2020年7月16日祈り会メッセージ
『神ではなく人を見ていたミカル』
【Ⅰサムエル19:11~17、Ⅱサムエル6:12~23】
はじめに
先週はイスラエルの女たちが「サウルを千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったことにサウル王が激怒してダビデを殺そうとしたことと、ダビデがそんな中でも主を第一に考えて、主が油を注いだサウルを殺そうとしなかったことをご一緒に見ました。サウル王は人を見ていて、ダビデは神様を見ていました。
ダビデを愛していたミカル
今週はサウルの娘のミカルに注目します。ミカルはダビデをとても愛していて、ダビデの妻になりました。しかしミカルも父親のサウルと同じように、神様ではなくて、人の方を見ていました。まず第一サムエル19章の11節から17節までを交代で読みましょう。
こうしてミカルは夫のダビデを助けました。ミカルはダビデをとても愛していましたから、自分の父親のサウルをあざむいて、ダビデを助けました。
神の箱の前で跳ねるダビデをさげすんだミカル
そんなミカルでしたが、やはり父親と同じように神様ではなく人の方を見て、人目を気にするような人でした。次に、第二サムエル6章の12節から23節までを交代で読みましょう。
残念なことですが、ミカルには神の箱がエルサレムに運び入れられることがイスラエルにとって、どんなに大事なことであるかが、ぜんぜん分かっていませんでした。
ミカルにはモーセの時代の出エジプトの出来事への感謝の気持ちが無かったのでしょうか?主はエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を救い出して下さり、シナイ山のふもとでモーセを通じて律法を授けました。この時に主は幕屋と神の箱の作り方も授けて、イスラエル人はその通りに作りました。それ以降、神の箱は常にイスラエル人と共にあり、荒野の中を進む時には神の箱が先頭を行きました。ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡る時にも、神の箱をかついだ祭司たちが先頭に立ってヨルダン川に入って行きました。つまり、ミカルの祖先は神の箱に先導されて、このカナンの地に入りました。
しかし、その後、この神の箱はペリシテ人との戦いの時に奪われてしまいましたから、サウル王の時代には神の箱は身近にありませんでした。そうして神の箱が奪われてから数十年を経ていよいよエルサレムのダビデの町に運び込まれようとしていました。このことをダビデがどんなに喜び、また心強く思っていたか、妻のミカルは理解していなかったのでしょうか?
ダビデはいつも主に守られていることを感じていて、そのことを感謝していました。まだ羊飼いだった時代から、猛獣たちの攻撃から主が守って下さっていたことをダビデは感謝していました。そして先週もご一緒に見たように、巨人のゴリヤテとの対戦の際にも、主が必ず守って下さると信じていました。そして、サウルから殺されそうになっていた時も、主は守って下さり、戦場においても守っていて下さり、ついにエルサレムにダビデの町を築くことができました。ここまでダビデをずっと守って下さっていた主のご臨在を形として表す神の箱を自分の身近に置くことができることは、ダビデにとっては本当に心強く、大きな喜びでした。
ダビデ個人にとっても、これはうれしいことでしたし、イスラエルの王としても、神の箱はイスラエルを一つにまとめることができる心強い存在だったでしょう。イスラエルは十二の部族に分かれていましたから、これを一つにまとめるのは大変なことだったでしょう。ソロモン王が死んだ後で、イスラエルは北王国と南王国の二つに分裂してしまいました。ダビデの時代も、何かあれば分裂しかねない危険はいつもはらんでいただろうと思います。しかし、神の箱があれば一つにまとまりやすいでしょう。
ソロモンの死後にイスラエルが南北に分裂して北王国の王になったヤロブアムは、金の子牛の像を造って、それを北王国の民に拝ませましたね。北王国の民が神の箱が置いてあるエルサレムの神殿に礼拝に行くと、民の心が北王国から離れてしまうことを恐れたからです。神の箱がダビデの町にあることは、民の心をを一つにまとめることに絶大な効果を発揮するものでした。
ですから、ダビデは人々の前で喜びを素直に表現しました。また、これを見た人々は神の箱の重要性を再認識したことでしょう。神の箱が奪われた後に生まれた人も多かったと思いますから、ダビデが飛び跳ねて喜んでいる様子を見て、神の箱の大切さを改めて確認したことでしょう。
しかし、妻のミカルは、このダビデが大喜びする姿を見て軽蔑しました。20節ですね。
このミカルの言葉は、「それを言っちゃあ~おしまいよ」という感じの言葉ですね。以降、ミカルはダビデから見放されることになってしまいました。
おわりに
考えてみると、私たちが日曜日に教会に集って神様を賛美する姿も、周囲の日本人の目から見れば、ミカルがダビデを見ていたように映るかもしれません。なぜクリスチャンはあんな風に喜んで教会に出かけて行くんだろうかと、いぶかしく思う人も少なくないでしょう。
でも、主を第一に考える私たちは、日曜日に主を礼拝することは大きな喜びです。今はコロナの対策で心一杯喜びを表現することができませんが、心の中はダビデと同じぐらいに心一杯主を賛美したいと思います。
7/26の特別集会に限らず、どの集会もいつも聖霊で満たされたいと思います。ダビデが心一杯の喜びで神の箱を迎えたように、私たちも喜びに満ち溢れて神様を心にお迎えするなら、神様もそれを喜んで下さり、私たちを聖霊で満たして下さるでしょう。
ミカルのように、人の目を気にするのでなく、ダビデのように主のほうに心を向けて、喜びを持って主を賛美したいと思います。
お祈りいたしましょう。
『神ではなく人を見ていたミカル』
【Ⅰサムエル19:11~17、Ⅱサムエル6:12~23】
はじめに
先週はイスラエルの女たちが「サウルを千を討ち、ダビデは万を討った」と歌ったことにサウル王が激怒してダビデを殺そうとしたことと、ダビデがそんな中でも主を第一に考えて、主が油を注いだサウルを殺そうとしなかったことをご一緒に見ました。サウル王は人を見ていて、ダビデは神様を見ていました。
ダビデを愛していたミカル
今週はサウルの娘のミカルに注目します。ミカルはダビデをとても愛していて、ダビデの妻になりました。しかしミカルも父親のサウルと同じように、神様ではなくて、人の方を見ていました。まず第一サムエル19章の11節から17節までを交代で読みましょう。
19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝に彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げた。「今夜、自分のいのちを救わなければ、明日、あなたは殺されてしまいます。」
19:12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。
19:13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。
19:14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。
19:15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」
19:16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。
19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」
19:12 そして、ミカルはダビデを窓から降ろし、彼は逃げて難を逃れた。
19:13 ミカルはテラフィムを取って、寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを頭のところに置き、それを衣服でおおった。
19:14 サウルはダビデを捕らえようと、使者たちを遣わした。ミカルは「あの人は病気です」と言った。
19:15 サウルはダビデを見定めるために、同じ使者たちを遣わして言った。「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」
19:16 使者たちが入って見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが頭のところにあった。
19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私をだまし、私の敵を逃がして、逃れさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人が、『逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せるだろうか』と私に言ったのです。」
こうしてミカルは夫のダビデを助けました。ミカルはダビデをとても愛していましたから、自分の父親のサウルをあざむいて、ダビデを助けました。
神の箱の前で跳ねるダビデをさげすんだミカル
そんなミカルでしたが、やはり父親と同じように神様ではなく人の方を見て、人目を気にするような人でした。次に、第二サムエル6章の12節から23節までを交代で読みましょう。
6:12 「主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された」という知らせがダビデ王にあった。ダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上げた。
6:13 主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。
6:16 主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。
6:17 人々は主の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは主の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
6:18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の主の御名によって民を祝福した。
6:19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。
6:20 ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。
6:22 私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」
6:23 サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。
6:13 主の箱を担ぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは、肥えた牛をいけにえとして献げた。
6:14 ダビデは、主の前で力の限り跳ね回った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上げた。
6:16 主の箱がダビデの町に入ろうとしていたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろしていた。彼女はダビデ王が主の前で跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼を蔑んだ。
6:17 人々は主の箱を運び込んで、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の定められた場所にそれを置いた。ダビデは主の前に、全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げた。
6:18 ダビデは全焼のささげ物と交わりのいけにえを献げ終えて、万軍の主の御名によって民を祝福した。
6:19 そしてすべての民、イスラエルのすべての群衆に、男にも女にも、それぞれ、輪形パン一つ、なつめ椰子の菓子一つ、干しぶどうの菓子一つを分け与えた。民はみな、それぞれ自分の家に帰った。
6:20 ダビデが自分の家族を祝福しようと戻ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えに出て来て言った。「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」
6:21 ダビデはミカルに言った。「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで、主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。私はその主の前で喜び踊るのだ。
6:22 私はこれより、もっと卑しめられ、自分の目に卑しくなるだろう。しかし、あなたの言う、その女奴隷たちに敬われるのだ。」
6:23 サウルの娘ミカルには、死ぬまで子がなかった。
残念なことですが、ミカルには神の箱がエルサレムに運び入れられることがイスラエルにとって、どんなに大事なことであるかが、ぜんぜん分かっていませんでした。
ミカルにはモーセの時代の出エジプトの出来事への感謝の気持ちが無かったのでしょうか?主はエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を救い出して下さり、シナイ山のふもとでモーセを通じて律法を授けました。この時に主は幕屋と神の箱の作り方も授けて、イスラエル人はその通りに作りました。それ以降、神の箱は常にイスラエル人と共にあり、荒野の中を進む時には神の箱が先頭を行きました。ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡る時にも、神の箱をかついだ祭司たちが先頭に立ってヨルダン川に入って行きました。つまり、ミカルの祖先は神の箱に先導されて、このカナンの地に入りました。
しかし、その後、この神の箱はペリシテ人との戦いの時に奪われてしまいましたから、サウル王の時代には神の箱は身近にありませんでした。そうして神の箱が奪われてから数十年を経ていよいよエルサレムのダビデの町に運び込まれようとしていました。このことをダビデがどんなに喜び、また心強く思っていたか、妻のミカルは理解していなかったのでしょうか?
ダビデはいつも主に守られていることを感じていて、そのことを感謝していました。まだ羊飼いだった時代から、猛獣たちの攻撃から主が守って下さっていたことをダビデは感謝していました。そして先週もご一緒に見たように、巨人のゴリヤテとの対戦の際にも、主が必ず守って下さると信じていました。そして、サウルから殺されそうになっていた時も、主は守って下さり、戦場においても守っていて下さり、ついにエルサレムにダビデの町を築くことができました。ここまでダビデをずっと守って下さっていた主のご臨在を形として表す神の箱を自分の身近に置くことができることは、ダビデにとっては本当に心強く、大きな喜びでした。
ダビデ個人にとっても、これはうれしいことでしたし、イスラエルの王としても、神の箱はイスラエルを一つにまとめることができる心強い存在だったでしょう。イスラエルは十二の部族に分かれていましたから、これを一つにまとめるのは大変なことだったでしょう。ソロモン王が死んだ後で、イスラエルは北王国と南王国の二つに分裂してしまいました。ダビデの時代も、何かあれば分裂しかねない危険はいつもはらんでいただろうと思います。しかし、神の箱があれば一つにまとまりやすいでしょう。
ソロモンの死後にイスラエルが南北に分裂して北王国の王になったヤロブアムは、金の子牛の像を造って、それを北王国の民に拝ませましたね。北王国の民が神の箱が置いてあるエルサレムの神殿に礼拝に行くと、民の心が北王国から離れてしまうことを恐れたからです。神の箱がダビデの町にあることは、民の心をを一つにまとめることに絶大な効果を発揮するものでした。
ですから、ダビデは人々の前で喜びを素直に表現しました。また、これを見た人々は神の箱の重要性を再認識したことでしょう。神の箱が奪われた後に生まれた人も多かったと思いますから、ダビデが飛び跳ねて喜んでいる様子を見て、神の箱の大切さを改めて確認したことでしょう。
しかし、妻のミカルは、このダビデが大喜びする姿を見て軽蔑しました。20節ですね。
6:20 「イスラエルの王は、今日、本当に威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日、あなたは自分の家来の女奴隷の目の前で裸になられて。」
このミカルの言葉は、「それを言っちゃあ~おしまいよ」という感じの言葉ですね。以降、ミカルはダビデから見放されることになってしまいました。
おわりに
考えてみると、私たちが日曜日に教会に集って神様を賛美する姿も、周囲の日本人の目から見れば、ミカルがダビデを見ていたように映るかもしれません。なぜクリスチャンはあんな風に喜んで教会に出かけて行くんだろうかと、いぶかしく思う人も少なくないでしょう。
でも、主を第一に考える私たちは、日曜日に主を礼拝することは大きな喜びです。今はコロナの対策で心一杯喜びを表現することができませんが、心の中はダビデと同じぐらいに心一杯主を賛美したいと思います。
7/26の特別集会に限らず、どの集会もいつも聖霊で満たされたいと思います。ダビデが心一杯の喜びで神の箱を迎えたように、私たちも喜びに満ち溢れて神様を心にお迎えするなら、神様もそれを喜んで下さり、私たちを聖霊で満たして下さるでしょう。
ミカルのように、人の目を気にするのでなく、ダビデのように主のほうに心を向けて、喜びを持って主を賛美したいと思います。
お祈りいたしましょう。