徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

寺社めぐり(5)

2021-06-13 19:49:36 | 熊本
 8年前に「曲水の宴」を見に行って以来、久しぶりに代継宮を訪れた。立田山東麓の住宅地を通り抜けるわかりにくい場所に位置している。どうしてこんな辺鄙な地に遷座させられたのだろうと気の毒になる。
 その由緒について熊本県大百科事典には次のように紹介されている。

――社伝によると、国司紀師信(きのもろのぶ)が応和元年(961)に奉祀したもので、四本の神木を植えて四ツ木宮と称したという。祭神はもと住吉大神と紀貫之だったが、天明2年(1782)に細川藤孝が合祀された。最初は現在の花畑公園の位置にあったが、加藤清正が同地に花畑邸を設けるため白川左岸の本荘に移した。のち細川綱利のとき社号を「代継」に改めたという。――


現在の代継宮(熊本市北区龍田3丁目)


熊本市本荘三丁目に鎮座していた時代の代継宮


花畑公園に残る代継宮鎮座の跡。四本の神木の一本である大クスが今も残る。


加藤清正の熊本城築城以前の中世の「茶臼山と隈本之絵図」。代継宮が坪井川右岸にあるという不思議な絵図。


平安時代の宮中行事を今に伝える禊祓(みそぎはらえ)の神事「曲水の宴」


代継宮の鎮座1050年祭を記念し、2010年から毎年開催されている


伝統の代継太鼓

伊勢へ七度 熊野へ三度・・・

2021-06-12 21:47:27 | 伝統芸能
 再びロケができなくなった今夜のブラタモリは、5年前に放送された伊勢編2本を編集したスペシャル編。毎年800万人がお伊勢参りに訪れるそうだが、江戸時代でさえ多い年は400万人(人口の6分の1)が訪れたという。
 そのお伊勢参りで「荷物にならない伊勢土産」 として全国に普及したのが伊勢音頭。伊勢音頭というのは神宮を中心とした伊勢地方でうたわれた音頭類の総称(濱千代早由美著「民謡とメディア」より)だという。
 伊勢音頭と称する多様な歌の歌詞の中でよく知られている一つが
 「伊勢へ七度(ななたび)熊野へ三度(さんど)愛宕様(あたごさま)へは月参り」
という歌詞。もともと俗謡で謡われていたものが、伊勢音頭の中に取り込まれたものと思われる。「東海道中膝栗毛」などにも登場するし、出雲阿国が慶長8年(1603)に始めたという「かぶき踊」の代表的な演目として有名な「茶屋遊び」の歌詞にも
 「茶屋のおかかに末代添はば 伊勢へ七度 熊野へ十三度 愛宕様へは月参り」という歌詞がある。
 伊勢神宮と熊野三山の関係はわかるが、江戸の愛宕神社がとってつけたような印象。これは江戸からのお伊勢参りが多かったことと関係があるのかもしれない。

 かつて僕が住んでいた近江の多賀大社辺りでは
 「伊勢にゃ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月まいり」と唄われ、さらに
 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と続く。天照大神はイザナギ・イザナミの子であるというわけだ。
 「世界の民謡・童謡」に紹介いただいている下の動画「伊勢音頭」の中ではこの歌詞は演奏時間の制約もあって使われていない。


歌川広重「伊勢参宮 宮川の渡し」


「ケンタッキーの我が家」と「雪の山中」

2021-06-11 20:41:19 | 音楽芸能
 毎年5月に行われるアメリカ競馬ビッグレースの一つ、ケンタッキー・ダービーの映像を見た。このレースの出走馬の本馬場入場の際の習わしとなっている「ケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)」を観客全員で歌う光景は感動的だ。この歌はケンタッキー州歌にもなっているらしいが、日本人でも誰もが知っているスティーブン・フォスター作曲の歌だ。その他にも、おおスザンナ、草競馬、故郷の人々、金髪のジェニー、オールド・ブラック・ジョー等々、フォスター作曲の歌を歌ったことがない人はいないかもしれない。

 山本周五郎の代表作ともいわれる「虚空遍歴」は、武士の身分を捨て端唄で人気を得た中藤冲也が、浄瑠璃作家として成功しようと苦闘しついに客死した半生を描いた作品。実はこの人物のモチーフとなっているのがスティーブン・フォスターだという。フォスターがどんな一生を送ったのか残念ながら知らないが、中藤沖也の生きざまと共通するものがあるのだろう。
 この山本周五郎の「虚空遍歴」に着想を得て、朗読と邦楽が融合した舞台「松廼家おけい」を作り上げたのが三味線音楽の大御所・本條秀太郎さん。沖也を献身的に支えた柳橋松廼家の芸妓おけいを中心に物語が語られていく。沖也のあてどもない浄瑠璃行脚の旅の中に、山中温泉の場面がある。本條秀太郎さんは、自らが50年ほど前に創作された俚奏楽「雪の山中」と、この「虚空遍歴」の世界観に共通するものを感じとり、それがこの舞台の動機になったそうだ。(※第1回公演は2009年)

 僕は山本周五郎の「虚空遍歴」は読んだが、舞台「松廼家おけい」は見たことがない。機会があればぜひ見てみたいものだ。
 なお、主人公の中藤沖也という名前は詩人の中原中也を連想させるが、山本周五郎もそういう意識があったようだ。
 それにしても、フォスターの「ケンタッキーの我が家」と俚奏楽「雪の山中」がつながるなどと考えたこともなかった。

My Old Kentucky Home - Stephen Foster


本條秀太郎作曲 俚奏楽「雪の山中」

吉木りさのタミウタ

2021-06-10 23:18:51 | 音楽芸能
 東海風流プロジェクトのお二人(水野詩都子さんと﨑秀五郎さん)が、NHK-FMの「吉木りさのタミウタ」(6月20日放送)に出演されるそうだ。この番組は時々radiko(ラジコ)で聴いている。当日のもう一人のゲストは朝倉さやさん。
 曲目は朝倉さんが「Mr.Mamurogawa」と「新・東京」。東海風流プロジェクトのお二人が「名古屋甚句(前唄・本唄)」と「大津絵飛騨ぶし」他と発表されている。
 幕末に流行ったといわれる「そうじゃおまへんか節」を源流とする「名古屋名物」を得意とされる東海風流プロジェクトと、同じ「そうじゃおまへんか節」を源流とする「酒田甚句」を得意とされる朝倉さん。聴き比べをしたかったのだが、またいつか機会があれば実現することを期待しよう。





泰勝寺の池

2021-06-09 21:03:57 | 文芸
 細川家の菩提寺であった泰勝寺跡(立田自然公園)の見どころの一つが池だと思う。現在、コロナ感染拡大防止のため閉館しているので見ることができないが、泰勝寺跡に行った時は必ず、しばらく池を眺めて過ごすことにしている。
 夏目漱石の「草枕」の中に画工と那美さんとのこんなやりとりがある。

「あなたはどこへいらしったんです。和尚が聞いていましたぜ、また一人散歩かって」
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画にかくに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々投げるかも知れません」
 余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
 女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧りみてにこりと笑った。茫然たる事多時。

 このやりとりの後、鏡が池の描写のくだりになるのだが、2016~2017年に開催された夏目漱石記念年事業の一環として出版された「漱石の記憶」(熊日出版)の中に、中村青史先生(元熊大教授)の「草枕 鏡が池のモデル」という小論が掲載されている。中村先生によれば「吾輩は猫である」の舞台となっている立田山麓の、寺田寅彦の下宿先や泰勝寺や五高などの描写から、漱石が泰勝寺の池を見ていたことは間違いなく、「吾輩は猫である」の「鵜の沼」や「草枕」の「鏡が池」のイメージは泰勝寺の池がモデルになったのではないかという説を唱えておられる。実際に現地で「鏡が池」の描写を思い浮かべながら池の周囲を見て回って確信されたようだ。一般的に「鏡が池」のモデルは小天の庭池とされているが、そこがあまりにも小説のイメージと異なることに疑念を抱いておられたようだ。


泰勝寺の池(西側から)


泰勝寺の池(北側から)


池の向こうに茶室仰松軒


山本丘人「草枕絵巻」より「水の上のオフェリア(美しき屍)」

ブラタモリ随想

2021-06-08 20:49:36 | テレビ
 ブラタモリも2008年12月に放送が始まって12年が過ぎた。最近はどうもアカデミックになり過ぎた感が否めない。地形や地質も興味がないわけではないが、かつてのゆる~い感じが懐かしい。
 その代表的な回が、2012年1月12日に放送された第3シリーズの「江戸の盛り場 ~吉原編~」。こんな感じで番組が進行した。

▼江戸の盛り場 ~吉原編~
 案内人は立教新座中学校・高等学校校長兼立教大学名誉教授の渡辺憲司さん。
 「吉原は江戸の流行の発信基地」とかなんとか言いながら、舟で吉原を目指す。柳橋から隅田川を北上、浅草を通過して吉原へと向かう。そこで一句
 「船宿へ家の律儀は置いてゆき」
 つまり、恥も外聞も打ち捨ててというわけか。
 かつて使われたのは猪牙船(ちょきぶね)。「猪牙船 小便千両」と言って、相当金をつぎ込まないと舟上に用意された竹筒へ小便ができるようにはならないという。
隅田川の西岸に見えてくるのが「首尾の松」。江戸時代から数えて七代目の松。
 「濡れてしっぽり首尾の松」
などと、同伴した芸者といい雰囲気になると、まさに「浮かぶラブホテル」状態。
やがて舟は吾妻橋を通過。江戸時代、一日三千両(朝は日本橋、昼は浅草、夜は吉原)の金が動くと言われたというエピソードを聞く。当時は「吉原細見」というガイドブックがあったという。
やがて今戸橋付近に到着。舟を降り、待乳山聖天にお詣り。夫婦和合の御利益がある大根を購入。新婚の久保田アナに進呈するも大根は聖天様にお供え用。
今では暗渠となった隅田川の支流の跡を辿って歩いて吉原へ。
女性の観光客もこぞって吉原へ来た理由。それは遊女の斬新な着物や化粧などを一目見たかったから。つまり吉原は流行の発信基地。
遊女が髪を洗うのは月に一回。遊女には厳然たる階級があり、江戸中期、二千人いた遊女のうち十人もいなかったのが太夫。美貌はもちろん高い教養が求められ、なんと時計を直せるかどうかまで求められたという。
紙洗橋に差し掛かると「冷やかし」の話。ここにはかつて再生紙の職人たちがいて、再生紙を溶かして冷やす。冷ます間にちょっと吉原の遊女をからかいに、これが「冷やかし」の語源だという。
暗渠と並行して走る土手を日本堤という。水害から守るために作られた人工の堤防。
八代将軍吉宗の時代から8代続くという提灯屋「土手大嶋屋」へ立ち寄る。
かつて遊客が振り返って名残を惜しんだという「見返り柳」は江戸から六代目。大きく曲がった道の先に吉原大門があり、そこからの直線道路が仲之町通り。

そんな感じで吉原探訪が進んでいく。



   ▼吉原を発祥とする「さわぎ唄」


「翁」熊本公演

2021-06-07 23:34:35 | 伝統芸能
 3月9日に水前寺成趣園能楽殿で行われた「翁プロジェクト 熊本公演」のダイジェスト映像が同プロジェクトのYouTubeチャンネルにアップされていた。わずか5分16秒のダイジェスト版だが、当日の雰囲気を思い出させる貴重な映像だ。山桜や木々の葉が風にそよぎ、謡いが朗々と響き渡る。その開放感は、そもそも翁とはこういうものだったのだろうと思わせる。天下泰平、国土安穏を翁が、そして五穀豊穣を三番叟が祈念してきた千数百年の歴史にあらためて感動を覚える。





<出演者>
  翁 :友枝 昭世
 三番三:山本 則重
 千 歳:山本 凛太郎  
  笛 :森田 徳和 
 小 鼓:幸 正佳 曽和 鼓堂 古田 寛二郎
 大 鼓:白坂 信行 
 後 見:中村 邦生 友枝 雄人
 狂言後見:山本 泰太郎 山本 則秀
 地 謡:狩野 了一 金子 敬一郎 内田 成信 粟谷 充雄
     大島 輝久 友枝 真也 谷 友矩 渡辺 康喜

草枕の世界を味わう

2021-06-06 21:12:44 | 熊本
 夏目漱石の小説「草枕」の舞台となった熊本市内から小天温泉までの通称「草枕の道」約16kmを家内と二人で歩いてからもう12年の歳月が流れた。再チャレンジはもう体力的に無理なようだ。そこでたまに、コースの一部をつまみ食いし、「草枕の世界」をちょっぴり味わっている。今日は鳥越峠の茶屋辺りから河内への道と野出への道の分岐点辺りまでを歩いてみた。体調さえよければ鳥越峠の茶屋から野出峠の茶屋跡までだったら歩けるかもしれない。


鎌研坂を登り切ると鳥越峠の茶屋に着く。ここが茶屋跡。現在この下に往時の茶屋が再建されている。


野出峠へ向けていったん坂を下って行く。五六間先きから馬子がふうとあらわれそう。


眼前が開け田植えを控えた大将陣の棚田が姿を現す。遠くに二ノ岳、三ノ岳を望む。

京町濱田屋はどこ?(2)

2021-06-05 21:01:33 | 歴史
 5月24日のブログに「吉田如雪の明治十年日記」に出て来る「京町濱田屋」とはいったいどこにあったのかを取り上げた。その後、当時の京町絵図の有無を調べることにしていたが、この店は京町の花街を構成する一つと考えられ、西南戦争の戦火で他の妓楼などと一緒に焼失し、3年余の短い期間しか存在しなかったと推測される。従って当時の町絵図が残っている可能性は極めて低いと考えられる。
 そこで、そもそも「京町濱田屋」とはどんな店だったのか推測してみた。まず「京町」とあえて付けたのは本店が別にあるのではないか。あるいは暖簾分けした店なのかも知れない。前回の記事に「吉田如雪の文章によれば『京町濱田屋』は三階建て。ただの湯屋とも思えない。旅館か料亭だったのか、はたまた妓楼だったのか。」と書いた。いろいろ思いめぐらせていた5月29日、「ブラタモリ~木更津編」が放送された。木更津は「切られ与三」として知られる歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の物語の発端の地という解説があった。そして与三郎とお富が再会するのが江戸日本橋界隈の「玄冶店(げんやだな)」。そこでハッと気が付いた。玄冶店といえば「濱田屋」だ。現在も高級料亭として名高い。あのフジテレビの三田友梨佳アナの実家としても有名だ。
 明治時代には芸者置屋の大店だったらしいが、はたして熊本に店を出すだろうか。明治時代の熊本は軍都であり、学都であり、また国の出先機関が置かれた西日本有数の大都市。ありえない話ではない。話が少し妄想気味になって来たが、調べてみる価値はありそうだ。





「切られ与三」を題材とした昭和29年の大ヒット曲「お富さん」

木馬道

2021-06-04 20:58:17 | 歴史
 今日の午後、荷物を送るため、洗馬橋際の中央郵便局へ行った。帰りは国立病院を通り抜け、二の丸広場へ出た。小雨が降り続き、人の姿は一人二人といった寂しさ。西出丸の中を通り加藤神社でお詣りして帰ろうと思った。加藤神社の鳥居前まで来た時、ふと気づいた。今日のルートは加藤清正による熊本城築城の際、石材や木材を運んだ木馬道(キンマミチ)とほぼ同じコースだったのではないかと。熊本城築城に従事した高瀬の大工棟梁善蔵の覚書に書かれた「きんま道から木と石を運んだが車のあつたけんでけたつたい」という木馬道はいくつかルートがあったらしいが、当時、茶臼山の麓を流れていた白川の水運を利用して運んだ石材や木材を、今の国立病院の下辺りで陸揚げし運んだルートの跡が発掘調査で発見されている。今日、たまたま歩いて通っただけだが、この高低差を往時の人々は大量の石材や木材を運んだのだと思うと自然と頭が下がる。


小雨降る中、加藤神社へ参詣する人も少ない


国立病院熊本の看護学校建設前、くっきりと残る木馬道の跡

雨の日

2021-06-03 19:01:01 | 文芸
 梅雨らしい雨の日には必ず思い出す詩(うた)がこれ。福岡県瀬高町(現みやま市)出身の詩人で、児童文学に偉大な足跡を残した與田準一(よだじゅんいち)の作品。詩のモデルとなったのは、天才少女詩人と謳われた海達公子とその妹・通子である。公子の父貴文と文芸誌「赤い鳥」への投稿仲間として交流があった與田は、度々、荒尾の海達家へ泊りがけで訪れたという。後に上京して北原白秋に師事した與田は、白秋と海達親子の間をつなぐパイプ役ともなった。


12年前、瀬高町に與田準一記念館がオープンした時、僕は開館式に参加した。



 記念館には「赤い鳥」大正15年11月号の拡大コピーが掲示され、與田と公子の作品が仲良く並ぶ。


御田植祭 各地で中止!

2021-06-02 17:07:36 | 日本文化
 夏の初めの風物詩「御田植祭」の時季がやって来たが、各地から中止の知らせが伝わっている。昨年に続いて2年連続の中止となったところも多いようだ。
 熊本城稲荷神社の御田植祭は、田の神様に奉仕する早乙女を舞踊団花童が務めるのが恒例となっていたが、今年も見られないのが残念だ。


熊本城稲荷神社の御田植祭は毎年舞踊団花童が早乙女を務める


昨年に続き今年も熊本城稲荷神社御田植祭は中止


阿蘇神社御田祭も中止(宇奈利の行列)


防府天満宮の御田植祭は斎行の予定?(春風楼前の仮設斎田)

キリン 午後の紅茶

2021-06-01 20:49:03 | ニュース
 今日から発売されたキリンビバレッジの「午後の紅茶 for HAPPINESS」には熊本県玉名市産の横島イチゴ「ゆうべに」と水俣市「お茶の坂口園」で作られた「和紅茶」が使われている。
 キリングループは熊本地震からの復興を応援するため、これまで地震で被災した南阿蘇鉄道の見晴台駅などでCM撮影をして地域のPRをするなど様々な支援を行ってきたが、今回は県産品のイチゴと茶葉を商品に使うことで支援をすることになったという。
 売上1本につき3.9円が熊本地震や去年7月の豪雨からの復興支援などに活用されるそうなので多くの皆様に飲んでいただきたいものだ。