徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

おてもやんの音楽的系譜

2023-06-16 22:10:48 | 音楽芸能
 4年ほど前、熊日新聞で毎月第4金曜日の夕刊に連載されていた「肥後にわか~笑いの来た道~」では、肥後にわかと民謡「おてもやん」の深い関係について取り上げていました。そして「おてもやん」の音楽的系譜について「東海風流プロジェクト(水野詩都子・﨑秀五郎)」さんが寄稿されました。紙面では要約が掲載されていましたが、今回あらためて全文を紹介いたします。(一部編集させていただきました。)


 私どもは「東海風流(とうかいふりゅう)プロジェクト」と申しまして、民謡歌手 水野詩都子と三味線演奏家 﨑秀五郎が2015年に立ち上げたプロジェクトです。近年歌われなくなってしまった中部の唄を歌い継ぐため、現地調査・取材・検証を行い、発表する活動をしております。
 私どもの発表の場の一つである「中部のうたを聞く会」を通じ、中部の民謡(うた)を中心に、関連のある曲をご紹介しながら、唄と三味線のコンビならではの演奏を主体とした形で、普段聞く民謡をいつもと違う角度で聞いていただこうと構成したものです。

 「おてもやん」の曲のルーツは諸説ある中、私どもは音楽という観点も踏まえて下記の通り考えております。
 江戸で流行った歌は、花柳界に移り、それを聞いた客が覚えて帰り、全国各地でも流行ります。昔の宿の泊まり方は、保養・療養が主な目的で、七日とか十日といった長逗留が当たり前ですので、毎晩聞こえる歌も覚えてしまいます。
 そして芸妓の移動です。かつて芸妓には旦那《提供者を意味するdonorドナーが語源》の存在がありました。スポンサーの様なものですが、適度に援助したり協力する程度のものではなく、芸妓一人を見出し決めるとほとんど生涯にわたり世話をするほどのものでした。そんな旦那について行き、各地で流行歌を披露します。
 また、幕府公認の吉原芸者以外、移動が自由だったため、芸者衆は各地に移動しながら仕事をしていたことも伝播に大きな影響があったひとつです。他にも江戸で流行った唄が歌舞伎などの芝居に取り入れられ、地方巡業で全国に広まるということもあります。
 さて、明治20年頃「きんらい節」という曲が流行りました。上方の噺家・初代芝楽が京都から江戸に移り、「きんらい節」を披露し花柳界から瞬く間に全国に届くほど大流行しました。蓄音機ができる10年前ですから、広範囲で流行したというのは今考えると凄い事だと思います。曲のおしまいに呪文のような囃子言葉があります。

「キンムクレッツノスクネッポ スッチャンマンマンカンマンカイノ オッペラポーノ キンライライ
 そおじゃ おまへんか アホらしいじゃ おまへんか」

 明治大正期は意味のない言葉や英語やポルトガル語のようなものを歌の最後につけて楽しむ歌が流行ったようです。「オッペケぺー」とか「ギッチョンチョン」などと言うのもあります。長崎で「キンライライ」というのは、「また来てね」という意味で使うらしいのですが、あまり関係ないように思います。また、江戸の人には最後の関西弁が非常にウケたのでしょう。
 そして通称「そうじゃおまへんか節」と言われました。この系統の唄は、必ず「そうじゃおまへんか」の旋律が入っています。
「名古屋名物」で言うと、「おそぎゃあぜえも」。
「おてもやん」で言うと、「花盛り花盛り」「それが因縁たい」。
「男なら」で言うと、「オーシャリシャリ(仰る通り)」の部分です。
この「きんらい節」に影響された、山形県の座敷の騒ぎ唄の「酒田甚句」があります。

「酒田甚句」
〽︎日和山 沖に飛島 朝日に白帆
 月も浮かるる最上川 船はどんどん えらい景気
 今町船場町 興屋の浜 毎晩お客は どんどん
 しゃんしゃん しゃん酒田はよい港
 繁盛じゃおまへんか ハーテヤテヤ

酒田は最上川が海に注ぐ港町。歌詞が関西弁であることから北前船寄港地として酒田港が繁栄していたことが伺えます。この他にも「金沢訛り(石川県)」「どんがらがん(福岡県)」などがあります。
さて、この「そうじゃおまへんか節」を名古屋の芸妓が取り入れ、出来上がったのが「名古屋名物」です。

「名古屋名物」
〽︎名古屋名物 おいて頂戴もに すかたらんにおきゃせ ちょっともだちゃかんと ぐざるぜも
  そうきゃもそうきゃも何でゃあも 行きゃすか置きゃすか どうしゃあす
  お前(みゃ)はまこの頃 どうしゃあた 何処ぞに姫でも出来せんか
  出来たら出来たと言やあせも 私も勘考(かんこ)があるぎゃあも おそぎゃあぜも

 最初から最後まで地元の人しかわからないほどの濃い名古屋弁が特徴の歌詞です。「きんらい節」の《スッチャンマンマンカンマンカイノ オッペラポーノ キンライライ》の部分は、「名古屋名物」で言うと《ちょっともだちゃかんと ぐざるぜも》です。また、名古屋名物の大きな特徴として、この後「語り」部分を導入した事です。この洒落たアレンジが、名古屋娘の可愛らしさをさらに強調させます。そして、これを母体に影響を受けたのが「日高川甚句」「熊本甚句(おてもやん)」と言われております。
 ウタは、他にも、旅人や相撲の巡業、瞽女など様々な形で伝播して行きます。明治30年過ぎには蓄音機ができます。それによって鮮明に伝わり、瓜二つの曲ができたのかもしれません。「そうじゃおまへんか節」の系統の唄は、旋律の他に歌い出しの旋律もよく似ています。また三味線の手付けも酷似しています。
 ルーツには幾通りの見解があります。以上は、あくまで私ども「東海風流プロジェクト」としての見解です。私どもも日々探っていく中、大変勉強になることばかりで、今後も引き続き検証して参りたいと思っております。
東海風流プロジェクト
水野詩都子 本條秀五郎




2010.3.27 熊本城長塀前特設ステージ 坪井川大園遊会
立方:ザ・わらべ
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