2021年1月21日祈り会メッセージ
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
【イザヤ43:1~4】
今年1月からの祈り会ではこれまでイザヤ書の40章と42章を開きました。きょうは43章です。
4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い」は、よく引用されるとても有名なみことばですね。神様は私たちのことを「あなた」と呼んで、「愛している」と、おっしゃって下さっています。この「あなた」は、私個人であると同時に、この教会という共同体でもあるでしょう。1節にヤコブよ、イスラエルよ、とあります。ヤコブは個人であり、イスラエルは共同体です。ですから神様は私たち一人一人に「わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっていると同時に、この教会も愛して下さっています。
まずは、私個人への愛について、神様はどのようにおっしゃっているでしょうか。
「わたしはあなたを愛している」とおっしゃる神様は、どのくらい私を愛して下さっているのでしょうか。神様はイエス様を代価として支払って、私を買い取って下さったほどに私を愛して下さっています。そうして代価として支払われたイエス様は私の代わりに十字架に付けられました。1節に、「わたしがあなたを贖った」とあります。贖ったとは買い取ったということですね。そして4節には、「わたしは人をあなたの代わりにし」とあります。この人とはイエス様です。神様は私の代わりにイエス様を代価として支払い、私を買い取って下さいました。そうして私は1節の終わりに「あなたはわたしのもの」とあるように、神様のものになりました。
こんな価値のない私のために、どうしてそこまでして下さるのかと思いますが、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃいます。神様の目には私は高価で尊いからイエス様を代価にして買い取ったのだとおっしゃいます。
1節に「ヤコブよ、あなたを創造した方」とあるように、神様は私を造って下さいました。創世記の1章の終わりには、このように書かれていますね。
私たちはもともと、非常に良いものとして造られました。だから、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。けれども私たちは、自分がそんなに高価で尊い者であるとは、とても思えませんね。罪で汚れた私に価値があるとは、とうてい思えません。
それなのに、神様は「あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。このことを、どう考えたら良いのでしょうか?
こんな風に考えたらどうかと思いました。私は5円玉や10円玉のような銅貨であると考えるのです。
普段私たちが目にする5円玉や10円玉のほとんどは手垢などで汚れています。しかし、お酢などの酸に浸してあげるとピカピカになります。このように銅貨はもともと造られた時は、ピカピカだったんですね。
オリンピックのメダルは金・銀・銅の順で、銅は三番目だからあまり価値が無いように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。いま銅のケーブルの盗難が大きな問題になっています。例えば太陽光発電を大規模に行うメガソーラーでは、送電用に銅のケーブルを使っていて、メガソーラーの施設は大抵は人目に付かない郊外にありますから、盗難の被害に遭いやすいのだそうです。盗まれるのは銅が高値で売れる高価なものだからです。特に電力用のケーブルは電気抵抗が少ない純度の高い銅が使われているので、高く売れるのだそうです。
逆に言えば、不純物がたくさん混じっている銅は、それほど高価ではないということないんですね。これは私たちも同じでしょう。私たちの内部には罪の不純物がたくさんあります。クリスチャンの私たちは自分でそのことを知っています。だから自分が高価だとは思いません。しかし、神様は造ったばかりの非常に良かった時の人間を知っていますから、高価で尊いとおっしゃって下さいます。そうして、最も高価なイエス様を代価として支払って私たちを買い取って下さり、聖霊によって不純物だらけの私たちの内部をきよめて、純度の高い高価なものに戻して下さいます。
このことができるのは、私たちを造って下さった神様だけです。自分で自分をきよめようとしてもできません。もちろん、他の人もできません。私をきよめることができるのは、私を造って下さった神様だけです。
そんな神様は私たちを守って下さるお方でもあります。2節、
買い取られた私たちには、神様がいつも共にいて下さいます。ですから、決して滅びることがありません。川を渡るときも押し流されず、火の中を歩いても焼かれません。これは永遠の命が与えられているということでしょう。イエス様を信じた私たちは聖霊を受けて永遠の命が与えられます。ですから、決して滅びることはありません。これは霊的な話です。
このようにして私たちを買い取って救い出し、守って下さり、きよめて下さる神様の深い愛に感謝して、私たちは礼拝を捧げます。一人一人が神様に感謝することも大切ですが、私たち一人一人では小さな感謝しかできません。それが皆が集まれば、感謝の気持ちをもっと大きく表すことができます。そうして神様は、礼拝する共同体としての教会を愛して下さいます。
私は神学生の時に、礼拝を捧げる時の共同体としての教会を神様が愛して下さっていると感じた瞬間が何度かありました。神学生の時、実習で派遣された教会では、会衆の一人として礼拝に参加することは少なくて、与えられた奉仕をしながら、少し離れた位置で会衆全体を見渡しながら礼拝に参加することが多かったです。特に大きな教会ではそうでした。そうして礼拝する教会の皆さん全体を見渡している時に、神様が教会を愛して下さっていることを感じたことが何度かありました。会衆全体が礼拝を通して神様に感謝していて、そのことを神様が喜び、教会を愛して下さっていることを感じました。
ですから私たちは、一回一回の礼拝を大切にしたいと思います。そのために、野田秀先生の著書の『礼拝のこころえ』に書いてある大切なことを、これから週報に少しずつ抜き書きして週報で連載して行きたいと思います。
神様は私たちの一人一人を愛し、また教会を愛して下さっていますから、その愛に感謝して応答して、礼拝の始めから終わりまで、神様のほうを向いて礼拝を捧げたいと思います。
そして神様は、共同体としての教会に対しても「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さっているのだと思います。では教会が高価で尊いとは、どういうことでしょうか?
教会はキリストの体ですから、それだけでも高価で尊いと言えます。そして、パウロは教会員の一人一人は器官であると言っています。教会員はそれぞれの賜物に応じて奉仕をします。それらは皆、無償で行われます。牧師は給料をいただいていますが、皆さんは無償で奉仕を行って下さっています。これは、とても高価で尊いことです。
皆さんは神様の愛に感謝して多くのものを献げて下さり、また時間も献げて教会のために奉仕して下さいます。そのような教会員がたくさんいるこの教会のことを神様は喜んで下さり、愛して下さっています。教会っていいなあと思います。このように教会は神様の愛の中で交わりを持っている共同体です。若い方々に、このことをもっと感じてもらえたらと思います。教会は単に人が交わる場所ではなくて、私たちを愛して下さっている神様と交わる中で人とも交わる場所であることを、もっと感じてもらいたいなと思います。
神様は罪深い私たちをイエス様を代価として支払い、買い取って罪の中から救い出して下さいました。そうして聖霊によってきよめて下さり、純度が高くて価値の高いものへと戻して下さいます。たとえ自分で自分を低く評価していたとしても、神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっています。様々なことがあって疲れ、自信を失いかけている時でも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃり、励まして下さいます。
この神様の励ましに、心一杯感謝しながら、週の後半も歩んで行きたいと思います。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
【イザヤ43:1~4】
イザヤ43:1 だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。
2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
3 わたしはあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする。
今年1月からの祈り会ではこれまでイザヤ書の40章と42章を開きました。きょうは43章です。
4節の「わたしの目には、あなたは高価で尊い」は、よく引用されるとても有名なみことばですね。神様は私たちのことを「あなた」と呼んで、「愛している」と、おっしゃって下さっています。この「あなた」は、私個人であると同時に、この教会という共同体でもあるでしょう。1節にヤコブよ、イスラエルよ、とあります。ヤコブは個人であり、イスラエルは共同体です。ですから神様は私たち一人一人に「わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっていると同時に、この教会も愛して下さっています。
まずは、私個人への愛について、神様はどのようにおっしゃっているでしょうか。
「わたしはあなたを愛している」とおっしゃる神様は、どのくらい私を愛して下さっているのでしょうか。神様はイエス様を代価として支払って、私を買い取って下さったほどに私を愛して下さっています。そうして代価として支払われたイエス様は私の代わりに十字架に付けられました。1節に、「わたしがあなたを贖った」とあります。贖ったとは買い取ったということですね。そして4節には、「わたしは人をあなたの代わりにし」とあります。この人とはイエス様です。神様は私の代わりにイエス様を代価として支払い、私を買い取って下さいました。そうして私は1節の終わりに「あなたはわたしのもの」とあるように、神様のものになりました。
こんな価値のない私のために、どうしてそこまでして下さるのかと思いますが、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃいます。神様の目には私は高価で尊いからイエス様を代価にして買い取ったのだとおっしゃいます。
1節に「ヤコブよ、あなたを創造した方」とあるように、神様は私を造って下さいました。創世記の1章の終わりには、このように書かれていますね。
創世記1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。
私たちはもともと、非常に良いものとして造られました。だから、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。けれども私たちは、自分がそんなに高価で尊い者であるとは、とても思えませんね。罪で汚れた私に価値があるとは、とうてい思えません。
それなのに、神様は「あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さいます。このことを、どう考えたら良いのでしょうか?
こんな風に考えたらどうかと思いました。私は5円玉や10円玉のような銅貨であると考えるのです。
普段私たちが目にする5円玉や10円玉のほとんどは手垢などで汚れています。しかし、お酢などの酸に浸してあげるとピカピカになります。このように銅貨はもともと造られた時は、ピカピカだったんですね。
オリンピックのメダルは金・銀・銅の順で、銅は三番目だからあまり価値が無いように思えるかもしれませんが、そんなことはありません。いま銅のケーブルの盗難が大きな問題になっています。例えば太陽光発電を大規模に行うメガソーラーでは、送電用に銅のケーブルを使っていて、メガソーラーの施設は大抵は人目に付かない郊外にありますから、盗難の被害に遭いやすいのだそうです。盗まれるのは銅が高値で売れる高価なものだからです。特に電力用のケーブルは電気抵抗が少ない純度の高い銅が使われているので、高く売れるのだそうです。
逆に言えば、不純物がたくさん混じっている銅は、それほど高価ではないということないんですね。これは私たちも同じでしょう。私たちの内部には罪の不純物がたくさんあります。クリスチャンの私たちは自分でそのことを知っています。だから自分が高価だとは思いません。しかし、神様は造ったばかりの非常に良かった時の人間を知っていますから、高価で尊いとおっしゃって下さいます。そうして、最も高価なイエス様を代価として支払って私たちを買い取って下さり、聖霊によって不純物だらけの私たちの内部をきよめて、純度の高い高価なものに戻して下さいます。
このことができるのは、私たちを造って下さった神様だけです。自分で自分をきよめようとしてもできません。もちろん、他の人もできません。私をきよめることができるのは、私を造って下さった神様だけです。
そんな神様は私たちを守って下さるお方でもあります。2節、
2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
買い取られた私たちには、神様がいつも共にいて下さいます。ですから、決して滅びることがありません。川を渡るときも押し流されず、火の中を歩いても焼かれません。これは永遠の命が与えられているということでしょう。イエス様を信じた私たちは聖霊を受けて永遠の命が与えられます。ですから、決して滅びることはありません。これは霊的な話です。
このようにして私たちを買い取って救い出し、守って下さり、きよめて下さる神様の深い愛に感謝して、私たちは礼拝を捧げます。一人一人が神様に感謝することも大切ですが、私たち一人一人では小さな感謝しかできません。それが皆が集まれば、感謝の気持ちをもっと大きく表すことができます。そうして神様は、礼拝する共同体としての教会を愛して下さいます。
私は神学生の時に、礼拝を捧げる時の共同体としての教会を神様が愛して下さっていると感じた瞬間が何度かありました。神学生の時、実習で派遣された教会では、会衆の一人として礼拝に参加することは少なくて、与えられた奉仕をしながら、少し離れた位置で会衆全体を見渡しながら礼拝に参加することが多かったです。特に大きな教会ではそうでした。そうして礼拝する教会の皆さん全体を見渡している時に、神様が教会を愛して下さっていることを感じたことが何度かありました。会衆全体が礼拝を通して神様に感謝していて、そのことを神様が喜び、教会を愛して下さっていることを感じました。
ですから私たちは、一回一回の礼拝を大切にしたいと思います。そのために、野田秀先生の著書の『礼拝のこころえ』に書いてある大切なことを、これから週報に少しずつ抜き書きして週報で連載して行きたいと思います。
神様は私たちの一人一人を愛し、また教会を愛して下さっていますから、その愛に感謝して応答して、礼拝の始めから終わりまで、神様のほうを向いて礼拝を捧げたいと思います。
そして神様は、共同体としての教会に対しても「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃって下さっているのだと思います。では教会が高価で尊いとは、どういうことでしょうか?
教会はキリストの体ですから、それだけでも高価で尊いと言えます。そして、パウロは教会員の一人一人は器官であると言っています。教会員はそれぞれの賜物に応じて奉仕をします。それらは皆、無償で行われます。牧師は給料をいただいていますが、皆さんは無償で奉仕を行って下さっています。これは、とても高価で尊いことです。
皆さんは神様の愛に感謝して多くのものを献げて下さり、また時間も献げて教会のために奉仕して下さいます。そのような教会員がたくさんいるこの教会のことを神様は喜んで下さり、愛して下さっています。教会っていいなあと思います。このように教会は神様の愛の中で交わりを持っている共同体です。若い方々に、このことをもっと感じてもらえたらと思います。教会は単に人が交わる場所ではなくて、私たちを愛して下さっている神様と交わる中で人とも交わる場所であることを、もっと感じてもらいたいなと思います。
神様は罪深い私たちをイエス様を代価として支払い、買い取って罪の中から救い出して下さいました。そうして聖霊によってきよめて下さり、純度が高くて価値の高いものへと戻して下さいます。たとえ自分で自分を低く評価していたとしても、神様は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃって下さっています。様々なことがあって疲れ、自信を失いかけている時でも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」とおっしゃり、励まして下さいます。
この神様の励ましに、心一杯感謝しながら、週の後半も歩んで行きたいと思います。