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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

生ける水の川が流れ出る信仰を育む(2021.2.4 祈り会)

2021-02-05 10:53:45 | 祈り会メッセージ
2021年2月4日祈り会メッセージ
『生ける水の川が流れ出る信仰を育む』
【エゼキエル47:1~12】

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 よく説教で開かれるエゼキエル書の有名な箇所ですね。

 エゼキエル書は、全体の3/4ぐらいはエルサレムやエジプトの滅亡の予告などの主の厳しいことばが続きますが、残りの1/4ほどでは滅亡後の回復の希望が語られています。47章はその回復の希望のメッセージの終盤で、豊かな川の流れの情景が描かれています。

 この川の水の水源は1節にあるように神殿です。1節、

1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。

 「彼」と言うのは、エゼキエルをここに連れて来た御使いで、「私」とはエゼキエルです。エゼキエルは神殿の敷居の下から水が東の方へ流れ出ているのを見ました。

 神殿が水源ですから、この水は神の霊の水です。神の霊の水は豊かな流れとなって、川の両岸一帯を豊かに潤します。この川の水量は腰の高さを越えて、渡ることができないほどに豊かな流れを持ちます。そして、この水が海に注ぎ込むと、その海の水をきよくします。特に注目したいのは、9節と12節です。

9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。


 神の水が流れる流域の一帯には、豊かな命があります。

 いつも話している通り、健康のために私は夕方にはなるべく安倍川の河川敷をジョギングするようにしています。この安倍川の水が11月、12月、1月はずっと涸れていました。その情景を俳句にして、

川涸れて安倍に広がる荒野かな

という句を詠みました。ただし11月の初めの立冬の頃は

 
川涸れて安倍に現わる荒野かな

でした。冬になったばかりの頃は、荒野が出現したという感じでした。それが、11月から1月に掛けてはまとまった雨がほとんど降りませんでしたから荒野が広がって行きました。

 さてしかし、今週の月曜日の夜から火曜日の朝に掛けて、かなり強い雨が降りましたから、火曜日の夕方に走った時に、安倍川に水が豊かに流れている光景を見ることができました。昨日の水曜日に走った時も、少し水量は減りましたが、まだ豊かに流れていました。上流の方でもかなりの雨が降ったのでしょうね。そして火曜日の時には濁っていた水も、水曜日には透き通っていました。きょうは走らなかったので分かりませんが、恐らく水はまた減ったのではないかなと思います。

 きのうとおととい、この安倍川に水が豊かに流れている光景を見て、やっぱり水がある風景は良いなと改めて思いました。実を言うと、荒野の俳句を詠んだ時には、水が涸れた荒野の光景もそれはそれで風情があって、そんなに悪くないなと思っていました。それで、俳句にしたというわけです。

 けれども、おととい安倍川に豊かな水の流れが戻っているのを見て、やっぱり荒野ではダメなんだと思いました。やっぱり水が無ければダメなんだと思いました。水が戻った安倍川の流れが緩い場所では、カモが何羽もプカプカと浮いていました。とてものどかな光景で心が癒されました。そうして流れが速い場所では水が流れる音がしていました。この水の流れる音が、耳に心地よく聞こえました。カモが戻り、水の音が戻った安倍川には豊かな命が戻って来たと感じました。

 いま人々の魂の多くが渇き切っています。神の霊の水に潤されることなく、渇いた魂が水を求めてあえいでいますが、魂の領域のことは気付きにくいので、どうしたら良いか分からずに、苦しんでいます。クリスチャンであっても、魂の渇きに気付かずに苦しんでいる方々がいます。クリスチャンであれば気付いている人もいるかもしれませんが、以前の私が荒野の安倍川を見て、そんなに悪くないと思ったように、魂の渇きもそんなに悪くないと思って放置している人もいるかもしれません。でも、やっぱり、それではダメです。川も魂も本来は潤っているべきものです。このことをお伝えしていかなければなりません。

 そのためには魂が潤っていることの素晴らしさを先ず私たち自身がもっと深く味わうことも必要だと思います。9節と12節を、もう一度お読みします。

9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 この光景を、しっかりと魂に刻み込んで、この豊かさを深く味わいたいと思います。教会は、この豊かさを感じることができる場所です。教会の源流には神殿があり、そこから神の霊の水、すなわち聖霊が流れ込んでいます。その聖霊の水に私たちの魂は潤されて、豊かな御霊の実を結びます。

 まだ、この恵みを知らない方々のこの豊かな水が注がれるように私も励みたいと思います。そうして皆さんと共に歩んで行きたいと思います。ただし、問題なのは水が注がれさえすれば、誰もが信仰の芽が芽生えて実を結ぶことになるとは限らないということです。

 いま会堂側の駐車場でチューリップの球根が芽を出しています。去年、コスモスが咲いていた場所です。そこに去年の11月にチューリップの球根を50個植えました。1月から芽が出始めて、いま42個の球根から芽が出て成長を始めています。けれども、8個の球根からはまだ芽が出ていません。同じ日に同じ場所に植えて同じように水をやり、同じように肥料をやり、同じように陽を浴びていますが、まだ8個の球根が芽を出していません。何とか全部の球根から芽が出て欲しいと願っていますから、まだ芽が出ていない場所を見ながら、神様、この場所に植えた球根からも芽が出るようにして下さいと祈っています。

 この教会に限らず、どこの教会もそうですが、教会に導かれて同じように神様の霊の水の中に浸っていながら、芽を出すことができた人と、なかなか芽が出て来ない人とがいます。芽が出ない人のためにお祈りしなければならないと思いますが、同時に、私たちの側でも、エゼキエル書47章に書いてある神の霊の水の豊かさをもっと深く味わえるようになりたいと思います。そうして、私たちの心の奥底から、生ける水の川が豊かに流れ出るようにならなければならないと思います。イエス様はおっしゃいました。

ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 このように、私たちの心の奥底から生ける水の川が豊かに流れ出るようになりたいと思います。そうして、それと並行して、それと同時に、この教会に集う方々、そして地域の方々が信仰の芽を出すことができるように、お祈りしたいと思います。
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わたしの目には、あなたは高価で尊い(2021.1.21 祈り会)

2021-01-22 10:01:25 | 祈り会メッセージ
2021年1月21日祈り会メッセージ
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
【イザヤ43:1~4】

イザヤ43:1 だが今、はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3 わたしはあなたの神、、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。

 今年1月からの祈り会ではこれまでイザヤ書の40章と42章を開きました。きょうは43章です。

 4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い」は、よく引用されるとても有名なみことばですね。神様は私たちのことを「あなた」と呼んで、「愛している」と、おっしゃって下さっています。この「あなた」は、私個人であると同時に、この教会という共同体でもあるでしょう。1節にヤコブよ、イスラエルよ、とあります。ヤコブは個人であり、イスラエルは共同体です。ですから神様は私たち一人一人に「わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっていると同時に、この教会も愛して下さっています。

 まずは、私個人への愛について、神様はどのようにおっしゃっているでしょうか。
 「わたしはあなたを愛している」とおっしゃる神様は、どのくらい私を愛して下さっているのでしょうか。神様はイエス様を代価として支払って、私を買い取って下さったほどに私を愛して下さっています。そうして代価として支払われたイエス様は私の代わりに十字架に付けられました。1節に、「わたしがあなたを贖った」とあります。贖ったとは買い取ったということですね。そして4節には、「わたしは人をあなたの代わりにし」とあります。この人とはイエス様です。神様は私の代わりにイエス様を代価として支払い、私を買い取って下さいました。そうして私は1節の終わりに「あなたはわたしのもの」とあるように、神様のものになりました。

 こんな価値のない私のために、どうしてそこまでして下さるのかと思いますが、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃいます。神様の目には私は高価で尊いからイエス様を代価にして買い取ったのだとおっしゃいます。

 1節に「ヤコブよ、あなたを創造した方」とあるように、神様は私を造って下さいました。創世記の1章の終わりには、このように書かれていますね。

創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。

 私たちはもともと、非常に良いものとして造られました。だから、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。けれども私たちは、自分がそんなに高価で尊い者であるとは、とても思えませんね。罪で汚れた私に価値があるとは、とうてい思えません。

 それなのに、神様は「あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。このことを、どう考えたら良いのでしょうか?

 こんな風に考えたらどうかと思いました。私は5円玉や10円玉のような銅貨であると考えるのです。

 普段私たちが目にする5円玉や10円玉のほとんどは手垢などで汚れています。しかし、お酢などの酸に浸してあげるとピカピカになります。このように銅貨はもともと造られた時は、ピカピカだったんですね。

 オリンピックのメダルは金・銀・銅の順で、銅は三番目だからあまり価値が無いように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。いま銅のケーブルの盗難が大きな問題になっています。例えば太陽光発電を大規模に行うメガソーラーでは、送電用に銅のケーブルを使っていて、メガソーラーの施設は大抵は人目に付かない郊外にありますから、盗難の被害に遭いやすいのだそうです。盗まれるのは銅が高値で売れる高価なものだからです。特に電力用のケーブルは電気抵抗が少ない純度の高い銅が使われているので、高く売れるのだそうです。

 逆に言えば、不純物がたくさん混じっている銅は、それほど高価ではないということないんですね。これは私たちも同じでしょう。私たちの内部には罪の不純物がたくさんあります。クリスチャンの私たちは自分でそのことを知っています。だから自分が高価だとは思いません。しかし、神様は造ったばかりの非常に良かった時の人間を知っていますから、高価で尊いとおっしゃって下さいます。そうして、最も高価なイエス様を代価として支払って私たちを買い取って下さり、聖霊によって不純物だらけの私たちの内部をきよめて、純度の高い高価なものに戻して下さいます。

 このことができるのは、私たちを造って下さった神様だけです。自分で自分をきよめようとしてもできません。もちろん、他の人もできません。私をきよめることができるのは、私を造って下さった神様だけです。

 そんな神様は私たちを守って下さるお方でもあります。2節、

2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 買い取られた私たちには、神様がいつも共にいて下さいます。ですから、決して滅びることがありません。川を渡るときも押し流されず、火の中を歩いても焼かれません。これは永遠の命が与えられているということでしょう。イエス様を信じた私たちは聖霊を受けて永遠の命が与えられます。ですから、決して滅びることはありません。これは霊的な話です。

 このようにして私たちを買い取って救い出し、守って下さり、きよめて下さる神様の深い愛に感謝して、私たちは礼拝を捧げます。一人一人が神様に感謝することも大切ですが、私たち一人一人では小さな感謝しかできません。それが皆が集まれば、感謝の気持ちをもっと大きく表すことができます。そうして神様は、礼拝する共同体としての教会を愛して下さいます。

 私は神学生の時に、礼拝を捧げる時の共同体としての教会を神様が愛して下さっていると感じた瞬間が何度かありました。神学生の時、実習で派遣された教会では、会衆の一人として礼拝に参加することは少なくて、与えられた奉仕をしながら、少し離れた位置で会衆全体を見渡しながら礼拝に参加することが多かったです。特に大きな教会ではそうでした。そうして礼拝する教会の皆さん全体を見渡している時に、神様が教会を愛して下さっていることを感じたことが何度かありました。会衆全体が礼拝を通して神様に感謝していて、そのことを神様が喜び、教会を愛して下さっていることを感じました。

 ですから私たちは、一回一回の礼拝を大切にしたいと思います。そのために、野田秀先生の著書の『礼拝のこころえ』に書いてある大切なことを、これから週報に少しずつ抜き書きして週報で連載して行きたいと思います。

 神様は私たちの一人一人を愛し、また教会を愛して下さっていますから、その愛に感謝して応答して、礼拝の始めから終わりまで、神様のほうを向いて礼拝を捧げたいと思います。

 そして神様は、共同体としての教会に対しても「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さっているのだと思います。では教会が高価で尊いとは、どういうことでしょうか?

 教会はキリストの体ですから、それだけでも高価で尊いと言えます。そして、パウロは教会員の一人一人は器官であると言っています。教会員はそれぞれの賜物に応じて奉仕をします。それらは皆、無償で行われます。牧師は給料をいただいていますが、皆さんは無償で奉仕を行って下さっています。これは、とても高価で尊いことです。

 皆さんは神様の愛に感謝して多くのものを献げて下さり、また時間も献げて教会のために奉仕して下さいます。そのような教会員がたくさんいるこの教会のことを神様は喜んで下さり、愛して下さっています。教会っていいなあと思います。このように教会は神様の愛の中で交わりを持っている共同体です。若い方々に、このことをもっと感じてもらえたらと思います。教会は単に人が交わる場所ではなくて、私たちを愛して下さっている神様と交わる中で人とも交わる場所であることを、もっと感じてもらいたいなと思います。

 神様は罪深い私たちをイエス様を代価として支払い、買い取って罪の中から救い出して下さいました。そうして聖霊によってきよめて下さり、純度が高くて価値の高いものへと戻して下さいます。たとえ自分で自分を低く評価していたとしても、神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっています。様々なことがあって疲れ、自信を失いかけている時でも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃり、励まして下さいます。

 この神様の励ましに、心一杯感謝しながら、週の後半も歩んで行きたいと思います。
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新しいことを、わたしは告げる(2021.1.14 祈り会)

2021-01-15 18:13:09 | 祈り会メッセージ
2021年1月14日祈り会メッセージ
『新しいことを、わたしは告げる』
【イザヤ42:1~9】

イザヤ42:1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。
2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。
3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。
4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」
5 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なるはこう言われる。
6 「わたし、は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。
7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。
8 わたしは、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。
9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

 先週の今年最初の祈り会では、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」で始まるイザヤ書40章を開きました。今年の祈祷会では、しばらくの間、預言書を開いて、傷ついた人々への神様の慰めと回復へ向けての励ましのメッセージに心を向けたいと願っています。きょうはイザヤ書42章です。

 今ご一緒に読んだ箇所の「しもべ」とは、イエス様のことだとピンと来ますね。きょうは開きませんが、下の脚注にもマタイの福音書の引照があって(12章18-21節)、マタイもここを引用していますから、私たちクリスチャンは、このイザヤ書42章をイエス様に関する預言として読みます。まず1節、

1 「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々にさばきを行う。

 ここに「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」とあります。この預言の通り、イエス様はバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けた時に聖霊が降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がありました。続いて2節、

2 彼は叫ばず、言い争わず、通りでその声を聞かせない。

 ここからは温厚なイエス様の姿が伝わって来ます。3節、

3 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行う。

 葦は傷んでなくても細くて弱い存在です。傷んだ葦のように弱い私たちをイエス様は折ることはありません。くすぶる灯芯のように弱い私たちの命もイエス様は消すことはありません。4節、

4 衰えず、くじけることなく、ついには地にさばきを確立する。島々もそのおしえを待ち望む。」

 イエス様は21世紀の今に至るまで、衰えず、くじけることなく、働き続けています。このイエス様を遣わした天の御父は、天地を創造した万物の造り主であり、私たちの命もまた天の父によって造られました。5節、

5 天を創造し、これを延べ広げ、地とその産物を押し広げ、その上にいる民に息を与え、そこを歩む者たちに霊を授けた神なるはこう言われる。

 私たちは主によって息が吹き込まれて、霊を授かりました。ここにある霊とは人の霊であり、聖霊のことではないでしょう。私たちの内には、元々この霊が吹き込まれていますから、神様の霊を感じることができます。しかし、この霊はアダムとエバが罪を犯してからはことで眠ってしまっています。それゆえ聖霊を受けなければ人の霊は眠ったままで神様の霊を感じることができません。そんな私たちのために主はイエス様を遣わして下さり、光をもたらして下さいました。6節、

6 「わたし、は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。あなたを見守り、あなたを民の契約として、国々の光とする。

 この6節の「あなた」とはイエス様であると同時に私たちのことでもあるでしょう。イエス様を信じて聖霊を受けた私たちの中にはイエス様がいますから、主は私たちをも召し、私たちの手を握って下さり、見守って下さり、私たちもまた世の光となるように、聖霊を通して励まして下さいます。7節、

7 こうして、見えない目を開き、囚人を牢獄から、闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。

 こうして、私たちはイエス様を信じることで聖霊を受けて霊的な目が開かれました。見えない目が開かれると、今までいかに自分が罪に縛られていたかが、よく分かるようになります。目が閉じている間は、自分が罪に縛られていることさえ分からず、自分が何に苦しんでいるのか、何が自分を苦しめているのかも分からずに、暗い日々を過ごします。そんな闇の中にいた私たちにイエス様は光を照らして罪の正体を見せて下さり、罪の縛りを解いて牢獄から連れ出して下さいました。8節、

8 わたしは、これがわたしの名。わたしは、わたしの栄光をほかの者に、わたしの栄誉を、刻んだ像どもに与えはしない。

 私たちは罪の縛りから解き放たれて、神様の素晴らしい栄光を見ましたから、神様に感謝して賛美するために、喜んで礼拝に集います。洗礼を受けても礼拝に集わない若い方々は、この神様の栄光をまだ、しっかりと見ることができていないのかもしれません。栄光を見ていれば、自ずと礼拝に集って主を賛美するのではないかなと思います。その点では私のメッセージが至らなかったことを申し訳なく思います。

 日曜日に河村従彦先生の新しい本のことを話題にしている方々がいましたから、私も読みたくなって、きのう静岡聖文舎に行って買って来ました。この本のタイトルは『ボクはこんなふうにして恵みを知った~クリスチャン・ホームのケース・スタディ』です。そして帯には、「キリスト者の家庭で育った二世・三世の心の葛藤とは?救いの経験とはどういうものか?」とあります。全体をざっと読んで、皆さんのお子さんたちのことを思いました。そして、若い方々の目が開かれるためにはどうしたら良いのか、主の教え導きを祈りました。若い方々の目が開かれて、主の栄光を見ることができるように、これからも祈って行きたいと思います。

 最後の9節、

9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

 イエス様は二千年前に、この世に遣わされて、初めのことは既に起こりました。そうして使徒たちの働きによって福音が伝わって行きました。しかし、まだまだ目が開かれていない方々が大勢います。それらの方々の目が開かれるように、主は新しいことをして下さるのでしょうか?

 この「新しいことを、わたしは告げる」は、キリスト教会全体へのメッセージであると同時に、皆さんお一人お一人へのメッセージでもあります。神様はそれぞれに新しいことを告げて励まして下さいます。

 私自身は、この「新しいこと」を、神様がコロナ後の新しい世界に大きなことをして下さるのではないかと思って、ワクワクしています。何か新しいことを主が起こして下さり、多くの若い方々が主の教会に集って賛美するようになるでしょう。個々はともかく、全体としてのキリスト教会は必ず息を吹き返して若い方々が継承して行きます。

 イエス様は「衰えず、くじけることなく」働き続けているお方ですから、キリスト教会は二千年もの長い間に亘って途絶えることなく信仰が継承されて来ました。ですから、今は右肩下がりのキリスト教会ですが、やがては必ず復活します。そのために、主は大きなことを起こして下さるでしょう。

 私の場合は、このような大きなことを考えがちですが、神様は私たち一人一人のためにも、新しいことを起こして下さいます。例えば、まだ救われていない家族が救われるかもしれません。9節のみことばは、皆さんお一人お一人への主の語り掛けです。

9 初めのことは、見よ、すでに起こった。新しいことを、わたしは告げる。それが起こる前にあなたがたに聞かせる。」

 主はこのように、おっしゃっています。この主の告げ知らせの声を聞き漏らすことがありませんように、日々主に心を向けて、耳を澄ませながら過ごして行きたいと思います。
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苦しみ悲しむ民を慰め励ます主(2021.1.7 祈り会)

2021-01-09 04:34:42 | 祈り会メッセージ
2021年1月7日祈り会メッセージ
『苦しみ悲しむ民を慰め励ます主』
【イザヤ40:1~8】

 イザヤ書では特に40章以降で、エルサレム滅亡で受けた手痛いダメージと悲しみからの回復が預言されています。エレミヤ書やエゼキエル書にも回復のメッセージが語られています。今年の祈祷会ではしばらくの間、これらの書から廃墟になったエルサレムへの慰めと回復への励ましの箇所をご一緒に読むことにしたいと思います。

 この慰めと励ましのメッセージを取り次ぐことにしたのには大きく二つの理由があります。一つめの理由はこれまでの説教が皆さんの求めていたものとは違っていたことで教会を傷めてしまいましたから、そこからの回復を願ってのことです。どうしてそうなったのか、原因を私なりに考えていますが<注:「救いの文化」の中で「福音の文化」(スコット・マクナイト『福音の再発見』参照)を説くことの難しさを痛感しています>、それをあれこれ話すよりは、皆さんの心に届くメッセージを語れるよう努力することで償わせていただきたいと願っています。

 慰めと励ましのメッセージを取り次ぐことにした二つめの理由は、今のコロナ禍で個人や社会が受けた大きなダメージからの回復への希望を語らせていただきたいということです。新型コロナウイルスは世界全体を廃墟にしてしまったと言って良いほどに大きなダメージを与え、年末年始に掛けては感染爆発という様相を呈しています。復興の見込みは全然立っていません。しかし、100年前のいわゆるスペイン風邪も2~3年程度で収束しましたから、今のコロナ禍もいつかは回復の時が来ます。その時に備えて、曲がった所はまっすぐにして、険しい地は平らにして主の道を用意したいと思います。

 では、イザヤ書を見て行きます。イザヤ書40章は「慰めよ、慰めよ」で始まり、直前の39章までとは雰囲気が変わります。39章まではどちらかと言えば主の怒りと警告の方が多めと感じますが、40章からは慰めと回復の希望を感じます。雰囲気的には39章までが旧約聖書、40章から66章までの27章が新約聖書というイメージがあります。旧約聖書は創世記からマラキ書までが39巻、新約聖書はマタイの福音書から黙示録までが27巻、新旧合わせて66巻ですから、イザヤ書全体が66章あって39章と40章の間で雰囲気が変わることに不思議な一致があると言われています。

 さて、イザヤ書40章はバビロンへ捕囚として引かれて行ったエルサレムの民への慰めのメッセージです。私たちは、これをエルサレムが滅亡する以前にイザヤが預言したと信じていますが、40章以降は39章までとは別人の第二イザヤや第三イザヤが書いたと考える人々や群れもあります。バビロン捕囚が起きる前にそれを知ることはできないだろうというのが大きな理由のようですが、イザヤはイエス様についても預言していますね(例えばイザヤ53章)。未来の予知は難しいとして第二イザヤ等を言い始めると、イエス様についての預言も、そうではないことになってしまいますから、私たちはイザヤ書66章までのすべてを一人のイザヤが書いたと信じて読みます。昔はこんな説明を付け加える必要は無かったのですが、今はネットで異なる立場の解釈を簡単に読めてしまいますから、混乱しないように付け加えておきます。

 前置きが長くなりました。1節と2節をお読みします。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──
2 エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを【主】の手から受けている、と。」

 1節で主は「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と仰せられました。以前にも話したことがありますが、私は前任の教会にいる時に、心底ガックリ来て立ち上がるのが困難になるほどのことを経験しました。その時に、ふと、このイザヤ40章の「慰めよ、慰めよ」のみことばが響いて来て、本当に慰められて再び立ち上がることができました。

 いまコロナで苦しんでいる方々にも、聖書の神様は慰めて下さるお方であることが伝わることを願っています。ちなみに次の聖日礼拝のメッセージからは、しばらくの間、詩篇を開いて、主が憐み深い方であること、私たちを守って下さる方であること、天地を創造した全能の方であることなどを共に見て行きたいと願っています。いつ新しい方が来られても、主が素晴らしいお方であることをお伝えできるようにしていたいと思っています。

 さて、エルサレムの民はバビロン捕囚で苦しみました。その民を主は「わたしの民」と仰せられ、イザヤに「慰めよ、慰めよ」と命じました。苦役は終わって咎は償われ、主に背いていた罪に代えて、二倍のものを彼らは主の手から受けます。

 続いて3節から5節、

3 荒野で叫ぶ者の声がする。「の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。
4 すべての谷は引き上げられ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい地は平らになる。
5 このようにしての栄光が現されると、すべての肉なる者がともにこれを見る。まことにの御口が語られる。」

 3節は、下の脚注の引照にあるように、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書のすべてが、バプテスマのヨハネが登場する場面で引用している聖句ですね。ですから、結果から言えば、民のバビロン捕囚が解かれてエルサレムに帰還してからの回復は十分とは言えなかったということです。エズラ・ネヘミヤの時代に神殿と城壁を再建して、目に見える建造物の復興は成し遂げましたが、霊的な面での回復は十分にはできなかったということです。それは、旧約聖書の最後の書のマラキ書からも分かります。

 マラキ書の冒頭で主は、このように仰せられていますね。

「わたしはあなたがたを愛している。しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのか』と。」(マラキ1:2)

 そうしてマラキ書の最後で主は仰せられました。

「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4:5)

 そして福音書のイエス様は、バプテスマのヨハネこそがこのマラキが預言したエリヤである、とおっしゃいました。

 結局、イザヤの回復の預言は新約の時代になってようやく成就しました。エレミヤも預言していたように、律法が石の板に刻まれるのではなく心に記される、つまり心の内に聖霊が住むようになって、ようやく実現しました。

 そして6節から8節、

6 「叫べ」と言う者の声がする。「何と叫びましょうか」と人は言う。「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
7 の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。
8 草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 人はみな草のようにしおれ、人の繁栄も野の花のように散る一方で、神のことばは永遠に立つというのは、まったくその通りです。さてしかし、私たち人間は草のようにしおれ、花のように散るのでは「慰め」になっていないような気もします。主はイザヤに「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」と仰せられたのに、なぜ私たち人間はしおれるような存在だと、ガッカリするようなことを言われたのでしょうか?

 それは、やはりこの慰めのメッセージは霊的な回復の希望を語ったメッセージである、ということではないでしょうか。

 イザヤ書40章の最後の31節で上昇する鷲とは聖霊の風、聖霊の上昇気流に乗って上っているのだというメッセージがよく語られます。31節、

31 しかし、を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

 バプテスマのヨハネによって道が整えられてイエス・キリストがこの世に来て下さり、そのイエス様を信じた者には聖霊が注がれて永遠の命を得ます。

 イエス様と出会う前の私たちの心は、罪によって廃墟となったエルサレムのように荒廃していましたが、イエス様の十字架によって罪が赦されて、神様である聖霊を心の中に受けることができるようになりました。そうして、苦しいことがあっても、イエス様が心の内から私たちを慰め、励まして下さいます。

 今のコロナの苦しみも、イエス様が慰め、力を与えて下さいます。この恵みを、多くの方々と分かち合えるようになりたいと思います。一言、お祈りいたします。

イザヤ40:1 「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。──あなたがたの神は仰せられる──」
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東方の捕囚地からの祝福(2020.12.24 キャンドル・サービス)

2020-12-25 12:21:20 | 祈り会メッセージ
2020年12月24日キャンドル・サービス・メッセージ
『東方の捕囚地からの祝福』
【マタイ2:1~12】

 きょうのキャンドル・サービスの賛美歌と聖書朗読の箇所は司会者が考えて下さいました。聖書朗読の箇所には旧約聖書の預言書と新約聖書の福音書の両方が含まれていますから、とても感謝に思います。

 クリスマスというと新約聖書の福音書の記事に集中しがちですが、イエス・キリストの誕生が喜ばしいのは、旧約の時代にイスラエルの南北の王国が他国に滅ぼされて味わった捕囚の悲しい出来事があったからこそです。ですから今夜、旧約聖書が多く開かれたことを感謝したいと思います。

 そして、東方の博士たちがイエス様の誕生を祝って礼拝しに来たきょうの記事についても、旧約聖書の時代のバビロン捕囚の出来事を踏まえて味わってみたいと思います。

 マタイ2章1節と2節をもう一度、お読みします。

マタイ2:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」

 1節に、博士たちが「東の方」からエルサレムに来たことが書かれています。この「東の方」がどこなのか、博士たちがどこから来たのか、何も書かれていませんから、推測するしかありませんが、恐らくはチグリス・ユーフラテス川流域から来たのであろうと言われています。

 博士たちは学問に通じていて天体の観測も行っていました。そのように学問が盛んであった地域と言えば、中国・インド・バビロニア・エジプトの四大文明の地や、ギリシャ・ローマなどが考えられます。そのうち、ギリシャ、ローマ、エジプトはユダヤの西の方にありますし、中国・インドは東とは言え、ユダヤからはあまりに遠いでしょう。それゆえバビロニアの地域であろうと考えられます。

 バビロニアと言えば、南王国のユダが滅びた時にエルサレムの人々が捕囚に引かれて行った場所です。紀元前586年にエルサレムがバビロニア帝国の攻撃で滅亡した時には神殿も火で焼かれてしまいました。

 そうして、エルサレムの人々は神殿を失い、バビロンに捕囚として引かれるという悲しみのドン底を味わいました。その捕囚の地から博士たちがユダヤの王の誕生を祝い、礼拝しに来たということに、希望の明るい光を見る思いがします。

 きょうは、この箇所から、次の二つのことを短く分かち合いたいと願っています(プログラム)。

 ①引かれ、散らされた地をも照らした光
 ②罪をも活用する恵みに、私たちも与る

①引かれ、散らされた地をも照らした光
 まず①番目の、「引かれ、散らされた地をも照らした光」から分かち合います。

 なぜ博士たちが遠く離れた東方の地から、はるばるエルサレムまで来て幼子を礼拝したのでしょうか。それは、主の光は東方の捕囚の地さえも、照らしていたからではないでしょうか。旧約聖書のダニエル書は、そのことを伝えています。

 捕囚で引かれて行ったダニエルたちはバビロンにおいても異教の神を礼拝せずに、主への信仰を貫き通しました。そのことでダニエルは獅子のいる穴に投げ込まれたり、或いはまたダニエルの仲間は熱く燃える炉の火の中に投げ込まれたりしました。しかし、主が守って下さいましたから、ダニエルたちは無事に獅子の穴と燃える炉から生きて戻って来ました。そして、これらのことを通して、主の明るい光が捕囚の地のバビロニアの人々をも照らすようになり、東方の博士たちの礼拝へとつながって行ったのでしょう。

 或いはまた、アジア・ヨーロッパ・北アフリカの各地に散らされたユダヤ人たちは、それぞれの散らされた地で会堂を建てて信仰を守っていました。これらの人々の中には、エルサレムが滅亡する時に散らされた人々もいたかもしれません。

 これら、散らされた先々の地に建てられたユダヤ人の会堂が、後のパウロの伝道旅行の時に大いに活用されることになりました。伝道旅行では、パウロはまずユダヤ人の会堂に入ってイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。このように、捕囚に引かれた地のバビロンだけでなく、広く各地に散らされたユダヤ人たちも、主の光を輝かす働きに用いられました。

 エルサレムが滅亡したことは人々が主から離れていた罪によるものであり、残念で悲しい出来事でした。しかし主は、この罪による悲しい出来事をそれだけでは終わらせずに、後に主の栄光が示されることにも、用いました。

②罪をも活用する恵みに、私たちも与る
 そして、このことは、私たちの罪にも当てはまるのではないでしょうか。神様に背を向けて離れている重い罪に私たちが気付いていなかったことは悲しむべきことでしたが、その罪が示されて、悔い改め、神様の方を向くようになってからは、大きな恵みをいただくことができるようになり、心の平安を得ることができるようになりました。

 神様は闇の中にいた罪人の私たちでさえも光で照らして救って下さり、神の子として下さり、永遠のいのちを与えて下さり、心の平安を与えて下さいました。もし私たちに罪が無くて元から平安の中にいたのなら、平安の恵みの素晴らしさを知ることもなかったでしょう。神様は私たちの中の悲しむべき罪でさえも活かして豊かな恵みを与えて下さいます。だから私たちは、この恵みを周囲の人々に伝えます。まだ闇の中にいる人々に、イエス・キリストを信じることで得られる素晴らしい心の平安を宣べ伝えます。

 イエス・キリストが地上に生まれてから、二千年の間、この素晴らしい平安の恵みがイエス・キリストを信じる人々に与えられ続けて来ました。神様の恵みは時を超えて与えられます。ダニエルの時代にバビロンで輝いた神様の光は600年の時を超えて東方の博士たちにも届き、遠く離れたエルサレムへ礼拝に向かうように博士たちを促しました。ペテロやパウロの時代に輝いた光は聖書を通して二千年の時を超えて21世紀の私たちにも届けられています。このことに、心から感謝したいと思います。

 博士たちは11節にあるように幼子のイエス様が母マリアとともにいるのを見て、ひれ伏して礼拝しました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。私たちは黄金のような高価な物を献げることはできませんが、この後、賛美歌の「きよしこの夜」を心一杯おささげして、ささやかな献金をしたいと思います。

一言、お祈りいたします。
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心を刺し貫かれたマリア(2020.12.17 祈り会)

2020-12-18 10:07:51 | 祈り会メッセージ
2020年12月17日祈り会メッセージ
『心を刺し貫かれたマリア』
【ルカ2:33~35】

ルカ2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 前回はイエス様の母マリアが御使いのガブリエルから受胎告知を受けた時に言った言葉の、「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」に注目して、マリアの委ねる信仰について学びました。

 きょうはマリアがシメオンから言われた34節と35節の言葉に注目します。13日の礼拝メッセージではシメオンが幼子のイエス様を抱いて言った言葉の32節までを見ました。きょうは34節と35節に注目したいと思います。

 34節から見ます。「この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ」とあります。この「倒れたり立ち上がったり」のギリシャ語を調べると、非常に重い言葉が使われていることが分かります。

 まず「倒れたり」は、つまずく程度ではなくて完全に倒れる意味の言葉です。プトーシスというギリシャ語ですが、この単語は新約聖書ではこのルカ2:34を含めて2箇所しか使われていなくて、もう一箇所はマタイ7:27です。

マタイ 7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

 これは砂の上に自分の家を建てた愚かな人の例えです。ですからルカ2:34でシメオンが言った「倒れたり」は、ちょっと躓いただけでまた回復できるようなものでなく、永遠の滅びに入るような重大な言葉のように思われます。そして「立ち上がったり」は「復活」と同じ言葉(アナスタシン)が使われています。例えば使徒の働きには「イエスの復活の証人」(使徒1:22)という言葉がありますが、この「復活」と同じ言葉がルカ2:34の「立ち上がったり」で使われています。

 そして、続くシメオンの言葉の「人々の反対にあうしるし」は、十字架のことですね。マリアの心は自分の息子が十字架に付けられたことで剣によって刺し貫かれました。35節、

35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」

 ここに「刺し貫く」という言葉が使われていますが、これは剣が心の表側から裏側まで完全に貫通しているということです。この「刺し貫く」のギリシャ語の「ディエルコマイ」は、「場所を通り抜ける」の意味でも使われています。分かりやすいのは、ヨハネ4章3~4節でしょう。お読みします。

ヨハネ4:3 (イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。

 この「サマリアを通って行く」の「通って行く」で「刺し貫く」と同じギリシャ語が使われています。サマリアは南のユダヤと北のガリラヤに挟まっていて、イエス様はサマリアを通り抜けて行きました。これと同じように、マリアの心の中を剣が表から裏に突き抜けて、串刺しにしました。そして、「それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです」とシメオンは言いました。

 「あらわになる」とは、ハッキリと見える形になるということです。ルカの福音書の十字架の場面は、このシメオンの言葉に呼応しています。ルカ23章39節から43節までを交代で読みましょう(新約p.171)。

ルカ23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

 十字架のイエス様の両側にいた二人の犯罪人の違いは対照的です。シメオンは「イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりする」と言いましたが、イエス様をののしった犯罪人は倒れて滅び、もう一人の犯罪人は復活してパラダイスに入ります。

 このように、人の心の内は普段は表に現れませんが、それが顕わになるために、マリアの心は剣で刺し貫かれました。

 今回、このメッセージの準備のために、このシメオンの言葉を改めて読んでいて、横田早紀江さんのことを想いました。娘のめぐみさんが行方不明になって、早紀江さんの心を剣が刺し貫きました。

 そんな中で早紀江さんは友人に勧められて聖書のヨブ記を読み、信仰を持ちに至りました。ヨブには、7人の息子と3人の娘がいましたが、すべてを一度に失ってヨブの心を剣が刺し貫きました。そして、さらには自分自身も重い病気で苦しむことになりました。そんなヨブに向かって妻は、「神を呪って死になさい」(ヨブ2:9)と言いましたが、ヨブは妻に言いました。「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきではないか」(2:10)。こうしてヨブは信仰を失うことはありませんでした。

 早紀江さんもこのヨブ記を読んだことをきっかけにして信仰を持ち、信仰を深めていきました。一方、夫の滋さんは、娘が行方不明になるというつらい経験の中で、「神はいない」と考えて、長い間神を信じなかったとのことです。しかし、3年前の2017年にイエス・キリストを心の中に受け入れて洗礼を受けました。今年の6月に滋さんは天に召されましたが、神様を信じて受洗に至ったことは本当に幸いなことだったと思います。

 今年、新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界中で多くの方々が肉親を失って、心が剣で刺し貫かられる思いをしました。温暖化によると思われる豪雨や山火事などの気象災害で家族や財産を失った方々もおられます。地震と津波もありました。こういう悲しみの中で「神はいない」と思う人々がいる一方で、このような中においてもイエス様が共にいて共に苦しんで下さっていることを信じる人々もいます。これらの悲しい出来事は正にシメオンが言ったように、人の心の内の思いを顕わにします。

 イエス様の十字架は、ペテロたちの心も刺し貫きました。しかし、ペテロたちが信仰を失うことはありませんでした。それは、イエス様が祈って下さったからですね。去年の秋の特伝で講師の戸塚先生がルカの福音書からメッセージを取り次いで下さいました。先生のメッセージでは私はルカ22章31節と32節のみことばが、最も心に残っています。お読みします。

ルカ22:31 「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。
32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 「サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける」とは、正にサタンがヨブに対して行ったことですね。つらい出来事があると、その出来事は神様を信じる人と信じない人とにふるい分けます。信仰の実を結んでいる者は残り、実を結んでいない者はもみ殻のように吹き飛ばされます。イエス様はペテロの信仰がなくならないように祈って下さいましたから、ペテロの信仰は守られました。心に深い傷を負ったマリアの信仰が守られたのも、イエス様の祈りがあったからでしょう。そして、今なお多くのつらいことがある21世紀の私たちのためにもイエス様は祈って下さっています。

 最後に、ヨハネの福音書の十字架の場面を開きたいと思います(新約p.226)。

ヨハネ19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

 イエス様の十字架のそばにいた愛する弟子、すなわちイエス様の愛弟子とはヨハネのことであり、私たちのことでもあります。イエス様は私たちを愛して下さっていますから、私たちもまた愛弟子です。

 十字架のそばに母マリアと愛弟子がいてイエス様が「あなたの息子です」、「あなたの母です」と言ったことはヨハネだけが書いています。なぜイエス様がこのようにおっしゃったのか、私はよく分からないでいました。聖書の記事で分からない箇所がある時、私は無理矢理答えを探さないで、分かる時が来ることを待つことにしています。そうして、今回分かるようになった気がします。

 イエス様は私たちの心の中に、深手を負ったマリアの心もまた迎え入れなさいとおっしゃっているように感じます。マリアは心を剣で刺し貫かれて深い傷を負いましたが、それでも信仰を失うことはありませんでした。このマリアの信仰のことを1世紀の人々はよく知っていたことでしょう。そして21世紀の現代にも、つらく悲しいことがたくさんあります。そんな中でもマリアのように信仰を持ち続けるようにとイエス様はおっしゃって下さっているように感じます。

 ですから、コロナが終息してまた伝道ができるようになった時には、イエス様の十字架のことと共に、心を剣で刺し貫かれた母マリアのこともまた、宣べ伝えて行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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神さまに委ねる信仰を育てる(2020.12.10 祈り会)

2020-12-12 07:52:59 | 祈り会メッセージ
2020年12月10日祈り会メッセージ
『神様に委ねる信仰を育てる』
【ルカ1:26~38】

 きょうはマリアが御使いのガブリエルから受胎の告知を受けた場面です。先日の礼拝で見た通り、御使いのガブリエルはマリアに現れる前には祭司のザカリヤにも現れました。

 きょうは先ず、御使いが現れた場所のザカリヤとマリアの違いに注目したいと思います。ザカリヤに御使いが現れたのは神殿においてでした。一方、マリアに現れた場所は神殿ではありませんでした。ここに旧約の時代から新約の時代へと舞台が移って行く様子が見て取れると思います。

 イエス様が十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました。そうして、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が入りましたから、神様を礼拝する場所は神殿を離れました。実際には紀元70年に神殿がローマ軍の攻撃で炎上するまでは、ユダヤ人クリスチャンは神殿礼拝を続けていましたが、必ずしも神殿で礼拝する必要はありませんでした。イエス様ご自身もヨハネ4章でサマリアの女に話しましたね。ここは、ご一緒に見たいと思います(新約p.182)。

 18節でイエス様はサマリアの女に「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではない」と言いました。すると、彼女は言いました。19節と20節、

ヨハネ4:19 「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」

 「この山」というのはゲリジム山のことです。サマリア人は北王国のイスラエル人と周辺の民族との間に生まれた混血の民族です。イスラエル人の血を継いでいるサマリア人の祖先はモーセの律法に基づいてゲリジム山で神殿礼拝を行っていました。サマリアの女が言ったのは、このゲリジム山の神殿のことです。続いて21節、

21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

 旧約の時代が終わるなら、神殿ではない所で、神様を礼拝する時が来ます。22節、

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 サマリア人の信仰は純粋なイスラエルの信仰からは離れていて、まことの礼拝とは言えませんでしたし、エルサレムの神殿の礼拝も、まことの礼拝とは言えませんでした。しかし、23節、

23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 このように新約の時代のまことの礼拝とは、御霊と真理による礼拝です。このことを念頭に置いてルカの福音書1章を読むなら、御使いのガブリエルが先ず神殿でザカリヤに現れ、次に神殿ではない所でマリアに現れたことは、旧約の時代から新約の時代への移り変わりを良く象徴していると思います。

 ルカの福音書に戻ります。ルカ1章26節、

ルカ1:26 さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。

 このように、ザカリヤの時とは異なり、御使いのガブリエルがマリアに現れた場所は神殿ではありませんでした。この場合はナザレの町のマリアの家です。そして、初代の教会は家の教会が中心でしたから、私はこのマリアの家を教会と読み取りたいと思います。旧約から新約に移行して信仰の場所が神殿から教会に移行しました。そうして、ここで御使いがマリアに現れました。

 私が高津教会を訪れたのは41歳の時ですが、それ以前の学生の頃から私は何人もの方々から、教会へ誘われたことがありました。それら私を教会に誘って下さった方々は皆、天から遣わされた御使いだったのだなと思います。しかし、私は応答しませんでした。

 そんな私でしたが、41歳の時には応答しました。そうして応答した時から求道が始まり、洗礼式で教会の皆さんから祝福されました。この受洗の祝福は、マリアがイエス様を出産した時に羊飼いたちや東方の博士たちから祝福されたことに相当するように感じています。

 ルカ1章のマリアへの受胎告知の箇所は、皆さん良くご存知だと思いますから、途中を飛ばして38節を見ます。38節、

38 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。

 私たちも、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言った時から求道が始まるんだと思います。いやいや、求道者はマリアのような立派な信仰をまだ持っていないでしょう、と思われるかもしれません。しかし、私たちは自分たちの信仰の深さに応じて聖書のみことばを読み取ると思います。ですから、信仰が深まっている皆さんは、このマリアの信仰をとても立派な信仰と読み取るでしょう。

 けれども、まだ信仰らしい信仰を持っていなかった私も、この箇所からの説教がそれなりに響いた記憶があります。ですから、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったところから求道が始まると言っても決して的外れではないという気がします。そうして胎内で赤ちゃんのイエス様が育つように自分の中で信仰が育ち、洗礼を受けるに至ります。そして、さらに教会生活を何年も送って信仰が深まるなら、マリアの信仰をより深く理解できるようになるのではないでしょうか。もしかしたら、若かったマリアはそれほど深く考えずに、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言ったかもしれません。マリアの信仰が立派に見えるのは、読み手の信仰が深まっているからではないでしょうか。今年はクリスマスの伝道ができませんが、クリスマスの時期には教会に来て下さる方々が多くいますから、それらの方々が気楽に、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と言う方がおこされると良いなと思います。

 12/6の聖日のCSでは、このマリアへの受胎告知の箇所が開かれました。担当のTさんは、このマリアの「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」のことばから、委ねることの大切さを説いて下さり感謝でした。

 まさに委ねることから信仰は始まるのだと思います。委ねることは、手放すことから始まるからです。何もかも100%自分で握りしめていたら、神様に委ねる余地はどこにもありませんね。しかし、少し手放せば、その分だけ少し神様に委ねることができるようになります。たくさん手放せば、たくさん委ねることができるようになります。多くの方に気楽に教会に来ていただき、気楽に少しだけ手放すことから始めていただけると良いなと思います。

 さて、ご存知の方も多いと思いますが、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と英語訳は、「Let it be to me according to your word.」です。英語訳もいろいろありますから、「Let it be」を使っていない訳もありますが、多くの訳が「Let it be to me according to your word.」としています。このことから、ビートルズの名曲『Let it be』は、この受胎告知の箇所が元になっていると言われています。作者のポール・マッカートニー自身は否定しているらしいですが、潜在意識レベルで、このルカ1章のマリアの言葉が頭の中にあったのだろうと考える人は少なくないようです。

 このポール・マッカートニーの『Let it be』の出だしの歌詞を直訳すると、こんな感じです。

僕が困難に遭って悩んでいる時、母マリアが知恵の言葉を語る「Let it be」と

 この「Let it be」を日本語でどう訳すか、人によって違いますが、やはり「委ねなさい」と訳したいと思います。つまり、こうです。

僕が困難に遭って悩んでいる時、母マリアが知恵の言葉を語る「委ねなさい」と


 困難の中にある時、様々なものを手放して、主に思い悩みを委ねるなら、主が困難から救って下さいます。先ほども言ったように、委ねるためには、先ず手放すことです。すると主は困難から救って下さいます。

 聖書のヨナ書と使徒の働きには、難破しそうになった船から積み荷を海に投げ捨てる場面がありますね。ヨナが乗った船が嵐に遭った時、人々は積荷を海に投げ捨てました。パウロたちを乗せてローマに向かっていた船が嵐に遭った時も、人々は積荷を海に投げ捨てました。積荷をたくさん積んだ船は半分沈んだようなものですから、嵐で難破しそうになった時には積荷を捨てて軽くします。

 私たちも困難に遭った時には握っているものを手放して主に委ねるなら、主は私たちを困難から救い出して下さいます。

 ルカ1章38節は信仰が深まれば深まるほど、マリアの信仰の立派さへの理解が深まると先ほど言いました。それは、信仰が深まるほど私たちは多くを手放すことができるということではないでしょうか。そうして多くを手放すことで多くを委ねることができるようになります。

 アドベントの真っ只中にいる今、このマリアの委ねる信仰に思いを巡らしたいと思います。お祈りいたします。
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マリアの道を整えたエリサベツ(2020.12.3 祈り会)

2020-12-05 08:01:22 | 祈り会メッセージ
2020年12月3日祈り会メッセージ
『マリアの道を整えたエリサベツ』
【ルカ1:5~7、24・25、39~43】

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。

 アドベントの期間に入って最初の祈り会の今夜はバプテスマのヨハネの母エリサベツに注目します。

 バプテスマのヨハネはご存知の通り、イエス・キリストが来られるための道を整えた預言者です。マルコの福音書の冒頭には次のように書いてありますね(開かないで良いです)。

マルコ1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 イザヤ書40章の預言通りにバプテスマのヨハネが現れて、主イエス・キリストが通られる道をまっすぐにして整えました。

 そして、ルカの福音書1章のエリサベツに関する記事を読むと、エリサベツはマリアの道をまっすぐにして整えた女性であったことが分かります。ルカ1章の5節から7節までを、もう一度お読みします。

ルカ1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。
7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。

 この箇所を読むと、ザカリヤとエリサベツの夫妻は創世記のアブラハムとサラの夫妻にとても良く似ていると感じます。アブラハムとサラも年をとっていて子がいませんでした。サラが不妊だったからです。その二人にイサクが与えられてイサクにヤコブが与えられました。そうしてヤコブがイスラエル12部族の父となりました。つまりイスラエル12部族の道はイサクが整えました。イサクは祝福によってヤコブの道を整えました。そのイサクを生んだのがサラとアブラハムの夫妻でした。

 同様にイエス・キリストの道はバプテスマのヨハネが整えて、ヨハネを生んだのがエリサベツとザカリヤの夫妻でした。旧約の時代のイスラエルの信仰の始まりと新約の時代のイエス・キリストの福音の始まりは、とても良く似ていると感じます。

 そして、ザカリヤもエリサベツも大祭司のアロンの子孫でした。アビヤの組の者はアロンの子孫で、エリサベツもアロンの子孫でした。アロンはモーセの兄で、贖罪の儀式、罪の贖いの儀式を幕屋で行った最初の大祭司です。

 少し前まで祈り会で学んでいたヘブル書には、大祭司アロンから始まった幕屋の聖所の儀式のことが書かれていましたね。このアロンの時代に始まった儀式がザカリヤの時代にも行われていました。ですからザカリヤとエリサベツの時代はまだ旧約の時代でした。それが息子のバプテスマのヨハネが整えた道によってイエス・キリストの新約の時代へと移行しました。

 このヘブル人への手紙には、エレミヤ書の有名な聖句が2度引用されています。そこは、ご一緒に確認したいと思います。ヘブル人への手紙8章8節から12節までです。(新約p.446)。これはエレミヤ31章からの引用です。

ヘブル8:8 神は人々の欠けを責めて、こう言われました。 「見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。
9 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった。──主のことば──
10 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
11 彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。
12 わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 先ほども言ったように、これはエレミヤ書31章からの引用です。そしてヘブル書はもう一度エレミヤ31章を短く引用します。ヘブル10章の16節と17節です(新約p.450)。

ヘブル10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、
17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。

 16節にあるように、新しい契約では主は律法を心に書き記します。旧約の律法はモーセの時代に石板、石の板に書き記されて神の契約の箱の中に収められました。契約の箱は垂れ幕の向こうの至聖所に置かれています。その至聖所に大祭司のアロンは1年に1回だけ入っていけにえの動物の血を神の契約の箱の上の「宥めの蓋」に振りかけました。

 一方、新しい契約では大祭司のイエス様がご自身の血を携えて天の聖所に入り、ただ一度だけ贖いの儀式を行いました。このことによって私たちの罪が赦されて、17節にあるように主は「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と仰せられました。そうして罪がきよめられたことで私たちの体が聖所となり、至聖所の神の箱に石板が入れられたように私たちの心の中に律法のことばが記されるようになりました。

 このヘブル書が2度引用したエレミヤ31章はヨハネの福音書にもつながります。ヨハネ1章に「初めにことばがあった」とあるようにイエス・キリストはことばです。ですから私たちの心に律法のことばが記されるということは、私たちの内にことばであるイエス様が聖霊によって内住するということです。人の内にイエス様が内住すると御霊の実が結ばれて、イエス様に似た者にされて行きます。

 少し前に祈祷会ではヘブル書を学び、同時に礼拝では聖霊の内住を信じるべきことを勧めました。これらを経て今回アドベントでルカ1章を改めて読んで、マリアが聖霊によってイエス様を身籠ったことは、聖霊によって私たちの内にイエス様が住んで下さることの先駆けであると私は感じるようになりました。ルカがそこまで意図していたかどうかは分かりませんが、マリアがイエス様を聖霊によって身籠ったことは私たちの内にイエス様が住んで下さるようになったことの先駆けであったと感じます。

 ルカの福音書に戻ります。ルカ1章41節と42節、

ルカ1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。

 エリサベツの胎内にはマリアの中のイエス様に先んじてバプテスマのヨハネがいました。ですからエリサベツはマリアの道を整えた女性でした。41節にエリサベツは聖霊に満たされたとありますから、福音書は私たちが聖霊を受けることの大切さを熱心に説いている書物であると改めて感じます。

 きょう話したことを、もう一度振り返ります。ザカリヤの妻のエリサベツはアブラハムの妻のサラと同様に不妊で年をとっていました。またエリサベツは大祭司アロンの子孫でした。そうしてエリサベツはバプテスマのヨハネを生み、バプテスマのヨハネは新約の時代のイエス様の道を整えました。イエス様が生まれたことで、後に私たちの内には聖霊によってイエス様が住むようになりました。エリサベツの親戚のマリアのお腹には実際にイエス様が住んでいました。そのマリアがエリサベツの所に来た時、エリサベツは聖霊に満たされました。エリサベツはいろいろな意味で旧約の時代から新約の時代への移行に関係しました。

 イエス様が私たちの中に住んで下さっているという霊的な話は、実際問題としてはなかなか想像しづらいですが、赤ちゃんのイエス様がマリアの中にいることが、その助けになると感じます。

 男性にとってはそれでもなお想像しづらいですが、ルカ2章に登場する男性のシメオンが幼子のイエス様を抱いてくれますから、男性にも分かりやすくなっています。シメオンの話はアドベント第三礼拝ですることにしています。

 福音書は聖霊を受けることの重要性を熱心に説いています。それを念頭に置いてエリサベツとマリアの記事を読むと、ここでもまた聖霊を受けることの重要性が説かれていることに気付かされます。

 イエス様がこの世に生まれて下さり、十字架に掛かって下さり、血を流されたことで私たちの心がきよめられて、私たちの内が聖所となって聖霊が住んで下さるようになったことに改めて感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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新しい道を開いて下さった大祭司イエス(2020.11.19 祈り会)

2020-11-20 08:31:43 | 祈り会メッセージ
2020年11月19日祈り会メッセージ
『新しい道を開いて下さった大祭司イエス』
【ヘブル10:19~22】

ヘブル10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

 11月の夜の祈祷会は今夜が最後で、12月はアドベントに入っていますから、福音書を開くことにしています。それでヘブル書の学びは今夜で一旦終わらせることにします。それゆえ、先週は4章を学びましたが、きょうは一気に10章に飛んでヘブル書の核心部分を学びます。ただし、10章だけだと分かりにくいと思いますから、8章から見ます(p.446)。

ヘブル8:1 以上述べてきたことの要点は、私たちにはこのような大祭司がおられるということです。この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、
2 人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。
3 大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。

 私たちにはイエス様という大祭司がいて、天の父の右に座しています。イエス様は十字架の死から復活して四十日目に天に昇り、天の聖所に入りました。そうして2節にあるように、天にあるまことの幕屋、聖所で仕えておられます。この天の聖所に入る時にイエス様はご自身の血を持って入り、ご自身の血を献げたのですね。3節、

3 大祭司はみな、ささげ物といけにえを献げるために任命されています。したがって、この大祭司も何か献げる物を持っていなければなりません。

 旧約の時代は大祭司がいけにえの動物の血を持って至聖所に入り、神の箱に振りかけました。そのことが9章の1節以下に書かれています。9章1節、

ヘブル9:1 さて、初めの契約にも、礼拝の規定と地上の聖所がありました。

 この初めの契約とはモーセの時代の契約のことで、出エジプト記とレビ記に詳しく書かれています。出エジプト記には幕屋の聖所の作り方が細かく書いてあり、レビ記、特にレビ記16章には贖罪の儀式、罪の贖いの儀式の細かい手順が書かれています。そのことが、このヘブル9章に書かれています。3節、

3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋があり、

 幕屋の聖所には垂れ幕があり、そのうしろに至聖所がありました。この至聖所には年に1回だけ、大祭司だけが入ることが許されていました。7節、

7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。

 ですから大祭司はいけにえの動物の血を携えて至聖所に入りました。このことはレビ記16章を読んでいただくと書いてあります。

 イエス様はこの地上の幕屋ではなく、天の聖所にご自身の血を携えて入られました。9章の11節から14節までを交代で読みましょう。

11 しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
12 また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
13 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

 12節にあるようにイエス様はご自分の血によって、ただ一度だけ天の聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

 イエス様の血は、14節の後半にあるように、私たちの良心をきよめて下さいます。そうして神様に仕える者にして下さいます。

 このイエス様の血によって、私たちは大胆に聖所に入って、神様に近づくことが許されるようになりました。きょうの聖書箇所の10章19節と20節を私のほうでお読みします。

ヘブル10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 この20節にあるように、イエス様は私たちのために、新しい生ける道を開いて下さいました。

 本当にそうだなあ、と思います。「この新しい生ける道を開いてくださいました」というみことばを読んで19年前に洗礼を受けた時のことを思い出しました。高津教会に通うようになって何か月かして、私は洗礼を受けることに関心を持つようになりました。それで、同じ組会の兄弟に「どうしたら洗礼を受けられるのですか?」と軽い気持ちで聞いてみたら、それが牧師に伝わって、集会の後で先生が個人的に洗礼について話して下さり、祈って下さいました。

 そのことで、ますます受洗への気持ちが前向きになりました。しかし私はお寺や神社にも強い愛着を持っていましたから、気持ちを整理するのに少し時間が掛かりました。そして、それができた後も、今度は親や兄弟に自分の決心を伝えるのに躊躇がありました。そういうことを一つ一つクリアして行き、ついに洗礼願書に署名押印をして、洗礼式に辿り着きました。ステップの一つ一つをクリアするごとに、よりイエス様に近づいて行き、見える景色が違って行きましたから、まさに新しい生ける道が開かれて行ったという思いがしました。
 続いて21節と22節、

21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、
22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

 ヘブル書の記者がこのように勧めるということは、当時のヘブル人クリスチャンたちの中には、まだまだ神様に大胆に近づくことができないでいた人が少なくなかったのかもしれません。そして現代の私たちも、まだまだ十分に神様に近づけていないのかもしれません。もっと大胆に近づいて良いのに、中途半端にしか近づけていないのかもしれません。

 神様は目に見えませんから、近づくと言っても、どのように近づいたら良いのか、今一つ分からないという面もありますね。

 そこで参考にしたいのが、福音書の「長血の女」です。長血の女はイエス様に大胆に近づいて行って、イエス様の衣に触れました。きょうはもう時間がありませんから、長血の女については元旦礼拝で話すことにします。2021年の標語聖句は長血の女の箇所からを予定しています。元旦礼拝は金曜日にありますから、その2日後の3日の新年礼拝では長血の女を念頭に置きながら、今一度、ヘブル書を読み、長血の女のように大胆に神様に近づくべきことを礼拝の出席者の皆さんとも分かち合いたいと願っています。

 長血の女は、長い間病気に苦しめられていました。いま私たちもコロナで苦しめられています。感染者数はここ1~2週間の間に急増しました。自分自身はコロナに罹(かか)っていなくても、東京の家族になかなか会えないなどの悩みがあります。

 また、今年私たちの教会では二人の病気の兄弟を天に見送りました。2021年は病気のない年であって欲しいと思います。そのことを願い、長血の女のように大胆にイエス様に近づいて行って祈り求めたいと思います。

 私たちは目に見えない神様に、どのように近づいて行ったら良いか分かりません。でもイエス様がいて下さいますから、私たちは長血の女のように、イエス様に大胆に近づいて行くことができます。イエス様が地上に生まれて下さったからこそ、私たちはイエス様の方をしっかり向いて、大胆に近づくことができます。このことを心一杯感謝したいと思います。

 一言、お祈りします。
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剣よりも鋭い神のみことば(2020.11.12 祈り会)

2020-11-14 13:45:11 | 祈り会メッセージ
2020年11月12日祈り会メッセージ
『剣よりも鋭い神のみことば』
【ヘブル4:12~16】

12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(もろはのつるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 きょうはヘブル4章の12節と13節に注目しますが、その後ろの14節から16節も一緒に読みました。この後ろの節を見ることで、12節と13節が何を言おうとしているかが、よりハッキリするからです。

 14節の冒頭に「さて」とありますから、ここから話が変わって「大祭司」の話に入って行きます。ここから始まって10章まで、大祭司が神殿で行う贖罪、罪の贖いの儀式のことが書かれています。イエス様ご自身が大祭司であり、イエス様は動物の血ではなく、十字架で流されたご自身の血によって贖罪の儀式を天の神殿で行いました。4章の終わりから10章までという非常に長い部分に亘って、イエス様は大祭司であることが書かれているということは、このことがヘブル書の中心メッセージであるということでしょう。

 このことを念頭に置いて4章12節と13節とを読むと、ここに書かれていることは、私たちの中にある罪のことだということが分かります。私たちは自分の中にある罪になかなか気付きません。あるいは気付いたとしても、それを隠そうとします。しかし、神の目にはすべてが見えています。

 まず13節から見て行きます。4章13節、

13 神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。

 神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。そうして次の14節からイエス様が贖罪、罪の贖いの儀式を行った大祭司であることが書かれていますから、神の御前にさらけ出されているのは、私たちの罪であることが分かります。神様の目には、私たちのすべてが見えています。

 きのう私は、近所にある内科で、がん検診での胃の内視鏡検査をしてもらいました。胃がんの検診は、昨年まで私はずっとバリウム検査を受けて来ました。しかし、初期の小さなガンはバリウムよりも内視鏡の方が発見しやすいことを前々から聞いていましたし、召されたYさんが胃がんだったこともありましたし、すぐ近所の内科で受けられるということもあって、今年から内視鏡検査を受けることにしました。

 検査を受けながら私もモニターを見ることができましたし、検査が終わってすぐにお医者さんが、記録した画像を見せながら診断結果を聞くことができましたから、これは良いなと思いました。何か質問があるか問われましたから、私はYさんのことを念頭に、「この内視鏡検査でスキルス胃がんも分かりますか?」と聞きました。すると、スキルス胃がんができていると、そこが硬くなっていて、空気を送った時の膨らみ方が悪くなるので、それで分かるとのことでした。

 スゴイなあと思いました。今の時代は昔からのレントゲン撮影に加えて、この内視鏡や、CTスキャンやMRI、エコーなどいろいろな機器で病気の早期発見ができてスゴイなあと思いました。しかし、それでも見逃されてしまう病気もあります。人間の行う検査では、どうしても見逃してしまうということがあります。

 それに対して神様の目にはすべてがさらけ出されています。私たちの中にある罪は、がん細胞のようなものです。私たちの中には生まれながらにして罪というがん細胞があり、大人になるにつれて、どんどん増殖して行きます。早く取り去らないと増殖する一方で人格全体を蝕(むしば)んで行きます。

 この、がん細胞のような罪を、手術のメスよりも鋭い神様のみことばのメスが取り去って下さいます。12節をお読みします。

12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(もろはのつるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。

 私たちの心の思いやはかりごとの中には罪が潜んでいます。ハッキリ見える罪もありますが、多くは潜んでいて見えにくい罪です。それらの罪を神様のみことば明らかにして、取り除いて下さいます。

 神様のみことばというと、道案内の明るい光であったり、或いはまた平安を与える温かさを想像することが多いと思いますが、みことばは鋭い刃物でもあるのですね。
 詩篇119篇の詩人は、

詩篇119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

と書いて、みことばを光に例えました。或いはまた、詩篇23篇の

詩篇23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。

というみことばからは、とても温かな平安を感じることができます。
 しかし、神のみことばは鋭い刃物でもあるのですね。考えてみますと、確かにそうです。使徒の働きには、ペンテコステの日にペテロの説教を聴いたエルサレムのユダヤ人たちが、心を刺された場面がありますね。使徒の働きには、こう書いてあります。これはペテロのことばですが、聖霊がペテロに語らせていますから、神のことばです。

使徒2:36 「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。


 人々は、ペテロが語った神のことばを聞いて心を刺されました。このように、神のことばは刃物のような鋭さ、いえ刃物以上の鋭さを持っています。

 或いはまた、エペソ人への手紙でパウロは、こう書いています。

エペソ6:11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

 パウロは、神のことばは「御霊の剣」だと書いています。悪魔は私たちの内の罪を増殖させようと絶えず策略を巡らしています。しかし、イエス・キリストを信じて御霊が内に住んでいるなら、御霊の剣である神のことばが罪を取り除いて下さいます。

 最近私はテレビで、脳腫瘍を摘出する脳外科医を取材した番組を見ました。腫瘍を摘出する場合、胃や肝臓などの臓器でしたら、転移して再発しないように、少し多めに切り取ることも可能でしょう。しかし、脳の場合は部位によって何を司っているかが非常に細かく分かれているので、多めに切り取ると、その部分の機能が失われてしまいます。

 それで、その脳外科医は患者さんとの相談の時間をできるだけ多く取って、どこまで攻めて切り取るかを決めます。患者さんによっては攻める手術を望まない患者さんもいると思いますが、番組では攻める手術を望む患者さんと相談する様子が放送されていました。そうして攻める手術を行って、できるだけ多くの腫瘍を摘出します。しかし、正常な部分と異常な部分との境い目は曖昧ですから、どうしても腫瘍は残ります。もし多めに取れば、その分、患者さんに異変が生じます。人格が変わってしまうことも有り得ます。ですから、全部を取り去ることは難しいことです。

 しかし、神様のみことばの剣にはそれができます。ヘブル4章12節を、もう一度お読みします。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(もろはのつるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。


 このように、御霊の剣である神様のみことば、たましいと霊、関節と骨髄を分かるまでに鋭いものであり、悪い部分のみをきれいに取り除いて下さいます。

 きょうは、この神様のみことばを、がん細胞を取り去る手術のメスに例えましたが、8日の聖日に聞いた聖会の説教ではイザヤ書6章から、祭壇から火ばさみで取られた燃えさかる炭について語られていましたね。この説教を書き起こした文を、きのうの午後、PCアドレスをお持ちのご家族にはメールで送りましたから、ぜひ読んでみて下さい。それ以外の方々には紙に印刷したものを週報棚に入れました。或いは既に直接お届けした方もいますし、明日お届けする予定にしている方々もいます。

 このイザヤ書6章では、燃えさかる炭がイザヤの唇に触れたので、イザヤの咎が取り除かれ、罪が赦されました。炭の燃えさかる炎が罪を焼き滅ぼしました。がんの治療で言えば、放射線治療に例えることができるかもしれません。放射線はがん細胞を焼いて、或いは叩いて、死滅させます。イザヤの唇に触れた燃えさかる炭はイザヤの咎を焼き滅ぼし、イザヤの罪は赦されました。

 聖会の説教で講師の先生は、イザヤは御使いのセラフィムが飛んで運んで来た燃えさかる炭から逃げなかったと語られました。燃えさかる炭が自分に触れたなら、自分の体が焼きただれて死んでしまうかもしれない。しかし、イザヤはそこから逃げずに炎に包まれた燃えさかる炭を受け入れ、そして聖霊の炎によってイザヤは逆に恵みの中に入れられます。そうしてイザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言う者に、恵みによって変えられました。

 私たちもまた、この燃える聖霊の炎、そして両刃の剣(もろはのつるぎ)よりも鋭い神様のみことばを受け入れて、きよめていただき、イエス様のために仕える者に変えられて行きたいと思います。霊に燃え、主に仕える者にしていただきたいと思います。

 ひと言、お祈りいたします。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(もろはのつるぎ)よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
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私たちが神の家です(2020.11.5 祈り会)

2020-11-06 09:52:08 | 祈り会メッセージ
2020年11月5日祈り会メッセージ
『私たちが神の家です』
【ヘブル3:1~6】

ヘブル3:1 ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。
2 モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。
3 家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。
4 家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。
5 モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。
6 しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。

 きょうはヘブル3章1~6節の箇所から、「神の家」とは何か、そして「教会」とは何かを、ご一緒に考えたいと思います。21世紀の今、私たちの教会だけでなく、日本の教会の多くにかつての勢いがありません。

 教会が再び活性化するためには、思い付いたことをあれこれ試行錯誤してみてもなかなか上手く行かないようです。私もあれこれ考えて来ましたが、やはり基本に戻るのが一番なのだろうと思います。新約聖書が書かれた1世紀に立ち返って基本を再確認し、それを21世紀においても行っていくことが、息を吹き返すことにつながるのではないでしょうか。

 それではヘブル3章1節から読んでいきます。

1 ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

 使徒とは「遣わされた者」ということです。イエス様は天から遣わされて肉体を持ち、私たちと同じ人間になりました。そして、イエス様は「大祭司」であるとヘブル書の記者は書いています。この「大祭司」については、後の章で詳しく論じられますから、きょうは「大祭司」については触れないでおきます。そして2節以降に出て来る「神の家」について、ご一緒に考えたいと思います。

 まず2節に「神の家」という言葉が出て来ます。

2 モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

 そして、5節と6節にも「神の家」が出て来ます。

5 モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。
6 しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。

 ここでヘブル書の記者は旧約のモーセの時代の「神の家」と新約の時代の「神の家」の両方について書いています。そして、新約の時代においては「私たちが神の家です」と書いています。「私たちが神の家です」とは、どういうことでしょうか。まず旧約の時代の「神の家」について考え、次にそれを足掛かりにして新約の時代の「私たちが神の家です」について考えることにします。

 旧約の時代の「神の家」とは、狭い意味では幕屋または神殿です。幕屋には神の箱が置いてあり、そこが神の家でした。そして、広い意味での「神の家」は、イスラエル民族という共同体です。このイスラエルの共同体の中心に幕屋(或いは神殿)がありました。3章2節でヘブル書の記者は「モーセが神の家全体の中で忠実であった」と書いています。「神の家全体の中で」という書き方ですから、この「神の家」とはイスラエルの共同体でしょう。そして、この「神の家」であるイスラエルの共同体の中心にはいつも幕屋(或いは神殿)がありました。

 次に新約の時代の「神の家」を考えましょう。6節の「わたしたちが神の家です」の「神の家」に小さな数字で2)と付してあって、下の脚注に第一コリント3章16節と第一テモテ3章15節の二つの引照が示されています。この二つの脚注を参照して考えたいと思います。まず二番目の第一テモテ3章15節を見ていただけますか(新約p.420)。14節から読んだ方が分かりやすいと思いますから、14節と15節をお読みします。これはパウロがテモテに宛てて書いた手紙です。

Ⅰテモテ3:14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながら、これらのことを書いています。
15 たとえ遅くなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたに知っておいてもらうためです。神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。

 ここでパウロは「神の家とは…生ける神の教会のことです」と書いています。つまり新約の時代における「神の家」とは教会という共同体です。教会はイエス・キリストを信じて聖霊を受けた者が集まってできた共同体です。ペンテコステの日はその教会ができた最初の日とされていますね。ペンテコステの日に弟子たちとユダヤ人たちは聖霊を受けて、その日から教会が始まりました。

 ここで、もう一つの引照の第一コリント3章16節を見てみましょう(新約p.330)。

Ⅰコリント3:16 あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

 イエス・キリストを信じた者の内には聖霊が住んでいます。神である聖霊が住んでいるということは、その者自身の体が神の宮、すなわち神殿であるということです。パウロは同じ第一コリントの6章19節でも、同様のことを書いています(p.334)。

Ⅰコリント 6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

 私は神学生の時にこの聖句に心を刺されました。自分の体が聖霊の宮と考えるには、自分はあまりにも罪で汚れています。このパウロのことばを受け入れることは到底できないと思いました。しかし、この聖句を受け入れない限り、きよめの信仰には立てないと思い、受け入れることにしました。今も自分の体が聖霊の宮とは到底言えませんが、私は聖霊の内住を信じていますから、聖霊が私をきよめようとして下さっていると信じています。それに逆らう自分も相変わらず残っていますが、聖霊と共に歩んで行きたいと願っています。

 先日の礼拝で聖霊の内住を信じなければ助け主の助けが十分に得られず、イエス様がおっしゃることが分かるようには、なかなかならないことを話しましたが、きよめに関しても、聖霊の内住を信じないなら、なかなかきよめられないだろうと思います。

 さて、ここで旧約の「神の家」と新約の「神の家」の違いをもう一度確認したいと思います。まず旧約です。

 旧約の「神の家」とはイスラエルの共同体であり、その中心には幕屋また神殿があり、そこに神が現れました。この時代、人々の大半は聖霊を受けていませんでした。聖霊を受けていたのはごく限られた預言者たちだけでした。それゆえ人々は簡単に神様から離れて行きました。

 一方、新約の時代の「神の家」はイエス様を信じて聖霊が内に住む者たちが集まってできた教会という共同体です。旧約の時代は共同体の中心に神殿があり、新約の時代は共同体を構成する一人一人の内に神殿があります。ですから新約の時代の私たちは神様の言葉を聖霊を通して直接聞くことができます。旧約の時代の人々は預言者を通して神の言葉を聞きましたが、新約の時代の私たちは神の言葉を直接聞きます。

 このことを考えるなら、新約の時代の人々は旧約の時代の人々に比べれば神様から離れにくいと言えるかもしれません。しかし迫害などの艱難に遭えば信仰を失う恐れが常にあります。それゆえにこのヘブル人の手紙が書かれたのでしょう。ヘブル3章6節をもう一度お読みします(p.439)。

ヘブル3:6 しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。

 この最後の文が重要だと思います。「もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです」という文が、「私たちが神の家です」の後に続いています。やはり、聖霊の内住の確信が必要です。そうして復活の希望、平和への希望を持ち、神の家族とされていることの誇りを持ち続けることが重要です。

 この、一人一人が聖霊の宮である者たちが集う教会で最も大切なことは御霊の一致を保つことでしょう。御霊の一致を保って励まし合い、御霊と共に歩むなら確信と希望による誇りを持ち続けることができます。

 今年、新型コロナウイルスの感染拡大により、世界でも日本でも多くの教会でネット配信による礼拝が行なわれるようになりました。このネット配信による礼拝については様々な意見があると思いますが、大切なことは御霊の一致が保たれるかどうかではないでしょうか。

 教会に集って礼拝を行なっても、そこに御霊の一致が無いなら、そこは「神の家」とは言いがたいでしょう。逆にネット配信による礼拝であっても、それを視聴する人々の間で御霊の一致があるなら、そこは「神の家」と言えるでしょう。ヘブル書の時代の人々は迫害によって散り散りに散らされていましたが、それでも「神の家」という共同体を維持していました。

 新型コロナウイルスの感染状況によっては再びネット配信のみの無会衆礼拝にしなければならないという事態にもなるかもしれません。しかし、礼拝の形態がどうであれ、常に御霊の一致を保って、「私たちが神の家です」という確信を持って共に歩んで行きたいと思います。そうすれば主は1世紀の新約聖書の時代の教会を祝福したように、21世紀の教会も祝福して下さることでしょう。

 一言、お祈りいたします。

「私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。」
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血と肉を持ったイエス・キリスト(2020.10.22 祈り会)

2020-10-24 09:45:50 | 祈り会メッセージ
2020年10月22日祈り会メッセージ
『血と肉を持ったイエス・キリスト』
【ヘブル2:5~15】

ヘブル2:5 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。
6 ある箇所で、ある人がこう証ししています。「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。
7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。
9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
11 聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」
13 また、「わたしはこの方に信頼を置く」と言い、さらに、「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」と言われます。
14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

 ヘブル人への手紙の学びを続けます。

 先週はヘブル1章を開き、1章には「御使い」という言葉が多く出てくることを指摘しました。そして2章2節の「御使いたちを通して語られたみことば」という言葉に注目して御使いの役割について説明しました。

 イエス・キリストが地上に遣わされる前の時代には、神のみことばは御使いを通して預言者たちに伝えられていたと考えられていました。つまり、神と人々の間には御使いと預言者の二者が挟まっていました。神が御使いに言葉を伝え、御使いが預言者に言葉を伝え、預言者が人々に言葉を伝えていると考えられていました。それゆえ人々は神をとても遠い存在に感じていました。遠く感じるだけでなく、近づくと命を奪われてしまう恐ろしい存在とさえ思われていました。実際、神に近づき過ぎて死んだ者たちもいました。

 しかし、イエス・キリストが十字架に掛かったことで、この隔たりが取り去られて、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことが許されるようになりました。そして御父と御子との交わりに入ることができるようになりました。このことをヨハネの手紙第一では、このように表現しています。

Ⅰヨハネ1:3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。

 先週はここまでを話しました。

 さてイエス様は神の御子ですから、当然御使いたちよりも上位の存在です。ヘブル1章3節にも書かれています。

ヘブル1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

 御子は父なる神の右の座に着いているお方ですから、御使いよりも遥かに上の存在です。ヘブル1章13節にも書かれています。

13 いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。

 少し分かりにくい表現ですが、「いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか」ということは、神はどの御使いにも言っていないということですね。これは御使いではなく御子に対して言われた言葉です。そして14節、

14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

 御使いはみな、奉仕する霊であって決して、神の右の座に着く者ではありません。ですから神の右の座に着いた御子は御使いよりも遥かに高い所に位置するお方です。

 さてしかし、イエス様は地上に遣わされていた間は、御使いよりも低くされていました。ヘブル2章の7節と8節、

ヘブル2:7 あなたは、人を御使いよりもわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
8 万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

 8節の始めに、神は万物を御子の足の下に置かれたとあります。しかし8節の終わりでは、「それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見ていません」とヘブル書の記者は書いています。それは、まだ終わりの時が来ていないからですね。このことが実現するのは終末の終わりの時においてです。ですから、私たちは忍耐を持って走り続けなければなりません。

 後でまたここに戻って来ますが、ヘブル12章の有名な箇所をご一緒に見ておきましょう。ヘブル11章では信仰の先輩のアブラハムやモーセたちの信仰が称えられていますね。ヘブル12章の1節と2節を、ご一緒に読みましょう。

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

 まだ終わりの時が来ていませんから、私たちは忍耐を持って走り続けたいと思います。そして、信仰の創始者であり完成者であるイエス様から、目を離さないでいたいと思います。この「目を離さないでいなさい」を頭に入れておいていただいて、もう一度ヘブル2章に戻りたいと思います。

 9節に、このように書かれています。

9 ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 私たちはイエス様から目を離さないでイエス様を見ています。イエス様の死は9節の最後の文にあるように、すべての人のために味わわれたものです。イエス様の死は私たちすべてのためのものでした。10節、

10 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

 そうしてイエス様は十字架に付きました。少し飛ばして14節と15節、

14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

 私たち人間は血と肉を持っています。イエス様もまた御使いよりも低くされて私たちと同じように、血と肉をお持ちになりました。そうして悪魔をご自分の死によって滅ぼして下さいました。私たちの罪はアダムとエバが悪魔に誘惑されたことから始まりました。その罪をイエス様は十字架の死によって滅ぼして下さいました。

 罪が入った私たちは死の恐怖に一生奴隷としてつながれていましたが、イエス様はその恐怖から解放して下さいました。このことをヨハネの手紙第一は次のように書いています。

Ⅰヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 イエス様は神の右の座に着く、御使いよりも遥かに高い所に座しておられる方です。そのお方が御使いよりも低くされて私たちと同じように血と肉を持って、十字架に付き罪を滅ぼして下さいました。このことの恵みに深く感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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聖霊を通して御父と御子と交われる恵み(2020.10.15 祈り会)

2020-10-17 07:50:28 | 祈り会メッセージ
2020年10月15日祈り会メッセージ
『聖霊を通して御父と御子と交われる恵み』
【ヘブル1:1~4、Ⅰヨハネ1:1~4、他】

ヘブル1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。
3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。
4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

 ヘブル書の学びをしばらく続けることにしています。先週は導入・イントロダクションとして2章から入りましたが、きょうからは1章から学んで行きたいと思っています。というわけで、1章を読みながら、ここ数日、ここから何を語ったら良いか考えていましたが、いきなりなかなか難しそうです。みことばの解き明かしだけをしていても話が難しくなって、あまり恵まれないと思います。

 それで、どうしたものかと思案していたところ、ヨハネの手紙第一のみことばと一緒にヘブル書を学ぶというアイデアが示されました。ヨハネの手紙第一のみことばには皆さんも良く親しんでいると思いますから、一緒に開けばヘブル書が言わんとすることが分かりやすくなるであろうと思いました。
 きょうはヨハネの手紙第一の他にもヨハネの福音書と使徒の働きを開きたく思っていますから、あちこち開かなくて良いように、みことばをプリントにまとめました。まず第一ヨハネ1章1~4節を頭に入れて、次にヘブル1章1~4節を見ることにしましょう。

Ⅰヨハネ1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
2 このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。
3 私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。
4 これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。

 この箇所は皆さんも良く親しんでいる箇所だと思います。ここには御子イエス・キリストが天地創造の初めから御父と共におられた方で、その方が肉体を持って地上に現れてヨハネたちと地上において交わったことが記されています。

 そしてヨハネはこの手紙の読者に、この御父と御子イエス・キリストとの交わりに入るように招いています。この手紙が書かれた時代にはイエス様は既に天に帰って御父と共におられますが、聖霊を受けるなら聖霊を通して御父と御子との交わりに入れていただくことができます。この交わりの輪が広がることはヨハネ達にとって喜びが満ち溢れることでした。

 さて、ではこの第一ヨハネのみことばを頭に置いて、ヘブル書1章1~4節を見たいと思います。1節、

ヘブル1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、

 これは旧約の時代のことですね。神様は預言者たちを通してイスラエルの民に語り掛けました。続いて2節、

2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

 この「終わりの時」とは新約の時代に入った1世紀のことです。イエス様は、「時が満ち、神の国が近づいた」(マルコ1:15)とおっしゃいましたね。これは終わりの時が近づいたということです。この時、神は御子イエス様を地上に遣わしてイエス様を通じて人々にことばを語られました。この御子は万物を創造された方です。ヨハネの福音書も、1章3節で、

ヨハネ1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と書いていますね。3節、

3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

 最初の文の「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」とは、御父と御子とは一つのお方であることを示していると言えるでしょう。ヨハネの福音書のイエス様は「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃっていました。そして御子イエス様は十字架に付くことによってきよめを成し遂げ、その後に天に昇り、大いなる方、すなわち御父の右の座に着かれました。そして4節、

4 御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。

 ここに「御使い」が出て来ます。このヘブル1章には「御使い」という言葉が何度も出て来ます。5節、6節、7節にも出て来て、ページをめくっていただいて13節と14節にも出て来ます。

 どうしてこんなに「御使い」という言葉が使われているのか、それは2章2節の「御使いたちを通して語られたみことば」を見ると分かって来ます。旧約の時代の預言者たちが語った神のことばは御使いたちによって預言者に伝えられたと、この時代の人々は考えていたようです。今のヘブル2章2節の下の脚注に使徒7章53節の引照がありますね。このみことばもプリントに載せておきました。分かりやすいように54節も載せてあります。

使徒7:53 「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けたのに、それを守らなかったのです。」
54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしていた。

 54節で分かるように、これはステパノの演説です。この後でステパノはユダヤ人たちに石打ちにされて殺されます。この演説の53節でステパノは「あなたがたは御使いたちを通して律法を受けた」と言っています。またステパノは少し前の38節でこうも言っています。

使徒7:38 また、モーセは、シナイ山で彼に語った御使いや私たちの先祖たちとともに、荒野の集会にいて、私たちに与えるための生きたみことばを授かりました。

 ここでステパノは、モーセがシナイ山で聞いた神のことばは御使いが語ったものであると言っています。このように、この時代の人々は預言者によって語られた神のことばは御使いを通して預言者に伝えられたと考えていたことが分かります。

 ここでもう一度、ヘブル1章1節に戻りましょう。1節と2節の途中まで。

ヘブル1:1 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、
2 この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。

 旧約の時代には神と人々の間には御使いと預言者の二者が挟まっていました。しかし、御子イエス様が地上に来られたことにより、人々は神のことばを直接イエス様から聞くことができるようになりました。御父と御子は一つのお方ですから、間に誰も挟まっていません。イエス様が天に帰った後も、イエス様を信じて聖霊を受けていれば直接神のことばを受けることができます。御父と御子と聖霊は三位一体の神だからです。これが第一ヨハネが書いている「御父また御子イエス・キリストとの交わり」ですね。

 聖霊によって、この御父と御子との交わりに入れられていることの恵みを、『ヘブル人への手紙』は別の表現によって、教えてくれています。

 この素晴らしい恵みを私たちはしっかりと噛みしめたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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ヘブル書の学びを始めるに当たって(2020.10.8 祈り会)

2020-10-10 08:50:26 | 祈り会メッセージ
2020年10月8日祈り会メッセージ
『ヘブル書の学びを始めるに当たって』
【ヘブル2:14~15】

14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

 教報で案内されていた通り、今週の月曜日からeラーニングの新しい講座が開講しました。この講座では『ヘブル人への手紙』を学びます。講師は立川福音自由教会牧師の高橋秀典先生です。高橋先生は最近、いのちのことば社から『恐怖からの解放者イエス』という本を出版しました。今回の2か月間のeラーニングでは、この本をテキストにしてヘブル書の学びを進めています。

 私もこの講座を受講していますから、祈り会ではしばらくヘブル書を開くことにしたいと思います。今年はこの祈り会で聖書の女性を取り上げたり、ウェスレーを学んだり、詩篇を開いたりとテーマがいろいろ変わりましたが、これからしばらくは、ヘブル書の学びにじっくりと取り組むことを示されています。

 ただし、高橋先生の『恐怖からの解放者イエス』を中心に据えつつも、私のほうでも手持ちのいくつかの注解書を参照しながら自分でも学びつつ、思いを巡らしてみたいと思っています。ヘブル書というと11章の「信仰によって〇〇は~しました」とアブラハムやモーセなどの名前を次々と挙げて彼らの信仰を称えた記事が有名ですね。私もそこからの説教はしたことがありますが、始めの1章や2章からじっくり取り組んだことはありませんので、今回のeラーニングを機会にヘブル書にじっくりと取り組んでみたいと思います。

 さて、それで早速、いくつかの注解書で、このヘブル書がいつ頃誰によって書かれたのかを調べてみましたが、諸説あってハッキリしたことは分かりません。高橋先生も講座のビデオの中で、ヘブル書の著者が誰なのかは永遠に分からない謎であろうという立場を取っておられます。
 
 一方、執筆年代に関しては、紀元70年より前であろうという立場です。ユダヤ人の多くは紀元70年にエルサレムはローマ軍の攻撃による神殿焼失より前から激しい迫害を受けて離散していました。ヘブル書はそのエルサレムから離散したユダヤ人クリスチャンを励ますために書かれた書であろうという立場を取っておられるようです。

 また注解書によれば、ヘブル書には神殿焼失に関する記述が全く無いから、この書は紀元70年より前であろうとする説もあるそうです。しかし、私としてはこの説には疑問を感じます。著者が神殿を愛していたからこそ、悲惨な神殿焼失には敢えて触れなかったということも考えられると思います。私はそういう立場です。

 例えばルカの福音書も、神殿が焼失する前に書かれたという説と、後に書かれたという説の両方がありますが、私は後に書かれたと考えています。それは、ルカの福音書はバプテスマのヨハネの父のザカリヤが祭司として神殿で働いている場面から始まり、最後は弟子たちが神殿で神をほめたたえていた場面で終わるからです。ルカはイエス様の生涯の物語を神殿から始めて神殿で締めくくりました。この神殿へのこだわりは、神殿が失われてしまったからこそ芽生えた意識ではないかと私は考えています。このヘブル書も、神殿への強いこだわりが感じられます。それは神殿が焼失してしまったからこそのことではないかと私は考えます。

 いずれにしても、断定できるような根拠はありませんから、このヘブル書は誰によっていつ頃書かれたのかはハッキリしません。そういう中ですから、このヘブル書のメッセージをどのように受け取るかも読み手によって幅が出て来ます。新約聖書の27書のすべての注解書を書いたウイリアム・バークレーは、ヘブル10章の聖句の

「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」(10章19~22節)

を引用して、こう記しています。

「もしヘブル人への手紙の著者がひとことで使信を述べるとすれば、『神に近づこうではないか』であろう。」(バークレー聖書註解シリーズ13「ヘブル」p.8)

 一方、eラーニングの講師の高橋先生は『恐怖からの解放者イエス』という本を出しましたから、聖書箇所のヘブル2章14節と15節を中心にしてヘブル書を捉えています。

 そして私自身はヘブル書の記者が「神殿を愛している」という観点から今回この書を学んでみたいと思っています。題を付けるとしたら、「神殿を愛しているユダヤ人と日本人」でしょうか。ユダヤ人が神殿を愛していることは聖書を読めばよく分かりますし、日本人もまた神殿がある神社を愛していることも、初詣や子供が生まれた時の宮参り、そして子供が成長した時の七五三の様子からよく分かります。私自身も41歳までは静岡の浅間神社や学生時代を過ごした北海道神宮、また東京で働いていた時には明治神宮などに熱心に参拝していました。クリスチャンになってからも決して拝みはしませんが、鎮守の森がある神社の雰囲気は好きですから、たまに足を運びます。

 日本のキリスト教は欧米の宣教師によって布教されましたから、西洋人の目には神社は異教の雰囲気が漂う敬遠すべき場所と映っているかもしれません。しかし日本で生まれ育った私はクリスチャンとなり、牧師となった今でも神殿があり鎮守の森がある神社の雰囲気が好きです。そしてユダヤ人もまた神殿を愛していましたから、このことをもっと伝道に活かせないだろうかと考えています。今回の学びは、そんなことも考えながら進めて行けたらと思っています。

 さて、きょうの聖書箇所のヘブル2章14節と15節をもう一度お読みします。

14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

 きょう先ず1章ではなく2章を開いたのは、高橋先生の著書のタイトルがこの聖句からの「恐怖からの解放者イエス」であると共に、次聖日には望兄の記念礼拝があるからです。望兄は死を恐れてはいないと語っていましたから、正に信仰によって死の恐怖から解放されていたのだと思います。それはこのヘブル2章が記している通り、イエス様が「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死への恐怖の奴隷状態から私たちを解放して下さったからです。次の礼拝の招きの詞には、このヘブル2章14節と15節を引用して、メッセージの中でも望兄が死への恐怖から解放された信仰者であったことを語りたいと願っています。

 eラーニングのテキストの高橋先生の著書はつい最近出版されたばかりですから、「はじめに」には新型コロナウイルスの感染による死への恐怖が人々の間にあることが書かれています。そうして高橋先生はもう一つ、「社会的な死への恐怖」についても書いています。「社会的な死への恐怖」とは高橋先生によれば「社会から見放されることへの恐怖」です。なるほどなあと思わされました。

 日本では多数派と異なる意見を言う者は批判されたり冷遇されたりする傾向があります。そうして社会から見放されたことに絶望して自らの命を絶つことを選択する方もいます。ユダヤ人社会も異論を唱える者に寛容で無かったことが聖書から分かります。異論を唱えて冷遇されるだけならまだしも、ユダヤ人の場合には厳しい制裁がありました。イエス様はこの恐怖にも打ち勝った方であると言えるでしょう。イエス様は同胞のユダヤ人たちに十字架に付けられることを知っていながら、それを覚悟の上で抵抗せずに捕らえられました。イエス様の十字架は、この社会的な死への恐怖をも滅ぼしたと言えるでしょう。

 ですから十字架のイエス様を日本人に宣べ伝えることは、少数派に対して冷たい日本の社会の中で強く生きて行くためにも、必要なことであろうと思わされています。神殿を愛し、肉体的な死と社会的な死への恐怖に怯える日本人にイエス・キリストを宣べ伝えたいと思います。そういうことも考えながら、ヘブル書を学んで行きたいと思わされています。

 イエス様を信じる私たちは信じていなかった頃に比べれば恐怖に怯えることは少ないと思います。それでも、何かしらの恐怖に怯えることも時にはあるでしょう。そんな時は十字架の恐怖に打ち勝ち、死を滅ぼして下さったイエス様を見上げて恐怖から解放していただいて平安をいただきたいと思います。

 お祈りいたします。
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川がある光景(2020.10.1 祈り会)

2020-10-02 09:33:00 | 祈り会メッセージ
2020年10月1日祈り会メッセージ
『川がある光景』
【詩篇46篇、他】

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2 それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3 たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ
4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6 国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ
8 来て見よ。のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9 主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11 万軍のはわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ


 きょうのメッセージのタイトルは『川がある』で、中心聖句は詩篇46篇の4節と5節の前半です。4節と5節の前半をもう一回お読みします。

詩篇46:4 川がある。その豊かな流れは 神の都を喜ばせる。いと高き方のおられる その聖なる所を。
5 神はそのただ中におられ その都は揺るがない。

 詩篇46篇は、世の中が騒然としている時に、よく開かれる詩篇ですね。2011年の3月に東日本大震災があった時、当時私は神学生の3年生でしたが、出席していた神学院教会の水曜日の夜の祈祷会でこの詩篇46篇が開かれたことを覚えています。

 古い第3版の聖書に書き込んだメモを見ると、2009年の8月にも、この詩篇が開かれていました。2009年の8月と言うと、神学生の2年生の夏季実習でこの教会にお世話になっていた時で、この時、静岡で大きな地震がありました。駿府城の石垣が何ヶ所かで崩れ、また多くのお宅の屋根瓦が落ち、さらに東名高速道路でも一部区間で崩落があって何日間か通行止めになっていました。その時に高桑先生がこの箇所を開いたのですね。

 新型コロナウイルスの感染拡大で世界が騒然している今年も、この詩篇46篇が開かれていることと思います。実は先日行われた静岡教区会(Zoomによるネット会議)でも、最初のディボーションの時にこの詩篇が開かれました。

 そのメッセージを聞いていて、この詩篇は中心にある平安な都と、周辺にある騒然とした諸国との位置関係をしっかりと把握しておく必要があることを教えられました。今まで私は都と諸国とをごちゃ混ぜにしていたようです。それゆえ、この詩篇を十分に味わうことができていなかったと気付かされました。

 中心にある都には川が流れていて、そこでは神の平安が保たれています。都の周辺がどんなに騒然としていても、海の水が騒ぎ立って泡立とうとも、山々が揺れ動こうとも、国々が立ち騒いでいても、都は少しも揺るがされることなく平安が保たれています。それは、そこには神様がおられるからです。

 そうして神様は騒然としている周辺の諸国に向かって叱責します。10節ですね。

10 「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」

 騒ぐな、静まれ!と神様はおっしゃっています。そして神に立ち返るように仰せられています。戦いをやめて神様に立ち返るなら中心にある都の平安が周辺の諸国にも及びます。

 その神様がおられる都の平安が「川がある」で見事に表現されています。川があるその光景を思い浮かべる時、この詩篇を読む私たちの心にも平安が与えられます。

 きょうは、この「川がある」光景をより豊かに思い巡らすことができるように、詩篇以外から「川がある」光景を何ヶ所か分かち合いたいと思います。(あちこち開かなくて良いように、プリントにまとめました。)

 まず創世記2章9節と10節、そして14節。

創世記2:9 神であるは、その土地に、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を、そして、園の中央にいのちの木を、また善悪の知識の木を生えさせた。
10 一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。
14 第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

 エデンの園は川によって潤されていて、そこに「いのちの木」と「善悪の知識の木」が生えていたのですね。そして、この川の水はエデンの園の外に流れ出て大河となりました。その一つが第四の川のユーフラテスです。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの出身地のウルは、このユーフラテス川の流域にありました。アブラハムは、このユーフラテス川の水を飲んで育ったのですね。神様がイスラエルの救いの物語の祖先にアブラハムを選んだのは、彼がエデンの園から流れ出た川の水を飲んで育ったからかもしれませんね。
 
 次にエゼキエル書の47章を見ましょう。主はバビロンで捕囚になっていたエゼキエルに御使いを送って神殿の幻を見せました。この時、神殿はバビロン軍の攻撃によって失われていましたが、主はイスラエルの回復を約束して下さり、エゼキエルに幻を見せました。  1節の「彼」が、主から遣わされてエゼキエルに神殿の幻を見せた御使いです。

エゼキエル47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。

 この神殿を水源とする川は、下流に行くに従って水量を増していきます。そして9節、

9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 12節にあるように、神殿の聖所から流れ出た水を水源とする川は、果実を豊かに実らせます。この光景は黙示録22章の光景とそっくりです。黙示録22章もご一緒に見ましょう。

黙示録22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、
2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

 この川もまた聖所、すなわち神と子羊の御座が水源でした。この川は都の大通りの中央を流れ、その両側にはいのちの木があって実を結んでいました。

 これらエデンの園を流れていた川、エゼキエル書の神殿を水源とした川、黙示録の神と子羊の座を水源とした川を思い浮かべるなら、詩篇46篇の川の光景をより豊かにイメージできるのではないでしょうか。

 詩篇46篇に戻ります。4節と5節の前半、

詩篇46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。

 教会は、この豊かな川が流れている都です。教会の外がどんなに騒然としていても、豊かに流れる川がある教会に来るなら、神様から心の平安がいただけます。

 ただし、集会が終われば皆さんはまた騒然とした世の中に出て行かなければなりません。しかし、神様は皆さんのお一人お一人の中にも豊かに流れる川を与えて下さっています。ですから、私たちは平安でいられます。

 最後に、ヨハネの福音書7章37節から39節までを交代で読みましょう。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 イエス様を信じる私たちには御霊が与えられていますから、この生ける水の川が私たちの内を流れ、そして流れ出ます。

 ですから私たちの周囲がどんなに騒然としていても、私たちの内側では、この川が流れています。

詩篇46:4 川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5 神はそのただ中におられその都は揺るがない。

 神様がこの素晴らしい平安が与えられていることに感謝して、次の聖日の聖餐式礼拝に備えさせていただきたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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