このブログへのアクセス解析で、時々見かける検索キーワードに「熊本民謡キンキラキン」がある。この唄に関する記事を何度かアップしているのでそれが検索にヒットするのだろう。
「熊本民謡キンキラキン」というのは江戸時代中期、肥後細川藩六代藩主・細川重賢公の時に行われた「宝暦の改革」の厳しい倹約令を風刺する唄である。「キンキラキン」とは錦綺羅、絹綺羅、綺羅錦など絹織物の華美な衣装のことで、贅沢の象徴として槍玉にあげられたが、そのうち贅沢なことはすべて「キンキラキン」と言い囃した。
この唄の歌詞(下記参照)を読んでみると、前半は肥後武士の身拵えの特徴を唄っていて、それがはたして贅沢なのかと問いかけている。例えば、1番では「肥後武士の刀の鞘に付けた下げ緒(下の写真の鞘に巻いた黒い紐)は長い。これはいざという時、たすき掛けに使うから。それも贅沢だというのだろうか」と唄っている。さらに2番では「(肥後武士の)子供をいじめるならいじめてみよ。彼らが腰に差した朱鞘の刀は本物だ。それも贅沢だというのだろうか」と続く。

朱鞘の大小
この歌詞をあらためて読みながら、あるエピソードを思い出した。
明治・大正時代に活躍した山川健次郎という教育者がいる。会津藩の白虎隊出身で大河ドラマ「八重の桜」にも登場した。東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を歴任した凄い人だが、この山川健次郎が、明治40年1月、熊本の済々黌創立25周年を参観し、次のような講話をした記録が残っている。
「私は会津の生まれで、幼時、藩校日進館で教育を受けた。この藩校は肥後の古屋昔陽先生によって建てられ、私たちは肥後的教育を受けた。江戸で他藩の武士は大道せましと闊歩していたが、肥後藩士は道の片わきを通り、子供に至るまで決して不遜の風なく、よく礼儀を重んじていた。また他藩の子弟は幼時、多くは木剣を帯びていたが、肥後の子供はきちんと朱鞘の大小を帯びていた…」 等と肥後武士の美風を称賛しているのである。

「熊本民謡キンキラキン」というのは江戸時代中期、肥後細川藩六代藩主・細川重賢公の時に行われた「宝暦の改革」の厳しい倹約令を風刺する唄である。「キンキラキン」とは錦綺羅、絹綺羅、綺羅錦など絹織物の華美な衣装のことで、贅沢の象徴として槍玉にあげられたが、そのうち贅沢なことはすべて「キンキラキン」と言い囃した。
この唄の歌詞(下記参照)を読んでみると、前半は肥後武士の身拵えの特徴を唄っていて、それがはたして贅沢なのかと問いかけている。例えば、1番では「肥後武士の刀の鞘に付けた下げ緒(下の写真の鞘に巻いた黒い紐)は長い。これはいざという時、たすき掛けに使うから。それも贅沢だというのだろうか」と唄っている。さらに2番では「(肥後武士の)子供をいじめるならいじめてみよ。彼らが腰に差した朱鞘の刀は本物だ。それも贅沢だというのだろうか」と続く。

朱鞘の大小
この歌詞をあらためて読みながら、あるエピソードを思い出した。
明治・大正時代に活躍した山川健次郎という教育者がいる。会津藩の白虎隊出身で大河ドラマ「八重の桜」にも登場した。東京帝大、京都帝大、九州帝大の総長を歴任した凄い人だが、この山川健次郎が、明治40年1月、熊本の済々黌創立25周年を参観し、次のような講話をした記録が残っている。
「私は会津の生まれで、幼時、藩校日進館で教育を受けた。この藩校は肥後の古屋昔陽先生によって建てられ、私たちは肥後的教育を受けた。江戸で他藩の武士は大道せましと闊歩していたが、肥後藩士は道の片わきを通り、子供に至るまで決して不遜の風なく、よく礼儀を重んじていた。また他藩の子弟は幼時、多くは木剣を帯びていたが、肥後の子供はきちんと朱鞘の大小を帯びていた…」 等と肥後武士の美風を称賛しているのである。

唄:福島竹峰 踊り:福島竹峰社中ほか
踊り:舞踊団花童
踊り:舞踊団花童