最近、加藤神社付近で人力車に乗った観光客をよく見かけるようになった。全国の観光地で人力車は今や欠かせない観光のアイテムになったようだ。熊本では「肥後力俥」さんが頑張っておられる。
明治時代中期、熊本で五高教師として暮らしたラフカディオ・ハーンや夏目漱石などのエピソードには人力車が欠かせない。そんな熊本における人力車の歴史を熊本県大百科事典より転載してみた。
人力車は明治3年(1870)3月に東京で製造が許可されると、たちまちのうちに全国主要地に普及した。県下の人力車第1号は4~5年、東京から移入された。県当局が熊本洋学校のお雇い外人教師ジェーンズの乗用車として購入したのがはじまり。急激な普及で6年5月には県は早くも取り締まり規則を定め、翌年には賃銭の規程を定めた。9年には「人力車夫営業規則」を定めて、交通事故の多発による規制を強めた。20年には離島の天草を除く県下全郡に及び2500台に達する。熊本市内では人口33人に1台というすさまじい普及をみたが、27年をピークとして次第に下降線をたどり、郡部における乗合馬車、熊本市内では軽便鉄道の登場、大正末年には自動車、自転車、バスが普及し、市電の開通で決定的に凋落する。大正末から昭和初年にかけて失業車夫の救済は重大な社会問題となった。
2016年4月13日「漱石来熊120年」記念行事の一つとして上熊本駅から人力車で京町を通り新坂を下る場面が再現された。
2012年3月31日「城下町くまもと時代絵巻」において熊本の歴史を彩った偉人たちが人力車で登場
明治時代中期、熊本で五高教師として暮らしたラフカディオ・ハーンや夏目漱石などのエピソードには人力車が欠かせない。そんな熊本における人力車の歴史を熊本県大百科事典より転載してみた。
人力車は明治3年(1870)3月に東京で製造が許可されると、たちまちのうちに全国主要地に普及した。県下の人力車第1号は4~5年、東京から移入された。県当局が熊本洋学校のお雇い外人教師ジェーンズの乗用車として購入したのがはじまり。急激な普及で6年5月には県は早くも取り締まり規則を定め、翌年には賃銭の規程を定めた。9年には「人力車夫営業規則」を定めて、交通事故の多発による規制を強めた。20年には離島の天草を除く県下全郡に及び2500台に達する。熊本市内では人口33人に1台というすさまじい普及をみたが、27年をピークとして次第に下降線をたどり、郡部における乗合馬車、熊本市内では軽便鉄道の登場、大正末年には自動車、自転車、バスが普及し、市電の開通で決定的に凋落する。大正末から昭和初年にかけて失業車夫の救済は重大な社会問題となった。

