徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

岩戸の里の秋

2015-11-10 20:59:19 | 熊本
 母が外出できなくなり、代理で母の実家へご先祖のお参りに出かけた。帰りは紅葉の進み具合を確かめようと、河内町から山越えのルートを通り、久しぶりに岩戸の里へ立ち寄った。あいにく雲の多い天気だったのであまり見栄えはしなかったものの、山は彩りを深めつつある。
 岩戸の里へ行くと必ずお参りするのが檜垣嫗(ひがきのおうな)ゆかりの山下庵跡に佇む野仏。お参りしながらふとこんなことを考えた。

 世阿弥の能「檜垣」に登場する檜垣嫗は百歳に近い老女。しかし、それはあくまでも世阿弥の創造したフィクションであって、この山下庵に住んでいた頃、あるいはその前に白川の辺から岩戸観音まで日参していた頃の実際の年齢はいくつくらいだったのだろうか。百歳近いババァが水桶を担いで、あの険しい「こぼし坂」を毎日登って来たとはとても考えにくい。
 古代中世の日本文学研究者で、文学博士の妹尾好信教授(広島大)の研究論文によれば、白河で水を汲む檜垣に出逢った人物が、後撰集や世阿弥の謡曲の通り、大宰府大弐在任中の藤原興範だとすれば、檜垣が詠んだという「年ふれば我が黒髪もしらかわの みづはくむまで老いにけるかな」という歌を、単純に老女の歌と考えるのは早合点だとして次のように述べている。

――延喜12年(912)頃、興範は九州白河の地で旧知の桧垣に数年ぶりに再会した。桧垣の歌はその時挨拶として詠まれた当意即妙の歌なのであって、決して実際に彼女がみづはぐむ老女であったわけではない。女盛りを過ぎた年齢になったことを誇張して言ったまでで、実際の年齢は三十代かせいぜい40歳くらいであったと考えてさしつかえないのである。――

 つまり、まだバリバリ動ける年齢だったからこそ、白川の辺から日参して閼伽の水を供えることができたとも考えられるのである。そう考えると、中村花誠さん原案・作調・振付、杵屋六花登さん作詞・作曲の「檜垣水汲み踊り」が決して誇張ではないと思えてくるのである。


檜垣嫗が晩年、この地に庵を結んだと伝えられる「山下庵」跡から雲厳禅寺を望む


山下庵の傍に今も水が湧き出る「檜垣の泉」



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。