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清正夫人の大脱走!

2013-03-23 19:06:28 | 歴史
 加藤清正公を祀った神社として知られる加藤神社は、清正公を主祭神とし、清正公に殉死した大木兼能公と韓人金官公を陪神としている。その大木兼能公の逸話として有名なのが、関ヶ原の戦の前の「清正公夫人の大坂脱出」エピソードだ。この話は昨年10月24日、NHKの「歴史秘話ヒストリア」でも語られたが、「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。

▼清正夫人の大阪脱出
 慶長五年七月頃、加藤清正は肥後に帰って居られ、大阪の肥後屋敷には大木土佐(兼能)が夫人の清浄院殿(徳川家康の養女)を守護して留守を預って居た。清正は「石田三成等が、この際愈々、徳川征伐の軍勢を繰出すに違いない。そうしたら、きっと大阪在住の諸将の妻子を人質として城中に連れ込むにきまっている。人質などに取られては無念至極だ」と、御船奉行の梶原助兵衛景俊を招き寄せ、大阪に上って、よく土佐と相談して適宜の方法を執るように内命された。
 大阪に上った助兵衛は肥後屋敷へ往来の途中、毎日ぶらりと歩き廻っては油を売って歩いた。「面白い爺さんだな」と町人も町役人も、段々梶原を見知るようになった。そのうち助兵衛は少し病体になった。病体になっても毎日二度づつは駕で往来した。「老病の事で御座れば、乗物の儀平に御容赦下されたい」と、番所々々を過ぎる毎に駕の中から役人に挨拶した。大きな綿の頭巾をかぶり、大きな夜着を背中から打ちかけて、乗物の左右の窓を明け払って居る。「御老体御病気となれば、少しも苦しう御座らぬ。但し役目がら、一応接見は致す」と形式だけの検閲はするが、勿論、何の怪しい事もない。後には「いつもの病人か、構わぬ/\」と、形式だけの検査も全くしないようになった。
 二十日ばかりの後、御屋敷の門を出る梶原の駕の中には、大きな夜着の裏に隠れて、清浄院殿夫人が小さくなって乗って居られた。助兵衛は後にもたれるようにして、刀の柄に手をかけて居た。大大土佐は梶原の帰るのを見送りがてら散歩にでも出るようにして、眼を八方に配りながら、駕の後からぶら/\とついて行った。「いつもの老人か。苦しうない通れ/\」で無事に町口を出てしまった助兵衛は、兼て用意の早船に夫人を乗せ、大阪川口の番船をも、うまく胡魔化し港を出ると一帆千里似せ老人の老奉行の櫓擢の手並あざやかに、瀬戸内海を西へ西へと走ったのである。
 この策を取計った留守居役大木土佐は、この功によって二千石の加増を受けた。

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