2020年9月23日 聖書と祈りの会・勧話
『俳句と信仰の共通点①』
【ルカ10:38~42】
月1回の水曜日(最終木曜日の前日)の午前の聖書と祈りの会では、これから下記の4回シリーズの予定で、「俳句と信仰の共通点」について話してみたいと考えています。
1.「心の余裕」が大切(9月)
2.五感と霊性が磨かれる(10月)
3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)
4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)
私の俳句歴はまだ1年ちょっとで、それも年4回の教会の「お季楽俳句会」に合わせて、一つの季節に少ない数しか作りませんから、まだまだ初心者の域を脱していません。しかしそれでも、「俳句」と「信仰」には共通点が多いことに気付く程度には、俳句に馴染んで来たと感じています。
今日は「1.『心の余裕』が大切」という俳句と信仰との共通点について考えてみたいと思います。
聖書箇所は、ルカの福音書10章38~42節です。
心の余裕が無い時にも、もちろん俳句は作れると思いますし、信仰生活を送ることもできると思います。いや、むしろ苦しくて心に余裕が無い時ほど俳句や信仰が心の支えになるということもあるでしょう。
K姉が貸して下さった「秋元不死男句集」には、昭和16年に治安維持法違反の容疑で逮捕された不死男が獄中で作った句が多く収められています。2年間の苦しい獄中生活の中では俳句を作ることが不死男の心を慰めたのだろうと想像します。
ちなみに何が治安維持法に引っ掛かったかと言うと、昭和12年作の
という俳句だそうです。製鉄所で鉄板を打つ男の逞しさに感動して作った句だそうですが、逮捕理由は、この句の「鉄」は資本主義を象徴し、それを労働者が打つのだから、プロレタリア革命を暗示した俳句とされた、とのことだったそうです。それで2年間も投獄されたのですから、まったく理不尽ですね。
私たちのインマヌエル教団の創設者の蔦田二雄牧師も、戦時中に2年間投獄されていました。獄中に聖書を持ち込むことはもちろん許されなかったと思います。しかし、そんな中でも蔦田牧師の頭の中には聖書のみことばがしっかりと入っていたと思いますから、聖句を通して神様との交わりを維持して慰めを得ていたことだろうと思います。
そんな風に、心に余裕が無い苦しい時にこそ、心の支えになるという一面が俳句と信仰にはあると思います。しかしもう一方で、心の余裕がないと、上記の2~4の点において成長することは難しいのではないかとも考えます。
今年の5月と6月、私は天に召される時が近づいていたY兄とH兄へのお見舞いと葬儀で、俳句を作る心の余裕が全くありませんでした。ですから、7月の初めが投句の締切だった夏の季語の第5回お季楽俳句会は全く不調でした。心に余裕が無いと、季節を感じることがなかなかできず、従って俳句もなかなか作れないと感じました。そして上記の2~4を感じることも難しくなると思いました。すると2~4の点で成長することも難しいでしょう。
きょうは予告編的に上記の2~4の俳句と信仰の共通点をごく簡単に話しておきます。
まず「2.五感と霊性が磨かれる(10月)」について。
五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のことですが、中では私は俳句も信仰も「触覚」が極めて大事だと最近感じています。「触覚」の中でも、自分で触わるほうの能動的な側ではなく、触れられるほうの受動的な皮膚感覚、肌感覚です。四季の暖かさや涼しさは全身の肌で感じるものですし、日光も全身で浴びます。蝉の声や虫の声などの音も聞くのは耳ですが、音は全身を包みます。良い音楽を聞いて感動した時など全身に鳥肌が立つことがありますね。或いはまた花火のすぐ近くでは大きな音の振動が体全体に響きます。花の香りも嗅ぐのは顔に付いている鼻ですが、香りは全身で浴びます。焼肉屋に行って来た時などは焼肉の臭いが全身に付いています。味覚も味わうのは舌ですが、おいしい物を食べて感動すると全身がゾクゾク震える至福感があります。神様の愛もまた全身で感じるものです。神様の大きな愛に全身が包まれていることを感じる時、全身がゾクゾク震える感動を覚えます。詳しくは来月話すことにします。
次に「3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)」について。
時空スケールというのは時間と空間のスケールのことです。俳句で時間と空間のスケールの大きいものと言うと、私は中学か高校の国語で習った、『おくのほそ道』の俳句を思い起こします。例えば、芭蕉が平泉で詠んだ有名な
です。この句は、源義経を匿った奥州藤原氏を頼朝が滅ぼしたことに芭蕉が思いを馳せて涙を流した時に作った句です。奥州藤原氏が滅んだのが1189年で、芭蕉が平泉を訪れたのが1689年さということですから、芭蕉は500年前の兵(つわもの)たちの戦(いくさ)の様子に思いを馳せて涙を流したことになります。ここに、この俳句の時間のスケールの大きさを感じます。
或いはまた、越後路で芭蕉は
という俳句を詠みました。この句には空間のスケールの大きさを感じます。
一方、スケールの小さな俳句にも、もちろん味わいがあります。先ほどの秋元不死男の
槌を持った腕を振りかぶったその一瞬を切り取ったものですから、時間のスケールは小さなものですが、ここにも深い味わいがあると思います。このように俳句はスケールの大きいものと小さいものの両方に深い味わいがあります。
聖書ももちろん同じですね。特に旧約聖書全体には時間と空間のスケールの大きさを感じると共に、ヤコブなど一人一人の登場人物に焦点を当てている時には、小さいスケールでの味わいがあります。
そしてもう一つの「4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)」は、俳句を作る作らないに関わらず、山や川、花や虫たちや空の鳥を見ると、これらすべてをお造りになった創造主は本当にすごいなあと思い、感謝の思いが自然に湧きますね。そうして聖書を読んだ時にももちろん創造主への感謝の思いが湧きます。
これらの2~4のことは、心の余裕が無いとなかなか感じられないことです。
最初にご一緒に読んだマルタとマリアの箇所では、マルタがイエス様のもてなしの準備で心の余裕を失っていました。心の余裕を失っていては、イエス様が語る福音に心を向けることはできません。ゆったりとした心持ちでいることは、とても大切なことだと思います。
今年の5月から私は、礼拝の前に週報を二つ折りにすることを止めました。これを止めると心に余裕ができることを、無会衆礼拝の期間に気付いたからです。
無会衆礼拝の期間中は週報をメールで送信できなかった人には郵送で送っていました。近隣の方には自転車で直接届けましたが、遠方の方には郵送しました。遠方の方でも最低一回は車で直接お届けしましたが、それ以外は郵送していました。その場合の切手代は、二つ折りだと定形外の140円ですが、三つ折りなら定形ですから84円で送れます。10名ぐらいのことですが、期間が長引けば郵送代がかなり違って来ます。最初のうちは無会衆礼拝をいつまで続けなければならないか分からない状況でしたから、切手代を節約して三つ折りにしました。その場合、予め二つ折りにしてあると折り目だらけになってしまいますから、折らないようにしていました。
そして、このことで礼拝前に週報を折らないことでゆったりとした気分でいられることに気付きました。週報の数は30数枚程度のことですが、ゆっくり折っていると時間が掛かってしまいますから、パッパと手早く折ります。すると、自然と気が急いて来てしまうのですね。礼拝前に気が急くようなことをすることは良くないことだと、無会衆礼拝の期間中に気付かされました。それで通常の礼拝に持ってからも、週報を折るのを止めました。そうして礼拝にはできるだけ、ゆったりした心持ちで臨めるように備えています。
イエス様も心の余裕を失っていたマルタに言いましたね。最後に41節と42節をご一緒に読んで終わりたいと思います。
『俳句と信仰の共通点①』
【ルカ10:38~42】
月1回の水曜日(最終木曜日の前日)の午前の聖書と祈りの会では、これから下記の4回シリーズの予定で、「俳句と信仰の共通点」について話してみたいと考えています。
1.「心の余裕」が大切(9月)
2.五感と霊性が磨かれる(10月)
3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)
4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)
私の俳句歴はまだ1年ちょっとで、それも年4回の教会の「お季楽俳句会」に合わせて、一つの季節に少ない数しか作りませんから、まだまだ初心者の域を脱していません。しかしそれでも、「俳句」と「信仰」には共通点が多いことに気付く程度には、俳句に馴染んで来たと感じています。
今日は「1.『心の余裕』が大切」という俳句と信仰との共通点について考えてみたいと思います。
聖書箇所は、ルカの福音書10章38~42節です。
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
心の余裕が無い時にも、もちろん俳句は作れると思いますし、信仰生活を送ることもできると思います。いや、むしろ苦しくて心に余裕が無い時ほど俳句や信仰が心の支えになるということもあるでしょう。
K姉が貸して下さった「秋元不死男句集」には、昭和16年に治安維持法違反の容疑で逮捕された不死男が獄中で作った句が多く収められています。2年間の苦しい獄中生活の中では俳句を作ることが不死男の心を慰めたのだろうと想像します。
ちなみに何が治安維持法に引っ掛かったかと言うと、昭和12年作の
冬空をふりかぶり鉄を打つ男
という俳句だそうです。製鉄所で鉄板を打つ男の逞しさに感動して作った句だそうですが、逮捕理由は、この句の「鉄」は資本主義を象徴し、それを労働者が打つのだから、プロレタリア革命を暗示した俳句とされた、とのことだったそうです。それで2年間も投獄されたのですから、まったく理不尽ですね。
私たちのインマヌエル教団の創設者の蔦田二雄牧師も、戦時中に2年間投獄されていました。獄中に聖書を持ち込むことはもちろん許されなかったと思います。しかし、そんな中でも蔦田牧師の頭の中には聖書のみことばがしっかりと入っていたと思いますから、聖句を通して神様との交わりを維持して慰めを得ていたことだろうと思います。
そんな風に、心に余裕が無い苦しい時にこそ、心の支えになるという一面が俳句と信仰にはあると思います。しかしもう一方で、心の余裕がないと、上記の2~4の点において成長することは難しいのではないかとも考えます。
今年の5月と6月、私は天に召される時が近づいていたY兄とH兄へのお見舞いと葬儀で、俳句を作る心の余裕が全くありませんでした。ですから、7月の初めが投句の締切だった夏の季語の第5回お季楽俳句会は全く不調でした。心に余裕が無いと、季節を感じることがなかなかできず、従って俳句もなかなか作れないと感じました。そして上記の2~4を感じることも難しくなると思いました。すると2~4の点で成長することも難しいでしょう。
きょうは予告編的に上記の2~4の俳句と信仰の共通点をごく簡単に話しておきます。
まず「2.五感と霊性が磨かれる(10月)」について。
五感とは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のことですが、中では私は俳句も信仰も「触覚」が極めて大事だと最近感じています。「触覚」の中でも、自分で触わるほうの能動的な側ではなく、触れられるほうの受動的な皮膚感覚、肌感覚です。四季の暖かさや涼しさは全身の肌で感じるものですし、日光も全身で浴びます。蝉の声や虫の声などの音も聞くのは耳ですが、音は全身を包みます。良い音楽を聞いて感動した時など全身に鳥肌が立つことがありますね。或いはまた花火のすぐ近くでは大きな音の振動が体全体に響きます。花の香りも嗅ぐのは顔に付いている鼻ですが、香りは全身で浴びます。焼肉屋に行って来た時などは焼肉の臭いが全身に付いています。味覚も味わうのは舌ですが、おいしい物を食べて感動すると全身がゾクゾク震える至福感があります。神様の愛もまた全身で感じるものです。神様の大きな愛に全身が包まれていることを感じる時、全身がゾクゾク震える感動を覚えます。詳しくは来月話すことにします。
次に「3.時空スケールの「大」と「小」の両方を味わえる(11月)」について。
時空スケールというのは時間と空間のスケールのことです。俳句で時間と空間のスケールの大きいものと言うと、私は中学か高校の国語で習った、『おくのほそ道』の俳句を思い起こします。例えば、芭蕉が平泉で詠んだ有名な
夏草や兵どもが夢の跡
(なつくさや つはものどもが ゆめのあと)
(なつくさや つはものどもが ゆめのあと)
です。この句は、源義経を匿った奥州藤原氏を頼朝が滅ぼしたことに芭蕉が思いを馳せて涙を流した時に作った句です。奥州藤原氏が滅んだのが1189年で、芭蕉が平泉を訪れたのが1689年さということですから、芭蕉は500年前の兵(つわもの)たちの戦(いくさ)の様子に思いを馳せて涙を流したことになります。ここに、この俳句の時間のスケールの大きさを感じます。
或いはまた、越後路で芭蕉は
荒海や佐渡によこたふ天河
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ)
(あらうみや さどによこたふ あまのがわ)
という俳句を詠みました。この句には空間のスケールの大きさを感じます。
一方、スケールの小さな俳句にも、もちろん味わいがあります。先ほどの秋元不死男の
冬空をふりかぶり鉄を打つ男
槌を持った腕を振りかぶったその一瞬を切り取ったものですから、時間のスケールは小さなものですが、ここにも深い味わいがあると思います。このように俳句はスケールの大きいものと小さいものの両方に深い味わいがあります。
聖書ももちろん同じですね。特に旧約聖書全体には時間と空間のスケールの大きさを感じると共に、ヤコブなど一人一人の登場人物に焦点を当てている時には、小さいスケールでの味わいがあります。
そしてもう一つの「4.創造主への感謝の思いが湧く(12月)」は、俳句を作る作らないに関わらず、山や川、花や虫たちや空の鳥を見ると、これらすべてをお造りになった創造主は本当にすごいなあと思い、感謝の思いが自然に湧きますね。そうして聖書を読んだ時にももちろん創造主への感謝の思いが湧きます。
これらの2~4のことは、心の余裕が無いとなかなか感じられないことです。
最初にご一緒に読んだマルタとマリアの箇所では、マルタがイエス様のもてなしの準備で心の余裕を失っていました。心の余裕を失っていては、イエス様が語る福音に心を向けることはできません。ゆったりとした心持ちでいることは、とても大切なことだと思います。
今年の5月から私は、礼拝の前に週報を二つ折りにすることを止めました。これを止めると心に余裕ができることを、無会衆礼拝の期間に気付いたからです。
無会衆礼拝の期間中は週報をメールで送信できなかった人には郵送で送っていました。近隣の方には自転車で直接届けましたが、遠方の方には郵送しました。遠方の方でも最低一回は車で直接お届けしましたが、それ以外は郵送していました。その場合の切手代は、二つ折りだと定形外の140円ですが、三つ折りなら定形ですから84円で送れます。10名ぐらいのことですが、期間が長引けば郵送代がかなり違って来ます。最初のうちは無会衆礼拝をいつまで続けなければならないか分からない状況でしたから、切手代を節約して三つ折りにしました。その場合、予め二つ折りにしてあると折り目だらけになってしまいますから、折らないようにしていました。
そして、このことで礼拝前に週報を折らないことでゆったりとした気分でいられることに気付きました。週報の数は30数枚程度のことですが、ゆっくり折っていると時間が掛かってしまいますから、パッパと手早く折ります。すると、自然と気が急いて来てしまうのですね。礼拝前に気が急くようなことをすることは良くないことだと、無会衆礼拝の期間中に気付かされました。それで通常の礼拝に持ってからも、週報を折るのを止めました。そうして礼拝にはできるだけ、ゆったりした心持ちで臨めるように備えています。
イエス様も心の余裕を失っていたマルタに言いましたね。最後に41節と42節をご一緒に読んで終わりたいと思います。
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」