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徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

いかとり唄

2025-08-08 21:03:08 | 音楽芸能
 﨑秀五郎さんが「いかとり唄」のハモリバージョンをアップされた。この唄は神奈川県逗子市の小坪漁港に古くから伝わる民謡だが、聴きながら、ふとブリヂストン時代にお世話になった産業医の酒井恭次先生のことを思い出した。先生は10年前に他界されたが、ずっと逗子市にお住まいだったからだ。度々二人で横浜を飲み歩いたが、一度逗子のご自宅にお伺いしたいと思いながら、とうとうそれはかなわなかった。
 今夜は酒井先生を偲びながら「いかとり唄」を聴いていた。

「小坪漁港」坂田 融

 この「いかとり唄」について、「日本の民謡 ~ CDで聴くふるさとの唄」には次のように解説されている。
「いかとり唄」(神奈川)
沖に見えるは いか採り船か さぞや寒かろ 冷たかろヨイヨイ
 今朝も早よから この浜伝い ねんねこ寝るまでヨ 守り仕事ヨイヨイ
逗子市小坪の子守唄。夕暮れの浜風に吹かれながら子守娘が唄う。小坪の高橋サク(1900-?)が伝えていた。
大崎公園のあたりは、昔、小坪の女達の憩いの場で、三月三日には、お花見と称して弁当と雛人形を携えて登り、人形に“西向け!東向け!”と声をかけて海を眺めさせる風習があった。日頃、労働に明け暮れる漁村の女性たちの何よりの楽しみであった。奉公に出ていた娘達も、暇を貰って宿下りした。いかとり唄には、この日を待ちわびる子守娘の気持ちがこめられている。
小坪の小さい入江は、白鷺が舞う“鷺の浦”と呼ばれ、大崎から飯島、稲村ガ崎にかけての磯は棚が発達して、魚貝類や海藻の生育に適した漁場であった。今では小坪湾の大半が埋め立てられ、逗子マリーナとなっている。
  • 作曲家・福田和禾子(1941-2008)が「いかつり唄」として編曲。民謡愛好家の裾野を広げている。
  • 高橋キヨ子、本條秀太郎採譜・編曲、尺八/三橋貴風、藤崎重康、米澤浩、ギター/本條秀長。
    少しかすれた声が渋い味を出している。お座敷調の子守唄。子守少女の気分と雰囲気は乏しい。
  • ダ・カーポ(榊原まさとし、広子)「イカ採りの唄」
   ▼「いかとり唄」パート2(﨑秀五郎)

   ▼小坪いかとり歌(花童舞踊)

酒田甚句とおてもやん

2025-08-07 23:00:04 | 音楽芸能
 今週火曜日(5日)にNHK-BSで「新日本風土記~最上川~」が放送されました。


 山形県を流れる最上川は、流域に暮らす人々の暮らしを支え、文化を運び、風土を育んできました。江戸時代舟運で栄えた河口の港町酒田では少女たちが酒田舞娘の伝統を継承すべく稽古に励んでいます。僕は酒田には行ったことがありません。にもかかわらず、彼女たちが踊る「酒田甚句」には不思議な懐かしさを覚えるのです。


 5年ほど前、熊日新聞の連載企画「肥後にわか~笑いの来た道~」に、東海風流プロジェクト(水野詩都子・﨑秀五郎)さんが「おてもやん」の音楽的系譜について寄稿されました。それによりますと

――明治20年頃「そうじゃおまへんか節(きんらい節)」という曲が流行りました。上方の噺家・初代芝楽が京都から江戸に移り、この唄を披露し、花柳界から瞬く間に全国に届くほど大流行しました。この「そうじゃおまへんか節(きんらい節)」を源流とするといわれるのが、酒田甚句(山形)、名古屋甚句(愛知)、日高川甚句(和歌山)、男なら(山口)、おてもやん(熊本)などの民謡です。――

 日頃、わが熊本の「おてもやん」に慣れ親しんでいる者にとって、遠く離れた山形県酒田の地で唄われる「酒田甚句」に懐かしさを覚えるのはごく自然なことなのかもしれません。

   ▼酒田甚句
山形県民謡「酒田甚句」
   ▼おてもやん
熊本県民謡「おてもやん」

水温30℃超えたら生きられません!

2025-08-06 19:55:25 | 季節
 このところテレビでは「危険な暑さ」というワードを聞かない日はない。今日は山梨県大月市の桂川で鮎が死んで浮いているというニュースが流れていた。雨不足で川の水位が下がった上、連日の猛暑で水温が30℃を超えるほどだというが、水温28℃以下でないと鮎は生きられないらしい。
 それで思い出したのは水球をやっていた学生時代、東横線沿線の慶応日吉キャンパスのプールへ学生リーグの試合によく行った。ある年の夏、猛暑が続いて水球用プールの水温が30℃を超えていた。ただ水に浸かるだけだったらぬる湯で気持がいいくらいだが、いざ試合が始まって泳ぎ回り始めたらオーバーヒート状態。ピリオド間の休憩でプールサイドに上がると汗が噴き出た。結局、両チームともダラダラとした凡戦になってしまった。
 鮎も川の中で泳ぎをやめるわけにはいかないので水温の高さに耐えられなかったのだろう。

細川家とワイン(再編集)

2025-08-05 19:28:58 | 歴史
 4年前、城彩苑わくわく座で舞踊団花童の公演「細川ガラシャ ~玉の一生~」が行われた。劇中、細川忠興とその妻玉がともにパンとワインを食す場面があった。パンとワインはキリストの血と肉体を意味するから、なかなか意味深な場面である。
 この場面は二人が織田信長の仲立ちで結婚して間もない勝竜寺城時代で、キリスト教布教のために日本へやって来た宣教師たちがワインを持ち込むこともあったのかもしれない。玉もまだキリスト教信仰に目覚める前と思われるので二人の関係も良好な時期だったのだろう。この後、豊臣秀吉による禁教令が出され、同じ頃、玉はキリスト教に帰依するので夫婦の関係は微妙なものになっていく。
 関ヶ原前夜の玉の壮絶な最期を経て、関ヶ原の戦功によって細川忠興は、豊前小倉の太守に封ぜられたが、徳川家康がキリスト教に対して弾圧政治を布いた後も、キリシタンが多かった小倉では、幾つもの礼拝堂が黙認され、毎年七月十六日にはガラシヤ祭が催されていたという。ミサに欠かせないワインは外国産の入手は難しかったと思われるので、豊前小倉藩の自前のワインづくりへ繋がったのだろう。ワインづくりは家督を譲った忠利が熊本藩へ移封されるまで続いた。小倉ワインの原料となったのはガラミ(ブドウ科植物の葡萄蔓・エビヅル)だった。
 ちなみにブドウは漢字で「葡萄」と書くが、この文字には何の意味もなく、中央アジア大宛国(今のウズベキスタン辺り)のフェルガン州の言葉「Budaw」を音訳したものであると、牧野富太郎博士の著書に書かれている。「葡萄」の訓読みが「エビ」である。
 なお、細川家のワインづくりについては「津々堂のたわごと日録」に詳しい。
※上の写真は「ガラミ:葡萄蔓(エビヅル)」


舞踊団花童の公演「細川ガラシャ ~玉の一生~」の1シーン

「よへほ節」のはなし。

2025-08-03 21:11:40 | 音楽芸能
 八月になったかと思えば来週末は早くも「山鹿灯籠まつり」の季節。かつては毎年見に行ったものだが、コロナ騒動あたりから足が遠のいた。今年は久しぶりに見に行ってみようかと思っている。
 その「山鹿灯籠まつり」で踊られる「山鹿灯籠踊り」の代名詞ともなっている「よへほ節」について山鹿市発行のリーフレットにはその名前の由来について次のように説明されている。

【よへほの意味・由来】
 元唄は、男女の逢瀬・呼び合いを歌った土俗風のものだったが、明治から大正にかけて座敷唄へ、その後酒造り唄へと転用されたと考えられます。
昭和の初め野口雨情が改詞したものが、今の「よへほ節」。「よへほ」は、その囃子詞。また一説には「酔え+ほ」ではないかと言われています。まず「ほ」は、肥後弁特有の相手の気を惹いたり、注意を促す場合の「ほら、ほら」です。「酔へ」はこの踊りを見て「あなたもお酔い」、あわせて「あなたもお酔いよ、ホラッ」といったニュアンスになります。

 10年ほど前、山鹿の文化振興に永年携わって来られた元山鹿市立博物館長の木村理郎先生のご自宅を訪問したことがあった。山鹿灯籠まつりの再興に与って力があった先生のお父上・木村祐章先生の書かれたNHKラジオドラマ「ぬれわらじ」の脚本原稿を見せていただくためだった。理郎先生は、山鹿灯籠おどりについてとても興味深い話をされた。その一つは、山鹿灯籠おどりで主に踊られる「よへほ節」は、今日では野口雨情作詞となっているが、実は野口雨情が作詞したものも含まれると表現した方が正しいそうだ。たしかに昭和9年に雨情を招聘して作詞を依頼したそうなのだが、それ以前に山鹿協友会という地元の町興しグループが作った「山鹿温泉小唄」というのがあり、それに雨情が作詞した「山鹿小唄」を合わせて今日の「よへほ節」が出来あがったという。また、明治初期頃からお座敷唄として芸者さんたちが唄っていた古調の「よへほ節」も当初は「ようへほ節」と呼んでいたらしく、その由来はよく言われる「酔え、ホー」と酒を勧める言葉ではなく、酒造りの時の囃子詞から来ているという説もあるという。たしかに下の古調「よへほ節」を聞くと「よへほ」という囃子詞のあとに「こりゃこりゃ」という合いの手が入る。いかにも米どころ、酒どころ山鹿の酒造り唄を思わせる。

   ▼古調「よへほ節」

   ▼千人灯籠踊り「よへほ節」

出水神社薪能

2025-08-02 22:57:21 | 古典芸能
 今夜は毎夏恒例の「出水神社薪能」を観に行く。日は暮れても野天の芝生席は昼間の暑熱が残り、ほとんどの観客が扇子や団扇で扇ぎながらの観劇。
 メインの能「羽衣」は、この水前寺成趣園能楽殿で見るのも4度目。今回のシテ、金春流の田中秀実さんは大柄な役者でいかにも武家能といった骨太な能を舞う。今回の「羽衣」でも「田村」でも「熊坂」でもそれは変わらない彼の持ち味だと思う。
 会場で顔見知りの人も含め、三人と会話をする。最近、他者との会話が少なくなっていることを実感する。


金春流 能「羽衣」(シテ:田中秀実)


会場の水前寺成趣園能楽殿は観客でギッシリ埋まる


始まった時の夕暮れから段々暗くなって、能の前に火入れ式が行われ雰囲気が整う

八朔参り

2025-08-01 19:57:02 | 季節
 今日の八朔(八月朔日)参りは、先月の朔日参りにも増して酷暑だった。拝殿での参拝を済ませた後、境内の摂社・末社を巡った。距離にしてわずか150~160㍍に過ぎないと思われるが、高齢の身にはこたえた。ひと通り巡り終えた時、地べたに敷いた敷物に座って写生に勤しむ中年の女性が目に入った。日陰にはなっていたが、この気温の中、長時間坐してはつらかろうと思い声をかけた。
「暑いですね。大丈夫ですか?」
「いえ、大丈夫です!」
「写生ですか?」
「ハイ!近々展覧会があるものですから、それに間に合わせようと思って」
 ご自身が所属されている絵画の会の展覧会が、9月1日から上通郵便局ギャラリーで行われるという。絵を覗いてみると、まだラフな描画の段階だが、末社の六所宮あたりを描かれているようだ。
「くれぐれも熱中症にはお気をつけて」と言って立ち去ろうとすると
「展覧会、ぜひ見に来てください!」
 作品の出来映えを見たくなった。

今日の藤崎八旛宮

天守閣前広場で能楽公演!

2025-07-31 21:08:25 | 伝統芸能
 今日の熊日新聞によると、今年11月、熊本城天守閣前広場で能楽公演が行われるそうです。
 記事によると、11月11、12の両日に天守閣前広場(約2千平方メートル)において公益社団法人能楽協会(東京)主催による能楽公演は、約7メートル四方の仮設舞台を設置し、ライトアップされた天守閣をバックに能を披露するということです。両日各200人の来場を予定しており、チケットは一般販売するそうです。
 熊本城での能楽公演はこれまで「熊本城薪能」として、竹の丸や奉行丸そして現在は二の丸広場で行われてきました。例外として2014年の「熊本城薪能」が、台風の影響で急遽本丸御殿に会場移動したことはありましたが、いよいよ正式に本丸に登ることになります。ライトアップされた天守閣をバックに観る能はまた一味違ったものになるでしょう。


熊本城天守閣前広場


二の丸広場での熊本城薪能。熊本地震前までは天守閣を背景に行われていた。

隣りの琴は六段か

2025-07-30 19:57:35 | 文芸
 先日、所用で明午橋通りを産業道路との交差点の一つ手前、大井手を渡ったところで右折し、金剛寺の裏を通り大井手に沿って車を走らせた。しばらく走っていると左側に高層ビルが見えてきた。「あゝこれがサーパスシティか」と思った。新屋敷の高層マンションのところに、かつて夏目漱石の熊本3番目の「大江の家」があったということは知っていた。他の車が来そうもなかったので一旦停車し、ビルを見上げた。ふと、漱石がここに住んでいた時に詠んだという俳句
「大江の家」に住んでいた頃の漱石夫妻と書生、女中
  春雨の隣の琴は六段か(明治31年)

を思い出した。春雨そぼ降る中、お隣りから琴の「六段の調」が聞こえてくる何とも風情を感じさせる一句だ。しかし、その当時、漱石の家周辺には桑畑が広がっていたという。季語「春雨」を引き立てるため、妙なる琴の音、それも代表的な筝曲「六段の調」を使った「発想飛ばし」なのかもしれない。
 漱石先生、ビルが屹立するかつての住まいの跡を見て何とおっしゃるだろうか。

   ▼17世紀の音楽家・八橋検校作曲の「六段の調」を大衆好みの端唄にアレンジした「六段くずし」
踊り:中村くるみ・上村文乃

色彩豊かな世界

2025-07-29 22:55:37 | 写真
 白内障の手術を受けてからやがて1年になる。いまはもう馴れてしまい、驚きもなくなったが、退院後、目に映る夏の空や木々や花々などの色彩の鮮やかさに感動した。子供の頃、初めて総天然色の映画を見た時のような驚きがあった。しばらく外出は控えるようにという医師の指示があったので、帰宅した後はもっぱらパソコンでこれまで撮影した写真を眺めて過ごした。長い間、色彩感覚が鈍っていたのだろう。どの写真も術前とは別の写真かと思うくらい綺麗に見えた。われわれが住む世界は色彩に溢れている。とともにそれを感受する人間の視覚の凄さをも再認識した。その時見た写真の中から2点掲載した。
 

2023.5.4 代継宮「曲水の宴」


2023.7.6 岩殿山山頂の黒岩から有明海とその向こうの雲仙岳を望む