2021年2月4日祈り会メッセージ
『生ける水の川が流れ出る信仰を育む』
【エゼキエル47:1~12】
よく説教で開かれるエゼキエル書の有名な箇所ですね。
エゼキエル書は、全体の3/4ぐらいはエルサレムやエジプトの滅亡の予告などの主の厳しいことばが続きますが、残りの1/4ほどでは滅亡後の回復の希望が語られています。47章はその回復の希望のメッセージの終盤で、豊かな川の流れの情景が描かれています。
この川の水の水源は1節にあるように神殿です。1節、
「彼」と言うのは、エゼキエルをここに連れて来た御使いで、「私」とはエゼキエルです。エゼキエルは神殿の敷居の下から水が東の方へ流れ出ているのを見ました。
神殿が水源ですから、この水は神の霊の水です。神の霊の水は豊かな流れとなって、川の両岸一帯を豊かに潤します。この川の水量は腰の高さを越えて、渡ることができないほどに豊かな流れを持ちます。そして、この水が海に注ぎ込むと、その海の水をきよくします。特に注目したいのは、9節と12節です。
神の水が流れる流域の一帯には、豊かな命があります。
いつも話している通り、健康のために私は夕方にはなるべく安倍川の河川敷をジョギングするようにしています。この安倍川の水が11月、12月、1月はずっと涸れていました。その情景を俳句にして、
という句を詠みました。ただし11月の初めの立冬の頃は
でした。冬になったばかりの頃は、荒野が出現したという感じでした。それが、11月から1月に掛けてはまとまった雨がほとんど降りませんでしたから荒野が広がって行きました。
さてしかし、今週の月曜日の夜から火曜日の朝に掛けて、かなり強い雨が降りましたから、火曜日の夕方に走った時に、安倍川に水が豊かに流れている光景を見ることができました。昨日の水曜日に走った時も、少し水量は減りましたが、まだ豊かに流れていました。上流の方でもかなりの雨が降ったのでしょうね。そして火曜日の時には濁っていた水も、水曜日には透き通っていました。きょうは走らなかったので分かりませんが、恐らく水はまた減ったのではないかなと思います。
きのうとおととい、この安倍川に水が豊かに流れている光景を見て、やっぱり水がある風景は良いなと改めて思いました。実を言うと、荒野の俳句を詠んだ時には、水が涸れた荒野の光景もそれはそれで風情があって、そんなに悪くないなと思っていました。それで、俳句にしたというわけです。
けれども、おととい安倍川に豊かな水の流れが戻っているのを見て、やっぱり荒野ではダメなんだと思いました。やっぱり水が無ければダメなんだと思いました。水が戻った安倍川の流れが緩い場所では、カモが何羽もプカプカと浮いていました。とてものどかな光景で心が癒されました。そうして流れが速い場所では水が流れる音がしていました。この水の流れる音が、耳に心地よく聞こえました。カモが戻り、水の音が戻った安倍川には豊かな命が戻って来たと感じました。
いま人々の魂の多くが渇き切っています。神の霊の水に潤されることなく、渇いた魂が水を求めてあえいでいますが、魂の領域のことは気付きにくいので、どうしたら良いか分からずに、苦しんでいます。クリスチャンであっても、魂の渇きに気付かずに苦しんでいる方々がいます。クリスチャンであれば気付いている人もいるかもしれませんが、以前の私が荒野の安倍川を見て、そんなに悪くないと思ったように、魂の渇きもそんなに悪くないと思って放置している人もいるかもしれません。でも、やっぱり、それではダメです。川も魂も本来は潤っているべきものです。このことをお伝えしていかなければなりません。
そのためには魂が潤っていることの素晴らしさを先ず私たち自身がもっと深く味わうことも必要だと思います。9節と12節を、もう一度お読みします。
この光景を、しっかりと魂に刻み込んで、この豊かさを深く味わいたいと思います。教会は、この豊かさを感じることができる場所です。教会の源流には神殿があり、そこから神の霊の水、すなわち聖霊が流れ込んでいます。その聖霊の水に私たちの魂は潤されて、豊かな御霊の実を結びます。
まだ、この恵みを知らない方々のこの豊かな水が注がれるように私も励みたいと思います。そうして皆さんと共に歩んで行きたいと思います。ただし、問題なのは水が注がれさえすれば、誰もが信仰の芽が芽生えて実を結ぶことになるとは限らないということです。
いま会堂側の駐車場でチューリップの球根が芽を出しています。去年、コスモスが咲いていた場所です。そこに去年の11月にチューリップの球根を50個植えました。1月から芽が出始めて、いま42個の球根から芽が出て成長を始めています。けれども、8個の球根からはまだ芽が出ていません。同じ日に同じ場所に植えて同じように水をやり、同じように肥料をやり、同じように陽を浴びていますが、まだ8個の球根が芽を出していません。何とか全部の球根から芽が出て欲しいと願っていますから、まだ芽が出ていない場所を見ながら、神様、この場所に植えた球根からも芽が出るようにして下さいと祈っています。
この教会に限らず、どこの教会もそうですが、教会に導かれて同じように神様の霊の水の中に浸っていながら、芽を出すことができた人と、なかなか芽が出て来ない人とがいます。芽が出ない人のためにお祈りしなければならないと思いますが、同時に、私たちの側でも、エゼキエル書47章に書いてある神の霊の水の豊かさをもっと深く味わえるようになりたいと思います。そうして、私たちの心の奥底から、生ける水の川が豊かに流れ出るようにならなければならないと思います。イエス様はおっしゃいました。
このように、私たちの心の奥底から生ける水の川が豊かに流れ出るようになりたいと思います。そうして、それと並行して、それと同時に、この教会に集う方々、そして地域の方々が信仰の芽を出すことができるように、お祈りしたいと思います。
『生ける水の川が流れ出る信仰を育む』
【エゼキエル47:1~12】
47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」
よく説教で開かれるエゼキエル書の有名な箇所ですね。
エゼキエル書は、全体の3/4ぐらいはエルサレムやエジプトの滅亡の予告などの主の厳しいことばが続きますが、残りの1/4ほどでは滅亡後の回復の希望が語られています。47章はその回復の希望のメッセージの終盤で、豊かな川の流れの情景が描かれています。
この川の水の水源は1節にあるように神殿です。1節、
1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
「彼」と言うのは、エゼキエルをここに連れて来た御使いで、「私」とはエゼキエルです。エゼキエルは神殿の敷居の下から水が東の方へ流れ出ているのを見ました。
神殿が水源ですから、この水は神の霊の水です。神の霊の水は豊かな流れとなって、川の両岸一帯を豊かに潤します。この川の水量は腰の高さを越えて、渡ることができないほどに豊かな流れを持ちます。そして、この水が海に注ぎ込むと、その海の水をきよくします。特に注目したいのは、9節と12節です。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
神の水が流れる流域の一帯には、豊かな命があります。
いつも話している通り、健康のために私は夕方にはなるべく安倍川の河川敷をジョギングするようにしています。この安倍川の水が11月、12月、1月はずっと涸れていました。その情景を俳句にして、
川涸れて安倍に広がる荒野かな
という句を詠みました。ただし11月の初めの立冬の頃は
川涸れて安倍に現わる荒野かな
でした。冬になったばかりの頃は、荒野が出現したという感じでした。それが、11月から1月に掛けてはまとまった雨がほとんど降りませんでしたから荒野が広がって行きました。
さてしかし、今週の月曜日の夜から火曜日の朝に掛けて、かなり強い雨が降りましたから、火曜日の夕方に走った時に、安倍川に水が豊かに流れている光景を見ることができました。昨日の水曜日に走った時も、少し水量は減りましたが、まだ豊かに流れていました。上流の方でもかなりの雨が降ったのでしょうね。そして火曜日の時には濁っていた水も、水曜日には透き通っていました。きょうは走らなかったので分かりませんが、恐らく水はまた減ったのではないかなと思います。
きのうとおととい、この安倍川に水が豊かに流れている光景を見て、やっぱり水がある風景は良いなと改めて思いました。実を言うと、荒野の俳句を詠んだ時には、水が涸れた荒野の光景もそれはそれで風情があって、そんなに悪くないなと思っていました。それで、俳句にしたというわけです。
けれども、おととい安倍川に豊かな水の流れが戻っているのを見て、やっぱり荒野ではダメなんだと思いました。やっぱり水が無ければダメなんだと思いました。水が戻った安倍川の流れが緩い場所では、カモが何羽もプカプカと浮いていました。とてものどかな光景で心が癒されました。そうして流れが速い場所では水が流れる音がしていました。この水の流れる音が、耳に心地よく聞こえました。カモが戻り、水の音が戻った安倍川には豊かな命が戻って来たと感じました。
いま人々の魂の多くが渇き切っています。神の霊の水に潤されることなく、渇いた魂が水を求めてあえいでいますが、魂の領域のことは気付きにくいので、どうしたら良いか分からずに、苦しんでいます。クリスチャンであっても、魂の渇きに気付かずに苦しんでいる方々がいます。クリスチャンであれば気付いている人もいるかもしれませんが、以前の私が荒野の安倍川を見て、そんなに悪くないと思ったように、魂の渇きもそんなに悪くないと思って放置している人もいるかもしれません。でも、やっぱり、それではダメです。川も魂も本来は潤っているべきものです。このことをお伝えしていかなければなりません。
そのためには魂が潤っていることの素晴らしさを先ず私たち自身がもっと深く味わうことも必要だと思います。9節と12節を、もう一度お読みします。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
この光景を、しっかりと魂に刻み込んで、この豊かさを深く味わいたいと思います。教会は、この豊かさを感じることができる場所です。教会の源流には神殿があり、そこから神の霊の水、すなわち聖霊が流れ込んでいます。その聖霊の水に私たちの魂は潤されて、豊かな御霊の実を結びます。
まだ、この恵みを知らない方々のこの豊かな水が注がれるように私も励みたいと思います。そうして皆さんと共に歩んで行きたいと思います。ただし、問題なのは水が注がれさえすれば、誰もが信仰の芽が芽生えて実を結ぶことになるとは限らないということです。
いま会堂側の駐車場でチューリップの球根が芽を出しています。去年、コスモスが咲いていた場所です。そこに去年の11月にチューリップの球根を50個植えました。1月から芽が出始めて、いま42個の球根から芽が出て成長を始めています。けれども、8個の球根からはまだ芽が出ていません。同じ日に同じ場所に植えて同じように水をやり、同じように肥料をやり、同じように陽を浴びていますが、まだ8個の球根が芽を出していません。何とか全部の球根から芽が出て欲しいと願っていますから、まだ芽が出ていない場所を見ながら、神様、この場所に植えた球根からも芽が出るようにして下さいと祈っています。
この教会に限らず、どこの教会もそうですが、教会に導かれて同じように神様の霊の水の中に浸っていながら、芽を出すことができた人と、なかなか芽が出て来ない人とがいます。芽が出ない人のためにお祈りしなければならないと思いますが、同時に、私たちの側でも、エゼキエル書47章に書いてある神の霊の水の豊かさをもっと深く味わえるようになりたいと思います。そうして、私たちの心の奥底から、生ける水の川が豊かに流れ出るようにならなければならないと思います。イエス様はおっしゃいました。
ヨハネ7:38 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
このように、私たちの心の奥底から生ける水の川が豊かに流れ出るようになりたいと思います。そうして、それと並行して、それと同時に、この教会に集う方々、そして地域の方々が信仰の芽を出すことができるように、お祈りしたいと思います。