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一粒のタイル2

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5:9)

主は小さな者を大きく用いる(2021.6.17 祈り会)

2021-06-18 08:04:16 | 祈り会メッセージ
2021年6月17日祈り会メッセージ
『主は小さな者を大きく用いる』
【Ⅰサムエル9:15~17、21】

Ⅰサムエル9:15 は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
17 サムエルがサウルを見るやいなや、は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」
21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 今週からZoomを利用して、ご自宅からでも祈り会に参加していただけるようにしました。

 いま木曜夜の祈祷会では、旧約聖書のサムエル記第一を最初から学んでいます。サムエルというのは、ダビデに油を注いだ預言者です。ただしダビデはイスラエルの2番目の王様です。ダビデの前にはサウルという王様がいました。祈祷会のサムエル記の学びでは、これからしばらくはサウルを見て行きます。

 きょう開いた9章の場面は、預言者サムエルが初めてサウルに出会う場面です。先回りして話しておくと、この後サムエルは10章の1節でサウルに油を注ぎます。10章1節をお読みします。

10:1 サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

 こうして、サウルはイスラエルの初代の王様になりました。先ほど言ったように、今さっき読んだ9章15節からの箇所はサムエルが初めてサウルに会った場面です。15節と16節、

9:15 は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。
16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

 サウルはベニヤミン族に属していました。ベニヤミンは創世記に出て来るヨセフの弟で、ヤコブの12人の息子たちの中では一番末の弟でした。ヤコブはこのベニヤミンをとてもかわいがり、大事にしていたことが創世記には書かれていましたね。

 ベニヤミン族はイスラエル十二部族の中では一番小さな部族でした。民数記の時代も人数が少なかったのですが、士師記の時代にイスラエルの国内で内戦があって、ベニヤミン族は危うく滅亡するところでした。この内戦のことは士師記の一番おしまいの方に書かれています。ベニヤミン族が滅びなかったのは主の憐れみなのでしょう。そういうわけで、ベニヤミン族は元々少なかったのが、内戦によってさらに小さくなってしまっていました。続いて17節、

17 サムエルがサウルを見るやいなや、は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 こうしてサムエルはサウルに会い、彼こそが全イスラエルが望んでいる王になるべき者であることを告げます。これを聞いてサウルはサムエルに言いました。21節です。

21 サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 サウルはとても戸惑っていました。サウルは小さなベニヤミン族の中でもさらに小さな家の出身ということで、とても自分がイスラエル全体を王として率いることができるとは思えませんでした。そして、結局この最初の戸惑いがずっと最後まで尾を引いて、サウルは王様としての自覚を十分に持てずにいて、やがて主とサムエルを失望させます。そうしてサウルは見限られてダビデに油が注がれることになりました。主はどうしてこんなサウルを王にしたのか、聖書を読む私たちも大いに戸惑いますね。

 しかし考えてみると、主は大抵の場合、小さな者を大きく用いようとされます。ダビデもまた、エッサイの息子たちの中では一番末の弟でした。イエス様の母親のマリアもナザレという田舎町の小さな女性でした。ペテロも北のガリラヤ湖で魚を捕る漁師でした。パウロの場合はローマの市民権を持つ裕福な階級の出身ですから、皆が皆、小さな者たちであったわけではありませんが、主は多くの場合、小さな者を大きく用いようとされます。

 それゆえ小さな者は最初は皆、大いに戸惑います。それでもどこかで気持ちを切り替えて、主にすべてをお委ねして大きく用いられる道を歩んで行くんですね。しかし、サウルの場合は、その切り替えが上手くできませんでした。サウルの人生は失敗であったことになります。

 このように旧約聖書に書かれていることの多くは、イスラエルの人々の失敗例です。そして私たちはその失敗例から学びます。もしサウルから何かを学ぶとしたら、謙遜になり過ぎて卑屈になってはいけない、ということではないでしょうか。傲慢であってはなりませんから、謙遜であることはとても大切なことです。でも自分は小さい者だ、小さい者だと思い過ぎて、あまりに自分を小さくしていると、卑屈になってしまいます。

 「卑屈」という言葉についてネットで調べたら、こんなことが書いてありました。

 「卑屈」は、「必要以上に自分を下げること」や「いじける様子」を表す言葉です。「軽蔑する」または「さげすむ」の意味がある「卑しめる」と、「くじける」や「折れ曲がる」の意味を持つ「屈」の漢字から成り立っている様子からも、「卑屈」の意味が感じ取れるでしょう。自分自身を軽蔑する様子や、くじけて気持ちが折れてしまった様子を表しているとも言えます。(参照サイト:https://domani.shogakukan.co.jp/484159)

 サウル王は、謙遜ではなくて、卑屈になっていたように思います。これでは王様として人々の上に立つのは難しいことです。

 私たちもまた、小さな者たちです。力もありません。でも、主は小さな者を大きく用いる方であることも、覚えておきたいと思います。そして、主が大きく用いようとしている時には、自分は小さい者だと思い過ぎてはいけないことも覚えておきたいと思います。

 この教会では4年半前に、隣の土地を取得して駐車場にしました。そして、土地取得のために借りたお金の全額が今月で返済可能になりました。主がすべての必要を満たして下さいました。これはすごいことだと思います。

 私たちの教会は小さな教会ですが、主が大きく用いようとしているのかもしれません。きょうZoom祈祷会を始めることになったことも、その小さな始めの一歩なのかもしれません。

 ダビデもマリアもペテロも小さな者でした。その小さな者たちを主は大きく用いました。主が小さな私たちの教会をどのように用いようと為さっているのか、私たちには分かりませんが、サウルのように「自分は小さい」と思い過ぎることなく、主にすべてをお委ねして、主に用いられやすい者となって、主と共に歩んで行きたいと思います。

 お祈りしましょう。

16 「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」
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その時代に合った翻訳を与える神様(2021.6.10 祈り会)

2021-06-11 08:19:42 | 祈り会メッセージ
2021年6月10日祈り会メッセージ
『その時代に合った翻訳を与える神様』
【Ⅰサムエル13:1、ガラテヤ2:16】

Ⅰサムエル13:1 サウルは、ある年齢で王となり、二年間だけイスラエルを治めた。

 第一サムエルの学びで、先週はイスラエルの長老たちが王様を欲した記事を読みました。それで、これからしばらくサウル王を見て行きたいと思っていますが、サウル自体に注目することは来週以降にして、きょうは聖書の解釈が変わっていくことの恵みについて話したいと思います。

 いま第一サムエル13:1をご一緒に読みましたが、この箇所は新改訳聖書が第三版から2017年版へ変わった時に最も戸惑った箇所の一つです。この箇所は第三版では、次のように訳されていました。

Ⅰサムエル13:1 サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。(第三版)

 第三版では「三十歳」で王になっていたのが2017年版では「ある年齢」で王になったことにも戸惑いますが、もっと戸惑うのは、サウルが王だった期間が第三版では12年間だったのが、2017年版では、2年になってしまったことです。2017年版を購入して初めてこの箇所を読んだ時、ひどく戸惑いました。けれども、あまり深く考えることはせずに放っておきました。しかし、今回、祈り会で第一サムエルを順次読んで行くことにしましたから、この戸惑いと向き合わざるを得なくなりました。

 そうして今、この戸惑いはむしろ恵みであると感じるようになりました。12年が2年になったことで、あちこち考え直さなければならなくなりましたが、それで却って、思い巡らしが深まったと感じています。疑問は解決しませんが、疑問があることで、より深くこの時代のことを考えるようになったと感じています。

 何が疑問かと言うと、例えば第一サムエル9章2節には、サウルが若者であったことが書かれています。9章2節、

Ⅰサムエル9:2 キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

 そして、10章にはイスラエルの王として立てられたサウルが荷物の間に隠れていたことが書かれています。10章22節です。

10:22 人々はさらに、に「あの人はもう、ここに来ているのですか」と尋ねた。は「見よ、彼は荷物の間に隠れている」と言われた。

 ここにはサウルの若者らしい姿が描かれていると思います。サウルはまだ初々しい若者だったので、王として人前に出る勇気がなくて、こそこそと隠れてしまったのだろうなと思います。もしこれが、いい年をしたおじさんだったら、かなりみっともないですよね。

 しかしサムエル記には、このサウルにはヨナタンという立派な若者の息子がいたことが書かれています。ヨナタンはゴリアテと戦った若者ダビデよりも年上だったようですから、もしサウルの王としての期間が2年だけだったら、いろいろとつじつまが合わなくなります。コソコソと荷物の間に隠れたサウルはいい年をしたおじさんだったということになります。一方、もし王としての期間が12年だったなら、荷物に隠れた時はまだ若者で、ヨナタンもまだ小さかったと、かろうじて辻褄を合わせることは可能だろうと思います。

 こんな風に、聖書の訳が変わって行くことには、いろいろと戸惑いを感じることもありますが、そのことで、今まで読み飛ばしていたような箇所をより深く読むようになり、恵みの世界に入れられるようになります。ですから戸惑うこともまた感謝なことなのだと思います。

 さて今度は、新約聖書のほうで、私が7~8年前に味わった別の形での戸惑いの話をしたいと思います。7~8年前の2013年か2014年のことですから、まだ2017年版が出る前のことです。当時私は、月に1~2回、東京のお茶の水で持たれていたパウロの手紙をギリシャ語で読む勉強会に参加していました。そして、新改訳聖書の訳では「イエス・キリストを信じることによって」と訳されている箇所が元々のギリシャ語の直訳では「イエス・キリストの信仰(ピスティス・イエスゥ・クリストゥ)によって」と書かれていることを知りました。そして、そこを「イエス・キリストの真実(信実)によって」と訳すべきと考える聖書学者が少なからずいると聞きました。例えば、ローマ3:22やガラテヤ2:16ですが、きょうはガラテヤ2:16のほうを見ましょう(新約p.376)。

ガラテヤ2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

 このガラテヤ2:16の「イエス・キリストを信じることによって」という箇所に星印*(アステリスク)が付いていて、下の脚注を見ると、*別訳「イエス・キリストの真実によって」と書いてありますね。それはつまり、私たちの信仰によってではなく、イエス様の信仰、イエス様の真実(信実)によって私たちが義と認められて救われるということです。荒っぽく言うなら、私たちが頑張って信仰に励むことで救われるのではなく、イエス様は真実なお方だから、それゆえに私たちは救われるのだ、そうパウロは書いているのだという解釈です。

 この話を聞いた時、この「イエス・キリストの真実によって」という訳を、何て素晴らしい訳なんだろうと私は思いました。そして、どうしてこんなに良い訳を新改訳は取り入れないのだろうと、戸惑いました(サムエル記の場合とは逆の戸惑いです)。せめて脚注に別訳で書けば良いのにと思いました。当時の第3版では、脚注にも取り入れられていなかったからです。それが、今回は脚注に取り入れられましたから、良かったです。でも、個人的には「イエス・キリストの真実によって」こそが本文に書かれるべきで、「イエス・キリストを信じることによって」は別訳として脚注に回すべきだろうと思っています。

 実際、2019年12月発行の聖書協会共同訳では「イエス・キリストの真実」と訳されています。時代の流れとしては、「イエス・キリストの真実によって」がふさわしい訳だと支持されるようになっていますから、新改訳聖書も、次に改訂される時には、「イエス・キリストの真実によって」、と本文で訳されるようになることを私は期待しています。

 この二つの訳のどちらが良いのかは、聖書学や神学上の論争(ピスティス・イエスゥ・クリストゥ論争)にもなっているそうですが、そういう学術的な話は別にして、私が「イエス・キリストの真実」と訳すほうが良いと感じる理由は、21世紀という時代の雰囲気が、「イエス・キリストの真実」にふさわしいと感じるからです。

 20世紀後半の高度成長時代には、人は仕事を頑張れば頑張るほど収入も増えて豊かになり、幸せになれると信じられていました。教会でも日曜日には午前は礼拝、午後は組会などの交わりがあり、夕方には路傍伝道に出て、夜には伝道会を開くというふうに、熱心に伝道が行われていました。伝道に熱心に励めば励むほど教会員の数も増える時代でした。こういうふうに皆が頑張っていた時代には、人の側が信じることによって救われるという訳し方、すなわち「イエス・キリストを信じることによって」と訳すのがふさわしかったのだと思います。

 一方、21世紀の現代は、頑張って働いても少しも豊かにならないという人が大半です。教会においても、伝道活動をしても来会者が増えることにはなかなかつながりません。そういう時代には、自分の信仰の頑張りによってではなく、イエス様が真実なお方だから、その真実さのゆえに人は救われるのだ、と訳したほうが、遥かにしっくり来ると感じます。イエス様の真実さにすべてお委ねして、真実な礼拝をささげていれば、イエス様は祝福して下さる、そう感じます。

 聖書の翻訳は、多くの先生方のご労によって進められます。その翻訳委員の先生方に天の神様は霊感を与えて、その時代に合った翻訳が出来上がります。新改訳の第2版の時にはまだ「らい病」や「つんぼ」ということばが使われていましたが、第3版からはそれぞれ「ツァラアト」と「耳の聞こえない人」に変わりました。では、第2版の「らい病」や「つんぼ」という訳が間違っていたのかと言うと、そんなことはありませんね。当時の人々にはそれらが違和感なく受け入れられていたものが、時代が変わって、「らい病」や「つんぼ」はふさわしくないということになりました。それで、第3版からは使われなくなりました。この第3版の翻訳委員の先生方に霊感を与えたのも、天の神様です。

 今、教会に人が来なくなっていますが、それは時代の変わり目であるという要因が大きいのだろうと思います。今までは人の側の信仰の頑張りが大事なんだと考えられがちだったと思います。でも、2017年版の翻訳委員の先生方に霊感を与えた神様は、これからはもっとイエス様の真実さに委ねる信仰が大事なのだとおっしゃっているように感じます。

 このように聖書の翻訳も時代とともに変わって行きますから、時代の変わり目の今は、人が来なくなっても、あまり心配し過ぎないほうが良いのだと思います。神様は今の時代の人々にあったことばを用意して下さっていますから、私たちはイエス様の真実さにお委ねして、信仰の道を歩んで行きたいと思います。

 お祈りいたします。

ガラテヤ2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストの真実によって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストの真実によって義と認められるためです。(別訳)
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王を欲したイスラエル(2021.6.3 祈り会)

2021-06-07 07:51:25 | 祈り会メッセージ
2021年6月3日祈り会メッセージ
『王を欲したイスラエル』
【サムエル記第一8:1~22】

 前回の夜の祈り会はペンテコステの日の直前でしたから、一旦サムエル記から離れました。今月はまたサムエル記に戻りたいと思います。きょうはイスラエルの人々が王を望んだ記事を読みます。少し長いですが、サムエル記第一8章の1節から22節までを読みましょう。

Ⅰサムエル8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。
2 長男の名はヨエル、次男の名はアビヤであった。彼らはベエル・シェバでさばきつかさをしていた。
3 しかし、この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。
4 イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、
5 彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
6 彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。それでサムエルはに祈った。
7 はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。
8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」
10 サムエルは、自分に王を求めるこの民に対して、のすべてのことばを話した。
11 彼は言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。あなたがたの息子たちを取り、戦車や軍馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
12 また、自分のために千人隊の長や五十人隊の長として任命し、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や戦車の部品を作らせる。
13 また、あなたがたの娘たちを取り、香料を作る者や料理する者やパンを焼く者とする。
14 あなたがたの畑やぶどう畑や良いオリーブ畑を没収し、自分の家来たちに与える。
15 あなたがたの穀物とぶどう畑の十分の一を取り、廷臣や家来たちに与える。
16 あなたがたの奴隷や女奴隷、それにあなたがたの子牛やろばの最も良いものを取り、自分の仕事をさせる。
17 あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。
18 その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、はあなたがたに答えはしない。」
19 しかし民は拒んで、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。
20 そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」
21 サムエルは、民のすべてのことばを聞いて、それをの耳に入れた。
22 はサムエルに言われた。「彼らの言うことを聞き、彼らのために王を立てよ。」それで、サムエルはイスラエルの人々に「それぞれ自分の町に帰りなさい」と言った。

 きょうの箇所では、5節にあるようにイスラエルの長老たちは「私たちをさばく王を立ててください。」とサムエルに言って、王を欲しました。この長老たちの要求は悪しきものであるとサムエルの目には映りましたから、主に祈りました。すると、主は仰せられました。7節です。

7 はサムエルに言われた。「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。

 サムエルが思った通り、主は怒りました。そうして仰せられました。8節、

8 わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのしたことといえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えることだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。

 イスラエルの人々がほかの神々に仕えることは、ついこの間もしていたことでしたね。7章の3節と4節です。

Ⅰサムエル7:3 サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもってに立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心をに向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」
4 イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、にのみ仕えた。

 イスラエルの人々は目に見えない主ではなく、目に見える偶像をすぐに拝んで主を怒らせていました。そうして、今回は王を望んで、また主を怒らせていましたが、意外なことに、王は彼らの要求を聞き入れるようにとサムエルに仰せられました。9節です。

9 今、彼らの声を聞き入れよ。ただし、彼らに自分たちを治める王の権利をはっきりと宣言せよ。」

 このように主がイスラエルに王を立てることを認めたことで、後にダビデ王の家系からイエス様が生まれることにつながって行きますから、そのことが主のご計画の視野に入っていたのでしょうか?このことは、きょうの最後にまた考えてみたいと思います。

 そうして、サムエルは11節以下のことをイスラエル人たちに話しました。かいつまんで話すと、王は長老たちの息子を軍隊に取ります。また王は王家の畑を彼らに耕させ、武具を作らせます。また娘たちを取り、料理をさせます。またイスラエル人の畑を没収します。奴隷や牛やろばの最も良いものを取り、王の仕事をさせます。羊も取られます。このような民は王の奴隷のようなものです。それでも良いのか、泣き叫んでも知らないぞと主は仰せられます。

 長老たちはそれでも良いということなんですね。19節で長老たちは言いました。

「いや。どうしても、私たちの上には王が必要です。」

 王を立てると、こんなこともしなければならない、あんなこともしなければならないと主はサムエルを通して仰せられましたが、それでも彼らは王を欲しがりました。これは、先日の礼拝メッセージを合わせて考えると、とても考えさせられることです。

 先日の礼拝では、ヨハネ1章を開いて、イエス様が弟子たちに、

「あなたがたは何を求めているのですか?」(ヨハネ1:38)

と尋ねた場面をご一緒に見ました。このイエス様の問いに対して、サムエル記のイスラエルの長老たちは王を求めたということになります。

「あなたがたは何を求めているのですか?」
「王です」

ということになります。

 先日の礼拝ではまた、私は神学校で鍵を持たない生活を3年間送ったことで、人が様々なことに縛られていることが良く見えるようになったという話もしました。きょうのサムエル記の長老たちの場合は、自分たちから進んで王に縛られることを望みました。人はやむを得ず何かに縛られてしまうのではなく、自分から進んで縛られることを望む傾向があるようです。どうしてでしょうか?何かに縛られていないと不安なのでしょうか?

 そうであるなら、王に縛られるのではなく、主に縛られることを望めば良いと思うのですが、なぜそうしないのでしょうか?主は目に見えないお方ですから、縛られるという実感が得られないのでしょうか?いろいろと考えさせられます。

 そうして、辿り着く結論は、人が本当の信仰を持つには、やっぱりイエス様が必要だったんだなということです。先日も話したように、神の御子であられるイエス・キリストは地上に遣わされる前は何にも縛られていないお方でした。それが、地上に遣わされてマリアのお腹に入った時から肉体に縛られて、時間と空間に縛られるようになりました。そうして、十字架に付けられた時には手足を釘付けにされて身動きすらできないほどに完全に縛られてしまいました。しかし、死んだ後で十字架から降ろされ、復活してからは再び何にも縛られないお方に戻りました。

 私たち人間は様々なことに縛られています。その縛られている私たちを教え導くために、イエス様の方も人となって様々なことに縛られ、私たちと同じ姿になって下さいました。そうして、イエス様はまた、再び何にも縛られない自由なお方になりましたから、イエス様は私たちのことも、その何にも縛られない自由へと招いて下さっていると見るべきだと思います。

 イエス様はヨハネの福音書8章の31節と32節でおっしゃいました。

31「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

 イエス様は「わたしのことばにとどまるなら、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とおっしゃいました。私たちは真理を知るなら、真理は私たちを自由にします。
 サムエル記の長老たちは、自由とは反対の、縛られることを望みました。しかし、そのことでイスラエルに王が与えられて、ダビデの家系からイエス様が生まれました。私たちに自由をもたらすための、神様の遠大なご計画を感じます。

 私たちは様々なことに縛られていますが、復活して天に昇り、何にも縛られていないイエス様に心を寄せることで、イエス様に私たちの心を解放していただき、心の自由を与えていただきたいと思います。

 お祈りいたします。
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父の約束である聖霊の注ぎ(2021.5.20 祈り会)

2021-05-21 10:40:28 | 祈り会メッセージ
2021年5月20日祈り会メッセージ
『父の約束である聖霊の注ぎ』
【使徒の働き1章3~5節、ルカの福音書11章】

(前半)
 ペンテコステの日の聖霊の注ぎを待ち望む今週、きょうの前半はまず使徒の働き1章を開きます。3~5節を交代で読みます。

使徒1:3 イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。四十日にわたって彼らに現れ、神の国のことを語られた。
4 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 4節の「父の約束」とは、弟子たちに聖霊が注がれることです。それゆえイエス様は5節で「あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる」とおっしゃいました。この「父の約束」には脚注に使徒2:33、ヨハネ14:16、14:26、15:26の4つの引照が付けられていますから、確認しましょう。

使徒2:33 「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」

ヨハネ14:16 「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

ヨハネ14:26 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ヨハネ15:26 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」

 使徒2:33はペンテコステの日のペテロのことば、ヨハネ14:16、14:26と15:26は「最後の晩餐」でのイエス様のことばです。イエス様は十字架に付く前に、弟子たちが聖霊を受けることを告げていました。そして弟子たちは、使徒1章でこの聖霊の注ぎを祈りながら待ち望んでいました。

 ペンテコステの日を三日後に控えた今夜、私たちも聖霊の注ぎを待ち望みたいと思います。イエス様を信じている私たちには既に聖霊が注がれていますが、ペンテコステの日には改めて聖霊で満たされて、この素晴らしい恵みを噛みしめたいと思います。

(後半)
 後半はルカの福音書11章をご一緒に見たいと思います。時間の関係で、飛ばし飛ばし見ます。まずルカ11章9節と10節を交代で読みましょう。

ルカ11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

 いま祈ったように、私たちの教会には、様々な問題・課題があります。各個人のそれぞれにも多くあることでしょう。教会としても、個人的にも神様から与えていただきたいものがたくさんあります。それらを熱心に求めれば、主は与えて下さるのでしょう。

 しかし、真っ先に求めるべきことがあります。先ずは、それを求める必要があります。それは聖霊です。13節をお読みします。

13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 このように、ここでイエス様は、聖霊を求めることの大切さを説いています。どうして、そんなにも聖霊が必要なんでしょうか。この後の箇所を読むと、それが分かります。ルカ11章の24節から26節までを読みましょう。

24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」

 24節に、「汚れた霊」ということばがあります。聖書が「汚れた霊」と書いていますから、「汚れた霊」は実際に存在するんですね。日本の神社でお祓いをするのも、この「汚れた霊」を追い出すためでしょう。汚れた霊が実際に存在するのですから、もし追い出すことができるならお祓いにも意味があるのでしょう。しかし、イエス様はここで、単に汚れた霊を追い出すだけでは、恐ろしいことになると警告しています。

 人から出て行った汚れた霊は、休み場を探しましたが見つからないので、「出て来た自分の家に帰ろう」と言いました。そうして、そこがきれいになっているのを見ました。これは良いということで、自分の仲間を連れて来たんですね。この仲間は、もっと悪い霊たちでした。そうなると、最初よりももっと悪い状態になると、イエス様は警告しています。

 つまり、単に悪霊を追い出すだけでなく、そこに聖霊が入らなければならないということです。聖霊が入れば、それはイエス様が入ったのと同じことですから、悪霊は入ることができません。悪霊が入ろうとしても、イエス様が守って下さいます。しかし、聖霊が心の内にいないと、下手に心をきれいにすると、悪霊が戻って来て、却って悪いことになってしまう恐れがあります。これは、恐ろしいですね。サタンが最も巧妙に利用しそうな手口です。ですから、聖霊を受けることは何としても必要なことです。

 もう一箇所、みることにします。33節から36節までをお読みします。

33 だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。
34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。
35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。
36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」

 ここに出て来る「明かり」、或いは「光」も聖霊のことです。33節で、明かりは燭台の上に置いて、入って来た人たちに、その光が見えるようにすべきとイエス様はおっしゃっています。私たちは聖霊を受けて、イエス様に似た者とされて、キリストの香りを放つことが求められています。それがイエス様を証しする、すなわちイエス様の証人になるということです。

 ですから35節にあるように、自分のうちの光が闇にならないように気を付けなければなりません。単に自分の心をきれいにするだけでは、汚れた霊が入って来て、闇になってしまいます。聖霊を受けてイエス様に似た者とされて、キリストの香りを放たなければなりません。そうして聖霊の光を放たなければなりません。私もまだまだそうなってはいませんが、イエス様に変えていただきたいと願っています。

 さて、いま見て来たルカ11章の36節までの箇所で、「聖霊」ということばが使われていたのは、13節だけです。

「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」

この箇所だけです、しかし、この11章の36節までのほとんどが聖霊について書かれています。

 聖霊ということばが使われていなくても聖霊についての話だと私たちが分かるのは、聖霊を受けた私たちの中で聖霊が助け主として働いて下さっているからです。助け主である聖霊は、すべてのことを教えてくださいますから、ルカ11章には聖霊のことが書かれていると分かります。

 聖霊は悪い霊が私たちの内に入ることを防いで守って下さり、私たちをイエス様に似た者へと成長させて下さり、聖書に何が書かれているかを、教えて下さいます。ですから、聖霊を求める必要があります。

 聖霊がいかに重要であるかは12章10節からも分かります。

ルカ12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。

 聖霊を冒瀆する者は聖霊が内に入りませんから、永遠の命が与えられません。つまり、永遠に赦されないということです。マルコの福音書のイエス様は、さらにこのようにおっしゃっています。

マルコ3:28 まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆することを言っても、赦していただけます。
29 しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。

 これほど重要な聖霊ですから、私たちは聖霊を求めます。次の聖日のペンテコステ礼拝では、使徒の働き2章を開いて、弟子たちが聖霊を受けた場面をご一緒に見ます。そして、その次の週からの礼拝メッセージをどうするかですが、少し前までは使徒の働きを3章、4章と順次見ていくことを考えていました。しかし、予定を変えてヨハネの福音書13章から17章までの最後の晩餐の場面をじっくりと学ぶことにしたいと思います。

 ヨハネ13章からの最後の晩餐の場面でイエス様は弟子たちに聖霊についてこんこんと説いています。マタイ・マルコ・ルカの福音書の最後の晩餐の場面はそんなに長くありませんが、ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面はページ数で言えば1/5を占める長大なものです。章の数で言えば21章中の5章ですから、1/4近くを占めています。イエス様は十字架に掛かる前の晩に弟子たちに時間を掛けて、弟子たちが十字架の後で受ける聖霊について教えて、そうして十字架に向かいました。イエス様が最後の晩餐で、こんなにも時間を掛けて、弟子たちが十字架の後で受ける聖霊について教えたのだということを、私はまだ皆さんと分かち合っていなかったことに気付きましたから、次の次の聖日からは、ヨハネ13章から17章までをしばらく学ぶことにしたいと思います。

 最後にもう一度、9節と10節、そして13節をお読みします。

ルカ11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。

13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。

 お祈りします。
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イスラエルの勝ちパターン(2021.5.13 祈り会)

2021-05-17 09:50:06 | 祈り会メッセージ
2021年5月13日祈り会メッセージ
『イスラエルの勝ちパターン』
【サムエル記第一7:1~12】

 先週はイスラエルの神の箱がペリシテ人に奪われてしまった箇所を開きました。ペリシテ人に勝てないイスラエルは、神の箱があれば神様が助けて下さり、勝たせて下さるだろうと考えて、神の箱を戦場に運び込みました。しかし、かえってひどい負け方をして、しかも神の箱は奪われてしまいました。

 イスラエル人の長老たちが神の箱を戦場に運び込むことを思い付いた時、彼らはサムエルを通して主に伺いを立てることをしませんでした。その考えが本当に主の御心にかなっていることなのか、主に尋ねることをせずに自分たちの考えだけで神の箱を勝手に運び出して、ひどいことになってしまいました。ですから私たちは、いつも主に問いながら日々を歩みたいという話をしました。

 さて、この神の箱がペリシテ人たちの土地にある間、ペリシテ人たちに災いがもたらされました。神の箱が置かれた土地ではペリシテ人たちの多くが腫物で打たれたことが5章と6章に書かれています。それゆえ神の箱を恐れた地域の人々が他の土地に移すと、移された先々で、その地域のペリシテ人たちが種物で打たれました。それで困り果てたペリシテ人たちは神の箱をイスラエルに返すことにしました。そうして7章1節に、神の箱がキリヤテ・エアリムに運び上げられたことが書かれています。そして20年が経ちました。2節です。

2 箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家はを慕い求めていた。

 イスラエルのすべての人々は主を慕い求めていたとありますが、実は彼らは偶像も礼拝していました。3節と4節、

3 サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもってに立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心をに向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」
4 イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、にのみ仕えた。

 神の箱を奪われたイスラエル人たちは偶像礼拝していたんですね。これは、とても考えさせられることです。やっぱり人は目に見えるものにすがりたくなる、ということなのだと思います。後にはダビデの息子のソロモンも偶像を礼拝しましたし、南北に分裂した後の北王国と南王国でも王たち多くが偶像礼拝をやめることができず、両国とも滅亡してしまいました。

 神であるイエス様が人の姿をとって私たちに遣わされたのも、人間にはそういう目に見える存在にすがりたいという弱さがあるからだと思います。イエス様が目に見える形で現れて下さいましたから、私たちは福音書に書かれている人の姿をしたイエス様に心を寄せることができます。でも、このことにいつまでも甘えていてはいけないのだと思います。なぜなら、キリスト教の本当の信仰は、ペンテコステの日から始まったからです。

 エマオへの道を歩く二人の弟子に現れたイエス様は、彼らがイエス様と分かった時に姿を消しました。このように、人の姿をしたイエス様は私たちの信仰がまだ幼い時に現れて信仰を育むことを助けて下さいます。しかし、本当に信仰が成長するのは目に見えないイエス様を身近に感じるようになってからのことです。

 さてサムエル記に戻ります。5節、

5 サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのためにに祈ります。」
6 彼らはミツパに集まり、水を汲んでの前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちはの前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。

 イスラエル人たちは偶像礼拝の罪を悔い改めました。その時、このミツパの地にペリシテ人が上って来ました。7節と8節、

7 イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。
8 イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」

 イスラエル人たちはサムエルに嘆願しました。そこで9節と10節、

9 サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物としてに献げた。サムエルはイスラエルのためにに叫んだ。するとは彼に答えられた。
10 サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかしは、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

 先週ご一緒に読んだ、神の箱を奪われた時とは状況がまったく逆ですね。先週のイスラエル人は主に問うことも祈ることもせず、勝手に自分たちの考えだけでペリシテと戦って、打ち負かされてしまいました。しかし、今回は違いました。彼らは主に救いを懇願しました。そうして主がペリシテ人たちをかき乱して下さいましたから、イスラエルはペリシテを打ち負かすことができました。そしてサムエルはこの地をエベン・エゼルと名付けました。12節です。
 
12 サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまでが私たちを助けてくださった」と言った。

 まさに主がイスラエルを助けました。イスラエルは主に救いを懇願して、ほとんど戦わずにペリシテに勝つことができました。これがイスラエルが勝つパターンですね。

 私が好きな聖書の箇所の一つに歴代誌第二にある、ヨシャファテ王の時代の神の戦いがあります。この時、主はヨシャファテ王とエルサレムの民にこう言いました。「これはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである」。そうして、ヨシャファテ王たちは、戦いの現場では武装した兵たちを先頭に出すのではなく、賛美する者たちを先頭に出して主を賛美しました。すると、そのことで敵は打ち負かされました(歴代誌第二20:21-22)。この歴代誌第二の場面は機会があればご一緒に学びたいと思います。

 また先週は、ヨルダン川を渡ったヨシュアたちがエリコを攻略した時の箇所を引用しました。この時、イスラエル人たちはエリコの町の周囲を六日間、一周ずつしました。そして七日目は町の周りを七周しました。そうして彼らがときの声を上げると城壁が崩れ落ちましたから、彼らはエリコの町を攻め取りました。これがイスラエルの勝ちパターンです。

 きょうの第一サムエルのイスラエル人たちも、彼らが目に見える偶像に仕えることを止めて、目に見えない神に救いを求めた時に主は彼らに勝利を与えました。目に見えない神に救いを求めるなら、主は救って下さり、勝利を与えて下さるお方であることを覚えたいと思います。

 そのためには、いつも祈り、聖書のみことばに親しむことで神様との交わりの時を絶やさないようにする必要があります。そうしないと私たちは目に見えない神様から簡単に離れてしまいます。

 私たちはいつも祈り、聖書のみことばに親しむことで目に見えない神様に私たちの信仰を育てていただきたいと思います。

 一言、お祈りします。
 
12 サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまでが私たちを助けてくださった」と言った。
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神に問いながら日々を歩む(2021.5.6 祈り会)

2021-05-10 05:59:40 | 祈り会メッセージ
2021年5月6日祈り会メッセージ
『神に問いながら日々を歩む』
【Ⅰサムエル4:1~11】

 きょうはイスラエルがペリシテ人たちに神の箱を奪われてしまった出来事を見ながら、彼らの何が悪かったのかを、考えたいと思います。戦いの場に神の箱を運び込んで神様に助け手いただきたいと願うことは、それほど間違っているとは思えません。では、何が悪かったのでしょうか。

 第一サムエル4章の1節から見て行きます。

Ⅰサムエル4:1 サムエルのことばが全イスラエルに行き渡ったころ、イスラエルはペリシテ人に対する戦いのために出て行き、エベン・エゼルのあたりに陣を敷いた。一方、ペリシテ人はアフェクに陣を敷いた。

 この少し手前の3章19節に「サムエルは成長した」とあります。そして20節に、「全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルがの預言者として堅く立てられたことを知った」とあります。北から南に至るまで全てのイスラエル人たちがサムエルが預言者として立てられたことを知りました。こうして主はサムエルにご自分を現わされました。この時、イスラエルはペリシテ人との戦いに臨みましたが、打ち負かされました。2節です。

2 ペリシテ人はイスラエルを迎え撃つ陣備えをした。戦いが広がると、イスラエルはペリシテ人に打ち負かされ、約四千人が野の戦場で打ち殺された。

 どうして負けたのか、長老たちは話し合いました。3節、

3 兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうしては、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロからの契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」

 そこで4節と5節、

4 兵たちはシロに人を送り、そこから、ケルビムに座しておられる万軍のの契約の箱を担いで来させた。そこに、神の契約の箱とともに、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがいた。
5 の契約の箱が陣営に来たとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。

 しかし、イスラエルは惨敗しました。それはペリシテ人がかえって奮い立ったからです。少し飛ばして9節と10節、

9 さあ、ペリシテ人よ。奮い立て。男らしくふるまえ。そうでないと、ヘブル人がおまえたちに仕えたように、おまえたちがヘブル人に仕えるようになる。男らしくふるまって戦え。」
10 こうしてペリシテ人は戦った。イスラエルは打ち負かされ、それぞれ自分たちの天幕に逃げ、非常に大きな打撃となった。イスラエルの歩兵三万人が倒れた。

 そうして神の箱は奪われてしまいました。11節、

4:11 神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。

 イスラエル人たちは、神様に助けていただきたい一心で神の箱を戦場に運び出しました。これの何がいけなかったのでしょうか?モーセの時代には、荒野を進むイスラエル人たちの一番前には神の箱がありました。イスラエル人たちが律法を授けられた後でシナイ山のふもとを旅立った時のことを民数記は次のように書いています(民数記10:33)。

民数記10:33 こうして、彼らはの山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。

 このように神の箱はイスラエル人たちの先頭を進みました。モーセの後を継いだヨシュアがヨルダン川を渡った時も、神の箱をかつぐ祭司たちが先頭を進みました。ヨシュア記3章には次のように書かれています(ヨシュア3:14-16)。

ヨシュア3:14 民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。
15 箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、
16 川上から流れ下る水が立ち止まった。

 さてしかし、彼らがエリコを攻略した時は、微妙に違います。ヨシュア記6章には次のように書かれています。

ヨシュア6:1 エリコはイスラエルの子らの前に城門を堅く閉ざして、出入りする者はいなかった。
2 はヨシュアに告げられた。「見よ、わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。
3 あなたがた戦士はみな町の周りを回れ。町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。
4 七人の祭司たちは七つの雄羊の角笛を手にして、箱の前を進め。七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ。

 このように、エリコを攻略した時は、神の箱が先頭ではなくて七人の祭司たちが先頭を行って、町の周りを行進しました。ヨルダン川を渡った時とは違います。これは主がそうするように命じたからです。

 このことから、サムエル記のイスラエル人の何が悪かったかが見えて来ます。サムエル記のイスラエル人たちは、主の命令により神の箱を運び出したのではなく、彼らの思い付きで勝手に運び出しました。思い付きが悪いわけではないと思います。しかし思い付いたなら、その思い付いたことが正しいかどうか、サムエルを通して主に伺いを立てるべきでした。しかし、イスラエル人たちは、主に伺いを立てることなく、彼らの判断で勝手に神の箱を運び出しました。

 祭司のエリもサムエルに伺いを立てることをせず、また彼らが神の箱を運び出すことを制止もしませんでした。それゆえ主の怒りにふれたのでしょう。息子二人が死んだことを知らされると、エリもまた死んでしまいました。サムエル記第一4章の17節と18節です。

サムエル記第一4:17 知らせを持って来た者は答えて言った。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、兵のうちに打ち殺された者が多く出ました。それに、あなたの二人のご子息、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」
18 彼が神の箱のことを告げたとき、エリはその椅子から門のそばにあおむけに倒れ、首を折って死んだ。年寄りで、からだが重かったからである。エリは四十年間、イスラエルをさばいた。

 この祈祷会でサムエル記第一の学びを始めた時、最初の登場人物の「エルカナ」を基準にして、それぞれの登場人物が神様に近いか遠いかを見てみたいと話しました。きょうまでエリの場合を保留して来ましたが、エリがこのような死に方をしたということは、エリはエルカナよりも神様から離れていたということなのでしょうね。祭司という職に就いていましたから、一見すると神様に近いようですが、神様から見ると離れていたのでしょう。もしエリが祭司ではなくてエルカナと同じ一般人だったら、神様との距離は同じくらいだったのかもしれません。祭司であるがゆえに主は厳しい目でエリを見ていたのでしょう。

 エリは主がサムエルを通してご自身を現わされたことを当然分かっていた筈ですから、イスラエル人たちが神の箱を運び出そうとした時に、サムエルを通して主に伺いを立てるべきでした。

 私たちも日々、主に伺いを立てながら進んで行きたいと思います。特に大きなことをする時には必ず、それが主の御心にかなっているのか、主に問うべきです。私が言わなくても既にそうされているとは思いますが、目の前のことに一生懸命になっている時、ついつい主に伺いを立てることを忘れてしまうことはないでしょうか?或いはまた、御心にかなっているという確信があると、主に問うことを省いてしまうことはないでしょうか?私自身はそのようなことがあります。サムエル記のイスラエル人たちも、御心にかなっていると確信していたから、わざわざ神に伺いを立てなかったのかもしれません。しかし、主は人間が自分たちの判断で神の箱を勝手に運びだすことをお許しになりませんでした。

 ですから私たちは、どんな時も一人よがりの判断をせずに、いつも主に問い、主の声に耳を澄ましながら、日々を歩んで行きたいと思います。

 お祈りいたします。
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神の箱と地上生涯のイエス(2021.4.22 祈り会)

2021-04-25 15:02:17 | 祈り会メッセージ
2021年4月22日祈り会メッセージ
『神の箱と地上生涯のイエス・キリスト』
【Ⅰサムエル3:1~14】

 サムエル記の学びを続けます。今回は神の箱と人との関係について示されていることを、皆さんと分かち合いたいと思います。それは神の箱と人との関係は地上生涯のイエス様と人との関係に似ているということです。

 神の箱は目に見えますし、地上生涯のイエス様も目に見えます。そして、神の箱とイエス様の近くにいる人には信仰が芽生えて成長します。しかし、その信仰の成長はある程度のところで頭打ちになるようです。

 例えば、イエス様の弟子のペテロの信仰は、地上生涯のイエス様の近くにいることで成長しました。しかし、ペテロはイエス様が祭司長たちに捕らえられた時、イエス様を三度「知らない」と言いました。そのようにペテロの信仰は必ずしも十分ではありませんでした。そんなペテロの信仰が本当に成長したのは、イエス様が天に昇って目に見えなくなり、その後に聖霊が降ってからのことでした。ペテロの信仰はペンテコステの日に聖霊が降って、聖霊を通してイエス様の導きを得ることができるようになったことで、本格的に引き上げられました。

 次の聖日礼拝では、ルカ24章のエマオへの道の箇所を開く予定にしています。イエス様は十字架で死んでから墓に葬られましたが、三日目に女たちが墓に行くとイエス様の遺体はなくなっていました。そして、その場にいた御使いが女たちに主がよみがえったことを告げました。それで女たちはそのことをすぐに弟子たちに報告しましたが、弟子たちは信じませんでした。そして、エマオへ向かっていた二人の弟子がこの出来事について話し合っていたところにイエス様が現れました。しかし、この二人の弟子にはそれがイエス様だとは分かりませんでした。

 つまり、この二人の弟子の信仰はまだ不十分でした。イエス様の姿が目に見えている時というのは、それを見ている人の信仰は大体が不十分です。もちろん信仰がまったくないよりは遥かにマシです。目に見える地上生涯のイエス様が近くにいることは、人の信仰の成長にもちろん役に立ちます。しかし、その人の信仰が本当に育つのは、目に見えないイエス様が共にいると分かる時です。エマオへ向かう途中の二人の弟子の場合も自分たちの目の前にいるのがイエス様だと分かったと同時に、イエス様は目に見えなくなりました。

 この目に見えるイエス様と人との関係は、神の箱と人との関係に、似ているように思います。神の箱が近くにある時の人の信仰は、必ずしも十分ではないように見えます。第一サムエル3章の1節から見て行きます。

Ⅰサムエル3:1 さて、少年サムエルはエリのもとでに仕えていた。そのころ、のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

 サムエルはハンナの長男です。胎が閉じられていたハンナは子供を授けて欲しいと主の宮で泣きながら心を注ぎ出して祈りました。この祈りに目を留めた主はハンナに子を与え、ハンナは誓願した通りに最初に生まれた長男のサムエルを主に献げたのでした。それで少年サムエルは宮に仕える祭司のエリのもとで主に仕えていました。そして、サムエルは神の箱が置かれている神殿で寝ていました。3節です。

3 神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれているの神殿で寝ていた。

 神のともしびが消される前とは、夜が明ける前のまだ暗い時刻であったということです。この時、主がサムエルを呼びました。4節と5節、

4 はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、
5 エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。

 そして6節で同じことが繰り返された後でサムエル記は7節でこのように書いています。

7 サムエルは、まだを知らなかった。まだのことばは彼に示されていなかった。

 サムエルは神の箱の近くで寝ていましたが、まだ主を知りませんでした。サムエルの信仰はまだ十分ではありませんでした。神の箱は垂れ幕の内側にありましたから、サムエルは神の箱を見たわけではないと思いますが、神の箱が目に見える形でそこに存在していたことは確かです。その神の箱が近くにあるのに、サムエルはまだ主を知りませんでした。しかし、主がサムエルに語り掛けたことがきっかけでサムエルは信仰に目覚めます。祭司のエリが、サムエルを呼んでいるのは主であることを悟ったので、エリはサムエルに「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と答えるように言いました。それで10節、

10 が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 それで主はサムエルに言われました。11節、

11 「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。

 「両耳が鳴る」とは、恐ろしいことが起きる時に使われる表現です。12節と13節、

12 その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
13 わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。

 エリの息子たちは、神殿への献げ物を軽んじる重い罪を犯していました。その息子たちの悪い行いをエリは止めることができないでいました。それで14節、

14 だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

 このことばがあってからしばらくして、エリとエリの息子たちは死にます。それは、神の箱がペリシテ人たちによって奪われた日でした。そして、この後、サムエルが死ぬまでサムエルの近くに神の箱はありませんでした。しかし、それでもサムエルは主のことばを聞いていました。つまり、主のことばを聞くことと、神の箱が近くにあるかどうかは全然関係ないということです。

 人々の近くに神の箱があった時は、その安心感からか、却って信仰は低いレベルにあるように見えます。神の箱がペリシテ人に奪われてしまったのもそのためです。そして、ダビデの場合もかなりそれが当てはまるように思います。

 ダビデがゴリアテと戦い、ペリシテたちを打ち負かして連戦連勝していた時、神の箱はダビデの近くにはありませんでした。そうしてダビデが王になって神の箱をエルサレムに運び込んだ時がダビデの絶頂期でした。その後、ダビデはウリヤの妻のバテ・シェバを王宮に招き入れる間違いを犯して、そこからダビデの人生は坂道を転がり落ち始めて、ダビデの家庭は崩壊します。神の箱が近くになかった時にダビデの人生は上り坂でしたが、神の箱をエルサレムに運び入れてからのダビデの人生は下り坂でした。そしてダビデは息子のアブサロムに王宮を追い出されました。この時、ダビデは神の箱と離れました。祭司たちは神の箱を都から運び出しましたが、ダビデは祭司に神の箱を都に戻すように言いましたね。1月の礼拝でも開いた第二サムエルの箇所ですが、ダビデは祭司のツァドクに、このように言いました。

Ⅱサムエル15:25 「神の箱を都に戻しなさい。もし私がの恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見させてくださるだろう。」

 こうして、神の箱はダビデから離れました。すると不思議なことに、形勢が逆転してダビデが優勢となり、アブサロムは戦死してしまいました。都に入ったアブサロムは神の箱の近くに来ましたが、神様はアブサロムに味方せずに、神の箱から離れたダビデの側を勝利に導きました。

 このように、神の箱と人との関係は、地上生涯のイエス様と人との関係とよく似ていると思います。ペテロたちの信仰は、ペテロたちが地上生涯のイエス様の近くで過ごしていた時よりも、イエス様が天に昇って離れて行った後のほうが引き上げられました。目に見えるイエス様が近くにいた時よりも、目に見えないイエス様を聖霊を通して感じられるようになった時のほうが遥かに強い信仰を持つようになりました。

 イエス様は目に見えない形で聖霊として私たちの内に住んでいて下さいますし、教会の兄弟姉妹たちの中にもいて下さいます。そうして私たちを守って下さっています。私たちは、この見えないイエス様をいつも感じていたいと思います。目に見えないイエス様の臨在を感じている私たちは、ペテロたちが地上生涯のイエス様と共にいた時よりも強い信仰が与えられているのだということを喜び、感謝したいと思います。ダビデも神の箱が近くにない時のほうが良い信仰を保っていました。神様からの語り掛けをたくさん受けたサムエルも、少年の頃を除けば神の箱とは離れて過ごしていました。

 私たちも、地上生涯のイエス様にはお会いしたことがありませんが、それゆえに、それ以上の信仰が与えられていることに感謝して、日々を過ごしたいと思います。
 お祈りいたします。
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心を注ぎ出す祈り(2021.4.15 祈り会)

2021-04-19 09:19:18 | 祈り会メッセージ
2021年4月15日祈り会メッセージ
『心を注ぎ出す祈り』
【Ⅰサムエル1:9~19】

 木曜日の祈り会では今月からサムエル記を開くことにしています。サムエル記の冒頭にはエルカナという人物が登場していて、エルカナと神様との距離は近くも遠くもない普通の距離のように見えますから、エルカナを基準にしてサムエル記の登場人物たちが神様の近くにいるのか離れているのかを見ることを試みたいと願っています。

 きょうはハンナです。ハンナはエルカナと比べると明らかに神様に近い所にいました。きょうのハンナの箇所は去年の祈り会でも開きました。去年の祈り会では、ハンナは最上のものを献げる誓願をしたことを話しました。最上のものとは自分の生んだ男の子のことです。ハンナは男の子が与えられるように神様に祈っていましたが、その男の子が与えられたなら神様にお渡しすると誓願しました。つまり最上のものを献げる誓願をしました。先ずこのことを見ましょう。10節、

Ⅰサムエル1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、に祈った。

 ハンナの心は痛んでいました。それはエルカナのもう一人の妻のペニンナがハンナを苛立たせることを執拗にしていたからでした。それでハンナは激しく泣いて主に祈りました。11節、

11 そして誓願を立てて言った。「万軍のよ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」

 先ほども言いましたが、ハンナはもし男の子が与えられたなら、その子を主に渡すと誓願しました。つまり最上のものを献げるということです。このハンナの信仰はすごいと思います。

 このハンナに主は目を留められたことが、19節の最後に書かれています。やはり主は、ハンナのように主に自分の一番大切なものを手放す気持ちを持って近づいて行く者に心を留めて下さいます。

 さて、祈っているハンナの姿は祭司のエリの目には酔っているように見えました。それでエリはハンナに言いました。

14 「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」

 そんなエリにハンナは言いました。

15 「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私はの前に心を注ぎ出していたのです。
16 このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」

 今夜はもう一つ、ハンナが最上のものを献げる誓願をしたことの他に15節のハンナのことばの「私は主の前に心を注ぎ出していたのです」にも注目したいと思います。

 心を注ぎ出す祈りには、三つの特徴があるように思います。

 ①定時の祈りではなく祈らずにはいられない気持ちで始まる祈り、
 ②祈った後で不思議な平安が得られて神様との距離が縮まったことを感じる、
 ③後になってから「あの時の祈りは心を注ぎ出した祈りだったな」と思い返される祈り、

の三つです。

 まず1つめの、
 ①定時の祈りではなく祈らずにはいられない気持ちで始まる祈り、

 定時の祈りとは、決まった時間の祈りのことです。皆さんも一日の中で大体決まった時間に祈る時間を持っていることと思います。このように毎日決まった時間帯に祈りの時を持つことはとても大切なことです。毎日祈っておられる祈り会のメンバーの皆さんに今さら言うようなことではありませんが、祈りを習慣化することで神様との近い関係を保つことができます。

 しかし、心を注ぎ出す祈りは、祈らずにはいられない気持ちから始まる祈りであり、定時の祈りとは少し性質が異なる祈りだろうと思います。そして2番目、

 ②祈った後で不思議な平安が得られて神様との距離が縮まったことを感じる、

そのような祈りが「注ぎ出す祈り」です。なぜ平安が得られるかと言えば、それは心の中にあるものをすべて注ぎ出すからです。心が空っぽになるほどに出し尽くした後に神様がそこに入って下さいますから、不思議な平安が得られて、神様との距離が縮まったことを感じます。そうして、

 ③後になってから「あの時の祈りは心を注ぎ出した祈りだったな」と思い返される

という特徴があると思います。

 祈る前から、「さあ、これから心を注ぎ出して祈るぞ」と気合いを入れて熱心に祈る祈りはたぶん「心を注ぎ出す祈り」とは言わないのだと思います。やむにやまれぬ思いから自然に始まって、後になってから、「ああ、あれは心を注ぎ出す祈りだったな」と思い返される祈り、そんな祈りが「心を注ぎ出す祈り」ではないかと思います。

 そういう祈りをする時は、せいぜい1年に1回あるかないかぐらいのレベルではないかと思います。しかし、普段の定時の祈りにおいても、それぐらい真剣に祈れるようになりたいと思って、それを心掛けて祈ることは大切なことだと思います。

 私がそういう「注ぎ出す祈り」を最初にしたのは、17年前の2004年の4月です。4月10日ぐらいでしたから、ちょうど今の季節です。2004年の4月は私がクリスチャンになってから2年3ヵ月が経った時期ですが、その時にイラクで日本人3人が拉致されるイラク人質事件が起きました。当時私は川崎市の高津に住んでいました。ニュースで拉致された日本人3名の名前が報道された時、「おや」と思いました。すぐには思い出せなかったのですが、知った名前があると思いました。そうして記憶をたどって行って、3人の中の1人が、10年前の1994年に私が日本語教師になるための学校に半年間通っていた時の同期生だったことを思い出しました。1993年の10月から1994年の3月まで私は外国人に日本語を教えるための日本語教師養成科がある日本語学校に入学して、半年間、午前と午後に勉強をしました。その時のクラスメイトがイラクで拉致された3名の中の1人にいました。3人を拉致した犯行グループは、日本がイラクに派遣した自衛隊を72時間以内に撤退させないと3人を殺害するとの声明を出していました。

 それで私は10年前の同期生たちに連絡を取ったりして、同期生を助けるための思い付く限りの自分でできることをしました。首相官邸前に行って、自衛隊の一時的な撤退を求めるデモにも参加しました。当時はそれが政治的な行動とは思っておらず、とにかく同期生を助けたい一心で、思い付く限りのことをしました。教会の組会のメーリングリストにも助けてほしいとお願いしました。

 そうして期限の72時間が迫る中、日本政府は自衛隊は撤退させない方針を明確にしていましたから、心配で心配で深夜でしたから私は自宅で必死で祈りました。それが私の初めての「注ぎ出す祈り」だったと思います。祈りながら、いつの間にか寝てしまって起きた時には期限の72時間が過ぎていましたが、3人は殺害されることなく、解放される方向へ事態は向かって行きました。その時、私は不思議な平安に包まれていました。

 この後、もしこの時3人が殺害されていたら私の信仰はどうなっていただろうかと時々考えることがありました。必死で祈ったのにかなわなかったらダメージが大きかったのではないか、そんなことを時々考えました。

 でも今は「もし、この時3人が殺害されていたら」と考えることはありません。今は、「あの時の祈りは聞かれて主が応えて下さったのだ」と考えています。もちろん祈ったのは私だけではありません。日本で、世界で、私と同じように「注ぎ出す祈り」が為されて、その祈りに主が応えて下さったのだと思っています。

 そして、この時の「注ぎ出す祈り」が私の平和への祈りの原点になったのだと思っています。その1年後の2005年に私はクリスチャンになって初めて広島の原爆資料館を訪れました。クリスチャンになる前にも2度ここを訪れたことがありましたから通算で3度目でしたが、この時にそれまでにない衝撃を受けました。こんな悲惨なことは2度と繰り返してはならないと強く思い、原爆資料館を出た後で平和公園のベンチに座って「私を平和のために用いて下さい」と注ぎ出す祈りをしました。

 ですから私は世界の平和というような大きなことを言ってしまいがちですが、一人一人の心に平安がないなら決して平和を訪れませんから、一人一人の心に平安が与えられるように地道に働いて行きたいと願っています。

 聖書に戻ります。ハンナはエリに言いました。

「私はの前に心を注ぎ出していたのです。このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」


 ハンナの心を注ぎ出す祈りに主は目を留めて下さり、かなえて下さいました。こういう心を注ぎ出す祈りは、いつでもできるものではないと思います。しかし、これに近い祈りをいつでもできるように願いながら祈ることは大切だと思います。

 そのような祈り手に主が育てて下さるように、お祈りしたいと思います。
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苦難が希望を生み出す(2021.4.8 祈り会)

2021-04-09 11:27:24 | 祈り会メッセージ
2021年4月8日祈り会メッセージ
『苦難が希望を生み出す』
【Ⅰサムエル1:1~8】

 イースターを越えて、木曜の夜の祈祷会ではしばらくの間、サムエル記を開くことを示されています。サムエル記には様々な人物が登場します。その人物たちがどれぐらい神様に近い所にいるのか、或いは離れた所にいるのか、という観点からサムエル記を読んでみたいと示されています。

 今年は元旦礼拝の長血の女の記事から一年間の歩みを始めました。長血の女はイエス様にぐいぐいと近づいて行きました。そして、できれば私たちも長血の女のようでありたいと願います。すると、いま私たちはどれくらいイエス様の近くにいるのだろうかということが気になります。そのことを考える上で、サムエル記の登場人物たちの神様との距離を見ることは参考になるだろうと思います。神様との距離は登場人物によって違いますし、同じ人物であっても、例えばダビデのように神様との距離が近かった時もあれば、離れてしまった時もありました。そういう観点からサムエル記を読んでみたいと願っています。

 まず第一サムエル1章の1節から8節までを交代で読みたいと思います(旧約p.478)。ここに最初に登場するエルカナという人物は、神様からの距離を考える上で基準になるように思います。エルカナと神様との距離は近くも遠くもないように感じます。エルカナはごくごく平均的な男性であるように見えます。このことを念頭に置いて、1節から8節までを交代で読みたいと思います。

Ⅰサムエル1:1 エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。この人はエロハムの子で、エロハムはエリフの子、エリフはトフの子、トフはエフライム人ツフの子であった。
2 エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。
3 この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍のを礼拝し、いけにえを献げることにしていた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスがの祭司をしていた。
4 そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、
5 ハンナには特別の受ける分を与えていた。は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
6 また、彼女に敵対するペニンナは、がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。
7 そのようなことが毎年行われ、ハンナがの家に上って行くたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
8 夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」

 1節から登場するエルカナはサムエル記に登場する最初の人物です。このエルカナは先ほども言ったように、ごく平均的な男性のように見えます。3節には、エルカナが毎年シロの町に上って主を礼拝したとありますが、これもイスラエル人にとっては普通のことです。当時、神の契約の箱はシロの町に置いてありました。そこへ上って行くことは信仰を守っているイスラエル人なら誰でもしていたことだと思いますから、エルカナが特別に神様に近いということはないでしょう。

 このエルカナには二人の妻がいました。ペニンナとハンナです。ペニンナはエルカナの子を産んでいましたが、ハンナの胎は閉じられていました。このことでハンナの心は穏やかではいられませんでしたが、エルカナはこのことに十分には気付いていませんでした。つまり、エルカナは少し鈍感な男性でした。この鈍感さも、普通のことだろうと思います。私も含めて男性の多くは女性の心の乱れには疎いのではないでしょうか。もちろん敏感に察する男性もいますが、多くは少し疎いでしょう。ですから、エルカナという男性は、あらゆる意味で平均的な男性だという気がします。このエルカナを基準にして、他の人物たちを見てみたいと思います。特に、神様に近いか遠いかを見てみたいと思います。そして、私たちの場合はどうなのかについても考えることができればと願っています。

 きょうの箇所にはエルカナの二人の妻も登場します。次に、この二人を見てみましょう。子を産んでいたペニンナは子のないハンナを苛立たせることを執拗に行っていましたから、ペニンナはエルカナよりも神様から離れていたと言えるでしょう。律法には、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ記19:18)と書かれていますから、隣人であるハンナを愛していなかったペニンナは神様から離れていました。

 一方のハンナは10節に、泣きながら主に祈ったことが書かれています。ハンナは長血の女のように神様にぐいぐい近づいて祈っていました。ですから夫のエルカナよりも神様に近い所にいました。この9節以降のハンナは来週見ることにして、きょうは5節の、「主はハンナの胎を閉じておられた」ことに思いを巡らしたいと思います。

 聖書には、胎が閉じられていた女性が多く登場します。子ができることを望みながらも、子がなかなかできない女性は苦悩の中を歩むことになります。しかし、信仰があるなら苦難さえ神様の愛の下で希望になります。特にイエス様が十字架に掛かって以降の新約の時代においては、そうです。それゆえパウロはローマ人への手紙で、「苦難さえも喜んでいます」と書いています。それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すからです。ローマ人への手紙5章をご一緒に読みたいと思います(新約p.304)。1節から8節を交代で読みましょう。

ローマ5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 先週は受難週でしたから、8節が重く響きます。

8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

 この十字架の愛が聖霊によって私たちの心に注がれています。パウロは5節で、この神様の愛が私たちの心に注がれているから、希望は失望に終わることはないと書いています。

 ハンナは旧約の時代の女性でしたが、長血の女のように神様にぐいぐい近づいて行きましたから、神様に愛され、神様の愛の下に入ることができたのだと思います。新約の光を当ててハンナの記事を読むなら、ハンナの苦難は希望へと変えられました。

 神様の為さることは、本当に時にかなって美しいなあと思います。神様は時にかなった最善の時にハンナの胎を開いて幼子のサムエルを与えました。神様はハンナの胎を閉じることで苦難を与えましたが、その苦難によってハンナには品性が備えられました。その品性豊かなハンナのもとで乳離れするまで育てられた幼子のサムエルは、後にダビデに油を注ぐ預言者となります。そしてダビデの家系からイエス様がお生まれになりました。神様の為さることは本当に時にかなって美しいと思います。

 このハンナのことは、来週もまた見ることにしたいと思います。
 神様は、苦難の中にあるハンナに希望を与えて下さいました。神様は私たちが苦難の中にある時も、私たちに希望を与えて下さいます。それは神様が私たちを愛して下さっているゆえであることを、受難週とイースター聖日を越えた今日、改めて覚えたいと思います。神様は、ひとり子のイエス様を十字架に付けるほどに私たちを愛して下さっています。それほどまで私たちを愛して下さっているのですから、神様は私たちが苦難の中にある時にも希望を与え、平安を与えて下さいます。このことを心一杯、感謝したいと思います。
 お祈りいたします。
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父よ、わが霊を御手にゆだねます(2021.4.1 祈り会)

2021-04-02 08:39:05 | 祈り会メッセージ
2021年4月1日祈り会メッセージ
『父よ、わが霊を御手にゆだねます』
【ルカ23:44~46】

 受難週の中の祈祷会です。今夜は十字架のイエス様に心を向けたいと思います。ルカの福音書23章の44節から46節までの3ヶ節を交代で読みましょう。

44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 先日の教会学校では、イエス様の十字架の記事が取り上げられていて、ルカの福音書が開かれました。そして、今の45節と46節が読まれた時、「おや?」と思いました。神殿の幕が真ん中から裂けたのは、イエス様が十字架で息を引き取ってからではなかったかな?と思ったからです。今ご一緒に読んだように、ルカは神殿の幕が真ん中から裂けた後にイエス様が息を引き取られたと書いていますから、「あれ?そうだったっけ?」と混乱しました。それでマタイとマルコの同じ箇所を見に行きました。マルコの福音書には、こう書いてあります。

マルコ15:33 さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
34 そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
35 そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
36 すると一人が駆け寄り、海綿(かいめん)に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
37 しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
38 すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 このように、マルコはイエス様が霊を渡されてから神殿の幕が裂けたと書いています。私もこのように理解していました。だから、教会学校でルカの福音書が読まれた時に、「おや?」と思ったのですね。マタイの福音書にも、マルコとほぼ同じことが書かれています。

 恐らくは、イエス様が息を引き取られたのと神殿の幕が二つに裂けたのはほぼ同時だったんだろうなと思います。しかし、文字で書く場合は、どちらかを先に書かなければならず、同時であっても順番が付いてしまいます。

 そしてルカは神殿の幕が裂けてから、イエス様が「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と言って息を引き取ったと書いています。ここにルカらしさが良く表れていると思います。ここでルカは、地上と天との間で霊的な関係が回復した様子を描いているからです。

 ルカはパウロの伝道旅行に付き従っていて、パウロがエルサレムで捕らえられてローマに移送される時も同行していました。そうして御霊に満たされたパウロの中にはイエス様がいることをルカは感じながら、パウロとの日々を過ごしていました。ルカは福音書のイエス様を書いている時にも、次には御霊に満たされたパウロのことを必ず書くと心に決めていた筈です。御霊に満たされ、御霊に導かれた使徒たちの働きとは、こういうものだったのだということを早く書きたくてたまらなかったと思います。そのルカの思いが、44節から46節の順番となって表れたのだと私は感じています。もう一度、お読みします。

44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

 御霊、すなわち聖霊は天国と地上とを神のことばで結ぶ、通信の電波のようなものであると考えると分かりやすいかもしれません。そして、神殿の幕はこの電波を通せなくしていました。

 イエス様が地上で宣教活動をしている時には、聖霊で満たされていたイエス様には垂れ幕は関係ありませんでした。しかし、イエス様が私たち人間の罪をすべて背負って十字架に付けられた時には、この神殿の垂れ幕がイエス様と天の父との関係を遮断していました。マタイとマルコの福音書に書かれているイエス様の悲痛な叫び、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」は、イエス様が天の父との間でことばを交わすことができなくなって見捨てられたような絶望感に陥ったことを示しているのだと思います。

 それが、正にイエス様が息を引き取ろうとしている時に神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けましたから、十字架のイエス様と天の父との間の霊的な関係は再び回復しました。イエス様はそれを感じて、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」とおっしゃったことをルカは示しているように思います。そうしてイエス様はいったん陰府(よみ)にくだりますが、全能の父によって復活することができました。

 ルカは、福音書の続編の使徒の働きで、使徒たちが聖霊に満たされて宣教活動を行った様子を描いています。それはペンテコステの日以降のことですが、それに先立って、イエス様が息を引き取る時には神殿の幕が真っ二つに裂けて天と地上との霊的な関係が回復していたことを示しています。昼の12時から午後3時までは全地が暗くなったと書かれていますから、天と地上との霊的な関係は絶たれていましいた。しかし、正にイエス様が息を引き取る時に霊的な関係が回復しました。そして、それが聖霊に満たされた使徒たちの働きへとつながって行きます。

 私たちはイエス様が十字架に掛かって死んだことで私たちの罪が赦されたことを感謝して大切にしています。そして、イエス様が復活したイースターの日は喜びを持って、この日を迎えて、礼拝します。でも、これは聖霊に満たされた豊かな生活を送るための出発点です。十字架と復活は私たちにとってとても大切な出来事ですが、これで、めでたしめでたしではありません。聖霊に満たされた豊かな生活への出発点であることを、ルカは23章の45節と46節の順番によって見事に表していると思います。

 ここに、12年前に出版されたジョン・オズワルト先生の『「聖き」を生きる人々』(伊藤真人、國重潔志訳、日本聖化協力会出版委員会 2009)という本があります。12年前、私が神学生の2年生の時にオズワルト先生は来日して、全国各地で講演されました。BTCの同窓会の2泊3日のセミナーの講師にもなっていて、その前にはBTCにも来られました。その時、当時の院長先生が、私たち神学生がオズワルト先生と昼食を共にして交わる機会を作って下さいました。それで私はこの本にオズワルト先生のサインをいただいたりしました。

 オズワルト先生は、この本の中で、私たちが聖霊によって造り変えられてキリストのように生きることができるようになることが福音の目標であると書いています。そして、このようにも書いています。「単に罪が赦され、生涯を通してそれなりに信仰を保ち、最後は祝福あふれる永遠を神とともに過ごすことがキリストの福音の中心ではありません。このような福音理解は異端的でさえあると私は思っています。」(p.11、一部改変)

 そうしてオズワルト先生は、聖霊によってキリストのように生きることができるように造り変えられることこそが福音の目標であると書いています。

 そして、この本の後半では、とても印象深い例え話が紹介されています。少し長いですが、この例え話を引用して、今夜のメッセージを閉じます。

「ある貧しい男が豪華客船で旅に出ることを夢見ていました。乗船切符を買うために何年も貯金をしましたが、ようやく切符を買えるほどお金がたまった時、客船で出される豪華な食事の費用がないということに気づきました。そこで自分の持ち物と一緒にクラッカーの入った大きな箱と少しばかりのチーズを買って船に乗り込みました。
 みんなが食事のために食堂に行くとき、男は自分の部屋にこもってクラッカーとチーズを食べ、この船旅に出ることができただけでも幸せだと喜んでいました。さて航海最後の日、その豪華な食事とやらを一度ぐらいは味わってみたいと思い、残っているお金を握りしめ、これで足りるようにと願いながら食堂に向かいました。
 彼の驚きと悔しさを想像してみてください。彼のための料理は航海の間、いつもテーブルに並べられていたとウエイターは告げました。食事代は切符代に含まれていたのです。」(p.201-202)。

 オズワルト先生は、多くのクリスチャンは、この男のようなものかもしれないとしています。十字架によって罪が赦されたことは、豪華客船の切符を手に入れたことに相当します。そして、この豪華客船に乗れば、聖霊に満たされた生活という豪華な食事が漏れなく約束されています。それなのに、多くのクリスチャンは、この豪華な食事を楽しむことなくクラッカーとチーズだけという寂しい食事をしているのではないか、そのようにオズワルト先生は考えています。

 ルカの福音書23章の45節と46節の順番は、天と地上との霊的な関係が回復して、聖霊に導かれる豊かな生活がこの後に待ち受けていることを示しています。天の御国と地上の私たちとの間をさえぎる神殿の垂れ幕は真っ二つに裂けましたから、私たちは聖霊を通して天におられる御父とイエス様と交わることが許されています。ですから、私たちは聖霊に満たされた豊かな生活ができるように造り変えられて行くことを願っていたいと思います。

 十字架の金曜日を前にして、この恵みを改めて噛みしめたいと思います。
 一言、お祈りいたします。

44 さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
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イエスに委ねることで受ける励まし(2021.3.18 祈り会)

2021-03-19 13:08:43 | 祈り会メッセージ
2021年3月18日祈り会メッセージ
『イエスに委ねることで受ける励まし』
【Ⅰコリント9:19~23】

Ⅰコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

 時おり私は、イエス様からの励ましや教えなどを、教会の人を通して受けたと感じることがあります。イエス様が教会の人を通して、私に語り掛けて下さったと分かる時があります。それは後になって気付くこともありますし、その人と話している最中に分かる時もあります。

 例えば、初めて高津教会を訪れた日のことを、私は細かいことまでかなりよく覚えています。玄関を入った時に歓迎してくれた兄弟のこと、帰り際に声を掛けてくれた兄弟のことなど、よく覚えています。イエス様はこの兄弟たちを通して教会に来た私を歓迎して下さったのだなと、後になって思いました。

 一方、人と話をしている真っ最中に、いま自分はイエス様からの語り掛けを受けていると感じることもあります。つい最近も、そんなことがありました。きょうは先ず、その証しをさせて下さい。

 今週の月曜日でしたが、午後に車検証を持って自転車で近所の自動車屋さんに行きました。教会の玄関を出た時は、自動車屋さんだけに行くつもりでしたが、自転車で2丁目方面に走り始めてから、Yさんのお宅に寄って行くようにという、強い促しを感じました。それで、自動車屋さんは後回しにして、まずYさんのお宅に寄って行くことにしました。

 Yさんは、去年はよく来て下さっていましたね。それが、今年に入ってばったりと来なくなりましたから、気になっていました。何度か印刷物を届けに行きましたが、いるのかいないのか分からず、お会いできないでいました。Yさんは夜勤をしていますから、夜勤に備えて休んでいるかもしれないと思い、遠慮してあまり大きな声で「こんにちは」ということを控えていました。

 しかし、今週の月曜日は、もっと大きな声で「こんにちは」と言うようにという、イエス様からの促しを感じましたから、大きな声で「こんにちは、教会の小島です」と声を掛けました。すると、Yさんが出て来て下さいました。そうして、お宅の中で腰をおろして2~30分、比較的長い時間、話をすることができました。

 話の中で、Yさんがどうして教会に来なくなったのかも、伺うこともできました。その、教会に来なくなった理由を聞いている最中に、イエス様がYさんを通して私に語り掛けていると感じました。イエス様がYさんを通して私に、第一コリント9章22節のことばを語り掛けていると感じました。

Ⅰコリント9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

 この箇所は、先日行われたF先生のお別れの会での説教で開かれた箇所で、心に響いた箇所だったのですが、イエス様はYさんを通して、改めてパウロのように、弱い人たちには、弱い者になるように語り掛けて下さいました。

 私は不器用ですから、パウロのように相手によって自分を変えることは難しいことです。そもそも相手によって自分を変えることは何だか使い分けているみたいで、なかなかそうする気になれませんでした。でも、パウロが相手によって自分を変えていたのですから、私もそうあるべきなんですね。

 パウロは書きました。「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」、「律法を持たない人たちには、律法を持たない者のようになりました」、「弱い人たちには、弱い者になりました」、「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」。

 それにしても、パウロはどうしてこんな風に相手によって自分を変えることができたのでしょうか。不器用な私にはとても難しいことです。そうして示されたことは、パウロが自分を空っぽにして、イエス様にすべてをお委ねしたからだということです。

 このことを示されて、私はもう一つの、イエス様からの語り掛けを教会の人を通じて受けた時の経験を思い出しました。それは12年前のちょうど今頃の、神学生の1年生だった頃のことです。今度は、その証しをさせて下さい。

 12年前の3月に、神学校の教会の伝道集会で1年生の私は卒業生と一緒にお芝居をしました。『靴屋のマルチン』のお芝居で、卒業生のSさんが主役のマルチンで、私はマルチンの友人役でした。そしてお芝居が終わった後で、教会の多くの方々が、私の演技をほめて下さいました。しかし、私は芝居はまったくの素人ですから、お世辞だろうと思っていました。映画やドラマのエキストラで通行人の役なら何度もやったことがありましたが、セリフがある役はやったことがなかったからです。

 でも、1週間後、2週間後にも、あのお芝居の演技は良かったですねとほめて下さる教会の方がいたので、もしかしたら、本当に良かったのかもしれないと思うようになりました。そうして、思い至ったのが、私はSさんにすべてを委ねていたので、Sさんが私の良い演技を引き出して下さったのではないか、ということです。Sさんは元ミュージカル俳優でしたから、演技のことはすべてSさんに委ねて、練習の時にはSさんの演技指導に従っていました。

 お芝居の練習の初日は、男子寮で男子だけで行いました。最初の練習の時、私はいい加減な気持ちでヘラヘラしながら練習に臨みました。初日はそんなものだろうと思っていました。練習は、最初の場面の、靴を作っているマルチンの所に友人の私が訪ねて行く場面から始まりました。「お~い、マルチン、いるかい?」と私がマルチンの家に入って行くのですが、マルチンはまだイエス様に出会っていない気難しい老人という設定でしたから、マルチンのSさんは、近づいていった私を恐ろしい顔でにらみつけて、「何しに来た」と言いました。その時のSさんの顔は、本当におっかなかったです。それで私は震え上がり、初日だからとヘラヘラしていたことを反省して、それ以降は真剣に練習に取り組みました。そうして、Sさんにすべてを委ねてSさんの演技指導の通りに演技しました。

 それが良かったんだと思います。Sさんに委ねることで、Sさんが私の良い演技を引き出して下さいました。そうして、そんな私をイエス様が教会の皆さんを通して、励まして下さったのだと思いました。神学生の1年生の時、私は神学校で本当に苦労していました。それまで自由に暮らしていたのが、集団生活の様々な規則の下で暮らすことに不自由を感じていました。

 そんな私をイエス様が、教会の皆さんを通して、励まして下さったのだと思いました。そして同時に、自分を空っぽにして、すべてをイエス様に委ねることの大切さを、Sさんに演技を委ねた経験を通して教えて下さったのだと思いました。しかし、いつのまにか、この貴重な経験を忘れていたことに、今回気付かされました。

 第一コリント9章に戻ります。パウロは書きました。「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました」、「律法を持たない人たちには、律法を持たない者のようになりました」、「弱い人たちには、弱い者になりました」、「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」。

 パウロは、自分を空っぽにして、すべてをイエス様にお委ねしたから、このようなことができたのだと思います。

 イエス様は私に対してYさんを通して、「弱い人たちには、弱い者になりなさい」とおっしゃって下さいました。不器用な私ですが、イエス様にお委ねして、そのようにできる者になりたいと思います。

 私たちは、自分にはこれはできない、自分のこういう面だけは変えられないと決めつけていることがたくさんあると思います。でも、あまりそう思わずに、イエス様にお委ねすることが大切なのだと思います。なぜなら、イエス様に委ねることによって、イエス様の励ましを受けることができるようになるからです。イエス様に委ねるということは、イエス様が自分の内に深く入って下さるということですから、イエス様が内から励まして下さるようになります。イエス様が内から励まして下さること以上に、励まされることが他にあるでしょうか。パウロは書きました。

23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

 パウロはイエス様に委ねることで福音のためにあらゆることができました。そして、そのことでパウロも福音の恵みをともに受けました。それはイエス様がパウロの内にいて下さり、励ましていたからです。

 私たちも、イエス様にお委ねすることで、イエス様の励ましを内から受けたいと思います。お祈りいたしましょう。
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心の傷ついた者を癒すイエス(2021.3.11 祈り会)

2021-03-12 14:55:25 | 祈り会メッセージ
2021年3月11日祈り会メッセージ
『心の傷ついた者を癒すイエス』
【詩篇69:1~2、イザヤ61:1~4】

 きょうは東日本大震災の被災地と被災者のことを想いながら、詩篇とイザヤ書に目を留めたいと思います。時間に限りがありますから、詩篇は2ヶ節のみ、イザヤ書は4ヶ節のみです。まず詩篇69篇の1節と2節を交代で読みます。

<詩篇69篇> 指揮者のために。「ゆりの花」の調べにのせて。ダビデによる。
69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
69:2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り、奔流が私を押し流しています。

 この詩篇でダビデは、自分が大きな苦しみの中にあることを、大水に流される様子にたとえています。実際は水に流されているわけではありませんが、描写がとてもリアルなので、ダビデがまるで本当に水に流されているように感じます。

 この詩篇69篇の1節と2節を読む時、私は東日本大震災の津波で犠牲になった方々と、そのご遺族のことを思わずにはいられません。愛する家族を失ったご遺族の悲しみは、どんな亡くなり方をしても悲しいものです。しかし、例えば老衰で天寿を全うして、苦しむことなく眠るように亡くなったのなら、家族の悲しみは随分と和らげられることでしょう。それに対して、津波で愛する人を突然亡くした場合は、本当につらいでしょう。京都アニメーションの放火事件の時も思いましたが、肉親が恐怖と混乱の中で死んだ場合の遺族が受けるショックは計り知れないほど大きなものだと思います。平安に包まれた中で亡くなるのと恐怖の中で亡くなるのとでは、遺族が受けるダメージは天と地ほども違うでしょう。

 つらい状況で家族を亡くして今なお心の傷が癒えない方々に、イエス様の慰めが届くように、お祈りしていたいと思います。このことを覚えながら、今度はイザヤ書61章を開きます。1節から4節までを交代で読みましょう。

イザヤ61:1 である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
2 の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。
4 彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。

 このイザヤ書61章は、イエス様が宣教を開始した時に、ガリラヤの会堂で巻物を広げて読んだ箇所ですね(ルカ4:16~22)。そうして、読み終わった後でイエス様は、「きょう、この聖書のことばが実現しました」(ルカ4:21)とおっしゃいました。つまり、このイザヤ61章の「わたし」とは、イエス様です。

 イエス様は、貧しい人に良い知らせを伝えるために、遣わされました。今はコロナ禍が加わって、よりいっそう困窮している方々がいるのではないかと心配されます。行政や周囲の人々の目が届かない所で困窮している方もいるかもしれません。そのような方々にイエス様の助けが届いてほしいと願います。

 そしてイエス様は、心の傷ついた者を癒やすために遣わされました。貧しい人に手を差し伸べることは、人でもできることが多いと思います。しかし、心の傷を癒すことは人には難しいことです。テレビや新聞の報道を見ても、今なお傷ついた心のままで日々を過ごしている方々がたくさんいます。これらの方々がイエス様によって慰められ、心の傷が癒されることを切に願い、お祈りしていたいと思います。

 そして、1節の最後の文の「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」、からは福島の人々のことを想わされます。エルサレムの人々は捕囚として引かれてバビロンの地に移住させられました。そして、福島第一原発の周辺の市町村に住んでいた方々は、地域一帯が放射能で汚染されたために、他の地域に移住しなければなりませんでした。危険ですから、もちろん移住したほうが良いのですが、住民の中にはたとえ放射線を浴びてでも先祖伝来の地を離れたくないという方もいたと思います。特に高齢で、あと何年生きられるか分からないような方の中には、その地にとどまりたいと願った人もいたことでしょう。しかし、そういう人々も汚染地域に住むことは許されませんでしたから、移住しなければなりませんでした。

 福島第一原発の事故から10年が経って、放射線のレベルが許容範囲内まで低くなって帰宅できるようになった地域も、この10年間ではありました。そのような地域は、もともと飛来した放射性物質が少なく、除染によって放射線のレベルが低くなったから帰還できました。

 放射性物質は、放射線をほぼ出し尽くしてしまえば、もうそれ以上は放射線を出しませんから、安全になります。それが半分になる期間を半減期と言います。半減期が例えば1日であれば、1年も経てば十分に安全になるでしょう。或いはまた、半減期が何億年もあれば、放射線をそんなには出しませんから、安全とまでは言えなくても、それほど恐がる必要はないでしょう。厄介なのは、半減期が数年とか数十年のものです。

 半減期が数十年のものは、人の寿命の期間とだいたい同じですから、人が生きている間中、危険な量の放射線を出し続けます。そして、悪いことに原発の燃料のウラン235が核分裂で二つに割れてできるセシウム137やストロンチウム90などの半減期は人の寿命と同じくらいの数十年です。そういうわけで、エルサレムの人々の場合は約70年でバビロンから帰ることができましたが、福島第一原発の周辺地域で人が住めるようになるのにはもっと時間が掛かるでしょう。このことは本当に悲しいことです。しかし、もし原子炉全体が爆発で吹き飛んでいたら、日本人のほとんどが海外に移住しなければならない事態になっていたかもしれません。そうならなかったのは、神の憐れみのゆえだと思います。

 そのことを思いながら2節の「神の復讐の日」ということばに目を留めたいと思います。2節、

2 の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。

 福島の原発の災害から10年になる今月、この箇所を読んで、この2節の「神の復讐の日」というのは「原発ゼロの日」であろうと思いました。地震が多い日本で、一歩間違えば日本人全体を住めなくする原発が今なお稼働していることは、原発の被害で強制的に移住させられた方々の気持ちを思うなら、本当に悲しいことだと思います。

 せめて原発ゼロにすることが決まるなら、福島で被災した方々も、自分たちが最後の犠牲者であるという慰めも得られるかもしれません。しかし、原発が稼働し続ける限り、第二第三の福島の事故、或いはもっと大きな事故が起きる危険性があります。それは福島の方々にとってもやるせないことだろうと思います。

 福島の原発の災害をバビロン捕囚と重ねてみる時、バビロンは70年で帰還ができましたが、原発の周辺地域で住むことができるようになるには、もっと長い期間が必要でしょう。万一、廃炉の作業が完了する前にさらなる事故でも起きれば、帰還できるのは、もっと先のことになってしまいます。廃炉の作業も問題だらけのようですが、何とかイエス様に助けていただきたいと思います。続いて3節、

3 シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、の植木と呼ばれる。

 被災地の方々に喜びの油が注がれ、賛美の外套が着けられるよう、お祈りしていたいと思います。そして4節、

4 彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。

 イエス様の励ましと御力によって津波で廃墟になった町を建て直し、原発災害の荒れ跡が一新されるよう、お祈りしたいと思います。

 お祈りいたします。
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主のあわれみは尽きない(2021.3.4 祈り会)

2021-03-05 09:42:30 | 祈り会メッセージ
2021年3月4日祈り会
『主のあわれみは尽きない』
【哀歌1~5章】

哀歌3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
22 の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。
23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。
24 こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 夜の祈り会では1月にイザヤ書を、2月にエゼキエル書を開きました。エルサレムはバビロン軍の攻撃によって神殿も王宮も炎上し、城壁も破壊されて廃墟となりました。エルサレムの民もバビロンに捕囚として引かれて行き、彼らは絶望のどん底に落とされます。

 そんなエルサレムの民に対して、主は預言者たちを通して慰めと希望のメッセージを伝えました。1月と2月はイザヤ書とエゼキエル書から、そのような箇所を開きました。きょうは哀歌を開くことにしました。

 後ろの掲示板に皆さんが今年の年頭に示された聖句が貼ってあります。教会の形の台紙に皆さんが示された聖句が貼ってありますが、あれはAさんのご奉仕によるものです。そしてAさんが示された聖句は左下に貼ってあって、この哀歌3章22節と23節のみことばが書かれています。

「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。」

 このみことばが成就して、夫のBさんが救いの恵みに与り、さらに洗礼の恵みにも与ることができたのだなと、この年頭聖句を見ていて思いました。

 Aさんが何を祈り願う中で、このみことばが示されたのか、聞いていないから分かりませんが、ご主人のBさんの救いも当然祈りの課題に入っています。そうして、その祈りの中でこのみことばが示されて、成就したことに主の聖名を崇めています。

 そこで、きょうはこの哀歌3章22節と23節を中心にして、哀歌全体を味わってみたいと願っています。この3章22節と23節は、全体で5章ある哀歌のだいたい真ん中の辺りにあります。それで、きょうの祈り会の前半は1章からこの3章の真ん中辺りまでを、そして皆でお祈りした後で、哀歌の後半を味わうことにしたいと思います。(あまり聖句がたくさんになり過ぎないようにします。)

 まず1章の1節と2節をお読みします。

哀歌1:1 ああ、ひとり寂しく座っている。人で満ちていた都が。彼女はやもめのようになった。国々の間で力に満ちていた者、もろもろの州の女王が、苦役に服することになった。
2 彼女は泣きながら夜を過ごす。涙が頬を伝っている。彼女が愛する者たちの中には、慰める者はだれもいない。その友もみな裏切り、彼女の敵となってしまった。

 この1章1節の「人で満ちていた都がやもめのようになって、ひとり寂しく座っている」という描写から、この『哀歌』はエルサレムが滅亡したことを哀しんでいる歌であることが分かります。

 そして2節の「彼女は泣きながら夜を過ごす。涙が頬を伝っている」から、このエルサレム滅亡がいかに悲しい出来事であったか、ということがひしひしと伝わって来ます。

 彼女を慰める者は誰もいません。友も敵となりました。この友とは、ユダの国がかつて同盟関係を結んでいた国々を指すそうです。

 南王国のユダは弱小国でしたから、世的な政策として他国と同盟関係を結んで生き延びる道を選びました。しかし、うまくいかずに滅ぼされてしまいました。イスラエルの国はソロモン王の時代にはかなり勢力を広げていましたが、ソロモン王の死後に北王国と南王国の南北に分裂したことで、小さな国になってしまいました。特に南王国はユダ族とベニヤミン族とレビ族だけの本当に小さな国でした。そういうわけでユダの国の末期にはエジプトの支援の下にありましたが、バビロニアはエジプトよりも強大であったために、ユダの国は滅ぼされてしまい、エルサレムも滅亡しました。

 ただ、バビロニアがどんなに強大であったとしても、主だけを礼拝して、外国の神々や偶像を礼拝するなどしなければ、主が守って下さっていた筈です。実際、ヒゼキヤ王の時代には主が守って下さっていました。ヒゼキヤ王の時代には、北王国を滅ぼしたアッシリアがその勢いで南王国にも迫り、南王国は風前の燈火でした。しかし、ヒゼキヤ王が主に祈ったことで、主は南王国を守って下さいました。すべての王がヒゼキヤのような信仰を持っていれば、主は守って下さった筈ですが、多くの王たちは偶像礼拝などをしていましたから、主の怒りによってエルサレムは滅ぼされてしまいました。

哀歌2:1 ああ、主は娘シオンを御怒りの雲でおおい、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、御怒りの日に、ご自分の足台を思い出されなかった。

 主はエルサレムを怒りの雲でおおって滅ぼしました。その日には、ご自分の足台である神殿も思い出しませんでしたから、神殿も炎上して焼失しました。そして2節、

2 ヤコブのすべての住まいを主は吞み込み、容赦なさらなかった。憤って娘ユダの要塞を打ち壊し、地に打ち倒して、王国とその首長たちを汚された。

 主の怒りは激しかったので、主は容赦しませんでした。ここから私たちは、不信仰な者への主の怒りがすさまじいものであることを覚えておきたいと思います。私たちもかつては不信仰な者たちでした。私などは自身もかつては偶像を熱心に拝んでいた者でした。それなのに、私は滅ぼされませんでした。主が遣わして下さったイエス・キリストを信じたことで、救いの恵みに与りました。まさに、主の憐みは尽きないことを覚えます。

 この哀歌の作者も、この主の恵みと憐みを待ち望んでいました。哀歌の作者はキリスト教では伝統的にエレミヤであるとしていますから、エレミヤの歌として読みたいと思います。もう一度、最初にご一緒に読んだ3章19節に戻ります。19節と20節、

哀歌3:19 私の苦しみとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。
20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。

 この思い出とは、主の御怒りによってエルサレムが滅ぼされたことです。エレミヤの魂は、ただこれを思い出しては沈んでいました。しかし、その中でもエレミヤは希望を失っていませんでした。

21 私はこれを心に思い返す。それゆえ、私は言う。「私は待ち望む。
22 の恵みを。」実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。

 悲しみの中でもエレミヤは絶望せずに主の恵みを待ち望んでいました。エレミヤは主の憐みが尽きないことを知っていたからです。

 絶望しそうな状況の中にあっても、エレミヤは絶望せずに希望を持っていました。私たちも、このような信仰を持ちたいと思います。

 主がAさんに、このみことばを年頭の聖句に与えて下さり、成就して下さったことを心から感謝したいと思います。そうして、Bさんが救いの恵みに与り、受洗の恵みにも与ったことを、心一杯感謝したいと思います。

 そして、主は私たちの教会の年頭の聖句、「信仰があなたを救ったのです」もBさんのことで成就して下さいました。それゆえ「苦しむことなく、健やかでいなさい」という願いもかなえて下さいますように、お祈りしていたいと思います。

 前半はここまでにして、お祈りの課題に入りたいと思います。

(祈りの時)

 後半は、前半の続きの3章23節から見て行きます。

哀歌3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。

 主が恵みを与えて下さるという希望は朝ごとに新しくされます。

24 こそ、私への割り当てです」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 エルサレムの王宮からは財宝が奪われた後で焼失し、神殿も炎上して焼失して、エレミヤたちは何もかも失ってしまいました。特に祭司であるエレミヤにとっては神殿が失われたことは大きなショックであり、喪失感がありました。しかし、土地や財宝、建物の割り当てでなく主こそがエレミヤへの割り当てであると、エレミヤのたましいは言いました。それゆえエレミヤは主を待ち望みます。

25 はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。
26 の救いを静まって待ち望むのは良い。

 「の救いを静まって待ち望むのは良い」、のみことばが心に響きます。私たちもまた、あわてず騒がず、静まって心を整えて祈り、まだ救われていない家族や周囲の方々のために祈っていたいと思います。

 この箇所を読むと、エレミヤはこの哀歌の真ん中では主を見上げて主の恵みを待ち望むことで平安を取り戻しているように思います。しかし、哀歌の後半に入って再び捕囚に引かれた人々に目を転じることで、またしても不安になっているように見えます。4章の1節と2節、

哀歌4:1 ああ、金は黒ずみ、美しい黄金は色あせ、聖なる石は、道端のいたるところに投げ捨てられている。
2 高価であり、純金で値踏みされるシオンの子らが、ああ、土の壺、陶器師の手のわざと見なされている。

 主の方に顔を向けている時は平安に包まれているのに、悲惨な状態にある世の中を見ると不安に襲われてしまうことは、私たちにもよくあることですね。悲惨な現状を見るなら、不安にとりつかれるのは仕方がないことだと思います。だからこそ、私たちは日々お祈りして、またみことばを開いて、主のほうに顔を向ける必要があります。世の中の方ばかり見ていると、不安ばかりが募り、不信仰に陥りかねません。

 先日、教団本部から年会の資料が届きました。年会の資料には、それぞれの教会の昨年の教財勢の一覧表が載っています。教勢は各教会の昨年の礼拝人数の平均や受洗者数などが載っています。昨年、受洗者が与えられた教会は全国111教会中**教会でした。ちなみに一昨年は**の教会に受洗者が与えられていました。と言っても、ひと昔前までは、ほとんどの教会に受洗者が与えられていましたし、一昨年はコロナの影響はありませんでしたから、一昨年の**教会という数字からは、現代の教会がいかに苦しい状況に置かれているか、ということを物語っています。そうして昨年はコロナの影響も加わって、受洗者が与えられた教会はわずか**教会になってしまいました。

 こういう状況を見ていると、つい暗くなってしまいます。ですから、私たちは今の苦しい状況ばかりを見ないで、主のほうを向いて主に信頼して、主の恵みを待ち望みたいと思います。

 エレミヤも、この哀歌の最後ではまた主の方に顔を向けています。5章の19節と20節、

5:19 よ。あなたはとこしえに御座に着かれ、あなたの王座は代々に続きます。
20 なぜ、いつまでも私たちをお忘れになるのですか。私たちを長い間、捨てておかれるのですか。

 この言葉にも、エレミヤの不安が感じられます。しかし、エレミヤは根底においては3章22節と23節で見たように、主の恵みに希望を抱いて待ち望んでいます。

21 よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。
22 あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。

 主のあわれみは尽きませんから、エルサレムの民は滅び失せることはなく、残されました。そのことをエレミヤは知っており、恵みを待ち望んでいました。そうして、やがてエルサレムは復興に向けて歩み始めました。

 私たちも、厳しい状況の方ばかりを向くのでなく、主の方を向いて、主が与えて下さる恵みを待ち望みたいと思います。そうして、救われる方がさらに与えられることを祈りながら、待ち望みたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
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良い牧者のイエスが私たちを養う(2021.2.18 祈り会)

2021-02-19 09:06:42 | 祈り会メッセージ
2021年2月18日祈り会メッセージ
『良い牧者のイエスが私たちを養う』
【エゼキエル34章】

 きょうはエゼキエル34章を開きます。まず23節から31節までを交代で読みましょう。

エゼキエル34:23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。
24 であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしはである。わたしが語る。
25 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をその地から取り除く。彼らは安らかに荒野に住み、森の中で眠る。
26 わたしは、彼らにも、わたしの丘の周りにも祝福を与え、時にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。
27 野の木は実を実らせ、地は産物を生じ、彼らは心安らかに自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしがであることを知る。
28 彼らは二度と国々の餌食とならず、その地の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安らかに住み、もう彼らを脅かす者はいない。
29 わたしは彼らのために立派な耕作地を開く。彼らは、再びその地で飢饉にあうこともなく、再び国々の侮辱を受けることもない。
30 このとき彼らは、わたしが、彼らとともにいる彼らの神、であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知る──である主のことば──。
31 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人間で、わたしはあなたがたの神である──である主のことば。」

 23節と24節の「ダビデ」とはイエス様のことですね。「彼ら」とはイスラエルの民であり、イエス様はイスラエルの民を養い、その牧者となります。イエス様は彼らのただ中で君主となります。

 そして主は26節で、時にかなって雨を降らせると仰せられます。それは祝福の雨となります。そして27節、

27 野の木は実を実らせ、地は産物を生じ、彼らは心安らかに自分たちの土地にいるようになる。

 この26節と27節の「祝福の雨」が「野の木は実を実らせ、地は産物を生じ」のくだりからは、先々週開いた47章の神殿から流れ出た水が大河になって周辺を潤して木は新しい実をつける描写を思い起こします。47章12節、

47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

 今回の先々週からのエゼキエル書の3回のシリーズでは、この47章を最初に見て、順次さかのぼって来ました。先週は37章の干からびた骨がつながって肉が生じ、息が吹き込まれた記事を見てから、36章にさかのぼりました。この36章では、特に25節と26節に注目しました。

エゼキエル36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

 神様は私たちのうちに新しい霊を与えて下さいます。この神の霊の水によって、干からびた骨には命が与えられ、渇き切っていた荒野は潤されて信仰の実が豊かに実るようになります。

 そして、きょうはさらに34章にさかのぼることで、この豊かな潤いはイエス・キリストが地上に遣わされたことで実現したのだということを、確認することができました。順番通りに34章から47章までを読むよりも、47章からさかのぼって来たことで、イエス様が遣わされたことで人々に聖霊が注がれるようになり、干からびていた魂が聖霊で満たされて豊かな信仰の実を結ぶようになることを確認できたように思います。

 47章からさかのぼることにしたのは、たまたまです。たまたま、先々週の月曜日から火曜日に掛けて強い雨が降りましたから、渇き切って荒野になっていた安倍川に水が戻り、川の音が戻り、水鳥のカモも戻って命が戻っていました。このことに感動しましたから、その感動を忘れないうちにと思って、47章から開きました。

 この安倍川の水ですが、先々週からしばらくはまた雨が降らないでいましたから、先週の後半にはまた、ほぼ干上がっていました。先々週から先週に掛けて、ジョギングで何度か安倍川の河川敷を走りましたが、行く度に川の水量が減って行きました。そうして、川の水が流れる音がしなくなり、カモもまたいなくなりました。

 それが、今週の日曜日の夜から月曜日の昼過ぎに掛けて低気圧が通ったことで、また強い雨が降りましたね。このことで、また安倍川に水が戻りました。カモが戻り、川の水が流れる音もまた聞こえるようになりました。きのう、この川の水が流れる音を聞きながら、やっぱり、この川の音が良いなと思いました。川の水が音を立てて流れるところに、命があることを感じます。干からびた川には命がありませんが、音を立てて水が流れる川には、命があると思いました。

 このように祝福の雨を降らせて川に命を与え、私たちの渇いた魂をも潤して命を与えて下さるのがイエス・キリストです。もう一度、34章の23節と24節をお読みします。

23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。
24 であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデが彼らのただ中で君主となる。わたしはである。わたしが語る。

 イエス様は良い牧者です。なぜ主が良い牧者であるイエス様を遣わされたかというと、その前には悪い牧者がいたからですね。ここで34章の最初のほうにさかのぼりたいと思います。そして、最後にまた、このイエス様の所に持って来ます。

 34章の最初の方で主は、悪い牧者について仰せられました。1節と2節。1節の「私」とはエゼキエルです。

エゼキエル34:1 次のようなのことばが私にあった。
2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。

 イスラエルの牧者たちとはイスラエルの王たちです。王たち、例えばエホヤキム王などは、自分の羊を養わなかったので、国を滅ぼしました。それゆえ主は「わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。」と仰せられました。続いて3節と4節、

3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。
4 弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。

 そうしてイスラエルの民は散らされてしまいました。5節、

5 彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。

 多くの者たちはバビロンに引かれて行き、他の者たちも捕らえられる前に逃げ出して散って行きました。それゆえ主は、散らされた民を捜し出して救い出すと仰せられます。主は良い牧者だからです。少し飛ばして11節と12節、

11 まことに、である主はこう言われる。「見よ。わたしは自分でわたしの羊の群れを捜し求め、これを捜し出す。
12 牧者が、散らされた羊の群れのただ中にいるときに、その群れの羊を確かめるように、わたしはわたしの羊を確かめ、雲と暗黒の日に散らされたすべての場所から彼らを救い出す。

 そして13節~15節、

13 わたしは諸国の民の中から彼らを導き出し、国々から彼らを集め、彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその地のすべての居住地で彼らを養う。
14 わたしは良い牧草地で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らの牧場(まきば)となる。彼らはその良い牧場(まきば)に伏し、イスラエルの山々の肥えた牧草地で養われる。
15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らを憩わせる──である主のことば──。

 この14節の、「彼らはその良い牧場(まきば)に伏し」からは、詩篇23篇のダビデの賛歌を連想しますね。詩篇23篇1節から3節、

詩篇23:1 は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに私を義の道に導かれます。

 主は、私を「いこいのみぎわ(憩いの水際)」に伴って下さいます。この水もまた、神の霊の水、聖霊です。良い牧者であるイエス様は私たちを聖霊で満たして私たちの魂を生き返らせて下さいます。

 主は私たちが聖霊の恵みに与ることができるように良い牧者であるイエス様を地上に遣わして下さいました。神様から離れてしまう罪によってカラカラに渇き切ってしまった私たちの魂を聖霊によって潤うようにして下さいました。そうして、緑の牧場で憩うことができるようにして下さいました。

 もう一度、エゼキエル書34章の23節に戻ります。

エゼキエル34:23 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、その牧者となる。

 そして34章の最後の31節、

31 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場(まきば)の羊である。あなたがたは人間で、わたしはあなたがたの神である──である主のことば。」

 ダビデは詩篇23篇で「主は私の羊飼い」と歌いましたが、ここでは、主ご自身が「あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場(まきば)の羊である。」とおっしゃって下さっています。ダビデの賛歌も幸いですが、主ご自身が私たちを「わたしの羊」とおっしゃって下さっていることは、何と幸いなことでしょうか。とても大きな平安を覚えます。

 この良い牧者である主に付き従って行き、平安に包まれたいと思います。お祈りいたしましょう。
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人の魂を生き返らせてきよめる神の霊

2021-02-12 09:27:34 | 祈り会メッセージ
2021年2月11日祈り会メッセージ
『人の魂を生き返らせてきよめる神の霊』
【エゼキエル36:25~38、37:1~10】

 今月の祈り会では先週、今週、来週の3回、エゼキエル書を開くことにしています。先週は47章の、神殿から流れ出た水が大河になって周辺を潤して果実を豊かに実らせ、海の水をきよめた箇所を開きました。

 47章というエゼキエル書の最後の方から先に開いたのは、ちょうど先週の前半に大雨が降って安倍川に水の流れが戻った感動を忘れないうちにと思ったからです。11月から1月までの冬の間、安倍川はずっと涸れていて荒野になっていました。それが、立春の少し前の先週の始めに強い雨が長い時間降って、川の流れが戻り、流れが緩やかな場所ではカモが泳ぐほどになりました。川はやっぱり荒野ではダメで、潤っていなければならないと改めて思いました。同様に私たちの魂も神の霊の水によって潤っていなければならないという話をしました。

 そして、きょうの37章を読んで、先週47章を先に読んでおいて良かったなと思いました。37章の干からびた骨の記事は、ここだけ読むと気味の悪い感じを受けますが、先週の川の記事を思い起こすなら、同じようなことが書いてあることに気付かされます。川も骨も、神の霊によって生き返ります。

 後で36章も見ることにしていますから、37章は少し飛ばしながら見ることにします。まず37章の4節と5節、

エゼキエル37:4 主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、のことばを聞け。
5 である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

 そして7節、

7 私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。

 先ほども言いましたが、この箇所だけを読むと、ここは少し気味の悪い記事だと感じます。しかし、47章の川の場面と重ねると、そんなに気味の悪い記事ではないと感じます。涸れた川に水が戻って潤うように、干からびた骨も潤いを取り戻します。8節と9節、

8 私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
9 そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」

 そして10節、

10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。

 こうして、干からびた骨の集団に命が与えられました。先週読んだ47章の川のほとりの光景が思い起こされます。お読みします。

エゼキエル47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

 干からびた骨は、このような川のほとりの果樹に実る果実のようなみずみずしさを取り戻しました。それは、渇いた骨に神の霊の水が注がれたからです。

 このようにして生き返った人々は、内側がきよめられています。この37章の記事は、外面的な事と言うよりは、むしろ内面の汚れのきよめのことであることが、一つ手前の36章を読むと分かります。今度は36章をご一緒に見ましょう。

エゼキエル36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

 この36章を、滅亡したエルサレムのこととしてだけでなく、私たちのこととしても読みたいと思います。私たちの多くは何らかの偶像を崇める危険をいつも抱えています。それはお金や財産、仕事の業績や人からの評価などです。それらを偶像のように崇める時、私たちの心は神様から離れてしまいます。そんな私たちに主はエゼキエルを通して、偶像の汚れ、そしてすべての汚れから私たちをきよめるとおっしゃって下さっています。

 主は私たちに聖霊を与えることで、私たちをきよめて下さいます。そして私たちから石の心を取り除き、肉の心を与えて下さいます。「肉の心」というと、パウロの手紙では悪い意味で使われていますが、このエゼキエル書では「石の心」に対する「肉の心」ですから、良い意味で使われています。「石の心」は頑固に神様の言うことに従おうとしない頑なな心のことです。それに対して「肉の心」は神様のおっしゃることを柔軟に受け入れます。そうして柔らかい心で神様のことばを受け入れるなら、自分の過ちに気付くことができて、27節にあるように、主の定めを守り行うようになります。

 そして29節、

29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せて増やし、飢えをあなたがたに送らない。

 主はすべての汚れから私たちを救い出して下さり、且つ私たちを穀物で養って下さいます。少し飛ばして33節、

33 である主はこう言われる。「わたしがあなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人の住めるところとし、廃墟は建て直される。

 この廃墟とは先ほども言ったように、滅亡したエルサレムの廃墟のことであると同時にイエス様を信じる前の私たちの心のことでもあると読みたいと思います。私自身の心の中も、教会に導かれる前は、廃墟のようであり、荒野のようになっていました。34節、

34 荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒れ野と見なされていたが、耕されるようになる。

 主は荒野であった私の心を耕し始めて下さいました。しかし、荒野を耕すことは、そんなに簡単ではありません。そこの駐車場の会堂側にチューリップの球根を植えた狭い場所を耕すだけでも、けっこう大変でした。去年の春にコスモスの種を蒔いた時は、移植ゴテで10cmか15cmぐらい掘り返しただけでしたが、石がゴロゴロ出て来て、石を取り除くのが大変でした。それでも何とか手で一個一個拾い上げることができるほどの分量でした。

 けれども去年の11月にチューリップの球根を植えた時は、もっと深く掘り返す必要がありましたから、そこの柳町のホームセンターのカーマに行って、スコップを買って来ました。そうして、スコップで掘り返したところ、埋まっていた石ころの量が半端ではなくて、一つ一つ手で拾い上げていたらいつまで経っても終わらないほどの量でしたから、またホームセンターに行って、フルイを買って来ました。そうしてフルイを使って、ようやく石を取り除くことができました。

 私の心も石ころだらけですから、まだ神様にフルイを掛けていただいている途中です。まだまだ石ころだらけですからイエス様には申し訳ないですが、我慢して住んでいただいているという感じでしょうか。そして35節、

35 このとき、人々はこう言うだろう。『あの荒れ果てていた地はエデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、破壊されていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と。

 荒れ果てていた私の心は天に召される時でなければエデンの園にはならないでしょうが、何とかイエス様に忍耐して住み続けていただくために、少しでもイエス様が住み良い場所になるよう変えていただきたいと願っています。

 干からびて荒野であった私たちの心にイエス様が入って下さり、石ころを取り除いて下さり、そして聖霊によって潤して下さってきよめて下さっていることに心から感謝したいと思います。

 お祈りいたします。
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