徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

織田信長、明智光秀そして出雲阿国?が登場する「家久君上京日記」

2013-03-07 20:32:38 | 歴史
 戦国武将である島津家久(1547-1587)が天正3年(1575)に薩摩から京に上った時の旅日記「家久君上京日記」は、「金春流肥後中村家」のホームページの中でその存在を知ってから一度読みたいと思っていた。このほどやっと読むことが出来た。原文のままなのでよく意味がわからない部分もあるが、聞きしに勝る面白さだ。
 まず僕が興味を持ったのは、家久一行が帰路、温泉津(島根県大田市)で能か神舞を演じる出雲衆と出会うくだり(下記参照)だ。出雲大社の巫女だったという出雲阿国が文献に登場するのは、この7年後の天正10年「多聞院日記」あたりが最初。この出雲衆の中に、もしお国がまじっていたとすれば、わずか3歳ぐらいということになる。しかし、それはありえないことではない。現にいま、子供舞踊団こわらべの木村きみかちゃんは3歳でちゃんと舞台を務めているし、この日記の中にも「男女わらハへ」という言葉が出てくる。これは「童部(わらわべ)」つまり子供ということであり、後に彼等の踊りが「ややこ(稚児)踊り」と呼ばれたこととも符合する。確たる証拠はないが、家久君は幼い頃の出雲阿国と出逢っていたのかもしれない。

一 廿五日打立行に肝付新介ニ行合候、加治木衆三十人ほと同行、さて西田の町を打過、湯津に着、
  其より小濱といへる宮の拜殿にやすらふところに、伊集院に居る大炊左衛門、酒うり持参、さて
  湯に入候へは、喜入殿の舟に乗たる衆、秋目船の衆、東郷の舟衆、しらハ衆、各すゝを持参り候、
  其より小濱のことくまかり出雲之衆、男女わらハへあつまりて能ともなし、神まひともわかぬおひいれ、
  出雲哥とて舞うたひたる見物し、・・・

 この他にも、近江の坂本へ明智光秀を訪ね、琵琶湖の魚や酒で歓待を受けた話や、京で大坂の本願寺攻めから帰陣する何万騎という織田信長の大軍に遭遇し、馬上で眠っている信長を目撃するなど、実に興味深い話がでてくる。「本能寺の変」の7年前の話である。
 
▼温泉津


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