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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~(2021.3.14 礼拝)

2021-03-14 15:25:47 | 礼拝メッセージ
2021年3月14日礼拝メッセージ
『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』
【ルカ16:1~9】

はじめに
 きょうのメッセージのタイトルは、『ゆるいリーダーのイエス ~不正な管理人のたとえ~』です。このタイトルには、「多くの方々に、イエス様との出会いを経験して、心の深い平安を得てほしい」という願いが込められています。

 東日本大震災に代表される地震による災害、温暖化によって巨大化する傾向にある台風や豪雨による被害、そしてコロナ禍で多くの方々が苦しみ、深い心の傷を負っています。イエス様はそれらの方々の心の傷を癒して平安を与えることができるお方です。

 また、3.11によって影が薄くなりがちですが、3月10日は76年前に東京で大空襲があった日であり、3月13日の深夜から14日の未明に掛けては大阪で大空襲がありました。ここ静岡でも6月19日の深夜から20日の未明に掛けて大空襲がありました。その少し前には浜松でも大空襲がありました。ちょうどその頃、沖縄では地上戦が行われていて戦況は悪くなるばかりで、8月6日と9日には広島と長崎に原爆が投下されました。

 争い事は人々の心に平安がない時に起き、小さな争いが大きな争いへと発展すると戦争の危険が高まります。76年前のような戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、多くの方々にイエス・キリストに出会って、心の深い平安を得ていただきたいと願います。

 そのイエス様との出会いを手伝うために私たち自身も、もっと深くイエス様のことを知り、イエス様の魅力を味わい尽くしたいと思います。例えば、きょうの「不正な管理人のたとえ」は、一読しただけではイエス様が何をおっしゃりたいのか、よく分かりませんね。でも、分かるようになるとイエス様のことがもっと好きになって、イエス様のお手伝いをもっとしたくなることと思います。私自身も「不正な管理人のたとえ」が分かるようになったことで、イエス様のことがもっと好きになりました。

 きょうのルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は注解書によれば、「難解なことで有名なたとえ」なのだそうです。或いはまた、「最も当惑をおぼえるたとえである」と書いている注解書もありますし、「いまだかつて、これほどたくさんの異なった説明を加えられたたとえはない」と書いている注解書もあります。難解であるがゆえに、様々に解釈されて来たということでしょう。

 しかし難解なのは、16章1節にある「財産」を、金銀・穀物などの「物質的な資産」だと思い込んでいるからです。「神の愛」や「律法」のような「霊的な資産」もまた「財産」であることが分かれば、この「不正な管理人のたとえ」はそんなに難しくはないと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
 ②異邦人は守らなくてよい食物規定や割礼
 ③律法は正しいので守らないのは「不正」

①「財産」とは神の愛が詰まった「律法」
 1節から見ていきます。

ルカ16:1 イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。

 まず最初に押さえておきたいのは、イエス様が「弟子たち」に対して語ったということです。前の章のルカ15章の「放蕩息子の帰郷」のたとえはパリサイ人や律法学者たちに対して語ったものです。そうして15章は兄息子の話で終わりますから、イエス様はパリサイ人たちに、「あなたがたは兄息子と同じです」と言っています。そして、この16章でイエス様は弟子たちに8節で「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた」と話していますから、イエス様は弟子たちに「あなたがたも不正な管理人のように賢く行動しなさい」と言っています。

 先々週のルカ15章からの説教では、父親が兄息子と弟息子に分け与えた「財産」とは「律法」のことでもあると話しました。「律法」はイスラエルの民にとっては、神の愛がたっぷりと詰まった「財産」でした。律法には細かい規定がたくさんありますが、それは天の父である神様がイスラエルの民を愛していたからです。信仰の幼かった彼らに、天の父は幼稚園児に教えるように生活のルールを教えました。このルールに、兄息子はパリサイ人がそうであったのと同じように縛られていて、父の愛が見えなくなっていました。

 一方、弟息子は財産である律法をさっさと手放す生活をしてすぐに身を滅ぼしました。つまり、律法はガチガチに守って縛られてもいけないし、まったく守らないのもいけないものです。このことが分かると、あとで触れる6節で不正な管理人が「油百バテ」を「五十バテ」にしたことを、主人が「賢く行動した」とほめたことの意味が分かるでしょう。

 1節によれば、この管理人は主人の「財産を無駄遣いしていた」ということです。これは放蕩息子ほどではないにしても、弟子たちは律法を守っていなかったということです。具体的に何を守っていなかったのか、いくつか考えられますが、いずれにしても、弟子たちは律法から少し逸脱することをしていました。それで2節、

2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

 「財産」を金銀・穀物のような物質的な資産だと思い込んでいると、主人は怒っているように見えます。しかし、実は主人は怒っていません。弟子たちが無駄遣いしていたのは物質的な財産ではなくて律法だったからです。イエス様はペンテコステの日以降の聖霊の時代のことを視野に入れながら、このたとえ話をしています(『ルカの福音書』は続編の『使徒の働き』を視野に入れながら書かれた福音書です)。イエス様は「使徒の時代」の聖霊で満たされた教会に「律法の管理」を弟子たちに任せるつもりはぜんぜんありませんでした。ですから、主人は怒っていません。このことが分かると、この2節のことばにユーモアを感じて、イエス様に一層の親近感をおぼえることと思います。続いて3節と4節、

3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
4 分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』

 この4節の「私を家に迎えてくれる」は、後にペテロが異邦人(ユダヤ人ではない外国人)のコルネリウスの家に迎えられたことを重ねると、分かりやすいと思います。使徒の働き10章のその箇所を引用します(週報p.2)。

使徒10:25 ペテロが着くと、コルネリウスは迎えに出て、足もとにひれ伏して拝んだ。
28 (ペテロは)その人たちにこう言った。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。

 このように使徒の働き10章のペテロが異邦人のコルネリウスの家に迎え入れられた場面を頭に入れておくと、ルカ16章の「不正な管理人のたとえ」は、とても分かりやすくなります。

②異邦人は守らなくてもよい食物規定や割礼
 レビ記11章に書かれている律法には、食べてはならないものが列挙されています。たとえば豚です。レビ記11章7節をお読みします(週報p.2)。

レビ記11:7 豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。

 ユダヤ人にとって豚は汚れたものですから、豚を食べる外国人の異邦人は汚れていました。同様に、割礼を受けていない異邦人はユダヤ人から見れば汚れていました。そういうわけで、ユダヤ人のクリスチャンから見れば、たとえ異邦人がイエス・キリストを信じたとしても、割礼を受けないで汚れている限りは救われたことにはなっていません。それが、「割礼派」と呼ばれるユダヤ人クリスチャンたちが主張していたことでした。

 しかし割礼を受けず、豚も食べて汚れているはずの異邦人たちに天から聖霊が降る現場をペテロやパウロたちは目撃していました。それは天の神様はイエス・キリストを信じる者なら誰でもユダヤ人・異邦人を問わずお救いになるということです。それゆえ先日の教会総会の日に開いた使徒15章の「エルサレム会議」の記事で見た通り、一部の律法を除けば異邦人は律法を守らなくても良いことを使徒たちは評決して、異邦人の教会に手紙を書いて通達することにしました。

 ルカ16章5節と6節は、そのことを言っているのでしょう。5節と6節、

5 そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
6 その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。

 これは、守るべき律法を半分に減らしてあげたということです。ただ、減らしてもらう側からすれば、どうぜならもっと減らしてもらえるとうれしいのですが、半分なのはどうしてでしょうか?それは、モーセの十戒(殺してはならない、盗んではならないなど)のような道徳的な律法は守る必要があるからでしょう。私たち日本人のクリスチャンも、モーセの十戒は守らなければなりません。

 神様は異邦人の私たち日本人にも律法を与え、私たちはそれを守る義務があります。ですから、私たちはモーセの十戒を守ります。ただし、日本人の私たちは豚を食べますし、割礼も受けません。それは、不正な管理人が私たち日本人のために証文を書き換えるように言ってくれたからなんですね。そして7節、

7 それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。

 この人は2割しか減らしてもらっていません。サマリア人のように、ユダヤ人にかなり近い生活をしている民族のことでしょうか?サマリア人は混血ということでユダヤ人から見れば汚れていますが、もともとの先祖はユダヤ人と同じイスラエル人ですから、2割減らすだけで良いのかもしれません。続いて8節、

8 主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

 ペテロたちが生きた時代は、経験することの一つ一つのどれもが新しいことばかりで、戸惑ったり面食らったりすることばかりでした。それでもイエス様が地上にいた時にはイエス様に聞けば教えてもらえましたが、イエス様が天に昇ってからは、自分たちで判断しなければなりませんでした。中でも、ペテロが最も面食らったのは、異邦人のコルネリウスらにも聖霊が降って彼らが救われたことでした。ペテロがいかに驚いたか、ルカは使徒の働き10章にたっぷりとページを割いてその様子を描いていますし、さらに11章でも再び説明を繰り返しています。そして、この異邦人の救いの問題に関しては、使徒15章でももう一度取り上げています。

 この「異邦人の救い」という難しい問題を、使徒たちは賢く解決しました。それゆえイエス様は彼らが賢く行動したことをほめました。イエス様が弟子たちを「この世の子ら」と呼んだのは、この時代はまだまだ過渡期の時代で光の子らの時代に完全に移ってはいないということなのでしょう。そしてイエス様は弟子たちに言いました。9節の「あなたがた」というのは弟子たちのことですから、これは弟子たちへのことばです。

9 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

 使徒たちはこのイエス様のことば通りに、異邦人の友をつくりました。救われた異邦人たちの中にはペテロたちより先に天に召された者たちもいたでしょうから、彼らが使徒たちを永遠の住まいの天の御国で迎えてくれました。

③律法は正しいので守らないのは「不正」
 それにしても、イエス様はどうして、管理人が行ったことを「不正」と言ったのでしょうか?それは、律法は正しいものだからです。正しいものだから守らないのは「不正」である、ということでしょう。律法は、モーセを通じて主ご自身がイスラエルの民に与えたものです。ですから、律法を与えられた民は、これを守る必要があります。律法を守らないことは「不正」です。

 でも、この「不正」は異邦人の私たちにとっては必要な「不正」でした。ですから、イエス様はこの「不正」を賢い行動であるとして、ほめました。イエス様って、つくづく柔軟なお方だな~と思います。そして、ユーモアのあるお方だなと思います。

 ここで改めて、2節をもう一度味わってみたいと思います。

2 主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

 きょうのメッセージの最初のほうで話しましたが、ここで主人は別に怒っているわけではありません。そのことを承知して読むと、このイエス様のたとえ話は実にユーモアに富んだ話だと思います。私は、このユーモラスなたとえ話を読んで、イエス様のことがますます好きになりました。

 3節もまた面白いと思います。

3 管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。』

 ペテロやヨハネやヤコブは漁師でしたから、力はあったでしょう。でもイエス様と一緒に病気の人や弱い人々を救う働きをして来た弟子たちは、土を掘る仕事ではなく、人を助ける仕事をしたいでしょう。それを、こういう言い方で表現したイエス様は面白いなあと思います。

 4節の「分かった、こうしよう」もお芝居みたいで楽しいですね。私は、この「分かった、こうしよう」で、俳優の加藤武さんの「よし、分かった」を思い出しました。古い映画の話で恐縮ですが、石坂浩二さんが名探偵の金田一耕助を演じた市川崑監督の映画、例えば『犬神家の一族』では、加藤武さんが「よし、分かった。犯人は〇〇だ」と、言う場面があり。とてもユーモラスでした。4節の「分かった、こうしよう」には、加藤武さんのようなユーモアがにじみ出ていて、このセリフをイエス様が言っているところを想像すると、とても楽しくなります。

おわりに
 ここまで見て来たように、教会のリーダーであるイエス様はとても柔軟性に富んだお方であり、ユーモアにも溢れたお方です。もちろん、真面目な話もします。10節以降は真面目な話です。しかし、9節までのイエス様は茶目っ気さえ感じる、とても親しみやすいお方であることが分かります。

 震災で深い心の傷を負った方々やコロナ禍で苦しんでいる方々、様々な問題・課題の中で不安を抱えている方々に、是非とも親しみやすいイエス様のことを知っていただきたいと思います。戦争の惨禍を二度と繰り返さないためにも、イエス様と出会って、心の深い平安を得ていただきたいと思います。世間一般のイメージでは、聖書や教会は「硬い」というイメージがあると思います。しかし、教会のリーダーであるイエス様は、とても「ゆるい」お方です。人を規則で縛るような方ではありません。油百バテを五十バテにした弟子たちをほめたような、ゆるいお方です。

 ですから、ぜひ多くの方々に、このゆるいイエス様に心を開いていただき、心の平安を得ていただきたいと思います。そして私たちは、そのためのお手伝いをしたいと思います。

 「これは正しいことだから守るべきだ」とか、「正義はこうあるべきだ」と正論を唱えることも必要でしょう。でも、そればかりでなく、ゆるいイエス様の魅力もまた、お伝えできるようになりたいと思います。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。


教会の花壇のチューリップ
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主よ、目が見えるようにしてください(2021.3.7 礼拝)

2021-03-08 09:53:56 | 礼拝メッセージ
2021年3月7日礼拝メッセージ
『主よ、目が見えるようにしてください』
【ルカ18:35~43】

はじめに
 きょうはルカ18章の、目の見えない人をイエス様が見えるようにした記事に目を留めます。きょうの記事も、ここ何週間かの一連のメッセージに関係しています。

 きょうの記事の前後には財産をたくさん持つ金持ちの指導者と金持ちのザアカイの記事があって、2週間前と3週間前に、ここから話をしました。そして先週は、やはり財産をたくさん持つ父親から財産を分けてもらった放蕩息子と兄息子の箇所から話をしました。そして、財産とは金・銀や家畜などの目に見えるものだけではなく、「神の愛」という目に見えないものもまた財産であろう、という話をしました。

 そして今日は、イエス様が見えるようにしたのは、やはりそういう金・銀や家畜のようなものだけではなくて、「神の愛」のように目に見えないものもまた、見えるようにしたのではないか、すなわち信仰の目を開いたのではないか、という話をしたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます。

 ①大胆にイエス様に近づく信仰で開かれた目
 ②カラー化写真のように最近に見える聖書の時代
 ③助け主からの多くの情報で近くなる聖書の時代

①大胆にイエス様に近づく信仰で開かれた目
 まず気付くことは、この目の見えない人が長血の女のように、大胆にそして一途にイエス様の方だけを向いていたので、その信仰によって救われたということです。そうして、この人は目が見えるようになりました。35節から見て行きましょう。

ルカ18:35 イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。

 エリコの町は19章で見た通り、ザアカイが住んでいた町です。イエス様はその近くまで来ていました。そこに道端で物乞いをしている目の見えない人がいました。36節、

36 彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。

 ザアカイの時もそうでしたが、イエス様の周囲には群衆がいました。

37 ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、
38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

 イエス様は悪霊を追い出したり病気を癒したりすることができる力を持った方だという評判は広く伝わっていて、この目の見えない人も、そのことを以前から聞いて知っていたようです。もしイエス様が近くにいたら、その時にはイエス様に目を治してもらおうと決めていたのかもしれませんね。彼は大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言いました。すると、

39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。

 それで、

40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。
41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」

 この41節のやりとりは、とても大切だと思います。この人はイエス様が目を癒すことができるお方だと信じていましたから、「主よ、目が見えるようにしてください」と言いました。この願いは当たり前のように見えて、実はそんなに当たり前ではないかもしれません。例えば、現代人の祈りであったら、こんな祈りをするかもしれません。「主よ、眼科で手術をしてもらいますから、良い眼科医を与えて下さい」。しかし、こう祈るよりも、もっと直接的に「主よ、目が見えるようにしてください」と祈るべきなのでしょう。

 先日、教会学校でヨハネの福音書5章のベテスダの池のそばにいた病人の箇所を開きました。このベテスダの池には、この水に入るとどんな病気でも治るという言い伝えがありました。でも、いつ入っても治るというわけではなく、たまに水が動き始めることがあって、その時に最初に水に入った者だけが癒されるのだそうです。しかし、この人は病気で素早い動きができませんから、いつも他の人に先を越されていました。

 そこでイエス様はこの病人に聞きました。

ヨハネ5:6「良くなりたいか」

すると、この病人は答えました。

7「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」

 この病人は、とても頓珍漢な受け答えをしました。イエス様が「良くなりたいか」とおっしゃって下さっているのですから、「主よ、良くなりたいです。私の病気を治して下さい」と頼めば良かったのです。でも、もしかしたら私たちも似たようなことをしているかもしれません。お祈りをする時、主は本当に何でもできるお方であることを信じて祈っているのか、ということを探られる思いがします。常識的なお祈りで終わっているかもしれない、ということを探られます。常識的な祈りとは、例えば先ほど言ったような、「主よ、良い眼科医を与えてください」というような祈りです。もし常識的な祈りだけで済ませているとしたら、私たちもルカ18章の目の見えない人のように、イエス様の方だけを向いて一途に懇願できるようになりたいと思います。それが信仰であることを、このルカ18章の記事は教えてくれています。そして42節と43節。

ルカ18:42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。

 42節の、「あなたの信仰があなたを救いました」は、私たちの教会の今年の年頭の聖句の「信仰があなたを救ったのです」と同じですね。私たちも、このような信仰を育みたいと思います。

 そして、この43節には、もう一つ大切なことが書いてあります。それは、「これを見て、民はみな神を賛美した」ということです。目が見えるようになったのは、この人だけではなく、これを目撃した人々も信仰の目が開かれて、神を賛美したということが分かります。イエス様が奇跡を行ったのは、その人の目を治すことも大事ですが、もっと大事なことは、それを目撃した人々の信仰の目をも開くということだろうと思います。

②カラー化した白黒写真のように近い聖書の時代
 では、現代の私たちにとって、信仰の目が開かれるとはどういうことでしょうか。二千年前のユダヤの人々の目の前には地上に遣わされたイエス様がいました。二千年前の人々はイエス様が話すことばを直接聞くことや、イエス様が行う奇跡を見ることでイエス様を信じて、信仰の目が開かれました。では、現代の私たちの場合はどうでしょうか。

 現代の私たちの場合は、信仰の目が開かれると、聖書の時代のことを、とても近くに感じるようになります。皆さんもそうだったと思いますが、イエス様を信じる前は、聖書の時代を大昔のことと感じていて、ぜんぜん身近には感じません。それが、イエス様を信じると、イエス様をとても身近に感じますし、そればかりでなくペテロやパウロ、さらにはアブラハムやモーセのことも、とても身近に感じるようになります。つまり時間が縮まって、聖書の時代全体がとても近くに感じられるようになります。

 これはイエス様を信じたことで聖霊を受けたから、聖書の時代が近くなるわけですが、この聖霊の働きがどんなものなのか、もう少し探ってみたいと思います。

 その助けとして、白黒写真に色付けをする「カラー化」の話をしたいと思います。遠い昔に撮られた白黒写真でも、色を付けてあげると、最近のことのように見えます。このことと聖書とは、とても良く似ていると思います。イエス様を信じる前は聖書の時代を遠くに感じたのに、イエス様を信じると最近のことに感じますから、白黒写真のカラー化と良く似ています。

 白黒写真に色を付ける技術は、そんなに最近のことではなく、以前からあった技術でした。ただし、以前の手法では人間が一つ一つ色を決めて付けてあげる必要がありました。操作はコンピュータ上で行うにしても、色を選ぶのは人間でした。それが、ここ数年で人工知能のAIが急速に進化して、自動的に色付けができるようになりました。手直しの補正は必要ですが、AIだけでも、かなり上手に色付けができるようになったそうです。それは、AIが色付けの方法を学習して、必要な情報をどんどん蓄えているからです。

 囲碁や将棋でもAIがどんどん進化していることは、皆さんも良くご存知だと思います。昔は人間がコンピュータに将棋の指し方を教えてあげていました。強いプロの棋士の棋譜を大量に覚え込ませて、AIはそのデータを基に、最善の手を選んでいました。それゆえ人間より強くなることはありませんでした。それが、今は人間が教えるのではなくて、AI同士が対戦しながら、最善の手を学習して行くのだそうです。人間は夜になれば寝ますが、コンピュータは夜も寝ないで24時間学習し続けることができますから、どんどん強くなって、今では人間よりも遥かに強くなりました。

 白黒写真のカラー化も、AIがパターン認識をどんどん学習して賢くなっています。白黒写真を読み込んで、人間の顔の形をしていればパターン認識で顔と判断して、肌の色を付けます。木の形をしていれば木の葉っぱの部分には葉っぱの色を付けて、幹の部分には幹の色を付けます。花にも色を付けます。花の色は種類によって違いますから補正が必要ですが、今はAIだけでも、かなりそれらしい色付けができるようになっているそうです。

 ここに85年前と61年前の写真があります。85年前の写真はNHKの「クローズアップ現代プラス」で「記憶の解凍」プロジェクトを紹介した番組のページのものです。85年前ということで、白黒で見ると、やはりかなり昔という印象を受けます。しかし、右のカラー写真を見ると、かなり最近のように見えますね。

 この「記憶の解凍」プロジェクトというのは、とても興味深い取組みです。「解凍」というのは冷凍食品を解凍する時の解凍です。白黒写真に色付けをしてあげると、この写真の持ち主自身も忘れていたようなことを思い出すのだそうです。冷凍庫に保管されて忘れていた記憶がカラー化することで、解凍されてよみがえるのだそうです。

 そんなことがあるんだろうかと、試しに私も自分の61年前の写真をAIでカラー化したのが、下の写真です。(Webサービス http://iizuka.cs.tsukuba.ac.jp/projects/colorization/web/ を利用)。



 ここにいる幼子は、生後6ヶ月の私です。そして、このカラー化した写真を見て、後ろに飾ってある五月人形の記憶が、確かによみがえって来ました。母は毎年、五月の子供の日が近づくと、この五月人形を飾っていたことを思い出しました。私が高校を卒業して静岡を離れてから10数年間は、五月の連休に帰省することはありませんでしたが、東京で働くことになって川崎の高津教会のすぐそばに住むようになってからは、五月の連休には帰省するようになって、その頃も変わらずにこの五月人形が飾られていたことを思い出しました。でも父が20年前に死んでからは見ていないような気がします。それで記憶が薄れていました。

 この五月人形には恐ろしい形相をした鍾馗(しょうき)さんが描かれた幟(のぼり)もありました。それで、幼い頃はこの鍾馗さんを見るのが恐かったことなども今回思い出しました。

③助け主からの多くの情報で近くなる聖書の時代
 それにしても、どうして白黒写真をカラー化すると、昔のことが最近のように思えたり、冷凍保存されていた記憶が解凍されてよみがえったりするのでしょうか?それはたぶん、カラー写真の情報量の多さが、昔との時間の距離を縮めることに役立っているのではないかという気がします。カラーの画像は白黒写真の画像よりも遥かに多くの情報を含んでいるからです。この多量の情報が脳に働き掛けて、時間の距離を縮め、記憶をよみがえらせる、そんな気がします。

 ここから類推すると、イエス様を信じて聖霊を受けると聖書の時代についての情報量が格段に増えて、それで聖書の時代を身近に感じるのではないでしょうか。私たち自身はそれほど意識していなくても、聖霊がたくさんのことを教えて下さいます。何度も引用していますが、イエス様は最後の晩餐でこうおっしゃいましたね。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 このようにして、聖霊がたくさんのことを教えて下さいますから、聖書の時代を身近に感じて、二千年前のイエス様の十字架の出来事もつい最近のことのように感じます。そうしてイエス様が私の罪のために十字架に掛かって下さったと感じられるようになるのではないかという気がします。

 或いはまた、自分では意識していなくても、冷凍保存されていたエデンの園にいた頃の記憶が解凍されてよみがえって来るのかもしれません。人間はもともと神の似姿、神の像(かたち)に造られていました。ですから、イエス様を信じて聖霊が内に入ると御霊の実を結んでイエス様に似た者に造り変えられて行きます。それは、冷凍保存されていたエデンの園にいた頃の記憶が解凍されてよみがえっているとも言えるのではないでしょうか。

おわりに
 最後に、もう一度、ルカ18章に戻ります。イエス様は目の見えない人に言いました。

ルカ18:42 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」

 この「見えるようになれ」の見えるようになるとは、現代の私たちにとっては、信仰の目が開かれることでもあるという話を、きょうはしました。聖霊を受けて信仰の目が開かれると、聖書の時代のことをとても身近に感じることができるようになります。イエス様の十字架のことも、私の罪のためにイエス様が十字架に掛かったのだと感じるようになります。それは、カラー写真が白黒写真よりも遥かに多くの情報を含んでいるように、聖霊を受けると助け主がたくさんのことを教えて下さるからではないか、という話をしました。

 私たちは、もっともっと多くのことを聖霊から教わりたいと思います。そうして、イエス様のことを、もっと身近に感じることができるようになりたいと思います。この聖霊からの学びは意識的な学びではなくて、イエス様に心を開き、イエス様に心をお委ねするなら、自動的に行われることです。現代のAIが白黒写真を自動的にカラー写真にできるように、私たちがイエス様を信じると聖霊が自動的に様々なことを教えて下さり、私たちはイエス様について多くのことを学ぶことができます。

 そして、イエス様について、もっともっと多く教えていただくために、きょうの目の見えない人や長血の女のように、私たちはイエス様だけを見て、イエス様に大胆に、そして一途に近づいて行く者たちでありたいと思います。そうしてイエス様に似た者へと、つくり変えていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

18:41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」
42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
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目に見えない「神の愛」という財産(2021.2.28 礼拝)

2021-03-01 09:40:13 | 礼拝メッセージ
2021年2月28日礼拝メッセージ
『目に見えない「神の愛」という財産』
【ルカ15:23~32】

はじめに
 先週はルカ18章の「金持ちの指導者」の記事を開きました。この箇所を開くことにしたのは、その前の週に19章の「ザアカイ」の記事のメッセージの準備をしていて、ザアカイも金持ちの指導者も同じ金持ちなのに、どうしてザアカイは救いに導かれて、金持ちの指導者は救いに導かれなかったのだろうということが気になっていたからです。

 そして実は、もう一つ気になっていたことがありました。それは、「財産」とは、お金や金・銀・宝石類、家や家畜などの目に見えるものだけではないのではないか、ということです。福音書で語られている「財産」には、目に見えないものも含まれるのではないか、と気になっていました。そこで今日はこの、目に見えない大切なものに注目して、それもまた「財産」である、ということを考えてみたいと思います。きょうは次の三つのパート(週報p.2)で話します。

 ①律法もまた大きな「財産」
 ②神が律法に詰め込んだ「愛」こそが財産
 ③その中にいると気付けない神の愛の大きさ

①律法もまた大きな「財産」
 まず、律法もまた大きな「財産」であるということを覚えておきたいと思います。「盗んではならない」、「殺してはならない」、などのモーセの十戒に代表される律法は、イスラエルの民族が神様から授かった、とても大きな財産です。しかし、財産が大きすぎると却ってそれに縛られてしまう、ということがあるようです。先週ご一緒に見た金持ちの指導者がそうでしたし、きょうの放蕩息子の兄もまた同じのように思います。

 聖書朗読では時間の関係でルカ15章の23節からだけを司会者に読んでいただきましたが、15章の1節から見て行きたいと思います。

ルカ15:1 さて、取税人たちや罪人(つみびと)たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

 3節に「イエスは、彼らにこのようなたとえを話された」とあります。イエス様が話をした「彼ら」とは2節にある「パリサイ人たち、律法学者たち」です。彼らは律法という財産をとても大切にして守っていました。そうして、この15章は先ほど読んでいただいたように、兄息子の話で終わります。つまりイエス様は、パリサイ人・律法学者たちに、「あなたがたは、この兄息子と同じではないですか」と言っています。兄息子は、律法に縛られていました。そして律法に縛られることで、とても大切なものが見えなくなっていました。同じ様に、パリサイ人たちもまた律法に縛られているために、大切なものが見えていないのではないですか、とイエス様は言いたかったのだと思います。まず、このことを確認しておきたいと思います。

ルカ15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

 ここに「財産」という言葉が出て来ますね。この「財産」を「律法」と考えて、兄息子の場合を見てみましょう。弟息子のことは後で見ることにして、まず兄息子の方を見ておきます。

ルカ15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

 家では、弟息子が帰って来たことを祝う盛大な祝宴が開かれていました。すると、

28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。

 29節の「あなたの戒めを破ったことは一度もありません」は、律法の戒めを破ったことはない、ということですね。兄息子はモーセの律法をきっちりと守っていました。それなのに、

30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

 彼の弟は、律法を守らない不真面目な生活をして身を滅ぼしました。そんな弟のために父親が祝宴を開いたことに兄息子は腹を立てていました。兄息子の気持ちも分かります。私も、聖書を読み始めて間もない頃は、兄息子が怒るのは当然だろうと思っていました。しかし、兄息子はとても大切なものが見えなくなっていました。それは父親の大きな愛です。父親は弟息子のことを、とても愛していましたから、彼が自分の家に帰って来たことを大喜びしていました。そして父親は、兄息子のことももちろん、とても愛していました。

31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

 この31節から、父が兄息子のことをとても愛していることが分かります。父は兄と弟の両方を等しく愛していました。

32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

 父親は二人の息子を同じくらいに愛していました。しかし、兄息子には、父の大きな愛が見えなくなっていました。それはパリサイ人たちのように、律法を守ることばかりに一生懸命になっていたからです。律法に縛られて、一番大切なものが見えなくなっていました。

②神が律法に詰め込んだ「愛」こそが財産
 一番大切なものとは、父の「愛」です。このことを②番目のパートで確認したいと思います。神様が律法に詰め込んだ「愛」こそが財産であると言えるでしょう。律法も大切ですが、律法に詰め込まれた「神の愛」のほうがもっと大切です。そのことが、兄息子にも、パリサイ人たちにも見えなくなっていました。

 旧約聖書の出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を読むと、神様がモーセを通じてたくさんの戒めをイスラエルの民に与えたことが書かれています。十戒だけでなく、十戒に加えて細かい戒めを神様はたくさん与えました。それは神様がイスラエルの民を愛していたからです。イスラエルの民が神様から離れることなく、信仰の道を真っ直ぐに歩むことができるように、たくさんの戒めを与えました。

 戒めがたくさんになってしまったのは、モーセの時代のイスラエル人の信仰が幼かったからです。エジプトでの奴隷としての生活が長かったために、大人であっても信仰は幼子レベルでした。それ故に戒めが、たくさんになってしまったのでしょう。しかし、それは神様がイスラエルの民を愛していたからです。

 昔も今も、どこの国でも、子供が生まれれば、母親や父親が付きっ切りで幼子にいろいろなことを教えます。これは誰、あれは何、と先ずは人や物を教えることから始めて、簡単なことばを教え、また、して良いこと、悪いことなども表情などで伝えます。ことばを覚えて物心が付いて来たなら生活のルールや道徳的なことなども段々と教えていきます。とにかく、たくさんのことを教えます。それは親が子供を愛しているからです。そうして、幼子は親からいろいろなことを教わることを通して、親の愛も学びます。

 この学びで大切なことは、物事や生活のルールを学ぶことよりも、親の愛を学ぶことかもしれませんね。愛されることで、自分だけでなく隣人のことも愛することができるようになります。イスラエルの民族の不幸は、この神の愛の大きさが分からなかった点にありました。それゆえ神の愛の大きさを分からせるために、イエス・キリストの十字架が必要でした。先週も引用しましたが、今週もヨハネの手紙第一4章の9節から11節までを引用します。

第一ヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 神様の愛は、御子のイエス様を十字架に付けるほどに大きなものでした。その大きな「愛」が律法の中にはぎっしりと詰まっています。しかし兄息子もパリサイ人たちも、律法の一つ一つに込められた神様の愛を理解することなしに、律法をきっちりと守ることばかりに一生懸命になっていました。

③その中にいると気付けない神の愛の大きさ
 しかし、気付けなかったことは仕方のないことだったのかもしれません。なぜなら、愛の中にどっぷりと浸かって、その只中にいると却って気付きにくいということは、よくあることだからです。幼い頃から親とずっと暮らしていると、親の愛はなかなか分かりません。大人になって離れて暮らすようになったり、自分で働いて収入を得たり、自分の家庭を持って子育てをするようになると、自分が親の愛の中で育てられていたことがようやく分かるようになります。

 兄息子は父親とずっと一緒にいたので父の愛が見えなくなっていました。一方、弟の放蕩息子は、父からいったん離れたことで父の愛に気付きました。ルカ15章の16節から19節、

ルカ15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

 弟息子は、父の愛に気付いたからこそ、父の家に帰ることにしたのでしょう。自分が父の愛に包まれて暮らしていたことを思い出したのでしょう。もし父が冷たい人だったら、父の家に戻ろうとは思わなかったでしょう。20節、

20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 父親は弟息子を愛していましたから、彼が遠くに行ってしまった後でも、ずっと気に掛けていました。ですから、まだ家までは遠かったのに、彼を見つけました。そうして弟息子は再び父の愛に包まれました。一方の兄息子は、この父の愛に気付いていませんでしたから、家の中に入ろうとしませんでした。とても不幸なことだと思います。

 今月の2月の祈り会で話したことですが、私は健康維持のために夕刻にはなるべく安倍川の河川敷を下流に向かって走るようにしています。そこの西部公民館、生涯学習センターの横の通りから安倍川の河川敷に入ると、そこがだいたい河口から5kmの地点です。走る時はそこから3km走って戻って来るか、調子が良ければ東名高速の下をくぐって河口から1km地点まで4km走って戻って来ます。このコースは河口から3km地点ぐらいまで行くと、川の流れのすぐ近くを走るようになります。この川の流れを近くで見られることが私の走る楽しみの一つになっています。

 さてしかし、11月から1月に掛けてはほとんど雨が降りませんでしたから、安倍川の水が涸れてしまって荒野の状態になっていました。それが2月に入って、まとまった雨が降りましたから、安倍川は川の流れを取り戻しました。そして、この川の光景を見て、やっぱり「水のある風景は良いな~」と思いました。普段、見慣れてしまっていると、その良さを忘れてしまいます。しかし、冬に水が涸れてカラカラの荒野になったことで、やっぱり安倍川には水が無ければダメだと思いました。兄息子も父親の愛に慣れてしまって、その愛の大きさが分からなくなってしまっていました。

 日常生活で当たり前のように存在していた平穏な生活がなくなると、「神様はどうして、こんなにひどいことを許したのだろう」と思うことがあります。東日本大震災がそうであり、今なお続く新型コロナウイルスの感染拡大もそうです。しかし、考えてみると、平穏な生活は神様の愛の中で守られていたからこそであり、本当は荒野のような厳しい環境の中での生活が本来の生活なのでしょう。

 神様に守られた平穏無事な生活にすっかり慣れてしまっていて、兄息子のように神様の愛に気付かない者になってしまったから、ひどい出来事があると「神様どうしてですか?」などと思ってしまうのかもしれません。

 ほんの一年前まで私たちは、人がぎっしりいる密な空間で、音楽鑑賞やスポーツ観戦、花火見物などをしていました。それらができていたのも、私たちが守られていたからです。今のようにウイルスの脅威におびえながら生活していることのほうが、むしろ普通なのかもしれません。やがてはまた、人が多く集まる場所で音楽鑑賞やスポーツ観戦をマスク無しで楽しむことができる時が来るでしょう。その時には、それは普通の状態に「戻る」のではなくて、神様の恵みによって「良くなる」のだと思うようにしたいと思います。

 神様の愛の中で守られていると、神様の愛が見えなくなってしまいます。今のコロナ禍は、これまで私たちがいかに神様の愛の中に包まれていたかということを、教わる良い機会であるのかもしれません。

おわりに
 そういうわけで、教会での毎週の礼拝は、私たちを大きな愛で包んで守って下さっている神様に心一杯感謝して、賛美する場でありたいと思います。私も、そのようなメッセージが届けられるようになりたいと思います。

 かつては私たちの一人一人の皆が、神様から離れていた弟息子のような者でした。このような者を神様が愛して下さっていることに、心一杯感謝したいと思います。そして、この神様の大きな愛を、いつも忘れないでいたいと思います。神様の愛に慣れ過ぎて、兄息子のようにならないようにしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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隣人愛をとても重視するイエス(2020.2.21 礼拝)

2021-02-22 12:10:31 | 礼拝メッセージ
2021年2月21日礼拝メッセージ
『隣人愛をとても重視するイエス』
【ルカ18:18~27】

はじめに
 今日はルカの福音書の「金持ちの指導者」の記事に目を留めます。18節の下にある脚注を見ると、同じ記事がマタイ19章とマルコ10章にもあることが分かります。マタイでは「金持ちの青年」の記事になっていて、この「金持ちの青年」という呼び方に馴染んでいる方が多いと思いますが、ルカ18章18節には「ある指導者」とありますから、イエス様に質問した人のことを、きょうは「金持ちの指導者」と呼ぶことにします。

 先週のルカ19章のザアカイの記事からのメッセージを準備している時、私はずっと、この「金持ちの指導者」のことが気になっていました。ザアカイも金持ちなのにザアカイは救われて、金持ちの指導者は救われなかったのは何故だろうか。また、ザアカイは財産の半分を貧しい人たちに施すと言いました。財産の半分なのに、イエス様は「今日、この家に救いが来ました」と言いました。一方でイエス様は金持ちの指導者に対しては、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい」とおっしゃいました。なぜザアカイの場合は半分でも良かったのでしょうか。

 先週の礼拝が終わってからの一週間、このことを考えていましたから、今日はそれを分かち合いたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話をします。

 ①信じることでしか、永遠の命は得られない
 ②彼は本当に隣人を愛していたのか?
 ③神が私たちを愛しているから隣人を愛すべき

①信じることでしか、永遠の命は得られない
 まずルカ18章18節と19節をお読みします。

ルカ18:18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。

 18節の指導者のイエス様への質問は、間違いだらけだと思います。彼は先ず、「良い先生」と言ってイエス様に話し掛けましたが、イエス様は神の子であり、キリストであって先生ではありませんから、最初から間違えています。しかし、これは仕方がないことでしょう。ペテロもヨハネも、ニコデモも律法学者たちも群衆も、多くの人々がイエス様を最初は「先生」と呼びました。

 そして、次の「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」も間違った質問です。「永遠のいのち」は神様の領域のことです。神様の領域のことですから、人間が何かをすれば得られるというものではありません。もし聞くとしたら、「何を信じれば」と聞くべきなのでしょう。

 しかし、これも仕方のないことかもしれません。人は行いによって救われるのではないこと、永遠の命を得るにはイエスが神の子キリストであることを信じるべきことは、ペンテコステの日以降に聖霊を受けて、聖霊に教えていただかなければ分からないことだったからです。

 そういうわけで、イエス様はこんな風に答えました。

19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。

 これは、ご自身が「先生」ではないことを、やんわりと教えているのでしょうか。続いて20節、

20 戒めはあなたも知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。』」

 これらはモーセの十戒に書かれている戒めですが、皆、「隣人を愛する」ことに関係している戒めですね。マタイの福音書のイエス様は、これらに加えてさらに、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイ19:19)も付け加えています。

 このイエス様のことばからは、イエス様が隣人愛をとても重視していることが伝わって来ます。

②彼は本当に隣人を愛していたのか?
 このイエス様の答を聞いて、金持ちの指導者は言いました。21節、

21 「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」

 これを聞いてイエス様はおっしゃいました。22節、

22 「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

 きょうのメッセージの最初のほうで、ザアカイは財産の半分で良かったのに、なぜ金持ちの指導者には「持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい」と言ったのだろうかという疑問を出しました。

 ここまで見て来て、それはこの金持ちの指導者がいろいろな点で間違っていたから、イエス様はこのように言うしかなかったのだろうな、ということが段々と分かって来ます。

 18節の最初の質問も間違っていましたが、21節の「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」という答も間違っています。「隣人を愛する」ことは、そんなに簡単なことではない筈です。それを、この金持ちの指導者は少年の頃から全て守って来たとあっさりと言いました。彼は目に見える表面的なことだけを見ていて、心の奥の感情のことを考えていないようです。

 例えば、「姦淫してはならない」については有名ですから、「殺してはならない」について考えてみましょう。殺人の罪を犯す人は、少ないでしょう。しかし、人を憎んで、「殺してやりたい」とか、そこまではいかなくても、「あんな奴は死ねばいい」ぐらいは考えたことがある人はそこそこいるだろうと思います。それは、心の中で殺人罪を犯しているのと同じです。姦淫の罪について、イエス様はおっしゃいましたね。「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。それと同じで、殺意を抱いて人を見る者は誰でも、心の中ですでに殺人を犯している、ということになります。

 この、心の中の殺人がどうして、そんなに悪いことなのか。それは、神様がすべての人を愛しているからです。死ねばいいと思うほど自分が憎んでいる相手のことも、神様は愛しています。神様が愛している人を憎んで良いはずがありません。イエス様は、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とおっしゃいましたね。そこまでして、初めて隣人を愛すると言えるのでしょう。

 この金持ちの指導者は別に嘘をついていたわけではありませんが、自分が質問したことがどれほど重い質問であったかが分かっていなかったようです。永遠のいのちは、神の御子のイエス様が十字架に掛からなければならなかったほどに、得るのが難しいものでした。それを、この金持ちの指導者は「何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と聞きました。この質問の重大さが分かっていなかったと言わざるを得ません。

 この重大さが分かっていないから、「あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい」とおっしゃったのでしょう。ザアカイの場合とは、ぜんぜん違うのですね。ザアカイは自分が罪人であることを自覚していました。しかし、この金持ちの指導者は自分が罪人であることをぜんぜん自覚していませんでしたから、イエス様は彼に「持っている物をすべて売り払いなさい」という厳しいことをおっしゃったのだろうと思います。そして23節、

23 彼はこれを聞いて、非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。

 金持ちの指導者は、結局、何も手放すことができませんでした。これでは隣人を愛することにはなっていません。ですから、「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」という答も嘘ではなかったにしても、やはり間違っていたということになります。そして24節と25節、

24 イエスは彼が非常に悲しんだのを見て、こう言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

 金持ちであるかないかに関わらず、人は自力では神の国に入れません。その人が神の国に入れるか入れないかは神様に委ねられています。貧しい人はもともと財産をほとんど持っていませんから、財産を手放してすべてを神様に委ねることができます。自分が罪人だと自覚しているザアカイのような者も、自力では罪から抜け出すことができないと分かっていますから、神様に委ねることができます。しかし、金持ちは簡単には自分の物を手放して、神様に自分を委ねることができません。

 神様だけが人を救うことができますから、人は神様に自分を委ねる必要があります。そのことをイエス様は27節で言っています。26節と27節、

26 それを聞いた人々は言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

③神が私たちを愛して下さったから隣人を愛すべき
 きょうのメッセージのタイトルは、『隣人愛をとても重視するイエス』です。ここで、改めて、なぜイエス様が隣人愛を重視するのかを考えたいと思います。

 なぜイエス様が隣人愛を重視するのか、それは神様が私たちを愛して下さっているからです。ヨハネの手紙第一4章が、そのことを語っています。第一ヨハネ4章9節から11節までを、お読みします(週報p.3)。

第一ヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 神様は御子イエス様を十字架に付けるほどに私たちを愛して下さっています。私たちの中にある罪は、それほどまでに重いものです。私がそれほど重い罪を犯しているにも関わらず、神様は私の罪を赦すためにイエス様を十字架に送って付けました。

 隣人を愛するということは、それほどまでの犠牲を伴うことなのですね。それを、金持ちの指導者は、「少年のころから、それらすべてを守ってきました」と言いましたから、やはり分かっていませんでした。

 しかし、この時はまだイエス様が十字架に付く前のことでしたから、分からなかったのも仕方のないことでしょう。弟子たちもまた、十字架について分かっていませんでした。イエス様はやがて起きることを弟子たちに話しました。32節と33節です。

32 「人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。
33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 イエス様はこのように、弟子たちにこれから起きることを予告しましたが、34節、

34 弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。

 ひるがえって自分のことを考えても、今まで私は、きょうの金持ちの指導者の箇所をイエス様の十字架とセットで考えたことはありませんでした。ということは、私も分かっていなかったということなのでしょう。今回、永遠のいのちは十字架とセットなのだなということを改めて思わされています。

 18節で、金持ちの指導者はイエス様に、「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」と聞きました。しかし、自分が何か良い行いをしたら永遠の命が得られるのではありません。神の御子であるイエス様が十字架に付いたから永遠のいのちが与えられるようになりました。このことを私自身も知っているようでいて、深いレベルではまだあまり分かっていなくて金持ちの指導者レベルなのかもしれないと示されています。

 ただし、十字架を深く理解しなければ救われないとしたら、それこそ誰も救われませんね。最初のうちは誰でも少ししか分かりません。でも少ししか分からないレベルでも救われて聖霊を受けるから、聖霊が教えて下さって、やがて深く理解できるようになります。それゆえ、木に登ったザアカイのように、少年のような心でイエス様に近づき、イエス様に声を掛けられたら大喜びで家の中に迎え入れれば良いのだと思います。財産のどれくらいを貧しい人に施すのかはその後のことで、先ずは喜んでイエス様を迎え入れることが大切なのだと思います。

 先週の後半、藤本栄造先生が95歳で天に召されたという訃報が届きました。私は牧師になった時に、栄造先生からガウンを譲り受けました。何度か話していますが、私は一時、牧師を続ける気力を失った時期がありました。しかし、牧師を辞めることなく続けることができました。その一因には栄造先生からガウンを譲り受けていたことが心の支えになっていたことがありました。他にも支えがありましたが、栄造先生のガウンも大きな支えになっていたことは間違いありませんから、とても感謝に思っています。

 私がまだ高津教会の一般の信徒だった2006年に、栄造先生は日本福音功労賞を受賞されました。日本福音功労賞は、日本の福音伝道に大きな貢献をした伝道者に送られる賞です。この受賞が高津教会の礼拝で報告された時、先生は会堂の前方に立って挨拶をされました。その時に栄造先生が、「受賞に値するようなことを私は何もしていない」と言っておられました。

 先生は多くの働きをされましたから、それは謙遜で「私は何もしていない」とおっしゃったのだろうと、その時は思いました。しかし、いま思うとそれは、「全部イエス様がしたこと」だとおっしゃりたかったんだろうなと思います。福音伝道のために栄造先生が為さったことは、すべて先生の中にいらしたイエス様が為さったことです。

 私たちが伝道の働きをする時にも、イエス様は私たちの中にいます。先週も言いましたが、私たちが誰かを教会に誘う時、私たちの中にはイエス様がいます。チラシを郵便受けに投函する時、私たちの中にはイエス様がいます。私たちが様々な物を手放して空っぽに近づいていけば近づいていくほど、その分だけイエス様が入るスペースが広がっていきます。そうして本当に空っぽになれば、私たちがすることのすべてはイエス様がしたことになります。私自身はまだまだですが、栄造先生はそれができていたのでしょう。

 きょうの聖書箇所の金持ちの指導者がすべきことも、自分の物を手放して、イエス様が入るスペースを作ることでした。イエス様はすべてを手放して十字架に付きました。その十字架のイエス様を信じるなら、自分もまた様々な物を手放すべきことを少しずつ学んで行きます。20節にある、「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。」も、自分が抱えている物を手放していくなら、より深いレベルでそれらを守ることができるようになります。心の中の殺人を犯すこともなくなりますし、人の物を欲しいという、心の中の盗みもしなくなります。

 金持ちの指導者は何も手放すことができていないのに「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」などと言うから、イエス様から「すべて売り払いなさい」という厳しいことばを受けることになってしまったのだと思います。金持ちの指導者がすべきことは、少しずつでも良いから自分の物を手放してイエス様が入るスペースを作ることでした。そうすれば永遠のいのちが得られます。

おわりに
 イエス様は真の神であると同時に真の人であるお方です。真の人であるイエス様にとって私たちは隣人です。イエス様は隣人の私たちを愛して下さり、私たちを救うためにすべてを手放して十字架に掛かって下さいました。そうして永遠のいのちを受け継ぐことができるようにして下さいました。私も含めて、多くの人々は金持ちの指導者と同じぐらいのレベルでしか、隣人を愛することの意味を理解できていないのかもしれません。

 しかし、分かっていなくてもザアカイのように心を開いてイエス様を迎え入れるなら、イエス様は喜んで下さり、聖霊によって永遠の命を与えて下さいますから、このことに心から感謝したいと思います。そして感謝しつつ、隣人と互いに愛し合える者たちになりたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちたいと思います。
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ザアカイの特別ではない経験(2021.2.14 礼拝)

2021-02-15 06:14:46 | 礼拝メッセージ
2021年2月14日礼拝メッセージ
『ザアカイの特別ではない経験』
【ルカ19:1-10】

はじめに
 今年はマルコ5章の標語聖句の箇所の長血の女の信仰を育みたいと願って、ツァレファテのやもめやペテロの箇所を開いて来ました。今週はザアカイです。

 一人一人の神様との出会い方は人それぞれです。神様は一人一人に特別な方法でご自身を現わして下さいます。一人一人が皆違う経験を通して神様と出会いますから、先週は『ペテロと私たちの特別な経験』というタイトルにしました。しかし、神様の一人一人への近づき方は違っても、それらを並べて見ると、大体が決まったパターンであることが見えて来ます。きょうは、そこら辺のところをご一緒に分かち合いたいと思います。それゆえ、きょうのタイトルは『ザアカイの特別ではない経験』としました。

 ペテロが特別な人間だから神様はペテロに特別な経験を与えたわけではありません。ザアカイが特別な人間だから神様はザアカイに特別な経験を与えたのでもありません。神様は皆を等しく愛して下さっていますから、すべての人に近づいて来て下さっています。近づき方が一人一人で違うから特別に見えるだけであって、神様が人に近づくことは特別なことではありません。

 きょうは、そのことを次の三つのポイントで確認したいと思います。

 ①まずイエス様が私に近づいて来て下さる
 ②近づくイエス様に私も近づくなら新しくされる
 ③きよくなりたいという奥深い良心の声に導き出される

①まずイエス様が私に近づいて来て下さる
 ザアカイの記事を読みながら、ザアカイの経験は彼にとっては特別な経験であったけれども、他のケースを並べて見るなら、実は特別ではないのだ、ということを確認したいと思います。特別ではないということは、私たちにも、同じようなことが起きているということです。

 ルカ19章の1節から見て行きます。まず1節と2節、

ルカ19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

 この時のイエス様はエルサレムに近いエリコにまで来ていました。この19章の後半でイエス様はエルサレムに入って、22章で弟子たちとの最後の晩餐に臨み、23章で十字架に付けられて死にます。このザアカイの箇所はイエス様がエルサレムに入る直前の出来事です。

 このエリコの町にザアカイという人がいました。ザアカイはイエス様がエリコの町に来たので、イエス様に出会うことができました。先ずはイエス様のほうから、人のほうに近づいて来て下さいます。これが基本的なパターンです。長血の女の場合も同じです。長血の女はイエス様に大胆に近づいて行きましたが、その前に先ずイエス様が長血の女が住んでいる地域に来ました。長血の女は病気でしたから、遠くに出掛けて行くことはできませんでした。先ずイエス様が長血の女の近くまで来て下さいましたから、長血の女はイエス様に近づくことができました。

 旧約の預言者エリヤの時代のツァレファテのやもめの場合も同じです。先ず神の人エリヤがやもめに近づいて、「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(列王記第一17:10)と言いました。ペテロの場合も同じです。ペテロは湖で網を洗っていました(ルカ5:2)。そこにイエス様が近づいて来てペテロに舟を出してほしいと頼みました。

 私たちの一人一人にも、先ずイエス様の側から近づいて来て下さいました。自分を教会に誘ってくれた人の中にはイエス様がいました。或いはもし、教会のチラシを見て教会に来たのでしたら、チラシを投函した人の中にイエス様がいました。クリスチャンの家族に連れられて教会に来た2世や3世の場合も、家族の中にイエス様がいて、イエス様が2世3世を導いています。

②近づくイエス様に私も近づくなら新しくされる
 そうして、自分に近づいて来て下さったイエス様に応答して、自分の方からもイエス様に近づくなら、その人は新しくされます。先ず、ザアカイの場合を見ておきましょう。ルカ19章の3節と4節、

3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。

 この時のザアカイの内では何が起きていたのか、どんな心理が働いていたのか、それは後ほど3番目のポイントで考えることにして、ここでは先ず外面的なことを押さえておきたいと思います。

 ザアカイは何とかしてイエス様の姿を一目で良いから見たいと願いましたが、背が低かったので群衆にさえぎられてイエス様を見ることができませんでした。それで、ザアカイは木に登りました。この場面も長血の女に似ているなあと思います。

 長血の女は、せめて「お着物にさわることでもできれば」(マルコ5:28、第3版)と思って必死の思いで群衆を掻き分けてイエス様の方に向かって行きました。長血の女は、血を漏出する病気に掛かっていましたから、律法的には汚れた者とされていて、隔離されていなければなりませんでした。しかし、この時の長血の女は、もはや群衆は眼中になくてひたすらにイエス様だけを一心に見て、イエス様の方に向かって行きました。

 ザアカイも、せめて一目だけでもイエス様の姿を見たいと思い、必死だったのでしょう。人の目をはばからずに木に登りました。

 そんなザアカイにイエス様は声を掛けました。5節と6節、

5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

 こうしてザアカイはイエス様を自分の家に迎えてもてなしました。この場面から私は黙示録3章20節を連想しました。ここで分かち合っておきたいと思います(週報p.2)。

黙示録3:20 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする

 イエス様はエリコの町に来た時に、ザアカイの心の扉をノックしていました。そのノックの音をザアカイは聞いたのですね。そしてザアカイは、ドアを叩いているのがイエス様だと直感したのでしょう。自分の心の扉をたたき続けているイエス様の顔をどうしても見たくなって心の扉を開けて外に出て行き、木に登ってイエス様の顔を見ました。そうしてイエス様を家の中に迎え入れて食事を共にしました。この時、イエス様はザアカイと共に食事をし、ザアカイもイエス様と共に食事をしました。

 この黙示録3章20節の最後にある「彼もわたしとともに食事をする」は、近づいて来たイエス様を受け身で受け入れるだけでなく、自分からも積極的に近づいてイエス様が喜ぶことをすることでしょう。ザアカイの場合、それは8節のことばで表されています。ザアカイは言いました。

「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

 ザアカイは財産の半分を貧しい人たちに施すと言いました。このように、単にイエス様を受け身で受け入れるだけでなく、自分の側から一歩踏み出してイエス様が喜ばれることをすることが、黙示録3章20節の最後にある、「彼もわたしとともに食事をする」であろうと思います。自分の側からもイエス様が喜ぶことをどんどんすること、これが大切だと思いますから、「彼もわたしとともに食事をする」を太字にしておきました。

③きよくなりたいという奥深い良心の声に導き出される
 では、ザアカイはどうして、イエス様のノックする音を聞くことができたのでしょうか?それは、人は誰でも心の奥深い所で、きよくなりたいという願望を持っているからではないでしょうか。人はもともと神様の似姿に造られています。創世記1章で神様は仰せられましたね。

創世記1:26 「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」

 そうして人はきよい神様に似せられて、きよい者として造られました。ですから、アダムとエバが犯した罪で罪人になっても、心の奥底ではきよくなりたいという願望を無意識の中で持っています。きよくなって、良い行いをしたいという良心を持っています。それゆえ、悪い行いをすると良心が痛みます。ザアカイは自他共に認める罪人でした。自分でも罪を自覚していますし、人からも罪人だと思われていました。ルカ19章7節に、

ルカ19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

とありますね。ザアカイは人々から罪人だと思われていました。2節にあるように、ザアカイは「取税人のかしらで、金持ちであった」からです。金持ちであったということは、人々から必要以上に税金を取り立てて、一部を自分の懐に入れて私腹を肥やしていたに違いないからです。

 ここで取税人について、簡単に説明しておきます。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていました。従って、取税人が人々から取り立てた税金はローマ皇帝に納められました。この取税人はユダヤ人が務めていて、ザアカイもユダヤ人でした。ローマ人ではなく地元のユダヤ人に税の取り立てを任せるとは、実に上手いやり方だなと思います。ユダヤ人は、ただでさえ、ローマに支配されていることに屈辱を感じていましたから、ローマに税金を納めることには大きな抵抗感を覚えていたことでしょう。もし取税人がローマ人だったら、あちこちで暴動が起きかねません。それゆえ取税人をユダヤ人にすることでクッションとしていたのでしょう。

 そんな取税人の仕事を普通なら誰も引き受けたいとは思わないでしょう。それゆえローマは、取税人がローマに納めるべき税金の金額だけを決めて、取税人が個々のユダヤ人からどれだけ取り立てるかは任せていたようです。必要以上に取り立てて私腹を肥やそうが何をしようが自由です。そうでもしなければ誰も取税人を引き受けようとは思わないでしょう。私腹を肥やすことができるおいしい仕事だからこそ、ザアカイのような引き受け手がいました。

 ただし、取税人はローマに仕えていますから、ユダヤ人にとっては裏切り者です。その裏切り者の孤独に耐えられる者だけが取税人になれたのでしょう。そうして金持ちになることで心の隙間を埋めていました。

 でも、やっぱりザアカイの心には隙間風が吹いていたのでしょうね。どこか満たされないでいました。それは、ザアカイにも良心があって、自分の心が汚れていることを無意識の中かもしれませんが、自覚していたからではないでしょうか。それで、きよめられたいという心の奥底の願望に気付いていたのではないでしょうか。

 これは、誰もが持っている願望だと思います。現代の日本人でも同様だと思います。日々をドロドロとした汚れた社会の中で過ごしていると、心が洗われるような思いになりたいと誰でも思います。それで、景色の良い所に行って、例えば富士山が良く見える所に行って、富士山の美しい姿を見て、少し心が洗われたような思いに浸ります。或いは、もっと積極的に、例えば滝に打たれる滝行をする人もいます。滝に打たれるのは心をきれいにしたいという思いがあるからですね。体をきれいにしたいならシャワーを浴びれば済むことです。それをわざわざ滝に行って滝の水に打たれるのは、心がきよくなりたいからです。

 四国まで出掛けて行って、八十八ヶ所の霊場巡りをする人もいます。霊場と言われるぐらいですから、霊によって心をきよめて欲しいと願っています。この八十八ヶ所を巡るお遍路さんの旅はお寺参りだけが目的ではなく、途中を全部歩くこともまた重要な修行です。平坦な道だけではなくて多くは山道で体力的にも消耗する道が続きます。その山道を無心で歩くことによって心が洗われる思いを得ることができるのでしょう。札幌に住んでいる学生時代の私の友人は50代の時に何度か札幌から四国に通って八十八ヶ所を踏破したそうです。10年前の東日本大震災の時に首相だった菅さんも、首相を退いた後に八十八ヶ所を歩いて巡ったそうですね。人はそうまでして、心がきよめられることを求めているのだなと思います。

 ザアカイも、人々から必要以上に取り立てて私腹を肥やしていることに、心の奥底では後ろめたさを感じていて、罪のきよめを求めていたのでしょう。その良心があったから、イエス様がザアカイの心の扉をたたくノックの音を聞くことができたのでしょう。そうして、ザアカイはその心の奥底の良心の声に導かれて外に出て行き、木に登りました。ザアカイはまさかイエス様が声を掛けて下さるとは思っていなかったでしょう。ただイエス様を一目見て、心がほんの少しきよめられる思いをしたいとしか思っていなかったことでしょう。それが思い掛けず、イエス様が声を掛けて下さいましたから、うれしくてたまりませんでした。

 ザアカイは、本当は少年のような心を持った人なのだなと思います。木に登ってしまう姿にも少年を感じますし、8節の言葉からも、少年らしい素直さが感じられます。

8 「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

 そうしてイエス様はおっしゃいました。

9 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

 この教会の玄関に入ると、この礼拝堂の入口の上に、ドアをノックするイエス様の絵が掲げてあるのが見えますね。イエス様はそのようにして、ザアカイの心の扉を叩いていました。ザアカイは、そのノックの音に応答して、救いに導かれました。

 そして、このイエス様のノックは、誰の心に対しても叩かれています。なぜなら10節にあるように、人の子のイエス様は、失われた者を捜して救うために来られたからです。私たちの周囲にいるすべての失われた人々の心の扉を、イエス様は叩いています。イエス様は、すべての人々の心の奥底にある良心を叩いて、良心の声を響かせます。

 滝に打たれに行ったり、四国八十八ヶ所のお寺を巡るお遍路さんの旅に出掛けたりする人々も、イエス様が叩くノックの音を聞いて、心のきよめを求めてそれらの場所に赴いて行くのだと思います。そのような方々に、教会という場所もあることをお伝えしたいと思います。教会こそが神のかたちを回復できる場所です。私たちは皆、神の似姿に造られていて、その神のかたちを回復すべきことが望まれています。イエス様が神の子キリストであると信じるなら、私たちには聖霊が注がれて、聖霊がその人の罪をきよめて下さり、神のかたちの回復へと導いて下さいます。

おわりに
 誰もが罪からきよめられることを心の奥底では願っています。自分では気付いていなくても、良心を叩くイエス様のノックの音がそれを気付かせて下さいます。そのことに感謝して、イエス様のこの働きのお手伝いをしたいと思います。そうして、イエス様と共に食事をする者でありたいと思います。受け身で食事をするだけでなく、私たちの側からもイエス様と食事をしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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ペテロと私たちの特別な経験(2021.2.7 礼拝)

2021-02-08 08:35:34 | 礼拝メッセージ
2021年2月7日礼拝メッセージ
『ペテロと私たちの特別な経験』
【ルカ5:1~11】

はじめに
 今年はイエス様に大胆に近づいて行った長血の女の信仰を育みたいと願っています。これまで長血の女の他にエリヤの時代のツァレファテのやもめとダビデの信仰を見て来ました。年末に開いた、イエス様の屋根に穴を開けて中風の男をつり降ろした人たちも、同じくイエス様に大胆に近づいた者たちです。きょうはイエス様に出会った時のペテロに注目したいと思います。ペテロの場合はどうだったでしょうか。

 きょう開くのはルカの福音書ですが、マルコの福音書には、イエス様に出会ったペテロはすぐにイエス様に付き従ったような書き方がしてあります。マルコはシモン、すなわちペテロについて、こう書いています(週報p.2)。

マルコ1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

 この書き方からは、ペテロはイエス様に出会ってすぐに従った印象を受けますね。しかし、きょうのルカの福音書5章を読むと、ペテロはそんなにすぐにイエス様に付き従ったわけではなくて、少し時間が掛かったことが分かります。きょうは、その辺りをご一緒に分かち合いたいと思います。きょうの話のポイントは次の三つです。

 ①イエスと自分は無関係だと思っていたペテロ
 ②ペテロの特別な経験
 ③私たちの特別な経験

①イエスと自分は無関係だと思っていたペテロ
 いま司会者にルカ5章を読んでいただきましたが、シモンすなわちペテロの名前は4章から登場しますから、4章から見て行きます。38節と39節です。

ルカ4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。
39 イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

 この時、イエス様はペテロの家に入り、熱で苦しんでいたペテロのお姑さんを癒しました。家族はビックリしたことでしょう。あんなに苦しんでいたのに、イエス様が熱を叱りつけると、すぐに熱が引いて、お姑さんは元気になりましたから、驚かないはずがありません。

 この現場にペテロがいたのかいなかったのか、ここには書かれていません。恐らくいなかったのでしょう。しかし、ここにいなかったとしても、帰宅したペテロに家族がこのことを話さないはずがありません。こんなすごい事があったんだよ、イエス様ってすごいね~と皆でイエス様を賞賛しながらペテロに報告したことでしょう。仮にペテロが何日間も戻っていなかったとしても、44節によればイエス様はユダヤの諸会堂で宣教を続けていましたから、次の5章でペテロがイエス様と出会うまでにはしばらく間があったことでしょう。この間に、ペテロは家族からイエス様のことを必ず聞いていた筈です。

 しかし、その時のペテロはまだイエス様と自分とは無関係だと思っていた様子が次の5章1節と2節から伺えます。5章の1節と2節をお読みします。

ルカ5:1 さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
2 岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。

 ペテロは家族からイエス様について聞いていましたし、イエス様のことは地域一帯で評判になっていました。それでもペテロは自分とは無関係のことだと思っていたようです。群衆がイエス様に押し迫るそばで、ペテロは網を洗っていました。もしイエス様に関心があったら、網を洗うのを後回しにして、とりあえずイエス様の方に向かうのではないでしょうか。でも、ペテロはそうはしませんでした。ペテロは漁師で頑丈そうですから、弱い人々に寄り添って病気を癒すイエス様には関心がなかったのかもしれませんね。

②ペテロの特別な経験
 そんなペテロにイエス様の方から近づいて行きました。

3 イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。

 この3節のペテロの経験は、かなり特別な経験です。この場面を、ペテロの身になって想像してみましょう。舟は一人で操れるような小さな舟ですから、ペテロはイエス様のすぐそばで舟を操っていました。その時、ペテロは、大勢の人々に見られていました。もちろん群衆はイエス様の方を見ています。しかし小さな舟ですから人々はイエス様と同時にペテロも見ていました。群衆の中にはペテロが知っている人もいたかもしれません。それらの人々の注目を浴びて、ペテロの気持ちは高ぶったことでしょう。演劇の舞台で主役と共にいる脇役のようなものかもしれません。その時、脇役も主役と同じように観客から自分の演技をじっと見られていて、舞台が終われば賞賛の拍手をたくさんもらいます。

 いまNHKの朝ドラでは、『おちょやん』が放送されています。ヒロインはお千代という若い女優です。モデルは昔オロナイン軟膏の宣伝に出ていた浪花千栄子さんだそうです。お千代がまだ女優になる前、彼女はひょんなことから、喜劇のチョイ役で舞台を経験します。代役を頼まれて急遽出演することになりましたが、緊張してセリフを忘れてしまいました。そして、思わず、その時に抱えていた自分の悩みを舞台で話してしまうのですが、そのセリフが観客の心を打ち、大勢のお客さんから拍手をもらいます。この時の高揚感がその後の彼女の人生を、女優の道へと導いて行きます。

 ペテロもイエス様と同じ舞台に立って、多くの人々の注目を浴びていました。この時の気持ちをペテロは生涯忘れなかったのではないかなという気がします。自分に大きな影響を与えた人と初めて出会った時のことを、私たちは何十年も忘れないで覚えています。ペテロもきっと、この先何十年も、イエス様と二人で小舟に乗って人々から注目を浴びていた時のことを懐かしく思い返していたのではないかなと思います。

 このことがあったからでしょう。4節でイエス様が「網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃった時にペテロはそれに応じました。

4 話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5 すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ペテロにとってこの湖は自分の庭のようなもので、この湖にいる魚のことも知り尽くしていました。その漁師のペテロに向かって、漁師ではない素人のイエス様が漁のことで何かを言っても普通は、「素人が何言ってんだ」と思うでしょう。しかも、夜通し働いた後ですから、ヘトヘトです。網ももう洗ってしまいました。もう一度舟を漕ぎ出して網を下ろす気力も体力もほとんど残っていなかった筈です。しかし、ペテロは言いました。「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

 ペテロをその気にさせたのは、小舟のステージの上でイエス様と共に人々の注目を浴びた経験がペテロにとって特別なものであったからではないかなと思います。普通であれば、素人のアドバイスに従ってもう一度網を下ろすような状況ではありません。6節から9節、

6 そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
9 彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。

 5節ではペテロはイエス様に「先生」と言っていました。しかし、8節では「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。この少し前にイエス様は舟から人々に向かって神のことばを伝えていました。これをすぐ近くで聞いていたペテロは、イエス様のことを神のことばを伝える教師だと思っていました。だから「先生」と言ったのですね。しかし、魚がたくさん捕れたことで、ペテロはこの人は神を伝える教師ではなくて神様ご自身なのだと直感しました。深くは分からなかったけれど、そう直感したのだと思います。そうして、「主よ」と言って、イエス様の足もとにひれ伏しました。続いて10節と11節、

10 シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
11 彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

 この11節も、面白いなあと思います。魚がいっぱい捕れたんですよ。普通の人なら、これからも漁師として頑張ろうと思うのではないでしょうか。

「よし、これからはイエス様が湖で説教をする時には、いつも舟を出してお手伝いをしよう。そうして、その後で網を下ろせば、いつも魚がたくさん捕れて、生活には困らないぞ。」

 しかし、ペテロは漁師の職業を捨てて、イエス様に従いました。それほどまでに、ペテロにとって、この経験はインパクトのある出来事でした。

③私たちの特別な経験
 ここで、これまでの流れをもう一度、振り返りたいと思います。
 ペテロは始め、イエス様は自分とは関係ない人だと思っていました。お姑さんを癒したことを聞いても、すごい人がいるもんだとは思ったでしょうが、ペテロは自分は健康でしたから、癒してもらう必要もなくて、イエスという人物は自分とは関係ない世界の人だと思っていました。

 それで、湖で群衆がイエス様に押し迫っていた時も、ペテロはそれを横目で見ながら網を洗っていました。そんなペテロにイエス様の方から近づいて来ました。ペテロは夜通し漁をしたのに魚が捕れなくてガッカリしていました。イエス様は人の心が弱っている時にすっと心の中に入って来るお方です。ペテロに演劇の舞台のような体験をさせて、さらには魚を捕らせるというペテロの仕事の領域にまで踏み込んで来て、神様としての姿を現わされました。

 ペテロはスゴイ経験をしたと思います。では、私たちはどうでしょうか。これはペテロだけの特別な経験で、私たちはこれほどの経験はしていないでしょうか?そんなことはないと思います。私は多くのクリスチャンが似たような経験をしていると思います。イエス様は人の心が弱っている時にすっと心の中に入って来て下さるからです。それに気付くか気付かないかというだけで、イエス様はいつも近くにいて下さいます。

 私自身のことを振り返っても、似たような経験をしています。最初はイエス様は私にとってぜんぜん関係のない人でした。しかし今思うと、イエス様はずっと私の近くにいて下さっていました。そして、私が自分の無力を感じている時に、私の心の中にすっと入って来て下さいました。

 少し前にも話しましたが、私の父はすい臓がんの末期であることが分かってから、わずか1週間で死んでしまいました。母から電話で父の命があと1週間か2週間と医者から告げられたと聞いて、にわかには信じがたかったですが、とにかく静岡に戻ることにしました。休んでいる間のことを職場の他の方々に託す段取りに二日ほど掛かりましたが、それを終えて静岡に戻り、夜は私が父のベッドの隣で寝ました。昼は母、夜は私が付き添いました。兄はアメリカにいたので、戻って来るのにさらに日を要しました。

 がんの告知は、今は本人にもすることが当たり前になっていますが、20年前は原則として本人にはせずに、家族だけにするものでした。ですから私は父の命があとわずかであることを知っていましたが、父は知らずに病院のベッドで寝ていました。意識はハッキリしていましたから、いろいろ話をすることができました。その時、やがて死ぬ父のそばにいてあげることしかできない自分を、とても無力だと思いました。いま思えば、その時にイエス様は私の心の中に入って来て下さっていました。

 家族と葬式の相談をしている時に、父は若い時に洗礼を受けたクリスチャンであったことを初めて知りました。しかし母と結婚した後は教会には行っていませんでしたから、葬式はお寺で行いました。それで私は、葬式の後で教会に行って祈りたいと思いました。そうして当時住んでいた高津のアパートの近くの高津教会に導かれました。

 初めて訪れた日、高津教会では新しく来た人を紹介することになっていましたから、報告の時間の時、立ち上がって名前と近所に住んでいることを話しました。その時、当然ですが教会の皆さんが私の方を見ていました。高津教会の礼拝人数は150人ぐらいでしたから、150人が私の方を見ていました。ペテロが舟の上のイエス様と一緒にいて、群衆から見られていたのと同じだなあと、今回思いました。

 そして、その時に聞いた説教は、ガラテヤ人への手紙からの説教で、「信仰に熱心になればなるほど逆に神様から離れていくことがある」という律法主義についてでした。律法主義者たちは律法を守らなければ救われないと考えていましたから、とにかく律法を守ることに一生懸命でした。安息日は必ず守る、異邦人も割礼を受けなければならない。とにかく律法に書いてあることは全部きっちりと守らなければ救われないと考えていました。しかし、律法を守ることばかりに囚われると、心は神様から離れてしまいます。当時の私は信仰のことをぜんぜん知りませんから、まして律法主義のことも分かるはずがありません。それでも、「信仰に熱心になればなるほど逆に神様から離れていくことがある」という逆説に興味が湧いて、それ以降も教会に通い続けました。

 普通は何かを一生懸命やれば、その分、できるようになります。熱心に仕事をすれば、それだけ業績は上がります。スポーツや芸術でも熱心に取り組めば、それだけ上手になります。熱心に取り組んでも上手にならないこともありますが、熱心に取り組まなければ上手くなることは絶対にありませんから、上手くなりたければ熱心に取り組みます。それが常識です。しかし、信仰の世界は違うのだということが私の心をとらえました。

 ペテロの心を捕らえたのも、イエス様の指示が漁師の常識に反していたからです。ペテロたちにとって、漁は暗い夜にするものでした。それをイエス様は明るい時に網を下ろすように言って、網が破れるそうになるほどの魚が捕れました。

 このように、イエス様というお方は、人の心が弱っている時にすっと心に入って来て下さり、それまでと違う経験を与えて下さり、その上で常識とは異なる不思議な世界を見せて下さいます。

 細かい経緯は違っても、皆さんもまた同じような経験をしているのではないでしょうか。教会に初めて来た時には、教会の皆さんから見られたことでしょう。そうして、教会の中には外の常識とは違う世界があることを知って、引き込まれたことでしょう。この、外の常識とは異なるところが教会の魅力の一つであることは、間違いないでしょう。

 クリスチャン・ホームで育った2世、3世が教会に定着しないケースが多いのは、この逆のパターンなのかもしれないと、今回この説教を準備していて思いました。河村従彦先生がクリスチャン・ホームの2世、3世について考察した本『ボクはこんなふうにして恵みを知った~クリスチャン・ホームのケース・スタディ~』(いのちのことば社)を最近読みました。この教会の皆さんのお子さんたちも教会に行っていないケースが多いと聞いていますから、私も2世、3世の問題に関心を持つようになりました。そうして、きょうの説教の準備をしていて気付かされました。

 私の場合は、教会の中が外の常識とは異なることに魅力を感じて引き込まれました。しかし、クリスチャン・ホームで育った2世、3世は教会の中が常識であり、外の世は自分の育った常識とは異なる世界だから、外の世界に魅力を感じて教会に魅力を感じなくなっているのではないかなと思いました。

 しかし、教会の礼拝で語られるメッセージは、教会学校で子供向けに語られる「お話」よりも、もっと奥深いものです。教会学校では御霊の話はほとんど語られないでしょう。大人の礼拝では霊的な世界のことも語られます。罪の問題も、子供には聞かせられないようなおぞましい罪についても語られます。講壇で語るのが憚れるようなおぞましい罪でも、自分で聖書を開けば読むことができます。先日、ダビデの息子のアブサロムについて話しましたが、私はアブサロムが犯した罪のうちで最もおぞましいものは話しませんでした。講壇で語ることが憚れたからです。聖書は人間のこのようなどうしようもない醜い罪の世界もあぶり出しています。教会学校で子供たちに語る常識とは異なる世界が聖書の中にはあります。そういう罪のことや深い霊的な世界のことを若い方々に新しい世界として感じてもらいたいなと思います。

 いまの世界はとても激しく変化しています。10年前は、スマホを持っている人は一部の人だけで、ほとんどの人はガラケーを使っていました。それが、今はほとんどの人がスマホを使っています。スマホが提供するサービスも、次々と新しいものが出て来ます。そういう新しいものが次々と出て来る世の中では、教会に新しい魅力を感じる人は少ないのかもしれません。

 しかし、聖書の中にはまだまだ知られていない新しくて魅力的な世界があります。まだ聖書を知らない方々にとってはもちろんのこと、2世、3世の教会学校の常識とも、1世のクリスチャンのこれまでの常識とも異なる新しい世界がまだまだあります。そういう魅力を皆さんと共に、若い方々と、この地域の方々にお伝えすることができたらと思います。

おわりに
 最後にもう一度、繰り返します。ペテロの身に起きたことと似たようなことを、私たちもまた経験しています。これはペテロだけの特別な経験ではありません。10節には、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも登場しますが、彼らはただペテロを見ていただけではありません。神様は彼らの心の中にも入って、独自の経験を与えています。ただそれがここには書かれていないだけです。ヤコブやヨハネも特別な経験が与えられていました。

 皆さんも是非、ペテロの経験とご自身の経験を照らし合わせてみて下さい。そうして、神様が特別な経験を与えて下さったことに感謝して、さらに多くの方々とこの経験を分かち合うことができるように、お祈りしたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
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教会が一つになったエルサレム会議(2021.1.31 礼拝)

2021-02-01 07:55:43 | 礼拝メッセージ
2021年1月31日礼拝メッセージ
『教会が一つになったエルサレム会議』
【使徒15:1~12】

はじめに
 きょうは礼拝の後で教会総会が控えていますから、それに備えるためのメッセージです。使徒の働き15章のエルサレム会議の記事は、重要な会議の前によく開かれる箇所だと思いますから、この教会の教会総会の時にも開かれたことがあるかもしれませんね。
 きょうの話のポイントは次の三つです。

 ①異邦人の割礼の要不要を巡る激しい対立
 ②決め手は主の御心がどうであるか
 ③教会が一つにまとまることも主の御心

①異邦人の割礼の要不要を巡る激しい対立
 15章の1節と2節をお読みします。

使徒15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 これは、パウロとバルナバが第一次伝道旅行から戻って間もない時期で、二人は拠点としていたアンティオキアの教会にいました。

 第一次伝道旅行でパウロとバルナバはガラテヤなどの地を巡って異邦人たちがイエス・キリストを信じるようになっていました。しかし、そこに1節にあるようにいわゆる割礼派と呼ばれる人々が現れて、異邦人もユダヤ人と同じようにモーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ救われないと教え始めました。この言葉に惑わされて割礼を受けた異邦人がかなりいたようです。パウロのガラテヤ人への手紙は、このことでガラテヤ人を厳しく叱っています。

 パウロがいかに、このことに怒っていたか、ガラテヤ人への手紙をご一緒に見てみましょう(新約p.374)。1節から5節までは挨拶文です。そして、6節から急に口調が厳しくなります。6節、

ガラテヤ1:6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。

 「私は驚いています」とパウロは書いています。パウロの怒りがいかに激しかったか、パウロの他の手紙と比べてみると、よく分かります(週報p.2)。

ローマ1:8 まず初めに、私はあなたがたすべてについて、イエス・キリストを通して私の神に感謝します。全世界であなたがたの信仰が語り伝えられているからです。

Ⅰコリント1:4 私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。

ピリピ1:3 私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。

 これらと比べると、パウロのガラテヤ人への怒りがいかに大きかったかが分かります。もう一度、ガラテヤ1章6節をお読みします。

ガラテヤ1:6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。

 他の福音と言うのは、異邦人もユダヤ人と同じように律法に従って割礼を受けなければ救われないという誤った教えのことです。

 大切なことは律法を行うことではなくイエス・キリストを信じる信仰です。ページをめくっていただいて2章16節をお読みします。

ガラテヤ2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

 割礼を受けることではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められて救われます。それなのにガラテヤ人たちは偽りの教えに惑わされて割礼を受けてしまいましたから、パウロは嘆いています。3章1節から3節まで、

ガラテヤ3:1 ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
2 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
3 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

 パウロは信仰の最も大切な部分を理解していないガラテヤ人のことを心の底から残念に思っていました。そして、誤った教えを説いた割礼派のユダヤ人に対しても怒っていました。エルサレムで会議が開かれることになったのは、このような時期でした。

 使徒の働き15章に戻りましょう(p.264)。3節と4節、

使徒15:3 こうして彼らは教会の人々に送り出され、フェニキアとサマリアを通って行った。道々、異邦人の回心について詳しく伝えたので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。

 この時、割礼派も彼らの考えを強く主張していました。5節です。

5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。

 そこで6節、

6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。

 こうしてエルサレム会議が始まりました。

②決め手は主の御心がどうであるか
 そして論争があった後、ペテロが話し始めました。ペテロは異邦人のコリネリウスの家で福音を語っている時に、彼らに聖霊が注がれるのを目撃していました。7節と8節、

7 「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。」

 これは割礼を受けていない異邦人のコルネリウスたちが聖霊を受けたことを指しています。使徒10章の44節と45節に、このことが書かれています(聴いていて下さい)。

使徒10:44 ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った。
45 割礼を受けている信者で、ペテロと一緒に来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたことに驚いた。

 ペテロは15章9節でこのことを、神様はユダヤ人にも異邦人にも何の差別もつけず、心を信仰によってきよめてくださったと言いました。そして10節、

10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。

 ユダヤ人の先祖は律法を守らなかったために、エルサレム滅亡・バビロン捕囚の悲劇に遭いました。律法だけでは信仰を守れないということです。それゆえ神様は御子イエス様を地上に送って十字架に付けることでこの罪を赦し、御子を信じる者には聖霊を授けて永遠の命を与えるようにして下さいました。11節、

11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」

 そうして、バルナバとパウロも彼らが目撃したことを証ししました。12節、

12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。

 これが決め手になりました。神様が割礼を受けていない異邦人たちにも聖霊を注いだのですから、人間がどうのこうの言うことではありません。主の御心がどうであるかが決定的に大事なことです。

③教会が一つにまることも主の御心
 ここでヤコブが語り始めます。13節、

13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。」

 途中を飛ばして結論の部分をお読みします。19節から21節まで、

19 「ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 こうしてヤコブがこの論争の場を治めて、教会を一つにまとめました。このヤコブとは主の兄弟のヤコブ、すなわちイエス様の兄弟のヤコブとのことです。主の兄弟のヤコブはヤコブ書の記者で、皆に重んじられていました。

 こうして、ヤコブの調停案によって異邦人は割礼を受ける必要がないことが確定しました。神様が割礼を受けていない異邦人にも聖霊を授けたのですから、使徒たちはそれに従いました。こうして初代教会は分裂を回避して、一つにまとまることができました。

 この使徒15章のエルサレム会議の記事の結末を読む時、激しい論争があった割には、随分あっさりと事が治まったなという印象を受けます。それは割礼派の人々も教会が一つにまとまることが主の御心であることが、よく分かっていたからだろうと思います。このエルサレム会議の場が聖霊で満たされていて、一人一人も聖霊で満たされていて、教会が御霊の一致を保って、主にあって一つになることが主の御心であることが、よく分かっていたからでしょう。

 20節のヤコブの調停案からはパウロの側もまた、歩み寄ったことが分かります。ヤコブは偶像に供えて汚れたものは避けるようにと言っていますが、パウロにとっては偶像に供えたものも別に汚れてはいません(Ⅰコリント8章参照)。パウロにとって偶像はただの石や木でしたから、石や木の前に置いたものが汚れるとは考えませんでした。しかし、一部の人々は偶像に供えたものは汚れていると考えていました。

 ヤコブが偶像に供えたものは避けるようにという調停案を出した時、パウロは反対することもできたでしょう。偶像はただの石や木なんだから別に汚れてないでしょ、と言うこともできたはずです。しかし、パウロは反対しませんでした。御霊の一致を保って主にあって一つになるべきことを示されていたからでしょう。

 こうして、割礼派もパウロも双方が歩み寄って、教会が一つにまとまることができました。会議の参加者の皆が主を愛していましたから、対立を続けることは愛する主を悲しませることであることを皆がよく知っていたからでしょう。

おわりに
 この礼拝の後で私たちは教会総会を開きます。細かい点において意見の違いはあるかもしれません。しかし、主の御心は教会が一つにまとまることですから、エルサレム会議にならって、一致点を見つけて一つにまとまりたいと思います。皆が主を愛していますから、主の御心に沿って皆が一つになって歩んで行きたいと思います。

 しばらくお祈りする時を持ちましょう。
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ダビデ王の悲しみと放蕩息子の父の喜び(2021.1.24 礼拝)

2021-01-25 12:43:13 | 礼拝メッセージ
2021年1月24日礼拝メッセージ
『ダビデ王の悲しみと放蕩息子の父の喜び』
【Ⅱサムエル18章4~15、24~27、32~33節】

はじめに
 先週の礼拝メッセージでは、息子アブサロムの謀反を知ったダビデが王宮を逃げ出した箇所を取り上げました。ダビデとアブサロムがその後どうなったのか、気になっている方もいると思いますから、ダビデの波乱万丈の人生を今週もご一緒に見ることにします。そして、後半ではダビデと放蕩息子の父とを並べて見て、神様が注いで下さる恵みを分かち合うことにしたいと思います。

 きょうの話のポイントは次の三つです。

 ①息子の無事を願っていたダビデと放蕩息子の父
 ②「滅び」と「救い」の大きな差を生む分かれ目
 ③魂の渇きを自覚して神の霊の水の潤いを求める

①息子の無事を願っていたダビデと放蕩息子の父
 先ずは前回の話から今回の話に至るまでの途中経過を簡単に見ておきたいと思います。
 前回のメッセージの最後では、第二サムエル15章28節のダビデのことばに注目しました(p.567)。

Ⅱサムエル15:28 「見なさい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原でゆっくり待とう。」

 この時のダビデは私利私欲から解放されてすべてを手放し、すべてを神様にお委ねしていたことで、心の平安を得ていたようです。「荒野の草原でゆっくり待とう」ということばから、その様子が伺われます。

 そのように平安を得ていたと思われるダビデでしたが、オリーブ山の坂を登る時には泣いていました。30節です。

30 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、裸足で登った。彼と一緒にいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。

 このダビデの悲しみは、財産を失ったとか、王宮が恋しくて泣いたとか、そういう類のものではないでしょう。自分の罪深さが、多くの人を巻き込んでしまい、息子の謀反という最悪の結果を招いてしまったことに王として、そして親として申し訳なく思い、涙が止まらなかったのだと思います。特に息子のアブサロムを、父に反逆する罪人に育て上げてしまったことをダビデは申し訳なく思っていたと思います。ダビデの心の中はアブサロムへの申し訳なさで一杯になり、涙が止まらなかったのだろうという気がします。

 さて、このオリーブ山の山頂で、アブサロムの反逆事件の歯車の回転がゆっくりと止まり、次いで逆向きの回転が静かに始まります。32節に登場するアルキ人フシャイが、アブサロム有利からダビデ有利へと反転させるキーマンになった人物です。32節、

32 ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来たとき、見よ、アルキ人フシャイが上着を引き裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。

 ここからダビデ側の逆転が始まり、物事がダビデの側に有利に運んで行きます。アルキ人フシャイはアブサロムに近づいて行き、アブサロムが不利になる作戦をわざと提案して、アブサロムはこれを採用します。実はこれはすべて主の御手の中にあることでした。17章14節で、そのことが明らかにされています。p.571の17章14節、

Ⅱサムエル17:14 アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。

 こうして事態はダビデに有利な方向に回って行き、18章でいよいよダビデとアブサロムの両軍が激突することになります。まず18章1節、

Ⅱサムエル18:1 ダビデは自分とともにいる兵を調べて、彼らの上に千人隊の長、百人隊の長を任命した。

 そして、2節の終わりでダビデは「私自身も、あなたがたと一緒に出陣する。」と言いました。しかし、兵たちは言いました。3節、

3 「王様が出陣してはいけません。私たちがどんなに逃げても、彼らは私たちのことは何とも思わないでしょう。私たちの半分が死んでも、彼らは私たちのことは心に留めないでしょう。しかし、今、あなたは私たちの一万人に当たります。今、あなたは町にいて私たちを助けてくださるほうがよいのです。」

 この兵たちのことばを聞いてダビデは町にとどまることにして、兵たちを送り出しました。その時、隊長のヨアブたちにダビデは言いました。5節です。

5 「私に免じて、若者アブサロムをゆるやかに扱ってくれ。」

 ダビデは息子のアブサロムと和解したかったのですね。ダビデはアブサロムを反逆者に育ててしまったことを悔やみ、申し訳なく思い、親子関係を修復したいと思っていました。

 しかし、事態はそうは進みませんでした。9節と10節、

9 アブサロムはダビデの家来たちに出会った。アブサロムはらばに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていたらばはそのまま行ってしまった。
10 ある男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。「今、アブサロムが樫の木に引っ掛かっているのを見ました。」

 この報告を聞いた隊長のヨアブはアブサロムが引っ掛かっていた樫の木に急ぎます。14節と15節、

14 ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはいられない」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真ん中に引っ掛かったまま生きていたアブサロムの心臓を突き通した。
15 ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブサロムを取り巻いて彼を打ち殺した。

 一方、ダビデは町の門のそばにいて、息子のアブサロムのことを心配していました。門の見張りには目の良い者が選ばれて立っていたことでしょう。その見張りからの報告をいつでも聞けるようにダビデは門のそばにいました。24節と25節をお読みします。

24 ダビデは外門と内門の間に座っていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、見よ、ただ一人で走って来る男がいた。
25 見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただ一人なら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来た。

 ダビデは吉報を信じて待っていました。ダビデにとっての吉報とはアブサロムの軍団が降伏して戦いが止み、アブサロムが投降することでしょう。そうしてダビデはアブサロムと和解したかったことでしょう。続いて26節と27節、

26 見張りは、別の男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んだ。「あそこにも、一人で走って来る男がいる。」王は言った。「それも吉報を持って来ているのだろう。」
27 見張りは言った。「最初の者の走り方は、ツァドクの子アヒマアツのもののように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」

 ダビデは良い知らせだけを信じて待っていました。しかし、そうはなりませんでした。32節と33節、

32 王はクシュ人に言った。「若者アブサロムは無事か。」クシュ人は言った。「王様の敵、あなた様に立ち向かって害を加えようとする者はみな、あの若者のようになりますように。」
33 王は身を震わせ、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブサロム。わが子よ、わが子よ。」

 この箇所を読む時、私はルカの福音書15章の放蕩息子の父親を想い起こさずにはいられません。息子の無事を願うダビデの姿と放蕩息子の父親の姿が重なります。

②「滅び」と「救い」の大きな差を生む分かれ目
 ルカの福音書15章でイエス様が語った「放蕩息子の帰郷」の例え話は、皆さんの多くが良くご存知のことと思いますが、簡単に説明します。

 放蕩息子は父親がまだ元気なのに財産を分けてほしいと願い出て、分けてもらうとすぐに遠い国に旅立ってしまい、そこで放蕩して財産を湯水のように使い、使い果たしてしまいます。そうして食べる物に困った放蕩息子は我に返って自分が犯した罪に気付きます。我に返った息子は父親の家を目指して帰路につきます。ここから先は週報p.2に載せた記事を読みます。まずルカ15章20節。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

 父親は、息子がまだ家まで遠かったのに彼を見つけました。父親は息子のことをずっと心配していて、いつも遠くの方を気に掛けていたのですね。ダビデと同じです。アブサロムを心配して門のそばにいたダビデと同じように放蕩息子の父は遠くを気に掛けていました。そうして息子を見つけた父親はかわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけしました。ダビデもこのようにアブサロムを迎えたかったことでしょう。21節、

21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

 ダビデも、アブサロムからこの言葉を聞きたかったことでしょう。と同時に、自分もアブサロムを遠ざけてしまっていたことを謝りたかったことでしょう。22節から24節、

22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

 ダビデもアブサロムと和解の祝宴をしたかったことでしょう。ダビデはきっとそうできると信じていました。しかし、そうはなりませんでした。ダビデがアブサロムを抱きしめて共に祝宴を楽しむことは最早叶わないことでした。放蕩息子は生きて父の家に帰って来ましたが、アブサロムは死に、ダビデのもとに帰って来ることはできませんでした。

 アブサロムは滅び、放蕩息子は救われました。まったく違う正反対の結果になりました。では、アブサロムと放蕩息子の罪は、滅びと救いとに分かれるほどに大きな違いがあったでしょうか?アブサロムの罪はそれほどまでに大きかったのでしょうか?

 確かにアブサロムが犯した罪は大きなものでした。しかし放蕩息子の犯した罪も負けず劣らず大きかったと言えるでしょう。罪人という点では五十歩百歩と言えるのではないかと思います。

 ちなみに、この「五十歩百歩」ということばの語源は、昔の戦場にあるのだそうですね。戦場で五十歩逃げた兵士が、百歩逃げた兵士を見て、お前は臆病だと笑ったそうです。しかし逃げた臆病者という点では五十歩逃げた者も同じです。アブサロムと放蕩息子の罪も、アブサロムのほうが大きいようにも見えますが、罪を犯したという点では同じです。そして、それは私たちも同じです。罪の大きさに関わらず、罪を犯したという点では私たちもアブサロムと放蕩息子と同じ罪人です。

 皆、同じ罪人ですが、少しの差が「救い」と「滅び」という大きな違いへの分かれ目になります。では、アブサロムと放蕩息子の少しの差とは何だったでしょうか?聖書から読み取れることは、頭を低くし、身を低くすることができたかどうかということです。第二サムエル18章9節をお読みします。

第二サムエル18:9 アブサロムはダビデの家来たちに出会った。アブサロムはらばに乗っていたが、らばが大きな樫の木の、茂った枝の下を通った。すると、アブサロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていたらばはそのまま行ってしまった。

 この場面は、アブサロムが頭を低くし、身を低くすることができなかった人物であることを象徴しているように思います。一方の放蕩息子は「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません」と、天に対し、父親に対して頭を低くし、身を低くすることができました。

 頭を低くし、身を低くすることはイエス様が率先して行ったことです。イエス様は最後の晩餐の時、弟子たちの前で身を低くして弟子たちの足を洗いました。そして弟子たちにも、同じようにするように教えました。

 放蕩息子は父親に対して、身を低くすることができたから、救われて祝福されたのだなあと思います。しかし、アブサロムはそれができませんでした。

③魂の渇きを自覚して神の霊の水の潤いを求める
 頭を低くすることができるなら、自分が自力でできることの限界も見えるようになります。そうして、実は自力では何一つできないことが、見えて来ます。自分は他人に助けられ、神様に助けられて生きていることが分かるようになります。

 特に魂のことに関しては完全に神様の領域のことです。神様と個人的な関係が築けるようになると、魂の渇きを自覚できるようになります。人の魂の渇きを癒し、豊かに潤すことができるのは神様だけです。神様は渇いた人の魂に神の霊の水を注いで潤して下さいます。ダビデはこの魂の渇きをよく自覚していました。きょうの聖書交読で読んだ詩篇63篇1節でダビデはこのように告白しています。

詩篇63篇 ダビデの賛歌。ダビデがユダの荒野にいたときに。

 これはダビデがアブサロムから逃れてユダの荒野にいた時の詩篇です。1節、

詩篇63:1 神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない衰え果てた乾いた地で、私のたましいはあなたに渇き、私の身もあなたをあえぎ求めます。

 この時、ダビデは身を低くして全身全霊のすべてを神様の方に向けていました。魂の渇きを癒すことができるのは神様だけだからです。そんなダビデを神様は憐み、荒野から救い出して下さり、王宮に戻して下さいました。アブサロムも天に対して、父に対して頭を低くし、身を低くして、魂の渇きを自覚していたなら、違った展開になったことでしょう。しかし、アブサロムは魂の渇きを自覚することなく滅びてしまいました。このことを神様も悲しんでおられます。ダビデの悲しむ姿は、神様の悲しむ姿でもあります。

 人の渇いた魂は、神様の霊の水で潤されなければ枯れて滅びてしまいます。12月の年末の大掃除の時、玄関の脇の枯れてしまった針葉樹をM兄と処分しました。私のせいでこの針葉樹を枯らしてしまって申し訳なく思っています。ただ私は朝顔とコスモスを育てていましたから、水やりを怠っていたわけではありません。朝顔とコスモスに水をやる時には玄関の脇の針葉樹の鉢にも必ず一緒に水をやっていました。それなのにどうして枯らしてしまったのか、考えられるのは、雨が降った時には十分に水を与えていなかったということです。

 雨が降った時、外の朝顔とコスモスには水をやりませんでした。しかし、玄関の横のポットの植物には雨が降った時も水を少しだけ与えていました。ポットの上の方にはひさしのような出っ張りがあって、雨水が掛からないようになっているからです。それでも風があれば雨水が掛かりますから、水は少ししか与えませんでした。小さなポットの植物は、それで良かったと思います。しかし大きな鉢は高さがあり、針葉樹の背も高かったですから、ひさしで雨がさえぎられて少しの水では足りなかったんだろうなと思います。去年の夏は例年になく暑かったですから、申し訳ないことをしました。

 人の魂も神様の霊の水で潤されなければ渇いて滅びてしまいます。放蕩息子は、我に返って頭を低くし、身を低くした時、自分に必要なのは食べ物だけではなくて、魂の潤いもまた必要なのだと無意識の内に気付いたのでしょう。

おわりに
 人の魂は皆、渇いています。この渇きを潤すことができるのは、神様の霊の水、すなわち聖霊だけです。このことは非常に気付きにくいことですが、無意識にでも気付くなら、人は聖霊を求めて、その方向に歩み始めます。放蕩息子は頭を低くし、身を低くして「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません」と言うことができました。このことで救いの恵みに与ったことを、聖書は示しています。しかし、アブサロムはそれができませんでした。これがダビデの悲しみと放蕩息子の父の喜びという大きな差を生みました。ダビデの悲しみは神様の悲しみであり、放蕩息子の父の喜びは神様の喜びです。

 私たちの一人一人が救われた時、天に大きな喜びありました。先ずはこのことに心一杯感謝したいと思います。洗礼式は、この天の喜びを地上の教会において分かち合う場です。私たちは、この喜びをもっともっとたくさん分かち合いたいと思います。神様を悲しませることなく、たくさんの喜びを分かち合いたいと思います。

 このことのために、イエス様のように身を低くして互いに愛し合い、互いに尊敬し合って、共に歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。お祈りしましょう。
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油断が招くピンチとチャンス(2021.1.17 礼拝)

2021-01-18 11:40:51 | 礼拝メッセージ
2021年1月17日礼拝メッセージ
『油断が招くピンチとチャンス』
【Ⅱサムエル15:24~29、詩篇3:1~8】

はじめに
 きょう交読した詩篇3篇の表題には、「ダビデがその子アブサロムから逃れた時に」とあります。この時のダビデには、イエス様に大胆に近づいた長血の女や、エリヤのために最後の粉と油を使ったツァレファテのやもめと重なるものを感じます。そこで今日は、詩篇3篇と第二サムエル15章とを見ることにします。

 きょうは次の三つのポイントで話をします。

 ①想定外の大ピンチを招く油断
 ②ピンチの時は神様に大胆に近づけるチャンス
 ③自分ではなく神の民の祝福を祈ったダビデ

①想定外の大ピンチを招く油断
 きょうの1/17は26年前に阪神淡路大震災があった日です。それまで阪神地域には長い期間大きな地震が起きておらず、関西は地震が少ないと言われていました。東海沖地震が想定されて警戒されていた静岡県と比べると、油断があったかもしれません。

 「想定外」という言葉は10年前の東日本大震災の時に盛んに使われましたね。福島第一原発では大地震の揺れによって送電線の鉄塔が倒れるなどして外部からの電力供給が絶たれました。それで非常用のディーゼル発電機の内部電源で原子炉の冷却を行いましたが、津波によってディーゼル発電機が海水に浸って止まったために冷却できなくなり、燃料のウランが高温で溶けるメルトダウンの大事故になりました。もし大爆発が起きて溶けたウランが外部に飛び散っていたら、福島だけでなく東日本全体が放射能で汚染されて住めなくなるところでした。

 この背後には、まさかこれほどまでの大事故が起きることはないだろうという油断があったと思います。今の新型コロナウイルスの感染拡大も同様です。まさか、これほどひどいことになるとは思わずに、油断があったのではないでしょうか。

 ダビデにも油断がありました。息子のアブサロムが謀反を起こしたために、ダビデは王宮から逃げ出さなければならなくなりました。ここまで親子関係が悪くなっていたとは、ダビデには想定外のことだったでしょう。関係が悪いとは思っていても、ここまで悪いとは思っていなかったでしょう。ダビデは油断していたのだと思います。

 私たちも、人間関係や体の病気、心の病気などで、まさかここまで悪いとは思わなかったということを数多く経験しますね。ダビデのように人間関係において、あの人とは上手くいっていないと思っていたけれど、まさかそこまで悪いとは思っていなかったということを何度も経験します。私も子供の頃、学生時代、社会人になってから、何度もそういうことを経験しました。

 体の病気においても、悪いとは思っていたけれど、そこまで悪いとは思っていなかったということがよくあります。昨年天に召されたY兄の場合もそうだったと思いますし、私の父もそうでした。父は20年前にすい臓がんで死にました。検査を受けてから10日後のことです。検査結果が出るのに3日を要しましたから、検査結果が出てからわずか1週間で死にました。すい臓がんは見つけにくいと言われますが、父の場合は肝臓にも転移していましたから、もっと早くに見つけることができたはずです。父はその2年前に心筋梗塞を患って循環器科に毎月通院して医者に診てもらっていました。その2年の間、どんどん体重が落ちていました。ですから、もし循環器科の医師ががんを疑って他の科に回してくれていれば発見できたはずです。発見できても手遅れだったかもしれませんが、それにしても、なぜ死の直前まで分からなかったのか、という思いはあります。

 心の病気のうつ病も、すぐにうつ病になるわけではなくて、その前に様々な兆候が出ると言われています。忙しくて休まずに働き続けていると体に不調をきたします。それが休みを取りなさいという体からのメッセージですが、そのまま休まずに働き続けると心までがダメージを受けます。

 心に強いストレスを受けることで、うつ病に発展する場合も少なくないと聞きます。自分が牧会している教会が閉鎖になることで強いストレスを受けて心身に変調をきたした伝道者の事例を私はいくつも知っています。うつ病と診断されるかどうかはともかく、相当に調子が悪くなります。私も以前遣わされていた教会が解散になることが決定的になった時期には、かなり調子が悪くなりました。それで、もしかしたら、自分はうつ病なの?と心配になって自分でいろいろ調べてセルフチェックもしました。幸い、うつ病ではありませんでしたが、放っておくと危険であることが分かりましたから、なるべくストレスを貯め込まないようにしました。

 何事も決定的に悪くなる前には何らかの兆候が表れる場合が多いですから、気付いたら、まだ大丈夫だろうと油断せずに、対処すべきです。しかし、それが難しいから私たちは同じようなことを繰り返すのでしょうね。

 ダビデの場合も、息子の謀反で王宮から逃げ出すという、そこまで事態が悪くなる前に、できることがあった筈です。サムエル記第二には、アブサロムが謀反を起こすまでの経緯が詳しく書かれています。きょうの説教の時間内では、詳しいことは話せませんが、短くかいつまんで話します。

 そもそもの始まりは、ダビデが人妻のバテ・シェバを自分の王宮に呼び入れたことから始まります。ここにダビデの油断がありました。それまでダビデは主に守られて祝福されて来ましたが、ここからダビデの転落が始まります。

 ダビデはバテ・シェバに子供ができたことを知ると、彼女の夫のウリヤを戦場から呼び戻して、身籠った子がウリヤの子であると偽装しようとしますが失敗します。困ったダビデはウリヤを戦場の最前線に送って殺し、バテ・シェバを自分の妻にしてしまいました。

 このことに主は怒って、ダビデの家庭の崩壊が始まります。ダビデには複数の妻がいましたから、腹違いの息子や娘がたくさんいました。その子供たちの関係が最悪になって、息子の一人のアブサロムが腹違いの兄弟のアムノンを殺してしまいました。そうなる前にダビデはアブサロムとゆっくり話をする時間を作るべきだったでしょうし、そうなった後はなおさら、そうすべきでした。しかし、ダビデは息子のアブサロムとゆっくり語り合う時間を持ちませんでしたから、遂に謀反を起こすという最悪の事態を招いてしまいました。そうして、ダビデは王宮から逃げ出しました。その場面が今日の聖書箇所の前半の第二サムエル15章13~17節です。私が朗読しますから、目で追って下さい。この時の事態がいかに緊迫していたかを、感じ取っていただきたいと思います。

第二サムエル15:13 ダビデのところに告げる者が来て、「イスラエルの人々の心はアブサロムになびいています」と言った。
14 ダビデは、自分とともにエルサレムにいる家来全員に言った。「さあ、逃げよう。そうでないと、アブサロムから逃れる者はいなくなるだろう。すぐ出発しよう。彼がすばやく追いついて、私たちに害を加え、剣の刃でこの都を討つといけないから。」
15 王の家来たちは王に言った。「ご覧ください。私たち、あなたのしもべどもは、王様の選ばれるままにいたします。」
16 王は出て行き、家族のすべての者も王に従った。しかし王は、王宮の留守番に十人の側女を残した。
17 王と、王に従うすべての民は、出て行って町外れの家にとどまった。

 この時、ダビデはすべてを失いました。もちろん厳密に言えばすべてではありませんが、王宮から逃げ出したのですから、すべてを失ったに等しいでしょう。もし王宮に戻ることができれば回復しますが、事態は最悪でしたから、戻れる可能性は低かったでしょう。

②ピンチの時は神様に大胆に近づけるチャンス
 ダビデは大ピンチの中にいました。しかし、すべてを失うことは信仰的な観点から見れば、神様に大胆に近づけるチャンスの時でもあります。長血の女は、病気の治療のために財産を使い果たして、もはや頼れるのはイエス様しかいませんでした。すべてを失ったダビデは長血の女のようなものです。或いはまた、エリヤのために最後の粉と油でパン菓子を作ったツァレファテのやもめも、何も食べる物が無くなりましたから、頼れるのは神様だけでした。

 この時のダビデも頼れるのは神様だけでした。祭司のツァドクとレビ人たちも同じ気持ちで、頼れるのは神様だけだから、神の箱をエルサレムから持ち出したのでしょう。24節、

24 見よ、ツァドクも、すべてのレビ人と一緒に神の契約の箱を担いでいた。民がみな都から出て行ってしまうまで、彼らは神の箱を降ろし、エブヤタルがささげ物を献げた。

 しかし、ダビデは祭司のツァドクに「神の箱を都に戻しなさい」と言いました。25節と26節です。

25 王はツァドクに言った。「神の箱を都に戻しなさい。もし私がの恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。
26 もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。」

 この時のダビデの信仰を、少し時間を掛けて、じっくりと皆さんと分かち合いたいと思います。

 ダビデは、神の箱のことについては、決して人間の思い通りにはならないことを知り尽くしていたのでしょう。神の箱は、それが自分たちの近くにあれば祝福を得られる、というような単純なものではありません。

 第一サムエルの最初の方に、イスラエルがペリシテに打ち負かされて四千人が死んだことが書かれています。まだイスラエルに王様がいなかった時代のことです。その時、イスラエルの長老たちは話し合って、神の箱を戦場に運び込むことにしました。神の箱が自分たちの近くにあれば、きっと神様が助けて下さってペリシテに勝てるだろうと考えたからです。しかし、結果は悲惨でした。今度は三万人が殺されました。前回は四千人だったのに、今回は三万人が死にましたから、却って悪い結果になりました。人間の都合で神様を利用することを、神様は決してお許しにならないのですね。こうして、神の箱はペリシテに奪われてしまいました。

 さてしかし、今度は神の箱を奪ったペリシテの側に恐ろしいことが次々に起きました。神の箱を置いた町の住民が腫物(腫れ物)で打たれるようになりました。別の町に移すと、今度は移した先の町の住民がまた腫物で打たれました。こうして恐怖に怯えたペリシテ人たちは神の箱をイスラエルに送り返して、神の箱はアミナダブの家に20年以上に亘って置かれました。

 このアミナダブの家にあった神の箱をエルサレムに運び入れたのがダビデでした。ただし、1回目は失敗しました。神の箱を荷車に載せて牛に引かせていた時、牛がよろめいて神の箱が荷車から落ちそうになったので、荷車を御していたウザが神の箱に触れました。すると、主の怒りが燃え上がってウザを打ち、ウザは死んでしまいました。それでダビデは神の箱をエルサレムに運び入れることを一旦中止して、その三か月後にようやく運び入れることができました。この時、ダビデは神の箱の前で力の限り跳ね回って喜びを爆発させました。

 そうして神の箱をエルサレムに運び込んだダビデは、今度は立派な神殿を建てて、そこに神の箱を置くことを願いました。しかし、神様はダビデが神殿を建てることをお許しになりませんでした。これらのことを通して、神の箱のことは決して人間の思い通りにはならないことを、ダビデは知り尽くしていたのだと思います。

 もう一度、25節と26節をお読みします。

25 王はツァドクに言った。「神の箱を都に戻しなさい。もし私がの恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。
26 もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように。」

 この時、ダビデはすべてを手放して、すべてのことを完全に神様にお委ねしていました。王宮を去ることで財産をすべて手放し、神の箱さえも手放して、すべてを主の御手に委ねました。自分の息子が謀反を起こすという最悪の事態を招いた原因が自分の罪にあることをダビデは知っていました。部下たちが戦場で戦っていた時に、自分は戦場に出ないでウリヤの妻のバテ・シェバを王宮に呼び入れる罪を犯し、その罪をもみ消すために忠実な部下であったウリヤを戦場の最前線に送って殺してしまいました。この時、主が非常に怒ったことをダビデは知っていましたから、王宮から永久に追放されたとしても仕方がないことでした。ですから、事がここに至った以上は、すべてを主にお委ねして、祈りながら待つしかありませんでした。

③自分ではなく神の民の祝福を祈ったダビデ
 今度は詩篇3篇を見ます。詩篇3篇の1節と2節を交代で読みましょう。

ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。

3:1 よ なんと私の敵が多くなり 私に向かい立つ者が多くいることでしょう。
2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。

 「彼には神の救いがない」と言っている者たちの中には、ダビデの罪を知っていた者もいたかもしれません。ダビデは自分の忠実な部下であったウリヤを殺して、罪の上にさらに罪を重ねていました。この分厚い罪のためにダビデの家庭が崩壊して王宮を追われることになったことを、知っていた者があったかもしれません。

 ダビデは自分のこの罪のゆえに主が怒り、今の最悪の事態があることを知っていました。と同時に、自分をここから救い出すことができるのも主であることを知っていました。もはや、すべてを主の御手に委ねるしかありませんでした。

 3節から8節までを交代で読みます。

3 しかしよ あなたこそ私の周りを囲む盾 私の栄光 私の頭(かしら)を上げる方。
4 私は声をあげてを呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。
5 私は身を横たえて眠り また目を覚ます。が私を支えてくださるから。
6 私は幾万の民をも恐れない。彼らが私を取り囲もうとも。
7 よ立ち上がってください。私の神よ お救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち 悪しき者の歯を砕いてくださいます。
8 救いはにあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。

 8節のダビデの祈りはすごいです。

8 救いはにあります。あなたの民にあなたの祝福がありますように。

 「私に祝福がありますように」ではありません。「私の民に祝福がありますように」でもありません。「あなたの民に祝福がありますように」です。すべてを手放したダビデは私利私欲から完全に自由になっていました。神の民であるイスラエルの民の祝福のためには、誰がイスラエルを治めるのが良いのか、アブサロムなのか、自分なのか、主よ、あなたが決めて下さいと、すべてをお委ねしています。すごいなあと思います。自分のことよりも、神の民であるイスラエルの民の祝福をダビデは祈りました。

 こうして、私利私欲から自由になっていたダビデは、不思議な平安に包まれていたようです。最後にもう一度、第二サムエル15章に戻ります。27節、

27 王は祭司ツァドクに言った。「あなたは先見者ではないか。安心して都に帰りなさい。あなたがたの二人の息子、あなたの息子アヒマアツとエブヤタルの息子ヨナタンも、あなたがたと一緒に。

 ダビデは大ピンチの中にいるのに、祭司に「安心して都に帰りなさい」と言いました。ダビデが不思議な平安に包まれていた様子が伝わって来ます。もっとすごいのは、28節です。

28 見なさい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原でゆっくり待とう。」

 「ゆっくり待とう」です。豪華な王宮で贅沢な暮らしをしていたダビデが「荒野の草原でゆっくり待とう」と言うほどに、ダビデは不思議な平安に包まれていました。すべてを手放したダビデの心は若い頃の初心に戻っていたのかもしれませんね。荒野の草原でペリシテたちと対戦していた時のダビデは主が必ず守って下さることを信じて疑っていませんでした。その初心に戻っていたのかもしれません。それが、28節の

28 見なさい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原でゆっくり待とう。」

という言葉となって表れたのかもしれません。そうして祭司たちは神の箱をエルサレムに持ち帰りました。

おわりに
 きょうの話の最初のほうで、以前遣わされていた教会が解散することが決定的になった時、私はとても調子が悪くなったことを話しました。その時の私は、牧師を続ける気力も失っていました。そうして、いろいろありましたが最終的には、もし主がまだ私を必要としているなら牧師を続けて、そうでないなら他の仕事を探そうと思いました。そうして、すべてを主にお委ねすることにしました。その時の私は不思議な平安に包まれていました。当時は今日の第二サムエル15章のことは頭にありませんでしたが、今回、ここを改めてじっくり読んで、私もダビデと似た経験をしていたのだなと思いました。

 26節にあるように、もし主が『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうか、主が良いと思われることをこの私にしてくださるように、という心境でした。そうして主のことばを待ちました。

 いま私たちは新型コロナウイルスの感染者が増えている中で、主にお委ねするしかない状況の中にあります。こういう時は力を抜いて、28節のダビデの言葉のように、荒野の草原でゆっくり待つしかないのではないでしょうか。今はコロナ禍で様々なことが停滞していて、世の中は荒野のようになっています。

 この荒野の世で私たちは、自分たちのためではなく、家族や地域の方々のために、神様の祝福があるようにお祈りすべきだろうと思います。

 救いは主にありますから、家族や地域の方々が救われて祝福がありますように、お祈りをしながら、新たな活動ができる時まで、荒野の草原でゆっくり待つことにしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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神の教えがある喜びと畏れ(2021.1.10 礼拝)

2021-01-11 13:22:13 | 礼拝メッセージ
2021年1月10日礼拝メッセージ
『神の教えがある喜びと畏れ』
【詩篇1:1~6】

はじめに
 今年の標語聖句にあるように、イエス様は長血という病気を患っていた女に「信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。長血の女は、イエス様なら自分の病気を治して下さると信じてイエス様だけを一心に見て、群衆をかきわけて大胆に近づいて行き、懸命に手を伸ばしてイエス様の衣に触れました。この長血の女の信仰をイエス様は高く評価しました。

 私たちもまた長血の女のように神様であるイエス様に大胆に近づいて行く信仰を育みたいと思います。そのために礼拝メッセージでは、どうしたら神様にもっと近づくことができるのか、そのために役立つことを話したいと願っています。先週の礼拝メッセージでは、神様にすべてをお委ねすることの大切さを話しました。明日のことを心配して自力で何とかするのでなく、その心配する思いすら手放して、心の中のすべてを神様に明け渡すことの大切さを話しました。

 今週から、しばらくの間は詩篇を通して神様がどんなお方なのか、神様と私たちの関係はどうあるべきかを学んで、神様に近づいて行きたいと願っています。

 きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①人は「悪いことが無いように」を第一に願う
 ②神の教えがある喜び
 ③苦しんでいた民を救い出した神
 ④永遠の命を与える神様を畏れて礼拝する
 ⑤神の民の一人に永遠に加えられる喜びと平安

①人は「悪いことが無いように」を第一に願う
 詩篇1篇を見ながら、話を進めて行きます。1節と2節をお読みします。

詩篇1:1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。
2 のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

 この1節と2節を今回改めて読んでみて、1節の「幸いなことよ」の後に2節の「のおしえを喜びとし」ではなく、「悪しき者のはかりごとに歩まず」と続くことに目が留まりました。

 幸いなことよ。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

ではなくて、

 幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。

と、悪しき者に続いて行くのは、やはり人は「良いことがあるように」と願うよりも先に、「悪いことがないように」と願うものなのだなと思いました。

 教会の祈りも、そうだと思いますし、神社の前を通っても、目立つのは厄年と厄払いの看板です。私も教会に通うようになる前は厄年のことをとても気にしていました。今年の神社での初詣では、多くの人々がコロナウイルスに感染しないように、また経済的に困難になることがないようにと祈ったことでしょう。

 先週の4日の月曜日の昼過ぎ、池ヶ谷の教会員のお宅に教報などの印刷物を届けに行きました。その時、浅間神社の前を通りましたが、駐車場に入るのを待つ車の列が神社を囲むようにして何百メートルも延びていました。最後尾の車はいったい何十分待つのだろうかと思いました。一時間以上待った車もあるかもしれません。たぶん三が日の混雑を避けて平日の4日なら空いているだろうと思って行ったら混んでいたというパターンではないかなと想像しますが、やはり今のコロナの状況がこれ以上悪くならないように、そして少しでも良い方向に向かうようにと多くの方々が祈ったのではないかなと思います。

 そして、教会でも同じことを祈っていることを、もっと多くの方々に知ってもらいたいなと思いました。教会では私たちが祈る相手の神様がどのようなお方であるか、聖書が明らかにしています。そして、その聖書の神様が私たちに向けて、どう生きるべきかの道をを教え、導いて下さっています。詩篇119篇105節(週報p.2)に

詩篇119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

とあるように、私たちは主が照らして下さる足下の光に導かれて人生を歩んで行くことができます。

 一方、神社での祈りはそうではありません。私は40歳の頃までは神社でかなり熱心に祈っていましたからよく分かりますが、神社にどんな神が祀られているのか、あまり深く知らずに、また神から何か教えを受けるということもなく、祈る者が一方的に熱心に祈ります。その場合、祈っても祈っても、なかなか不安は解消されません。多少の気休めにはなりますが、祈りが聞かれているという確証がありません。ですから私の場合、すぐまた祈りに神社に出掛けて行くということを繰り返していた時期がありました。

 そういうわけで、この地域の多くの方々に、教会では聖書を通して神様がどのようなお方かを知り、神様からの語り掛けを受けながらお祈りすることができるのだ、ということを知っていただきたいなと思います。

②神の教えがある喜び
 もう一度2節を、「幸いなことよ」を付けて、お読みします。

2: 幸いなことよ。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。

 神様が私たちを教え導いて下さっていることは、大きな喜びです。神様の教えが無ければ私たちはどちらに向かって歩いて行けば良いのか分かりません。迷子になってしまった子供のように、或いは群れからはぐれてしまった子羊のように、途方に暮れて、ただただ、泣くことしかできません。神様の教えと導きが与えられることは本当に大きな喜びです。

 その神様が与えて下さる教えの基本中の基本がモーセの十戒ですね。きょうの交読で開いた出エジプト記20章に、モーセの十戒が書かれています。要約したものを(週報p.2)に載せました。

 1. あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
 2. 自分のために偶像を造ってはならない。
 3. の名をみだりに口にしてはならない。
 4. 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
 5. あなたの父と母を敬え。
 6. 殺してはならない。
 7. 姦淫してはならない。
 8. 盗んではならない。
 9. あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
10. あなたの隣人の家を欲してはならない。

そして、これら十の戒めに優るとも劣らず重要なのが、最初の主のことば、

「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、である。」(出エジプト20:20)

です。きょうの招きの詞にある通り、主はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民の苦しみの声を聞きました。その苦しんでいる民を憐れんで、主は救い出して下さいました。

③苦しんでいた民を救い出した神
 きょうの招きの詞をもう一度、お読みします。

出エジプト2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。
24 神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
25 神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。

 神様はエジプトで奴隷にされて苦しんでいたイスラエルの民を救い出し、そうしてモーセを通して十戒を人々に与えました。このように憐み深い神様の教えだからこそ、私たちは詩篇1篇の2節にあるように、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむことができるのですね。仮に、この十戒がイスラエルの民を苦しめていたエジプトの王のファラオから与えられたものだったら、私たちは決して喜んでそれを口ずさむことはないでしょう。

 今、コロナ禍で苦しんでいる方々には、聖書の神様は苦しんでいる人々を救う神であることを、先ずお伝えしたいと思います。教えの中身ももちろん大切ですが、それ以前に、主ご自身が「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、である」と仰せられたように、主は苦しむ人々を救う、憐み深いお方であることをお伝えしたいと思います。

 そうして神様の教えを喜びとして昼も夜もその教えを口ずさむなら、その人は栄えます。詩篇1篇3節、

詩篇1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。

 この3節にある、「時が来ると実を結ぶ」というのは「信仰の実」を結ぶということですね。信仰の実とはパウロがガラテヤ人への手紙に書いた「御霊の実」、すなわち「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)と言えるでしょう。流れのほとりに植えられた木は、神様が注いで下さる聖霊の水をたっぷりと吸い上げて、豊かな信仰の実を結びます。

 聖書では、神様が注いで下さる聖霊の恵みを多くの場合、水で表しますね。例えば、

詩篇23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 神様は私たちを、聖霊がたっぷりと注がれる憩いの水際に連れて行って下さいます。
 また、イエス様はサマリアの女に、こんな風におっしゃいました。

ヨハネ4:14 「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 水道の水やペットボトルの水は飲んでもすぐまた渇きますが、イエス様が与えて下さる聖霊の水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。

 或いはまた、新約聖書の最後にある黙示録では主が、このように言っています。

黙示録22:17 「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」

 この神様が与えて下さり聖霊の水をたっぷりといただいて、私たちは信仰の実を豊かに実らせます。そうして永遠の命をいただきますから、枯れることがありません。

④永遠の命を与える神様を畏れて礼拝する
 このように信仰の実を豊かに結ばせて下さり、永遠の命という素晴らしい恵みを与えて下さる神様を、私たちは「畏れ」を持って礼拝します。

 私たちを苦しみから救い出して、どちらへ向かって歩むべきかを教え導いて下さるお方を、私たちは敬い、「畏れる」気持ちを持って礼拝します。尊敬して畏れる場合の「畏れる」の漢字は畏怖の「畏」の字で、恐怖で恐ろしく感じる時の「恐れる」とは少し違います。

 辞書では、この「畏怖」の「畏」の字の「畏れる」のことを、

「何かを本当に尊い、力のあるものだと思い、その前で礼儀を失わないように控えめにする」
「自分よりはるかに力のあるものを尊い、怖いと思う気持ちを表わす意。特に神仏や自然などについて使う」

などと説明しています。後(あと)の方の説明には、「怖い」気持ちもあるとしていますね。

 確かに、その通りだと思います。なぜなら、詩篇1篇4節にあるように、神様は悪い者をモミ殻のように吹き飛ばすお方でもあるからです。神様の霊の水を吸い上げていない者の魂はカラカラに乾いていて、簡単に吹き飛ばされてしまいます。或いは、イスラエルの民がエジプトを脱出した時に彼らを追って来たエジプトの王の軍隊が海の水に流されてしまったように、神様の水に簡単に押し流されてしまいます。4節と5節、

詩篇1:4 悪しき者はそうではない。まさしく風が吹き飛ばす籾殻だ。
5 それゆえ悪しき者はさばきに罪人は正しい者の集いに立ち得ない。

 このように悪い者を吹き飛ばす神様は、悪者にとっては恐ろしい存在です。しかし、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ者にとって神様はダビデが「主は私の羊飼い」と歌ったように、緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴って下さる頼もしいお方です。

 そして、たとえ悪い者であっても、心の中にある悪いもの、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、憐み深い神様はその罪を赦して下さり、聖霊の水を与えて下さり、信仰の実を結ぶことができるようにして下さり、永遠の命を与えて下さいます。聖書が明らかにしている神様は、本当に素晴らしいお方です。

⑤神の民の一人に永遠に加えられる喜びと平安
 このように私たちは聖書を通して神様がどのようなお方かを知り、神様からの教えと導きの語り掛けを受けながら、お祈りすることができる恵みをいただいています。神様と個人的な関係を築いて、その関係の中でお祈りすることができます。神様が自分のお祈りを聞いていて下さるという確信がありますから、平安も与えられます。

 この、神様との個人的な関係の中で祈る営みを、聖書の中の人物たちは旧約聖書の創世記の時代から新約聖書の時代の1世紀に至るまで、ずっと行って来ました。そして、2世紀以降も、21世紀の現代に至るまで、ずっと続いています。

 創世記の時代から現代の21世紀に至るまで、神の民は同じ神様に祈り続けて来ており、私たちもまた創世記のアブラハムや出エジプト記のモーセたちが祈ったのと同じ神様に祈っています。聖書の中の信仰者たちは皆、神の民です。

 21世紀の私たちも信仰を持っているなら、同じ神の民の一人に加えられるというのは、大きな喜びです。この教会で信仰生活を送った方々も皆、神の民です。去年、天に見送ったお二人も神の民です。

 地上生涯が短いか長いかは一人一人で異なりますが、例え短かったとしても、神の民の一人に加えられることは大きな喜びです。聖書の中の人物も、ルターもウェスレーも、蔦田家や松村家の人々も、皆が同じ神の民の一人です。そして今、地上で礼拝している私たちもイエス・キリストを信じて聖霊を受けている者は既に神の民の一人に加えられています。

 聖書によって皆が一つにされていること、これは本当に素晴らしいことだと思います。この恵みは、昔も今も変わらない、同じ聖書を使い続けていればこそ与えられている恵みです。聖書の翻訳は変わって行きます。同じ日本語訳でも文語訳が口語訳になり、さらに差別用語など配慮すべき言葉があれば改訂されて行きます。聖書の原典の研究が進めば、削除される節もあります。しかし、基本的に聖書は昔も今も変わらず、昔の人も今の人も同じ聖書を使い続けていて、その聖書を信じる者は皆が同じ神の民です。これは本当に素晴らしい恵みだなあと思います。

おわりに
 新型コロナウイルスの感染拡大で職を失って社会的に孤立している方々も多くいることと思います。経済的な支援が何より必要ですが、経済的な支援が得られても職を失うことによる社会的な孤立感は絶望へともつながりかねません。コロナの不況により自殺者も増えていると報道されています。神の民の一人に加えられることは、人を絶望から救う大きな希望です。

 ぜひ、多くの方々に、この神の民の一人に加わる恵みのことを知っていただきたいと、コロナウイルスの感染拡大が続いている今、切に願います。
 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

1 幸いなことよ、
2 のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。
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心を明け渡して神に近づく(2020.1.3 新年礼拝)

2021-01-04 08:55:28 | 礼拝メッセージ
2021年1月3日新年礼拝メッセージ
『心を明け渡して神に近づく』
【列王記第一17:7~16】

はじめに
 今年の標語聖句はマルコの福音書5章の長血の女の箇所のみことばから、

「信仰があなたを救ったのです。苦しむことなく、健やかでいなさい」

としました。

 元旦礼拝に出席できなかった方もおられますから、簡単に復習すると、この標語聖句には次の三つの願いが込められています。

 1.新型コロナウイルスの苦しみからの解放
 2.召天者ゼロの健やかな年であって欲しい
 3.大胆に主に近づく長血の女の信仰を育む

 イエス様は、大胆にご自身の方に近づいた長血の女の信仰を讃えて「信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。私たちも長血の女のように大胆に主に近づきたいと思います。その信仰を育むために、長血の女の箇所に加えて、きょうは列王記第一のツァレファテのやもめの箇所を見ながら、さらに学んで行きたいと思います。

 きょうは次の四つのパートで話を進めます(週報p.2)

 ①手放すことは心を神様に明け渡すこと
 ②雨が降らない干ばつに苦しんだ北王国
 ③最後の粉と油を手放して献げたやもめ
 ④明け渡すとは神様に全面降伏すること

①手放すことは心を神様に明け渡すこと
 一週間前の年末感謝礼拝では。自分で立って歩くことができない中風の人を四人の人が担いで、穴を開けた屋根から釣り降ろした箇所を開きました。この中風の人は自分で歩く力すら失った全く無力な人でした。神様は、こういう自力では全く何もできない人を憐んで立ち上がる力を与えて下さいます。

 長血の女の場合は中風の人とは違い、まだ自力でイエス様に近づくことができました。しかし、それ以外は何もかも失っていました。12年間長血の病を患っている間に色々な医者に診てもらって財産を使い果たしましたが、それでも良くならず、却って悪くなるばかりでした。絶望していた彼女に最後に残されていたのは、イエス様ならきっと治して下さるという信仰と、イエス様に近づいて行くわずかな体力だけでした。長血の女は最後に残された強い信仰と弱った体力でイエス様に近づいて行き、イエス様の衣に触れました。

 きょうの聖書箇所の列王記第一17章のツァレファテのやもめも、わずかな粉と油しか残されていませんでした。そのわずかに残された粉と油をやもめは手放しました。手放してしまえば食べる物がなくなってしまいます。しかし、神様が養って下さるという信仰がツァレファテのやもめにはありました。

 ツァレファテのやもめは自分の最後の食べ物を手放すことで、明日からのことをすべて神様にお委ねしました。神様にお委ねするとは、神様に心を明け渡すということです。どうぞ神様の御心のままに為さって下さい。私はそれに従います、ということです。そうして、最後の食べ物を手放したやもめを、神様は豊かに祝福して下さいました。

 この記事を、もう少し丁寧に見て行きたいと思います。

②雨が降らない干ばつに苦しんだ北王国
 列王記第一17章を見て行きます(旧約p.631)。1節には、こうあります。

Ⅰ列王17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 これは北王国の預言者エリヤの時代の話です。ダビデ王の息子のソロモン王が死んだ後、イスラエルの王国は北王国と南王国の二つの国に分裂しました。分裂した時、北王国の初代の王のヤロブアムは、北王国の国民がエルサレムの神殿がある南王国へ礼拝に行かないようにする方策を取りました。このことで北王国はどんどん不信仰になって行き、7代目の王のアハブの時代には、とてもひどい事になっていました。

 16章の終わりの方には、アハブ王が初代の王のヤロブアムよりも遥かに不信仰であったことが書かれています。16章30節と31節をお読みします。

Ⅰ列王16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりもの目に悪であることを行った。
31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。

 これらの不信仰は主の怒りを引き起こしました。33節、

33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、の怒りを引き起こすようなことを行った。

 そうして怒った主は預言者エリヤをアハブ王の所に遣わし、エリヤに言わせました。それが17章1節のことばですね。

「私が仕えているイスラエルの神、は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 こうして北王国には雨が降らなくなり、川も涸れてしまいます。川が涸れる前、エリヤはケリテ川のほとりに住んで、カラスが運ぶ食べ物で生活しました。それは主がエリヤにそう命じたからです。2節から4節、

Ⅰ列王17:2 それから、エリヤに次のようなのことばがあった。
3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
4 あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

 この箇所を読むと、まずはエリヤが、主に心を明け渡した人であったことが分かります。普通の人なら自力で何とかして食料を確保しようとします。しかし、エリヤは全てを主にお委ねして、主がカラスに命じて運ばせたパンと肉を食べて生活しました。5節と6節です。

5 そこでエリヤは行って、のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。
6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

 このように、先ずはエリヤが主にすべてを明け渡した預言者であったことを覚えたいと思います。続いて7節、

17:7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。

 とうとうケリテ川が涸れてしまいました。すると8節と9節、

8 すると、彼に次のようなのことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 エリヤはカラスに養われ、次はやもめに養われます。

 この、雨が降らない干ばつに苦しむ北王国の様子を読むと、今の新型コロナウイルスによって世界が苦しんでいる様子とも重なるように思います。コロナ禍のことも頭の片隅に置きながら、以下の記事を読みたいと思います。

③最後の粉と油を手放して献げたやもめ

10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 雨が降っていませんでしたから、水はやもめにとっても貴重だった筈です。その貴重な水をエリヤはやもめに所望し、やもめは断らずに取りに行こうとしました。11節、

11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」

 次の12節のやもめのことば、「あなたの神、は生きておられます」にも注目したいと思います。北王国の初代ヤロブアム王が、人々がエルサレムの神殿に礼拝に行かないようにして以来、北王国の国民を不信仰が蝕んでいました。ツァレファテは9節にあるようにシドンにあり、イスラエルではありません。シドンと言えば、16章31節で見たように、アハブ王の妻イゼベルの出身地です。イゼベルはシドンの王の娘でした。イゼベルは新約聖書の黙示録に引用されるほどに不信仰な女として有名です(週報p.2)。

黙示録2:20 けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは、あの女、イゼベルをなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて惑わし、淫らなことを行わせ、偶像に献げた物を食べさせている。

 イゼベルの出身地のシドンに「あなたの神、は生きておられます」と告白するやもめがいました。イゼベルの不信仰とは対照的ですから、やもめの信仰の立派さが一層くっきりと浮かび上がります。12節、

12 彼女は答えた。「あなたの神、は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです。」

 もうわずかな粉と油があるだけで、この先は干ばつのために新たな食料が手に入る見込みはありませんでしたから、あとは死ぬしかありませんでした。すると、このやもめの言葉を聞いてエリヤは言いました。13節、

13 エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

 エリヤは彼女に、「まず私のために小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」と言いました。この部分だけを読むと、「ます私のために」なんて、よくそんなことが言えるなとも思います。しかし、エリヤはカラスに養われていたことも分かるように、すべてを主に明け渡していました。主にすべてを明け渡した預言者エリヤのことばは主のことばと同じです。14節、

14 イスラエルの神、が、こう言われるからです。『が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

 自分が握りしめている物をすべて手放すなら、あなたには尽きない恵みが主から注がれ続ける、エリヤはやもめにそう言っています。そして、彼女はその通りにして、まずエリヤのためにパン菓子を作りました。15節と16節、

15 彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
16 エリヤを通して言われたのことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。

④明け渡すとは神様に全面降伏すること
 エリヤとツァレファテのやもめは神様に心をすべて明け渡していました。もしエリヤが神様に心を明け渡していなければ、カラスに養われるという人間的な目で見れば屈辱的な生活はしなかったでしょう。同様にやもめも、神様に心を明け渡していなければ、最後に残ったわずかな粉と油でパン菓子をまずエリヤのために作ることはできなかったでしょう。

 心を明け渡すとは主の命令に素直に従うということです。主の命令に逆らわずに従うことですから、全面降伏することとも言えるでしょう。

 全面降伏して明け渡すと言うと、赤穂浪士の忠臣蔵で有名な赤穂城の無血開城や、西郷隆盛と勝海舟の会談で決まった江戸城の無血開城を思い起こします。赤穂城も江戸城も、そこで仕えていた者たちにとっては苦渋の決断だったでしょう。どうぞどうぞ、お好きなようになさって下さいとは、とても言えませんよね。赤穂城の無血開城も江戸城の無血開城も賛否両論が渦巻く中で為された、苦渋の決断でした。

 神様に全面降伏して心を明け渡すことも、そんなに簡単にできることではありません。聖書には書かれていませんが、エリヤにもやもめにも自分の中で賛否両論があり、心の葛藤があったかもしれません。

 インマヌエルの沼津教会の会堂も、沼津シオン教会へ吸収合併される時に明け渡しました。備品で残したのは備え付け聖書とピアノとカーテンぐらいで、あとは電気製品も家具類も食器類も何もかも、教会員が引き取るかリサイクル業者に買い取ってもらうか、廃棄処分の業者に来てもらって処分しました。そうして、聖書とピアノとカーテン以外は空っぽにして会堂を明け渡しました。沼津教会の会堂の明け渡しも、もちろん、葛藤の末に下した苦渋の決断でした。

 しかし自分たちで頑張ることをやめて力を抜いて、すべてを神様にお委ねするなら、不思議な平安に包まれるようになります。

 きょうの招きの詞の

マタイ5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

の「心の貧しい者は幸いです」も、心を明け渡す者が受ける幸いを言っています。自分で頑張ることを止めて神様に心をすべて明け渡すなら、天の御国の幸いがその人に与えられます。天の御国の幸いは死んだ後に与えられるものではなく、地上生涯においても、神様に心を明け渡した瞬間から得られる幸いです。

 神様にすべてを明け渡すに当たっては心の葛藤があるかもしれません。当然のことです。しかし、その葛藤を越えて明け渡した者に、素晴らしい幸いが与えられます。

 きょうの聖書交読でご一緒に読んだマタイ6章でもイエス様は私たちに、心を明け渡してすべてを神様に委ねるように説いています。マタイ6章24節と25節、

マタイ6:24 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

 このみことばの通りにエリヤはカラスに養ってもらい、その次にはツァレファテのやもめに養ってもらいました。やもめもまた、主が与える粉と油によって養われました。

おわりに
 私たちは、自分の人生が自分の思い通りになって欲しいと願って自分で頑張ってしまいがちです。しかし、そのことを手放して、主にすべてをお委ねするなら、不思議な平安に包まれます。

 いま私たちは新型コロナウイルスの感染者の拡大によって、自分たちが思い描いたような人生を送れなくなっています。いつこの感染拡大が収束に向かうのかも、現段階ではよく分かりません。
 もしかしたらこれは、自分が思い描いた人生を手放す機会を主が与えて下さっているのかもしれません。お金があれば大抵のことができますが、コロナ禍の今はお金がある人でも自分が思い描く生活ができない日々が続いています。

 どうして、コロナウイルスが猛威を振るうようになったのか、本当のところは分かりません。しかし、良い訓練の機会が与えられている、とも言えるでしょう。

 聖書は多くの箇所で、自分が握っている物を手放すなら、主が恵みを注いで下さることを教えています。ですから私たちは、エリヤのように、そしてツァレファテのやもめのように、心を神様に明け渡して、すべてをお委ねすることを学びたいと思います。コロナ禍の今は、その良い機会です。

 神様は皆さんのお一人お一人の心の中にもエリヤを遣わして、「まず私のために小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」とおっしゃっています。まず「神様のために」です。「自分のために」を手放して、神様を最優先にするなら、神様は尽きない恵みを豊かに注いで下さいます。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りする時を持ちましょう。

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信仰があなたを救ったのです(2021.1.1 元旦礼拝)

2021-01-01 14:46:30 | 礼拝メッセージ
2021年1月1日礼拝メッセージ
『信仰があなたを救ったのです』
【マルコ5:25~34】

はじめに
 あけましておめでとうございます。
 今年の標語聖句は前方に掲げた通り、マルコ5章34節からの引用です。
 書いて下さったY姉のご労に感謝いたします。

「信仰があなたを救ったのです。
 苦しむことなく、健やかでいなさい。」

 この標語聖句には三つの願いが込められています。それら三つの願いは今日の五つのパートのうちの①~③までです(週報p.2)。

 ①新型コロナウイルスの苦しみからの解放
 ②召天者ゼロの健やかな年であって欲しい
 ③大胆に主に近づく長血の女の信仰を育む

 これら三つのことを願って、今年の標語聖句を上記の通りにしました。
そして、きょうはもう二つ、

 ④人は神様の近くに居るよう造られている
 ⑤信仰で近づく者に自動的に注がれる恵み

について話した後で、聖餐式に臨みたいと思います。

①新型コロナウイルスの苦しみからの解放
 今年の標語聖句に込めた願いの1つ目は、「新型コロナウイルスの苦しみからの解放」です。

 昨年はコロナ禍の波が第1波、第2波、第3波と移行するに連れて、感染者の数が増えています。11月からの第3波は収まる気配がなく、きのうのおおみそかの1日当たりの感染者数は静岡県が27名、東京都が1,337名、全国では4,520名もいました。早く、この感染者の増大が減少に転じて、終息へと向かって行って欲しいと思います。イエス様が長血の女の病気を治して苦しみから解放したように、今の新型コロナウイルスの苦しみから、私たちを解放していただきたいと思います。

 マルコ5章34節のみことばの全文をお読みします。

マルコ5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

 イエス様は「あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいました。この長血の女の信仰は、どのような信仰だったのでしょうか?25節から見て行きます。

マルコ5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。

 長血が現代の病気の何に当るのか、詳しいことは分かりません。いずれにしても、血を漏出する病気であったようです。その長血の病を女は12年間わずらっていました。

26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

 これは今の新型コロナウイルスと似ている点もあると思います。「医者からひどい目にあわされた」というと、金もうけ主義のヤブ医者が効きもしないいい加減な治療をして高額の治療費をふんだくったというようにも読めます。しかし、悪意のない善意の医者であっても、治療法の見つかっていない病気であれば、大抵がこんな感じになってしまうのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスも新型であるがゆえに第1波の始まりの頃の初期の患者は皆、結果的に長血の女のようにひどい目に遭わされてしまったとも言えるでしょう。そうして様々な治療が試みられる中で段々と良い治療法が見つかって行きます。

 長血は治療法がありませんでしたから彼女は医者から様々な治療を受けますが良くはならず、むしろもっと悪くなっていました。彼女は病気も治らず財産も失い、すべてを失っていました。しかし、すべてを失っても信仰だけは失っていませんでした。それは、イエス様は神様であり、神様は必ず治して下さるという信仰でした。そして、その信仰が彼女を救いました。

 今の新型コロナウイルスの感染拡大も悪い状況の中にあります。私たちはイエス様がこの悪い状況を変えて下さり、苦しみから解放して下さることを、信仰をもって信じ、祈りたいと思います。イエス様から離れた所で形式的な祈りを捧げるのではなく、イエス様に大胆に近づいて本気で祈りたいと思います。

②召天者ゼロの健やかな年であって欲しい
 今年の標語聖句に込めた願いの2つ目は、「召天者ゼロの健やかな年であって欲しい」ということです。

 昨年はY兄とH兄のお二人を天に見送った悲しい年になりました。人はいつかは必ず地上生涯を終えます。若い人でもいつかは天に召されます。ですから、召天者ゼロの年がずっと続くということはありません。しかし、昨年は二人も見送りましたから、今年は誰も天に召されずに、皆が健やかに過ごすことができる年であってほしいと思います。

 私たちは20代、30代の頃のピークを過ぎれば衰えて行きます。いま私は61歳です。70代、80代、90代の方々からすれば、60代はまだ若いとおっしゃるかもしれませんが、様々な点で衰えを感じます。そうして、様々な力やものを失って行くと、最後に何が残るのか?が問われているように感じます。長血の女は病気ですべてを失いましたが、最後に信仰だけは残っていました。自分の最期の時、ちゃんと信仰が残っているだろうか?と問われているように感じます。

 昨年天に召されたY兄とH兄は、立派な信仰を示して下さいました。立って歩く力が残されている間は、お二人ともこの会堂を目指して来られて、礼拝に出席されていました。

 長血の女が必死にイエス様を目指して向かって行ったように、お二人もこの会堂を目指して来られました。いろいろなものを失っても信仰者には最後に信仰が残ることを示して下さり、とても感謝に思います。これからできるだけ長い期間、できれば、この先何年もずっと、このお二人が一番最近の召天者であって欲しいと願います。そうして、皆さんと一緒に礼拝を献げ続けて行きたいと思います。

③大胆に主に近づく長血の女の信仰を育む
 標語聖句に込めた3つ目の願いは、大胆に主に近づく長血の女の信仰を、私たちも育みたいということです。

 誤解のないように言っておきますが、イエス様との距離の「遠い/近い」は物理的な距離ではなくて「心の距離」です。教会に来て礼拝出席していてもイエス様から心が離れている人はいるかもしれませんし、ご自宅にいながら礼拝に参加している方でも会堂にいる私たちよりずっとイエス様の近くにいる人もいるでしょう。私たちはイエス様との「心の距離」を縮めたいと思います。

 27節から29節までをお読みします。

27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。

 長血の病は、血を漏出する病でしたから、律法的には女は汚れていました。レビ記15章25節には次のように書いてあります(週報p.2)

レビ15:25 女に、月のさわりの期間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出があるか、あるいは月のさわりの期間が過ぎても漏出があるなら、その汚れた漏出がある間中、彼女は月のさわりの期間と同じように汚れる。

 このように長血の女は汚れた者であると律法に定められていました。そしてレビ記15章31節には次の様にあります。

31 あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。

 つまり長血の女は隔離されていなければなりませんでした。しかし、長血の女はその掟を破って群衆に紛れ込み、イエス様に向かって行って、イエス様の衣に触れました。イエス様に治していただきたい一心で、他のことは眼中になく、律法の掟さえも眼中になく、イエス様だけを見て、イエス様に向かって行きました。

 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていた彼女は、イエス様は神様だと信じていました。衣だけで人を治せるのは神様だけです。長血の女には、イエス様が神様だと分かる信仰がありました。多くの群衆がイエス様に迫っていましたが、イエス様が神様と信じていた者はほとんどいなかったのでしょう。物理的にはイエス様の近くにたくさんの人がいましたが、その中で心の距離は長血の女がイエス様に最も近い所にいました。

④人は神様の近くに居るよう造られている
 ここではイエス様との心の距離を縮めるということについて、もう少し掘り下げてみたいと思います。きょうの招きの詞はヘブル人への手紙4章16節のみことばです。

ヘブル4:16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 ヘブル書の記者が「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」と勧めているということは、この手紙の宛先の人々の多くは恵みの御座に近づけていなかったということでしょう。これは、もちろん心の距離のことです。

 では、私たちはどうでしょうか。長血の女のように神様との心の距離を縮めることができているでしょうか?それともヘブル人への手紙の宛先の人々のように縮めることができていないでしょうか?

 きょうの聖書交読では、イザヤ書61章をご一緒に読みました。1節と2節をもう一度お読みします。

イザヤ61:1 である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 の恵みの年、…すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

 イエス様は、この主に油注がれて遣わされた者とは、ご自身のことであるとおっしゃいました(ルカ4章)。すべての嘆き悲しむ者を慰めるために、天の父はイエス様を地上に遣わされました。この神様であるイエス様からあわれみを受け、恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために私たちは長血の女のように大胆にイエス様に近づいているでしょうか?

 神様と人との距離は元々創世記1章・2章のアダムの時代にはとても近い関係にありました。たとえ離れてもすぐに引き付けられます。掲示板と磁石のような関係です。掲示板の磁石は間に何も無ければ、ピタッと吸い付きます。紙が1枚挟まってもまだまだしっかり吸い付きます。しかし紙が2枚、3枚と増えると段々吸い付く力が弱まり、4枚、5枚ではもうほとんど吸い付かないでしょう。たかが紙2,3枚のことですから物理的な距離は大して離れていません。それでも磁石の力は弱まります。信仰の力も少しのことで弱まります。

 ちょっとしたことに気を取られて神様から目を離してしまうと、すぐに信仰の力は弱まります。ですから私たちはイエス様から目を離さないでいた長血の女のように、一心にイエス様だけを見て、心の距離を縮めて行きたいと思います。

⑤信仰で近づく者に自動的に注がれる恵み
 30節はとても興味深いと思います。

30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」

 イエス様が力を長血の女に与えようとしたのではなくて、彼女が近づいて触れたらイエス様から自然と力が長血の女の方に移った、高い所から低い所に水が流れるように、自然現象のように力が移りました。神様の恵みとはこういうものなんですね。神様が誰かに恵みを注ごうと思ってその人に恵みを注ぐのではなくて、神様は皆を愛していますから、信仰を持って神様に大胆に近づく者には自動的に愛が注がれるようになっているんですね。
 続いて31節、

31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

 群衆が押し迫っていましたから、複数の人がイエス様の衣に触れた可能性があります。一人を特定してどうするんだろうと弟子たちは思ったのでしょう。しかし、32節、

32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。

 力が自動的に出て行くほどにイエス様との心の距離を縮めていた長血の女のことを、イエス様は恐らく知っていたでしょう。知った上で敢えて「だれがわたしの衣にさわったのですか」と聞いて、長血の女の信仰を、他の多くの人々に示したかったのでしょう。他の人々は物理的な距離は近くても心の距離はまだ離れていました。その距離を他の者たちも縮めてほしいと願っておられたのだと思います。33節、

33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。

 汚れた身でイエス様に触れた罪を咎められると思ったのでしょう。彼女は恐れおののきながら前に進み出て、真実をすべて話しました。この姿勢も立派ですね。神様の御前に出て真実をすべて告白する者でありたいと思います。神様はすべてをご存知のお方ですが、自分の口で罪を正直に告白する者でありたいと思います。

 そんな彼女をイエス様はもちろん咎めませんでした。34節、

34 「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

 イエス様は私たちの一人一人に大胆に自分に近づいて心の距離を縮めてほしいと願っておられます。ささいな他のことで目を離してしまうことなく、長血の女のようにご自分だけを見て一心に向かって来て欲しいと願っています。信仰をもって一心にイエス様に向かって行けば、恵みは自動的に注がれます。遠慮して中途半端な距離でイエス様を眺めているだけでは恵みは届きません。

 私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座におられるイエス様に近づこうではありませんか。

おわりに
 これから聖餐式に臨みます。罪は私たちの目をイエス様から離れさせ、私たちがイエス様に近づくことを阻みます。その罪をイエス様は十字架に掛かることで取り去って下さいましたから、私たちは大胆にイエス様に近づくことが許されています。ですから私たちは十字架のイエス様に大胆に近づいて、十字架のイエス様を間近に仰ぎ、十字架の恵みに与りたいと思います。

 イエス様のすぐ近くまで大胆に近づいて、聖餐の恵みに与りたいと思います。
 一言、お祈りいたします。

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常識を打破してイエスに近づく(2020.12.27 礼拝)

2020-12-28 09:22:40 | 礼拝メッセージ
2020年12月27日年末感謝礼拝メッセージ
『常識を打破してイエスに近づく』
【マルコ2:1~5】

はじめに
 きょうは今年最後の礼拝ですから、今年一年を振り返りつつ、来年への展望を語りたいと思います。但し、きょうの礼拝後には大掃除もありますから、長い話はできません。今年を振り返ることは1月の教会総会の折にもできますから、振り返りはそこそこにして、来年への展望に重点を置きたいと願っています。
 きょうは次の四つのパートで話を進めます。

 ①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
 ②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
 ③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
 ④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント

①霊的な恵みの分かち合いを目標にした2020年
 聖書は極めて霊的な書物です。そのことは「霊」ということばがたくさん使われていることからも明らかです。但しやっかいなのは、「霊」は目に見えないために「霊」とは何かを共有することが難しいということです。聖書の「霊」という活字をいくら眺めていても「霊」は分かって来ません。「御霊」を連発するパウロの手紙を何十回読んでも「御霊」のことは分かりません。

 それほど「霊」のことは分かりにくいのですが、聖書に「霊」ということばがたくさん用いられているからには、霊への感受性を高めて、教会の皆さんとの間で霊的な事柄を共有することは必須だと考えます。なぜなら、心の平安を求める人は神の霊によって魂に癒しを感じるからです。

 19年前の2001年8月に初めて高津教会を訪れた時、私はそこに霊的な雰囲気を感じました。そうしてクリスマス礼拝まで一度も休まず礼拝に出席して受洗に至ったのも、高津教会の持つ霊的な雰囲気に引き付けられていたからだと思います。静岡教会の皆さんも、上手く言葉にはできないにせよ、恐らくは神の霊を感じていて、魂の癒しを感じているから、礼拝出席を続けているのだろうと思います。

 その、何となく感じる神の霊による魂の癒しの恵みを、言葉を通して明らかにして静岡教会の皆さんと分かち合えるようになるなら、まだその恵みを知らない方々にも、言葉を通してお伝えできるようになるでしょう。そうすれば、新しい方に来ていただけるようになるかもしれません。そのことを願って、今年の標語聖句を第二コリント13章13節にしました。きょうの招きの詞です。お読みします。

第二コリント13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

 神の霊による魂の癒しを言葉で伝えることは難しいですから、どうしたら良いのか、よくは分かりませんでしたが、先ずは神の愛の大きさを分かち合うことから始めて、今年一年の歩みを始めることにしました。そうして2月までを過ごしましたが、2月の後半から日本の国内でも新型コロナウイルスの感染者が増えて来て、3月は学校が一斉休校となりました。

 経験したことがない事態の中で誰もが戸惑い、どうしてこんなことになったんだろうと私も思いました。そうして、この事態を神様はどうご覧になっているのだろうかと思い悩みました。そして、そうこうしているうちに、お二人の兄弟の病状が悪化して天に見送りました。そんなこんなで礼拝の説教のテーマは一貫性を欠いて迷走状態になっていたようです。それゆえ神の霊による魂の癒しの恵みを皆さんと分かち合いたいという目標にも近づけていませんでした。

②聖霊の恵みを分かち合えるようになった11月
 そんな中で、11月1日の礼拝説教は、この悪い流れをある程度変えることができたのではないかと私自身は考えています。11月1日の説教では冒頭で聖宣神学院でのK先生の授業の思い出を話しました。

 私が神学生の1年生の時、K先生は教室にいる神学生に向かって「皆さんは聖霊が内にいることを確信していますか?」と聞きました。その時私は、「聖霊が内にいると感じる時もありますが、感じない時もあります」と答えました。するとK先生はおっしゃいました。「人間の心は安定しないから聖霊を感じる時と感じない時とがありますが、聖書にはイエスを信じた者の内には聖霊がいると書いてあるのですから、自分の内にはいつも聖霊がいると信仰によって信じるべきです。」

 細かい表現は違ったかもしれませんが、そのようなことを河村先生はおっしゃいました。それまでの私は聖霊をとらえどころのない、良くわからないものだと感じていました。それで聖霊が内にいることも感じたり感じなかったりで、私にとって聖霊はとても曖昧な存在でした。しかし聖霊が内にいることは信仰によって信じるものなのだということを教わってからは、聖霊が内にいることを確信できるようになり、聖書の理解が深まるようになって行きました。

 聖書の理解が深まったのは、聖霊の内住を信じたことで助け主の助けが得られるようになったからです。きょうの聖書交読の箇所でもあるヨハネの福音書14章26節でイエス様はおっしゃいました。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 神学院での経験を通して私は、聖霊の内住を信じるなら助け主の助けが得られることを学びました。ですから、教会の皆さんにも聖霊の内住を、信仰を持って信じるようにお勧めしました。

 この11月1日の説教で聖霊の内住を信じることをお勧めしたことで、それ以降の聖霊に関する説教が、とてもしやすくなりました。分かりにくい聖霊の話をどうしたら分かりやすくできるのかが大きな課題でしたが、それはお一人お一人の中にいる助け主の助けにお委ねすることにしましたから、随分と話しやすくなったと感じています。

 そうして11月22日の礼拝説教では『序盤から「聖霊」を強調する福音書』というタイトルで話しました。この、序盤から「聖霊」を強調する傾向は特にマルコの福音書において顕著です。マルコは1章の8節という非常に早い段階で、バプテスマのヨハネの次のことばを記しています。

マルコ1:8 「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」

 これほど早い段階でマルコが聖霊に言及しているということは、福音書は霊的なメッセージを発信している書であるとマルコが宣言していると受け留めるべきです。バプテスマのヨハネは、もっと多くのことを人々に語ったはずです。マルコは、その多くのことの中から、「イエス様は聖霊のバプテスマを授けるお方である」ということに焦点を絞って、このことだけを書き記しました。このことから、福音書は霊的なメッセージを発信している書であることが分かります。

 福音書が発信している霊的なメッセージを受信するためには、そのためのアンテナを立てる必要があります。この霊的なアンテナを立てると、なぜ福音書の記者たちがイエス様の風貌を描かなかったのかも分かります。イエス様の背は高かったのか低かったのか、目は何色だったのか、そういうことを福音書の記者たちは一切書いていません。読者がイエス様を信じて聖霊を受けるのに、それらの情報はぜんぜん必要ないからでしょう。

 イエス様はおよそ30歳の頃に宣教を始めたと福音書は書いていますが、私は10代、20代のイエス様のことももっと知りたいと思っています。しかし福音書は書いていません。それらの情報は読者が聖霊を受けるためには必要がないからでしょう。

 福音書はイエス様の伝記ではなくて、読者がイエス様を信じて聖霊を受けるために必要な情報が書かれている書だと頭を切り替える必要があります。そうして霊的なアンテナを立てて福音書を読みたいと思います。

③常識を破って大胆にイエスに近づいた者たち
 きょうの聖書箇所のマルコ2章の記事も、霊的なアンテナを立てているか立てていないかで、受け留め方がだいぶ違って来ます。マルコ2章1節から見て行きます。

マルコ2:1 数日たって、イエスが再びカペナウムに来られると、家におられることが知れ渡った。

 これはイエス様が宣教の拠点としていたカペナウムの家での出来事です。2節、

2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間もないほどになった。イエスは、この人たちにみことばを話しておられた。

 家の中には人々がぎっしりといて隙間もないほどでした。3節と4節、

3 すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
4 彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。

 この記事を読むと、私たちは穴が開いた家の屋根のことが、どうしても気になってしまいますね。しかし、イエス様は穴が開いた屋根のことなど、ぜんぜん気にしていませんでした。5節、

5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

 私たちは常識的な人間ですから、屋根をはがして穴を開けた乱暴さが、どうしても気になってしまいます。しかし、常識に縛られている限りイエス様に霊的に近づくことはできません。次の金曜日の元旦礼拝では、マルコの福音書の長血の女の記事を開く予定です。長血の女は血を漏出する病を患っていましたから、律法的には汚れていて、群衆の中に紛れ込むなど常識的にはとんでもないことでした。しかし、長血の女はイエス様に病気を治していただきたい一心で人々をかき分けて近づいて行って、イエス様の衣に触りました。長血の女は常識を破って大胆にイエス様に近づき、イエス様はその信仰をほめました。

 21世紀の今はイエス様は地上にはおらず天にいます。ですから人としてのイエス様に近づくことはできません。しかし、天のイエス様に霊的に近づくことならできます。イエス様を遠巻きに眺めている間は救いを得られないという霊的なメッセージを、私たちはしっかりと受け取りたいと思います。

 長血の女の記事は元旦に開きますから、きょうはマルコ2章をもう少し見ておきたいと思います。2章16節をお読みします。

マルコ2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと一緒に食事をしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」
 
 パリサイ派の律法学者たちは当時の常識に囚われていて、罪人や取税人と一緒に食事をすることは決してありませんでした。或いはまた、パリサイ人たちはイエス様の弟子たちが断食をしないことも咎めました。18節です。

18 「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか。」

 常識に縛られていると、聖霊を受けることはできません。石板に律法が刻まれた古い時代から、心の中に律法が刻まれる聖霊の新しい時代には、新しい常識を受け入れなければなりません。イエス様はおっしゃいました。21節と22節、

21 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。
22 まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」

 新しい時代には古い常識を捨てなければ聖霊を受けることはできません。安息日を守るべきという律法の常識も、聖霊の時代には頑なに守る必要はありません。もっと柔軟に対応すべきです。27節と28節、

「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。ですから、人の子は安息日にも主です。」

 律法主義者にとって安息日を守ることは絶対です。しかし、聖霊の時代にはもっと柔軟になりました。実際、クリスチャンは安息日をそれまでの土曜日から、イエス様が復活した日曜日に移しました。イエス様が十字架に付けられた時、安息日は土曜日でしたから、イエス様の復活を祝って安息日を日曜日に移したクリスチャンは、それほどまでに律法の常識から自由になっていました。

 私はこの律法を柔軟に解釈しているイエス様の記事の中に、マルコのパウロへの思いも見えると感じています。マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが、途中で脱落しました。使徒の働き13章13節には、次のように記されています(週報p.2)。

使徒13:13 パウロの一行は、パポスから船出してパンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネ(マルコ)は一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。

 マルコがどうして脱落してエルサレムに帰ってしまったのか、使徒の働きには理由が書かれていませんから、いろいろなことが言われています。若いマルコはホームシックになったとか、裕福な家庭で育ったマルコはひ弱だったから過酷な旅に耐えられなかったとか、パウロの考え方があまりに過激だったから耐えられなくなったのだとか言われています。

 私は最後の、パウロの考え方が過激だったという説に賛同します。異邦人に伝道していたパウロは、異邦人は割礼を受ける必要ないと説いていました。イエス・キリストを信じる信仰のみが重要であり、割礼を受けるという形式は異邦人には必要ないと説きました。これはユダヤ人にとってはあまりに過激な考え方でした。ユダヤ人にとって割礼を受けていない者は汚れた者でした。ですから、異邦人でもイエス・キリストを信じたなら聖い者になるために割礼を受ける必要があると考えたのでしょう。しかし、パウロは「聖霊が心を聖める」のであって、割礼という形式は心の聖めには何の役にも立たないと考えました。

 現代の私たち日本人には、このパウロの考え方はよく分かりますね。しかし、当時のユダヤ人たちにとってはあまりに過激な考え方でした。マルコは、このパウロの過激な考え方に耐えられなかったのだろうという説に私も賛同します。

 ただ、マルコは伝道旅行の途中で離脱してしまったことを、ずっと負い目に思っていただろうと思います。そして、パウロの考え方も後に、ユダヤ人クリスチャンたちの間では共通の考え方になりました(使徒15章)。福音書を書いた時のマルコは、この時のことを思いながら、律法の常識に囚われていないイエス様を描いたのではないかなという気がします。

④『鬼滅の刃』に見える若い人への伝道のヒント
 古い常識は人を縛り、イエス様に大胆に近づくことを阻み、私たちをイエス様から遠ざけます。古い常識をまとっている限り、イエス様に近づくことはできません。ここにはサタンの働きが透けて見えます。サタンは人を古い常識に縛り付けて、人がイエス様に近づくことを妨げます。イエス様は屋根に穴を開けた者や長血の女のように、常識を打破してご自身に近づく者たちを喜びます。サタンは人々に常識を植え付けて、それを妨げます。

 イエス様は、このサタンと戦い、パウロもサタンと戦っていました。パウロの手紙には、「悪魔」や「サタン」に言及している箇所がいくつもあります。ジョン・ウェスレーの説教にもサタンに言及している箇所がたくさんあります。

 私は神学生の時に、ウェスレーに関する授業のレポートで、ウェスレーが説教でどれぐらい「悪魔」或いは「サタン」という言葉を使っているかを調べて「ウェスレーの悪魔論」を考察して提出しました。ウェスレーに関することなら何でも良いという自由課題でしたから、私は「ウェスレーの悪魔論」のレポートを提出しました。パウロもウェスレーもサタンと戦っていました。それは御霊を受けたパウロとウェスレーの中におられるイエス様がサタンと戦っているのだ、と言えるでしょう。

 半月ほど前に私は、いま話題の映画『鬼滅の刃』を観て来ました。興行収入が遂に歴代1位になったそうですね。なぜ、この映画が若い人にそんなに人気があるのか、若い人への伝道のヒントが何か得られるかもしれないと思って観て来ました。

 『鬼滅の刃』は鬼と戦う若者たちの物語です。この映画を観て私は、自分が小学生・中学生・高校生だった頃にワクワクしながら見た、マグマ大使やウルトラマン、仮面ライダーやガッチャマン、宇宙戦艦ヤマトと同じだと思いました。これらのヒーローたちは皆、悪者たちと戦いました。子供たちは今も昔も皆、悪者たちと戦うヒーローが好きなのだと思います。

 この観点から若い人たちへのキリスト教伝道を考える時、もっとイエス様とサタンとの戦いをクローズアップしても良いのではないかという気がしています。私たちの多くが、自分の内にある罪に気付いていないのも、サタンが巧妙に気付かないように仕向けているからです。人の霊的な目と耳をふさいで、神様に背いている罪に気付かないようにします。そうしてサタンは人々を暗闇の中に閉じ込めて、光が見えないようにします。

 マタイ・マルコ・ルカの福音書の最初の方には、イエス様がサタンの誘惑を受ける記事があります。サタンにとってイエス様は邪魔な存在だからです。そして誘惑を受けているのはイエス様だけではなく、聖霊を受けてイエス様が内にいる私たちも絶えずサタンの誘惑を受けています。サタンにとっては私たちクリスチャンもまた邪魔な存在だからです。ですから私たちもまたイエス様と共にサタンと戦っています。

 エペソ人への手紙6章でパウロは次のように書いています(週報p.2)。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 このサタンとの戦いに、若い人たちも加わって欲しいと思います。『鬼滅の刃』を観に若い人が続々と映画館に足を運んでいる様子を見るなら、伝道の仕方次第で、それも可能であろうと思います。その昔、マグマ大使やウルトラマンに熱狂した子供の多くは男の子だったかもしれませんが、『鬼滅の刃』は女の子も多く観ています。

おわりに
 パウロは、「この世と調子を合わせてはいけません」(ローマ12:2)とも書いていますが、この世には調子を合わせて構わないものもあります。調子を合わせて良いものと悪いもの、御霊に導かれてしっかりと区別したいと思います。サタンはこの区別する目も曇らせます。遠ざけるべきものを近づけさせ、近づけるべきものを遠ざけます。そうしてサタンは人々をイエス様から遠ざけます。

 私たちはサタンに惑わされることなく、屋根に穴を開けた者たちや長血の女のように、大胆にイエス様に近づいて行きたいと思います。

 このことを、元旦礼拝と新年礼拝では、改めて確認したいと願っています。
 この一年が守られたことの感謝へと、来年の私たちの信仰の歩みのことを思い巡らしながら、しばらくご一緒に、お祈りしましょう。

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神の国の王イエスの誕生(2020.12.20 クリスマス礼拝)

2020-12-21 10:54:26 | 礼拝メッセージ
2020年12月20日クリスマス礼拝メッセージ
『神の国の王イエスの誕生』
【サムエル記第一17:31~40(交読)、ルカ2:1~20(朗読)】

 クリスマスおめでとうございます。

 11月29日(日)からアドベント(待降節)の期間が始まり、きょうはいよいよクリスマス礼拝です。主イエス・キリストのご降誕を心一杯お祝いしたいと思います。

 きょう開く箇所は、御使いがベツレヘムの羊飼いたちに「救い主の誕生」を告げ知らせた場面です。この箇所から、きょうは次の五つのパートで話を進めて行きます。

 ①なぜ羊飼いが最初の知らせを受けたのか?
 ②ベツレヘム出身のダビデ王も元は羊飼い
 ③ゴリヤテに勝利して王座に就いたダビデ
 ④サタンに勝利して天の御座に就いたイエス
 ⑤御霊を私たちに遣わして戦い続けるイエス

①なぜ羊飼いが最初の知らせを受けたのか?
 きょうの聖書箇所のルカ2章1節から見て行きます。

 2章の1節と2節を見ると、イエス様の生まれたのはローマの皇帝がアウグストゥスでシリアの総督がキリニウスの時代であったことが分かります。さらにルカは3章1節と2節で、バプテスマのヨハネが活動していたのはローマの皇帝がティベリウス、ユダヤの総督がピラト、大祭司がアンナスとカヤパの時代であったことを記し、23節にその頃イエスがおよそ30歳であったことを記しています。

 ローマの皇帝や総督の在位期間は他の歴史資料で分かっていますから、ルカがこのような記録を残してくれたおかげで、イエス様が生まれた年がかなり正確に、紀元前4年ぐらいと分かっています。1~2年の曖昧さはあるようですが、もしルカのこの記録が無ければ曖昧さの幅は数十年にもなったかもしれませんから、このことだけを取ってもルカの福音書は歴史的な価値が非常に高い文書です。イエスという人物が実在したことはヨセフスという1世紀の歴史家も書き記していますから、イエス様は空想上の人物ではなくて、実際にこの地上におられたことを、先ずはしっかりと覚えておきたいと思います。

 さて、ローマ皇帝アウグストゥスの時代に住民登録をせよという勅令が出ましたから、ヨセフは祖先のダビデの出身地のベツレヘムへ上って行きました。ヨセフがダビデの家系であることは、マタイ1章の系図にも書かれていますね(週報p.2)。

マタイ1:6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、…16 ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。

 そうしてヨセフとマリアが上って行ったベツレヘムでマリアが男の子を産んだことがルカ2章の7節までに書かれています。そして、このことが羊飼いたちに告げられました。8節から12節、

ルカ2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 クリスマスには必ず開かれる、おなじみの箇所です。御使いは羊飼いに救い主の誕生を告げました。では、なぜ御使いは、この良い知らせを告げる相手に羊飼いたちを選んだのでしょうか?きょうは先ず、このことを考えたいと思います。

 いくつかのことが言われていますから、皆さんも聞いたことがあるかもしれません。良く言われるのは、羊飼いたちは社会的な地位が低かったということです。羊飼いたちは安息日にも羊の世話で働いていました。祭りの期間もエルサレムの神殿まで行って礼拝することは難しいことでした。律法を守ることができない羊飼いは軽蔑されていたと言われています。イエス様が後に宣教を開始した時に救いの手を差し延べたのは弱い立場の人々に対してでしたから、イエス・キリスト誕生の良い知らせも社会の底辺にいた弱い立場の羊飼いたちに向けられたのだ、というメッセージを私も聞いたことがあります。

 或いはまた、ベツレヘムはエルサレムから10kmぐらいしか離れていませんから、ベツレヘムの羊飼いたちはエルサレムの神殿に献げるいけにえの羊を飼っていたのだという説もあります。イエス様もいけにえの小羊として十字架に掛かって死にましたから、「羊つながり」で羊飼いたちに小羊イエスの誕生が告げ知らされたのだという人もいます。

②ベツレヘム出身のダビデ王も元は羊飼い
 これらのことに加えて、きょうはダビデ王が元は羊飼いであったことに注目したいと思います。羊飼いであったダビデはイスラエルの初代の王様のサウルに仕えるようになりました。そうしてサウル王が死んだ後に、イスラエルの二代目の王になりました。マリアの夫のヨセフはその元羊飼いだったダビデ王の子孫でした。この「羊飼いつながり」で、羊飼いたちに救い主誕生の良い知らせが告げられたことを、今回示されています。

 きょうの招きの詞では、ダビデがまだベツレヘムの羊飼いだった時に預言者のサムエルから油が注がれた場面を引用しました。この時、主の霊、すなわち聖霊がダビデに激しく下りました。第一サムエル16章13節、

Ⅰサムエル16:13 サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。

 この時、サムエルはベツレヘムにあるダビデの父エッサイの家にいました。それは主から、第一サムエル16章1節のことばがあったからです(週報p.2)。

Ⅰサムエル16:1 はサムエルに言われた。「…角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 そうしてサムエルはエッサイの末の息子のダビデに油を注ぎました。聖霊に満たされたダビデは、サウル王に仕えるようになり、巨人のゴリヤテと対戦して勝利します。

③ゴリヤテに勝利して王座に就いたダビデ
 きょうの聖書交読では、ダビデが巨人のゴリヤテと対戦した場面を開きました。もう一度、第一サムエル17章31節からの箇所を開いて下さい(旧約p.510)。32節から見ます。

Ⅰサムエル17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

 「あの男」とはゴリヤテのことです。そしてダビデは羊飼いとしての自分が羊を守るために獅子や熊と戦った時のことを語りました。34節から36節、

34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼ってきました。獅子や熊が来て、群れの羊を取って行くと、
35 しもべはその後を追って出て、それを打ち殺し、その口から羊を救い出します。それがしもべに襲いかかるようなときは、そのひげをつかみ、それを打って殺してしまいます。
36 しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」

 こうしてダビデは巨人のゴリヤテと対戦して勝利しました。これがきっかけとなってダビデは戦士として活躍するようになり、民衆の信頼と人気を得て行きます。このことでサウル王の妬みと恨みを買うようになって殺されそうになりますが、ダビデは守られました。主がダビデと共におられたからです。そしてダビデはサウル王が死んだ後にイスラエルの二代目の王になりました。

 この王になるまでのダビデの前半生(前半の生涯)を見ると、イエス様と良く似ています。ダビデはサムエルに油を注がれて聖霊が降り、イエス様はバプテスマのヨハネにバプテスマを授けられて聖霊が降りました。そうしてダビデはゴリヤテやペリシテ人たちと戦い、イエス様は「下がれ、サタン」と言ってサタンと戦い、人々から悪霊を追い出しました。この戦いを経てダビデはサウル王の妬みと恨みによって殺されかけますが王座に就き、イエス様は祭司長たちの妬み・恨みとサタンが入ったユダの裏切りによって十字架に付けられて殺されますが復活して天に昇り、神の王国の御座に就きました。

④サタンに勝利して天の御座に就いたイエス
 ダビデは地上の王国であるイスラエルの国の王座に就きました。一方、イエス様は天の神の王国の御座に就きました。とても良く似ていると思います。と同時に、大きな違いがあることも覚えます。

 この大きな違いに、イエス様の時代の人々はまだ気付いていませんでした。この、地上の王と天の神の国の王との大きな違いは、バプテスマのヨハネでさえも惑わされて躓いてしまうほどでした。ルカの福音書7章には次のような記述があります(週報p.2)。ルカ7書20節と21節をお読みします。

ルカ7:20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」
21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。

 救い主の到来を待ちわびていたユダヤの人々は、ダビデ王のような強い王が来ることを望んでいました。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていましたから、ローマの皇帝を打ち破るダビデのような強い王の到来を望んでいました。そうしてローマの支配から解放されることを切望していました。

 それなのに、イエス様が相手にしていたのは、強いローマではなくて弱い人々でした。この違いはバプテスマのヨハネでさえも惑わされてしまうほどでした。

 しかし、実はイエス様が相(あい)対していたのはローマよりももっと手ごわくて強い悪魔、すなわちサタンでした。イエス様が宣教を開始した時にサタンの誘惑を受けたことからも分かるように、或いはアダムの妻のエバがサタンに誘惑されたことからも分かるように、サタンは巧妙な策略で誘惑して人々を神様から引き離そうとします。神様から離れている人が多い社会ほど弱い人々が苦しみます。

 イエス様はその、ローマよりも遥かに手ごわいサタンと戦っていました。そうしてサタンが入ったユダの裏切りによってイエス様は捕らえられ、十字架に付けられて死にました。この時点ではサタンが勝利したかに見えましたが、イエス様は死に打ち勝ってよみがえり、天に昇って神の王国の御座に就きました。つまりサタンに勝利しました。

⑤御霊を私たちに遣わして戦い続けるイエス
 いま私は、イエス様はサタンに勝利したと言いました。しかし、最終的な勝利は収めていません。イエス様ご自身はサタンに勝利して神の王国の御座に就きましたが、地上は依然として闇の支配者のサタンに支配され続けています。

 イエス様は、この地上でのサタンとの戦いを使徒たち、そして私たちに委ねました。ルカの福音書と使徒の働きを書いた記者のルカは、地上で悪戦苦闘するパウロの中に、イエス様の姿を見ていたに違いありません。パウロたち(と聖書には記されていない多くの弟子たち)の働きでイエス・キリストの福音は広くアジア・ヨーロッパ・アフリカの地中海沿岸一帯に広がって行きましたが、そのことでパウロたちは激しい迫害もまた受けました。パウロの伝道旅行に同行していた医者のルカは、パウロの戦いをパウロの中にいるイエス様の戦いであると見ていた様子が、ルカの福音書と使徒の働きを並べて読むと、良く見えて来ます(ルカの福音書と使徒の働きの間には強い並行関係があります)。

 イエス様は使徒たち、そして私たちに御霊を遣わして、地上での戦いを私たちに委ねています。もう何度も、ほとんど毎週のように引用していますが、きょうもパウロが書いたガラテヤ5章の「御霊の実」の箇所を引用します(週報p.2)。

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

 これが私たちの戦いの武器です。私たちの武器は剣や銃や爆弾ではなくて、「御霊の実」です。ローマと戦うには剣が必要ですが、サタンと戦うには剣は必要なくて「御霊の実」が必要です。剣はサタンの働きを助けるだけですから、私たちは「御霊の実」を結んで剣を不要な物にしなければなりません。

 剣や銃や爆弾を多く必要とする時代には、大勢の弱い人々が苦しみます。今も多くの人々がコロナ禍で苦しんでいますが、そんな中でも防衛省は来年度の予算に過去最大の防衛費を要求しています。この要求した予算のどれだけが認められるのか分かりませんが、防衛費が膨らみ続けるようではコロナ禍による困窮者のような弱い立場の人々に、十分なお金はなかなか回りません。

 NHKの朝ドラでは、時代設定が戦前から戦後に掛けてのものが多いですね。戦争中に多くの弱い人々が苦しんだことを私も朝ドラを通して多く学んでいます。先日放送が終わった『エール』でも主人公を含めて多くの人々が戦争で受けたダメージに苦しんだ様子が描かれていました。

 こういう戦争中のひどい時代の場面を見ると、今の時代は平和であることを思います。もちろん、現代においてもひどいことはたくさんあります。世界を見れば銃を取って戦っている地域もあります。しかし、全体として見れば、世界大戦が2度もあった20世紀に比べれば21世紀の今は平和なのだと思います。そうして百年間隔、数百年間隔で見るなら、ひどい時代もあったけれど、全体としては少しずつ良い方向に向かっているように見えます。これから先も、もしかしたら今よりもっとひどい時代があるかもしれませんが、長い尺度で見るなら、良い方向に向かって行くだろうと私は信じています。

 それは、イエス様が私たちに御霊を遣わして、戦って下さっているからです。2千年前のペンテコステ(五旬節)の日以降、イエス・キリストを信じる者は誰でも御霊を受けて、「御霊の実」を結ぶように励まされるようになりました。そうして少しずつですが、全体的には良い方向に向かい、20世紀にはひどい時もありましたが、21世紀の今の日本の私たちは平和を享受しています。沖縄のように今も苦しんでいる地域もありますし、世界を見れば、ひどい場所はまだたくさんありますが、全体的には良い方向に向かっていると言えるでしょう。それはイエス・キリストの福音が世界に広がり、「御霊の実」を結んだ人々が世界中にいるからです。パウロたちでさえ苦労しましたから、そんなにすぐには良くなりませんが、悪くなったり良くなったりを繰り返しながら、世界は少しずつ良くなっています。

おわりに
 ルカの福音書2章に戻ります。13節と14節を読みます。

13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

 14節に、「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」とあります。イエス様は地上に平和をもたらすために、来て下さいました。ローマと戦うためでなく、サタンと戦って平和をもたらすために来て下さいました。

 その平和のために、神の王国の御座に就いているイエス様は、地上の私たちに御霊を遣わして、今も王の王として働いておられます。

 イエス様はヨセフとマリアの子として生まれて、成長してからは弱い人々を助けました。このことにバプテスマのヨハネは戸惑いましたが、イエス様はローマよりももっと強い、暗闇の支配者のサタンと戦っていることを覚えたいと思います。

 イエス様が地上に生まれて下さり、弱い私たちを暗闇から救い出して光を照らして下さったことに、心から感謝したいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。

ルカ2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。


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幼子イエスと共に神に育てられる信仰(2020.12.13 アドベント第三礼拝)

2020-12-14 18:16:10 | 礼拝メッセージ
2020年12月13日アドベント第三礼拝メッセージ
『幼子イエスと共に神に育てられる信仰』
【ルカ2:22~32】

はじめに
 アドベントに入ってからの礼拝メッセージでは先々週はヨセフ、先週はザカリヤの箇所を開きました。きょうはシメオンの箇所です。きょうは次の四つのパートでメッセージを進めて行きます。

 ①神殿で幼子のイエス様を抱いたシメオン
 ②御霊によるイエス内住の先駆けの出来事
 ③2~3歳の幼児の信仰だったコリント人
 ④成長するとは神様と一体化して行くこと

①神殿で幼子のイエス様を抱いたシメオン
 まず、このシメオンの箇所で何があったかを見ておきたいと思います。
 ルカの福音書2章の20節までは、マリアがベツレヘムの家畜小屋で子供を産んだ時のことが書かれています。この幼子は8日目に割礼を受けて、イエスと名付けられたと21節にあります。そして、きょうの聖書箇所の22節に入ります。22節、

ルカ2:22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。

 ここにある「きよめの期間」については、下の脚注にある引照のレビ記12章に書かれています。レビ記12章には次のように書かれています(週報p.2)。

レビ記12:2 女が身重になり、男の子を産んだとき、その女は七日の間…汚れる。
4 彼女は血のきよめのために、さらに三十三日間こもる。そのきよめの期間が満ちるまで、いかなる聖なるものにも触れてはならない。また聖所に入ってはならない。

 そうして「きよめの期間」が明けた時、イエス様は初子でしたから、主に献げるために両親はエルサレムの神殿に入って行きました。そこにシメオンがいました。少し飛ばして25節から27節、

ルカ2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。

 シメオンはかなり年を取っていたようです。しかし、救い主のキリストを見るまでは死なないと聖霊によって告げられていました。そうしてシメオンは幼子のイエス様を腕に抱きました。28節から30節、

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 シメオンは神様の御救いを見ましたから、これで安らかに死ねると言いました。31節と32節、

31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」

 その救いとは万民、イスラエル人だけでなく異邦人を含めたすべての民に備えられたものでした。ですからイスラエルから遠く離れた地の果てにいる日本の私たちも、この救いに与ることができるのですね。クリスマス礼拝を1週間後に控えた今日、救い主のイエス様が来て下さり、日本人の私たちも救いの恵みに与ることができることを、心一杯感謝したいと思います。

②御霊によるイエス内住の先駆けの出来事
 さて今日は、シメオンが幼子のイエス様を腕に抱いたことから始めて、私たちの内にイエス様が住んで下さっていることへと思いを巡らして行きたいと思います。

 イエス様が私たちの内に入って住んで下さるという観点からルカの福音書と使徒の働きを読むなら、イエス様が私たちの内に入るプロセス・過程をルカの福音書は分かりやすく伝えている書である、ということが見えて来ます。

 ルカの福音書と使徒の働きは、どちらもルカが書きました。新約聖書の並びでは間(あいだ)にヨハネの福音書が挟まっていますから分断されていますが、ルカの福音書と使徒の働きは一つにつながっている文書として読むべきです。ルカは最初から使徒の働きを書くつもりで福音書を書き始めたはずです。使徒の働きのことを全く考えずに福音書を書いたということはないでしょう。

 なぜなら、ルカはパウロの伝道旅行に同行して、パウロと寝食を共にした間柄だからです。ルカは誰のことよりもパウロのことを書きたかったはずです。そのパウロのことを書くにはイエス・キリストから始める必要があったのだと思います。パウロに同行していたルカは、パウロの中には確かにイエス・キリストがいることを日々強く感じながら共に過ごしていたことでしょう。そのパウロのことを書くためには、ルカ自身がパウロを視野に入れながら、マタイやマルコとは異なる視点からイエス様のことを書く必要があったのだと思います。

 そうしてルカが福音書の最初に書いたのは、神殿で働く祭司のザカリヤに御使いのガブリエルが現れたことでした。旧約の時代、神様の近くに行くにはエルサレムの神殿に行く必要がありました。しかし、エルサレムに住んでいるならともかく、地方に住んでいる者たちにとっては、なかなか大変なことでした。マリアもガリラヤのナザレの町に住んでいました。そのナザレの町のマリアに御使いのガブリエルが現れました。神様の側から地方に住むマリアに近づきました。これは、来たるべき新しい時代には神殿ではなく、どこでも神様に会うことができること、しかも、神様の側から近づいて来て下さることを、よく表していると思います。

 或いはまた、汚れているとされた異邦人は神殿に入ることが許されていませんでした。しかし、来たる時代には異邦人にも救いが及ぶと、シメオンはルカ2章32節でほめたたえました。異邦人は神殿に入れませんが、神様の聖霊が異邦人の内に入って下さるからです。そのことをシメオンが神殿の中で幼子のイエス様を腕の中に抱きながらほめたたえました。イエス様が生まれたことで、時代が新しい方向へ動き始めたことを、ルカは目に見える分かりやすい形で示していると思います。そうして、この約30年後に、ペンテコステの日の出来事があり、イエス様の霊である聖霊が先ずユダヤ人たちの内に入り、パウロたちの働きによって異邦人にも福音が広がり、異邦人にも聖霊が注がれるようになりました。

 シメオンが幼子のイエス様を腕の中に抱いたことは、来たる時代には人々の心の内にイエス様が入って下さることの先駆けの出来事であったと言えるだろうと思います。

③2~3歳の幼児の信仰だったコリント人
 さてしかし、たとえ聖霊を受けても、信仰が幼い間は聖霊に導かれながら信仰の道を歩むことは、そんなに簡単なことではありません。きょうの聖書交読で開いた第一コリントのコリント人たちから、そのことが伺えます。第一コリント3章の1節から3節までをお読みします(新約p.329)。

Ⅰコリント3:1 兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。
2 私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3 あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。


 パウロは第二次伝道旅行でヨーロッパへの宣教を開始しました。コリントもその宣教地の一つでした。最初のうちは、乳を飲ませていたというのは当然ですね。信仰を持ったばかりの人々に御霊の話をしても、分かってはもらえません。しかし、その後もコリントの人々はあまり霊的に成長しなかったようです。2節でパウロは、「実は、今でも無理なのです」と書いています。ただ、パウロがこの手紙をコリントの人々に書いたのは、パウロがコリントを離れてからまだ2年ぐらいしか経っていませんから、当然と言えば当然かもしれません。御霊のことを理解できるようになるには、とても時間が掛かりますから、2年ぐらいでは難しいかもしれません。

 そういう意味でも、シメオンが幼子のイエス様を腕の中に抱いた出来事は、とても象徴的だと思います。イエス様を信じて御霊を受けたばかりの私たちの信仰は、幼子のイエス様のようなものです。しかし、私たちの信仰は幼子の段階でとどまるべきでなく、成長していかなければなりません。幼子のイエス様が少年になり、やがて大人になったように、私たちの信仰も大人へと成長して行かなければなりません。

 ただし私たちが自分で頑張って成長するのではなく、或いは牧師が成長させるのでもなく、成長させて下さるのは神様です。第一コリント3章6節と7節、

Ⅰコリント3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 コリントの教会の信仰の木はパウロが植えてアポロが水を注ぎました。この静岡教会の信仰の木は松村導男先生が植えて、その後、多くの先生方が水を注いで来ました。また、他教団の違う畑で育てられてから、こちらに移って来た方々もいます。皆それぞれ違う先生方から水が注がれて来ました。しかし、成長させて下さるのは神様です。ですから私たちは神様にお委ねして、成長して行きたいと思います。

 コリントの教会の人々はまだまだ成長しておらず、神の御霊が自分の内に住んでいることを自覚できていなかったようですから、パウロは16節に書きました。16節、

16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 御霊は神様ですから、御霊が内に住む私たち自身が神の宮、すなわち神殿です。自分が神殿であるというレベルには私自身もまだまだ全然達していないことを覚えますが、成長させて下さるのは神様ですから、神様にお委ねして幼子の信仰から大人の信仰へと成長して行きたいと思います。

④成長するとは神と一体化して行くこと
 ここで信仰が成長するとは、どういうことについて、改めて考えてみたいと思います。いろいろな語り口があると思います。例えば、少し前に話した御霊の実を結んで育てることもそうです。信仰が成長するなら、御霊の実が大きくなることでしょう。もう何度も引用して話していますが、きょうもガラテヤ5章を引用したいと思います。パウロはガラテヤ人への手紙5章の22節と23節に書きました(週報p.2)。

ガラテヤ5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。

 私たちはこの御霊の実を結んで育てて、成長したいと思います。
 このことに加えて、きょうは「神様と一体化すること」についてもお勧めしたいと思います。

 シメオンは神殿の中にいました。そしてシメオンの腕の中にはイエス様がいました。つまりシメオンの外にも中にも神様がいました。神殿にいたシメオンは神様の内にいて、神様のイエス様もシメオンの内にいました。正に、きょうの招きの詞で引用した、第一ヨハネ4章13節のような状態です。

第一ヨハネ4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。

 イエス・キリストを信じて私たちの内に御霊が入るなら、私たちの外にも中にも神様がいます。そうして私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっていることが分かるようになります。そうして神様に心をお委ねするなら、神様との一体感を感じて心がとても軽くなります。

 ちょうどお風呂に入ると浮力で体が軽くなるのと同じように、御霊が内に入ると心が軽くなります。人間の体の約8割は水分だと言われていますから、お風呂のお湯と一体化することができます。お母さんのお腹の中にいる時の赤ちゃんが水の中に浸っているのと同じとも言えるでしょう。神様は私たちの外側のどこにでもおられますから、私たちの内に御霊が入るなら、私たちは神様と一体化することができます。

 私は温泉に行くのが結構好きで、沼津にいた時には、水曜日の夕方によく温泉に行っていました。沼津では夜の祈祷会がなくて、祈祷会は水曜日の午後1時半からでした。そうすると長引いても午後3時には終わりますから、温泉に行くのにちょうど良い時間なんですね。ですから、水曜日の夕方にはよく温泉に行っていました。

 それが、静岡に来てからはぜんぜん行っていませんでした。今年の夏、二人の兄弟を天に見送った後でしたが、ふと我に返って、そう言えば静岡に来てから一人で温泉に行ったことがなかったなと思いました。牧師の会で温泉に行ったことはありましたが、一人でノンビリと温泉に浸かって様々なことに想いを巡らすことをしていなかったことに気付いて、さっそく行って来ました。

 そうして、お湯の中で脱力してお湯の浮力に身を委ねながら神様のことを想っている時に、思いました。今のように世界中が新型コロナウイルスの災いの渦中にある中で、ジタバタしてもどうしようもないない。神様にすべてをお委ねして、コロナ終息の時が満ちるまで、霊的に成長することに専念して、静かに過ごすべきだと思いました。示されたと言うべきかもしれません。

 先々週はマリアの夫のヨセフに注目しました。ヨセフはイエス様が12歳の時に登場したのを最後にフェイドアウトして、いつの間にか聖書の表舞台から消えました。目に見えない神様と見事に一体化したとも言えるでしょう。この夏、我に返って温泉で力を抜くようになってから、そういうことが見えるようになりました。

 先週は口がきけなくなって約1年間の沈黙を強いられたザカリヤの箇所を開きました。沈黙していた期間のザカリヤは、人との会話ができませんでしたから自然と神様と向き合うようになり、神様との深い交わりの中に入れられて、神様と一体化していたことでしょう。

 今のコロナ禍の中の私たちも、沈黙の期間の中にあります。この期間、私たちは神様の霊的なお風呂の中にどっぷりと浸かって、神様と一体化したいと思います。招きの詞の通り、「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられる」ことが分かるようになりたいと思います。

 マルタとマリアの姉妹の、姉のマルタはイエス様をもてなすための準備で忙しく働いていましたが、妹のマリアはイエス様のみもとで神様の霊的なお風呂の中に浸っていました。脱力して神様に心をお委ねするなら、神様と一体化して心の平安が与えられます。

 私は赤ちゃんを抱く機会がそんなにありません。教会以外では、姪(兄の娘)の子供を抱かせてもらうぐらいです。ですから、赤ちゃんを抱く時にはつい力が入ってしまいます。そういう時は緊張してしまっていて、心の平安がまったく得られません。しかし、抱くことに慣れて力を抜いて抱けるようになるなら、赤ちゃんと一体化して心の平安が得られるであろうことは、容易に想像できます。上手に赤ちゃんを抱いている方々の顔は本当に平安に満ちているからです。

 神殿の中で赤ちゃんのイエス様を抱いたシメオンは、赤ちゃんを抱くのが上手だったんだろうなと思います。平安に包まれたシメオンは、神様をほめたたえました。

ルカ2:29 「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
30 私の目があなたの御救いを見たからです。

 キリストを見たシメオンはすぐにこの世を去ることになるでしょう。しかしシメオンは死をまったく恐れないほど平安に包まれていました。主のキリストを見たら死んでしまうという恐怖はまったくありませんでした。それほどシメオンは平安に包まれていました。神様と一体化するとは、こういうことでしょう。

 私たちもシメオンと同じように神様と一体化して、平安に包まれたいと思います。神様がシメオンを通して、そのことを教えて下さっていることに感謝したいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
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