徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

東京オリンピック1964の思い出(1)

2015-06-26 13:38:19 | スポーツ一般
 東京五輪2020のメイン会場となる国立競技場建設の迷走ぶりを見ていると、この一大プロジェクトを統括する人がいったい誰なのかよくわからない。
 思い起こせば、東京五輪1964の時は、自民党の大物・河野一郎氏が建設大臣として強引なまでのリーダーシップで道路や施設の整備を進め、五輪直前にはオリンピック担当大臣に就任して東京五輪を成功に導いた。おそらく当時は国民一丸となって五輪成功をという気運に満ち満ちていたからこそできたことなのだろう。
 その河野一郎氏で思い出すのは、公式記録映画を担当した市川崑監督との「記録性」に関する激しい論争だ。今日では普通のことなのかもしれないが、市川監督の「東京オリンピック」には撮影前に脚本や絵コンテが作成されていて、脚本に沿った映像が十分に撮れていない場合は、五輪後に追加撮影をしたことが当時問題となり、河野担当大臣と市川監督との間で「記録性と芸術性」の論争となったものだ。
 実は僕も、五輪後の追加撮影に参加した一人なのだが、釈然としない気持があったのは事実である。8年前、南都上緒さんという方のサイト「なんとかかんとか」で、この追加撮影のもととなった脚本が存在することを知った。脚本にはこう書かれていた。

『 水球。決勝。水中撮影で選手たちの下半身の激しい動作、それに伴う水の乱れを捉えたい。』

 たった1行のこの文章のために、僕らの大学の水球チーム全員が東京体育館のプールに呼び出された。いつも試合を行なう大プールは水深が2㍍余りしかないため、水中撮影が十分な深さまで潜れる飛込プールを使って撮影が行われた。僕らは何度か疑似ゲームを繰り返し、それを水中カメラマンが3~4㍍の深さから撮影した。
 しかし、公開された映画にはこんなシーンはない。南都さんにもおたずねしてみたが、このシーンはオリジナル版(劇場公開版)、ディレクターズカット版ともに入っていないと。つまりカットされたわけだ。東京オリンピックで銅メダルを獲った男子バレーボールチームも後日、追加撮影をしたそうだが、結局使われたのは金メダルを獲った東洋の魔女チームだけだったと、男子監督だった松平康隆さんが著書で述懐していたそうである。
 この映画の脚本は和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎、市川崑の四人による共同執筆である。谷川さん以外はすでに鬼籍に入っておられるが、このシーンの部分を書かれたのはいったいどなたなのだろう。
 ちなみに、追加撮影のエキストラの仕事が僕らのチームに回って来たのは、谷川俊太郎さんのお父さん、谷川徹三先生が当時僕らの大学の総長だったからではないかとにらんでいる。当時はアマチュア規程が厳しかったので、僕らの出演料は撮影後、一流中華料理店での食事だけだった。その4年後のメキシコオリンピックの記録映画には、この脚本さながらのシーンがこれでもかというほど入っている。



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