徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

岳間茶と鹿北茶山唄

2013-03-01 14:50:29 | 音楽芸能
 現在の山鹿市鹿北町岳間の清らかな水と豊かな大地に育まれ、上品で風味豊かなお茶として多くの人に好まれる岳間茶。大昔から岳間では自然に生えていた山茶を使って良質なお茶を作っていた。今から380年前の寛永9年(1632)、肥後細川藩初代藩主の細川忠利公が、入府後初めて藩内の各地を視察してまわった時、筑後との国境にある多久村の星原番所で出されたお茶を大変気に入り、以後「御前茶」として献上するようになった。毎年新茶ができ上がると、細川家の家紋、九曜紋の入った茶壷に納め、椎持往還(しいもちおうかん、現在の県道37号)を通って運ばれていた。
 この江戸時代の御前茶から、山鹿郡津留村に生まれ、後に「熊本県茶業の大恩人」と呼ばれた中川正平によって岳間の茶は熊本を代表する一大産業へと発展して行った。明治の中頃になると、茶摘みの季節には岳間に県内外から多くの労働者がやって来て、かなりのにぎわいを見せていた。県内は天草や益城、玉名などから、県外は八女や立花などの福岡県南部から、その数は総勢二千人余りにものぼったという。「鹿北町誌」によれば、明治の頃は天草の人を雇わぬ人はなく、一軒に多いときには数十人が働いていたとある。その天草の人たちが茶摘みに来たときに歌った歌が「茶山唄」。この「鹿北茶山唄」は「のぼり唄」、「つみ唄もみ唄」、「仕上げ唄」の三部構成となっている。その中から「つみ歌もみ歌」をご紹介したい。 

▼つみ歌もみ歌
1 肥後の殿様 お召しの銘茶 あかねだすきの手もはずむ
2 声はすれども 姿は見えぬ 主は深山のホトトギス
3 茶つみゃしまゆる 茶つみ衆は帰る 後に残るはテボ円座
4 お茶はもめもめ もみさえすれば どんなしば茶も香茶となる
5 お茶はもめたが 釜の上まだか 早くこきゃげて もむがよい
6 お茶はもまんでも 時さえ来れば 栗飯だんごじゅりゃ腕まくり


立方 ザ・わらべ
地方 本條秀美と秀美社中/中村花誠と花と誠の会


※山鹿市教育委員会教育部文化課発行の「近代の山鹿を築いた人たちシリーズ」より引用