徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

高砂と阿蘇神社

2023-06-19 21:53:24 | 伝統芸能
 またまた前日の記事からの連想で恐縮だが、漱石「草枕」の「鈴鹿馬子唄」のくだりより少し前に巻き戻すと、
 「おい」と声を掛けたが返事がない。
の有名な書き出しで二章が始まる。ここで登場するのが茶屋の婆さん。画工はその婆さんの顔を見て、宝生流の能舞台で見た「高砂」の姥にそっくりだと思う場面だ。

―― 返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思った。箒を担いだ爺さんが橋懸を五六歩来て、そろりと後向きになって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。 ――


高砂の浦に現れる尉と姥

 「高砂」といえば熊本ゆかりの能。ワキは阿蘇神社の神主友成である。そういえば、平成28年の熊本地震で倒壊した阿蘇神社の楼門が復元間近だというニュースを最近見た。今年中には一般公開が始まるという。
 阿蘇神社のある一の宮町はかつて僕は仕事で何度も訪れた懐かしい町。阿蘇神社にももう何十年も参拝していない。復興なった時にはまず参拝し、昔お世話になった方を訪ねてみたい。

   ▼「高砂」のエンディング・住吉明神の神舞