先日、藤崎八旛宮に八朔詣りをした時、境内の末社詣りをしながら清原元輔の歌碑「藤崎の軒の巌に生ふる松 今幾千代か子の日過ぐさむ」をあらためて読みながら、大河ドラマ「光る君へ」に登場する元輔の娘・清少納言のことを考えていた。元輔が周防国司として赴任した時は清少納言がまだ8歳だったので帯同しているが、肥後国司として赴任した時、清少納言は20歳くらいになっていて、既に15歳の時に橘則光と結婚しており、帯同しなかった。というよりできなかった。元輔が任地肥後で死去したのが83歳、時に清少納言24歳。その3年後くらいから中宮定子に出仕するようになり、その5年後に離婚している。中宮出仕してしばらくしてから「枕草子」を書き始め、中宮定子が亡くなった1年後くらいに完成したと伝えられる。
肥後とは縁がなかった清少納言だが、「枕草子」の「島」の條には
「島は 八十島 浮島 たはれ島 絵島 松が浦島 豊浦の島 まがきの島」
と、肥後の「たはれ島(風流島)」が含まれている。史料によっては八代の「水島」が含まれていることもある。当時は海上交通の要衝として都にも知られていたのだろう。
藤崎八旛宮境内の清原元輔の歌碑
緑川河口の有明海に浮かぶ小さな岩島「たわれ島」。背景は金峰山と二の岳
肥後とは縁がなかった清少納言だが、「枕草子」の「島」の條には
「島は 八十島 浮島 たはれ島 絵島 松が浦島 豊浦の島 まがきの島」
と、肥後の「たはれ島(風流島)」が含まれている。史料によっては八代の「水島」が含まれていることもある。当時は海上交通の要衝として都にも知られていたのだろう。
藤崎八旛宮境内の清原元輔の歌碑
緑川河口の有明海に浮かぶ小さな岩島「たわれ島」。背景は金峰山と二の岳
写真の岩島「たわれ島」と「枕草子」の「島」の條がとっても神秘的な気がします。
父の葬儀にでも肥後に行ったんでしょうかね?
それにしても足を運ぶのがやっとという時代、新聞もラジオもないでしょうに、書物から「たはれ島(風流島)」をイメージしたとしたら天才以外の何者でもない気がします。
私は「枕草子」執筆関連にも全く無知なもので・・・(汗)
有難うございました。
歌枕として知られていても詠み人は現地に行ったわけではないことが多いですからね!(^^)!
父元輔の葬儀あるいは墓参に清少納言が肥後へやって来た可能性はあると思います。しかし、昭和初期に熊本市史作成に当たって史料調査が行われたようですが、清少納言が肥後の地へ来た史料はついに見出せなかったようです。
「たはれ島(風流島)」は都でもかなり知られていたようですね。