢く解決しました。それゆえイエス様は彼らが賢く行動したことをほめました。イエス様が弟子たちを「この世の子ら」と呼んだのは、この時代はまだまだ過渡期の時代で光の子らの時代に完全に移ってはいないということなのでしょう。そしてイエス様は弟子たちに言いました。9節の「あなたがた」というのは弟子たちのことですから、これは弟子たちへのことばです。
9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
使徒たちはこのイエス様のことば通りに、異邦人の友をつくりました。救われた異邦人たちの中にはペテロたちより先に天に召された者たちもいたでしょうから、彼らが使徒たちを永遠の住まいの天の御国で迎えてくれました。
③律法は正しいので守らないのは「不正」
それにしても、イエス様はどうして、管理人が行ったことを「不正」と言ったのでしょうか?それは、律法は正しいものだからです。正しいものだから守らないのは「不正」である、ということでしょう。律法は、モーセを通じて主ご自身がイスラエルの民に与えたものです。ですから、律法を与えられた民は、これを守る必要があります。律法を守らないことは「不正」です。
でも、この「不正」は異邦人の私たちにとっては必要な「不正」でした。ですから、イエス様はこの「不正」を賢い行動であるとして、ほめました。イエス様って、つくづく柔軟なお方だな~と思います。そして、ユーモアのあるお方だなと思います。
ここで改めて、2節をもう一度味わってみたいと思います。
2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
きょうのメッセージの最初のほうで話しましたが、ここで主人は別に怒っているわけではありません。そのことを承知して読むと、このイエス様のたとえ話は実にユーモアに富んだ話だと思います。私は、このユーモラスなたとえ話を読んで、イエス様のことがますます好きになりました。
3節もまた面白いと思います。
3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。』
ペテロやヨハネやヤコブは漁師でしたから、力はあったでしょう。でもイエス様と一緒に病気の人や弱い人々を救う働きをして来た弟子たちは、土を掘る仕事ではなく、人を助ける仕事をしたいでしょう。それを、こういう言い方で表現したイエス様は面白いなあと思います。
4節の「分かった、こうしよう」もお芝居みたいで楽しいですね。私は、この「分かった、こうしよう」で、俳優の加藤武さんの「よし、分かった」を思い出しました。古い映画の話で恐縮ですが、石坂浩二さんが名探偵の金田一耕助を演じた市川崑監督の映画、例えば『犬神家の一族』では、加藤武さんが「よし、分かった。犯人は〇〇だ」と、言う場面があり。とてもユーモラスでした。4節の「分かった、こうしよう」には、加藤武さんのようなユーモアがにじみ出ていて、このセリフをイエス様が言っているところを想像すると、とても楽しくなります。
おわりに
ここまで見て来たように、教会のリーダーであるイエス様はとても柔軟性に富んだお方であり、ユーモアにも溢れたお方です。もちろん、真面目な話もします。10節以降は真面目な話です。しかし、9節までのイエス様は茶目っ気さえ感じる、とても親しみやすいお方であることが分かります。
震災で深い心の傷を負った方々やコロナ禍で苦しんでいる方々、様々な問題・課題の中で不安を抱えている方々に、是非とも親しみやすいイエス様のことを知っていただきたいと思います。戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、イエス様と出会って、心の深い平安を得ていただきたいと思います。世間一般のイメージでは、聖書や教会は「硬い」というイメージがあると思います。しかし、教会のリーダーであるイエス様は、とても「ゆるい」お方です。人を規則で縛るような方ではありません。油百バテを五十バテにした弟子たちをほめたような、ゆるいお方です。
ですから、ぜひ多くの方々に、このゆるいイエス様に心を開いていただき、心の平安を得ていただきたいと思います。そして私たちは、そのためのお手伝いをしたいと思います。
「これは正しいことだから守るべきだ」とか、「正義はこうあるべきだ」と正論を唱えることも必要でしょう。でも、そればかりでなく、ゆるいイエス様の魅力もまた、お伝えできるようになりたいと思います。
しばらくご一緒にお祈りしましょう。

教会の花壇のチューリップ