徒然なか話

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阿国歌舞伎 in くまもと(考察)

2019-09-05 21:23:45 | 歴史
 慶長15年(1610)に熊本で行われた阿国歌舞伎はその後の熊本芸能史に少なからぬ痕跡を残した。これは以前にこのブログで紹介したことがあるが、明治42年に出版された鈴木天眼著「清正公」という加藤清正伝記のなかに次のように書かれていることからもうかがえる。(鈴木天眼とは明治大正期のジャーナリストおよび政治家)

「肥後は細川氏時代より現代に至る迄 チンコ芝居《少女歌舞伎》の名産地なり 其淵源は恐らく清正公當時 阿國招聘に歸せむか」

 この熊本にとってエポックメイキングな出来事を映像化しつつ考察を加えてみた。しかし、手がかりとなるのは清正死後50数年後に書かれたという「續撰清正記」の次の一節しかない。

 八幡の國という芸能者を熊本まで招き、城下の塩屋町三丁目の武者溜まりで勧進能を行い、その能の後で歌舞伎を行わせた。この時、家臣の侍たちは銀子1枚を出して桟敷において見物をし、城下の町人たちは八木(米)を見物料として出し、鼠戸の口より入って芝居(舞台と貴賓席との間の芝生席)にてこれを見た。歌舞伎とはこの國が始めたものであり、その当時西国の者たちは聞いたこともなかったため、その珍しさに集まった貴賎上下の老若男女、鼠戸の前に市をなす有様で、みな押し合いながら見物したという。

 まず、「八幡の国」という人物が、後年、「出雲阿国」と呼ばれるその人なのかどうか。「出雲阿国」という呼び名は後世の人たちが伝説として付けた名前であり、自らそう名乗ったことはなく、「八幡の国」と同一人物と考えてよいという研究者が多い。それではなぜ「八幡の国」と名乗ったのか。お国は勧進元によって太夫名を使い分けたともいわれており、熊本での興行は「八幡社(藤崎八旛宮)」の勧進興行として行われたと考えられ、またお国を招いた清正の両親が鍛冶の家の出で、鍛冶の神は八幡神であることも配慮したのかもしれない。
 次に小屋掛けをした塩屋町三丁目の武者溜まりであるが、ここは柳御門のたもとであるため仮設の小屋であったろう。下の遊女歌舞伎の図が参考になるが、勧進能をやった後に勧進歌舞伎をやるので舞台は能仕様そのものだったと考えられる。舞台や橋掛かり、鏡の間などの上には屋根が設けられ、竹矢来と陣幕で囲った中に町人の野天芝生席や家来衆の屋根付桟敷席が設けられただろう。木戸口のところだけ建付けがあり、客は鼠戸口をくぐって入場しただろう。
 木戸銭は桟敷席の侍たちが銀子1枚とあるが、仮に50匁の慶長丁銀1枚とすると現在の価格で60,000~70,000円くらいか。結構高い。芝生席の町人たちは米を持ってきたとあるが、江戸時代初期、米1升が2,500円くらいだそうだから、1升持ってきたのか、5合くらいだったのか、投銭形式で量は本人の気持次第だったのかもしれない。「鼠戸の前に市をなす有様…」とあるので相当混み合った状態で見物したに違いない。
 最後にどういう演目だったのかだが、熊本初の歌舞伎興行なので定番の番組だったと思われる。おそらく次のような演目が繰り広げられたであろう。

 念仏踊り/大原木踊り/因幡踊り/かぶき踊り(茶屋遊び)etc.


▼お国の時代のかぶき踊りの図(地方は四拍子のみ)


▼お国より少し後の時代の遊女歌舞伎の図(地方に三味線が入る)


▼慶長15年、阿国歌舞伎が小屋掛けした「塩屋町三丁目武者溜まり」(現市電洗馬橋電停付近)


▼現代の歌舞伎舞踊(2019年5月 山鹿八千代座 山鹿をどり 鏡獅子)