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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

俳句と信仰の共通点①(2020.9.23 聖書と祈りの会)

2020-09-25 14:14:20 | 祈り会メッセージ
2020年9月23日 聖書と祈りの会・勧話
『俳句と信仰の共通点①』
【ルカ10:38~42】

 月1回の水曜日(最終木曜日の前日)の午前の聖書と祈りの会では、これから下記の4回シリーズの予定で、「俳句と信仰の共通点」について話してみたいと考えています。

 1.「心の余裕」が大切(9月)
 2.五感と霊性が磨かれる(10月)
 3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)
 4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)

 私の俳句歴はまだ1年ちょっとで、それも年4回の教会の「お季楽俳句会」に合わせて、一つの季節に少ない数しか作りませんから、まだまだ初心者の域を脱していません。しかしそれでも、「俳句」と「信仰」には共通点が多いことに気付く程度には、俳句に馴染んで来たと感じています。

 今日は「1.『心の余裕』が大切」という俳句と信仰との共通点について考えてみたいと思います。

 聖書箇所は、ルカの福音書10章38~42節です。

10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」

 心の余裕が無い時にも、もちろん俳句は作れると思いますし、信仰生活を送ることもできると思います。いや、むしろ苦しくて心に余裕が無い時ほど俳句や信仰が心の支えになるということもあるでしょう。

 K姉が貸して下さった「秋元不死男句集」には、昭和16年に治安維持法違反の容疑で逮捕された不死男が獄中で作った句が多く収められています。2年間の苦しい獄中生活の中では俳句を作ることが不死男の心を慰めたのだろうと想像します。

 ちなみに何が治安維持法に引っ掛かったかと言うと、昭和12年作の

 冬空をふりかぶり鉄を打つ男

という俳句だそうです。製鉄所で鉄板を打つ男の逞しさに感動して作った句だそうですが、逮捕理由は、この句の「鉄」は資本主義を象徴し、それを労働者が打つのだから、プロレタリア革命を暗示した俳句とされた、とのことだったそうです。それで2年間も投獄されたのですから、まったく理不尽ですね。

 私たちのインマヌエル教団の創設者の蔦田二雄牧師も、戦時中に2年間投獄されていました。獄中に聖書を持ち込むことはもちろん許されなかったと思います。しかし、そんな中でも蔦田牧師の頭の中には聖書のみことばがしっかりと入っていたと思いますから、聖句を通して神様との交わりを維持して慰めを得ていたことだろうと思います。

 そんな風に、心に余裕が無い苦しい時にこそ、心の支えになるという一面が俳句と信仰にはあると思います。しかしもう一方で、心の余裕がないと、上記の2~4の点において成長することは難しいのではないかとも考えます。

 今年の5月と6月、私は天に召される時が近づいていたY兄とH兄へのお見舞いと葬儀で、俳句を作る心の余裕が全くありませんでした。ですから、7月の初めが投句の締切だった夏の季語の第5回お季楽俳句会は全く不調でした。心に余裕が無いと、季節を感じることがなかなかできず、従って俳句もなかなか作れないと感じました。そして上記の2~4を感じることも難しくなると思いました。すると2~4の点で成長することも難しいでしょう。

 きょうは予告編的に上記の2~4の俳句と信仰の共通点をごく簡単に話しておきます。

 まず「2.五感と霊性が磨かれる(10月)」について。
 五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のことですが、中では私は俳句も信仰も「触覚」が極めて大事だと最近感じています。「触覚」の中でも、自分で触わるほうの能動的な側ではなく、触れられるほうの受動的な皮膚感覚、肌感覚です。四季の暖かさや涼しさは全身の肌で感じるものですし、日光も全身で浴びます。蝉の声や虫の声などの音も聞くのは耳ですが、音は全身を包みます。良い音楽を聞いて感動した時など全身に鳥肌が立つことがありますね。或いはまた花火のすぐ近くでは大きな音の振動が体全体に響きます。花の香りも嗅ぐのは顔に付いている鼻ですが、香りは全身で浴びます。焼肉屋に行って来た時などは焼肉の臭いが全身に付いています。味覚も味わうのは舌ですが、おいしい物を食べて感動すると全身がゾクゾク震える至福感があります。神様の愛もまた全身で感じるものです。神様の大きな愛に全身が包まれていることを感じる時、全身がゾクゾク震える感動を覚えます。詳しくは来月話すことにします。

 次に「3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)」について。
 時空スケールというのは時間と空間のスケールのことです。俳句で時間と空間のスケールの大きいものと言うと、私は中学か高校の国語で習った、『おくのほそ道』の俳句を思い起こします。例えば、芭蕉が平泉で詠んだ有名な

 夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つはものどもが ゆめのあと)

です。この句は、源義経を匿った奥州藤原氏を頼朝が滅ぼしたことに芭蕉が思いを馳せて涙を流した時に作った句です。奥州藤原氏が滅んだのが1189年で、芭蕉が平泉を訪れたのが1689年さということですから、芭蕉は500年前の兵(つわもの)たちの戦(いくさ)の様子に思いを馳せて涙を流したことになります。ここに、この俳句の時間のスケールの大きさを感じます。

 或いはまた、越後路で芭蕉は

 荒海や佐渡によこたふ天河
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ)

という俳句を詠みました。この句には空間のスケールの大きさを感じます。

 一方、スケールの小さな俳句にも、もちろん味わいがあります。先ほどの秋元不死男の

 冬空をふりかぶり鉄を打つ男


槌を持った腕を振りかぶったその一瞬を切り取ったものですから、時間のスケールは小さなものですが、ここにも深い味わいがあると思います。このように俳句はスケールの大きいものと小さいものの両方に深い味わいがあります。

 聖書ももちろん同じですね。特に旧約聖書全体には時間と空間のスケールの大きさを感じると共に、ヤコブなど一人一人の登場人物に焦点を当てている時には、小さいスケールでの味わいがあります。

 そしてもう一つの「4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)」は、俳句を作る作らないに関わらず、山や川、花や虫たちや空の鳥を見ると、これらすべてをお造りになった創造主は本当にすごいなあと思い、感謝の思いが自然に湧きますね。そうして聖書を読んだ時にももちろん創造主への感謝の思いが湧きます。

 これらの2~4のことは、心の余裕が無いとなかなか感じられないことです。

 最初にご一緒に読んだマルタとマリアの箇所では、マルタがイエス様のもてなしの準備で心の余裕を失っていました。心の余裕を失っていては、イエス様が語る福音に心を向けることはできません。ゆったりとした心持ちでいることは、とても大切なことだと思います。

 今年の5月から私は、礼拝の前に週報を二つ折りにすることを止めました。これを止めると心に余裕ができることを、無会衆礼拝の期間に気付いたからです。

 無会衆礼拝の期間中は週報をメールで送信できなかった人には郵送で送っていました。近隣の方には自転車で直接届けましたが、遠方の方には郵送しました。遠方の方でも最低一回は車で直接お届けしましたが、それ以外は郵送していました。その場合の切手代は、二つ折りだと定形外の140円ですが、三つ折りなら定形ですから84円で送れます。10名ぐらいのことですが、期間が長引けば郵送代がかなり違って来ます。最初のうちは無会衆礼拝をいつまで続けなければならないか分からない状況でしたから、切手代を節約して三つ折りにしました。その場合、予め二つ折りにしてあると折り目だらけになってしまいますから、折らないようにしていました。

 そして、このことで礼拝前に週報を折らないことでゆったりとした気分でいられることに気付きました。週報の数は30数枚程度のことですが、ゆっくり折っていると時間が掛かってしまいますから、パッパと手早く折ります。すると、自然と気が急いて来てしまうのですね。礼拝前に気が急くようなことをすることは良くないことだと、無会衆礼拝の期間中に気付かされました。それで通常の礼拝に持ってからも、週報を折るのを止めました。そうして礼拝にはできるだけ、ゆったりした心持ちで臨めるように備えています。

 イエス様も心の余裕を失っていたマルタに言いましたね。最後に41節と42節をご一緒に読んで終わりたいと思います。

10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
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生まれ変わらせて下さる主(2020.9.17 祈り会)

2020-09-19 09:19:45 | 祈り会メッセージ
2020年9月17日祈り会メッセージ
『生まれ変わらせて下さる主』
【詩篇22篇】

22:1 わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。
22:2 わが神昼に私はあなたを呼びます。しかしあなたは答えてくださいません。夜にも私は黙っていられません。
22:3 けれどもあなたは聖なる方御座に着いておられる方イスラエルの賛美です。
22:4 あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼しあなたは彼らを助け出されました。
22:5 あなたに叫び彼らは助け出されました。あなたに信頼し彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的民の蔑みの的です。
22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
22:8 「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」
22:9 まことにあなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。
22:11 どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり助ける者がいないのです。
22:12 多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み悪者どもの群れが私を取り巻いて私の手足にかみついたからです。
22:17 私は自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし私を見ています。
22:18 彼らは私の衣服を分け合い私の衣をくじ引きにします。
22:19 よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。
22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。
22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
22:23 を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔よ主の前におののけ。
22:24 主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず御顔を彼から隠すことなく助けを叫び求めたとき聞いてくださった。
22:25 大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。
22:26 どうか貧しい人々が食べて満ち足り主を求める人々がを賛美しますように。──あなたがたの心がいつまでも生きるように──
22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。
22:28 王権はのもの。主は国々を統べ治めておられます。
22:29 地の裕福な者はみな食べてひれ伏しちりに下る者もみな主の御前にひざまずきます。自分のたましいを生かすことができない者も。
22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。

 今週は、この詩篇22篇が心に通っています。
 1節の「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」は、イエス様が十字架で叫んだ言葉として有名です。天の父と霊的に切り離されて陰府に下らなければならなかったことは、イエス様にとってもどんなにか恐ろしいことだったでしょう。しかし、イエス様は三日目によみがえって死を滅ぼして下さいました。それゆえ私たちはもはや死を恐れる必要はなくなりました。

 とは言え、私たちはしばしば困難に直面します。祈っているのに、なかなか応えられず苦難の時が続くと、神様に見捨てられているように思ってしまうこともあるかもしれません。しかし、もし神様から見放されているように感じるとしたら、それはむしろ自分の方が御心から離れた方向に歩んでいると考えたほうが良いのだろうと思います。自分では正しいと思っていても、実は御心から段々離れているということは有り得ることです。神様はそんな私たちを新しく生まれ変わらせて下さる方です。

 7節と8節、

22:7 私を見る者はみな私を嘲ります。口をとがらせ頭を振ります。
22:8 「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。」

 ダビデを嘲る者たちは主を信じていませんから、主はいないと思っています。そうして「に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。」と言ってあざけりました。しかし皮肉なことですが、彼らの言っていることは全く正しいのですね。主は確かにおられ、主は決して私たちを見捨てるお方ではありませんから、主に身を任せて助け出してもらえば良いのです。

 神様は敵をも使って私たちを新しく生まれ変わらせて下さる不思議なことを為さいます。主は不信仰なエルサレムをバビロン軍によって滅ぼし、バビロン捕囚を経てエルサレムを復興させて新しく生まれ変わらせ、イエス・キリストの降誕に備えさせました。9節にあるように、主は「私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方」です。ですから主は何度でも私たちを霊的に刷新させて生まれ変わらせることができる方です。14節と15節、
 
22:14 水のように私は注ぎ出され骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。
22:15 私の力は土器のかけらのように乾ききり舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上にあなたは私を置かれます。

 作り変えられる時、私たちは一旦はますますボロボロになり、徹底的に砕かれます。そうして砕かれた中で「救い出してください」と叫ぶ時、主の答が再び聞こえるようになります。20節と21節。

22:20 救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。
22:21 救ってください。獅子の口から野牛の角から。あなたは私に答えてくださいました。

 信仰の歩みとは、生まれ変わっては砕かれ、また作り直されては砕かれの繰り返しなんだろうなと思います。信仰を持って主から豊かな恵みを注がれると、どこか奢り高ぶりが出て来ます。パウロもそのことをローマ人への手紙で警告しています。

14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
14:3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。

 このように他人を見下したり、さばいたりする人の祈りを主は聞かれないでしょう。そうして祈りが聞かれないことがしばらく続くと、見捨てられたように感じるかもしれません。実際には主は私たちを決して見捨てたりはしません。しかし、私たちの中に奢り高ぶりがあるなら、祈りに応えないという方法で、へりくだることを促すのだろうと思います。そうして、おのれを低くして主に助けを求めるなら、主はその人を新しく作り直して下さいます。

 そして新しく作り変えられた私たちは再び主を賛美するようになります。22節と23節、

22:22 私はあなたの御名を兄弟たちに語り告げ会衆の中であなたを賛美します。
22:23 を恐れる人々よ主を賛美せよ。ヤコブのすべての裔(すえ)よ主をあがめよ。イスラエルのすべての裔(すえ)よ主の前におののけ。

 私たちは新しく作り変えられる度に、以前に増して主をまっすぐに賛美できるようになります。それが聖められるということなのでしょう。そうして聖められると聖書の言葉が以前にも増して響くようになり、もっと恵まれるようになります。しかし、そのことでまた奢り高ぶりが生じて、また砕かれるということの繰り返しなのではないでしょうか。

 砕かれることは苦しいことですが、その後には以前よりも素晴らしい恵みがいただけます。

 今の新型コロナウイルスの災いでは、一人一人の個人はもちろん、教会もまた変わることを強いられていると感じます。教会の何がどう変われば良いのか、それが何かは、なお祈りつつ主の導きを仰ぐべきだと思いますが、向かうべき方向はハッキリしています。それは、27節のようになることです。27節、

22:27 地の果てのすべての者が思い起こしに帰って来ますように。国々のあらゆる部族もあなたの御前にひれ伏しますように。

 そして、このことを次の世代にしっかりと伝えて行くことができるようにすることです。30節と31節、

22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
22:31 彼らは来て生まれてくる民に主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。

 このことのために、私たちは作り変えられ続けなければならないのだと思います。主はバビロン軍という敵を使ってエルサレムを作り変えました。そうしてイエス様の到来の準備をしました。それと同じように、主は新型コロナウイルスという敵を使って私たちをそして教会を作り変えようとしているのだと思います。

 具体的にどうしたら良いのか、砕かれながら、へりくだって祈り求めたいと思います。
 お祈りしましょう。

22:30 子孫たちは主に仕え主のことが世代を越えて語り告げられます。
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主は私たちの魂を守って下さる(2020.9.10 祈り会)

2020-09-11 15:45:10 | 祈り会メッセージ
2020年9月10日祈り会メッセージ
『主は私たちの魂を守って下さる』
【詩篇121篇・122篇】

◎詩篇121篇 <都上りの歌。>
121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
121:2 私の助けはから来る。天地を造られたお方から。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず あなたを守る方はまどろむこともない。
121:4 見よ イスラエルを守る方は まどろむこともなく 眠ることもない。
121:5 はあなたを守る方。はあなたの右手をおおう陰。
121:6 昼も日があなたを打つことはなく 夜も月があなたを打つことはない。
121:7 はすべての災いからあなたを守り あなたのたましい(魂)を守られる。
121:8 はあなたを行くにも帰るにも 今よりとこしえ(永遠)までも守られる。

◎詩篇122篇 <都上りの歌。ダビデによる。>
122:1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。
122:2 エルサレムよ 私たちの足はあなたの門の内に立っている。
122:3 エルサレム それは一つによくまとまった都として建てられている。
122:4 そこには多くの部族の部族が上って来る。イスラエルである証しとしての御名に感謝するために。
122:5 そこにはさばきの座 ダビデの家の王座があるからだ。
122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。
122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」
122:8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」
122:9 私たちの神の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

 きょうは詩篇の121篇と122篇を続けて読みました。
 122篇の1節で詩人は

詩篇122:1 「さあの家に行こう。」人々が私にそう言ったとき私は喜んだ。

と歌っています。

 主の家(神殿)に行って礼拝できることは、大きな喜びです。私たちの教会も、この春は新型コロナウイルスの感染拡大のためにライブ配信だけの無会衆の礼拝を経験しました。そうして1ヶ月半後に通常の礼拝に戻した時に、多くの方々が、教会に皆で集って礼拝をささげることができる喜びを語って下さいました。

 静岡では大都市圏よりはコロナウイルスの感染拡大が抑えられていますから、こうして教会で礼拝に集う喜びを皆さんと共有できていることを、とてもうれしく感謝に思います。

 さて、では主の家(旧約の時代は神殿、新約の時代は教会)に行って礼拝をささげることに、どうしてこんなにも大きな喜びを感じるのでしょうか。理由はいろいろあると思いますが、大きな理由の一つは「私の助けが主から来る」からでしょう。詩篇121篇の詩人は2節で、

121:2 私の助けはから来る。天地を造られたお方から。

と歌っています。

 主は私たちを助け、そして守って下さっていますから、そのことに感謝し、賛美して、引き続き守って下さるようにお祈りします。主は天地を造り、私たちの命も造り、万物を支配しておられますから、私たちを守ることができます。このことを私たちは日々感じていますから、日曜日ごとに教会に集って神様を賛美して礼拝します。

 続いて3節と4節、

121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
121:4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。

 3節で詩人は「私の足をよろけさせず、私を守る方」ではなくて、「あなたの足をよろけさせず、あなたを守る方」がまどろむこともないと歌っています。ここからは、詩人が一人で神殿がある都に上っているのでなく、多くの人々と一緒に連れ立って都を目指している様子が見て取れます。一人で神殿に礼拝することも喜びですが、多くの人々と喜びを共有できることは、もっと大きな喜びなのですね。私たちが礼拝で感じる喜びと同じですね。

 少し飛ばして7節と8節、

121:7 はすべての災いからあなたを守り あなたのたましい(魂)を守られる。
121:8 はあなたを行くにも帰るにも今よりとこしえ(永遠)までも守られる。

 主は万物を造って万物を支配しているお方ですから、すべての災いから私たちを守ることができます。じゃあ、今の新型コロナウイルスの災いからも守ってくれるはずだから、すぐに終息させてくれないのはおかしいじゃないか、主はどうして静観しているのか、と思う方もいるかもしれません。

 このことについて、小さな私たちには主の大きな御心は計り知れませんが、一つ言えることは7節にあるように主は私たちの「たましい(魂)」を守って下さるということです。主は私たちの肉体を守るよりも魂を守ることを優先します。それは悪霊(悪魔)の攻撃によって魂がダメージを受けて天の御国(天国)に行けなくなることほど、恐ろしい災いはないからです。肉体がダメージを受けても魂がダメージを受けなければ天の御国に入ることができます。しかし、魂が回復不可能なまでにダメージを受けて悪化してしまうと天の御国には決して入れません。

 ですから私たちは、魂を守って下さっている主に感謝して礼拝します。

 今年の1月1日に私は午前の元旦礼拝をこの教会で終えた後で、午後は日本基督教団の駿府教会で持たれた市内のクリスチャンの合同新年礼拝に出席しました。駿府教会は静岡鉄道の日吉町の駅の近くにありますから、私は田町から自転車で駿府公園の近くを通って行きました。そして途中、多くの人々が続々と浅間神社を目指して歩いて行くのを見ました。皆さん初詣に行くのですね。詩篇の<都上りの歌>で旧約の時代の民が連れ立ってエルサレムの神殿に上って行くように、静岡の市民も続々と浅間神社を目指します。その様子を見ていて、教会にもこれくらい続々と人が押し寄せてくれると良いなあと思ったものでした。

 私も41歳の時に高津教会に導かれる前までは毎年欠かさず初詣のお参りを神社でしていましたから、続々と神社に押し寄せる市民の気持ちはよく分かります。災いから守られて、一年を健康に過ごすことができるように祈ります。その他にも特別な祈りの課題があれば、そのことも祈ります。つまり教会で祈るのと表面的にはあまり変わりはありません。

 しかし、神社で祈るのと教会で主に祈るのとは大きな違いがあります。それは、神社で祈る人の多くはその神社に祀られている神がどんな神かを深く知りませんから、祀ってある神に向かって祈るというよりは、漠然とした対象に祈ります。そして自分が神によって造られたという意識を持たずに祈ります。

 一方、主は天地を創造し、動植物を造り、私たち人間をお造りになったことが聖書の冒頭の創世記1章に記されています。ですから教会では祈る対象の神様がどのようなお方かを、聖書を通してしっかりと知った上で祈っています。神である主は万物を創造し、万物を支配して私たちの命を造った方ですから、私たちの魂を守ることができます。私たちの肉体はダメージを受けることもあるかもしれませんが、主に守られているなら私たちの魂までもがダメージを受けることは決してありません。

 明日は9月11日で、19年前の2001年に9.11の同時多発テロが起きた日です。たくさんの乗客が乗ったジェット機を乗っ取って建物に突っ込むようなテロ行為は、魂が悪霊に乗っ取られた者しかできない残虐なことです。悪霊による魂への攻撃は、これほど深刻なダメージを魂に与えます。そして、これほど大きくはないにしても、私たちは全員、悪霊からの攻撃を大なり小なり受けています。ですから私たちは、主に魂を守っていただかなければなりません。

 詩篇に戻りましょう。122篇の6節、

122:6 エルサレムの平和のために祈れ。「あなたを愛する人々が安らかであるように。

 私たちも静岡の平和のために祈りたいと思います。「静岡を愛する人々が安らかであるように」と祈りたいと思います。主は私たちの魂を守って下さいますから、私たちは安らかでいられます。たとえ肉体は危険にさらされたとしても魂は守られますから、私たちには平和な心が与えられます。続いて7節、

122:7 あなたの城壁の内に平和があるように。あなたの宮殿の内が平穏であるように。」

 静岡の街の内に平和があるように、それぞれの家庭の内が平穏であるように祈りたいと思います。8節、

122:8 私の兄弟 友のために さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」


 主は魂を守って下さるお方ですから、私たちの心の内を守ることができます。心が悪霊の攻撃によって深刻なダメージを受けないように守られること、そうして心の内に平安を得ることが、最も大切なことではないでしょうか。

122:9 私たちの神の家のために 私はあなたの幸いを祈り求めよう。

 明日の9.11の同時多発テロの日を前にして、私たちは改めて、神様が私たちの魂を守っていて下さっていることに感謝したいと思います。また「さあ 主の家に行こう」と誘い合って礼拝をささげる喜びが与えられていることにも感謝したいと思います。

 そうして平和のために祈って行きたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

詩篇121:7 はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られる。
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成長させたのは神です(2020.9.3 祈り会)

2020-09-04 16:04:23 | 祈り会メッセージ
2020年9月3日祈り会メッセージ
『成長させたのは神です』
【Ⅰコリント3:6~9、出エジプト18章】

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 ちょうど4ヵ月前の5月3日の日曜日の午後に、私は教会のフェンスの下に朝顔の種を、そして通りに近い方のトイレの窓の下にコスモスの種を蒔きました。1週間ぐらいで芽が出て、5月の間はまだまだ2~3cmぐらいの高さでしたが、6月から8月に掛けてグングン成長しました。今コスモスは背丈がバスケットボールやバレーボールの選手ぐらいあります。肥料を月に1回与えましたが、あとは朝晩欠かさず水やりをしたぐらいのことしかしていませんから、正に成長させたのは神様だなと感じています。

 きょう、この第一コリント3章の御言葉に目を留めることにしたのは、この祈り会に集っている私たち自身の成長ももちろん大切ですが、それ以上に若い人たちの成長が必要だと感じているからです。みことばにあるように、成長させて下さるのは神様ですから、神様が若い人たちを成長させて下さるように、祈らなければならないと思わされています。

 では、成長するってどういうことでしょうか?そのことについて思いを巡らしていて示されたことを、きょうは分かち合いたいと思います。祈りに成長すること、聖書理解の面で成長することなど個人の成長も不可欠ですが、きょうは教会の成長という観点から考えてみたいと思います。

 教会の成長にとって必要なことは、教会員の一人一人が神様の御声に耳を傾けることで神様が自分に与えている役割を知り、それを証ししつつご奉仕に当ることではないかと思います。証ししつつ、ご奉仕に当る、この組み合わせが重要ではないかと思わされています。

 去年、Y兄が何度か礼拝の後、そしてクリスマスの折に証しをして下さいましたね。そうして教会運営に関して様々な提言をして下さいました。また、H兄は言葉による証しは少なかったですが、会堂の先頭に立つ背中が良い証しとなっていました。ご高齢になってからは教会の奉仕からは退きましたが、礼拝の時に先頭に立つこと自体が証しになり、私たちの良い励みになりました。
 N姉も、存在自体が良い証しとなってらっしゃいますね。それだけでなく、教会学校では言葉による良い証しもして下さっていますから、感謝です。ご奉仕面でも、今年の聖句を書いて下さっています。相当なご負担になっているようですから、来年の聖句はどなたかに引き継いでいただけると良いなと思っています。

 さてしかし、存在自体が証しというN姉やH兄の域に達するには長い歳月が必要です。ですから私たち、そして若い人たちに必要とされる証しは、やはり御言葉の証しだろうと思います。どんな御言葉を与えられたから、私はこういう奉仕をしたいという、御言葉の証しをしつつ教会の奉仕に当るというのが、教会の成長という観点から見た成長ではないかと今回、思わされています。

 この点で私がとても尊敬しているのが、N兄です。他教会の方のことで恐縮ですが、少しN兄について話させていただきます。N兄は牧師から重要な仕事を頼まれた時にすぐに返事をしないで、お祈りをして考える期間をもらったそうです。そうして祈っていて与えられた御言葉が、出エジプト18章だそうです。出エジプト記18章をご一緒に見たいと思います(旧約p.131)。

 ここには、モーセのしゅうとのイテロがモーセにアドバイスしたことが書かれています。まず18章1節にイテロの名前が出て来て、5節に荒野にいるモーセの所にやって来たことが書かれています。その翌日、13節にあるようにモーセは民をさばくために座に着きました。そして、この様子を見ていたイテロはモーセに言います。17節、

「あなたがしていることは良くありません」

 モーセは何から何まで全部ひとりでやっていましたから、それは良くないとイテロは言いました。そうして21節にあるように、モーセに千人の長、百人の長などを立てるように言いました。そして22節、

18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

 そうしてモーセはイテロの助言を聞いて、モーセの負担は大幅に軽減されました。この出エジプト18章の御言葉を与えられたN兄は、モーセを助けた千人の長、百人の長のように自分も忙しい牧師を助けようと思い、教会の重責を担うことにしたそうです。

 この重責を務めた後、N兄は様々な事情で都会を離れて地方で暮らしたいと考えて、地方に引っ越して、引っ越し先の地方の教会でも牧師を助ける善い働きをしました。それはやはり、事あるごとに自分は出エジプト18章の御言葉をいただいているという善い証しがあったからだと思います。御言葉の証しが無かったら、東京から地方に引っ越してすぐに中心的な働きをすることは絶対にできなかっただろうなと思います。御言葉の証しがあったから、皆が納得してN兄に信頼を寄せました。

 第一コリント3章に戻ります。6節と7節、

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

 4節を見ると、コリントの教会では「私はパウロにつく」、「私はアポロに」という人々がいました。しかし、成長させたのは神です。静岡教会でも他教団の教会で洗礼を受けた方もいれば、おなじ静岡教会でも導男先生、伊作先生、高桑先生、尾澤先生、河村先生など違う先生方から洗礼を受けています。しかし、成長させて下さるのは神様です。そして8節と9節、

3:8 植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

 皆、違う先生方から洗礼を受けましたが、私たちは一つになって働きます。それは私たちを成長させて下さったのは神様であり、私たちは神様の御声を聞きながら教会生活の道を歩んでいるからです。ですから御言葉の証しをしつつ奉仕するのは、とても大切なことであると改めて思わされています。

 この祈り会に集っている皆さんは交代で司会を務めていますから、その際にそれぞれ証しをして下さっています。若い方々にも、それができるように成長してもらいたいと思います。単に成長するように神様に祈るのでなく、御言葉の証しをしつつ奉仕ができるよう成長して欲しいと願います。神様が若い方々をそのように育てて下さるよう、お祈りしたいと思います。

 一言お祈りいたします。

「成長させたのは神です。」
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イエスの2度目の「来なさい」に応える(2020.8.20 祈り会)

2020-08-22 11:31:39 | 祈り会メッセージ
2020年8月20日祈り会メッセージ
『イエスの2度目の「来なさい」に応える』
【マタイ14:29】

14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

はじめに
 きょうはこのマタイ14章29節のイエス様の「来なさい」という言葉に注目します。

 この29節は今週の礼拝メッセージの聖書箇所のイエス様が湖の水の上を歩いた記事の中の一ヶ節です。礼拝メッセージでは水に沈んで溺れかけたペテロに注目しました。常識に捕らわれると常識に溺れて神様から離れてしまうことを話しました。このメッセージでは準備段階からずっとペテロに注目していたので、イエス様のことばに私はあまり注意を向けていませんでした。

 しかし礼拝の説教前の聖書朗読でK兄が「来なさい」と言ったのを聞いて、ハッとしました。聖書朗読の時はもう講壇に向かうために聖書は閉じていて、司会者が読むのを耳で聴いています。準備段階で何度も読んでいますから、改めて聖書を開くことはしていません。しかし読んでいたようで、あまりちゃんと読んでいなかったのですね。ペテロにばかり注目していましたから、K兄が読んだイエス様の「来なさい」にハッとしました。それで、今週の朝のディボーションでは、この「来なさい」に思いを巡らしました。

2度目の「来なさい」
 これまで私の中で最も響いていたイエス様の「来なさい」は、ヨハネの福音書1章の「来なさい。そうすれば分かります」(ヨハネ1:39)でした。イエス様は近づいて来た弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」(同1:38)と尋ね、「来なさい。そうすれば分かります」と言いました。そうして弟子たちはイエス様に付き従って行き、イエス様と一緒に旅をして最後にはイエス様の十字架を目撃することで、自分が何を求めていたのかを知ります。この「あなたがたは何を求めているのですか?来なさい。そうすれば分かります」は、ヨハネの福音書のイエス様の最初の言葉です。

 さてしかし、マタイ14章29節のイエス様のペテロへの「来なさい」は、二度目の「来なさい」です。イエス様はマタイ4章でペテロ(とアンデレ)に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言いました。ですから、マタイ14章の二度目の「来なさい」には、何かメッセージがありそうな気がして思いを巡らしました。

 その思い巡らしの助けになったのが、H姉が日曜日に配って下さった藤本満先生の聖会Ⅱのメッセージを書き起こしたものです。絶妙のタイミングだったと思います。やはり書き起こされたものを読むと、メッセージの全体像を頭の中で整理できて、とても良いですね。ご労に感謝します。

 聖会Ⅱで藤本先生は聖化、すなわち聖められることの必要性を語って下さいました。ヤコブは神様の祝福を追い求めました。私たちもヤコブのように神様の祝福を追い求め、魂の理想を追い求めたいと思います。藤本先生が聖化論について語って下さった箇所を引用します。

 私たちは聖潔(きよめ)派なんです。これは神の恵みによる聖化の恵みを重んじます。これは聖霊すなわち神の息吹による生まれ変わりです。これは大事です。ヤコブの見たはしごは天からのはしごです。つまり神の恵みは下降線なのです。そして下降してくださった神が今度は私たちを背負って天まで連れ上ってくださる、これが聖化論です。聖化論を忘れたクリスチャンと言うのは「恵みに胡坐をかいたクリスチャン」です。私は、恵みに胡坐をかいて寝そべっているクリスチャンには「そうではない」と言いたい。

 私たちは、まずはイエス様を信じて新しく生まれます。これが新生の恵みです。しかし、ここにとどまっていてはなりません。聖めの恵みに与り、イエス様に似た者とされていく必要があります。ただ、それはそんなに簡単なことではありません。様々な妨害が入ります。しかし、それでもイエス様だけを見て、イエス様から目を離さずにいて、イエス様に似た者にされたいと思います。

聖化の恵みへの招き
 このH姉が書き起こして下さったメッセージを読んで、マタイ14章のイエス様のペテロへの二度目の「来なさい」は、イエス様が聖化の恵みに私たちを招いていると感じました。14章9節、

14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:30 ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

 聖化の階段を上がって行くことには困難が伴います。すぐに妨害が入ります。そうして階段を転げ落ちそうになります。しかし、主よ、助けて下さいと叫ぶならイエスさまは助けて下さいます。31節と32節、

14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
14:32 そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。

 イエス様に似た者にされる聖化の階段を上って行くことは、イエス様が共にいても、そんなに容易なことではありません。しかし、聖めの信仰の入口に立つなら、見えて来ることがあります。

聖めの信仰に立つと見える悪魔の策略
 それは、人が神に近づこうとすることを妨害する勢力があるということです。分かりやすく言えば、悪魔の策略です。

 私たち聖潔派の信仰の源流に位置するジョン・ウェスレーが1738年5月24日にアルダスゲイトで回心した直後、ウェスレーはすさまじい誘惑の攻撃を受けます。今週になって私は『ウェスレイ日記』(山口徳夫訳)を読み始めましたから、その部分を引用します。まず有名なアルダスゲイトでの回心の箇所を読み、続いて誘惑の攻撃に遭った箇所を読みます。「私」というのはウェスレーのことです。

 夕刻、私はひどく気が進まなかったけれども、アルダスゲイト(原訳文オルダアスゲイト)街における集りに行ったところ、そこで或る人が、ルターのローマ人への手紙の序文を読んでいた。9時15分前ごろ、キリストを信じる信仰によって神が人心に働いて起こしたもう変化について、彼が述べていた時、私は自分の心があやしくも熱くなるのを覚えた。そしてキリストを、只ひとりの救い主であるキリストを信じた、と感じた。また彼は、私の罪を、私の罪をさえも取り去り給うて、私を罪と死との律法から救って下さったとの確証が、私に与えられた。

 帰宅の後、私は誘惑からの猛攻撃に出会ったので、叫んだところ、それらの誘惑は退散した。誘惑はくり返しくり返し逆襲してきたので、しばしば天を仰いだところ、神が「その聖所から助けを送って下さった。」そこで私は、現在の状態と、以前の状態との間に存在する主な違いを、発見した。以前には、恵みの下にいた時と同じく律法の下にいて、骨折りつつあった――そうだ、極力戦っていたのだ。けれどもあの頃はしばしばでなくとも時として、征服されていたのに、現在は常勝軍の状態になっている。

 この誘惑が具体的にどんな誘惑なのかは書かれていませんが、要するに人が神様の方を向くのを妨げる働きです。普段神様の方を向いていない人に対しては、そのまま神様の方を向かないようにして、普段神様の方を向いている人に対しては、神様の方を向かないように誘惑します。

 単に救われただけで聖めの信仰に立っていないと、自分が悪魔の策略にはまっていることに全く無自覚になり、せっかく救いの恵みに与っても神様からどんどん離れて行きます。聖会Ⅱでも藤本先生が語っていた、ヤコブの兄のエソウが空腹の誘惑に負けて長子の権利と交換にレンズマメの煮物を食べたことも同様です。引用します。

 今の私にとって必要なのは長子の権利ではなく、レンズマメの煮物の方がはるかに大切だ。こういうところは、私たちにあります。今の私に必要なものを求めていくうちに、魂の理想を失っていく。魂の理想というのは、神様との関係に非常に深い関わりを持っています。理想を売ってしまう私たちがいます。子供たちが中学生になった時部活に入ります。すると日曜日に試合になり、トーナメント制ですから休めません。今の自分に必要な事って、社会生活を送っていく時に、あるのです。今の自分にやりたい事、やらなければならない事があって、それは魂の理想より段々大きくなっていく。

 こうして、人は神様から離れて行き、最初は少し離れただけのものが、どんどん離れて行きます。これが悪魔の策略です。悪魔はこういう攻撃をするのだという自覚があれば戻ることができますが、自覚がないとどんどん神様から離れてしまいます。
 ですから私たちは、自覚なしに悪魔の誘惑にさらされ続けるのでなく、せめて自覚できるように、聖めの信仰に立ちたいと思います。そうすれば誘惑に遭った時にウェスレーのように、そしてペテロのようにイエス様に助けを求めることができます。イエス様はそんな私たちを必ず助けて下さいます。

おわりに
 教会には様々な向い風と高い波が押し寄せて、ペテロたちが乗った舟のように前進を阻まれることも多いですが、そんな教会の舟にイエスさまは聖化の階段を上がるように「来なさい」と言って下さいます。この聖めの道は困難ですが、イエス様は必ず助けて下さいますから、私たちは舟の中にいた弟子たちのように、「まことに、あなたは神の子です」と言って、皆でイエス様を礼拝したいと思います。
 一言、お祈りいたします。

14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。
14:33 舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。
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地球は一つの大聖堂(2020.8.13 祈り会)

2020-08-14 14:47:11 | 祈り会メッセージ
2020年8月13日祈り会メッセージ
『地球は一つの大聖堂』
【詩篇96篇1~13節】

はじめに
 きょうは詩篇を開きます。聖書の女性のシリーズの方は、メッセージが与えられたら、その都度語らせていただきます。

 詩篇96篇の全体を交読します。

96:1 新しい歌をに歌え。全地よに歌え。
96:2 に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。
96:4 まことには大いなる方大いに賛美される方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。
96:5 まことにどの民の神々もみな偽りだ。しかしは天をお造りになった。
96:6 威厳と威光は御前にあり力と輝きは主の聖所にある。
96:7 もろもろの民の諸族よに帰せよ。栄光と力をに帰せよ。
96:8 御名の栄光をに帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。
96:9 聖なる装いをしてにひれ伏せ。全地よ主の御前におののけ。
96:10 国々の間で言え。「は王である。まことに世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる。」
96:11 天は喜び地は小躍りし海とそこに満ちているものは鳴りとどろけ。
96:12 野とそこにあるものはみな喜び躍れ。そのとき森の木々もみな喜び歌う。の御前で。
96:13 主は必ず来られる。地をさばくために来られる。主は義をもって世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる。

天を造った主を賛美する私たち
 この詩篇の中心は、5節後半の、「主は天をお造りになった」だと思います。主は天と地の万物を創造して、私たちの命も主によって吹き込まれました。

 それゆえ私たちは主を賛美します。1節と2節、

96:1 新しい歌をに歌え。全地よに歌え。
96:2 に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。

 そして、この主の栄光は、私たちの間だけでほめたたえるのでなく、周囲にも語り告げなければなりませんし、さらには世界のあらゆる民に宣べ伝えなければなりません。3節と4節、

96:3 主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。
96:4 まことには大いなる方大いに賛美される方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。

 なぜ主はすべての神々にまさっているのか、それは主が天をお造りになったからであり、その他の神々は、真(まこと)の神ではないからです。5節、

96:5 まことにどの民の神々もみな偽りだ。しかしは天をお造りになった。

 6節以降の後半は、後でまた見ることにして、きょうなぜ詩篇96篇を開くことにしたのかを、少し時間を取って話します。

天頂に見える夏の星座のはくちょう座の十字架
 今週の月曜と火曜そして昨日の水曜の晩、私は3日連続で安倍川の堤防で、夜空を見上げていました。と言っても、安倍川にいた時間はせいぜい20~30分程度です。のんびり歩くと教会から安倍川まで片道10分ほどですから、全体で小一時間ほどの散歩です。目的は流れ星を見ることでした。ペルセウス座流星群が見られるということで、安倍川に行けば、広く全天を見渡せることを以前、国際宇宙ステーションを眺めた時に知っていましたから、安倍川に流れ星を見に行きました。

 ペルセウス座流星群は毎年見られますから、沼津にいた時も何度か見ていました。沼津教会は海のすぐ近くにあって1~2分歩けば、海沿いの暗くて全天を見渡せる良い場所に出られます。学生時代に住んでいた北海道でも眺めた覚えがあります。たくさん見えた時もあれば、そんなに見られなかった時もありました。

 今回は、あまり見られませんでした。昔より目が悪くなっていますから、明るい流れ星しか見えないということもあると思います。ハッキリ見えたのは月曜日に3個、火曜日と水曜日は1個ずつしか見られませんでした。ただ火曜日と水曜日は1個ずつでしたが、かなり明るく3秒ぐらい消えない流れ星を見ることができました。月曜日の3個は、どれも1秒以下の一瞬で消えてしまうものでしたから、火曜日と水曜日の方が満足度は高かったです。

 さて、今の時期の夜は、はくちょう座の十字架がちょうど真上に見えます。つまり天頂にあります。この天の巨大な十字架を見上げる時、私は心がとても平安になります。そして今回、この天頂にある巨大な十字架から何か語り掛けを受けているような気がして、それは何だろうと思いを巡らしていたところ、次のように思い至りました。

 それは「私たちは皆、天頂に十字架がある大聖堂の中にいる」ということです。

 大聖堂という言葉は、去年の秋の俳句会でKさんが

天高してっぺん見えぬ大聖堂

という句で使っていましたね。私はこの句を特選に選びました。それは天が高い秋の空全体を大聖堂に見立てた壮大な俳句だと思い、その壮大さに感銘を受けたからです。ただ実際はこの句はKさんが海外旅行した時に見た大聖堂のことだと聞いて、あ~そうだったんだと思いました。しかし、私の心の中には秋の青空全体が大聖堂であり、私たちはその中にいるという壮大なイメージがしっかりと刻み込まれたようです。

地球は一つの大聖堂
 今回、天頂のはくちょう座の十字架について思いを巡らしていて、このイメージがよみがえって来ました。秋の昼間の空ではてっぺんは見えませんが、夏の夜空にははくちょう座の巨大な十字架があり、それが大聖堂のてっぺんになっています。そして私たちは皆、この大聖堂の中にいるのだと思いました。

 環境問題においては、「宇宙船地球号」という言葉が使われます。地球は一つの船であるというわけです。しかし私たちは宇宙船とは呼ばず、「大聖堂」と呼びたいと思います。

  私たちは皆、大聖堂の中にいて、心一杯主を賛美します。そんなことを思い巡らしましたから、それにふさわしい箇所として詩篇96篇を開くことにしました。

 続いて96篇の6節、

96:6 威厳と威光は御前にあり 力と輝きは主の聖所にある。

 イエス・キリストの十字架によって私たちは誰でも聖所に入ることが許されるようになりました。ユダヤ人・異邦人の区別なく、誰でも主に大胆に近づくことが許されています。7節と8節、

96:7 もろもろの民の諸族よに帰せよ。栄光と力をに帰せよ。
96:8 御名の栄光をに帰せよ。ささげ物を携えて主の大庭に入れ。

 8節の「ささげ物を携えて主の大庭に入れ」、この部分は、ささげ物のことが分かっていない方々への助言に使えるなと思いました。そして9節と10節、

96:9 聖なる装いをしてにひれ伏せ。全地よ主の御前におののけ。
96:10 国々の間で言え。「は王である。まことに世界は堅く据えられ揺るがない。主は公正をもって諸国の民をさばかれる。」

 主は私たちをさばく方でもあります。しかし喜びをもって主を賛美しているなら、何の心配もありません。一方、天を造られた主を知らずに崇めようとしない人々を主はさばかれるでしょう。11節と12節、

96:11 天は喜び 地は小躍りし 海とそこに満ちているものは鳴りとどろけ。
96:12 野とそこにあるものはみな喜び躍れ。そのとき森の木々もみな喜び歌う。の御前で。

 森の木々でさえ主をほめたたえるのですから、主のことを知らずに日々を過ごしている人々には主はきびしいさばきをお与えになるのでしょう。13節、

96:13 主は必ず来られる。地をさばくために来られる。主は義をもって世界をその真実をもって諸国の民をさばかれる。

  主イエスを信じない方はさばかれます。主イエスを信じない方々にどうしたら信じていただけるのかのか、私たちは日々難しさを感じています。

大聖堂の中で主を賛美する幸い
 天を造ったのは主であることを信じてもらう難しさを私たちは感じています。そんな方々に、地球は大聖堂であることをお伝えするのは一つの有力な方法かもしれません。

 私たちが日曜日に教会に集って主を賛美するのは、そもそも皆が地球という大聖堂にいるからです。私たちは、この大聖堂をお造りになった主を心一杯賛美します。この賛美の輪に、多くの方々に加わっていただきたいと思います。私たちは、喜びを持って心一杯主を賛美して、その時を待ち望みたいと思います。

 一言、お祈りいたします。

96:1 新しい歌をに歌え。全地よに歌え。
96:2 に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと御救いの良い知らせを告げよ。
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十字架の御子を宣べ伝えて平和をつくる(2020.8.6 祈り会)

2020-08-07 14:13:29 | 祈り会メッセージ
2020年8月6日祈り会メッセージ
『十字架の御子を宣べ伝えて平和をつくる』
【マタイ5:9、コロサイ2:1~20、エペソ2:13~16】

はじめに
 きょうは広島に原爆が投下された日です。世界中で平和のために祈られました。きょうはマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」の「平和をつくる者」とはどのような者かを考えてみたいと思います。

マタイ5:9とコロサイ1:20の特殊な単語
 この日本語訳の「平和をつくる者」からは、特殊な単語であるという感じは特に受けませんが、実はここには新約聖書で1回しか使われていない特殊なギリシャ語の単語が使われています。

 「平和」、「つくる」、「者」、どれも一般的に良く使われる単語ですが、マタイ5:9はこれらの三つが一つになったギリシャ語(エイレーノポイオス)が使われていて、英語訳では多くの訳で「peacemaker」と訳されています。このことから、このマタイ5:9の「平和をつくる者」は、一般的な平和の働きというよりは、何か特別なことではないかということが伺われます。

 この「平和」と「つくる」と「者」の三つが一つになった単語のギリシャ語はマタイ5:9にしか使われていませんがが、「平和」と「つくる」の二つが一つの似たような単語が使われている箇所が他にもう一個所あります。それが下の脚注の引照にもあるコロサイ1:20です(新約p.402)。

コロサイ 1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

 ここに「十字架の血によって平和をもたらし」とありますね、ここの「平和をもたらし」は新改訳の第3版までは「平和をつくり」になっていました。2017年版では何故か「もたらし」になりましたが、いずれにしても、ここでは「平和」と「つくる」が一つになった特殊な単語が使われています。

平和をつくる者とは十字架のイエス・キリストを宣べ伝える者
 これらマタイ5:9とコロサイ1:20の特殊性から、「平和をつくる者」とは「十字架のイエス・キリストを宣べ伝える者」ではないかということに思い当ります。そこで、この観点からコロサイ書の1章を始めの方から見て行きたいと思います。時間の関係で飛ばし飛ばし、見て行きます。1節と2節にあるように、このコロサイ書はパウロとテモテからコロサイの教会に宛てた手紙です。3節と4節、

1:3 私たちは、あなたがたのことを祈るときにいつも、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。
1:4 キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。

 パウロはコロサイの教会の人々の信仰について聞いて感謝していました。少し飛ばして9節、

1:9 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

 神の御心を知るには霊的な知恵と理解力が必要です。一般的な知恵と理解力では神の御心についての知識に満たされることはできないことを覚えたいと思います。続いて13節、

1:13 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

 私たちは暗闇の力に支配されていて、罪の中を歩んでいました。しかし御父が御子の支配の中に移して下さいました。14節、

1:14 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

 罪の赦しを得ていますから、私たちは天の御国に入ることができ、心の平安が与えられています。本当に感謝なことです。続いて15節からパウロは実に壮大なことを書いています。

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1:17 御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。

 この壮大な記述は読む者を圧倒します。万物は御子によって造られ、万物は御子にあって成り立っているのですね。そして18節にあるように、教会は御子の体であり、御子は教会のかしらです。また御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。

1:19 なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

敵意を十字架によって滅ぼしたキリスト
 この20節の「平和をもたらし」は、最初に言ったように第3版では「平和をつくり」になっていて、マタイ5:9と同じような特殊な単語が使われています。それゆえ「平和をつくる」とは、この十字架の御子を宣べ伝えることであると思い至る訳ですが、このコロサイ書の記述はあまりに壮大過ぎて、少し分かりづらいようにも思います。そこで、20節の下の脚注にエペソ2章の13節と14節が引照として書かれていますから、この箇所も読んで、理解の助けにしたいと思います(新約p.386)。まずエペソ2章13節、

2:13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。

 エペソ人もコロサイ人も共に異邦人です。異邦人もキリストの十字架の血によって近い者となりました。14節から16節、

2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 律法があったことでユダヤ人と異邦人は一つになれないでいましたが、キリストは隔ての壁を打ち壊しました。例えば男子は割礼を受けなければならないという規定や、豚などを食べてはならないという食物規定を廃棄してユダヤ人と異邦人を一つにしました。

 しかし、このような敵意はパウロの時代以降も無くなることはなく、現代においても絶えずあります。核兵器の廃絶は見通しが立ちませんし、世界は絶えず敵対関係の火種を抱えています。世界だけでなく、私たちの身の周りにも様々な敵意がありますね。有名人の自殺の報道を見るにつけ、この世は何と生きにくい世の中だろうかと思うことです。

 16節にあるように十字架によって敵意が滅ぼされた筈なのに、どうして、この世には未だに敵意が満ちているのでしょうか?それは、暗闇の力がいまだ暗躍しているからでしょう。ですから、私たちは、この暗闇の世界の支配者たちの攻撃から守られるように神のすべての武具を身に着ける必要があります。

神のすべての武具を身に着ける
 この神の武具については同じエペソ人への手紙の6章に書いてありますね。6章の10節と11節までを交代で読みましょう。

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。

 終わりの日に至るまで、暗闇の世界の支配者たちは福音が広まることを絶えず阻止しようとします。しかし、神の武具を身に着けて祈るなら、私たちは守られてイエス・キリストの十字架を宣べ伝えて行くことができます。18節をお読みします。

6:18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

おわりに
 この悪魔の策略についての記事で終わったのでは、あまり恵まれませんね。パウロもそう考えたのでしょうか。最後は、とても恵まれる文章でこの手紙を締めくくっています。最後に23節と24節を交代で読んで、メッセージを閉じます。

6:23 信仰に伴う、平安と愛が、父なる神と主イエス・キリストから、兄弟たちにありますように。
6:24 朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人とともに、恵みがありますように。

 お祈りいたします。
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「星野富弘 花の詩画展」を観て(2020.7.23 祈り会)

2020-07-25 06:59:48 | 祈り会メッセージ
2020年7月23日祈り会メッセージ
『「星野富弘 花の詩画展」を観て』
【マタイ5:8】

5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。


はじめに
 きょうは旧約聖書の女性のシリーズは一旦お休みにして、きのう私が浜松へ観に行った「星野富弘 花の詩画展」で感じたことのお証をしたいと思います。

 浜松ということで、どうしようかなと思いましたが、だいぶ前に星野富弘展を観た時と現在とで、自分の中で感じ方の変化があるかどうかを知りたくなって、行って来ました(コロナ対策には十分に注意しました)。そうして星野さんに対する感じ方が時期によって変化していると思いました。大きくは三つの時期に分けられると思います。

 1番目の時期は私が信仰を持ったばかりの頃の2000年代の前半、2番目の時期は少し信仰が深まった2000年代の後半、そして3番目の時期が牧師をしている現在です。

2000年代の私の星野富弘観
 1番目の時期は私が洗礼を受けたばかり2000年代前半の頃で、私は藤本満先生から星野さんの著書の『愛、深き淵より。』を受洗記念にいただきました。このとき初めて星野さんのことを知りました。また、星野さんのカレンダーを作って販売しているグロリア・アーツが高津教会の近くにあり、その関係かグロリア・アーツの社長さんが高津教会で講演をして下さったことがありました。そんな風にして私は星野さんの絵に親しみを感じるようになって行きました。但し、その頃の私の星野さんに対するイメージは、「口にくわえた絵筆で絵を上手に書くすごい人」という程度でした。ですから絵に添えてある詩から星野さんの心情に思いを巡らすというようなことはほとんど無かったと思います。

 2番目の時期は、もう少し信仰が深まった2000年代の後半です。このころ、私は横浜の赤レンガ倉庫で開かれた星野さんの詩画展を観に行きました。調べたら2006年でした。私は相変わらず星野さんのことを、「口にくわえた絵筆で絵を上手に書くすごい人」というイメージを持っていたと思います。ただ、それだけでなく絵に添えた詩へも多少は興味を抱くようになっていたと思います。しかし、やはりあまり深く思いを巡らすことはなかったように思います。

 どうしてそんなに鈍感だったのかな~と考えてみて、その頃の私は大学の教員として競争社会にどっぷりと浸かっていたからだろうなと思いました。大学では常に競争を強いられていて、競争的な外部資金を多く獲得する教員が良い教員という目で見られていました。ドロップアウトすれば出世の見込みはありませんから必死でした。そういう競争社会にどっぷりと浸かっていれば、星野さんの世界を理解できなかったことは当然だろうと思います。弱い人の中でも最も弱い立場にある星野さんの内面を想像することなど、研究で競争していた私には難しかっただろうと思います。

星野さんの内面に思いを巡らす
 そして今回、実に14年ぶりで星野さんの詩画展を訪れて、星野さんに対する見方が自分の中で大きく変わったことを知りました。そういう意味で、今回浜松まで行って星野さんの詩画展を観ることができて、とても良かったと思います。

 今回、「口にくわえた筆で絵を描く星野さんは凄い」という思いからは完全に卒業していて、私の関心は専ら詩から垣間見える星野さんの内面に向いていました。

 今回の詩画展で最も私の興味を引いた詩は、ヘクソカズラの詩でした。この詩をご存知の方もいらっしゃると思います。一般的にヘクソカズラというと、「可哀相な名前を付けられた植物」、というイメージが強いと思いますが、星野さんはこの「ヘクソカズラ」という名前をとても愛おしく感じているんですね。ヘクソカズラの絵に星野さんは次のような詩を添えています。

<へくそかずら>

町も人も 美しい名前が 多くなりました
でも 何だか 疲れます

ここに 小さな 花が あります
「へくそかずら」といいます

「へくそかずら」
呼べば 心が和みます

「へくそかずら へくそかずら」
「へくそかずら へくそかずら」

つぶやきながら 夕べは ぐっすり眠りました


 この詩を読んで、私はマタイ23:27のイエスさまの言葉を思い起こしました。

マタイ23:27「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。」


 町も人も美しい名前が多くなったことを、星野さんは「何だか疲れます」と感じています。外側が美しく見えるように取り繕うパリサイ人のように感じるからでしょうか。そんな星野さんはヘクソカズラという名前を愛しています。まるで罪人を愛していたイエスさまのようだと思いました。そうして、この詩によって私の心も和みました。

「風」の詩と神様
 他にも心が惹かれる詩がたくさんありました。「母」や「妻」に関する詩にも心惹かれましたが、特に「風」に関する詩が、「神様にすべてを委ねる信仰」と重なって、とても感銘を受けました。それら「風」に関連した詩を三つ挙げたいと思います。

 黄色いタンポポの花の横に「綿毛」のタンポポも並べた絵に、星野さんは次のような詩を添えています。

<たんぽぽ>

いつだったか きみたちが 空をとんでゆくのを見たよ

風に吹かれて ただひとつのものを持って
旅する姿がうれしくてならなかったよ

人間だってどうしても必要なものはただひとつ
私も余分なものを捨てれば 空がとべるような気がしたよ


 この詩を読んで私はY兄が天に召された日のことを思い起こしました。Y兄は余分なものを一切捨てて、身軽になってイエスさまと一緒に天に昇って行きました。

 首から下が動かない星野さんほど多くのものを捨てて来た人はいないと思います。それでもなお、星野さんは自分の中には、いろいろ抱え込んでしまっているものがあることを感じているのでしょう。それが人間なのだと思います。星野さんはそんな人間の罪深さに失望することなく、むしろ温かく優しい目で見ているのだと思いました。だからこそ「へくそかずら」を愛おしく思っているのだろうと思いました。

 人間が完全に聖くなれるのはY兄のように天に昇って行く時でしょう。そういう最期の時への憧れもあるのでしょうか。次の「木の葉」という、紅葉の落ち葉を描いた絵に添えた詩から感じることができます。

<木の葉>

木にある時は 枝にゆだね
枝を離れれば 風にまかせ
地に落ちれば 土と眠る

神様にゆだねた人生なら
木の葉のように
一番美しくなって散れるだろう


 星野さんはすべてを神様に委ねて生きていこうとしています。そして最期は聖められて天に召されることを願っています。

 いま読んだ二つの詩は「風」に関係しています。たんぽぽの綿毛は風に運ばれ、木から離れた木の葉も風に舞います。綿毛も木の葉も自身を完全に風に自分を委ねています。星野さんは心が聖められているから、目に見えない「風」も良く見えるのでしょう。そんな星野さんの「風」の詩に私はとても心惹かれました。

 最後にもう一つ、「風」に関わる詩を紹介して終わることにします。コスモスの花の絵に添えられた詩です。

<コスモス>

風は見えない
だけど 木に吹けば緑の風になり
花に吹けば花の風になる

今、私を過ぎていった風は
どんな風になっただろう

 この詩を読んで私はヨハネ3章8節のイエスさまのことばを思い起こしました。新改訳第3版でお読みします。

ヨハネ3:8 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

 よく知られているように、ギリシャ語では「風」も「霊」も同じ「プニューマ」という言葉が使われています。風と霊はとても似ているのですね。星野さんは「今、私を過ぎていった風はどんな風になったのだろう」と書きました。星野さんを過ぎていった風は聖霊だと思いました。聖められてイエスさまに似た者にされた星野さんを過ぎていった風は聖霊だろうと思いました。

 ひるがえって私を過ぎていった風は汚れた風であることを思います。ですから、この詩を読んで心を刺されました。星野さんのように聖められることは難しいかもしれませんが、少しでも近づくことができたらと思いました。

おわりに
 最後に、冒頭に読んだマタイ5:8をお読みしました。もう一度お読みしてメッセージを閉じます。

マタイ5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 イエスさまと出会って聖められた星野さんには、目に見えない風が見え、神様もまた見えるのでしょう。そうしてイエスさまに似た者とされた星野さんはとても優しい目で周囲を見ています。そういう者になりたいと思わされた詩画展でした。

 お祈りいたします。
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神ではなく人を見ていたミカル(2020.7.16 祈り会)

2020-07-19 13:05:28 | 祈り会メッセージ
2020年7月16日祈り会メッセージ
『神ではなく人を見ていたミカル』
【Ⅰサムエル19:11~17、Ⅱサムエル6:12~23】

はじめに
 先週はイスラエルの女たちが「サウルを千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったことにサウル王が激怒してダビデを殺そうとしたことと、ダビデがそんな中でも主を第一に考えて、主が油を注いだサウルを殺そうとしなかったことをご一緒に見ました。サウル王は人を見ていて、ダビデは神様を見ていました。

ダビデを愛していたミカル
 今週はサウルの娘のミカルに注目します。ミカルはダビデをとても愛していて、ダビデの妻になりました。しかしミカルも父親のサウルと同じように、神様ではなくて、人の方を見ていました。まず第一サムエル19章の11節から17節までを交代で読みましょう。

19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」
19:12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。
19:13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。
19:14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。
19:15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」
19:16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。
19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」

 こうしてミカルは夫のダビデを助けました。ミカルはダビデをとても愛していましたから、自分の父親のサウルをあざむいて、ダビデを助けました。

神の箱の前で跳ねるダビデをさげすんだミカル
 そんなミカルでしたが、やはり父親と同じように神様ではなく人の方を見て、人目を気にするような人でした。次に、第二サムエル6章の12節から23節までを交代で読みましょう。

6:12 「が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
6:13 の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、の箱を運び上げた。
6:16 の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王がの前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。
6:17 人々はの箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデはの前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
6:18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍のの御名によって民を祝福した。
6:19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。
6:20 ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、の民イスラエルの君主に任じられたの前だ。私はそのの前で喜び踊るのだ。
6:22 私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」
6:23 サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。

 残念なことですが、ミカルには神の箱がエルサレムに運び入れられることがイスラエルにとって、どんなに大事なことであるかが、ぜんぜん分かっていませんでした。

 ミカルにはモーセの時代の出エジプトの出来事への感謝の気持ちが無かったのでしょうか?主はエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を救い出して下さり、シナイ山のふもとでモーセを通じて律法を授けました。この時に主は幕屋と神の箱の作り方も授けて、イスラエル人はその通りに作りました。それ以降、神の箱は常にイスラエル人と共にあり、荒野の中を進む時には神の箱が先頭を行きました。ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡る時にも、神の箱をかついだ祭司たちが先頭に立ってヨルダン川に入って行きました。つまり、ミカルの祖先は神の箱に先導されて、このカナンの地に入りました。

 しかし、その後、この神の箱はペリシテ人との戦いの時に奪われてしまいましたから、サウル王の時代には神の箱は身近にありませんでした。そうして神の箱が奪われてから数十年を経ていよいよエルサレムのダビデの町に運び込まれようとしていました。このことをダビデがどんなに喜び、また心強く思っていたか、妻のミカルは理解していなかったのでしょうか?

 ダビデはいつも主に守られていることを感じていて、そのことを感謝していました。まだ羊飼いだった時代から、猛獣たちの攻撃から主が守って下さっていたことをダビデは感謝していました。そして先週もご一緒に見たように、巨人のゴリヤテとの対戦の際にも、主が必ず守って下さると信じていました。そして、サウルから殺されそうになっていた時も、主は守って下さり、戦場においても守っていて下さり、ついにエルサレムにダビデの町を築くことができました。ここまでダビデをずっと守って下さっていた主のご臨在を形として表す神の箱を自分の身近に置くことができることは、ダビデにとっては本当に心強く、大きな喜びでした。

 ダビデ個人にとっても、これはうれしいことでしたし、イスラエルの王としても、神の箱はイスラエルを一つにまとめることができる心強い存在だったでしょう。イスラエルは十二の部族に分かれていましたから、これを一つにまとめるのは大変なことだったでしょう。ソロモン王が死んだ後で、イスラエルは北王国と南王国の二つに分裂してしまいました。ダビデの時代も、何かあれば分裂しかねない危険はいつもはらんでいただろうと思います。しかし、神の箱があれば一つにまとまりやすいでしょう。

 ソロモンの死後にイスラエルが南北に分裂して北王国の王になったヤロブアムは、金の子牛の像を造って、それを北王国の民に拝ませましたね。北王国の民が神の箱が置いてあるエルサレムの神殿に礼拝に行くと、民の心が北王国から離れてしまうことを恐れたからです。神の箱がダビデの町にあることは、民の心をを一つにまとめることに絶大な効果を発揮するものでした。

 ですから、ダビデは人々の前で喜びを素直に表現しました。また、これを見た人々は神の箱の重要性を再認識したことでしょう。神の箱が奪われた後に生まれた人も多かったと思いますから、ダビデが飛び跳ねて喜んでいる様子を見て、神の箱の大切さを改めて確認したことでしょう。

 しかし、妻のミカルは、このダビデが大喜びする姿を見て軽蔑しました。20節ですね。

6:20 「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」

 このミカルの言葉は、「それを言っちゃあ~おしまいよ」という感じの言葉ですね。以降、ミカルはダビデから見放されることになってしまいました。

おわりに
 考えてみると、私たちが日曜日に教会に集って神様を賛美する姿も、周囲の日本人の目から見れば、ミカルがダビデを見ていたように映るかもしれません。なぜクリスチャンはあんな風に喜んで教会に出かけて行くんだろうかと、いぶかしく思う人も少なくないでしょう。

 でも、主を第一に考える私たちは、日曜日に主を礼拝することは大きな喜びです。今はコロナの対策で心一杯喜びを表現することができませんが、心の中はダビデと同じぐらいに心一杯主を賛美したいと思います。

 7/26の特別集会に限らず、どの集会もいつも聖霊で満たされたいと思います。ダビデが心一杯の喜びで神の箱を迎えたように、私たちも喜びに満ち溢れて神様を心にお迎えするなら、神様もそれを喜んで下さり、私たちを聖霊で満たして下さるでしょう。

 ミカルのように、人の目を気にするのでなく、ダビデのように主のほうに心を向けて、喜びを持って主を賛美したいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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サウルは千を討ち、ダビデは万を討った(2020.7.9 祈り会)

2020-07-10 11:06:50 | 祈り会メッセージ
2020年7月9日祈り会メッセージ
『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』
【第一サムエル18:6~12】

18:6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。
18:7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」
18:8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」
18:9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。
18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。
18:11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。
18:12 サウルはダビデを恐れた。それは、がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。

はじめに
 旧約聖書の女性に注目しているシリーズですが、今夜は女性ではなく7節の女たちのことばに激しく怒ったサウルと、後半はダビデの信仰に注目したいと思います。

 サウルはイスラエルの初代の王様でした。彼は主に選ばれて王様になりました。主はサウルに油を注ぐようにサムエルに命じて、サムエルはその通りにしました。そうしてサウルに主の霊が激しく下りました。これによって主の霊が常にサウルと共にありました。

 しかし、サウルは主を恐れるのではなく、人の目を気にして人を恐れるような人でした。それで主の霊はサウルから離れて、今度はダビデに激しく下りました。そうしてサウルはますます人の目を恐れて、さらにはダビデのことも恐れるようになりました。きょうの聖書箇所には、サウルがダビデを恐れるようになったことが書かれています。6節から見て行きます。

女たちの歌に激怒したサウル
 6節に、「ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき」とありますが、「あのペリシテ人」とは巨人のゴリヤテのことです。この時、「女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた」とあります。一つの町ではなく、すべての町から女たちが出て来たのですね。そうして7節にあるように、女たちが笑いながら「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌いました。こんな風に笑いながら自分とダビデの違いを言われたら、誰でも不愉快になるでしょう。平常心でいられる人はいないと思います。しかも、一つの町からではなく、すべての町から女たちが出て来て、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌われたら、それはショックだと思います。でも激しく怒ったサウルは過度に反応し過ぎたのだろうと思います。激しく怒ったゆえに災いをもたらす神の霊が激しく下ることになってしまったのだろうと思います。

 では、サウルはどうすれば良かったのでしょうか?

 ここで一旦、聖書を離れて、今すごい勢いで勝ち進んでいる将棋の藤井聡太七段のことを考えてみたいと思います。きょう勝てば藤井聡太棋聖になるところでしたが、きょうは負けました。それでも今期はすごい勢いで勝ち進んでいて、棋聖戦でも連勝していました。

 藤井さんは今17歳ですから、まさに若い時のダビデのようだと思います。藤井さんの強さを、他の将棋棋士たち、特に若い棋士たちは、恐れているだろうと思います。今はインターネットの環境さえ整っていれば、誰でも無料で藤井さんの対戦を観戦することができます。藤井さんは人気がありますから、藤井さんが指す公式戦は必ずネット中継があります。無料ですから毎回100万人以上が観戦しています。きょうは500万人が観ていました。

 将棋は負かされた方の棋士が「負けました」と言って頭を下げて投了します。それだけでもつらいですが、何百万人も観ている中で負けたら、もっとつらいのではないかなと思います。サウル王も、すべての町から女たちが出て来て「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったから、プライドを傷つけられて激怒したのでしょう。

 将棋の棋士の場合は表面上はあまり悔しそうな顔をしていませんが、心中は悔しさで一杯でつらいでしょう。ですから、皆、負けないように必死で対戦相手の研究をして対策を立て、臨みます。

 サウル王も、もっとダビデについてもっと知ろうとすれば良かったのかもしれません。どうして主はこんなにもダビデを愛しているのか?自分はどうして主に見放されたのか?もっとダビデを知ろうとする努力をすれば良かったのかもしれませんね。

規格外の優れた信仰を持っていたダビデ
 ここで、ダビデがゴリヤテを倒した場面をご一緒に見てみたいと思います。7章です(p.510)。

17:37 そして、ダビデは言った。「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださったは、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。がおまえとともにいてくださるように。」
17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。頭に青銅のかぶとをかぶらせて、それから身によろいを着けさせたのである。
17:39 ダビデは、そのよろいの上にサウルの剣を帯びた。慣れていなかったので、ためしに歩いてみた。ダビデはサウルに言った。「これらのものを着けては、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれを脱いだ。
17:40 そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。

 37節から分かるように、ダビデは主に全幅の信頼を寄せていて、主が必ず守って下さると信じていました。そのダビデに、サウルは自分の鎧と兜を着けさせました。鎧と兜を着けることは戦士としては常識的なことですが、ダビデはその常識を破って鎧と兜なしでゴリヤテとの対戦に臨みました。ここにサウルとダビデの違いが典型的に現れていると思います。

 サウルは37節で「主がおまえとともにいてくださるように」と言いつつ、人間的な常識にとらわれていたように見えます。しかし、ダビデは常識にとらわれずに剣(つるぎ)も持たず、石だけで対戦に臨みました。サウルも、ダビデのように、もっと主に委ねることができていたなら、主の霊が自分から離れることはなかったのだろうと思います。

 これは、サウルの信仰が弱いというよりも、ダビデの信仰のほうが規格外で優れているのだと思います。将棋の藤井さんが規格外に強いのと同じだと思います。将棋の棋士はプロ棋士になるだけで、ものすごいことです。プロ棋士になれずに終わる人のほうが遥かに多いですから、プロの将棋棋士はずば抜けて将棋が強い人たちです。そのプロ棋士の中でもトップに位置するのがタイトルホルダーですが、藤井さんはタイトルホルダーの棋士にも連勝するようになっています。ダビデもそういう規格外のすごい信仰の持ち主なのだと思います。ですからサウル王を責めるのは酷という気もします。

主を第一に考えていたダビデ
 しかし、サウルの弱い信仰を擁護することは、私自身の弱い信仰を擁護することでもあると思いますから、控えるべきなのでしょうね。私たちはダビデの信仰を見習うべきなのでしょう。若い時のダビデは、主を全面的に信頼していました。自分を殺そうとするサウルに追い回されていた時でさえも、主を第一に考えていました。

 今度は24章の1節から7節までを交代で読みましょう(p.524)。

24:1 サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた。
24:2 サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。
24:3 道の傍らにある羊の群れの囲い場に来ると、そこに洞穴があった。サウルは用をたすために中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、その洞穴の奥の方に座っていた。
24:4 ダビデの部下はダビデに言った。「今日こそ、があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」ダビデは立ち上がり、サウルの上着の裾を、こっそり切り取った。
24:5 後になってダビデは、サウルの上着の裾を切り取ったことについて心を痛めた。
24:6 彼は部下に言った。「私がに逆らって、に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼はに油注がれた方なのだから。」
24:7 ダビデはこのことで部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、洞穴から出て道を歩いて行った。

 サウルは主に油を注がれた方であるから、そのサウルに手を下すなど、絶対にあり得ないことだとダビデは部下に言いました。このようにダビデは、何事においても主を第一に考えていました。若い時のダビデが主に愛されていたのは、それゆえですね。

おわりに
 最後にもう一度、18章7節に戻りたいと思います(p.512)。

18:7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

 サウルは千を討ちました。千を討つだけでも凄いことだと思います。ダビデが万を討ったのは規格外の強さなのですから、サウルは気にしなければ良かったのでしょう。千人を討つタラントを主から与えられたことを感謝すべきだったのでしょう。

 人にはそれぞれ神様から与えられたタラントがありますから、一タラントの者が十タラントの者に対して怒ることはないのだと思います。

 それぞれが与えられたタラントの中で、神様を信頼して精一杯のことをすれば良いのだと思います。

 お祈りいたしましょう。
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最上のものを献げたハンナ(2020.7.2 祈り会)

2020-07-03 11:55:22 | 祈り会メッセージ
2020年7月2日祈り会メッセージ
『最上のものを献げたハンナ』
【第一サムエル1:9~19】

1:9 シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリはの神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、に祈った。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍のよ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」
1:12 ハンナがの前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。
1:13 ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。
1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
1:15 ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私はの前に心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
1:17 エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。
1:19 彼らは翌朝早く起きて、の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。は彼女を心に留められた。


はじめに
 きょうからサムエル記に入って、サムエルの母親のハンナに注目します。サムエル記の最初のほうには、サムエルがどのような経緯で生まれ、育って行ったかが記されています。

 余談になりますが、サムエル記の多くはダビデについての記述ですね。どうしてダビデ記ではないのか、と時々考えることがあります。ヨシュア記やルツ記、エズラ記やネヘミヤ記などと、聖書には登場人物の名前が付いた書が多くあります。しかし、ダビデ記はありません。

 やはりダビデは重大な罪を犯した人物だからでしょうか?ダビデは人妻のバテ・シェバとの間で間違いを犯し、彼女は身籠ります。ダビデはその子がバテ・シェバ夫のウリヤの子であると偽装する工作を試みますが、上手くいかず、結局ウリヤを戦場の最前線に送って殺してしまいました。これはひどいですね。主はこのことに怒り、ダビデの家庭はその後、ボロボロになります。ダビデ記が無いのは、そのためでしょうか?

最上のものを献げたハンナ
 さて、きょうはハンナです。ハンナは子供ができることを願って主に懸命に祈りました。そして、何とハンナは自分が最も欲しかった子供を手放して主に献げました。つまりハンナは自分が献げ得る最上のものを献げました。このことでハンナは祝福されました。きょうは、このことをご一緒に見たいと思います。

 ハンナはエルカナの妻でした。夫のエルカナにはもう一人、ペニンナという妻がいました。このペニンナには子供がいましたが、ハンナには子供がいませんでした。以前、創世記のヤコブの二人の妻のレアとラケルに目をとめましたね。レアには子供がいましたが、ラケルにはいませんでした。それで、ラケルはとてもつらい立場に置かれていました。

 サムエル記のハンナもラケルのように、とてもつらい立場にありました。それゆえ、神の箱が置かれているシロの町に上った時にハンナは、心を注ぎ出して祈りました。10節と11節をお読みします。

1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、に祈った。
1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍のよ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」


 ハンナは、自分が子供を授かる前から、その子供を主に渡すと誓願を立てました。これはすごいことだと思います。私たちは、この後の展開を知っていますが、彼女はこの後に何が起きるか分からないまま、子供を主に渡すと祈り、結果的にサムエルを授かっただけでなく、多くの子供を授かります。その箇所を先回りして見ておきましょう。2章の18節から21節までを交代で読みましょう。

2:18 さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、の前に仕えていた。
2:19 彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。
2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「にゆだねられた子の代わりとして、が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。
2:21 はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルはのみもとで成長した。

 ハンナはサムエルを誓願通りに主に献げたので、サムエルは神の箱があるシロの町に住んでいました。一方、ハンナはシロから離れた所に住んでいましたから、彼女は一年に一回しかシロに上りませんでした。もしハンナがシロの町に住んでいれば、自分の子を主に献げても、いつでも会いに行けたでしょう。しかし、彼女は一年に一回しか我が子に会えませんでした。それでも、彼女はサムエルを主に献げました。しかも、子を授かる前から、そのことを誓願していました。この信仰はすごいと思います。

 このハンナの信仰を主は喜ばれたのでしょう、21節にあるように、主はハンナを顧みて、長男のサムエルの後、三人の息子と二人の娘をハンナに授けました。

 私たちはこの結末を知っていますが、祈っていた時のハンナはまだ将来のことを知りません。ハンナは心を注ぎ出して祈っていました。このハンナの様子を見た祭司のエリは彼女が酒に酔っていると思いました。14節、

1:14 エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 このエリの言葉にハンナは答えました。

1:15 「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私はの前に心を注ぎ出していたのです。
1:16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」

 するとエリは答えました。17節、

1:17 「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

 このエリの言葉は良いですね。ハンナも言いました。18節、

1:18 「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」

 それから彼女は帰って食事をしました。その顔は、もはや以前のようではありませんでした。彼女の心は平安になっていたのですね。

子供を授かる前から平安を得ていたハンナ
 きょう目をとめたいことの第一は、ハンナが最上のものを献げる誓願をしたことですが、もう一つ、彼女がまだ子供を授かる前から平安を得ていたことにも目をとめたいと思います。
 伝道者の書には、

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。

というみことばがありますね。神様はハンナの心に永遠を与えて、それによってハンナは平安を得たのだと思います。

 先週、H兄の病室で私は永遠を感じたと先日の礼拝で話しました。H兄は1分当りの呼吸数がゼロになり、時間の無い永遠の世界に旅立ちました。時間が無い永遠の世界では、時間の前後関係がありません。

 ハンナは、まだ子供を授かる前から平安を得ました。普通の前後関係では、子供を授かってから、その後で平安を得ます。しかし、ハンナは子供が授かる前から平安を得ましたから、永遠が与えられたのだと思います。

 イエスさまの十字架も永遠の中にあります。イエスさまの十字架は、十字架の前に罪を犯した者の罪を赦すと同時に、十字架の後で罪を犯した私たちの罪をも赦します。普通の前後関係では先ず罪を犯し、その後に十字架の贖いによって罪が赦されるはずです。でも永遠の中にある十字架には前後関係がありませんから、十字架から二千年後に生まれた私たちの罪もまた赦されます。

 このように十字架が永遠の中にあるから、私たちも十字架を仰いだ時に心が平安になるのですね。時間の流れの中にいると将来への不安が募って心が乱れます。しかし時間が流れない永遠を与えられるなら平安が得られます。

 神様が私たちの心に永遠を与えて下さり、このことで得られる平安の恵みを、深く味わいたいと思います。

おわりに
 教会の将来のことを思うと、いろいろと心配なことが多いですが、神様を全面的に信じて、サムエルを授かる前から平安でいたハンナのように、私たちも平安でいたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

1:18 彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。
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故郷を捨てて空っぽになったルツ(2020.6.18 祈り会)

2020-06-20 07:58:23 | 祈り会メッセージ
2020年6月18日祈り会メッセージ
『故郷を捨てて空っぽになったルツ』
【ルツ記2:1~4】

はじめに
 旧約聖書の女性に注目シリーズを続けます。前回は士師記のサムソンを無力にした女性のデリラの記事を読みました。きょうは士師記の次のルツ記に進んで、ルツに注目したいと思います。

 少し前の礼拝メッセージでは『空っぽの私に現れて下さるイエスさま』というタイトルで話をしました。自分が抱え込んでいるもろもろの物を捨てて、或いは失って、自分の中が空っぽになると、イエスさまの声がよく聞こえるようになります。

 イエスさまを知らないと三度も言ってしまったペテロの心は復活したイエスさまに会った後も粉々になったままでした。ガリラヤ湖で漁をしますが、網の中は空っぽでした。これからどうやって生きて行ったら良いかも分からず、何もかもが空っぽだったペテロにイエスさまが現れて、「わたしの子羊を飼いなさい」とおっしゃいました。こうして、空っぽだったペテロに、これから進むべき道が示されました。これはペテロが初めてイエスさまに出会った時の状況と同じです。イエスさまが約30歳で宣教を始めたばかりの頃にペテロはガリラヤ湖で漁をしていましたが、網は空っぽでした(ルカ5:5)。その時にイエスさまが現れて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」とペテロにおっしゃいました。それでペテロは何もかも捨ててイエスさまに付いて行ったのでした。

ペテロとアブラハムに似ているルツの物語
 ルツも故郷のモアブを捨てて、姑のナオミに付いて行きました。今回初めて気が付きましたが、ルツの物語はペテロの物語にもアブラハムの物語にも良く似ています。アブラハムもまた故郷のウルを捨てて父親のテラと共にハランの地まで来ていました。そのハランの地で父のテラが死んだ時、アブラハムは途方に暮れたことでしょう。父親を失って、これから、どうしたら良いのか分からずにいて、空っぽの状態になっていただろうと思います。その時にアブラハムに神様の語り掛けの声が聞こえて来て、進むべき道が示されました。

創世記12:1あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。(新改訳第3版)

 この声を聞いてアブラハムはカナンに向かい、そこでイサクが生まれ、ヤコブが生まれ、ヤコブの子孫のイスラエルの民がエジプトで大いに増えました。

 ルツも同じです。ルツもまた、自分の夫がモアブで死んだ時に途方に暮れたことでしょう。そうして空っぽになったルツに神様の声が聞こえたのではないでしょうか?きっと神様は空っぽになったルツに姑のナオミに付き従ってベツレヘムに向かうようにおっしゃったのだと思います。このように、アブラハム、ルツ、ペテロの物語は皆、一つにつながっています。

 Y兄が4週間前の5月21日に天に召されて以降、「空っぽ」をキーワードにすると聖書がすべてがつながると教えられて、私は聖書の理解がもう一段深まったと感じています。Y兄は尊い信仰の財産を遺して行って下さり、本当に感謝に思っています。

 何度も話しましたが、Y兄は体が次第にやせ細っていく中で心の罪も取り去られて聖められて行き、最期は本当に空っぽになって天に召されて行きました。それは、イースターから40日目のイエスさまの昇天日でした。ですから空っぽになったY兄がイエスさまと一緒に天に昇って行くイメージが私の中に強烈に刻み込まれました。それ以降、「空っぽ」をキーワードにすると聖書が一つにつながると示され続けています。

 次の聖日の礼拝メッセージでは、イエスさまの「山上の説教」の第一声の、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)に目を留める予定です。「心の貧しい者」というのは、心が空っぽになった人のことです。

 また、その次の28日の聖日はまだ未定ですが、「伝道者の書」の「空の空」に目を留めようかなと思っています。この世の空しい物事にとらわれないで、心を空っぽにするなら恵みの世界に導かれて、空しさからも自由になるであろうということを話そうかと考え始めています。

神に導かれてボアズの畑に行ったルツ
 さて、ルツ記ですが、きょうはルツ2章の1節から4節までを交代で読みましょう。

2:1 さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。
2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
2:4 ちょうどそのとき、ボアズがベツレヘムからやって来て、刈る人たちに言った。「があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「があなたを祝福されますように」と答えた。

 2章でナオミはベツレヘムに戻って来ていました。ナオミと夫のエリメレクはもともとユダのベツレヘムに住んでいましたが、ききんの時にモアブに移動しました。しかし、そのモアブでエリメレクが死に、二人の息子も死んでしまいました。その死んだ息子の嫁がルツでした。ルツはナオミがベツレヘムに戻ることにした時に一緒に付いて来ました。それは、夫を失って空っぽになっていたルツに神様からの語り掛けがあったからではないか、と先ほど話しました。そう思うのは、いま交代で読んだ2章の始めの記述から、ルツが神様の御声に導かれている様子が伺われるからです。

 2章2節で、ルツはナオミに「畑に行かせてください」と頼みました。これはルツの思い付いたと言うよりは。ルツの内に神様が働き掛けていたからだという気がしてなりません。なぜなら、ルツが行った先の畑は、「はからず」もエリメレクの一族のボアズの畑だったからです。聖書は「はからずも」と書いていますが、聖書を読者の私たちとしては、そこには「神様の計らい」があったと考えるのが自然ではないでしょうか。4節にも「ちょうどそのとき」とありますから、偶然に偶然が重なるのは、かえって不自然です。ここにはやはり神様の導きがあり、それを感じたルツがボアズの畑を絶好のタイミングで訪れたと読むのが自然だろうと思います。

 ルツは神様の導きを感じることができる女性でした。それはモアブで夫を失って空っぽになるという経験をしたからでしょう。そうして畑で出会ったルツとボアズは結ばれて子供が与えられます。ルツ記4章16節にあるように、この子はオベデと名付けられました。オベデはエッサイの父で、エッサイはダビデの父です。つまりルツはダビデのひいおばあさんに当ります。そしてご承知のようにダビデの家系はイエスさまの父親のヨセフへとつながって行きます。ヨセフとマリアは人口調査のためにナザレからベツレヘムに来て、そこでイエスさまが生まれました。

 アブラハムがハランの地から神様に導かれてカナンの地に来たこと、そしてルツもまた神様に導かれてベツレヘムに来て、ダビデとイエスさまの祖先になったというつながりに思いを巡らすと、神様は時間を超えて一つのお方であることを強く感じます。そうして、アブラハムの神様、ルツの神様はイエスさまの時代と使徒たちの時代を経て、21世紀の私たちも教会に導いて下さいました。

神に導かれてヨーロッパに行ったパウロたち
 きょうはもう一か所、使徒の働きの16章を開きたいと思います(新約p.267)。

 ここにはパウロの第二次伝道旅行の始めの頃のことが書かれています。パウロは第一次伝道旅行でガラテヤ地方などのアジアで伝道しました。そしてもう一度、ここでみことばを語ろうとしますが、それを聖霊によって禁じられたと、ここに書かれています。使徒の働き16章の6節から10節までを交代で読みましょう。10節はご一緒に読みます。

16:6 それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。
16:7 こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。
16:8 それでミシアを通って、トロアスに下った。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。


 パウロたちはアジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、ミシアの近くまで来てビティニアに進もうとしました。しかし、イエスの御霊がお許しになりませんでした。パウロたちは途方に暮れたことでしょう。アブラハムが途方に暮れ、ルツが途方に暮れ、そしてペテロが途方に暮れた時に神様の導きの声があったように、パウロもまた途方に暮れた時に幻によって、マケドニアに渡るように示されました。

 マケドニアはヨーロッパです。こうしてヨーロッパにキリスト教が伝わり、パウロたちから1500年後にヨーロッパのフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。そして、その400年後の20世紀の後半に皆さんの多くが教会に導かれて、さらに21世紀に入ってから私とAさんが教会に導かれました。

おわりに
 これらは全部同じ一つの神様の導きによります。アブラハム、ルツ、ペテロ、パウロ、そして私たちは皆、同じ神様の声に導かれて教会につながりました。本当に感謝なことです。この素晴らしい恵みをもっと多くの方々と分かち合いたいと思います。多くの方々に、この神様の導きの声が届いてほしいと思います。

 お祈りいたしましょう。

2:3 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。
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失ってはならない聖霊の力(2020.6.11 祈り会)

2020-06-13 08:34:27 | 祈り会メッセージ
2020年6月11日祈り会メッセージ
『失ってはならない聖霊の力』
【士師記13~16章】

はじめに
 久し振りで旧約聖書に登場する女性に注目するシリーズに戻ります。前回は士師記のデボラとヤエルに注目しました。デボラは士師記に登場する12人のさばきつかさの中の一人で、ヤエルの働きを誉めたたえる歌を歌いました。ヤエルはカナンの軍隊の長のシセラを天幕の中に招き入れ、シセラのこめかみに杭を打ち込んで殺しました。

 この前回のメッセージでは天幕の中に誘い込まれて殺されたシセラをコロナウイルスと罪、そしてイエスさまに例えることもしました。ウイルスは外に出て拡散しないように封じ込める必要があります。私たちの内にある罪も他の人々に拡散させてはならず、私たちの内で消し去る必要があります。この罪を消すためにイエスさまの手足には太い釘が打ち込まれて十字架に付けられました。

怪力の持ち主サムソン誕生の経緯
 きょうも士師記を開きます。きょうは怪力の持ち主のサムソンを無力にした女性デリラに注目します。

 始めに、サムソンが生まれる前のことを見ておきましょう。士師記13章(旧約p.452)です。

13:1 イスラエルの子らは、の目に悪であることを重ねて行った。そこでは四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。

 イスラエルが神から離れるのは、いつものことです。主はこのことに怒って、イスラエルを40年間、ペリシテ人の手に渡しました。続いて2節、

13:2 さて、ダンの氏族に属するツォルア出身の一人の人がいて、名をマノアといった。彼の妻は不妊で、子を産んだことがなかった。

 このマノアと不妊の妻との間に生まれたのが怪力の持ち主のサムソンです。3節、

13:3 の使いがその女に現れて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。

 この男の子がサムソンです。4節と5節、

13:4 今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。
13:5 見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人(びと)だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

 5節で御使いは「その子の頭にかみそりを当ててはならない」と言いました。時間の関係で先回りして言っておくと、サムソンは怪力の持ち主でしたが、かみそりで髪の毛を剃り落とされてしまうと、力が抜けてしまうのでした。

サムソンの怪力を失わせた女性デリラ
 そして大人になったサムソンはペリシテ人の女を愛するようになりました。その一人がデリラです。16章に飛びます。4節と5節、

16:4 その後、サムソンは、ソレクの谷にいる女を愛した。彼女の名はデリラといった。
16:5 ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、言った。「サムソンを口説いて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、縛り上げて苦しめることができるかを調べなさい。そうすれば、私たちは一人ひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」

 そうしてデリラはサムソンに迫ります。6節と7節、

16:6 そこで、デリラはサムソンに言った。「どうか私に教えてください。あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょうか。」
16:7 サムソンは言った。「もし、まだ干(ほ)していない七本の新しい弓の弦(つる)で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになるだろう。」

 しかし、これは嘘でした。少し飛ばして10節、

16:10 デリラはサムソンに言った。「まあ、あなたは私をだまして噓をつきましたね。今度こそ、どうしたらあなたを縛れるか教えてください。」

 そうして同様のことが繰り返されて行きます。16節と17節、

16:16 こうして、毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった。
16:17 ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」

 これは嘘ではなく、本当のことでした。19節、

16:19 彼女は膝の上でサムソンを眠らせ、人を呼んで彼の髪の毛七房を剃り落とさせた。彼女は彼を苦しめ始め、彼の力は彼を離れた。

 こうしてサムソンはペリシテ人に捕らえられました。21節、

16:21 ペリシテ人は彼を捕らえ、その両目をえぐり出した。そして彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせを掛けてつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。

 しかし22節、

16:22 しかし、サムソンの髪の毛は、剃り落とされてからまた伸び始めた。

 髪の毛が伸び始めたことでサムソンの怪力は回復して行きます。その怪力によってサムソンはペリシテ人に復讐をして自らも死にます。29節と30節、

16:29 サムソンは、神殿を支えている二本の中柱を探り当て、一本に右手を、もう一本に左手を当てて、それで自らを支えた。
16:30 サムソンは、「ペリシテ人と一緒に死のう」と言って、力を込めてそれを押し広げた。すると神殿は、その中にいた領主たちとすべての民の上に落ちた。こうして、サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。

 サムソンが愛したデリラは悪魔のような女性ですね。サムソンを誘惑して彼の力を奪いました。イエスさまもおよそ30歳で宣教を始めた時に悪魔からの誘惑を受けましたが、イエスさまは誘惑を退けました。しかしサムソンは誘惑に負けて力を失いました。

失ってはならない聖霊の力
 では、私たちにとっての、サムソンの髪の毛に相当する力は何でしょうか?それはやはり聖霊でしょうね。私たちは何の力もない者たちですが、聖霊の力を受けると思い掛けなく良い働きができることがあります。自分には到底できないと思っていたことができてしまった時、それは聖霊の力が働いていたからだと思って良いでしょう。

 サムソンの髪の毛と聖霊とでは、もう一つ似ている点があります。それは内から外に出て行くという点です。サムソンの髪の毛は一度剃り落とされましたが、再び外に向かって伸び始めました。聖霊もまた内から外に出て行きます。

 最後にヨハネの福音書7章37節と38節をご一緒に読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 この生ける水の川とは御霊、すなわち聖霊のことであると39節に書かれています。聖霊は私たちの心の奥底から外に向かって流れ出て、その人は他の人へのイエスさまの証人になって行きます。「心の奥底から」は38節の脚注を見ると、直訳では「腹から」であることが分かります。ギリシャ語で「腹」は母親の「胎」(胎盤の胎)と同じ「コイリア」です。先日の教会学校で開かれていたヨハネ3章でニコデモはイエスさまに「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか」と言いました。このニコデモが言った「胎」のギリシャ語もコイリアです。母の胎は人の生命の源ですね。そうして人に霊的な命をもたらす聖霊もコイリアすなわち心の奥底から流れ出ます。

 この聖霊によって私たちは霊的に覚醒して大きな力を得ることができます。この聖霊の力なしに私たちは生きて行くことができません。

 この力をサムソンのように失ってしまうことが無いよう、日々整えられながら生きていきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
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再出発の時に備える(2020.6.4 祈り会)

2020-06-06 09:22:16 | 祈り会メッセージ
2020年6月4日祈り会メッセージ
『再出発に向けた備え』
【ハガイ1:1~7】

1:1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、のことばがあった。
1:2 万軍のはこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。の宮を建てる時は』と言っている。」
1:3 すると預言者ハガイを通して、次のようなのことばがあった。
1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」
1:5 今、万軍のはこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
1:6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
1:7 万軍のはこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。

 このハガイ1章は、少し前までY兄の前夜式の説教箇所にしようと考えていた箇所です。信徒の方が天に召されると、その直後からやらなければならない事がたくさん発生します。加えて礼拝の準備も絡んでくると、とても過酷な状況に置かれます。ですから備えられる時には備えておきます。

 このハガイ1章5節と7節の「あなたがたの歩みをよく考えよ」は、新改訳の第3版では、「あなたがたの現状をよく考えよ」になっていました。Yさんは教会の現状と将来を憂えて、様々な提言をして下さっていました。前夜式ではそのことに感謝して、主の良いしもべであったYさんの思い出を分かち合いながら、主の慰めを得たいと思っていました。

 さてしかし、結局ハガイ書からの説教は取り止めにしました。それは、Yさんの召天日の5月21日が、イースターから40日目のイエスさまの昇天日であったことを知って、とても大きな平安をいただいたからです。このことを是非ご遺族と分かち合って主の慰めをいただくことにしたいと思ったからです。

 2週間前の木曜日の午前にYさんが天に召されたとご家族から連絡を受けた時、私はともかくも駆け付けてYさんの頭に手を置いて「臨終の祈り」をさせていただきました。その時のYさんの顔はとても穏やかでした。体はやせ細っていましたが、とても穏やかな顔をしていましたから、本当に平安のうちにイエスさまと共に天に昇って行ったのだなと思いました。Yさんは体がやせ細ると共に、内面においても、まとわりついている罪がどんどん取り払われて行って、最後はあらゆる罪から解放されて身軽になって、イエスさまと共に天に昇ったのだと思います。

 このことが私の中で強烈なイメージとして残り、この日以来、私自身も、先ずはいろいろな物を脱ぎ捨てて、空っぽになるように促されていることを感じています。特に葬儀が終わって疲労困憊していた時、疲労感とは別に、葬儀で自分のすべてを出し切って空っぽになった心地良ささえ感じていました。ただし放っておくと、またすぐにいろいろな物がまとわりついて来ます。それで私は、もうしばらくの間はYさんがイエスさまの昇天日に身軽になって天に昇って行ったことの余韻に浸り、その恵みに与りたいと無意識のうちに思っていたのだと思います。

 それが、ペンテコステ礼拝の説教で、ペンテコステの日の出来事について語ることを回避したことにつながったんだろうなと後になって思いました。私は無意識の中でペンテコステの日について語ることを回避していたんですね。先日の礼拝が終わった後、ペンテコステの日の出来事について語らなかったですねというご指摘ありました。どうして語らなかったか、その時は上手く説明できませんでしたが、いろいろ考えていて、きっとYさんの葬儀のことが影響していたのだなと思いました。

 ペンテコステの日には、天から聖霊が弟子たちに激しく降りました。そうして聖霊の力を受けたペテロは人々に向かって力強く語り始めました。このペテロの力強い説教について語るには、牧師もテンションをそれなりに上げる必要があります。Yさんの葬儀の疲れがまだ残っていた時に、それはきついことでした。それが一つめの理由です。

 しかし、それ以上の理由として、まだまだペテロたちのように力強く再出発する時ではないと無意識の中で感じていたのだと思います。まずは私たちもYさんのように、いろいろとまとわりついている罪を取り払って、できるだけ空っぽになって、そうして再出発すべきだと思います。私たちは空っぽになればなるほど主の御声を聞きやすくなります。もっといろいろな物を私たちの中から出し切る必要があるのだと思います。

 では、私たちは、いつ、どのようにして再出発すべきでしょうか?それはYさんのお別れ会の礼拝の時ではないかと私は思っています。その時の礼拝説教は、前夜式で見送ったハガイ書からの説教にしたいと今から考えています。ハガイの預言も、ペンテコステの日のペテロの説教のように、非常に力強いものです。ハガイ2章4節で主はハガイを通して仰せられました。

2:4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍ののことば──

 ここで主はハガイを通して「強くあれ、強くあれ、強くあれ」と三度も強く語り掛けました。このみことばを受けて私たちが当時のエルサレムの人々のように、またペンテコステの日のエルサレムの人々のように力強く仕事に取り掛かる前に、私たちはもっと自分の内を空っぽにしておきたいと思います。そうすればするほど、主のことばは私たちの内の奥深くに入って響いて来るでしょう。そうして主の御声を聞きながら、再出発に備えて今の私たちの現状を良く考えておきたいと思います。

 ハガイの預言がどういう状況の下であったのか、まだ説明していませんでしたから、最後に簡単に説明します。ハガイ1章の1節と2節、

1:1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、のことばがあった。
1:2 万軍のはこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。の宮を建てる時は』と言っている。」

 このハガイの預言があったのはバビロン捕囚の後に人々がエルサレムに帰還して神殿の再建を始めた後の時代のことです。エルサレムの民が神殿の再建を始めてから2年後には神殿の基礎が完成しました。しかし、その後、周辺の住民の妨害に遭って神殿の再建は中断してしまいました。そうして中断の期間は17年もの長い期間になってしまいました。続いて3節と4節、

1:3 すると預言者ハガイを通して、次のようなのことばがあった。
1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」

 まだ基礎が完成しただけですから、神殿は依然として廃墟のままでした。それなのに人々は中断したまま仕事に取り掛からず、主の家は廃墟なのに自分たちはしっかりとした家に住んでいました。それゆえ主は言われました。5節と6節、

1:5 今、万軍のはこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。
1:6 多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」


 「あなたがたの歩みをよく考えよ」は、先ほども言いましたが、第3版の訳は「あなたがたの現状をよく考えよ」です。口語訳では「あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」になっています。

 今の私たちの現状はどうでしょうか。個人について、家庭について、教会について、力強く再出発する前に、先ずは自分を空っぽにして、じっくりと考える期間を設けるべきではないでしょうか。空っぽになればなるほど、主のことばが奥深くに入って来ます。6節の「多くの種を蒔いても収穫はわずか云々」は、当時のエルサレムの民に対することばですが、私たちに対しても主は私に語って下さり、私、そして私たちに足りないものは何かを教えて下さることでしょう。

 ですから、私たちは仕事に取り掛かるのは何か月か後のお別れ会の頃として、先ずは主の語り掛けに耳を澄ませたいと思います。そうして、その期間を経たなら、力強く前進を始めることができたらと思います。

 最後にハガイ1章7節をご一緒に読みましょう。

1:7 万軍のはこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」


 お祈りいたしましょう。
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杭を打ち込まれたシセラ、太釘を打ち込まれたイエス(2020.5.14 祈り会)

2020-05-15 09:20:25 | 祈り会メッセージ
2020年5月14日祈り会メッセージ
『杭を打ち込まれたシセラ、太釘を打ち込まれたイエス』
【士師記4:1~24、5:1~2、24~27】

はじめに
 きょうは、しばらく離れていた旧約聖書の女性のシリーズに戻ることにします。前回はヨシュア記のラハブに注目しました。ラハブはヨシュアがエリコに送った偵察隊を匿いました。このことは新約聖書のヘブル人への手紙の記者も記してラハブを称えています。

あっさりと登場するデボラ
 きょうは士師記に登場するデボラとヤエルに注目します。デボラは女預言者で、士師記に登場する十二人のさばきつかさの中の一人です。聖書では女性のリーダーは珍しいですから、何か特別な事情があったのか気になるところですが、デボラが登場する場面では、特別なことは何も書かれてはなく、デボラはあっさりと登場します。士師記4章の1~4節を交代で読みましょう。

4:1 イスラエルの子らは、の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。
4:2 は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。
4:3 すると、イスラエルの子らはに叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。
4:4 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。

 1節にあるようにイスラエルの民はいつものごとく主から離れていました。それで主はカナンの王ヤビンによってイスラエル人を苦しめることにしました。このカナンの軍の長はシセラでした。シセラに率いられたカナンの軍は戦車九百台を持って強大でしたから、イスラエルは苦しめられていました。その頃にイスラエルをさばいていたのが女預言者のデボラでした。4節にあるように、デボラはあっさりと登場します。

 さて6節と7節を見ると、デボラがバラクを呼び寄せて、主のことばを彼に告げたことが書かれています。デボラはバラクに言いました。

4:6 「イスラエルの神、はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。
4:7 わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」

 このデボラの預言にバラクは、デボラに一緒に行って欲しいと頼みました。するとデボラは答えました。9節、

4:9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。

 主はカナンの軍の長シセラをある女性の手に渡しました。それがヤエルです。ヤエルはシセラを殺すという大きな働きをしました。このヤエルの働きについては、後で見ます。ヤエルがシセラを殺したことで、イスラエルはカナンの王を屈服させることができました。23節と24節、

4:23 こうして神は、その日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを屈服させた。
4:24 イスラエル人の勢力は、カナンの王ヤビンに対してますます強くなり、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。

ヤエルに杭を打ち込まれたシセラ
 そうして勝利したデボラとバラクは賛美の歌を歌います。5章の1節と2節、

5:1 その日、デボラとアビノアムの子バラクは、こう歌った。
5:2 「イスラエルでかしらたちが先頭に立ち、民が進んで身を献げるとき、をほめたたえよ。

 ヤエルがシセラを殺した場面は4章にもありますが、この5章の賛美の歌の中にも出て来ますから、そちらの方をご一緒に読むことにします。5章の24節から27節までを交代で読みましょう。

5:24 女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。
5:25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。
5:26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。
5:27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

 24節に女の中で最も祝福されるのはヤエルとあります。女預言者のデボラではないのですね。デボラはヤエルを称えるために立てられた士師なのかもしれません。
 ここにはありませんが、ヤエルはシセラを天幕の中に招き入れました。その場面を見ておきましょう。4章の18節です。

4:18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人様。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼を布でおおった。

 5章に戻ります。25節、

5:25 シセラが水を求めると、彼女は乳を与え、高価な鉢で凝乳を差し出した。

 シセラは天幕に入ってヤエルから飲み物をもらって飲むと安心して、ぐっすり眠ってしまいます。その眠ったシセラのこめかみにヤエルは杭を打ち込みます。26節と27節、

5:26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。
5:27 彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れ、横たわった。彼女の足もとに彼は膝をつき、倒れた。膝をついた場所で、倒れて滅びた。

 こうしてカナンの軍の長のシセラが死んだことでカナンはイスラエルに屈服して滅びました。

太い釘を打ち込まれたイエスさま
 前回、ヨシュア記のラハブの時にも言いましたが、ヨシュア記や士師記のように人を殺す場面が出て来る箇所はメッセージにしづらい箇所です。しかし、コロナウイルスとの戦いに置き換えるならメッセージになると感じます。そして今回はさらに、杭を打ち込まれたシセラを私たちの内にある罪にも置き換えてみたいと思います。

 ヤエルはシセラを天幕の中に誘い入れて殺しました。ウイルスの感染拡大を防ぐためにも、同じことが行われていますね。ウイルスの感染拡大を防ぐには感染者を建物の外に出さないことが重要です。そうして適切な治療薬が投薬されるなら、すなわち杭が打ち込まれるなら、ウイルスは死滅します。

 そして今日は、このウイルスを私たちの内にある罪にも置き換えてみたいと思います。私たちの内に罪があることは誰もが認めなければなりません。私たちはどうしても罪に傾く性質を持っています。それは私たち自身が良く知っていることですし、聖書にも書かれていることです。

 この私たちの内にある罪が外に出ると、とてもやっかいなことになります。聖書の記事ですぐに思い当たるのは、イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出してから約1年後のカデシュでの事件です。主はモーセを通じて約束の地のカナンを偵察に行くようにイスラエルに命じました(民数記13章)。そうして12人の族長たちが偵察に行ったところ、カナン人たちが強大だったのを見て彼らは怖じ気づきます。ヨシュアとカレブの2人はそれでもカナンに進攻することを主張しましたが、残りの10人の族長たちは戦う気を失っていました。そうしてその弱気のウイルスがイスラエルの民全体に感染してしまい、彼らは「エジプトに帰ろう」(民数記14:4)と言い出し始めました。

 このように主を信頼せずに主から離れる罪はすぐに感染が拡大してしまいます。水や食べ物が欲しいという不平不満も一人が言い出すとすぐに全体に感染します。このような罪が一人一人の内に生じることは仕方のないことかもしれませんが、この罪を全体に広げてしまうことは大きな罪であると言えるでしょう。

 イエスさまが最後の晩餐の後で祭司長たちに捕らえられて裁判に掛けられた時も、祭司長たちがユダヤ人たちを扇動したために、彼らは「十字架に付けろ」と騒ぎ始めました。ユダヤ人たちを扇動した祭司長たちの罪は大きいと思いますし、祭司長たちが撒き散らしたウイルスに感染して騒いだユダヤ人たちの罪も軽くはありません。

 では、天の父はそのユダヤ人たちを十字架に付けたのでしょうか。違いますね。十字架に付けられて手と足に太い釘を打ち込まれたのはイエスさまの方でした。天の父はウイルスを拡散させた病人に釘を打ち込むのではなく、病人を治療する医者であったイエスさまに釘を打ち込みました。イエスさまを信じない人にはとても分かりづらいことですが、これがキリスト教です。私もまた神様に背いていましたからイスラエル人やユダヤ人たちと同じような罪人ですが、神様は私に杭を打ち込むのでなくイエスさまに太い釘を打ち込みました。

おわりに
 杭を打ち込まれるべきは私です。しかし、神様は私の罪を赦して下さいました。これが神様の愛です。

 きょうはヤエルがシセラに杭を打ち込むという残虐な場面を見ましたが、イエスさまの十字架は同じくらいに残虐です。しかし、このイエスさまの十字架によって私たちの罪は赦されました。イエスさまの十字架によって杭を打ち込まれるべきほどに重い、私の背きの罪は赦されました。この神様の大きな愛を思い、感謝したいと思います。

 お祈りいたします。

5:24 女の中で最も祝福されるのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。
5:26 ヤエルは杭を手にし、右手に職人の槌をかざしシセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し貫いた。


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