2021年6月17日祈り会メッセージ
『主は小さな者を大きく用いる』
【Ⅰサムエル9:15~17、21】
今週からZoomを利用して、ご自宅からでも祈り会に参加していただけるようにしました。
いま木曜夜の祈祷会では、旧約聖書のサムエル記第一を最初から学んでいます。サムエルというのは、ダビデに油を注いだ預言者です。ただしダビデはイスラエルの2番目の王様です。ダビデの前にはサウルという王様がいました。祈祷会のサムエル記の学びでは、これからしばらくはサウルを見て行きます。
きょう開いた9章の場面は、預言者サムエルが初めてサウルに出会う場面です。先回りして話しておくと、この後サムエルは10章の1節でサウルに油を注ぎます。10章1節をお読みします。
こうして、サウルはイスラエルの初代の王様になりました。先ほど言ったように、今さっき読んだ9章15節からの箇所はサムエルが初めてサウルに会った場面です。15節と16節、
サウルはベニヤミン族に属していました。ベニヤミンは創世記に出て来るヨセフの弟で、ヤコブの12人の息子たちの中では一番末の弟でした。ヤコブはこのベニヤミンをとてもかわいがり、大事にしていたことが創世記には書かれていましたね。
ベニヤミン族はイスラエル十二部族の中では一番小さな部族でした。民数記の時代も人数が少なかったのですが、士師記の時代にイスラエルの国内で内戦があって、ベニヤミン族は危うく滅亡するところでした。この内戦のことは士師記の一番おしまいの方に書かれています。ベニヤミン族が滅びなかったのは主の憐れみなのでしょう。そういうわけで、ベニヤミン族は元々少なかったのが、内戦によってさらに小さくなってしまっていました。続いて17節、
こうしてサムエルはサウルに会い、彼こそが全イスラエルが望んでいる王になるべき者であることを告げます。これを聞いてサウルはサムエルに言いました。21節です。
サウルはとても戸惑っていました。サウルは小さなベニヤミン族の中でもさらに小さな家の出身ということで、とても自分がイスラエル全体を王として率いることができるとは思えませんでした。そして、結局この最初の戸惑いがずっと最後まで尾を引いて、サウルは王様としての自覚を十分に持てずにいて、やがて主とサムエルを失望させます。そうしてサウルは見限られてダビデに油が注がれることになりました。主はどうしてこんなサウルを王にしたのか、聖書を読む私たちも大いに戸惑いますね。
しかし考えてみると、主は大抵の場合、小さな者を大きく用いようとされます。ダビデもまた、エッサイの息子たちの中では一番末の弟でした。イエス様の母親のマリアもナザレという田舎町の小さな女性でした。ペテロも北のガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。パウロの場合はローマの市民権を持つ裕福な階級の出身ですから、皆が皆、小さな者たちであったわけではありませんが、主は多くの場合、小さな者を大きく用いようとされます。
それゆえ小さな者は最初は皆、大いに戸惑います。それでもどこかで気持ちを切り替えて、主にすべてをお委ねして大きく用いられる道を歩んで行くんですね。しかし、サウルの場合は、その切り替えが上手くできませんでした。サウルの人生は失敗であったことになります。
このように旧約聖書に書かれていることの多くは、イスラエルの人々の失敗例です。そして私たちはその失敗例から学びます。もしサウルから何かを学ぶとしたら、謙遜になり過ぎて卑屈になってはいけない、ということではないでしょうか。傲慢であってはなりませんから、謙遜であることはとても大切なことです。でも自分は小さい者だ、小さい者だと思い過ぎて、あまりに自分を小さくしていると、卑屈になってしまいます。
「卑屈」という言葉についてネットで調べたら、こんなことが書いてありました。
サウル王は、謙遜ではなくて、卑屈になっていたように思います。これでは王様として人々の上に立つのは難しいことです。
私たちもまた、小さな者たちです。力もありません。でも、主は小さな者を大きく用いる方であることも、覚えておきたいと思います。そして、主が大きく用いようとしている時には、自分は小さい者だと思い過ぎてはいけないことも覚えておきたいと思います。
この教会では4年半前に、隣の土地を取得して駐車場にしました。そして、土地取得のために借りたお金の全額が今月で返済可能になりました。主がすべての必要を満たして下さいました。これはすごいことだと思います。
私たちの教会は小さな教会ですが、主が大きく用いようとしているのかもしれません。きょうZoom祈祷会を始めることになったことも、その小さな始めの一歩なのかもしれません。
ダビデもマリアもペテロも小さな者でした。その小さな者たちを主は大きく用いました。主が小さな私たちの教会をどのように用いようと為さっているのか、私たちには分かりませんが、サウルのように「自分は小さい」と思い過ぎることなく、主にすべてをお委ねして、主に用いられやすい者となって、主と共に歩んで行きたいと思います。
お祈りしましょう。
『主は小さな者を大きく用いる』
【Ⅰサムエル9:15~17、21】
Ⅰサムエル9:15 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
17 サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」
21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
17 サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」
21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」
今週からZoomを利用して、ご自宅からでも祈り会に参加していただけるようにしました。
いま木曜夜の祈祷会では、旧約聖書のサムエル記第一を最初から学んでいます。サムエルというのは、ダビデに油を注いだ預言者です。ただしダビデはイスラエルの2番目の王様です。ダビデの前にはサウルという王様がいました。祈祷会のサムエル記の学びでは、これからしばらくはサウルを見て行きます。
きょう開いた9章の場面は、預言者サムエルが初めてサウルに出会う場面です。先回りして話しておくと、この後サムエルは10章の1節でサウルに油を注ぎます。10章1節をお読みします。
10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。
こうして、サウルはイスラエルの初代の王様になりました。先ほど言ったように、今さっき読んだ9章15節からの箇所はサムエルが初めてサウルに会った場面です。15節と16節、
9:15 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
サウルはベニヤミン族に属していました。ベニヤミンは創世記に出て来るヨセフの弟で、ヤコブの12人の息子たちの中では一番末の弟でした。ヤコブはこのベニヤミンをとてもかわいがり、大事にしていたことが創世記には書かれていましたね。
ベニヤミン族はイスラエル十二部族の中では一番小さな部族でした。民数記の時代も人数が少なかったのですが、士師記の時代にイスラエルの国内で内戦があって、ベニヤミン族は危うく滅亡するところでした。この内戦のことは士師記の一番おしまいの方に書かれています。ベニヤミン族が滅びなかったのは主の憐れみなのでしょう。そういうわけで、ベニヤミン族は元々少なかったのが、内戦によってさらに小さくなってしまっていました。続いて17節、
17 サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」
こうしてサムエルはサウルに会い、彼こそが全イスラエルが望んでいる王になるべき者であることを告げます。これを聞いてサウルはサムエルに言いました。21節です。
21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」
サウルはとても戸惑っていました。サウルは小さなベニヤミン族の中でもさらに小さな家の出身ということで、とても自分がイスラエル全体を王として率いることができるとは思えませんでした。そして、結局この最初の戸惑いがずっと最後まで尾を引いて、サウルは王様としての自覚を十分に持てずにいて、やがて主とサムエルを失望させます。そうしてサウルは見限られてダビデに油が注がれることになりました。主はどうしてこんなサウルを王にしたのか、聖書を読む私たちも大いに戸惑いますね。
しかし考えてみると、主は大抵の場合、小さな者を大きく用いようとされます。ダビデもまた、エッサイの息子たちの中では一番末の弟でした。イエス様の母親のマリアもナザレという田舎町の小さな女性でした。ペテロも北のガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。パウロの場合はローマの市民権を持つ裕福な階級の出身ですから、皆が皆、小さな者たちであったわけではありませんが、主は多くの場合、小さな者を大きく用いようとされます。
それゆえ小さな者は最初は皆、大いに戸惑います。それでもどこかで気持ちを切り替えて、主にすべてをお委ねして大きく用いられる道を歩んで行くんですね。しかし、サウルの場合は、その切り替えが上手くできませんでした。サウルの人生は失敗であったことになります。
このように旧約聖書に書かれていることの多くは、イスラエルの人々の失敗例です。そして私たちはその失敗例から学びます。もしサウルから何かを学ぶとしたら、謙遜になり過ぎて卑屈になってはいけない、ということではないでしょうか。傲慢であってはなりませんから、謙遜であることはとても大切なことです。でも自分は小さい者だ、小さい者だと思い過ぎて、あまりに自分を小さくしていると、卑屈になってしまいます。
「卑屈」という言葉についてネットで調べたら、こんなことが書いてありました。
「卑屈」は、「必要以上に自分を下げること」や「いじける様子」を表す言葉です。「軽蔑する」または「さげすむ」の意味がある「卑しめる」と、「くじける」や「折れ曲がる」の意味を持つ「屈」の漢字から成り立っている様子からも、「卑屈」の意味が感じ取れるでしょう。自分自身を軽蔑する様子や、くじけて気持ちが折れてしまった様子を表しているとも言えます。(参照サイト:https://domani.shogakukan.co.jp/484159)
サウル王は、謙遜ではなくて、卑屈になっていたように思います。これでは王様として人々の上に立つのは難しいことです。
私たちもまた、小さな者たちです。力もありません。でも、主は小さな者を大きく用いる方であることも、覚えておきたいと思います。そして、主が大きく用いようとしている時には、自分は小さい者だと思い過ぎてはいけないことも覚えておきたいと思います。
この教会では4年半前に、隣の土地を取得して駐車場にしました。そして、土地取得のために借りたお金の全額が今月で返済可能になりました。主がすべての必要を満たして下さいました。これはすごいことだと思います。
私たちの教会は小さな教会ですが、主が大きく用いようとしているのかもしれません。きょうZoom祈祷会を始めることになったことも、その小さな始めの一歩なのかもしれません。
ダビデもマリアもペテロも小さな者でした。その小さな者たちを主は大きく用いました。主が小さな私たちの教会をどのように用いようと為さっているのか、私たちには分かりませんが、サウルのように「自分は小さい」と思い過ぎることなく、主にすべてをお委ねして、主に用いられやすい者となって、主と共に歩んで行きたいと思います。
お祈りしましょう。
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」