津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」を拝見していると、津々堂さんが所属しておられる郷土史研究の会「熊本史談会」では現在、「熊本城下の坂」をテーマに取り上げておられるようだ。坂の多い京町に住む一人として、とても興味深いものがある。実は随分前に京町の坂をブログのテーマとしてシリーズ化しようと取りかかったのだが、調べるのが面倒臭くなってそれっきりになっている。その頃、書きかけた文章がいくつか残っているのでこの際アップすることにした。
とりあえず今回は「瀬戸坂とその周辺」について。
「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、同じ意味で、坂の近くに「瀬戸(迫門)」つまり「海や川の狭まったところ」があったということだろう。今日、地域住民の間では常識となっているが、寺原田畑はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々(下の写真参照)。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうなこんな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代頃の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちないものがある。ここから先は僕の仮説なのだが、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺があったことからこの名がついた。浄国寺は近年、「谷汲観音」があることで有名になったが、現在の所在地は元の寺の位置ではない。
※写真はいずれもクリックして拡大できます
上の写真は今の瀬戸坂の頂上だが、手前で瀬戸坂と直角に接しているのが、昔、「西の柳川小路」と呼ばれた通りで、ここから100mほど東の「東の柳川小路」までが切り通されて坂になったのは明治時代になってからだ。下の京町絵図(細川綱利公の時代、1650年代)で見ると、「東の柳川小路」まで平坦な土地に武家屋敷が並ぶ。そして「東の柳川小路」に取り付けられた階段から下が迫門坂となる。ということは「東の柳川小路」が現在のように南北から瀬戸坂に接する坂道になったのも明治時代になってからかもしれない。
僕らが高校生の頃、瀬戸坂はまだ石畳で、ここを下駄音を響かせながら通学するのが一つのステイタスだった。
とりあえず今回は「瀬戸坂とその周辺」について。
「瀬戸坂」、古い文書では「迫門坂」とも書かれているが、同じ意味で、坂の近くに「瀬戸(迫門)」つまり「海や川の狭まったところ」があったということだろう。今日、地域住民の間では常識となっているが、寺原田畑はかつて海だったという。その証拠に周辺一帯には海に関係する地名がズラリと並ぶ。すなわち、「舟場」「津の浦」「打越」「永浦」等々(下の写真参照)。ところが、じゃあいったいいつ頃まで海だったのかというと、これがよくわからないのだ。有明海が内陸部まで入り込んだ時期というのは6千年も前の「縄文海進」や千年ほど前の「平安海進」などがあるが、6千年も前に、まるで和歌にでも出てきそうなこんな美しい地名がつくとは到底思えない。ということは「平安海進」の時ということになるかというと、寺原田畑が海ということは今の熊本市は大部分が海に浸かっていたことになる。平安時代頃の熊本の歴史を調べてもこれまた腑に落ちないものがある。ここから先は僕の仮説なのだが、海が退いた後、低地が沼沢として残り、かつて海だった記憶が子々孫々まで伝わり、沼沢を海に見立てて地名をつけたのかもしれない。ちなみに寺原(てらばる)とはこの地に浄国寺があったことからこの名がついた。浄国寺は近年、「谷汲観音」があることで有名になったが、現在の所在地は元の寺の位置ではない。
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上の写真は今の瀬戸坂の頂上だが、手前で瀬戸坂と直角に接しているのが、昔、「西の柳川小路」と呼ばれた通りで、ここから100mほど東の「東の柳川小路」までが切り通されて坂になったのは明治時代になってからだ。下の京町絵図(細川綱利公の時代、1650年代)で見ると、「東の柳川小路」まで平坦な土地に武家屋敷が並ぶ。そして「東の柳川小路」に取り付けられた階段から下が迫門坂となる。ということは「東の柳川小路」が現在のように南北から瀬戸坂に接する坂道になったのも明治時代になってからかもしれない。
僕らが高校生の頃、瀬戸坂はまだ石畳で、ここを下駄音を響かせながら通学するのが一つのステイタスだった。