2020年5月7日祈り会メッセージ
『イエスさまと同じ方向を向いて祈りたい』
【ヨハネ17:20~22】
はじめに
5月4日の月曜日に不思議な体験をしました。○さんのお宅に行って中に入れていただいたら、そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵の大きな複製が壁に掲げてありました。聖餐式を行いたいと思ってパンとぶどう液と聖餐カップを持参していましたから、偶然にもダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵によって、その場が整えられていたことに驚くとともに、とても感謝に思いました。
その日の午前は教会の皆さんに郵送・手渡しする印刷物の印刷・封筒詰めと宛名ラベル貼りを行い、午後は○さんのお宅で聖餐式を行い、その後は何軒かのお宅へ印刷物を届けて近況の立ち話をして回り、忙しく過ごしましたから早々に寝ました。すると、夜中に目が覚めて、○さんのお宅の「最後の晩餐」の絵が私の中で鮮明によみがえり、その中心にいるイエスさまから多くの語り掛けをいただきました。そして、イエスさまが○さんを用いて多くのことを私に語って下さったことを、とても感謝に思いました。
人を通して語り掛けて下さるイエスさま
イエスさまは「聖書」を通してはもちろん、地上にいる「人」をも用いて、私たちに様々なことを語り掛けて下さいます。私はそういう経験を何度もしています。高津教会に通っていた時は高津の方々を通して、神学生の時には実習先の教会の方々を通して、また牧師になってからは牧会している教会の方々を通してイエスさまは私に語り掛けて下さいました。
私が初めて高津教会を訪れたのは2001年の8月12日でした。その日のことを私は鮮明に覚えています。その日、受付の兄弟がにこやかに迎えて下さり、帰り際には別の兄弟が親しげに話し掛けて下さいました。後からその日のことを思い出すと、あの時はイエスさまが受付の◇さんを通して「よく来ましたね」と語り掛けて下さったんだな、帰り際には□さんを通して、「また来て下さいね」と話し掛けて下さったのだと今では思っています。
神学校の1年生の時は、寮の厳しい外出制限に私は苦しんでいました。その時は神学院教会の方々を通して、イエスさまは私を励まして下さいました。
吸収された沼津教会の牧師をしていた時は、何とかして教会を存続させたい、それが叶わない場合でも自分たちで教会を畳んで財産を処分したいと、その方法を教会の皆さんと模索しましたが、その道は閉ざされていきました。牧師不足のため教会の存続は難しい、そのこと自体を受け入れるのにも時間が掛かりました。また、それを受け入れて以降も、せめて自分たちで教会を畳んで財産を処分したいと思いました。
しかし、それすらも難しいことが分かって来た時、教会の皆さんが「先生、もういいですよ」と言って下さいました。その時点で私は沼津教会に5年間いたに過ぎません。一方、教会の方々は何十年間も沼津教会にいました。5年しかいない私でもつらかったのに、何十年もいた教会の皆さんは本当につらかったと思います。それなのに、「先生、もういいですよ」と言って下さいました。この時の私は、意地とプライドだけで頑張っていたのかもしれません。そんな私に、イエスさまは沼津教会の方々を通して語って下さったのだと思います。
そして今回、○さんを用いてイエスさまはヨハネ13~17章の「最後の晩餐」のメッセージの大切さを私に語り掛けて下さっていると感じています。ヨハネ13~17章の「最後の晩餐」でイエスさまは、p.211からp.221まで11ページに亘って弟子たちにとても大切なことを教えています。ここにはキリスト教の教えのエッセンスがぎっしりと詰まっています。ここから、月曜日から火曜日に掛けての夜にイエスさまから多くの語り掛けをいただきました。きょうは、その中の一つを皆さんと分かち合いたいと思います。
イエスさまと同じ方向を向きたい
それは、私はイエスさまと同じ方向を向くことをもっと意識すべきだろうということです。人と人とが出会う時は、先ずは互いに向き合うことから始まるでしょう。そうして、お互いのことを理解することから始めます。友達関係、男女の恋愛、夫婦関係、どれも大抵の場合はそうだろうと思います。先ずはお互いが向き合う形で関係を深めて行きますが、次の段階として同じ方向を向いて共に歩んで行くことも、大切なことだろうと思います。
場合によっては、同じ方向を向いている者同士が知り合って、その次に互いに向き合うようになることもあると思いますが、その場合でも二人は再び同じ方向に向かって歩んで行くことが大切だろうと思います。
イエスさまとの関係も、同じだろうと思います。イエスさまは弱い人々の方を向いて慰め、励まして下さいます。私たちもまた弱い者ですから、イエスさまは私たちに向かって慰め、励まして下さいます。本当に感謝なことです。
しかし、その恵みを十分にいただいたなら、今度は自分もイエスさまと同じ方向を見て、イエスさまと同じ働きをしなければならないと思います。私たちは周囲の方々にイエスさまを信じていただきたいと願っています。その時、イエスさまはこういう恵みを下さるお方なんだと、自分がイエスさまから受ける恵みについて語ろうとします。しかし、それはなかなか伝わりません。一方、自分がイエスさまと同じ方向を向いて弱い方々を慰め、励ますなら、もっと伝わるでしょう。私はそれがなかなかできません。皆さんの多くはそれが無意識のうちに出来ているのだと思いますが、私は意識しないとそれができません。ですから、あまり意識しないでイエスさまのようになれたら良いなと、これまでは思っていました。
イエスさまと同じ方向を向いて、共に天の御父に祈りたい
しかし今示されていることは、無意識でなく、もっともっと意識しても良いのではないかということです。それは、イエスさまと同じ方向を向くことを意識するなら、祈りが、もっと力強い祈りになるのではないかと思うからです。
これまで私は祈る時、自分の方を向いているイエスさまを思い浮かべがちでした。しかし、そうではなくて、天の父にお祈りするイエスさまと同じ方向を向いて、イエスさまと一緒に天の父に祈るなら、もっと強い祈りになるのではないかと示されています。
ヨハネの福音書の最後の晩餐のイエスさまも17章で天の父に祈っています。もう一度、17章20節から22節までを、交代で読みたいと思います。
イエスさまは天の御父と一つ(ヨハネ10:30)のお方です。そのイエスさまが、私たちも同じように御父とイエスさまと一つになり、御父と御子との交わり(第一ヨハネ1:3)の中に入るように、祈って下さっています。そのように私たちが御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入るなら、天の御父のことをもっと身近に感じるようになるでしょう。すると、私たちの祈りは、より強力になるのだろうと思います。
イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました(マタイ27:51他)。そうして私たちは天の父の恵みの御座に大胆に近づく(ヘブル4:16)ことが許されるようになりました。それまでは垂れ幕の内側に入ることが許されていたのは大祭司のみで、しかも年に1回だけのことでした。しかし、神殿の垂れ幕が裂けて以降は、イエスさまを信じる者は誰でも、そしていつでも天の御父に近づけるようになりました。そうしてヘブル人への手紙の記者は私たちにこのように語り掛けます。
ですから私たちはイエスさまと同じ方向を向いて、イエスさまと一緒に大胆に聖所に入って天の御父に近づいてお祈りしたいと思います。
おわりに
もしイエスさまと同じ方向を向くのでなく、こちらを向いているイエスさまばかりを思い浮かべるのなら、私たちにとって天の父はいつまでも遠い存在であり続けるのではないでしょうか。
そうではなくて、イエスさまと同じ方向を向いて天の父に大胆に近づいて御父と御子との交わりの中に入れていただきたいと思います。そうしてイエスさまと共に天の御父に祈りたいと思います。
お祈りいたします。
『イエスさまと同じ方向を向いて祈りたい』
【ヨハネ17:20~22】
17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
はじめに
5月4日の月曜日に不思議な体験をしました。○さんのお宅に行って中に入れていただいたら、そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」の絵の大きな複製が壁に掲げてありました。聖餐式を行いたいと思ってパンとぶどう液と聖餐カップを持参していましたから、偶然にもダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵によって、その場が整えられていたことに驚くとともに、とても感謝に思いました。
その日の午前は教会の皆さんに郵送・手渡しする印刷物の印刷・封筒詰めと宛名ラベル貼りを行い、午後は○さんのお宅で聖餐式を行い、その後は何軒かのお宅へ印刷物を届けて近況の立ち話をして回り、忙しく過ごしましたから早々に寝ました。すると、夜中に目が覚めて、○さんのお宅の「最後の晩餐」の絵が私の中で鮮明によみがえり、その中心にいるイエスさまから多くの語り掛けをいただきました。そして、イエスさまが○さんを用いて多くのことを私に語って下さったことを、とても感謝に思いました。
人を通して語り掛けて下さるイエスさま
イエスさまは「聖書」を通してはもちろん、地上にいる「人」をも用いて、私たちに様々なことを語り掛けて下さいます。私はそういう経験を何度もしています。高津教会に通っていた時は高津の方々を通して、神学生の時には実習先の教会の方々を通して、また牧師になってからは牧会している教会の方々を通してイエスさまは私に語り掛けて下さいました。
私が初めて高津教会を訪れたのは2001年の8月12日でした。その日のことを私は鮮明に覚えています。その日、受付の兄弟がにこやかに迎えて下さり、帰り際には別の兄弟が親しげに話し掛けて下さいました。後からその日のことを思い出すと、あの時はイエスさまが受付の◇さんを通して「よく来ましたね」と語り掛けて下さったんだな、帰り際には□さんを通して、「また来て下さいね」と話し掛けて下さったのだと今では思っています。
神学校の1年生の時は、寮の厳しい外出制限に私は苦しんでいました。その時は神学院教会の方々を通して、イエスさまは私を励まして下さいました。
吸収された沼津教会の牧師をしていた時は、何とかして教会を存続させたい、それが叶わない場合でも自分たちで教会を畳んで財産を処分したいと、その方法を教会の皆さんと模索しましたが、その道は閉ざされていきました。牧師不足のため教会の存続は難しい、そのこと自体を受け入れるのにも時間が掛かりました。また、それを受け入れて以降も、せめて自分たちで教会を畳んで財産を処分したいと思いました。
しかし、それすらも難しいことが分かって来た時、教会の皆さんが「先生、もういいですよ」と言って下さいました。その時点で私は沼津教会に5年間いたに過ぎません。一方、教会の方々は何十年間も沼津教会にいました。5年しかいない私でもつらかったのに、何十年もいた教会の皆さんは本当につらかったと思います。それなのに、「先生、もういいですよ」と言って下さいました。この時の私は、意地とプライドだけで頑張っていたのかもしれません。そんな私に、イエスさまは沼津教会の方々を通して語って下さったのだと思います。
そして今回、○さんを用いてイエスさまはヨハネ13~17章の「最後の晩餐」のメッセージの大切さを私に語り掛けて下さっていると感じています。ヨハネ13~17章の「最後の晩餐」でイエスさまは、p.211からp.221まで11ページに亘って弟子たちにとても大切なことを教えています。ここにはキリスト教の教えのエッセンスがぎっしりと詰まっています。ここから、月曜日から火曜日に掛けての夜にイエスさまから多くの語り掛けをいただきました。きょうは、その中の一つを皆さんと分かち合いたいと思います。
イエスさまと同じ方向を向きたい
それは、私はイエスさまと同じ方向を向くことをもっと意識すべきだろうということです。人と人とが出会う時は、先ずは互いに向き合うことから始まるでしょう。そうして、お互いのことを理解することから始めます。友達関係、男女の恋愛、夫婦関係、どれも大抵の場合はそうだろうと思います。先ずはお互いが向き合う形で関係を深めて行きますが、次の段階として同じ方向を向いて共に歩んで行くことも、大切なことだろうと思います。
場合によっては、同じ方向を向いている者同士が知り合って、その次に互いに向き合うようになることもあると思いますが、その場合でも二人は再び同じ方向に向かって歩んで行くことが大切だろうと思います。
イエスさまとの関係も、同じだろうと思います。イエスさまは弱い人々の方を向いて慰め、励まして下さいます。私たちもまた弱い者ですから、イエスさまは私たちに向かって慰め、励まして下さいます。本当に感謝なことです。
しかし、その恵みを十分にいただいたなら、今度は自分もイエスさまと同じ方向を見て、イエスさまと同じ働きをしなければならないと思います。私たちは周囲の方々にイエスさまを信じていただきたいと願っています。その時、イエスさまはこういう恵みを下さるお方なんだと、自分がイエスさまから受ける恵みについて語ろうとします。しかし、それはなかなか伝わりません。一方、自分がイエスさまと同じ方向を向いて弱い方々を慰め、励ますなら、もっと伝わるでしょう。私はそれがなかなかできません。皆さんの多くはそれが無意識のうちに出来ているのだと思いますが、私は意識しないとそれができません。ですから、あまり意識しないでイエスさまのようになれたら良いなと、これまでは思っていました。
イエスさまと同じ方向を向いて、共に天の御父に祈りたい
しかし今示されていることは、無意識でなく、もっともっと意識しても良いのではないかということです。それは、イエスさまと同じ方向を向くことを意識するなら、祈りが、もっと力強い祈りになるのではないかと思うからです。
これまで私は祈る時、自分の方を向いているイエスさまを思い浮かべがちでした。しかし、そうではなくて、天の父にお祈りするイエスさまと同じ方向を向いて、イエスさまと一緒に天の父に祈るなら、もっと強い祈りになるのではないかと示されています。
ヨハネの福音書の最後の晩餐のイエスさまも17章で天の父に祈っています。もう一度、17章20節から22節までを、交代で読みたいと思います。
17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。
17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
イエスさまは天の御父と一つ(ヨハネ10:30)のお方です。そのイエスさまが、私たちも同じように御父とイエスさまと一つになり、御父と御子との交わり(第一ヨハネ1:3)の中に入るように、祈って下さっています。そのように私たちが御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入るなら、天の御父のことをもっと身近に感じるようになるでしょう。すると、私たちの祈りは、より強力になるのだろうと思います。
イエスさまが十字架で死んだ時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けました(マタイ27:51他)。そうして私たちは天の父の恵みの御座に大胆に近づく(ヘブル4:16)ことが許されるようになりました。それまでは垂れ幕の内側に入ることが許されていたのは大祭司のみで、しかも年に1回だけのことでした。しかし、神殿の垂れ幕が裂けて以降は、イエスさまを信じる者は誰でも、そしていつでも天の御父に近づけるようになりました。そうしてヘブル人への手紙の記者は私たちにこのように語り掛けます。
10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。
ですから私たちはイエスさまと同じ方向を向いて、イエスさまと一緒に大胆に聖所に入って天の御父に近づいてお祈りしたいと思います。
おわりに
もしイエスさまと同じ方向を向くのでなく、こちらを向いているイエスさまばかりを思い浮かべるのなら、私たちにとって天の父はいつまでも遠い存在であり続けるのではないでしょうか。
そうではなくて、イエスさまと同じ方向を向いて天の父に大胆に近づいて御父と御子との交わりの中に入れていただきたいと思います。そうしてイエスさまと共に天の御父に祈りたいと思います。
お祈りいたします。
17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。