徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

ハライソめざし不帰の船出

2018-04-17 20:51:46 | 歴史
 10年ほど前、天草郡苓北町で真珠養殖業を営む阿倍さんの事業場を訪ねたことがある。そこは坂瀬川という地区で、すぐそばに「天草四郎乗船之地」という旧蹟があった。江戸時代初期の1637年に起きた日本の歴史上最大規模の一揆「島原の乱」において、16歳の少年天草四郎を総大将に立てた一揆軍が富岡城を攻め落とせず、決戦の地、島原半島の原城跡を目指して船出した浜がここである。天草へ二度と戻るつもりはなく、到着後、船は解体して防御資材として使ったと伝えられる。この浜から早崎瀬戸へ向け漕ぎ出した天草四郎の心中いかばかりであったろうか。


天草四郎乗船之地(天草郡苓北町坂瀬川 ※阿部正直さん撮影)


原城跡をめざし、早崎瀬戸へ漕ぎ出す


 
 昭和56年(1981)に父がわが家の墓を改葬した時、立田山のわが家の墓所には二基の苔むした墓石があり、その一つには「島原之乱戦死 十五代之孫之墓」と刻まれていた。古いご先祖が島原の乱で戦死しているのである。僕は20年前に熊本へ帰って来て以来、時々、横手町の安国寺にある「有馬忠死碑」をお参りしている。肥後細川藩は藩主忠利が2万3500の大軍を率い、幕府軍でも随一の戦果をあげたといわれるが、細川藩だけでも二千名を超える死傷者を出した。この安国寺の「有馬忠死碑」は戦死者を追悼するための碑である。
 現在、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が2018年の世界文化遺産登録を目指しているが、幕府軍・一揆軍合わせて4万人を超える犠牲者を弔う意味でも、世界文化遺産登録が成ることを願っている。


安国寺「有馬忠死碑」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。