goo blog サービス終了のお知らせ 

一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

わたしが道であり、真実(本当)であり、命です(2021.6.27 礼拝)

2021-06-28 10:11:20 | 礼拝メッセージ
2021年6月27日礼拝メッセージ
『わたしが道であり、真実(本当)であり、命です』
【ヨハネ14:1~6】

はじめに
 礼拝では、ヨハネの福音書13章から17章までの「最後の晩餐」の記事を学んでいます。しばらくの間は、この学びを続けたいと思います。

 この「最後の晩餐」におけるイエス様の話の学びを始めた時、どれくらいのペースで進めるかは、まだ決めていませんでした。同じことを繰り返しているような箇所は飛ばして前へ進めたほうが良いのか、それともじっくり腰を落ち着けて、先を急がずに学んだほうが良いのか、どちらにするかは決めていませんでした。

 そうして、ここまで学んで来て、急がずにゆっくり学ぶことにしようかと今は思っています。じっくり学ぶことで、まるで自分自身がこの最後の晩餐の席に付いていて、イエス様から直接、話を聴いているような不思議な感覚を味わえるようになると思います。急ぎ足で読むと、この場にイエス様といるのはペテロやヨハネやユダで、自分がここにいるという感覚にはなかなかならないだろうと思います。しかし、この箇所をじっくりと読み、イエス様のおっしゃることの一言一言を噛みしめるなら、自分もまた、この席に座っていて、話をイエス様から直接聴いているような感覚を味わえるようになると思います。この感覚を皆さんと分かち合えるようになりたいと思います。

 さて、きょうは14章の1節から6節までを学びます。特に注目したいのは、6節です。イエス様はおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この6節の中でも、特に「真理」に注目したいと思います。きょうは次の3つのポイントで話を進めます(週報p.2)。

 ①「真理」は「偽り・嘘」の反対語で「真実・本当」
 ②サタンは嘘の情報をエバとアダムに与えた
 ③黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道

①「真理」は「偽り・嘘」の反対語で「真実・本当」
 6節を見る前に、1節から5節を見ておきたいと思います。まず1節、

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

 イエス様が何に対して「心を騒がせてはなりません」とおっしゃっているのか、定かではありませんが、前の13章の33節のことで「心を騒がせてはなりません」ということなのかもしれません13章33節、

13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 この「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言ったことに対して心を騒がせてはなりません、ということなのかもしれません。弟子たちが今は来ることができない場所とは、天の父のみもと、天の御国のことです。その場所のことに、次の14章2節でイエス様は言及します。2節から4節、

2 「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 父の家に弟子たちもいるようにするため、イエス様は場所を用意しに行きます。しかし、「父の家」とはどこのことなのか、弟子たちには分かりませんでした。5節、

5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 道とは、天の父のみもとへの道です。イエス様はその父のみもとへの道そのものです。なぜならイエス様は父と一つのお方だからです。ですから、イエス様を信じて付き従っていれば、父の家へ行くことができます。6節、

6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 ここでイエス様はご自身が道であり、真理であり、いのちであるとおっしゃっています。この中の「道」と「いのち」は比較的わかりやすいと思います。「道」とは「父のみもとへの道」であり、「いのち」とは「永遠のいのち」のことです。一方、分かりにくいのは「真理」ですね。

 ただし、「真理」というと分かりにくいのですが、1番目のポイントの表題に挙げたように、この「真理」とは「偽り・嘘」の反対語の「真実・本当」のことであると分かると、がぜん分かりやすくなると思います。

 先週の礼拝メッセージで、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は、互いに補い合う関係にあると話しました。ヨハネの福音書で分からないことがある場合には、ヨハネの手紙第一を見ることで分かるようになる場合があると話しました。今週も、ヨハネの手紙第一を助けにして、「真理」を分かるようになりたいと思います。

 週報p.2に載せた第一ヨハネ1:6を見て下さい。

Ⅰヨハネ1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

 ここに太字で示したように、「真理」は「偽り」の反対のことばとして使われています。ですから、「真理」よりも「真実」と言ったほうが分りやすいと思います。或いはもっと分かりやすくするなら、「嘘か本当か」の「本当」と言えば分かりやすいことと思います。「真理」というと、とても格調が高くて高尚な響きがあって、それが却って意味を分かりにくくしているように思いますが、「嘘か本当か」の「本当」と訳せば、ヨハネ14章6節のイエス様のことばは、もっとずっと分かりやすくなるでしょう。「真実」を使うなら、

「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです。」

となり、「本当」を使うなら、

「わたしが道であり、本当であり、いのちなのです。」

となります。

 この「真理」のギリシャ語は「アレーセイア」です。このギリシャ語を英語では「truth」と訳しています。「truth」という英語を聞くと、「真実・本当」という日本語が思い浮かびますから、

「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです。」

とするのが、分かりやすい訳であろうと思います。

②サタンは嘘の情報をエバとアダムに与えた
 この「最後の晩餐」の学びのシリーズでは、この「最後の晩餐」の背後には「神vs悪魔」の対決の構図が見えるという話も何度かして来ています。その「神vs悪魔」の対決という観点からイエス様の「わたしが道であり、真実であり、いのちなのです」を味わうと、一層わかりやすくなるだろうと思います。父のみもとへ行くには、悪魔のつく嘘に惑わされることなく、イエス様の真実のことばに聞き従う必要があります。

 人はもともと、創世記2:9(週報p.2)にあるように、「いのちの木」が中央にあるエデンの園に住んでいました。創世記2:9

創世記2:9 神である主は、…(エデンの)園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。

 この、いのちの木が中央にあるエデンの園にいた時の人は、永遠のいのちに近い所にいました。しかし、サタンがエバに嘘をついて「善悪の知識の木」の実を食べさせたので、人はエデンの園から追放されて「永遠のいのち」を失いました。サタンは蛇として現れてエバにこのような嘘をつきました。

創世記3:4「(中央にある木の実を食べても)あなたがたは決して死にません。」

 食べてはならない木の実を食べたエバとアダムは、食べてすぐに死んだわけではありませんが、エデンの園を追放されて永遠のいのちを失いましたから、この蛇の言ったことは嘘でした。結局、アダムとエバは死にました。

 こうして、人はサタンの嘘のことばに惑わされて神から引き離されて、闇の中をさまよい歩くようになってしまいました。そんな私たちにイエス・キリストは真実のことば、本当のことばを与えて下さり、天の父のみもとへ伴って下さり、永遠のいのちを与えて下さいます。

 このように、ヨハネ14章6節は、このことばの背後にはサタンの嘘による惑わしがあることを念頭に置いて読むと分かりやすいだろうと思います。サタンの嘘に惑わされるなら、私たちは永遠のいのちを得ることができません。

③黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道
 きょうのメッセージでは、創世記2章のエデンの園の「いのちの木」に言及しました。そうして創世記2章のエデンの園の「いのちの木」に思いを巡らしている時に、黙示録22章の水辺にある「いのちの木」のことも思い起こしました。そうして、天の父のみもとへの道は、黙示録22章の水辺の「いのちの木」への道であることを、示されています。

 この黙示録の「いのちの木」は、天から降って来る聖なる都、新しいエルサレムにあります。週報p.2に記したように黙示録20章10節で私たちを惑わしていた悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれた後、黙示録21章で新しい天と新しい地が到来します。その箇所、黙示録21章の1節から4節までをお読みします。

黙示録21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」

 この新しいエルサレムに、もはや死はありません。この都に入れられる者には永遠のいのちが与えられているからです。悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。ヨハネ14章でイエス様が示して下さっている道は、究極的には、この新しいエルサレムへの道です。

 そして、この都には「いのちの木」があります。今度は黙示録22章の1節から5節までをお読みします。1節から5節までのうちの1節と2節は、週報p.2に載せました。黙示録22章の1節から5節、

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。
3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、
4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。
5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

 もはや暗闇の夜はありません。私たちを惑わす悪魔もいません。そうして私たちはいのちの水の川のほとりにいのちの木の実がなる都で、御父と御子とともに永遠の平安の中で過ごすことができます。この黙示録21章と22章の光景を思い浮かべながらヨハネ14章を読むと、イメージが膨らむことを感じます。ヨハネ14章の父のみもととは、この黙示録21章と22章のような場所です。ヨハネ14章の1節から4節までをお読みします。

ヨハネ14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 この世にいる間、私たちは悪魔から様々な偽りのことば、嘘を聞かされます。そうして悪魔は私たちを神様から引き離そうとします。しかし、イエス様につながっているなら、私たちは真実のことば、本当のことばに導かれて神様から離れることはありません。そうして私たちは、黙示録21章と22章に描かれているような新しい都へと導かれて行きます。

おわりに
 ヨハネ14章6節でイエス様はおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 この「真理」とは、「真実・本当」です。悪魔の嘘に惑わされることなく、イエス様の真実のことば、本当のことばに耳を傾けて、イエス様に付き従うことで、新しいエルサレムへと導かれたいと思います。

 そこには、いのちの水の川が流れていて、川のほとりにはいのちの木があります。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていて、こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいます。

 そこには、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもありません。もはや夜もありません。神である主が私たちを照らすので、ともしびの光も太陽の光もいりません。

 イエス様の真実のことば、本当のことばに聞き従いながら、この新しいエルサレムへと導いていただきたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りをしましょう。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
コメント

罪のウイルスから人を守る聖書のワクチン(2021.6.20 礼拝)

2021-06-21 11:57:15 | 礼拝メッセージ
2021年6月20日礼拝メッセージ
『罪のウイルスから人を守る聖書のワクチン』
【ヨハネの福音書13:31~38】

はじめに
 礼拝では、ヨハネの福音書の13章から17章までの「最後の晩餐」の場面を学んでいます。イエス様は最後の晩餐の後で十字架へと向かって行きました。

 この「最後の晩餐」の早い段階の13章2節には、次のように書いてあります。

ヨハネ13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 イスカリオテのユダはこの後でイエス様を裏切ります。このユダの裏切りの罪はユダ本人の罪と言うよりは悪魔の働きによるものであると、ヨハネは書いているようです。ここからは「神vs悪魔」の対決の構図が見えることを先週、話しました。そして、先週開いた箇所の13章30節には、

ヨハネ13:30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。

とあります。ここから、いよいよ「神vs悪魔」の対決が始まります。開始の合図がここで鳴りました。サッカーなら主審の笛、高校野球ならサイレン、ボクシングならゴングの音が鳴りました。時は夜でした。闇の支配者の悪魔が優勢に戦いを進めて、イエス様は十字架に付けられました。しかし、それはイエス様の側が何も抵抗せず、悪魔がしたいようにさせたからです。そうして十字架の死によって悪魔が勝利したかに見えましたが、イエス様が復活しましたから、神の側が逆転勝利しました。

 この「神vs悪魔」の対決の構図を念頭に置いて、きょうの聖書箇所の最後の38節を読むと、ペテロの心にも悪魔が入ったであろうことが見えて来ます。イエス様は38節でおっしゃいました。

38 「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 イエス様を知らないとペテロが三度言った時、ペテロの心の中には悪魔が入っていたのでしょう。ヨハネ13章には、このように「神vs悪魔」の対決の構図が見えます。今週も引き続き、「神vs悪魔」の対決の構図を念頭に置きながら、週報p.2に記した次の三つのパートで話を進めます。

 ①神と人、人と人のつながりの分断を謀る悪魔
 ②悪魔のわざを打ち破るために現れた神の御子
 ③罪のウイルスから人を守る聖書のワクチン

①神と人、人と人のつながりの分断を謀る悪魔
 13章の27節には、ユダの心の内にサタン、すなわち悪魔が入ったことが記されています。27節の前半です。

27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。

 このことを念頭に置いてきょうの聖書箇所を読むと、先ほども言ったように、38節に書かれているペテロがイエス様を三度知らないと言った時のペテロの心の内にもサタンが入っていたと分かります。

 第一のパートの表題に書いたように、悪魔はまず神と人との関係を分断します。悪魔は神であるイエス様とユダとの師弟関係を分断しました。同じく悪魔はイエス様とペテロとの師弟関係も分断しました。ユダとペテロだけではありません。イエス様が祭司長たちに捕らえられた時、弟子たちは皆、散り散りになって逃げましたから、悪魔はイエス様と弟子たちとの関係を完全に、分断しました。

 そうして神との関係が分断された人間は、隣人を愛することが難しくなります。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とは車の両輪のようなもので、どちらかが欠ければもう片方もダメになります。その最初の人が、創世記4章で弟のアベルを殺したカインと言えるでしょう。カインは神を愛することも隣人である弟のアベルも愛することができませんでした。
 21世紀の現代においても様々な分断が存在します。今の日本で言えば、例えばオリンピックの開催を支持する人と、オリンピックに反対する人との間での分断が深まりつつあります。本来なら、コロナウイルスの感染者を減らすために、そして終息させるために皆が一つになって協力すべき時に、オリンピックの開催を巡って、人と人とが対立しています。悪魔はこのように巧妙に人と人とのつながりを分断して対立するように仕向けますから、人は一つになることができません。悪魔はこの対立の数をどんどん増やします。今はオリンピックを開催することを前提に観客を入れるか入れないかの対立をあおっています。こうして、オリンピック反対、無観客のオリンピックに賛成、観客有りのオリンピックに賛成の人々を対立させて、人のつながりをバラバラにします。

 このように「隣人を愛すること」ができなくなるのは、「神を愛すること」が十分にできていないからではないでしょうか。すべてのものをお造りになった神様は、私たち一人一人の命も造りました。ですから、例えば私が誰かを憎んでいる場合、その誰かに命を与えたのは神様です。ですから、もし私が神様を愛しているなら、神様が造った隣人を憎むことはできないはずです。それでも憎んでしまうとしたら、それは神様への愛が十分ではないということになるのでしょう。具体的に言うなら、今朝のニュースによれば、東京オリンピックの開会式の観客について、大会組織委員会などは、2万人を上限に検討しているとのことです。しかし、そんなことをしたら、お祭りムードが高まる一方ですから、ウイルス感染者が増えないわけがありません。そういう無謀なことを考える人々のことを私は憎みます。そのように人を憎む私は、神様を十分に愛することができていないのでしょう。

 神を十分に愛することができず、従って隣人を十分に愛することができない罪が私の中にあります。しかしヨハネの福音書13章を読むなら、それは悪魔の働きによるものであることが分かります。ですから、憎むべきは悪魔です。

 神の御子イエス・キリストは、その悪魔の働きを打ち破るために、この世に遣わされて、十字架の苦しみをお受けになりました。
 
②悪魔のわざを打ち破るために現れた神の御子
 きょうの聖書箇所のヨハネ13章31節から38節の中で最も注目しなければならない中心聖句は、やはり34節でしょう。イエス様は弟子たちにおっしゃいました。

34 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 互いに愛し合うべきことが大切であることは、誰にでも分かることです。ですから、このヨハネ13章の34節が重要な聖句であることは誰にでも分かります。でも、その前の33節を読んでから34節を読むと、何となく唐突感を覚えます。なぜイエス様は33節の後で34節のようなことをおっしゃったのか、今一つ分かりません。34節の一つ手前の33節でイエス様は、こうおっしゃいました。

33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 イエス様がユダヤ人たちにも言った、今は来ることができない場所とは天の父のみもと、すなわち天の御国のことです。なぜイエス様は33節で弟子たちに、今はあなたがたは天の父のみもとに来ることができない、と言った後で34節で「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったんでしょうか。今一つよく分かりません。

 そんな時に頼りになるのが、ヨハネの手紙第一です。ヨハネの手紙第一はヨハネの福音書と同じ記者のヨハネが書いたものですから、ヨハネの福音書で分からないことがあったらヨハネの手紙第一を読むと分かることがよくあります。ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は相互に補い合う相補的な関係にあります。

 いま分からないのは、イエス様が弟子たちに、今はあなた方は天の父のみもとに来ることはできないと言った後で、「互いに愛し合いなさい」と言ったことですね。この流れがよく分かりません。それが、ヨハネの手紙第一を読むことで、何となく分かって来ます。時間の関係でヨハネの手紙の全部を読むことはできませんから、一部だけを抜き出します。まず3章23節と24節をお読みします(週報p.2)。

Ⅰヨハネ3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。
24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。

 23節にあるように、「互いに愛し合うこと」が神様の命令です。その神様の命令を守る者は神様の内にとどまり、神様もまたその人の内にとどまります。それは御霊によって分かることです。このように神様の内にとどまり、神様もまたその人の内にとどまっているなら、天の御国にいるのと同じことです。その人は必ず天の御国行くことができます。互いに愛し合いなさいという命令を守っている者は、必ず天の御国に行くことができます。

 一方で悪魔は、それを妨害しようとします。神様と人との間を分断して、人を神様から引き離そうとします。神様から引き離された者は御霊を受けることができず、神様の内にとどまることはできません。その悪魔の働きを打ち破るために御子イエス・キリストは、天からこの世に遣わされました。今度はヨハネの手紙第一3章の8節から10節までを見ましょう(週報p.2)。

3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。
9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

 この10節によれば、兄弟を愛さない者は天の御国に行くことはできないことになるようです。ですから、イエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言ったようです。

 福音書の13章34節でイエス様は弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言った後、14章の2節と3節で、このようにおっしゃっています。

ヨハネ14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

 このように、イエス様は弟子たちを父の家、すなわち天の御国に迎えて下さると言っています。その前に「互いに愛し合いなさい」とおっしゃっていますから、やはり天の父の家に入れていただくためには、「互いに愛し合いなさい」という命令を守る者でなければならない、ということになるのでしょう。

 きょうは父の日です。私たちは自分の地上の父にそれぞれ感謝するとともに、天の父にも感謝したいと思います。イエス様は今の14章2節で、天の父の家には住む所がたくさんある、とおっしゃっています。この天の父の家に入れていただくことができるように、私たちは互いに愛し合いたいと思います。もし憎んでいる人がいるとしたら、憎むべきは悪魔です。悪魔の働きがこれ以上拡大しないよう、聖書を読むことを多くの方々にお勧めする働きを私たちは進めなければなりません。

③罪のウイルスから人を守る聖書のワクチン
 ここからは、新しい伝道のアイデアについて話したいと思います。それは、罪をウイルスに、ワクチンを聖書に例えることです。今の世の中の動きに便乗しているようで、少し気が引けますが、聖書に関心を持つ人があまりに少ない今の状況においては、便乗でも何でも良いですから利用できるものは利用すべきだろうと思います。そうして、今まで聖書には何の関心を持っていなかった方々にも、関心を持っていただけるようになると良いなと思います。

 ヨハネ13章で見たように、悪魔はユダとペテロの心の内に罪を入れました。このことを悪魔が人の心に罪のウイルスを入れたと考えることにしたいと思います。悪魔は人の心を罪のウイルスに感染させて、そのウイルスが増殖するように働きます。

 罪とは、大まかに言うなら「神を愛さない罪」と、「隣人を愛さない罪」と言えるでしょう。イエス様は大切な二つの戒めとして「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とを挙げています。ですから、裏返して言えば「神を愛さないこと」と「隣人を愛さないこと」が大きな罪だとうことになります。悪魔は、この罪のウイルスに人が感染するように働いています。しかし聖書を読むなら、聖書がワクチンとして働いて、罪のウイルスの増殖を防ぐことができます。

 最近は日本でもワクチン接種が加速しつつあることで、ネット上でも一般向けのワクチンの説明がたくさん読めるようになりました。それで私も少しだけですが、ワクチンの勉強をしています。

 ワクチンは人の体に備えられている免疫の仕組みを利用しています。人は病原体に感染すると、その病原体が人の体内で増殖して病気になります。しかし同時に「抗体」も作られます。抗体は、次に同じ病原体が体内に入って来た時には攻撃をしてくれて、今度はその病原体の増殖を防いでくれます。これが免疫の仕組みです。

 ワクチンは、病気にならなくても人の体の中に「抗体」ができるようにします。一番分かりやすいのは、生ワクチンでしょう。生ワクチンは毒性を弱めた病原体を体内に注射します。毒性を弱めてありますから病気になることはありませんが、実際の病原体を体内に入れますから、抗体が作られます。この抗体が作られれば、本物の病原体が入って来ても増殖を防ぐことができます。

 聖書に書いてあることは、大半が罪のことですから、ワクチンに似ています。聖書には悪い罪のことが書いてあり、ワクチンには悪い病原体の成分が含まれています。ですから、罪が書いてある聖書のワクチンを読むと、罪の増殖を防ぐ抗体が心の内に造られます。旧約聖書には「神を愛さない罪」のことが、新約聖書には「隣人を愛さない罪」のことがたくさん書かれていますね。そして、私たちの心の中にもその罪の種がありますから、聖書に書かれている罪深い人々の記事を読むことで悔い改めるなら、抗体が作られて、罪のウイルスがそれ以上増殖することを防いでくれます。

 この罪の増殖を防ぐ抗体とは、「御霊の実」のことであろうと思います。これまで何度も引用していますが、パウロはガラテヤ人の手紙5章で「御霊の実」について書きました(週報p.2)。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 この「御霊の実」が結ばれていれば、私たちの心の内で罪のウイルスが増殖することはありません。

 ですから、私たちは御霊を受ける必要があるんですね。毎度同じことを話しますが、私たちはどうしても御霊、すなわち聖霊を受ける必要があります。聖霊を受けなければ罪のウイルスが増殖して、罪の暗闇の中で苦しむことになります。

 この罪の暗闇から抜け出すために、光であるイエス・キリストを信じて光の中を歩む者とさせていただきたいと思います。そうして聖霊を受けて、心の内に「御霊の実」を結びたいと思います。

おわりに
 この、罪をウイルスに例え、聖書をワクチンに例えて、聖書を読むことをお勧めする伝道方法が、どれほど使えるかは、人が罪のウイルスをどれほど恐ろしいと感じるかに掛かっているのではないかという気がします。

 ワクチン接種のことが国民的な関心事になっているのは、新型コロナウイルスがそれだけ恐ろしいものであることを、皆が感じているからです。重症化すると死亡し、有名人で命を落とした方々もいます。回復しても後遺症が残るケースが少なくないということで、新型コロナウイルスは恐ろしい病原体であるという認識を多くの人が持っています。

 神と人、人と人とを分断する罪のウイルスも、とても恐ろしいものです。でも、その罪の恐ろしさをどれぐらいの人が認識しているのか、については心もとない気がします。ですから、罪のウイルスのことばかりを語るのでなく、「御霊の実」を結ぶことの素晴らしさも同時に語るべきだろうと思います。罪の恐ろしさには気づきにくくても、「御霊の実」の素晴らしさには気づくことができるかもしれません。

ガラテヤ5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。

 この「御霊の実」を結べば、たとえ罪が心の内に入っても、増殖を防ぐことができます。このことを広くお伝えするためには、私たちが先ず、「御霊の実」を結んでいる者たちでありたいと思います。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。この「御霊の実」の抗体を先ず私たちが心の内に造って、地域の方々に聖書のワクチンを接種することをお勧めしたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

闇は光に打ち勝たなかった(2021.6.13 礼拝)

2021-06-14 12:11:21 | 礼拝メッセージ
2021年6月13日礼拝メッセージ
『闇は光に打ち勝たなかった』
【ヨハネ13:16~30】

はじめに
 先週からヨハネの福音書13~17章の「最後の晩餐」の場面の学びを始めました。13~17ですから5章あります。ヨハネの福音書は全部で21章ありますが、20章で一旦終わる形を取っていますから、20章までとすると、章の数で言えば実に全体の1/4が「最後の晩餐」で占められています。すごい量ですね。

 イエス様はこの「最後の晩餐」で弟子たちに熱く語った後で、十字架へと向かって行きました。ですから、この「最後の晩餐」は「最後の教えの時」でもありました。弟子たちに大切なことを教えた、この「最後の晩餐」をじっくりと学んでみたいと思います。

 先週は、イエス様が弟子たちの足を洗った場面を見ました。このイエス様のへりくだった姿からは、「受肉・十字架・内住」の三つのへりくだりが見えることを話しました。そして、イエス様は弟子たちの足を洗った後でおっしゃいました。ヨハネ13章14節です。

ヨハネ13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 このイエス様の「あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません」は、「互いに愛し合いなさい」という戒めにつながっているのでしょう。そして、互いに赦し合わなければ、互いに愛し合うことができない、そのためには聖霊を受ける必要があるという話を先週はしました。イエス様は祭司長たちに捕らえられた後に鞭で打たれ、そして裸にされて十字架に釘付けにされました。このように精神的にも肉体的にも激しい苦痛を受けながらイエス様はいっさい抵抗せずに十字架の死刑に付きました。そして、こう言われました。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)

 私たちが互いに赦し合えるようになるためには、このイエス様に内に入っていただく必要があります。このイエス様が内にいて下さらなければ、人を赦すことなど到底できません。それには、聖霊を受ける必要があります。先週は、これらのことを話しました。

 さて今週は、足を洗った後の場面です。ヨハネ13章の16節から30節までの記事から、きょうは次の三つのことを学びたいと思います(週報p.2)。

 ①強大な悪魔と対決する力ある神のイエス様
 ②サタンの企てを全て知った上でそれを許す
 ③死からの復活で闇の支配者に打ち勝った光

①強大な悪魔と対決する力ある神のイエス様
 ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の学びを先週から始めて改めて感じるのは、ヨハネの福音書が描いているのは、神様としてのイエス様だということです。ルカの福音書の場合は人としてのイエス様が弱い人々に寄り添っている様子が描かれていることを感じますが、ヨハネの福音書の場合は、「力ある神」としてのイエス様が悪魔と対決している大きな構図が背後にあることを感じます。

 弱い私たちは悪魔に突き動かされて、すぐに罪に走ってしまいますが、イエス様はそんな私たち一人一人に聖霊を遣わせて下さり、守って下さろうとしています。この対決の構図はウイルスとワクチンの関係に例えると分かりやすいかもしれません。罪のウイルスは私たちの中で増殖して私たちを死へ追いやろうとしますが、力ある神であるイエス様は聖霊のワクチンを私たちの体内に注射して守って下さいます。

 イエス様が力ある神である様子は、「最後の晩餐」の直後のヨハネ18章を見ると分かりやすいと思います。マタイ・マルコ・ルカの福音書のイエス様は十字架を目前にして、「この杯をわたしから取り去って下さい」、つまり十字架に付きたくないと苦悩していますが、ヨハネの福音書のイエス様はだいぶ様子が違います。ヨハネ18章1~6節を見ましょう。

ヨハネ18:1 これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。
2 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。
4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。
6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。

 最後の晩餐の後、祭司長たちはユダに案内されてイエス様を捕らえに来ました。イエス様は彼らに向かって4節で言いました「だれを捜しているのか」。彼らは答えました。「ナザレ人イエスを」。イエス様は言われました。「わたしがそれだ」。この「わたしがそれだ」の所に星印*のアステリスクがありますから、下の脚注を見ると「エゴー・エイミー」とあります。ギリシャ語の「エゴー・エイミー」は英語で言えば「アイ・アム(I am)」です。つまり「わたしはある」です。つまり、ここでイエス様は祭司長たちに「わたしは『わたしはある』という者である」と言っているといっても良いと思います。

 旧約聖書の出エジプト記3章にはモーセがシナイ山のふもとで主と出会った場面がありますね。その時、主はモーセに「わたしは『わたしはある』という者である」と仰せられました。イエス様は天の御父と一つのお方ですから、主がモーセに仰せられたのと同じことを祭司長たちに仰せられて「わたしはある」とおっしゃったのでしょう。そうして6節にあるように、イエス様が「わたしはある」と仰せられた時、彼らは後ずさりして、地に倒れました。つまり彼らは力ある神であるイエス様に圧倒されて地に倒れました。ここからは、悪魔と対決する「力ある神」のイエス様が悪魔に打ち勝とうとしている様子が見えます。

 ですから13章~17章の「最後の晩餐」の場面も、「神vs悪魔」という対決の構図の中で描かれていると言っても良いかもしれません。先週は13章の最初の方をスキップしてしまいましたから、きょうはそのスキップした最初の方を見ておきたいと思います。13章の1節から3節までをお読みします。

ヨハネ13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

 2節に「悪魔」ということばが出て来ますから、「神vs悪魔」の対決の構図がここから見て取れます。私たちはついついユダのほうに気を取られてしまうかもしれません。しかし、ユダは悪魔に利用されただけです。ですからユダよりも、ユダを利用した悪魔のほうに注目すべきだろうと思います。私たち自身もまた、悪魔に利用されやすい弱い者たちだからです。

 イエス様は天の父のみもとに帰って、天から私たちに聖霊を遣わすことで、悪魔に利用されやすい弱い私たちを守って下さろうとしています。イエス様は私たちを愛して下さっていますから、十字架に付くことで悪魔と対決して打ち勝とうとしておられます。

 「力ある神」であるイエス様が十字架に付くことは大いなるへりくだりです。そのことをイエス様はまず弟子たちの足を洗うことで示して下さいました。そして16節以降のきょうの場面へと入って行きます。

②サタンの企てを全て知った上でそれを許す
 イエス様はこれから起きようとしていることをすべてご存知でした。サタンはイスカリオテのユダや祭司長たちを使って神の御子のイエス様を十字架に付けて殺そうとしていました。イエス様はそのことをすべてご存知で、サタンのしたいようにさせました。13章の19節から見て行きます。

19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

 これからいよいよ事が起こります。イエス様は捕らえられて十字架に付けられて死に、三日目に復活します。これらのことが起こる前に、イエス様は弟子たちに「最後の晩餐」のテーブルで語り始めました。ここでイエス様が語ったことの多くは、「聖霊を受けること」の大切さです。イエス様が「わたしはある」というお方であることを信じるなら、人は聖霊を受けることができます。続いて20節、

20 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 イエス様が遣わす者とは、聖霊のことですね。聖霊を受け入れる者はイエス様を心の中に受け入れます。そうしてイエス様が私たちを守って下さいます。そしてイエス様を受け入れる者は、イエス様を遣わされた天の御父を受け入れます。天の御父はあまりにも大きな存在ですから、私たちにはよく分かりません。でも聖霊を受け入れてイエス様を受け入れるなら、イエス様を通して天の御父のことも、段々と分かるようになります。そのことをヨハネは1章18節で書いています(週報p.2)。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

 そうして「力ある神」が私たちを守って下さることが私たちは段々と分かるようになります。続いて21節、

21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

 いよいよ「神vs悪魔」の対決が始まります。それゆえイエス様の心が騒ぎました。イエス様を裏切るのはユダです。少し飛ばして26節、

26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。

 この時、サタンがユダに入りました。27節、

27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

 サタンがユダに入りましたから、イエス様が言った「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」ということばは、ユダに言ったというよりは、サタンに対して言ったのですね。こうしてイエス様とサタンの対決が始まります。イエス様はこれから起きることをすべて知った上で、サタンに「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい」と言って、これからサタンがしようとしていることを許しました。

③死からの復活で闇の支配者に打ち勝った光
 イエス様はこれから起きることをすべてご存知でしたが、弟子たちは何も分かっていませんでした。28節と29節、

28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。
29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。

 私たちも弟子たちと同じですね。一寸先は闇です。私たちには未来のことがぜんぜん分かりません。たった1分先のことでも、何が起きるか分かりません。去年の1月、中国で新型コロナウイルスの感染者が急増しているというニュースを私たちは他人事のように見ていました。それが、2月には日本でも感染者が増え始めて3月には学校が一斉休校となり、4月には静岡県にも緊急事態宣言が発令されて、今まで経験したことのない事態の中に私たちは置かれました。本当に私たちはほんの少し先のこともぜんぜん分からないということを改めて思い知らされたことでした。

 この、一寸先は闇であることを利用してサタンは暗躍します。人々の心を不安に陥れて、社会を混乱させます。正にサタンは暗闇の支配者です。次の30節の「時は夜であった」は、それを象徴していますね。30節、

30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。

 サタンはいよいよ大きな仕事を成し遂げようとしていました。イエス様を十字架に付けて殺してしまうという大きな仕事です。時は夜でした。暗闇の支配者の大きな仕事が、この暗闇の夜に始まろうとしていました。

 そうして気付くのは、実はサタンも未来のことがすべて分かっているわけではないということです。サタンは私たちよりは未来のことが分かっているかもしれません。しかし、サタンはイエス様を十字架に付けて殺して、勝利を収めるつもりでいました。まさか三日目によみがえるとは、サタンでさえ予期できない想定外の出来事だったのでしょう。

 ヨハネは1章5節で書きました。(週報p.2)

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 光であるイエス様は闇の支配者のサタンに打ち勝ちました。しかし、21世紀になっても、まだまだこの世はサタンに支配され続けています。それは、イエス様はサタンに勝利しましたが、一人一人の心にはまだまだ闇があり、サタンに支配されてしまっているからです。ですからイエス様は天から私たちの一人一人に聖霊を遣わして、私たちを守って下さいます。そうして、平安を与えて下さいます。

おわりに
 イエス様を信じている私たちの中には既に聖霊がいて下さいますが、それでもなかなか心の不安は消えません。それは聖霊を受けていることを十分に感じていないから、ではないのかなと思います。自分の中に聖霊がいて下さることを十分に自覚しないなら、聖霊は十分な働きができないようです。

 ですからイエス様が熱く語った「最後の晩餐」の学びを通じて、私たちはイエス様が遣わして下さった聖霊のことを、もっとよく知りたいと思います。そうしてイエス様に守っていただき、平安を得たいと思います。

 まだまだサタンが暗闇を支配していますから、弱い私たちはサタンの策略に動かされて不安になり、心の平安を失いがちですが、光であるイエス様を信じて委ね、光の中を歩みたいと思います。

ヨハネ1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

と聖書にありますから、光であるイエス様に導かれながら、日々を歩んで行きたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

互いに赦し合わなければ愛し合えない(2021.6.6 礼拝)

2021-06-07 09:02:37 | 礼拝メッセージ
2021年6月6日礼拝メッセージ
『互いに赦し合わなければ愛し合えない』
【ヨハネ13:1~15】

はじめに
 今週からしばらくの間、ヨハネの福音書13~17章の「最後の晩餐」の記事を順次見て行きたいと思っています。「最後の晩餐」というのは、イエス・キリストが十字架に付けられる前の晩に弟子たちと取った「最後の食事」のことです。弟子たちに対するイエス様の「最後の教えの時」言っても良いでしょう。マタイ・マルコ・ルカの福音書の「最後の晩餐」の記事はそれほど長くはありませんが、ヨハネの福音書の「最後の晩餐」の記事はかなりの長さがあります。

 私たちが使っている新改訳聖書の2017年版ではp.211からp.221までの11ページ分あります。ヨハネの福音書全体はp.175からp.230までの56ページですから、全体の1/5弱が「最後の晩餐」です。すごい分量ですね。イエス様は、十字架に向かう前の晩に弟子たちに対して、この「最後の晩餐」で熱く語りました。

 この「最後の晩餐」を学ぶことで、先週のメッセージで取り上げたイエス様の「あなたがたは何を求めているのですか?」も見えて来るかもしれません。皆さんのお一人お一人が、心の奥深い所で何を求めているのかが、イエス様の最後の教えから見えて来るかもしれません。と言うのは、私たちもまた、この「最後の晩餐」の席に座っているからです。イエス様は1章で私たちに向かって「あなたは何を求めているのですか?」と聞いていますから、この13~17章の「最後の晩餐」でも、私たちに向かって教えを説いて下さっています。

 また、イエス様はこの晩餐の最後の17章で長いお祈りを天の父に向かってしています。イエス様が何を願っているのかも、この17章を学ぶことで見えて来るでしょう。祈りとは、どういうものなのかも、イエス様の天の父への祈りを通して学べるかもしれません。

 きょうは「最後の晩餐」の最初の場面のイエス様が弟子たちの足を洗った箇所を見ます。イエス様が弟子たちの足を洗ったということは、イエス様は私たちの足も、洗って下さったということです。このイエス様が弟子たちの足を洗った場面からは、イエス様のへりくだった様子が見えますが、それ以外にも大切なことが見えて来ます。きょうは次の三つのパートで話します(週報p.2)。

 ①受肉・十字架・内住の三つのへりくだり
 ②互いに足を洗い合うとは、どういうことか?
 ③互いに赦し合わなければ愛し合えない

①受肉・十字架・内住の三つのへりくだり
 いま司会者に1節から15節までを読んでいただきました。ここでイエス様は何を言っているのか、じっくりと学ぶと、この15節までだけでも4回か5回ぐらいは説教しなければならないでしょう。いずれそういう学びもしてみたいと思いますが、今回のシリーズではもう少し速足で13章から17章までを見てみたいかな、と思います。

 それで今日は14節に注目したいと思います。イエス様は14節でおっしゃいました。

ヨハネ13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 きょうは、この14節のイエス様のことばの「互いに足を洗い合わなければなりません」に注目したいと思います。それで先ずは、イエス様が弟子たちの足を洗った場面を見ることにしましょう。4節と5節です。

ヨハネ13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 外を歩いて汚れた足を家で洗うのは、奴隷の仕事とされていたということです。イエス様は自らの身を低くして奴隷のようになって弟子たちの足を洗いました。このへりくだった姿勢のイエス様からは、表題に上げた受肉・十字架・内住の三つのへりくだりが見えて来るように思います。

 「受肉」とは、神であるイエス様が人となったことです。ヨハネの福音書1章14節でヨハネは書きました。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 神のことばであるイエス様は人になりました。元のギリシャ語では、この「人」は「肉」と書かれています。神であるイエス様は肉体をまとって人となりました。イエス様はもともとは何にも縛られていないお方でしたが、マリアのお腹の中に入って肉体を持つようになったことで、時間と空間に縛られるようになりました。ここに、受肉のへりくだりが見て取れます。何にも縛られていなかったイエス様がへりくだって、私たち人間と同じように肉体に縛られる者となって下さいました。

 そうして、イエス様は私たちの罪を赦すために十字架に付きました。パウロもピリピ2章で書いていますね。

ピリピ2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエス様は自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。死に方にもいろいろありますが、イエス様は鞭で打たれた後で裸にされて十字架に釘付けにされました。激しい痛みと恥辱にまみれた、肉体的にも精神的にも大きな苦痛を伴う死刑による死にイエス様は従われました。これ以上のへりくだりがあるでしょうか?

 この十字架に付けられたイエス様が神の子キリストであると信じるなら、私たちには聖霊が与えられて、聖霊が内に住んで下さるようになります。それはすなわちイエス様が私たちの内に住んで下さるということです。汚れた私たちの内に住んで下さることもまた、大いなるへりくだりです。私たちは汚い場所には住みたくないと思いますね。しかし、へりくだったお方であるイエス様は汚れて汚い私たちの心の中に住んで下さいます。

②互いに足を洗い合うとは、どういうことか?
 2番目のパートでは「互いに足を洗い合うとは、どういうことか?」について、もう少し深く考えてみたいと思います。

 人の足は、とても汚れています。現代人は靴を履いて外を歩きますが、それでもかなり汚れています。

 私が今、月に1回通院している糖尿病の外来では、半年に1回フットケアと言って靴下を脱いで足の状態をじっくり診てくれます。糖尿病の医者への通院は神学校に通う前からのことで、神学校に入ってから規則正しい生活をするようになったので、血糖値はだいぶ改善しましたが、ずっと通院していて、姫路にいた時も、沼津にいた時も糖尿病の医者に通院していました。いま通っている静岡のお医者さんは沼津のお医者さんに紹介していただきました。

 糖尿病になると毛細血管がもろくなるそうです。そうして糖尿病が重症化すると毛細血管で血液をろ過する腎臓が悪くなって、人工透析をしなければならなくなります。あるいは網膜の毛細血管がダメージを受けると失明します。また、足先の毛細血管がダメージを受けると足を切断しなければならなくなると脅されます。糖尿病の重症化で人工透析を新たに開始する人は日本国内で毎年1万6千人、失明者は3千人、足を切断する人も毎年3千人いるそうです。

 そういうわけで、半年に1回、いま私が月1で通っているお医者さんでは足の観察もしてくれます。そうして知ったことは、特に足の指と指の間がとても汚れやすいということです。明日は足も診られる日という日の前の晩にはけっこう念入りに足の指の間も洗いますが、翌日の午後になるともう汚れてしまい、指の間が汚れていますよと指摘されてしまいます。足はそれほど汚れやすい場所です。

 この汚い足を互いに洗い合うためには、互いにへりくだらなければできないことです。イエス様はヨハネ13章14節でおっしゃいました。

ヨハネ13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 この互いに足を洗い合うこととは、同じ13章の34節の互いに愛し合うことであると言えるでしょう。

34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 相手のことを憎んだままで、形だけ相手の足を洗うことも可能でしょう。でも、形だけのことをしてもあまり意味がありませんね。相手のことを愛し、相手も自分のことを愛してくれて、互いに愛し合うことの必要性をイエス様は弟子たちに説いています。ですから、私たちもまた、互いに愛し合わなければなりません。

③互いに赦し合わなければ愛し合えない
 いまさっきヨハネ13章14節の「互いに足を洗い合わなければなりません」は、34節の「互いに愛し合いなさい」のことであるという話をしました。そして、結局これは20章のイエス様のことばにつながっていくのだと思います。ここはご一緒に読みたいと思います。交代で読みましょう(新約p.228)。

ヨハネ20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

 イエス様は23節で、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます」とおっしゃいました。イエス様は十字架に掛かって私たちの罪を赦して下さいました。それゆえ私たちの罪は赦されました。ですから私たちもまた、人の罪を赦さなければなりません。

 そうして、人を赦し、また自分も赦されて、互いに赦し合えるようになって初めて、互いに愛し合えるようになるのだと思います。相手を赦さずに相手の足を洗っても、それは形だけのことであって意味がありません。相手を愛して足を洗うのでなければ意味がありません。それにはまず相手を赦さなければなりません。

 しかし、人を赦すことは難しいことです。人を赦すには聖霊の助けが必要です。聖霊が内に入ってイエス様が内にいて下さるのでなければ、人を赦すことはとうていできないことです。だからイエス様は20章22節で、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。

 聖霊を受けるということは、イエス様にへりくだるということです。イエス様はへりくだって私たちの内に入って下さいます。同様に私たちの側でもイエス様にへりくだらなければ聖霊が私たちの内に入ることはできません。

 よく言われることですが、宗教を信じる人は弱い人だという考え方がありますね。自分は弱くないから、神様なんかに頼らないで自分の道は自分で決めると多くの人が考えています。或いは、自分は強くない、弱い者だと認めている人であっても、神様に頼るぐらいなら自分の道は自分で決めると思っている人も少なくないでしょう。

 でもイエス様を信じる私たちは、イエス様の導きを仰ぎ、イエス様に導いていただきます。人間の私たちには未来のことが分かりませんが、イエス様はご存知ですから、イエス様は私たちを最善へと導いて下さいます。その導きを仰ぐためには、へりくだってイエス様のためのスペースを心の中に作って、イエス様に入っていただく必要があります。すなわち聖霊を受ける必要があります。そうして、少しずつイエス様のためのスペースを広げていって、やがては全面的に委ねることができる者になりたいと思います。

 そうして、聖霊にすべてをゆだねることができるようになるなら、互いに赦し合い、互いに愛し合うことができるようになるでしょう。それが、互いに足を洗い合う、ということではないでしょうか。

おわりに
 これからのヨハネの福音書の「最後の晩餐」のシリーズで順次見て行きますが、最後の晩餐でイエス様は聖霊について熱く語っています。そうしてイエス様は十字架に向かっていきました。この最後の晩餐のシリーズでは、イエス様の教えにじっくりと耳を傾けて、聖霊を受けることがいかに大切なことかを学んでいけたらと思います。

 聖霊を受け入れて聖霊の導きに従うことは、へりくだらなければできないことです。自分の道は自分で決めると思っている間は、イエス様にへりくだっていることになりません。もし自分の道は自分で決めると思っているのであれば、イエス様の御前にへりくだり、自分の進むべき道はイエス様が導いていて下さり、その導きに従って歩むというように変えられていただきたいと思います。

 イエス様は私たちがへりくだって聖霊を受けることができるように、まずはイエス様の側でへりくだって私たちの汚い足を洗って下さいました。ですから私たちもへりくだってイエス様のためのスペースを心の内に作って、聖霊を受け入れたいと思います。そして、もし赦せないと思う人がいるのであれば、赦せるようになりたいと思います。そうして、互いに愛し合うことができる者へと、変えていただきたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
コメント

あなたは何を求めているのですか?(2021.5.30 礼拝)

2021-05-31 10:57:41 | 礼拝メッセージ
2021年5月30日礼拝メッセージ
『あなたは何を求めているのですか?』
【ヨハネ1:35~39】

はじめに
 先週のペンテコステ礼拝では、私たちが「霊的に目覚める」ことが教会再生の鍵であろうということを話しました。

 二千年前のペンテコステの日、弟子たちに天から聖霊が注がれて、弟子たちは力強くイエス様を宣べ伝え始めました。そしてイエス様を信じる私たちにも聖霊が注がれています。神様が私たちに改めて聖霊を注いで下さり、私たちを聖霊で満たして下さり、私たちも弟子たちのように再び力強く前進することができますようにと、先週はお祈りしました。

 このペンテコステの日を越えて最初の聖日である今日の礼拝で分かち合いたいのは、イエス様が二人の弟子に「あなたがたは何を求めているのですか?」と問い、「来なさい。そうすれば分かります」とおっしゃった箇所です。言うまでもなく、イエス様は私たちの一人一人に「あなたは何を求めているのですか?」と問い掛けています。このイエス様の問い掛けに即答できれば良いのですが、すぐに答えられる人は少ないでしょう。

 日頃思っている表面的な願望、例えばおいしい物をお金や体重や血糖値を気にせずにお腹一杯食べたい、というようなものであればすぐに言うことができるでしょう。しかし、心の奥深い所で自分が本当は何を求めているのかは、自分自身でも分かっていないことが多いと思います。そんな私たちにイエス様は「来なさい。そうすれば分かりますよ」とおっしゃって下さっています。心の奥深い所で自分が本当は何を求めているのか、それが分かるようになることが、「霊的に目覚める」ということなのかもしれません。

 きょうは、この箇所を次の三つのパートに分けて見て行きます(週報p.2)。

 ①あなたは何を求めているのですか?
 ②1:1の「キリストはことば」が全体に係る福音書
 ③天のイエス様は聖書の中に「来なさい」と招いている

①あなたは何を求めているのですか?
 先ほども言ったように、イエス様は私たちの一人一人に、「あなたは何を求めているのですか?」と問い掛けています。そして、すぐに答えられないでいる私たちに「来なさい。そうすれば分かりますよ」とおっしゃって下さいます。ヨハネの福音書1章の38節と39節をお読みします。

ヨハネ1:38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。

 21世紀の現代を生きる私たちは、イエス様と霊的に出会って直接対話をすることで、イエス様から力をいただくことができます。そうして苦しい困難なことがあっても、へこたれないで生きていくことができます。そのためには、福音書を読む時にはイエス様の言動に全集中すべきです。ヨハネ1章39節で言えば、最後の「時はおよそ第十の時であった」は無視すべきです。聖書学者であれば無視はできないでしょうが、私たちは学者ではありませんから、ひたすらイエス様から目を離さないでいるべきです。下手に「時はおよそ第十の時であった」を気にするなら、たちまちイエス様から目が離れてしまいます。

 もう一つ、「弟子たちの言動」にも惑わされてはなりません。弟子たちはイエス様に「あなたがたは何を求めているのですか?」と聞かれているのに、逆に「先生、どこにお泊りですか?」と聞き返しました。つまり弟子たちは、自分たちが心の奥底で何を求めているのかが全然分かっていませんでした。このぜんぜん分かっていない弟子たちに気を取られてしまうと、やはり大切なことが見えなくなってしまいます。弟子たちの言動に気を取られるとイエス様の「来なさい。そうすれば分かります」が、「わたしがどこに泊まっているのか、来れば分かりますよ」という話になってしまいます。これでは表面的な話になってしまい、心の奥深い領域にある魂が揺さぶられることはないでしょう。

 そういう読み方もあるかもしれませんが、私たちは霊的に目覚めて、イエス様にお会いする必要があります。そのためには、よく分かっていない弟子のことは、とりあえず無視すべきです。そうしてイエス様の言動に全集中すべきです。そうすれば、イエス様の「あなたがたは何を求めているのですか?」「来なさい。そうすれば分かります」ということばが心に響いて来て、「自分が何を求めているのかが分からないのであれば、私に付いて来なさい。そうすれば分かるようになりますよ」とイエス様がおっしゃっていることが、分かるようになることでしょう。

 さて、ヨハネの福音書を愛読するようになってから私は何度もイエス様から、「あなたは何を求めているのですか?」と問い掛けられて、そのたびに「自分は心の奥深い所では何を求めているのだろうか?」と考えて来ました。そして今また、問い掛けられています。ただし、いつからかこの問いは私の中では、「イエス様は私に何を求めているのだろうか?」という問いに変わっています。

 「自分は何を求めているのだろうか?」から、「イエス様は私に何を求めているのだろうか?」に変わって来ています。それは、私もパウロのようでありたいと願っているからです。パウロはガラテヤ2:20で書きましたね(週報p.2)。

ガラテヤ2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 私もこのように言える者でありたいと願っています。もちろん私はパウロとはほど遠い者です。でも、パウロのように、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と告白できる者になりたいと願っています。それゆえでしょうか?いつの間にかイエス様の問い掛けに対して「自分は何を求めているのだろうか?」から、「イエス様は私に何を求めているのだろうか?」と考える者へと変えられました。

 そうして、何年か前から示されていることは、何にも縛られていない自由なイエス様を宣べ伝えることです。神の御子であられるイエス様はマリアのお腹に入るまでは、何にも縛られていないお方でした。それがマリアのお腹に入ったことでイエス様は時間と空間に縛られる者になりました。そして最期は十字架に手足を釘付けにされて身動きすらできない状態にされました。しかし、十字架から降ろされて三日目に復活してからは再び何にも縛られないお方に戻られました。この何にも縛られていないイエス様に心を寄せることで心の大きな平安が得られることを宣べ伝えること、これが私がイエス様から求められていることです。

 イエス様はご自身が手足を縛られ、釘付けにされる経験をしましたから、私たちが罪に縛られ、また世間の様々な制約、そして時間にも縛られていることを哀れんで下さり、私たちをその束縛から解き放って下さいます。私たちは本当に様々なことに縛られています。その苦しみからイエス様は解き放って下さいます。

 これまでの私の人生はすべて中途半端でした。理工系の研究者を中途半端なままで辞めました。外国人留学生への日本語教育も中途半端なままで辞めました。牧師の経験もまだ10年に満たない半端な者です。私はすべてにおいて半端なままでここまで生きて来ました。それゆえ、私は世間的にはぜんぜん評価されていません。ぜんぜん評価されていないことを、時々寂しく思うこともあります。しかし神様は、私をこういう半端な人生へと導き、私を用いようとして下さっています。すべてにおいて半端な私は、人よりも一つのことに縛られていません。そういう縛られない自由さを神様は私に与えて下さいました。それゆえ天におられる自由なイエス様のことが私は人よりもよく見えているようです。イエス様は地上にいた時は様々なことに縛られていましたが、天においては何にも縛られていません。この自由なイエス様のことがどうやら私には、人よりもよく見えているようです。

 少し前の礼拝メッセージで私は、神学校時代に鍵を一つも持たない生活を3年間したことを話しましたね。この鍵を持たない生活で、人がいろいろな物事に縛られて生きていることが一層よく見えるようになりました。神様は私を中途半端な人生へと導くことで、何にも縛られていない自由なイエス様のことが、他の人よりもよく見えるようにして下さいました。そうして、イエス様が私に求めていることは、自由なイエス様に心を寄せることを人々にお勧めして、イエス様が与えて下さる平安へと人々を導くことです。

 地上で共に苦しんで下さるイエス様を伝えることも幸いだと思いますから、共に苦しんで下さるイエス様のこともお伝えしようと思いますが、天におられて何にも縛られていないイエス様は私たちの心を解き放ち、私たちを自由にして下さいますから、この天のイエス様のこともお伝えするようにと、私はイエス様に求められています。

②1:1の「キリストはことば」が全体に係る福音書
 38節と39節のイエス様のことばの「あなたがたは何を求めているのですか?」「来なさい。そうすれば分かります」をより深く味わうために、まずはヨハネ1:1の「初めにことばがあった」が、この福音書全体に係ることばであることを、分かち合っておきたいと思います。ヨハネの福音書1章1節とから3節までを、お読みします。

1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

 イエス様は天地創造の初めの時から天の父とともにおられた方ですから、1節の「初めにことばがあった」の「ことば」とは、イエス・キリストのことです。つまり「イエス・キリストはことばであった」と、ヨハネは書いています。

 これは画期的な書き出しだと思います。この画期的な書き出しによって、読者が霊的に目覚めて、キリスト教会の危機が救われたと言っても過言ではないでしょう。このヨハネの福音書は1世紀の末の紀元90年代に書かれたと考えられています。紀元90年代と言えば、イエス様の十字架から60年が過ぎて、イエス様の目撃者が非常に少なくなっていた時期です。昔は今よりも寿命が短かったですから、地上生涯のイエス様を証言できる人がほとんどいなくなっていたと言っても良いでしょう。

 現代の日本でも先の大戦の戦争体験を語れる生き証人が少なくなっていることが大きな問題になっています。この悲惨な体験が忘れられてしまうと、再び悲劇が繰り返されることになります。そのようなことがあってはなりません。そこで例えば広島市では、被爆者の被爆体験が風化しないよう、様々な取り組みをしています。例えば被爆者の体験談をビデオに収録して、原爆資料館に行けばいつでもタッチパネルの操作だけで簡単に被爆証言のデジタル動画を視聴することができるようになっています。

 二千年前にはもちろんビデオはありませんでしたから、イエス様に関する証言を後の世代にどう生々しく伝えて行くか、キリスト教会では大きな問題になっていたことでしょう。そうして四つの福音書の最後に書かれたヨハネの福音書に用いられた手法が、「初めにことばがあった」という書き出しによって読者を霊的に目覚めさせて、地上のイエス様ではなくて、天のイエス様に霊的に出会えるようにすることだったのだと思います。そうして読者はヨハネ1章38節で天のイエス様と霊的に出会います。

 では、なぜ「初めにことばがあった」という書き出しにすることが、読者を霊的に目覚めさせることにつながるのでしょうか。それは、この「初めにことばがあった」、すなわち「イエス・キリストはことばであった」は、このヨハネの福音書全体に係ることばだからです。

 たとえば1章4節、

4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

にも「初めにことばがあった」が係っています。イエス・キリストは、いのちのことばでした。いのちのことばは、人の足もとを照らす光です。詩篇119篇にもありますね。詩篇119篇105節です(週報p.2)。

詩篇119:105 あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

 そして5節、

5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 この道の光である神のことばは闇の中に輝いていますから、先が見えない暗闇の中を歩く私たちの足を照らして下さり、正しい方向へと導いて下さいます。そうして私たちにいのちを得させて下さいます。神のことばが光であり、私たちにいのちを得させて下さる光であることは、まさに霊的な世界のことです。霊的に目覚めていないなら、神のことばを光とは感じないでしょう。

 このように、ヨハネ1章1節の「初めにことばがあった」、すなわち「イエス・キリストはことばである」は、この福音書の全体に係っていて、読者を霊的に揺さぶり、また魂を光で照らして、霊的に目覚めさせる働きをしています。

 それゆえ1章38節と39節の、「あなたがたは何を求めているのですか」、「来なさい。そうすれば分かります」にも、「イエス・キリストはことばである」が係っています。ですから、「来なさい。そうすれば分かります」も、自分が何を求めているのかが分からなければ、その答は聖書のことばの中にありますよ、ということです。逆に言えば、答は聖書のことばの中にしかありません。すなわち、答はイエス様の中にしかありません。ですから、私たちはイエス様に付いて行きます。ヨハネ14章6節でイエス様はおっしゃいましたね。

ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 イエス様が道であり、真理であり、いのちなのは、イエス様がことばだからです。私たちはこのことばであるイエス様に心を寄せたいと思います。イエス様に心を寄せて、「来なさい」とおっしゃるイエス様に付いていきたいと思います。

③天のイエス様は聖書の中に「来なさい」と招いている
 もう一度ヨハネ1章38節と39節のイエス様のことばだけを読みます。

「あなたがたは何を求めているのですか。」
「来なさい。そうすれば分かります。」

 イエス様はことばですから、イエス様は私たちを聖書の世界に招いています。天のイエス様は私たちに聖書の中に「来なさい」とおっしゃっています。

 聖書は天のイエス様が聖書の記者に霊感を与えて、記者が霊感の下に書いた書物です。イエス様が地上にいた時に書かれた書は、聖書の中にはありません。旧約聖書はイエス様が地上に来る前に書かれて、新約聖書はイエス様が天に帰った後に書かれました。このように、聖書はイエス様が天から記者たちに霊感を与えて書かれた書物です。ですから聖書を読むことで私たちは天のイエス様と出会うことができます。

「あなたがたは何を求めているのですか。」
「来なさい。そうすれば分かります。」

とおっしゃるイエス様に応答する時、私たちは天のイエス様と出会っています。天のイエス様は何にも縛られていないお方です。この何にも縛られていないイエス様に私たちは心を寄せることができるようになりたいと思います。

 十字架に縛り付けられたイエス様に心を寄せることも幸いなことでしょう。十字架で苦しむイエス様は、罪に苦しみ、困難に苦しむ私たちと共に苦しんで下さいます。そうして私たちの罪が赦されました。罪が赦されることで、私たちの重荷が取り去られました。とても幸いなことです。それに加えて、天において縛られていないイエス様に心を寄せる幸いもまた、ぜひ知っていただきたいと思います。
 
「あなたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすれば分かります。」

とおっしゃるイエス様は私たちをさらなる平安、究極の平安の中へと招いて下さっています。

おわりに
 苦しみや悲しみの中にいる時、自由で平安なイエス様の姿はなかなか見えて来ないのかもしれません。そんな時は、ぜひヨハネの福音書1章1節から5節を、思い出してみて下さい。

ヨハネ1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2 この方は、初めに神とともにおられた。
3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 このヨハネの福音書の冒頭を読んだ後で、

「あなたは何を求めているのですか?」
「来なさい。そうすれば分かります。」

とおっしゃって下さるイエス様に応答するなら、天のイエス様は私たちを平安へと導いて下さることでしょう。

 初めから天におられるイエス様に心を寄せて、平安へと導いていただきたいと思います。

 しばらく、ご一緒にお祈りしましょう。
コメント

新しい時代の新しいペテロと教会(2021.5.23 礼拝)

2021-05-24 08:07:49 | 礼拝メッセージ
2021年5月23日ペンテコステ礼拝説教
『新しい時代の新しいペテロと教会』
【使徒2:1~13(交読)、14~21(朗読)】

はじめに
 きょうは五旬節、ペンテコステの日です。この日、約束されていた聖霊がまずペテロたちガリラヤ人の弟子たちに注がれました。そしてペテロの説教を聞いたユダヤ人たちが心を刺されて、この日多くのユダヤ人たちがバプテスマを受けて新たにイエス様の弟子に加えられました。その数は三千人ほどであったことが、聖書には記されています。

 この日を境にして、新しい契約の時代が始まりました。弟子たちは新しく生まれ変わり、エルサレムの教会が新しく生まれました。このペンテコステの日は何もかもが新しくなった日です。この新しい時代は約束されていた聖霊の注ぎによって始まりました。この素晴らしい出来事を、皆さんと一緒に分かち合いたいと思います。
 きょうは次の三つのポイントで話を進めます。

 ①新しく生まれ変わったペテロ
 ②新しい契約の時代の始まり
 ③霊的な目覚めが教会再生の鍵

①新しく生まれ変わったペテロ
 先ずはペテロに注目したいと思います。使徒の働き2章14節です。

使徒2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。」

 ペテロはエルサレムの人々の前で、堂々と演説を始めました。ここには新しいペテロがいます。かつてのペテロはイエス様が祭司長たちに捕らえられた時には、こそこそと人々の間に紛れ込んでイエス様の様子を見ていました。そうして、「この人も、イエスと一緒にいました」と言われると、ペテロは「いや、私はその人を知らない」と言いました。こうして、ペテロは三度もイエス様のことを「知らない」と言いました。

 そんなにもこそこそしていたペテロが、エルサレムの人々の前で堂々と声を張り上げて、演説を始めました。ペテロはまったく新しく生まれ変わりました。ペテロは聖霊が注がれたことで、力を受け、大きく変えられました。使徒の働き1章8節でイエス様はおっしゃいました。

使徒1:8 「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 そうして、このイエス様のことばの通りに五旬節の日に聖霊がペテロたちの上に臨みました。使徒2章1節と2節、

使徒2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。

 聖霊は天から降(くだ)って来ました。天におられる御父と御子イエス様が、地上にいるペテロたちに聖霊を遣わしました。イエス様が地上にいた時のペテロは強がっていましたが、心の内側は弱い者でした。しかし、聖霊がペテロの内に入った時、ペテロの内は強められて、エルサレムの人々の前で堂々と語る者へと変えられました。

 後にペテロは捕らえられて牢に入れられたりもしますが、聖霊が内から強めて下さっていましたから、へこたれることはありませんでした。これは、すごいことです。

 イエス様が地上にいた時のペテロたちはイエス様の教えによって、ある程度までは成長しました。けれども、その成長はある程度のところで止まっていました。それがイエス様が天に昇って、天から聖霊を遣わした途端に、弟子たちは一気に成長しました。

 去年から私は、植物を種や球根の段階から育てる楽しみを覚えました。種を蒔いても、あるいは球根を植えても、しばらくの間は芽が出ません。芽が出ても、しばらくの間はあまり大きくなりません。それが、ある時から急に大きく成長し始めます。

 芸術やスポーツ、武道や学問も同じですね。どれも皆、地道に基礎を学ぶ期間があって、その後でぐんぐん成長します。

 イエス様に育てられた弟子たちも、イエス様が地上にいた時は、地道に基礎を学ぶ期間でした。植物で言えばイエス様が種を蒔いたことで弟子たちの信仰の芽が出て、イエス様はその芽を見守りながら大切に育てていたという段階なのでしょう。弟子たちがぐんぐん成長を始めたのはイエス様が天に昇ってからでした。

 そうしてペテロは旧約の時代の預言者ヨエルのことばを力強く語りました。16節から18節、

16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。

 再び植物に例えるなら、旧約聖書を学びことは地面の中で根を張ることに当たるでしょう。植物は根をしっかりと張ることで上に向かって成長することができるようになります。芽が出ても、地上から上の部分はあまり成長しませんが、その間に植物は根を張って、根から水分と養分を吸収して上に伸びる準備をしています。

 私たちが旧約聖書を学ぶのも、そのためですね。旧約聖書を学ぶことで、信仰の根をしっかりと張ることができます。そうして天から聖霊の光を浴びることで、上に向かって成長し、花を咲かせ、次の世代への種を作ることができます。花が咲かなければ次の世代に信仰の種を残すことはできません。私たちはしっかりと根を張り、そしてその上で成長して花を咲かせることができるようになりたいと思います。そうすれば、次の世代への種を残すことができるでしょう。

②新しい契約の時代の始まり
 もうしばらくの間、根っこの部分の旧約聖書のことばに目を向けたいと思います。この新しい契約の時代の始まりは、エレミヤによって預言されていました。週報のp.2にエレミヤ書31章の31節から34節を載せましたから、そちらを見て下さい。まず31節、

エレミヤ31:31 見よ、その時代が来る──のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

 主は新しい時代が来て、新しい契約を結ぶと仰せられました。後の33節で明らかになりますが、この新しい契約とは聖霊の注ぎのことです。この新しい契約はモーセの時代に結ばれた契約とは異なりました。32節、

32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──のことば──。

 主はモーセを通してイスラエルの民に律法を授けました。そして、イスラエルの民は、「主の言われたことはすべて行います」と言いました。出エジプト記のその箇所を読みますから、聞いていて下さい。

出エジプト24:3 モーセは来て、のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「の言われたことはすべて行います。」
4 モーセはのすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛をに献げた。
6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。
7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「の言われたことはすべて行います。聞き従います。」
8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

 こうして、契約が結ばれました。それなのにイスラエルの民はその契約を破って律法を守りませんでした。それゆえ、エレミヤ31章33節、

33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 主は、一人一人の心に律法を書き記して下さいます。預言者モーセを通して間接的に与えられた律法では、守ることはできませんでしたから、主が直接、私たちの心に律法を書き記して下さいます。その律法を一つ挙げるとすれば、イエス様が最後の晩餐でおっしゃった、「互いに愛し合いなさい」ではないでしょうか。ヨハネ13章34節です。

ヨハネ13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 イエス様は新しい時代が始まるに当たって、新しい戒めを与えて下さいました。

③霊的な目覚めが教会再生の鍵
 エレミヤ31章の34節をまだ読んでいませんでしたから、お読みします。

34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 主は聖霊を通して直接、一人一人に主ご自身について教えて下さいますから、私たちは互いに「主を知れ」と言って教え合う必要はありません。

 主が預言者を通して間接的に教えるのではなく、聖霊を通して私たちに直接的に教えて下さるということは、これほどまでに素晴らしいことです。それもこれも、主が私たちの不義を赦し、もはや私たちの罪を思い起こさないからです。主はイエス様を十字架に付けることでイスラエルの民の不義、そして私たちの不義を赦して下さいました。イスラエルの民は律法を守らないという罪を犯しました。私たちもまた、イエス様を信じる前は、主に背を向けるという罪を犯していました。しかし、主はイエス様の十字架によって私たちの罪を赦して下さり、思い起こさずに、聖霊を与えて下さいます。

 ただし、主がいくら私たちの罪を思い起こさないとおっしゃって下さっていても、私たちの側では忘れてはいけません。自分がかつては罪人であったこと、罪人であったにも関わらず、罪を赦していただいた者であることを忘れてはいけません。私たちは赦された罪を肥料にして成長する必要があります。

 先ほど、旧約聖書を学ぶことは根をしっかりと張ることだと言いました。再度、植物のたとえを用いるなら、罪とは土に混ぜる肥料のようなものではないでしょうか。植物を育てるのに私は百円ショップの安い肥料を使っています。たった百円ですが、けっこうな量があるので、重宝しています。ただ、この肥料はちょっとにおいます。肥料は、こういうにおいがするもののほうが良く効くんでしょうか。いつの間にか全く見掛けなくなりましたが、私の子供の頃は、この静岡市にも肥溜めがたくさんあって、特有のにおいを発していました。

 人の罪も悪臭がします。でも、この悪臭のする罪が肥料になるのですね。イエス様の十字架は、罪を成長のための肥料に変えて下さいました。十字架は多くの物事を逆転させます。十字架の呪いは祝福となりました。十字架によって弱い者が強い者にされました。貧しい者が豊かになりました。高い者が低くされました。後の者が先になりました。そうして、悪臭のする罪もまた十字架の逆転によって豊かな肥料に変えられました。ですから私たちは過去の罪を肥料にして、上に向かって成長することができます。その成長のためには、聖霊の光を浴びる必要があります。

 イエス様を信じた自分には聖霊が注がれていることを自覚して、聖霊を通して聞こえる主の御声に耳を傾けながら歩むなら、上に向かって成長して、やがては花を咲かせ、種を作って次の世代に継承することができるでしょう。

 そのためには、まずはハッキリと霊に目覚める必要があるのだと思います。それが教会の再生のために必要なことではないでしょうか。

おわりに
 最後にもう一度、ペテロに戻りたいと思います。使徒2章14節で、

「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。」

と力強く語り始めたペテロは、33節でこう言いました。

33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。

 さらに36節でこう言いました。

36 「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 ペテロはこう言っていますが、ペテロ自身もイエス様を知らないと三度言いました。このペテロの罪も重い罪です。しかし、ペテロのこの罪もイエス様の十字架によって良い肥料となり、聖霊の力によって力強くイエス様を宣べ伝える者に変えられました。
 ペテロの力強いことばを聞いて人々は心を刺されました。37節と38節、

37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 こうして、この日、エルサレムの教会が誕生しました。41節、

41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

 人々が聖霊を受けたことでエルサレムの教会が新しく誕生しました。私たちの教会に限らず、いま多くの教会がかつての勢いを失っています。教会は新しく生まれ変わる必要があります。その再生の鍵は、聖霊の注ぎによって霊的に目覚めることでしょう。霊的な目覚めなしに教会がよみがえることはないでしょう。

 かつて罪人だった私たちには十分な肥料があります。すべてを逆転させる十字架は、呪いを祝福に、弱い者を強い者に変えて、私たちの罪もまた肥料に変えて下さいました。ですから肥料がたっぷりとある私たちは聖霊の光を浴びて成長し、花を咲かせて種を作り、次の世代へと信仰を継承して行きたいと思います。

 しばらく、お祈りする時を持ちましょう。
コメント

神学校の寮生活で分かるようになったこと(2021.5.16 礼拝)

2021-05-18 06:52:30 | 礼拝メッセージ
2021年5月16日BTC創立記念礼拝メッセージ
『神学校の寮生活で分かるようになったこと』
【ヨハネ19:25~27】

25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

はじめに
 明日の5月17日は私たちの教団の神学校の聖宣神学院の創立記念日です。英語の名称はBible Training Collegeですから、頭文字を取ってBTCとも呼ばれます。BTCは終戦から4年後の1949年に開校しましたから、今年で創立72年になります。

 BTCに限らず、いま多くの神学校では神学生の減少という問題を抱えています。神学生が少ないということは教会の牧師になる人材が少ないということです。牧師は減る一方で、常駐牧師がいない教会が増えることになります。当面は牧師が複数の教会を担当する兼牧でしのぐにしても、それにも限界がありますから、教会の数も牧師の減少に伴って減ることになるでしょう。

 どうして、こんなことになってしまっているのか、きょうは私自身の神学校での体験談も交えて、いま示されていることをお話したいと思います。

 きょうのメッセージは『神学校の寮生活で分かるようになったこと』というタイトルで、次の三つを話します。

 ①たった一つの鍵が人の心を縛る、まして…
 ②サタンは人々を「常識」に閉じ込めようと働く
 ③自分の常識に合わない他者を迫害させるサタン
 (互いに愛し合えない人々が母マリアを苦しめる)

①たった一つの鍵が人の心を縛る、まして…
 BTCの正規コースでは4年間を神学生として過ごします。他の神学校で学んだ経験や年齢、卒業後の働き方などで短縮される場合もありますが、一般の神学生であれば3年間を横浜のキャンパスで過ごして、最後の1年はインターン実習生として教会で過ごします。

 横浜のBTCでの3年間の寮生活で私は鍵を一つも持ち歩かない生活をしていました。これは貴重な経験でしたから、とても感謝しています。48歳でプライバシーのない大部屋での寮生活を若い神学生たちと始めましたから慣れるまで苦労しましたが、鍵を持たない生活を3年間できたことは、とても感謝に思っています。人はたった一本でも鍵を持ち歩くなら、その扉の中にあるものを守ろうとして、心が縛られてしまいます。自宅の鍵であれば家族や財産などを守ろうとして、職場の鍵であれば自分の社会的な地位などを守ろうとします。そのことがよく分かるようになりました。

 家族や財産、社会的な地位などを守ることは当たり前のことですから、もちろん悪いことではありません。でも、あまりに縛られすぎると、福音書の金持ちの青年のようにそちらに心が縛られてしまいます。

 思えばBTCに入学する前、外出する時の私のズボンのポケットには、いつも6本の鍵が入っていました。鍵の重さでポケットに穴が何度も開くほどでした。6本の内訳は、自宅の鍵が1本と職場の鍵が5本でした。職場の大学では二つの部局の教員を兼任していましたから鍵の数が増えました。映画などの趣味で外出する場合も、ついでに職場に寄ることがよくありましたから、いつも自宅と職場の6本の鍵を持ち歩いていました。

 しかし職場を退職して5本の鍵を返却して、また自宅のマンションも売却して鍵は新しい家主さんに渡しました。そうしてBTCの寮で鍵を一つも持たない生活を始めました。当時のBTCの男子寮では玄関を最後に出る者が鍵を掛けて所定の場所に置く決まりでしたから、鍵を持ち歩くことはありませんでした。

 そうして分かったことは、たった一本でも鍵を持っていれば、人はその中にあるものを守ろうとして、心がそちらに縛られるということでした。心がそちらに縛られるなら、その分だけ神様に心が向けられません。まして、5本も6本も持っていれば、神様に心を向ける余地はほとんど残っていません。鍵を6本も持ち歩いていた頃の私の心は、イエス様に心を向けることができなかった金持ちの青年のようになっていました。このことに、鍵を全部手離して初めて気付きました。一本でも鍵を持っていれば気付くことは無かったかもしれません。

 そのように鍵を持たない生活を三年間することで、人は実にいろいろなものに縛られながら生活していることが分かるようになりました。

 先週の礼拝メッセージでは、国際宇宙ステーションの話をしました。地球の周りを回る国際宇宙ステーションの中は重力から解放されていて物が上から下に落ちることはありませんから、宇宙飛行士たちは「上→下」に物が落ちる時の矢印の方向から自由になっています。一方、地上にいる私たちは「上→下」という矢印に縛られて生活しています。地上にいる私たちは物が上から下に落ちるのは当たり前の「常識」だと思い込んでいます。私たちはこういう、いろいろな「常識」に縛られて生活している、ということがBTCの寮生活を通して分かるようになりました。

②サタンは人々を「常識」に閉じ込めようと働く
 BTCでの生活では、サタンの働きもよく分かるようになりました。サタンは神様の近くにいる者を何とかして神様から引き離そうと努力します。鍵を手離した神学生は神様に近い場所で生活していますから、サタンは神学生を神様から引き離そうと全力で働きます。そういうわけで私は神学校の寮生活をする中で、サタンの働きについても、ある程度分かるようになりました。

 福音書に出て来る律法学者たちが律法に縛られていたのも、サタンの働きですね。律法学者たちにとっては、律法を守ることは当たり前の「常識」でした。彼らは、この「常識」に縛られていたので、安息日に病人を癒したイエス様を批判して、遂には捕らえて十字架に付けてしまいました。

 サタンは21世紀の私たちのことも、常識の中に閉じ込めようとします。例えば、神様はしばしば奇跡を起こして全能の力を示し、人々が神様を信じるように導いて下さいます。一方、サタンは奇跡によって人々が神様を信じることがないように、「常識」で対抗します。イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した時、海が二つに割れて、イスラエルの民は海の底を歩いて対岸まで渡りましたね。「海が二つに割れるなんて、そんなこと常識では有り得ないでしょう」とサタンは私たちの耳元でささやきます。「十字架で死んだイエスがよみがえるなんて常識的に有り得ないでしょう」とサタンは私たちの耳元でささやきます。


星出さん(左)と野口さん(右) 「きみはさかさまだ きみこそさかさまだ」

 きょうの週報に、先週使った星出さんと野口さんの写真をそのまま残しておきました。ロケットがまだ飛んでいなかった時代の人々にこの写真を見せて、「未来の世界では、こういう場所で生活している人もいるんですよ」と話した場合、大半の人はまず、左の星出さんが天井から逆さにぶらさがっていると考えるでしょう。それらの人々に、「逆さにぶらさがっているのではありません。この部屋の中では物が下に落ちることはありませんから、ここには上も下もありません」と話しても、理解はしてもらえないでしょう。きっと、「そんなの常識では有り得ない」と思うことでしょう。サタンは人々を「常識」に縛り付けることが得意ですから、それくらいのことは朝飯前でやってのけます。

 今回改めて私の神学校時代を振り返ってみて、良い面と悪い面とがあったと感じています。良い面は、先ほども話した、鍵を一つも持たない生活ができたことです。鍵を一つも持たない生活はかなり世間離れした生活です。そうして俗世間を離れて神様と向き合う生活ができたことは、とても感謝なことだったと思っています。

 悪い面は、多くの点で昔のやり方を踏襲していたことです。昔のやり方を踏襲していたから世間離れした生活ができましたから、それはそれで感謝なことでしたが、こんなことまで伝統を守らなくても良いのに、と思ったことがたくさんありました。昔の良かった面を残しつつ、変えて行くべき点は変えて行くべきだと、いつも思っていました。

③自分の常識に合わない他者を迫害させるサタン
(互いに愛し合えない人々が母マリアを苦しめる)
 今日の聖書箇所を見ます。ヨハネの福音書19章25節から27節までです。

25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 祭司長たちや律法学者たちはイエス様を捕らえて、ローマの総督のピラトの命令によってイエス様を十字架に付けることに成功しました。イエス様は安息日に病人を癒し、また罪人たちと食事を共にしていました。また、マタイの福音書の「山上の説教」からも分かるように、イエス様はそれまでとは異なる教えを説いていました。

 これらのどれもが祭司長たちや律法学者たちの「常識」には合わなかったのですね。そうして彼らはイエス様を十字架に付けてしまいました。これもまた、サタンの働きだと言えるでしょう。サタンは、自分の常識に合わない他者を迫害させる働きをします。

 そして、この十字架のそばには25節にあるように、母マリアがいました。十字架に付けられて一番苦しかったのは、もちろんイエス様でしたが、母のマリアも同じくらいに苦しかったことでしょう。イエス様はマリアの胎に宿り、マリアが産みました。その我が子が目の前で苦しんでいる様子を見たマリアも、イエス様と同じくらいに苦しかったことでしょう。この苦しみのことはシメオンによって預言されていました。ルカの福音書2章の34節と35節です。

ルカ2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 そして、ヨハネ19章の26節と27節には、イエス様が愛した弟子、すなわちこの福音書の記者のヨハネが、マリアを自分のところに引き取ったことが書かれています。ということは、ヨハネは十字架以降、そしてペンテコステの日以降においても、母マリアが苦しむ様子を間近で見ていたということです。

 使徒の働きによれば、ペテロやヨハネたちなどのイエス様の弟子たちは、ユダヤ人たちから迫害されて牢に入れられたりしていました。12弟子以外も迫害を受けていました。

 例えば、使徒の働き7章には、ステパノがユダヤ人たちに石で打たれて死んだ場面が描かれていますね。

使徒7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。

 これらの弟子たちへの迫害はイエス様ご自身が迫害されているのと同じことですから、母のマリアにとって、どんなに苦しいことだったでしょうか。イエス様は人々の罪を赦して永遠の命を与え、世に平安をもたらすために十字架で死にました。しかし、イエス様が十字架で死んだ後も、今度は弟子たちが迫害を受けていました。マリアはどんなに苦しかったことでしょうか。

 ステパノが迫害に遭ったのは十字架から3年後ぐらいと考えられますから、この時に母マリアがまだ生きていたかどうかは分かりません。しかし、もし生きていたら、ステパノが石打ちで殺されたショックで母マリアが死んでしまってもおかしくないくらいに、彼女にとってはショッキングなことではなかったでしょうか。

 しかも、旧来のユダヤ教との対立だけではなく、キリスト教会の内部でも対立がありました。特にユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間の対立は深刻でした。その頃に母マリアが生きていたかいないかに関わらず、キリスト教会内部の対立もまた間違いなく母マリアを苦しめる類のものです。新約聖書にはいたるところに、互いに愛し合うべきことや、一致すべきこと、一つになるべきことが書かれていますね。これは、教会の人々がいかに互いに愛し合うことができず、一つになることができていなかったかを、よく示していると言えます。

 ヨハネも第一の手紙に書いていますね。第一ヨハネ4章11節です。

Ⅰヨハネ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 或いはまた、パウロは党派心や分裂・分派の罪についても書いています。第一コリント3章4節、

Ⅰコリント3:4 ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

 キリスト教会は、こういう内部対立をなかなか乗り越えられないで来たと感じます。神学校についても同じです。旧き良き時代のままで良いと考える立場と、変えるべきと考える立場との間で対立があります。旧き良き時代の良さも分かりますが、私は変えるべきという立場です。なぜかと言うと、先週も話したように、2000年の11月に国際宇宙ステーションの常時運用が始まって、21世紀はいつでも誰かが必ず宇宙に滞在している時代だからです(5月9日礼拝メッセージ「生まれた時には宇宙に人がいた世代への伝道」参照)。その21世紀に、ガガーリン以前のやり方にこだわるなら、行き詰まってしまうのではないかと思います。

 しかし、変化を試みる時には必ず、それまでのやり方を愛していた人々との間で対立が生じます。この点が、キリスト教会二千年の歴史の中で未だに克服できていない点であると感じます。

 先ほどの星出さんと野口さんの写真は野口さんが国際宇宙ステーションを離れる少し前のツイッターへの投稿ですが、こんな言葉が添えられています。

「きみはさかさまだ きみこそさかさまだ」

 二人は喧嘩をしているわけではありませんから、もちろん冗談ですが、とても考えさせられる言葉だと思います。無重力の状態では上も下もありませんから、どちらも基準になりません。

 場合にもよると思いますが、キリスト教会の内部対立も、これと似ている面もあるのかもしれません。神様という大きな存在に包まれている中では、人間の意見のどちらが正しいとか正しくないとかは無いのかもしれません。イエス様を信じていないのなら別ですが、どちらもイエス様を信じているなら、どちらも正しいのかもしれません。

 キリスト教のカトリックとプロテスタントの対立も、このようなものなのかもしれません。「君は間違っている。君こそ間違っている」と対立することは無重力の中で「君は逆さまだ。君こそ逆さまだ」と言い合うようなことなのかもしれません。大切なことは、対立を乗り越えて互いに愛し合うことではないでしょうか。

 キリスト教の歴史をさらにさかのぼるならば、カトリックとプロテスタントの分裂の前には東方教会と西方教会への分裂がありました。東方教会とは東のロシア正教やギリシャ正教などの教会で、西方教会とは西のカトリック教会です。キリスト教の歴史は対立と分裂の歴史でもありました。それもこれも、もしかしたら「君は逆さまだ。君こそ逆さまだ」と言い合っているようなもので、神様の目から見れば、どっちもどっちなのかもしれません。

おわりに
  最後は東方と西方の分裂という少し大きな話になってしまいましたが、小さな個々の教会の内部にも対立があり、イエス様はこのような対立を悲しんでおられ、またそのような対立は母マリアをも苦しめるものであることを、きょうのヨハネ19章の聖書箇所は示唆しています。

 母マリアを自分のところに引き取ったヨハネは、マリアの悲しむ姿をいつも見ていたのだろうと思います。ヨハネの手紙第一4章11節のみことばを、今一度かみしめたいと思います。

Ⅰヨハネ4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 イエス様を信じる者たち同士の考え方の違いは無重力の中のそれぞれの向きの違いのようなもので、どちらが正しいというものではない。そのように考えるなら互いに愛し合えるようになり、対立を乗り越えて行くことも可能でしょう。そうすれば個々の教会が祝され、各教会からは多くの神学生が送り出されて、神学校も祝されます。そのような時が、いつかまた必ず来ます。その時が早く来るように祈っていたいと思います。

 しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

生まれた時には宇宙に人がいた世代への伝道(2021.5.9 礼拝)

2021-05-10 08:27:25 | 礼拝メッセージ
2021年5月9日礼拝メッセージ
『生まれた時には宇宙に人がいた世代への伝道』
【列王記第一17:7~10、列王記第二4:42~44】

はじめに
 イースターからペンテコステまでの7週間、今年私はこの7週間を一昨年と昨年に比べればゆっくりと思いを巡らす時がいただけています。二千年前のペンテコステの日、それまでとは異なり、イエス・キリストを信じた者には誰でも聖霊が注がれるという画期的に新しい出来事が起きました。この新しいことが起きたペンテコステの日に向けて思いを巡らす日がいただけていることを、とても感謝に思っています。

 2年前のこの時期は、この教会に着任して間もない時でしたから、いろいろ慣れないことも多く、また役所の手続きも、それまでの二年間常駐牧師がいなかったことで手こずっていました。荷物の整理も進まず、落ち着かない日々を過ごしていました。

 去年は一昨年より、もっと大変でした。新型コロナウイルスの感染が拡大する中、緊急事態宣言が静岡県にも発令されて、戸惑うことばかりでした。試行錯誤でライブ配信を何とか始めましたが、配信が礼拝の途中で中断するトラブルもありました。N兄とS兄の病状が良くなかったことも気に掛かっていました。特にN兄は天に召される時が近づいていましたから、昨年のイースターからペンテコステまでの7週間にゆっくり思いを巡らすことがほとんどできませんでした。

 今年は一昨年と昨年に比べれば、ゆっくり過ごせています。母のケアや町内の自治会の役員になったことの忙しさはありますが、親孝行や地域のために働けることを感謝に思っています。自治会の役員の間の文書のやり取りでは、町内の80歳以上の方のお名前のリストも届きました。今年の9月の敬老会でお弁当を配るために必要なリストだそうですが125名いて、何班何組の誰々さんというお名前のリストを見ていると、地域のご高齢の方々のためにも祈らなければならないと思わされます。また、自治会の課題としては、若い方にもっと自治会活動に参加してもらえるようにするには、どうしたら良いかという問題があります。

 教会と同じですね。教会もご高齢の方々のためにお祈りしていますし、若い方々が少ないことが問題になっています。そんな中、キリスト教系学校の奨励日が4月18日と25日にあって、高校生と中学生の生徒がそれぞれ礼拝と教会学校に出席しました。今、その学校のクリスチャンの生徒は非常に少ないそうです。昔は生徒の多くがクリスチャンで、洗礼を受けていない生徒のほうが少なかったそうです。

 どうして、今の時代はこんなにもクリスチャンの若者が少ないのでしょうか?考えてみると、当たり前のことかもしれません。若者は新しいものに憧れます。明治維新や76年前の終戦後の日本で多くの若者たちが教会に押し寄せたのは、世の中が大きく動いている中でキリスト教が日本人に新鮮な魅力を提供できていたからではないかと思います。

 一方、21世紀の現代では世の中の激しい動きにキリスト教は置いて行かれているような感があります。「それで良いのだ」、「それが良いのだ」と考えるクリスチャンの方も多いかもしれません。ヘブル書には「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(ヘブル13:8)と書いてありますから、昔も今も変わらないイエス様を宣べ伝えれば良いのかもしれません。

 しかし、実はキリスト教には新しい魅力を発信できる余地がまだたくさんあります。変化が激しい現代においても新鮮な魅力を発信できるなら、若い人たちは必ず興味を示すはずです。2千年前のペンテコステの日、それまでとは全く異なる新しいことが始まりました。そのペンテコステの日に向かっている今、2千年後の現代においても主は新しいことを起こして下さり、若い方々の内が燃えるようにして下さると私は固く信じています。きょうは、そのことを次の三つの順番で話して行きます(週報p.2)。

 ①慣れれば「上→下」の物の落下の矢から解放される
 ②慣れれば「過去→未来」の時間の矢からも解放される
 ③現実を離れて不思議な世界に入る感覚の魅力と平安

①慣れれば「上→下」の物の落下の矢から解放される
 きょうのメッセージでは、主に若者への伝道を考えますが、これは年配の方々のことを考えていないわけではありません。例えば13年前の2008年にスマホのiPhone、その1年後の2009年にAndroidのスマホが発売された時、買い求めた人の多くは若者でした。それが今は年配者の多くもスマホを使っています。きょう話すことも、同じだろうと思います。新しいことが大きな規模で起きる時、たいていは先ず若い人々の間で始まり、それが年配の方々へも波及していきます。

 先週の5月2日の日曜日に、日本人宇宙飛行士の野口聡一さんが約半年間の国際宇宙ステーションでの長期滞在を終えて帰って来ましたね。国際宇宙ステーションでの宇宙飛行士の長期滞在は20年半前の2000年11月から始まり、現在に至るまで常時必ず人がそこにいます。ということは、今の20歳以下の若者が生まれた時には、いつも人が宇宙にいました。この点で今の20歳以下の若者は私たちとは全く違うのだということを、まず覚えておきたいと思います。しかも今は国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士たちはインターネットを活用して自由に発信していて、私たちはそれをいつでも手軽に見ることができます。

 人類の宇宙飛行は60年前のソ連のガガーリンから始まり、2000年11月までの約40年間は、宇宙には人が途切れ途切れの期間にしかいませんでした。ソ連(ロシア)のミールでの長期滞在がありましたから、20世紀の終盤は途切れていた期間が短かったかもしれませんが、それでも常に人が宇宙にいたわけではありませんでした。しかし2000年の11月以降は常に人が宇宙にいます。

 また20世紀の頃の私たちは、宇宙飛行士の様子の映像を見る手段はテレビしかありませんでした。ですから、せいぜい1年に1回か2回程度しか、その様子を見ることができませんでした。それが現代では宇宙飛行士がこまめにツイッターやYoutubeで発信してくれていますから、毎日のように宇宙からの新しい写真や動画を見ることができます。



 例えば、これは野口聡一さんが先月の4月に発信したツイッターの写真で、一つめは国際宇宙ステーションから見た西日本です。左側に九州が大きく写っていて、四国や中国地方、それに紀伊半島も見えます。



 そして二つめの写真は、4月の終わりに星出さんたちが国際宇宙ステーションに到着した時の歓迎会の様子です。真ん中の辺りに果物や何かのビン、食べ物類が浮いているのが見えます。つまりここは無重力の状態にあります。ここにいる11人の頭が皆、上の方を向いていますからこっちが上と勘違いするかもしれませんが、無重力では上も下もありません。三つめは星出さんと野口さんの写真ですが、この二人のどちらも上ではありません。無重力では物が落ちませんから、上も下もありません。



 この三つめの様な写真をたまにしか見ないと奇妙に感じますが、毎日のように見ていれば、慣れます。そして、無重力への想像力も働くようになります。上も下もない無重力の世界とはどのような感じなのか、毎日このような写真や動画を見ていると想像力が働くようになります。これは「慣れ」の問題です。慣れてしまうと、物は上から下に落ちるという常識から解放されます。

 今の若い人は子供の頃から、インターネットで国際宇宙ステーションからの無重力の映像を見慣れていると思いますから、「上→下」という固定観念から解放されている人は意外と多いかもしれません。たとえ、まだ解放されていなくても若いですから、これらの映像にすぐに慣れます。

②慣れれば「過去→未来」の時間の矢からも解放される
 さて、ここからが本題です。私は物が落ちる方向の「上→下」という矢印から解放されるのと同じ様に、聖書の読者には「過去→未来」の時間の矢印からも解放されてほしいと願っています。これも「慣れ」の問題です。私はイエス様が「過去→未来」の時間の流れから解放されている様子をここ10年の間、いつも思い巡らしていますから、すっかり慣れています。そうして、時間の流れから解放されることで得られる平安の恵みをいただいています。時間の流れから解放されると、重力から解放されるのと同じように、心の平安が得られます。

 宇宙飛行士ではない私たちは無重力を味わう機会はほとんどありませんが、お風呂やプールでプカプカ浮くことで重力から解放される恵みを少しは感じることができますね。スーパー銭湯などで体を半分浮かせてリラックスしている時、とても平安な心持ちになります。時間の流れから解放される恵みも、これと似て、とても平安な心持ちになります。時間の流れからの解放は「慣れ」の問題で、慣れれば深い平安が得られます。

 例えば、週報p.2に載せたヨハネ1:30をご覧ください。これは、バプテスマのヨハネのことばです。バプテスマのヨハネはこう言いました。

ヨハネ1:30 「私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです」と私が言ったのは、この方のことです。

 バプテスマのヨハネの後に来る方とは、もちろんイエス様のことですね。そのイエス様はバプテスマのヨハネよりも先におられました。イエス様は創世記1章の天地創造の時から既に天の御父と共にいて、この世のすべてのものを造りました。そうして地上に遣わされる前の、旧約の時代に天にいたイエス様は、新約の時代と同じように、御父と一緒に聖霊を預言者たちに遣わしていました。つまり聖霊を受けた預言者たちが語った天の父のことばは、天のイエス様のことばでもあった、ということです。

 きょうの聖書箇所に登場する預言者のエリヤやエリシャの内には、イエス様がいました。列王記第一17章7節から10節までをご一緒に見ましょう(旧約p.631)。7節をお読みします。

列王記17:7 しかし、しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。

 エリヤは北王国の預言者です。この時、北王国では雨が降らない日が続いていて乾いていました。8節と9節、

8 すると、彼に次のような主のことばがあった。
9 「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 エリヤが主のことばをこんなにもハッキリと聞けたのは、聖霊が内にいたからです。つまりエリヤの内にはイエス様がいました。そうしてエリヤはツァレファテのやもめに会いました。10節、

10 彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪(たきぎ)を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」

 この時のエリヤは、とても喉が渇いていました。またお腹もすいていました。そのエリヤにやもめは水を飲ませて、さらにパン菓子も与えました。このやもめは「靴屋のマルチン」と同じですね。

 靴屋のマルチンは寒い冬の日に、外で凍えていたおじいさんに暖かいお茶を飲ませ、空腹でお乳が出なかった若い母親に食べ物を与えました。そして、このおじいさんと若い母親はイエス様でした。同じようにツァレファテのやもめは、喉が渇いてお腹をすかせていたエリヤに水とパン菓子を与えました。このエリヤはイエス様でした。

 週報p.2のヨハネ4章7節のイエス様からは、このエリヤの中のイエス様が見えて来ます。ヨハネ4章7節、

ヨハネ4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

 サマリア地方はかつて北王国があった地域です。イエス様は北にいて、「わたしに水を飲ませてください」とサマリアの女にエリヤと同じことを言いました。このイエス様の姿からエリヤが見えて来ます。

 ヨハネの福音書には、このようにイエス様から旧約の時代の預言者の姿が見えて来る箇所がたくさんあります。もう一箇所、エリシャの箇所も見ることにします。エリシャもまた北王国の預言者でした。列王記第二4章の42章から44節までです(旧約p.656)。42節にあるパンはただのパンではなく、「大麦のパン」であることを、覚えておいて下さい。

列王記第二4:42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」
44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。

 42節には「大麦のパン」20個とあります。そして召使いは43節で、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言いました。しかしエリシャは言いました。「彼らは食べて残すだろう」。そうして、その通りになりました。これは週報p.2に載せたヨハネ6章9節と10節の状況と同じですね。ヨハネ6章9節と10節、

ヨハネ6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」 ・・・その数はおよそ五千人であった。

 この時、イエス様は北のガリラヤ地方にいて、エリシャのように少しの「大麦のパン」で大勢の人のお腹を満腹にしました。そして、パンが余りましたから、弟子たちが食べ残されたパンを集めました。このヨハネ6章のイエス様からはエリシャが見えて来ます。

③現実を離れて不思議な世界に入る感覚の魅力と平安
 ヨハネ4章と6章からはエリヤとエリシャが見えて来ます。他の章からは他の預言者たちの姿が見えて来ます。この不思議な感覚の恵みを、ぜひ多くの方々と分かち合いたいと思います。

 この不思議な感覚を例えるなら、こんな例え方はどうでしょうか。

 皆さんは鉄道の駅のホームに止まっている電車の中に座っていて、窓から隣の線路に止まっている電車を見ているとします。すると、自分の乗っている電車が、これまでとは逆方向にゆっくりと動き始めました。逆方向に動き出したので変だなと思っていたら、実は隣の電車が動いていたのでした。こういう経験をしたことがある方も多いのではないでしょうか。これまでと逆方向に自分が進んでいると感じている時、とても不思議な感覚になります。一瞬、別世界に行ったような感覚になります。これは決して嫌な感覚ではなく、ほんのわずかの間でも現実から離れられた心地良さがあるように思います。この世の現実の世界ではつらく苦しいことが多いですが、ほんのわずかの間でも現実を離れると、心が軽くなるような気がします。

 同じようにヨハネの福音書のイエス様が時間をさかのぼってエリヤやエリシャの時代に戻って行くことを感じる時、不思議な感覚になります。それは現実では時間がさかのぼることは絶対にないからです。そうしてイエス様と共に現実を離れることで、心が軽くなります。

 この不思議な感覚は国際宇宙ステーションの無重力の映像を見る時の不思議な感覚に似ているかもしれません。私たちが住んでいる地上では、手に持っている物を放せば、すぐにストンと上から下に落ちます。でも国際宇宙ステーションではふわふわと浮いていて、下から上の方向にも動きます。この動きはとてもゆっくりしていて、時間の流れ方もゆっくりですから、心が癒されます。

 地上にいる私たちの時間はとても早く進みます。1日があっという間に過ぎてしまいます。ですから心が落ち着きません。でも、国際宇宙ステーションの中ではあらゆる物がふわふわと浮きながらゆっくりと動いていますから、とても心が癒されます。

 ヨハネの福音書を読む時に、イエス様の姿にエリヤやエリシャの姿もまた見えるようになるなら、時間の流れが現実とは逆の方向にゆっくりと動くことを感じますから、とても不思議な感覚が味わえて、心もまた癒されます。

おわりに
 今月の教団の教報に、教団の神学校の72年の歴史の中で神学生の数が最も少ない状況にあることが書かれていました。また同じ教報の海外トピックス欄では、アメリカで「教会に属する人」の割合が初めて50%を下回ったことも報告されていました。キリスト教会からの人離れが進んでいるのですね。それほどまでに人々が聖書に魅力を感じていないということです。

 でも、きょう話したように、聖書にはまだ気付かれていない新鮮な魅力が隠されています。無重力では物が上→下に落ちる方向の矢から解放されているように、私たち聖書の読者が過去→未来に流れる時間の矢から解放されるなら、忙しい日常を離れて心の平安を得ることができます。そうして、イエス様が与えて下さる平安に包まれることで、お風呂のお湯にどっぷりと浸かっているように、また無重力の中にいるように重荷が取り去られます。

 聖書の世界の中にどっぷりと浸かるなら、重荷が取り去られて、まるで無重力の中にいるような感覚が味わえることを若い人々の多くはまだ知りません。聖書を読むことで宇宙旅行をするような新鮮な感動を味わえることを、若い世代の人々に是非とも知ってもらいたいと思います。そうすれば、教会にも人が戻り、神学校にも神学生が戻るでしょう。

 この新しいことは、必ず起きます。でも、いつ起きるのかは分かりません。できれば早い機会に起きて欲しいなと思います。

 そうして、皆さんと共にイエス様が与えて下さる深い平安の恵みに浸りたいと思います。
コメント

復活したイエスのパウロへの強烈な顕現(2021.5.2 礼拝)

2021-05-04 09:04:04 | 礼拝メッセージ
2021年5月2日礼拝メッセージ
『復活したイエスのパウロへの強烈な顕現』
【使徒の働き26章12~20節】

はじめに
 先週は復活したイエス様がエマオへ向かう二人の弟子に現れた箇所を開きました。二人の弟子はその日にあった出来事について話し合っていました。そこにイエス様が近づいて来て彼らと共に歩き始めて、「その話は何のことですか?」と二人に聞きました。このイエス様の現れ方は、きょうのパウロの場合と比べると、かなり柔らかい現れ方でした。パウロの場合はパウロの目が見えなくなるほど強烈なものでした。このイエス様のパウロへの強烈な現れ方は、エマオへ向かう二人の弟子に現れた時とは対照的な現れ方ですから、きょうはこのことについて考えてみたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントでイエス様がパウロに強烈な形で現れたことを見ることにします。

 ①異邦人伝道にどうしても必要な人材だったパウロ
 ②力を振るうパウロを屈服させた主の圧倒的な顕現
 ③パウロへのイエスの顕現を信じてイエスを信じる

①異邦人伝道にどうしても必要な人材だったパウロ
 始めに、イエス様がパウロに現れた場面を確認しておきたいと思います。使徒の働きには、イエス様がパウロに現れた場面が3つも記されています。一つめは使徒9章で、これは客観的な形で書かれています。そして22章と26章にはパウロ自身による証言の形で書かれています。きょう26章を開くことにしたのは、他の2箇所よりもコンパクトにまとまっていて、分かりやすいと思ったからです。

 26章でパウロはカイサリアにいました。この約2年前にパウロはエルサレムで捕らえられました。それから、このカイサリアに送られて、囚人として2年間を過ごしていました。そして、27章の1節に「私たちが船でイタリアへ行くことが決まった」とありますから、パウロとルカたちは、27章でローマに向かいます。26章はその直前の場面です。
 26章の1節から見て行きます。

使徒26:1 アグリッパはパウロに向かって、「自分のことを話してよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し出して弁明し始めた。

 この時、アグリッパ王がカイサリアに来ていました。アグリッパ王というのはヘロデ大王のひ孫です。ヘロデ大王はイエス様が生まれた時に「2歳以下の男の子は皆殺せ」と命令したユダヤの王です。アグリッパはそのヘロデ大王のひ孫でした。パウロはアグリッパに「自分のことを話してよろしい」と言われて話し始めました。2節、

2 「アグリッパ王よ。私がユダヤ人たちに訴えられているすべてのことについて、今日、王様の前で弁明できることを幸いに思います。」

 そうしてパウロは復活したイエス様が自分に現れた時のことを話しました。その時、パウロはイエス様を信じる者たちを激しく迫害していました。9節から11節、

9 実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。
10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。
11 そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名(みな)を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。

 そうしてパウロは祭司長たちから権限と委任を受けてダマスコへ向かいました。すると13節と14節、

13 その途中のこと、王様、真昼に私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と私に同行していた者たちの周りを照らしました。
14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

 この時のイエス様の現れ方は、皆が地に倒れるほど強烈でした。そしてイエス様はパウロに言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」イエス様を信じた弟子たちの中にはイエス様がいましたから、サウロはイエス様を迫害していたのでした。「とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」とは、当時は農耕用の牛を飼いならすのに、とげの付いた棒を用いていたことから来ているようです。この時、パウロはイエス様に屈服させられて、主人に仕える牛のように、イエス様に仕える者とされました。15節と16節、

15 私が『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
16 起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

 イエス様はパウロに現れて、この強烈な体験の証人になるように言いました。そして17節と18節、

17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。
18 それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。』

 このようにイエス様はパウロに、これからすべき役割を与えました。こういうわけで19節と20節、

19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、
20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。

 こうしてパウロは、ユダヤ人だけでなく異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。パウロは、地域的にヨーロッパ方面にまで伝道の範囲を広げたということだけでなく、割礼派の人々と激しく戦った点で大きな働きがありました。

 割礼派の人々とは、異邦人もユダヤ人と同じように律法を守って割礼を受けなければ救われないと主張していた人々のことです。単にイエス・キリストを信じるだけでは救われず、律法を守る必要があると主張していました。しかしパウロは、人はイエス・キリストを信じる信仰によって神様に義と認められるのであって、律法の行いによっては救われないと主張して反論しました。かつてはクリスチャンを激しく迫害していたパウロの激しさをイエス様は用いたということなのでしょう。

 異邦人も律法を守らなければ救われないということであれば、キリスト教が広く世界に広がることは無かったでしょう。この点において、パウロはキリスト教伝道にどうしても必要な人材でした、それゆえに強烈な方法で回心へと導かれたのではないでしょうか。

②力を振るうパウロを屈服させた主の圧倒的な顕現
 パウロの考え方、すなわち律法を守らなくてもイエス・キリストを信じさえすれば神様に義と認められるという考え方は、当時のユダヤ人たちにとっては、とうてい受け入れがたい過激な考え方でした。しかし、パウロは一切妥協しないで、この過激な考えを主張し貫きました。ガラテヤ人への手紙2章16節でパウロはこのように書いています(週報p.2)。

ガラテヤ2:16 人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

 ユダヤ人にとっては律法を行うことで神様に義と認められることは、あまりにも当たり前のことで疑う余地のないことだったでしょう。かつてイスラエルの北王国と南王国は律法を守らなかったために、滅ぼされてしまい、人々は捕囚として外国に引かれて行ってしまいました。その祖先の苦い経験がありましたから、ユダヤ人にとっては律法を守るべきことは当たり前のことでした。それゆえ異邦人も当然律法を守るべきだと考えました。しかし、パウロはそれをくつがえしました。ガラテヤ2:16でパウロは「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められる」と書きました。

 パウロは神の大きさの前では人の行いなど小さ過ぎて無いに等しいことをよく知っていました。それはパウロがそのことをダマスコ途上でのイエス様の圧倒的な顕現によって嫌と言うほど思い知らされたからではないでしょうか。ダマスコ途上でイエス様と出会ったパウロはそれから3日間、目が見えなくなってしまいました。それゆえパウロは人々に手を引かれてダマスコに入りました。それまで目がよく見えていた人が急に視力を失ったら、まったくの無力になります。パウロは見えなくなる直前までは力に頼る人でした。イエス様を信じる者たちを暴力的な方法で捕らえて迫害していました。そのための権限を祭司長たちから与えられて暴力をふるっていました。そんなパウロでしたが、突然目が見えなくなったことで、まったくの無力になってしまいました。

 そうして、イエス様に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」と語り掛けられました。とげの付いた棒とは、先ほども言ったように、農耕用の牛を飼いならすために用いる棒だそうです。まだ飼いならされていない牛は主人に抵抗して蹴ろうとしますが、牛はかえって痛い思いをします。

 イエス様を信じる者たちを迫害していた頃のパウロは、まだ飼いならされていない暴れ牛だったということでしょう。パウロは圧倒的な力を持つイエス・キリストの力にねじ伏せられて、屈服させられました。パウロは全面降伏するしかありませんでした。そうして、パウロはイエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられました。
 
③パウロへのイエスの顕現を信じてイエスを信じる
 今回、イエス様が暴れ牛のパウロをねじ伏せるようにして圧倒的な現れ方をしたことを改めて思い巡らしていて、もしイエス様のパウロへの現れ方がエマオへ向かう弟子たちに現れた時のようなマイルドなものだったら、仮にイエス様を信じたとしてもパウロもまた割礼派になっていたのではないかと思いました。

 しかしパウロは人間の小さな行いなど神様の御前ではゼロに等しい全くの無力なものなのだということを思い知らされて、律法の行いでは決して救われないことが分かったのだろうと思いました。

 そうしてパウロは、ダマスコ途上でのイエス様との強烈な出会いを人々に証し続けました。それはルカの心にも深く刻み込まれました。ルカが使徒の働きに三度もパウロのこの強烈な体験を書いたのも、それゆえでしょう。もしかしたらルカはパウロが語ったこの体験を通してルカ自身もイエス様と出会い、イエス様を信じたのかもしれません。

 かく言う私が正にそうでした。私はパウロの証言を信じることでイエス様を信じました。私の信仰は福音書のイエス様を信じることで始まったわけではなくパウロの証言したイエス様を信じたことで始まりました。それを神様は義と認めて下さったのだろうと思っています。私が福音書のイエス様に親しみを感じるようになったのはずっと後のことで、私はパウロを通してイエス様に出会いました。

 以前も話したことがありますが、20年前の2001年の8月に私が初めて高津教会を訪れた日は、藤本先生によるガラテヤ人への手紙の講解説教の初日でした。その説教で藤本先生は、信仰に熱心になればなるほど逆に神様から離れることがあるという逆説を語りました。ユダヤ人たちは熱心に信仰に励んでいました。それはとても尊いことです。しかし熱心になり過ぎて、律法を守ることに熱心になり、形式主義的になっていました。そういう形式主義に陥ると、神様から離れてしまうことになります。

 現代のキリスト教会においても同様です。礼拝に出席することはもちろん大切ですが、それをあまりに重視しすぎると、礼拝に出席しさえすれば良いという形式主義に陥ってしまいます。それでは礼拝はつまらないものになってしまい、神様からも離れていってしまいます。

 このように信仰に熱心になればなるほど逆に神様から離れてしまうことがあるという逆説に興味を持った私は、次の週も礼拝に行って、ガラテヤ人への手紙の説教の続きを聞くことにしました。そうして次の週に語られたのが、イエス様がパウロに強烈な形で現れたダマスコ途上の出来事でした。パウロはこの強烈な体験によって、イエス様の弟子たちを迫害する者から、イエス様を宣べ伝える者に変えられたという話を聞きました。そして私は、その話を素直に信じました。

 人の人生が180度変わるなどということは、滅多にあることではありません。もしあるとしたら、よほどの出来事が必要です。そのよほどの出来事が、パウロにとっては復活したイエス・キリストとの強烈な出会いであったということを、私は素直に信じました。

 ですから私はイエス・キリストの復活も、パウロを通して信じました。パウロという一人の人の人生が大きく変えられた、その直接の原因が復活したイエス・キリストとの出会いであったというのなら、それは信じるよりほかないだろうと思います。

 復活のような科学的ではないことは信じられないという話をよく聞きます。では科学的なことなら何でも簡単に信じられるでしょうか?皆さんは、海の潮の満ち引き、満潮と干潮がどうして起きるか知っていますか?それは海水が月の引力に引っ張られているからです。月に面している方の海水は月に引っ張られているから満潮になります。ということは、私たちの体も月に引っ張られているということです。その引力に私たちは気付いていませんが、実は海の水を引っ張り上げるほどに大きな力です。そして私たちの体も、地球からずっと遠くに離れている月に引っ張られています。とても信じがたいことですが、科学ではそういうことになっています。

 こういう信じがたいこと、すなわち私たちの体も海水と同じように月に引っ張られていることが信じられるなら、パウロの人生を大きく変えた復活したイエス様との出会いを信じても少しもおかしくないだろうと思います。

 21世紀の私でも聖書に書かれているパウロの証言を通してイエス様の復活を信じましたから、1世紀にパウロから直接証言を聞いた人々はもっと心を動かされて、多くの異邦人たちがイエス様の復活を信じたことと思います。ただし、律法に縛られていたユダヤ人たちはイエス様が神の子キリストであることを、なかなか信じようとしませんでしたから、パウロはそのことを嘆いていました。ユダヤ人たちの多くは律法に縛られていて、律法から自由になっていたパウロのことばを信じることができないでいました。

おわりに
 最後に、パウロに強烈な形で現れたイエス様は、私たちについては、どう思ってらっしゃるのか?ということを考えたいと思います。

 イエス様はエマオへ向かう二人の弟子にソフトな形で現れました。しかし、パウロに対しては強烈な形で現れました。イエス様は本当に必要な時には、このような強烈な形で現れるのですね。

 イエス様は大抵の場合は柔らかい形で私たちに近づきます。この会堂の入口の上にある絵にあるように、イエス様は私たちの心の扉を叩いて下さいました。イエス様はほとんどの場合、こういうソフトな形で私たちに近づいて下さいます。しかし、パウロの場合には、もっと乱暴に扉を叩き壊して中にいるパウロを強引に外に引きずり出して、屈服させました。暴れ牛をとげの付いた棒で飼いならすような手荒い方法でイエス様はパウロに全面降伏を強いました。それは、イエス様にとってパウロがどうしても必要な人材だったからです。イエス様はパウロをどうしても必要としていましたから、手荒い方法でパウロを屈服させました。

 では、イエス様は私たちのことは、どうしても必要としてはいないのでしょうか?イエス様は私たちの前にはパウロの時のような強烈な現れ方をしませんでした。私たちはイエス様にとっては、どうでも良い存在なのでしょうか?

 そんな筈はありませんね。イエス様は私たちの一人一人の皆を、必要としておられます。そのためには、パウロがどうしても必要でした。パウロを通して私たちを信仰に導くために、パウロがどうしても必要でした。

 もしパウロの回心がなければ、パウロとルカとの出会いもありませんでしたから、ルカの福音書も使徒の働きも書かれませんでした。新約聖書にはパウロの手紙が13通も収められています。もし新約聖書にパウロの手紙が載っておらず、ルカの福音書も使徒の働きも載っていなければ、どれだけの人が信仰に導かれたでしょうか?ぜんぜんいないことはないにしても、遥かに少なかったことだけは確かです。私自身もパウロのガラテヤ人への手紙で信仰に導かれましたから、パウロがいなければ信仰を持つことはなかったでしょう。

 イエス様は私たち一人一人の全員を必要としておられます。そのためには、どうしてもパウロが必要でした。じゃあ、私たちの一人一人もパウロのように強引に屈服させればいいじゃないかと思う方もいるかもしれません。しかし、イエス様はそのようなことは望んでおられません。一人一人がイエス様のノックの音に応答することを望んでおられます。パウロのように強引にイエス様の側に引き込むことは最小限にとどめるべきです。パウロはそのために選ばれた器でした。イエス様が私たちのためにパウロを召し出して下さったことに、心から感謝したいと思います。

 締めくくりとして、週報p.2に載せたガラテヤ2章19節と20節をご一緒に読んで、きょうのメッセージを閉じることにします。

ガラテヤ2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。
20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

 パウロはキリストともに十字架に付けられて、イエス様と一つになっていました。パウロはイエス様が自分の内に生きておられることをはっきりと自覚して、日々を歩んでいました。いま私たちはペンテコステの日に向かって歩んでいます。私たちもパウロのように、イエス様と一つになることができるよう、聖霊に導かれながら日々歩んで行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
コメント

別人の姿で近づき、人を信仰に導くイエス(2021.4.25 礼拝)

2021-04-26 05:57:02 | 礼拝メッセージ
2021年4月25日礼拝メッセージ
『別人の姿で近づき、人を信仰に導くイエス』
【ルカ24:13~32】

はじめに
 きょうはルカの福音書24章に描かれているエマオへの道での出来事の箇所を開きます。この「エマオへの道」の箇所は、当初の予定ではイースターの翌週の4/11に開くことを考えていました。しかし、その日は教会学校でも同じ箇所が開かれることになっていることが分かって、礼拝で取り上げるのは延期することにしました。

 教会学校で皆さんの話を聞きながら思いを巡らすなら、さらにこの箇所への理解が深まると思ったからです。そうして、期待した通りに理解が深まったと感じていますから、きょうは、そのことを皆さんと分かち合いたいと思います。

 この「エマオへの道」の記事は福音書の中ではルカだけが書いている記事です。マタイやマルコ、ヨハネは書いていません。そして、ルカは続編の『使徒の働き』につながる部分で、この「エマオへの道」の記事を書きました。先週も話ましたが、『ルカの福音書と『使徒の働き』は一つの書として読むべき書です。しつこいようですが、これはとても重要なことですから、これからもしつこく指摘し続けます。

 先週も話した通り、『ルカは福音書』と『使徒の働き』の両方の書の冒頭で「テオフィロ様」宛てのことばを書いています。

ルカ1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
使徒1:1 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。

 この二つの「テオフィロ様」から、二つの書は同じ記者によって書かれたことが分かります。そして、この二つの書をつなぐ連結部分のルカ24章に、「エマオへの道」の記事があります。この記事が連結部分にあることは、とても重要な意味を持っていると思います。きょうは、そのことを次の三つのパートで話して行きます。

 ①後世の宗教画のイエス像からの「卒業」のすすめ
 ②イエスは「靴屋のマルチン」の様に別人で現れる
 ③クリスチャンの中にいるイエスが人を信仰に導く

①後世の宗教画のイエス像からの「卒業」のすすめ
 ルカ24章の「エマオへの道」の記事は、地上生涯でのイエス様の姿の固定イメージから離れるための「卒業式」の役割を持っているように見えます。よく言われることですが、『ルカの福音書』の続編の『使徒の働き』は、「聖霊の働き」を描いたものです。それは言い換えるなら、『使徒の働き』という書は聖霊を受けたペテロやパウロなどの使徒たちの中で働く、「イエスの働き」を描いた書であるということです。『ルカの福音書』は「地上でのイエス様の働き」を描いた書であり、『使徒の働き』は「天上でのイエス様の働きを描いた書であると言っても良いでしょう。

 天に昇ったイエス様は天上の御父と共に天上から地上に聖霊を遣わして、聖霊を通してペテロやパウロに彼らが為すべきことを伝えました(ヨハネ14:26参照)。天上のイエス様は聖霊を通してペテロに、ペンテコステの日には演説すべきことばを伝え(使徒2章)、また異邦人のコルネリウスの家に行って、救いのことばを語るように導きました(使徒10章)。また、天上のイエス様はパウロに聖霊を通して、第一次伝道旅行に出発するように促し(使徒13章)、またヨーロッパに渡って福音を宣べ伝えるように導きました(使徒16章)。ですから、『使徒の働き』は「天上のイエスの働き」とも呼べる書物です。

 でも、『使徒の働き』を読む私たちは、この書をペテロやパウロの働きを描いた書であると思いながら読む場合が多いと思います。「イエス様の働きの書」だと思いながら読むことはほとんど無いと思います。なぜでしょうか?

 それは私たち読者の目がさえぎられていて、「イエス様とは髪が長くて髭を生やした人」という宗教画によくある典型的なイエス様のイメージが強烈に刷り込まれているからではないでしょうか?

 しかし、そもそも福音書にはイエス様がどのような姿をしていたのか、一言も書かれてはいません。ルカに限らず、マタイもマルコもヨハネもイエス様の髪や髭、背の高さや鼻の高さ、目の色のことなどについて、一言も書いていません。私たちが思い描いているイエス様の姿は、聖書によるものではなく、聖書の時代よりもずっと後に描かれた後世の宗教画に強く影響されています。特に15世紀以降のヨーロッパで多くのイエス様の絵が描かれましたから、私たちの中にはそのイメージが強烈に刷り込まれています。

 今日、私は皆さんに、その宗教画のイメージから「卒業」することを、お勧めしたいと思います。「卒業」ですからこれまでのイメージを捨てる必要はありません。そのイメージは大切にとっておいて下さい。私たちが卒業した小学校・中学校の思い出を大切にしているように、大切にしておいていただければ良いと思います。或いは、福音書を読む時には、卒業しないまま、宗教画のイメージで福音書を読んでいただいても良いと思います。宗教画のイメージは信仰の道を歩み始めたばかりの方々にとって、とても役に立っています。宗教画はキリスト教を広めるのに大きく役立って来ました。

 しかし、『使徒の働き』を読む時には卒業して読んでいただきたいと思います。そうでないと、『使徒の働き』の時代においても働いていたイエス様の姿がなかなか見えて来ないだろうと思います。イエス様はペテロやパウロたちの中で働いていました。『使徒の働き』の時代、イエス様は地上生涯のイエス様とは別人の姿で働いていました。現代においてもそうです。私たちは、現代の私たちの周囲にいる別人の姿のイエス様のことが、よく見えるようになりたいと思います。そのためには宗教画のイメージから卒業する必要があります。

 きょうのルカ24章の「エマオへの道」の記事は、その「卒業式」と言えるのではないかと思います。ルカ24章13節から見て行きます。

ルカ24:13 ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。

 「ちょうどこの日」というのは、イエス様がよみがえった日のことです。続いて14節から16節、

14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
16 しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 イエス様は二人の弟子に近づいて共に歩き始めました。この時のイエス様がどんな姿をしていたのか、私たちの頭の中には宗教画のイエス様のイメージが強烈にありますから、復活後のイエス様も地上生涯のイエス様と同じ姿で現れたと思うでしょう。しかし、ルカは同じ姿で現れたとは書いていません。ただ単に「イエスご自身が近づいて来て」と書いているだけで、以前のイエス様と同じ姿で現れたとは書いていません。

 イエス様は墓に葬られた時に髪や髭が整えられて、もっとさっぱりとした顔になっていたかもしれません。同じ人でも髪や髭が変わると別人のように変わる人がいますね。イエス様もそのタイプの人だったかもしれません。いくら二人の弟子の目がさえぎられていたと言っても、最後の晩餐の時と同じ姿で現れたならイエス様であることが分からなかったということはないだろうと思います。

 目がさえぎられていたのは私たち読者も同様で、私たちはイエス様が十字架に掛かる前の三日前までと同じ姿で現れたと思い込んでいるのではないでしょうか?『使徒の働き』でイエス様はペテロやパウロという全くの別人として現れます。『ルカの福音書』と『使徒の働き』の連結部に記されている「エマオへの道」で現れたイエス様は、地上生涯のイエス様と『使徒の働き』のイエス様の中間ぐらいの、髪と髭がさっぱりと整えられて雰囲気が変わったイエス様ぐらいの感じで読むのが良いかもしれません。或いはもしかしたらイエス様は、まったくの別人の姿で現れたのかもしれません。

 そうして、宗教画のイエス様のイメージから卒業できるなら、27節の読み方も変わって来るでしょう。27節、

27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 預言者のモーセはペテロやパウロと同じように聖霊を受けていましたから、神のことばを語るモーセの中にはやはりイエス様がいました。ペテロやパウロの中にイエス様がいたのと同じように、モーセやエリヤなどの預言者たちの中にもイエス様がいました。そうしてイエス様は天の父のことばを人々に伝えていました。27節はそのことをも伝えていることも見えて来ます。宗教画のイエス様のイメージから卒業するなら、ペテロやパウロの中のイエス様、モーセやエリヤの中のイエス様が見えて来ます。

(礼拝では話しませんでしたが、宗教画のイエス様のイメージから卒業するなら、『ヨハネの福音書』は「旧約の時代」と「使徒の働きの時代」の天上にいるイエス様を描いた書であることもまた、見えるようになるでしょう。たとえばヨハネ4章1-4節の

ヨハネ4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

の1節の「イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている」は五旬節(ペンテコステ)の日以降の初代教会の状況を記したものであり、2節の「バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであった」は、初代教会の使徒ペテロたちがバプテスマを授けていたこと、3節の「ユダヤを去って」はステパノ殉教後に弟子たちが散らされたこと、そして4節の「サマリアを通って行かなければならなかった」は使徒8章のピリポによるサマリア伝道について記されていることもまた、見えて来るでしょう。)

②イエスは「靴屋のマルチン」の様に別人で現れる
 皆さんの多くはトルストイ原作の「靴屋のマルチン」の話をよくご存知のことと思います。「靴屋のマルチン」で、イエス様はまったく別人として現れます。「靴屋のマルチン」のイエス様が分かるなら、ペテロやパウロ、モーセやエリヤの中にいるイエス様も分かるだろうと思います。

 この「靴屋のマルチン」の話を私は1ヶ月前のM兄の前夜式で話しました。多くの皆さんが前夜式に参加して下さいましたが、来ることができなかった方もおられますから、ここでもう一度、「靴屋のマルチン」の話をさせて下さい。

 ある町にマルチンという靴屋さんがいました。マルチンは靴を作ったり修理したりしていました。マルチンは腕の良い靴職人でしたから、昼間は靴作りの仕事に没頭していました。しかし、夜は心が満たされずにいて何をするでもなく、ぼんやりと過ごしていました。妻や子供たちに先立たれたマルチンは孤独でした。

 そんなマルチンでしたが、ふとしたきっかけで聖書を読むようになりました。最初は短い箇所を読むだけでしたが段々と夢中になり、聖書を読むと心が平安で満たされるようになりました。

 さて、ある冬の日の晩に、マルチンは聖書を読みながらウトウトしていました。すると夢の中にイエス・キリストが現れてこう言いました。

「マルチン、マルチン。あした、あなたの所に行くから待っていなさい」。

 それでマルチンは次の日、イエス様が本当に現れることを期待して、そわそわしながら窓の外を気にしていました。靴作りをしながらも「イエス様は本当に来て下さるのだろうか?」と気になって、何度も何度も窓の外を見ていました。

 すると、窓の外で雪かきをしているおじいさんが疲れて凍えている様子が見えました。それでマルチンは外に出て行って、おじいさんに声を掛けました。「うちでお茶でも一杯飲んで、暖まって行かないかい?」

 おじいさんは喜んでマルチンの家に入って暖まり、お茶を飲んで元気を取り戻しました。おじいさんはマルチンの親切に心も身体も温まって帰って行きました。

 マルチンは、もうそろそろイエス様が来るかもしれないと、再び窓の外を気にしていました。すると今度は、赤ちゃんを抱いた女の人の姿が目に入りました。その女の人は寒そうなかっこうをしていました。それでマルチンはまた外に出て行って声を掛けました。「うちに入って暖まって行かないかい?」彼女はほとんど食事を取っておらず、赤ちゃんに飲ませるお乳も出ませんでした。それでマルチンは彼女に十分な食事を与えました。また、彼女は粗末な着物で凍えていましたから、マルチンは、自分の上着を渡しました。食事を取って、元気になった彼女はマルチンにお礼を言って帰りました。

 マルチンは、イエス様を待ち続けました。時刻は段々と夕方に近づいていました。そうして、今度は窓の外でおばあさんが怒る声がしました。男の子がおばあさんのリンゴを泥棒しようとしたところをつかまえたのでした。マルチンは出て行っておばあさんに言いました。「おばあさん、ゆるしておあげなさいよ」。そしてマルチンは男の子をやさしく叱りました。それで男の子がおばあさんにあやまると、おばあさんの心もほぐれました。マルチンはおばあさんにお金を渡してリンゴを買い取り、男の子に与えました。それで三人ともやさしい気持ちになりました。

 外は暗くなって、一日が終わろうとしていました。マルチンは「とうとうイエス様はおいでにならなかったな」とがっかりしながら、つぶやきました。そうして、いつものように聖書を開くと、とつぜん目の前に昼間の雪かきのおじいさんが現れました。「マルチン、マルチン、気付かなかったのですか。わたしですよ」、「エッ、イエス様ですか?」、おじいさんの姿はスーッと消えました。そして今度は赤ちゃんを抱いた女の人が現れました。「マルチン、マルチン、そうですよ。わたしですよ」、女の人はスーッと消えました。そして、男の子とおばあさんも現れて言いました。「みんなわたしですよ。」

 マルチンは喜びで一杯になりました。イエス様に出会えた喜びがマルチンの中で溢れていました。

 このように、イエス様はまったくの別人としてマルチンに現れました。さらに言えば、イエス様に似た者に変えられて人々に親切にしたマルチンの中にもイエス様は聖霊として入ってマルチンに語り掛けていた、とも言えるでしょう。

③クリスチャンの中にいるイエスが人を信仰に導く
 イエス様は小さくて弱い人々の中にもいます。そして、マルチンのようにイエス様に似た者に変えられていったクリスチャンの中にもいます。そしてイエス様はクリスチャンを通して、人々を信仰に導きます。ペテロやパウロたちの中にいたイエス様がまさにそうでした。

 皆さんを教会に導いて下さった人の中にもイエス様がいました。チラシを見て教会に来たのでしたら、チラシを配布した人の中にもイエス様がいました。

 私を教会に誘ってくれた人の中にもイエス様がいました。初めて高津教会を訪れた日の受付の兄弟の中にもイエス様がいて、私を歓迎してくださいました。礼拝が終わって教会を出る時に話し掛けてくださった兄弟の中にもイエス様がいました。

 そうして、礼拝の説教で神様のことばを取りつぐ藤本先生の中にもイエス様がいました。まさにルカ24章32節の状況です。

ルカ24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 高津教会の礼拝の説教で藤本先生が聖書を説き明かしてくださる間、私の心は内で燃えていました。そうして洗礼へと導かれました。この聖書の説き明かしをしていた藤本先生の中にはイエス様がいました。私はそこにイエス様がいるとはぜんぜん気付いていませんでしたが、後から考えると、あの時の藤本先生の中にはイエス様がいたのだなと分かりました。

 ですから私もまた、まだイエス様を知らない人にとっては、「私はイエス様なんだ」という自覚を持たないといけないと思わされています。自分がイエス様などとは到底言えない足りない者ですが、それでもその自覚を持って、ふさわしい者に変えられるように願い祈らなければならないと思わされています。そして、それは皆さんも同じです。まだイエス様を知らない人にとって、皆さんはイエス様です。

 ルカもパウロの中にイエス様を見ていました。ルカを最初に信仰に導いたのがパウロだったかどうかは分かりません。しかし、パウロの伝道旅行に同行していたルカは、人々にイエス様を宣べ伝えるパウロの中には確かにイエス様がいることを見ていたことは間違いありません。そうしてルカは先ず『ルカの福音書』で地上生涯のイエス様を描き、次にペテロやパウロの中にいるイエス様を『使徒の働き』で描きました。ルカは人々の病気を癒し、イエス様を宣べ伝えたペテロやパウロの中にいるイエス様を『使徒の働き』で描きました。

 『使徒の働き』を読む時には、このペテロやパウロの中にいるイエス様を感じながら読みたいと思います。そのためには、宗教画のイエス様の像から卒業したいと思います。繰り返しますが、卒業ですから忘れる必要はありません。キリスト教の初歩を学んでいた時に役に立った宗教画のイエス様像を大切にしつつも、学校を卒業した社会人として、様々な顔を持つイエス様へも目を向けて行っていただきたいと思います。

おわりに
 イエス様は様々な姿で私たちの周囲に存在します。2年前にこの静岡教会に来てから、私の説教は周辺的な話が多いという指摘をいただきました。確かにそうかもしれません。しかし、イエス様は様々な顔を持つお方だということを分かち合っていただけるなら、その周辺的な話の中にもイエス様がいることを分かっていただけるのではないかと思います。イエス様は宗教画のようなイエス様の姿をしているだけではなく、様々な姿を持つお方であることを分かち合っていただけるなら、私たちを取り囲むようにして存在するイエス様の圧倒的な恵みをもっと分かち合うことができるのではないかと思います。

 私たちは、このイエス様の圧倒的な恵みを、まだイエス様を知らない方々に知っていただきたいと思います。まだイエス様を知らない方々にとっては、私たちの一人一人がイエス様なのだということを覚えて、人々に接するお互いでありたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

ルカ24:32 二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」


コメント

天国と地上をつなぐ太い十字架(2021.4.18 召天者記念礼拝)

2021-04-19 11:05:17 | 礼拝メッセージ
2021年4月18日召天者記念礼拝メッセージ
『天国と地上をつなぐ太い十字架』
【使徒1:1~9】

はじめに
 きょうは召天者記念礼拝です。
 2年前に私が着任した時、静岡教会の召天者記念礼拝は毎年、藤の花がきれいに咲く4月の後半に行われると伺いました。ただ2年前は4月の第1聖日までは前任の先生が説教をして、私は第2聖日からでした。この教会のことをまだ少ししか知らない段階でいきなり召天者記念礼拝を行うのは難しいですから、2年前は5月19日に行いました。

 また、昨年は4月後半から5月前半に掛けて新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言が静岡県でも発令されて無会衆のライブ配信による礼拝が行われていましたから、召天者記念礼拝は秋の10月18日に行いました。

 そういうわけで、今年はようやく本来の藤の花が咲く季節に行われることとなりました。今日の午後に墓前記念会を行う霊園では藤の花がきれいに咲くそうですが、近所の田町公園の藤の花も、今きれいに咲いています。

 さて、きょうの説教は次の3つのポイントで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①天国は遠くではなく、すぐ近くにある
 ②イエス様を信じた者は天国とつながっている
 ③充電を怠ると聞こえなくなる聖霊の声

 3番目のポイントでは私たち人間を携帯電話にたとえています。きょうはE学院の高校生の奨励日であるとの連絡を受けていますから、3つめのポイントは高校生向けの話として準備させてもらいました。

①天国は遠くではなく、すぐ近くにある
 私たちの教会では昨年、N兄とS兄のお二人を、そして今年は、M兄を天に見送りました。この三人の兄弟たちを見送ったことで牧師の私は、天国は思っているよりも近くにあると感じるようになりました。

 その最初のきっかけとなったのが、昨年のN兄の召天でした。昨年の5月21日の午前にN兄が天に召された直後、私はご家族から連絡をもらってすぐにNさんのご自宅に伺いました。Nさんの頭に手を置いてお祈りをささげさせていただきましたが、その時、Nさんのお顔がとても穏やかであったことが印象的でした。そしてお祈りをした後で、クリスチャン手帳を開いてその日の欄を見ると「昇天日」と書いてあったので、その日がイエス様が天に昇った昇天日であったことを知りました。イエス様は復活したイースターの日から40日目に天に昇りました。Nさんが天に召された5月21日はイースターからちょうど40日目でした。

 きょうの聖書箇所の使徒の働き1章には、イエス様が復活してから40日目に天に昇って行かれた時の様子が描かれています。1章の1節から見て行きます。1節、

使徒1:1 テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。

 使徒の働き1章1節には、このように書かれていて、ルカの福音書の冒頭にもテオフィロ様ということばが出てきますから、ルカの福音書と使徒の働きは同じ人物によって書かれたことが、ここで明らかにされています。その人物とはルカです(異論を唱える学者もいるようですが、ここでは考えません)。

 それゆえルカの福音書を読む時には使徒の働きという続編を頭に入れながら読む必要があり、使徒の働きを読む時にはルカの福音書という前編があったことを頭に入れながら読む必要があります。このことの重要性が説教で強く言われることは、これまで無かったかもしれませんが、ルカ文書を専門としている聖書学者の間では常識であることを私は4年前に開講されたeラーニングのルカ文書の学びで知りました。

 ルカの福音書で良く分からない箇所も続編の使徒の働きがヒントになる場合が多くあります。使徒の働きで良く分からない箇所も、ルカの福音書にヒントがある場合があります。このことを学んでから4年が経ちましたから、私の中ではもはや当たり前のことになってしまっていて、皆さんへの説明が足りていなかったことも多かったと思います。申し訳ありません。ルカの福音書と使徒の働きは一つの文書であると言っても良いぐらいに強い関係がありますから、これからは皆さんもこのことを念頭に置いてルカの福音書と使徒の働きを読んでいただければと思います。続いて2節、

2 それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。

 これはルカの福音書24章の終わりのほうに書かれていることです。この箇所は後日また学ぶことができたらと思っています。次に3節、

3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。

 イエス様は苦しみを受けて死んだ後、イースターの日によみがえりました。そして四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語った後で、天に昇りました。9節にそのことが書いてあります。

9 こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。

 N兄は、このイエス様が天に挙げられた日と同じイースターから40日目に天に召されましたから、私はNさんがイエス様と一緒に天に昇って行った様子を想像しました。そして、イエス様が一緒だったから、こんなに穏やかな顔をしているのだと分かりました。

 その経験がありましたから、約1ヶ月後にS兄が天に召された時には、イエス様が病室に来てSさんのそばにいることを感じていました。昨年の6月23日にSさんが天に召された日、この時にはコロナの状況が下火になっていましたから、家族ではない私も病室に入ることが許されて、臨終に立ち会うことができました。Sさんの呼吸は次第に間隔が開いていき、1分当りの呼吸数が少なくなっていき、静かに息を引き取りました。そうしてSさんはイエス様と共に天に帰りました。この時私は、天国がとても身近な場所にあるのだと感じました。すぐ近くにある感じです。

 こんなたとえはどうでしょうか。紙のマンガの登場人物たちは、二次元の世界の中で生きています。たとえば昨年話題になった『鬼滅の刃』のコミックの最終巻を私も買って読みましたが、二次元の中の彼らは三つめの次元を知りませんから、三次元にいる私が彼らの言動をすぐ近くで見ていることを彼らは知りません。同じように、神様は私たちが暮らす三次元よりも高い次元にいて私たちを見ているのかもしれません。

 今読んだ使徒の働き1章9節にイエス様が天に上げられて雲の上に行った様子が描かれていますから、天国は雲の上にあると想像するのも良いでしょう。しかし、ちょうど60年前にガガーリンがロケットで人類初の宇宙飛行をして以来、雲の上に行っても目に見える形での天国は存在しないことが分かっています。天国とは、二次元のマンガの登場人物たちとそれを読む三次元の私たちとの距離ぐらいに近い所にあるのかもしれません。

 先月天に召されたM兄も、ここに並べられた写真額の中におられる信仰の先輩たちも、案外私たちに近い場所にいるのかもしれないと私は感じています。

②イエス様を信じた者は天国とつながっている
 死んだら天国に行けるのか、行けないのか、それは神様が決めることですから、人には分からないことです。神様がこの人は天国に行って良いと決めればそうなりますし、天国にふさわしくないと神様が判断すればその人は天国に行くことができません。

 この教会の皆さんには何度かお伝えしていますが、今年度私は町内の自治会の役員の一人になりました。私の主(おも)な役割は町内の全戸に回覧される理事会報告を作成することです。できるだけ分かりやすい報告書になるように苦労して作成しています。4月の理事会はつい先日の14日の水曜日の晩にありましたから、昨日の土曜日の朝までに報告書案を仕上げました。

 それはともかく、2月に役員の一人になることが決まって以来、役員間で頻繁なメールのやり取りが始まって、そのことで役員さんたちが町内の全体から細かい所まで様々に目配りと心配りをして、地域のために休むことなく働いていることを初めて知りました。理事会での報告が無くても、その裏でたくさんの働きをしていることを知りました。私たち町内に住む者たちが安全に気持ち良く日々を過ごすことができているのも、自治会の役員さんたちの働きがあってこそということを知って、今までそのことに気づいていなかったことを情けなく申し訳なく思い、涙が出て来ました。

 こういう涙の出る思いを、私はこれまでに何度か経験しています。最初は、自分で働いて収入を得るようになった時、私の親が私を育て、学校に通わせるための収入を得るためにどれだけ苦労したかをぜんぜん知らずにいたことを恥ずかしく思うと共に親の私への深い愛を知って涙が出ました。

 その後、私は大学の教員になって自分の研究室を持ち、私の研究室に配属された学生の指導をするようになりましたが、私は研究資金を十分に得ることができないでいましたから、私の学生にはとても申し訳ないことをしました。私が学生だった時は、恩師が多くの研究資金を獲得していましたから、私たち学生はそのおかげでお金の掛かる大掛かりな実験にも参加できて研究者としての経験を積むことができました。国内や国際学会での発表の機会もたくさん与えてもらいました。学会発表は発表の訓練になるだけでなく、同じ分野の研究者たちと交流できる場でもあります。そうして研究者の知り合いが多くできることで互いに刺激し合い、より良い研究ができるようになります。私が学生を指導する立場になった時、私の恩師が学生に経験を積ませるためにどれほど苦労していたかを私は知らないでいたことを情けなく思い、また恩師への感謝の思いから涙を流したことがありました。

 10年前の神学生だった時には、私は天の父である神様がイスラエルの民をどれほど深く愛していたかを知り、涙を流したことがありました。そうして天の神様が私のことも深く愛して下さっていることを、それまでよりも深く分かるようになりました。そして、この天の父の愛のことを少ししか知らずにいたことを情けなく思い、これまでで一番涙がボロボロと出ました。

 今回、町内の役員さんたちがどんなに粉骨砕身、町内のために働いているかを知って、それを知らないでいたことに涙が出ました。そして、このように私利私欲なく地域のために無償のボランティアで働いて下さっている人は天国に行けるのではないかとも思うようになりました。ただし、先ほども言ったように、その人が天国に行けるか行けないかは神様が決めることですから、人には分からないことです。

 しかし聖書には、御子を信じる者は滅びることなく永遠の命を持つ(ヨハネ3:16)と書いてあります。イエスを神の子キリストと信じる者は命を得る(ヨハネ20:31)と書いてありますから、イエス様を信じるなら、天国に行けることは確実です。イエス様の福音を知らなくても、私利私欲を捨てて世の人々の幸せために日夜休まずに働いて人々はもしかしたら天国に行けるかもしれませんが、それは神様が決めることですから、人には分からないことです。しかし、イエス様を信じる者は永遠の命を得ると聖書には書かれていますから、イエス様を信じれば天国に行けることは確実です。イエス様を信じた人は、確実に天国とつながっています。イエス様を信じない人にとっては天国は遠い所にある場所かもしれませんが、イエス様を信じる人はマンガの登場人物とマンガの読者と同じくらいに近い距離で天国とつながっています。このことで得られる心の平安には絶大なものがあります。死んだら天国に行くという「希望」ではなく、既につながっているという絶大な安心感があります。

 きょうの週報の召天者のリストにある信仰の先輩たちの多くはそういう安心感の中で天に召されて行ったことと思います。私がこの教会に着任して以降に天に召されたN兄、S兄、M兄も皆、穏やかな平安な顔で天に召されて行きました。イエス様を信じることの幸いを覚えて、心から感謝しています。

③充電を怠ると聞こえなくなる聖霊の声
 イエス様を信じると私たちは天国とつながると、先ほど言いました。なぜ天国とつながったと分かるかというと、聖霊の声が聞こえるようになるからです。聖霊の声とは、天国に昇った御子イエス様の声です。聖霊を通して天国のイエス様の声が聞こえますから、自分が天国とつながっていることが分かります。このことをイメージした図を週報のp.2nに載せましたから、ご覧下さい。



 たとえるなら、私たちは携帯電話のようなものです。旧約の時代は、限られた預言者たちだけしか聖霊の声を聞くことができませんでしたが、新約の時代の今は、イエス様を信じる者は誰でも聖霊を通してイエス様の声を聞くことができます。イエス様を信じると、携帯のスイッチが入って、イエス様の声が聞こえるようになります。聖霊は助け主ですから、私たちは助け主に教えていただきながら日々を過ごすことができます。

 このことをイエス様はヨハネの福音書14章26節で、このようにおっしゃっています。

ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 この助け主の聖霊の声を聞くにはイエス様を信じてスイッチをONにする必要がありますが、もう一つ、電池を充電することも必要です。電池の充電とは、教会の礼拝などに参加することに相当します。礼拝で賛美歌を歌い、お祈りして、そして聖書について学ぶなら、電池は充電されます。それらを怠るなら、やはり天国のイエス様の声を聞くことはできません。定期的に教会の礼拝に参加して充電しないと、電池はすぐに切れてしまいます。
 さらに言えば、電池の容量を増やすことも大切です。電池の容量が小さいと、本当にすぐに電池が切れてしまいます。逆に電池の容量が大きくなっていれば、例えばコロナウイルスの感染拡大で教会活動が止まってしまったとしても、信仰を保つことができます。

 私たちのインマヌエル教団の創設者の蔦田二雄先生は戦時中、キリスト教が弾圧されていた時に、2年間投獄されて牢屋の中で過ごしました。聖書を読むことなどもちろん許されなかったでしょう。そのように、長い期間聖書を開くことができなくても、蔦田先生は聖霊の声を聞くことができました。それは先生の電池の容量が普通のクリスチャンの容量よりも遥かに大きかったからです。

 E学院の生徒の皆さんは、毎朝礼拝に出席していますから、毎日充電されています。これは素晴らしいことだと思います。毎日ばっちり充電されていますから、あとはイエス様を信じてスイッチを入れれば、聖霊の声が豊かに聞こえるようになります。そうして、卒業後も教会などで定期的な充電を続けていただきたいと思います。充電しないと、E学院でどんなにたっぷり充電していたとしても、やがて電池は切れてしまいます。

おわりに
 最後に、きょう話したことを、この図を見ながらおさらいしたいと思います。
 きょうは召天者記念礼拝です。イエス様を信じてクリスチャンになり、地上生涯を終えた人は今、天国にいます。きょうお配りした召天者のリストに載った私たちの教会の信仰の先輩たちも今、天国にいます。イエス様が天へと導いて一緒に昇って行きました。

 地上と天国とは太い十字架でつながっています。イエス様が地上に遣わされて十字架に付けられたことで地上と天国とは太い十字架でつながりました。そのためかもしれません。天国と地上は意外と近い所にあります。雲を突き抜けてずっと高い所にあるというよりは、二次元の紙のマンガの中の登場人物たちと読者の私たちとの距離のように、ごく近い所に天国はあるのかもしれません。

 この天国にいる御子イエス様の声を、私たちは聖霊を通して聞くことができます。イエス様を信じるなら私たちの中にあるスイッチが入って、聖霊を通してイエス様の声が聞こえるようになります。

 ただし、イエス様の声を聞くにはスイッチを入れるだけでなく、充電もまたする必要があります。定期的に礼拝に出席して充電する必要があります。また、電池の容量も増やす必要があります。電池の容量が大きくないと、コロナなどで教会活動が止まった時にはすぐに電池が切れてしまいます。そのようなことがないようにしたいと思います。そうして私たちはいつも天国とつながり、イエス様の声を聖霊を通して聞くことができるようにしていたいと思います。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈しましょう。
コメント

平和の中に行きなさい(2021.4.11 礼拝)

2021-04-12 16:45:35 | 礼拝メッセージ
2021年4月11日礼拝メッセージ
『平和の中に行きなさい(安心して行きなさい)』
【ルカ7:36~50】

はじめに
 イースター聖日を越えて、いま私たちは五旬節の日、ペンテコステの聖日に向かっています。五旬節の日はイースターから50日目にありますから、7週間の間隔があります。この7週間の期間は、ペンテコステの日に備える期間としたいと思います。

 ペンテコステの日には、使徒の働き2章を開きます。そして来週の召天者記念礼拝では、使徒の働き1章を開く予定です。それ以外の聖日にはルカの福音書を開くことが多くなると思います。

 今年、私たちはマルコ5章の長血の女の記事を開くことから聖書の学びを始めました。長血の女はイエス様にぐいぐい近づいて行きました。そして私たちもまた、イエス様にぐいぐい近づいて行きたいと思います。ルカの書いたルカの福音書と使徒の働きを学ぶことは、イエス様に近づくためにとても役に立つ筈です。なぜなら、ルカもまた長血の女のようにイエス様にぐいぐい近づいて行った人だったからです。

 ルカはユダヤ人ではない異邦人で、地上生涯のイエス様には会ったことがありません。しかし、イエス様を信じたことで聖霊を通してイエス様と出会いました。そして伝道旅行を共にしたパウロの中にもイエス様を見ていたに違いありません。さらには、福音書を書くにあたっては地上生涯のイエス様に付き従っていた人々にも取材をしてイエス様への理解を深めていったことでしょう。もしかしたらルカはイエス様の母親のマリアにも取材をしたことがあったかもしれません。またルカは人々を取材しただけでなく、それまでに書かれた福音書や文書も読み込んでいたことでしょう。ルカの福音書の冒頭でルカは次のように書いています(週報p.2)。

ルカ1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。

 これらの取材を通して、ルカはぐいぐいイエス様に近づいて行きました。そうして、福音書と使徒の働きを執筆するに当たっては、聖霊からの霊感をより強く受けるために、さらにイエス様に近づいて行ったことでしょう。そうして、ルカは地上生涯のイエス様には会ったことがないのに、読む私たちがまるで本当にイエス様に出会っていると感じることができるイエス様を見事に描き出しています。これはすごいことだと思います。

 このルカのすごさを覚えながら福音書と使徒の働きを読むなら、私たちももっとイエス様に近づくことができると思います。ルカは地上生涯のイエス様に会ったことはありませんでしたが、これだけのものを書きました。私たちも地上生涯のイエス様にお会いしたことはありませんが、ルカと同じぐらいにイエス様に近づいて行きたいと思います。

 きょう開くルカの福音書の箇所は、イエス様の足に香油を塗った罪深い女の箇所です。
 きょうは次の三つのポイントで話を進めて行きます(週報p.2)。

 ①長血の女のようにイエス様に近づいた罪深い女
 ②イエス様に近づく女たちと距離を置く男たち
 ③平和の中に行きなさい(安心して行きなさい)

①長血の女のようにイエス様に近づいたマリア
 きょうの罪深い女は、長血の女とよく似ています。ルカ7章の36節から38節までをお読みします。

ルカ7:36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
37 すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
38 そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。

 イエス様はパリサイ人の家に入って食卓に着きました。すると罪深い女が香油の入った壺を持って来ました。そして38節に、この女が「うしろからイエスの足もとに近寄った」とルカは書いています。長血の女もまた、イエス様にうしろから近寄りました。

 実はルカの福音書にも長血の女の記事があります。一枚ページをめくっていただいてルカ8章43節と44節(p.129)をお読みします。

ルカ8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。
44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。

 44節にあるように、長血の女はイエス様のうしろから近づきました。7章の罪深い女と同じですね。そして、イエス様は長血の女に言いました。ページをもう一枚めくっていただいて8章48節です。

48 「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 マルコの福音書には、イエス様はこの後に続けて「苦しむことなく、健やかでいなさい」とおっしゃいました。今年の教会の標語聖句をルカからではなくマルコからにしたのは、この「苦しむことなく、健やかでいなさい」も今年の私たちにとっては大切なことばだと思ったからです。しかし、ルカの福音書にもまた長血の女の記事があります。そして、イエス様は48節で長血の女に言った、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」を、7章の罪深い女にも同じように言っています。7章50節です。

ルカ7:50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 この7章の罪深い女も、8章の長血の女も、イエス様に近づいて行きました。イエス様はこのように、ご自身に近づいて来る者を高く評価しています。私たちも、このようでありたいと思います。私たちはイエス様との心の距離を縮めたいと思います。長血の女と罪深い女はイエス様との体の距離を縮めると同時に心の距離を縮めたからイエス様はその信仰を高く評価したのですね。

 それに対して、このルカ7章の記事に出て来るパリサイ人はイエス様と同じ食卓に着いていましたから体の距離は近くにいましたが、心の距離はイエス様から離れていました。このパリサイ人の名前は「シモン」でペテロと同じですから、うっかりするとペテロと混同します。この「シモン」はペテロではなくてパリサイ人ですから、注意が必要です。

②イエス様に近づく女たちと距離を置く男たち
 この7章の罪深い女も、8章の長血の女も、どちらも女性です。福音書を眺め渡すと、傾向としては女性の方がイエス様に近づいて行き、男性の方がイエス様と距離を置いているように見えます。どうしてでしょうか?それは、ペテロやヤコブやヨハネ、マタイなどの弟子たちの例を見ることで分かると思います。弟子たちは男性でしたが、イエス様の近くにいました。ペテロやヤコブやヨハネは漁師の職業を捨ててイエス様に付き従いました。マタイは取税人の職業を捨ててイエス様に付き従いました。つまり男性の場合、その人の職業や地位、財産などがイエス様に近づくことを邪魔していました。一方、聖書の時代の女性は男性に比べると職業や地位、財産を持つ人は少なかったと思いますから、イエス様に近づきやすかったということではないでしょうか。

 「金持ちの青年」の例からも分かるように、財産に縛られているとイエス様に近づくことはできません。また、律法の専門家たちのように職業や地位に縛られていると、イエス様に近づくことはできません。「善きサマリア人の例え」に出て来る祭司とレビ人も職業に縛られていました。ルカの福音書の「善きサマリア人の例え」では、強盗に襲われて半殺しの目に遭ったケガ人を祭司とレビ人は助けませんでしたが、たまたまそこを通りかかったサマリア人が助けてあげました。大ケガをした人は遠目には死んでいたように見えたのかもしれません。死体に触わった者は汚れると律法の書に書かれていますから、祭司とレビ人はしばらくの間祭儀を執り行うことができなくなります。彼らはそのことを恐れたのでしょう。彼らは律法に縛られていて、律法を守ることだけに熱心になっていました。

(中略)

③平和の中に行きなさい(安心して行きなさい)
 イエス様は長血の女に対して、そして罪深い女に対して、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」とおっしゃいました。この「安心して行きなさい」の元のギリシャ語の直訳は「平和の中に行きなさい」です。この「平和の中に行きなさい」には深い意味が隠されているような気がして、いま思いを巡らしているところです。

 どこにいれば平和でいられるかを考えるなら、イエス様のみもとにいるのが一番平和であることは間違いないでしょう。その一番平和なイエス様のみもとを離れて行くのに、「平和の中に行きなさい」とは、どういうことなのだろうか、何か深い意味がありそうです。

 これからも考え続けたいと思っていますが、いま示されていることは、「平和の中に行きなさい」とは、病気や罪や組織の縛りから解き放たれて、自由で平和な中で暮らしなさいということではないか、ということです。病気や罪や組織に縛られている時、人の心は穏やかではいられません。それらの縛りから解き放たれて、平安の中で暮らしなさいということではないか、そんな気がしています。

 そうして、きのう、この説教原稿を作成している時、ふと俳句の松尾芭蕉のことを思いました。松尾芭蕉は今の三重県の伊賀の出身ですが、およそ30歳の時に江戸に移り住みました。最初は日本橋に住んで仕事をしながら俳句に携わっていました。日本橋と言えば江戸の町の中心です。とても賑やかな場所であったことでしょう。しかし、約5年後に芭蕉は中心から離れて当時は鄙(ひな)びていた深川に居を移して、俳句に専念するようになりました。そして、やがて「奥のほそ道」に代表される旅の生活を送るようになります。

 たとえ鄙(ひな)びた深川であっても、一つの所に住んでいれば、人との様々な関わりができて自由でいられなくなる、ということでしょうか。芭蕉は自由を愛し、自由な境地の中で俳句に専念したかったのでしょうか。芭蕉は人の心に響く俳句をたくさん作りました。それは芭蕉が自由な人であったからのように思います。

 この教会に来て、俳句を作り始めてから私は、俳句には人の心を癒す働きがあることを知りました。自分以外の人が作った俳句で心が癒されるのはもちろん、自分が俳句の題材を探して自然や人の暮らしを見つめることによっても、心が癒されます。人の心を癒す力があるのは宗教や音楽だけでなく、俳句もまた人を癒す大きな力を持っていることを知りました。それはわずか十七文字という小さな世界の中に、大きな自由があるからだと思います。人は自由の中に心の平安を見出します。その自由が俳句にはあります。

おわりに
 私たちがイエス様に心を寄せる時、心の平安が得られます。それは、イエス様が自由なお方だからです。律法を自由に解釈して決して縛られてはならないことをユダヤ人たちに説きました。例えるなら俳句が十七文字の制約がある中でも自由を楽しめるように、イエス様の福音は律法の中でも自由を得ることができます。

 ですから私たちは、イエス様が与えて下さった自由の中で平安の恵みに与りたいと思います。これはしてはいけない、こうしなければならないという律法主義に陥ることなく、自由を享受して平安の恵みに与りたいと思います。

 それが、イエス様が長血の女や罪深い女、そして私たちに向けておっしゃってくださっている、「平和の中に行きなさい」ということではないでしょうか。自由なお方であるイエス様に思いを巡らしながら、しばらくご一緒にお祈りしましょう。
コメント

身体(からだ)のよみがえりを信じる(2021.4.4 礼拝)

2021-04-05 09:52:43 | 礼拝メッセージ
2021年4月4日イースター聖餐式礼拝メッセージ
『身体(からだ)のよみがえりを信じる』
【ルカ24:36~43】

はじめに
 二千年前、イエス・キリストは十字架で死んだ後、三日目によみがえりました。きょうはそのことをお祝いして礼拝するイースターの聖日です。

 パウロは、第一コリント15章で、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえったと書いています。

Ⅰコリント15:20 今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 それはつまり、私たちも初穂であるイエス様に続いて、よみがえるということです。私たちもまた死んでもよみがえります。私たちには、そのよみがえりの希望があります。では、私たちはどんな風によみがえるのでしょうか。毎週私たちは使徒信条で、「身体のよみがえりを信ず」と告白します。身体のよみがえりとは、どんなよみがえり方なのでしょうか?

 実は、これまで私は、この「身体のよみがえり」について、あまり深く考えたことがありませんでした。この身体のよみがえりは地上生涯を終えて死んだ後の将来のことですから、よく分からないことです。真剣に考えても、間違っているかもしれません。このよく分からない将来のことを気に掛けるよりは、今をイエス様のできるだけ近くで生きることの方がずっと大切だと考えて来ました。今もその考えは変わりません。イエス様を身近に感じながら今をイエス様と共に大切に生きるなら、将来のことは全く心配する必要はありません。「身体のよみがえり」がどんな風であろうと、イエス様がして下さることだから素晴らしいことに決まっています。イエス様にすべてをおまかせしておけば良いのです。ですから、霊的に整えられて聖霊に満たされてイエス様と共に歩むことこそが一番大事なことだと考えています。聖霊の話を私が多くするのも、そのためです。

 しかし、今年のイースター聖日を迎えるに当たって、もっと「身体のよみがえり」についても理解を深めることを示されました。キリスト教を多くの方々に知っていただくためには、まだイエス様と出会っていない方々に対して「身体のよみがえり」についても、ある程度のことはお答えできるようにならなければならないと示されています。

 また、この一年間は人間の身体について考える機会も多く与えられました。N兄、S兄、M兄の病床を見舞ったことで、人間の身体について以前よりも考えるようになりました。H姉、A兄、そして私の家族が入院したことも、人間の身体について考える機会となりました。また私自身が、昨年から今年に掛けて胃と大腸の内視鏡検査を受け、またピロリ菌の除菌薬を飲む治療を受けたことも、人間の身体について考える機会となりました。これらは、「身体のよみがえり」とは、どういうことかを考える良いヒントになったと思いますから、きょうは、この「身体のよみがえり」について、皆さんと分かち合ってみたいと思います。

 きょうは次の三つのポイントで話を進めます(週報p.2)。

 ①弟子たちと食事をする復活したイエス様
 ②消化した養分を全身に運ぶ豊かな血流の川
 ③食卓に私たちを招くイエス様に応答する

①弟子たちと食事をする復活したイエス様
 まず、きょうの聖書箇所を見て行きたいと思います。ルカ24章の36節と37節。
 
ルカ24:36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。

 弟子たちは、イエス様がよみがえったという女たちの話を信じていませんでしたから(ルカ24:11)、ビックリ仰天しました。それで、イエス様は弟子たちにおっしゃいました。

38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。

 復活したイエス様には、さわって確かめることができる身体がありました。ちゃんと肉や骨が付いていました。パウロが第一コリント15章で書いたように、キリストは眠った者の初穂として死者の中からよみがえられましたから、初穂に続く私たちのよみがえりも、復活したイエス様のように、肉や骨の付いた身体を持ってよみがえるのですね。

 しかも、単に肉や骨が付いているだけでなく、食べ物を食べることもできます。41節から43節、

41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

 この箇所について、私は神学生の時にBTCの先生から面白い説教を聞いたことがあります。もし復活したイエス様の身体が半分は幽霊みたいなものだったら、口から入れた魚が喉を通る時に透けて見えるでしょう。もし服を着ていなかったら、胃の中にある魚が透けて見えるでしょう。でも、透けて見えなかったから、ちゃんとした身体があります、と言って笑いを取っていました。

 イエス様は弟子たちの前で、魚を食べて見せました。イエス様のよみがえりの身体は、単に骨に肉が付いているだけでなく、食べ物を消化して吸収する内臓も付いていたのですね。そして、初穂のイエス様に続いてよみがえる私たちの身体にも、食べ物を消化して吸収する内臓が付いているのでしょう。

 このことに思い至って、私は「身体のよみがえり」のイメージが実感として感じられるようになりました。

 今年の2月、私はピロリ菌の除菌薬を1週間、朝晩飲みました。去年、近所の内科で私は胃がんの内視鏡検査を受けました。検査結果は、がんは無いけれどもピロリ菌による慢性胃炎の疑いがあるということで、血液検査を受けたところ、ピロリ菌がいることが分かりました。それで2月になってから、ピロリ菌の除菌薬を1週間飲みました。朝晩3錠ずつ飲むのですが、3錠のうちの2錠がピロリ菌を除菌するための抗生物質で、あとの1錠は胃酸の働きを弱めるための薬だとのことでした。胃酸が強いと抗生物質が効かないから胃酸の働きを弱めるのだそうです。

 この薬を飲み続けた1週間は、胃の状態がいつもと違うので、体調が今一つスカッとしませんでした。やはり体調の良し悪しと胃の働きの良し悪しは密接に関連しているのだなと思いました。

 N兄が口から食べ物を食べられなくなって、腸から直接栄養剤を入れるようになってから、よく言っておられましたね。「口から食べ物を食べられるということは本当に幸せなことなんだよ。」S兄もM兄も病状が進んでからは、食べ物が食べられなくなりました。胃が健全に働いて、口から食べ物をしっかりと食べて、それが胃で消化されることは、人が健康に生きていることの証しなんだということを私もピロリ菌の除菌薬を飲んでいる時につくづくと実感しました。身体がよみがえるということは、こういう胃の働きもよみがえることなのかもしれません。

②消化した養分を全身に運ぶ豊かな血流の川
 胃で消化された食べ物の養分は、主に小腸から吸収されるそうです。小腸の毛細血管から吸収された養分は血液に溶け込んで肝臓や腎臓などの臓器、また脳や全身に運ばれます。この血液の流れを作り出すのがポンプの役割の心臓です。

 A兄は心臓の弁の調子が悪くなったということで、弁を交換する手術を受けました。私の家族も今、心不全で県立総合病院に入院中です。このところ私は毎日県総に行っています。家族がどうして心不全になったかというと、毎日の食事で鉄分が慢性的に不足していたからだそうです。鉄分が不足すると貧血になり、貧血を補うために心臓が頑張り過ぎて弱ってしまったのだそうです。皆さん、鉄分は本当に大切だということを、今回私は学びました。ぜひ鉄分が不足しないように毎日の食事を気を付けて下さい。

 心臓が頑張り過ぎて弱ってしまうと、様々なところに影響が及びます。家族は腎臓の機能も弱っているそうです。心臓が弱くなると腎臓の機能も弱くなるそうです。心臓の働きは本当に大切なのだなと思います。心臓が弱ると血流も弱くなり、それは生命力も弱まるということです。川の水も流れなくなると、そこは生命が存在しない荒野になってしまいます。

 何度か話したことですが、昨年の11月から今年の1月に掛けて、安倍川の水が完全に涸れて荒野のような状態になりました。その後、2月と3月には雨が降り、特に3月は大雨の日が何度かありましたから、いま安倍川の水量は豊かです。カモやサギなどの水鳥も川で憩っています。水が豊かに流れる川には、命があります。

 命の川は、霊的な命の象徴でもあります。ヨハネの福音書のイエス様はおっしゃいました(週報p.2)。

ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 また、エゼキエル書は、こんな川の光景を描いています。

エゼキエル47:12 「川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 私たちの身体がよみがえった時、私たちの身体の中を巡る血液は、もしかしたら聖所から流れ出る水なのかもしれません。そうして、私たちの内に御霊の実が実り、私たちは永遠の平安の中でイエス様と共に過ごすことができます。

③食卓に私たちを招くイエス様に応答する
 この後、私たちは聖餐式に臨みます。イエス様は私たちを食卓に招いて下さっていますから、私たちはそのイエス様の招きに応答します。

 イエス様は取税人や罪人たちと食事をしました。ザアカイとも食事をしました。やがてイエス様を裏切る弟子たちとも最後の晩餐の時を持ちました。イエス様を裏切った弟子はユダだけではありません。イエス様が捕らえられた時に弟子たちは逃げ出してしまいましたし、ペテロはイエス様を三度知らないと言いました。私たちもまた罪人ですから、罪人の私たちを食卓に招いて下さっているイエス様に心から感謝したいと思います。

 一方で、この聖餐式の食事はイエス様を信じて洗礼を受けた者、バプテスマを受けた者だけが取ることが許されています。バプテスマを受けた者は、新生した者、新しく生まれた者ですから、バプテスマを受けた私たちの身体の半分はよみがえりの身体であるとも言えるかもしれません。

 最初に話した通り、イエス様と共に過ごしている「今」を私は大切にしたいと思っています。イエス様と共に今を大切に生きるなら、すべてをイエス様にお任せできて、よみがえりの身体がどのようであろうと、素晴らしいものに違いないという確信が持てます。きょうのメッセージでは、よみがえりの身体とはこのようなものかもしれないという話をしましたが、それらはよく分からないことですから、確かなことではありません。でも今、イエス様が私たちと共にいて下さることは確かなことです。この確かなことを大切にしたいと思います。今から持つ聖餐式で、確かにここにいらっしゃるイエス様と共に、食事を楽しみたいと思います。

 一言、お祈りします。
コメント

主がお入り用なのです(2021.3.28 礼拝)

2021-03-29 06:25:07 | 礼拝メッセージ
2021年3月28日棕櫚の聖日礼拝メッセージ
『主がお入り用なのです』
【ルカ19:28~38】

はじめに
 きょうは棕櫚の聖日です。そして、きょうから受難週に入ります。イエス様はろばの子に乗ってエルサレムに近づいて入京して、木曜日の晩に弟子たちと最後の晩餐の食事をした後に捕らえられて金曜日に十字架に付けられました。

 きょうの聖書箇所では、イエス様が弟子たちに子ろばを連れて来るように命じています。その際には、その子ろばを「主がお入り用なのです」と言いなさいとイエス様はおっしゃいました。この記事から、きょうは次の三つのポイントで話をします。

 ①熱狂的な歓迎に必要だった子ろば
 ②主は私たちの一人一人を必要としている
 ③「安心して天国に行きなさい」を宣べ伝える

①熱狂的な歓迎に必要だった子ろば
 ルカ19章28節から見て行きます。

ルカ19:28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。

 19章の前半からイエス様はエリコの町にいました。エリコでイエス様はザアカイを救いに導きました。そして、28節でイエス様はさらにエルサレムに近づいて行きました。

29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

 二人の弟子は、イエス様に言われた通りにしました。31節から34節は後で見ることにして、35節に飛びます。

35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。

 イエス様は子ろばに乗ってエルサレムに近づきました。人々は、この子ろばに乗ったイエス様を見て、熱狂的に大歓迎しました。36節、

36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。

 ルカの福音書には書かれていませんが、ヨハネの福音書には人々がなつめ椰子の枝を取って出迎えたと書いてあります(ヨハネ12:13)。この「なつめ椰子」は新改訳聖書の第3版までは「しゅろ」と書かれていました。きょうの聖日を「棕櫚の聖日」と呼ぶのは、そのためです。この「なつめ椰子」或いは「しゅろ」は英語では「パーム」と言いますから、英語では「棕櫚の聖日」のことを「パーム・サンデー」と呼びます。

37 イエスがいよいよオリーブ山の下(くだ)りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」

 人々が熱狂して歓迎する様子を見て、これはゼカリヤ書9:9の預言が成就したことを弟子たちも感じたのでしょう。きょうの交読の時に読み、週報のp.2にも記したゼカリヤ9:9にはこのように書かれています。

ゼカリヤ9:9 娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。

 こうしてイエス様は王様としてエルサレムに近づき、人々に熱狂的に歓迎されました。イエス様は最初から、こうなることを想定して、子ろばを連れて来るように弟子たちに命じたのだろうと思います。

 では、イエス様はなぜこのような目立つ方法でエルサレムに入京することにしたのでしょうか?イエス様はエルサレムに入った後、木曜日の深夜に捕らえられて、まずユダヤの裁判にかけられます。そして、その後でローマの総督のピラトの所に連れて行かれて、ローマの裁判を受けます。ローマの裁判で人々はイエス様を「十字架に付けろ」と叫びました。これは悲しいことでしたが、この「十字架に付けろ」と叫んだ人々の多くがペンテコステの日にペテロの説教によって心を刺されて回心して、イエス様の弟子に加えられました。イエス様はこのことをも見通した上で、子ろばを連れて来るように命じたのかもしれませんね。

 もしイエス様が子ろばに乗らなかったら、人々は熱狂してイエス様を王様として大歓迎することはなかったでしょう。この熱狂的な歓迎があったからこそ、イエス様に失望した人々はイエス様を「十字架に付けろ」と叫びました。そして、「十字架に付けろ」と叫んだ者たちの多くがペンテコステの日にペテロの説教に心を刺されて回心してイエス様の弟子に加えられました。使徒の働きには、ペテロがペンテコステの日に次のように言ったことが書かれています。

使徒2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 イエス様は、ここまでを見通して、子ろばを連れて来るように二人の弟子に命じたのではないか、という気がします。

 ですから、子ろばはとても重要な役割を担っていました。もしイエス様が子ろばに乗らなかったなら、ペンテコステの日に多くのユダヤ人たちが回心することもなく、キリスト教は小規模な宗教として、すぐに消滅していたかもしれません。

②主は私たちの一人一人を必要としている
 さきほど飛ばした31節から34節までを先ず見ましょう。31節と32節、

31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。

 イエス様はすべてを見通していました。物事はイエス様が言われた通りに運んで行きました。33節と34節、

33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。
34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。

 主イエスは子ろばをお入り用としていました。そうして、子ろばは主のお役に立つことができました。子ろばがいなければ、ペンテコステの日に多くの人々がイエス様の弟子に加えられることがなかったのだと思います。

 そして、主は私たちの一人一人も必要としておられます。このことは、棕櫚の聖日の説教では、よく語られることではないかと思います。この静岡教会でも語られたことがあるかもしれませんね。

 主は教会の建て上げに様々な人を必要としています。ピアノを弾く人、お掃除をする人、お花を活ける人、礼拝の司会をする人、受付をする人、感謝祈祷をする人、教会学校の先生をする人、これら教会の働きを続けるのに必要な人々は皆、主イエス様が「お入り用」としている人々です。

 何か特別な働きを担っていなくても、この場にいて共に賛美し、共にお祈りをしていただけるだけでも、私たちにとっては励みになりますから、感謝なことです。先週行われた葬儀に多くの方々が参列して下さったことも、ご遺族には大きな慰めと励ましになったことと思います。

 私たちは兄弟姉妹が天に召された時には、ご遺族への天からの慰めをお祈りします。その神様による慰めとは、神様がご遺族に直接働きかける慰めもあると思いますが、神様が私たち教会員の内にも働いて、葬儀に参列したり、弔電やお花を送ったりして、ご遺族を慰めるようにすることも含まれているのでしょうね。主は私たちをあらゆる機会に用いようとされています。

 きょう来て下さっているギデオンの兄弟方も、主がお入り用とされて、聖書をいろいろな場所で配布するという尊い働きをしておられます。本当に感謝なことだと思います。私たちはギデオンの働きのためにも、いつもお祈りしていたいと思います。

③「安心して天国に行きなさい」を宣べ伝える
 ここでは、私自身の証しをさせて下さい。イエス様は、この私には、どのような働きを期待しておられるのだろうか、ということをここ2週間ほど考えていましたので、そのことを証しさせていただきます。

 2週間前に、私の出身教会の季刊の印刷物の編集をしている方から原稿執筆依頼がありました。この季刊の印刷物の次の発行日は4/4のイースター聖日で、今回は2月に天に召されたE牧師の特集を組むとのことでした。私への原稿依頼は、私がこのE牧師のガウンを2014年に引き継いでいたことに絡めて何か書いて欲しいという依頼で、締切は昨日の土曜日でした。それで、ガウンを引き継いだ私はどんな働きを神様から期待されているのだろうか?ということを、ここ2週間考えていました。主は何をお入り用としているのか、そのことを考えていました。

 実は私個人の中では分かっていて、それは平和のために働くことです。しかし、教会の皆さんと分かち合える形で書くとしたら、どんなことを書いたら良いのだろうか、悩ましく思っていました。毎年広島の平和公園に行って祈っている私の平和への思いを教会の皆さんと分かち合うのは難しいですから、そのまま書いても伝わりにくいでしょう。それで、どう書くべきか悩んでいました。

 それで、書けないでいたところ、教会員のMさんが天に召されて、葬儀を行うことになりましたから、原稿のことを考えるのは一旦中断しました。そして、葬儀を終えてから再び、神様は何を期待してガウンを引継ぐ恵みを私に与えて下さったのかを、考え始めました。そして、その時に示されたのが、告別式の説教の中で語った「安心して天国に行きなさい」のことでした。神様は「安心して天国に行きなさい」とおっしゃるイエス様のことを宣べ伝える働きを、私に期待しておられるのかもしれないと思い、そのことを原稿に書いて送りました。

 告別式の説教のタイトルはマルコ5:34のみことばから、「安心して行きなさい」でした。マルコ5章34節でイエス様は、この標語聖句にあるように、「信仰があなたを救ったのです。苦しむことなく、健やかでいなさい。」とおっしゃいました。しかし、実はこの二つの文の間に「安心して行きなさい」が挟まっています。「安心して行きなさい」を含めると、ちょっと長くなるので省略したのですが、Mさんが病院に入院してから、私の中では「安心して行きなさい」が心に響くようになりましたから、それを説教題にしました。

 入院したMさんは最期の時は退院してご自宅で過ごすことができました。容態が安定しないと退院できませんでしたから、奇跡的なことだったと思います。きっとイエス様がMさんに「安心して自宅に行きなさい」とおっしゃって、容態を安定させて下さったのだと思いました。そして、「安心して自宅に行きなさいと」おっしゃったイエス様はその三日後に、今度は「安心して天国に行きなさい」とおっしゃったのだと思いました。

 告別式を終えてから私は再び、神様からどんな働きを期待されているのかを考えました。そうして示されたのが、「安心して天国に行きなさい」とおっしゃるイエス様を宣べ伝える働きが、期待されている働きではないか、ということです。

 自分が天国に行けるか行けないかは、神様が決めることです。自分では決められません。でもイエス様が神の子キリストであることを信じる者はイエス様の名によっていのちを得る(ヨハネ20:31)と聖書に書いてありますから、イエス様を信じた者は天国に行けるという安心感があります。つまりイエス様は、ご自分を信じる者には「安心して天国に行きなさい」とおっしゃって下さいます。

 そして、長血の女のようにイエス様にぐいぐい近づいて行くなら、私たちはもっと安心して天国に行くことができるでしょう。イエス様を近くに感じれば感じるほど、安心の度合いは大きくなります。安心の度合いが大きければ、心の平安も大きくなり、それが結果的に平和の働きにつながるのだ、ということを示されています。

 イエス様に近づく方法は何通りかがあると思います。お祈りすることを通じて、イエス様に近づく方法もあります。日々ディボーションの時間を持って、御父と御子との交わりの中に入れていただくなら、イエス様をさらに近くに感じるでしょう。受難週のディボーションのために、今年も「受難週の祈り」が送られて来ましたから、是非ご活用下さい。

 そして、聖書の探究によっても、イエス様を近くに感じることができるようになります。聖書の記事に関して新しい気付きがあった時、それは自分で気付いたのではなくて、イエス様が気付かせて下さってのですから、イエス様をもっと近くに感じるようになります。これらを通じて、イエス様をもっと近くに感じるようになるなら、私たちはもっと安心して天国に行くことができるでしょう。

おわりに
 長血の女は自分からぐいぐいイエス様に近づいて行きました。私たちも自分からぐいぐいイエス様に近づいて行くことができたら良いなと思います。そのために私たちにできることを、イエス様はもう一つ、示して下さっています。それは、子ろばとしての自分は、どんなことができるだろうか?を考えてみることです。子ろばは主のお入り用として主のみもとに連れて来られて、立派にお役に立つことができました。

 子ろばは私たちです。主は、私たちの一人一人をお入り用としています。自分はイエス様のためにどんなことができるのか、お一人お一人で考えてみるなら、きっとイエス様にもっと近づくことができると思います。そうしてイエス様にもっと近づくなら、もっと安心して天国に行くことができます。

 このことに思いを巡らしながら、しばらくお祈りする時を持ちましょう。

30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。
31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
コメント

戦災で滅びる都のために泣いたイエス(2021.3.21 礼拝)

2021-03-26 07:29:51 | 礼拝メッセージ
2021年3月21日礼拝メッセージ
『戦災で滅びる都のために泣いたイエス』
【ルカ19:41~44】

はじめに
 今日の箇所の直前のルカ19章28~40節にはイエス様が子ろばに乗ってエルサレムに近づいて行った場面があります。この箇所は来週の棕櫚の聖日に開く予定にしています。聖書の順番から言えば、子ろばに乗ったイエス様の記事を開いた次の週に、きょうの都のために泣いたイエス様の記事を開くのが良いのですが、棕櫚の聖日の次の聖日はイースターです。イースターにきょうの箇所はふさわしくないと思いますから順番は逆ですが、きょうは都のために泣いたイエス様の記事をご一緒に見ることにします。

 きょうは次の三つのポイントで見て行きます。

 ①紀元70年に戦災で滅びたエルサレム
 ②十字架の苦しみの後も絶えない争い事
 ③垂れ流さずに浄化すべき怒りや憎しみ

①紀元70年に戦災で滅びたエルサレム
 41節をお読みします。

41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。

 子ろばに乗ったイエス様はいよいよエルサレムのすぐ近くにまで来ました。45節には、イエス様が宮に入ったことが書かれていますから、41節は本当にエルサレムの城門のすぐ手前まで来ていたということでしょう。

 イエス様はそこで泣きました。イエス様は子供の頃からエルサレムには何度も来ていました。しかし、エルサレムのために泣いたのは初めてではないでしょうか。

42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

 エルサレムは平和に向かっていませんでした。そうして、この時から約40年後の紀元70年に、エルサレムはローマ軍の攻撃によって滅ぼされてしまいました。ユダヤ人たちがローマ帝国に向かって反乱を起こしたからです。

 ところで、ここでは「おまえ」ということばが2回使われていますね。43節の「おまえ」と44節の「おまえ」を合わせると、全部で7回使われています。元のギリシャ語では全部で9回使われています。この短い箇所に全部で9回も使われているところに、イエス様のエルサレムへの深い愛が見て取れます。

 さて「おまえ」は英語では「you」ですから、「あなた」とも訳せますね。イエス様はエルサレムを深く愛していましたから、私は「あなた」のほうが愛情がこもっていて良いような気がします。「おまえ」が9回もあるとイエス様は怒っているような感じを受けますが、イエス様は愛するエルサレムのために涙を流して泣いています。「あなた」が9回のほうが、イエス様の深い愛情と悲しみが読者に伝わるのではないかなと個人的には思っています。続いて43節と44節、

43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

 エルサレムはローマ軍に包囲されて攻め滅ぼされてしまいました。一つの石も以前のままではなかったほどに、徹底的に破壊し尽くされてしまいました。それは平和の機会を逃してしまったからです。イエス様の十字架の死と復活が示されたことで、もしすべてのユダヤ人が悔い改めて神に立ち返り、平和を求めるようになったのなら、こんなことにはならなかったでしょう。イエス様は残念でならなかったことでしょう。

 イエス様が涙を流すほど悲しんだのは、エルサレムの滅亡が初めてではないから、ということも大きいでしょう。紀元前600年頃の旧約の時代、預言者で言えばエレミヤやエゼキエルの時代に、エルサレムはバビロン軍の攻撃によって廃墟となり、人々はバビロンに捕囚として引かれて行きました。預言者のイザヤやエレミヤ、エゼキエルらは、この絶望のどん底からの復興を励ますことばを預言して、人々に希望を与えました。そうして約70年後にエルサレムへの帰還を果たすことができて、神殿と城壁の再建も成し遂げることができました。

 このエレミヤ・エゼキエルの時代のエルサレムの滅亡とバビロン捕囚は、イスラエルの民族にとっては二度と繰り返したくない悲劇でした。それなのに、そのエルサレムの滅亡が再び繰り返されることをイエス様は知っていました。前回の滅亡はあまりにも悲惨な出来事でした。ですから、それが繰り返されることはイエス様にとってやるせないことだったでしょう。しかも、それは十字架の「後」に起きるのです。

②十字架の苦しみの後も絶えない争い事
 イエス様は、これから十字架の苦しみを受けるためにエルサレムに入ります。それは人々の罪を赦すためです。そうして赦された人々が神に立ち返るなら平和がもたらされます。ですからイエス様の十字架の苦しみによって実際に平和がもたらされるなら、イエス様の苦悩も少しは軽減されたかもしれません。しかし、イエス様の十字架から二千年が経った現代でも、世界は依然として平和になっていません。もちろん、私たちクリスチャンのようにイエス様を信じて心の平安をいただいている者たちもいます。でも、多くの人々は心の平安を得ることができていません。イエス様は自分が十字架を受けた後でも、そんなに簡単には平和にならないことを知っていました。これはイエス様にとってはつらいことです。

 先週の教会学校では、イエス様が深夜にゲッセマネの園で苦悩の祈りをささげる場面が開かれました。もうすぐ夜が明けようとしていました。夜が明ければイエス様は苦しみを受けて十字架ではりつけにならなければなりません。イエス様は、できるならそうなりたくないと願っていました。でも、天の父の御心のままにして下さいと祈りました。このイエス様の苦悩は、もしユダヤ人が全員救われて聖霊を受けるのであれば、少しは軽減されたかもしれません。でも、イエス様を信じたユダヤ人は一部であり、多くのユダヤ人たちは信じませんでした。そうして、エルサレムは再び滅びる道へと向かって行きます。イエス様はそのことを知っていました。十字架に向かうイエス様にとって、これほど悲しいことはなかっただろうと思います。

 さらに言えば、イエス・キリストを信じて聖霊を受けたクリスチャン同士でも、争いが絶えませんでした。パウロやヨハネが教会の人々に宛てた手紙には、あちこちに「互いに愛し合うべきこと」が書かれていますね。それはつまり、クリスチャンである教会の人々でさえも「互いに愛し合うことが」できていなかったということです。

 パウロは書きました。

ローマ12:10 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。

 ヨハネも書きました。

Ⅰヨハネ 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

 手紙の中でこのように書かれているのは、教会の人々が互いに愛し合うことができていなかったからです。同じクリスチャン同士でさえ互いに愛し合うことができず、争い事が絶えないのであれば、教会の外の世が平和にならないのは当然でしょう。これではイエス様が何のために十字架に付いたのか分からなくなってしまいます。イエス様はそのこともご存知だったでしょう。ですから、エルサレム入りを目前にしたイエス様の中にはゲッセマネの祈りの時と同じように深い苦悩と悲しみとがあっただろうと思います。イエス様は涙を流して泣きました。

③垂れ流さずに浄化すべき怒りや憎しみ
 私たちは十字架のイエス様を大切にしています。十字架のイエス様の苦しみを覚えて、自らの罪深さを悔い改め、罪が赦されたことに深く感謝します。十字架のイエス様のことを絶えず覚えて、信仰の道を歩みます。十字架のイエス様のことをいつも忘れずにいることは、とても大切なことです。

 そしてまた、イエス様がエルサレムを見て泣いたことも、十字架に負けず劣らず、とても大切なことだと思います。十字架のことをいつも忘れずに生活するのと同じように、エルサレムを見て泣いたイエス様のことも、いつも忘れないでいるべきだと私は思っています。そうして、平和のために働くべきだと私は個人的に思っています。

 世の中は怒りで満ちています。私はSNSのツイッターをよく見るのですが、ツイッター上も怒りのつぶやきで溢れています。

 5年前には、こんなツイートが話題になりましたね。

 「保育園落ちた日本死ね」

 「保育園落ちた日本死ね」は3年ぐらい前のツイートかなと思っていたら、もう5年にもなるのですね。今はこの種の怒りがツイッター上だけでなく、世の中全体に満ち溢れています。ちなみに「保育園落ちた日本死ね」は、日本の政策に怒りをぶつけたものです。保育園が足りず、抽選に当たらなければ子供を保育園に預けることができません。預けることができなければ働きに出られず、収入も得られません。どうやって生活すればいいんだと、怒りを吐き出しています。女性が活躍できる社会の実現とか言いながら、女性が社会で活躍できる環境がぜんぜん整っていないじゃないかと怒っています。

 このツイートが国会で取り上げられて、このことがきっかけで保育園の問題が十分とは言えないまでも改善する方向へと向かいましたから、こういう怒りも時には必要なのでしょう。しかし、こういう怒りをストレートに吐き出すツイートが溢れかえるようでは、社会はトゲトゲしくなり、生きづらいものになります。

 怒りを薄めずにストレートに吐き出すことを、私は「怒りの垂れ流し」と呼びたいと思います。私の小学生時代と中学生時代、すなわち1960年代から1970年代に掛けては公害の問題が深刻になっていました。工場から排出される廃液をそのまま河川や海に垂れ流すことで川も海も汚染されました。工場からの煙もまた空気を汚しました。製紙工場が多い富士市では空も汚れましたし、海も田子の浦港のヘドロの問題が深刻なことが連日のように報道されたことを私はよく覚えています。

 怒りもまた、浄化せずにそのまま垂れ流せば、社会の空気を汚します。そういう空気の中で暮らすなら、人々の心の内に平安はなく、世の中はなかなか平和にならないと思います。多くの方々がイエス・キリストを信じて、聖霊を受けて、御霊の実を結んでほしいと願います。ただ、私たち聖霊を受けているクリスチャンでも、怒りを垂れ流してしまうことはありますね。怒りをしずめることは、なかなかに難しいことです。

 そういう時には、怒りの感情を神様の方向に向けて、怒りを全部神様に吸い取ってもらうようにすれば良いと思います。ダビデはそれができていた人なのだと思います。きょうの詩篇7篇でダビデはこのように神様に訴えています。詩篇7篇1節と2節、

詩篇7:1 私の神、よ私はあなたに身を避けます。どうか追い迫るすべての者から私を救い、助け出してください。
7:2 彼らが獅子のように私のたましいを引き裂き、助け出す者もなく、さらって行かないように。

 ダビデは助けを求めていますから、苦しんでいます。と同時に、自分を苦しめる敵に対してダビデは激しい怒りを感じているはずです。しかし、ダビデは怒りを直接敵にぶつけるのではなくて、主に救いを求めています。そして自分の代わりに主に怒りをもって立ち上がってほしいと願っています。6節です。

6 よ、御怒りをもって立ち上がり私の敵の激しい怒りに対してご自身を高くし、私のために目を覚ましてください。あなたはさばきを定められました。

 このようにダビデは自分が怒りを吐き出すのではなく、主が怒りをもって立ち上がり、主にさばいていただきたいと願っています。これこそが平和を築く道であろうと思います。ローマ人への手紙12章19節でパウロは書きました。

ローマ 12:19 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。

 私たちはどんなに相手が憎くても、怒りを直接相手にぶつけるのではなく、主にお委ねしたいと思います。主に、自分の怒りを浄化していただき、心の平安を得たいと思います。そうして人に向けては穏やかに接したいと思います。

おわりに
 きのうの土曜日の朝、Y兄が天に召されたという知らせがありました。すぐにお宅に伺って、臨終のお祈りをささげさせていただきました。Y兄は、とても穏やかな顔をされていました。イエス様に導かれて平安の中で天に召されていったのだと思います。私たちも同じ恵みに与っています。イエス様はいつも私たちと共にいて下さいます。このことに深く感謝したいと思います。

 私たちの心の内には様々な感情が生じます。ドロドロした感情もあります。怒りもあります。そうした感情をイエス様はすべて吸い取って下さり、浄化して下さり、平安だけを与えて下さるお方です。怒りやドロドロをそのまま外に垂れ流せば、かつての富士市の工場が空や海を汚したように、社会全体が汚れます。ですから私たちはイエス様に、それらの汚れた感情を浄化していただきたいと思います。

 そうして私たちの皆が平安になれば、イエス様はもはや泣くことはありません。きょうの聖書箇所のルカ19章41節のイエス様は、「この都のために泣いた」ではなく、「この都のために喜んで祝宴を開いた」となるでしょう。イエス様が大喜びして祝宴を開く様子を見たいなあと思います。

 ですから私たちは、いつも十字架のイエスを覚えているのと同じように、泣いているイエス様のことも覚えていたいと思います。そうしてイエス様が泣き顔から喜ぶ顔になりますようにと願い、祈っていたいと思います。

 しばらくご一緒に、お祈りしましょう。
コメント