ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

ある日の日記

2016-03-27 21:02:45 | ある日の日記

上の画像は、夏の日、タライのプールに入った後、ガーデンを駆け回るノエルの姿――今の季節とも、今日の話題とも関係ないのだけれど、何だかいいな、とのっけてしまいました。
 
花冷えという言葉もある通り、ガーデンには水仙やムスカリ、クリスマスローズなどが咲いて春らしくなりはじめているのですが、風が冷たいです。
早く、ふんわりした春風が吹くようになればいいな。

それでも、今日は久しぶりに散歩。30分ほど歩いて、昔からなじみの「白十字」でワッフルやブッセを買った後、またてくてく歩いて帰宅。
両親とお茶を飲みながら、ワッフルでティータイムしましたが、お菓子って、ほっこりした幸せ気分を運んでくれますね。

最近、珈琲一辺倒だけれど、ノエルガーデンが華やかに息づく5月や6月には、ノエル葡萄小屋で、本を読みながら、お茶の時間を楽しみたいな。う~ん、レモングラスが元気なようなら、久しぶりにフレッシュなハーブティーも楽しみたい! と妄想はふくらむのであります。
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これって、ホント?

2016-03-22 21:10:33 | アート・文化
ここ1か月ほど家でぼーっとしていることが多いのだが(何だか疲れていて、積極的に何もしたくないのである)、それでも世の中には興味ある事件が続発していて、好奇心を刺激されてしまう。

まず、なんといってもこれ――ツタンカーメンの墓の後ろには、隠し部屋があった! という大ニュース。 そして、あろうことか、そこにはかの美女ネフェルティティが眠っているというのだが、何だか変。
ネフェルティティのミイラが見つかっていないままであることや、彼女の墓が不明ということは知っていたが、それがどうして、ツタンカーメンの墓の奥でなくてはならないのか!?

考古学者たちが言うには、ツタンカーメンの墓はもともとネフェルティティのために作られたものであって、少年王があまりにも若くして急死したため、急きょその墓に充てられたものだという。 それは良いとして、ここには厳正な考古学的史実を積み重ねた推論というより、ロマンや想像が飛躍していると思うのは、私だけだろうか?

大体、ツタンカーメンの墓が発掘されてから、90年余り。その間、この科学的調査法の発達した現代にあって、「墓の奥にもう一つ部屋がある」との確証も持てなかったとはお粗末すぎるのではないだろうか? DNAから、ツタンカーメンの両親がほぼ姉弟同士の事実が分かったこと以外、古代エジプトの研究は私が子供だった頃から、進歩があまり見られないような気がするのだけれど(こんな事を言うのも、私が子供時代、ずっとエジプト考古学者になりたい、という夢を抱いていたからなのだが)。


ネフェルティティの夫にして、人類史上最初の一神教の考案者であるアクナトン。この魅力的なファラオについては、ツタンカーメンの異母兄だとも、父親だとも言われるが、どれも推測にすぎない。古代エジプトははるか過ぎ去った時代であり、砂漠の中に、神殿の碑文の中に発見されたわずかな断片を頼りにして、歴史を再構成していくしかないのである。
だから、考古学はロマンであり、絶対の確かな史実というのは、ほとんどの場合つかみようがない。

それでも、考古学者は幸せな人々だな、と思ってしまう。灼熱の太陽や砂嵐の中で、土器のかけらを拾うだけだったとしても、彼の目にはいにしえの壮麗な寺院や王宮の庭が見えているのかもしれないのである。 アガサ・クリスティーのミステリの中でも、殺人犯(!)の考古学者がポアロに言っていた。「ポアロさん。あなたは探偵としてだけじゃなく、考古学者にもなれたでしょうな。過去を再構成する能力をお持ちですから」と。
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三月例会

2016-03-22 20:41:57 | 児童文学
松ぼっくり」の例会に出席。連休だったもので、車で行くのは見合わせで電車でお出かけ。その前日、新幹線で関西の写本装飾教室に行ってきたところだったのだけど、ローカル線の車窓から見る風景は良いものです。

前回提出した私の作品に厳しい評価が……確かにまだまだですね。 吉備の五重塔に首吊り死体がぶらさがっていることをテーマにしたとはいえ、着想以外、見るべきものはないと自分ながら思いますし。第一、これは児童文学じゃないではないか!

夏の合宿や提出原稿についても話し合われましたが、ここ1か月以上、時たまブログを書く以外、文章など書いていないなあ。反省。
いつも10人くらいの会員が集まって、3時間近く話し合うこともあるのですが、難聴の私のために隣の方が紙に、その内容を書いて下さるので、とても充実した時を過ごせる会なのです。
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サウルの息子

2016-03-18 20:00:48 | 映画のレビュー

いつも行くシネマ・クレール(私は、ここ以外の映画館に行かないから)で「サウルの息子」を観る。

「アンネ・フランク」、「サラの鍵」、「ハンナ・アーレント」など、今までユダヤ人とナチス関連の映画を観てきたが、これがその集大成といっていいかもしれない。
それほど、重く、深い感慨を呼び起こす物語だった。

時は1944年。アウシュビッツ=ビルケナウ収容所。 主人公サウルは、映画の冒頭、上着の背中に赤い✖(バツ)印をつけた姿で現れる。
この✖は、「ゾンダーコマンド」であることを示すもの。 「ゾンダーコマンド」とは、自分も囚人でありながら、同胞のユダヤ人をガス室に送り、その後始末をするなどの労働任務につく者――こういえば、看守がそうであったように、自分もユダヤ人でありながら、特別待遇を与えられた者と思われるかもしれないが、数か月後には、彼らにも悲惨な死が待っていた。

全体に黄色味がかった映像は、窒息しそうな収容所内の光景をあますところなく写し取ってゆく。ここまで、現実に近いアウシュビッツを描いた映画は、過去存在しなかったのではないか? 感情を消し去ったかのようなサウルの視覚を通して、私たちも当時を垣間見ているような気にさえさせられる。

ある日、サウルはいつものようにガス室の後始末をする際、まだ息の残っている少年を発見する。少年はすぐさま、息の根を止められたのだが、その子こそサウルの息子に他ならなかった。 サウルは、解剖される予定の息子の死体を盗み、収容所内をラビ(ユダヤ教の聖職者)を探してまわる。息子を埋葬するために、そして祈りを捧げてもらうために。

現実の苛酷な収容所内では、ゾンダーコマンドはずっと使役に従事せざるをえなかったはずで、サウルがしたように、仲間に話しかけたり、作業の手を休め周りをうかがう、といったことが可能だったとは思われない。挙動不審な囚人がいれば、すぐドイツ兵に抹殺されていたかもしれないのだから。
しかし、サウルが息子の遺骸を埋葬しようと懸命になるのは、単に情からではない。 ユダヤ教では、遺体を火葬にすれば、死後復活することはできない、とされているためだ。
愛する息子のために、最後の力をふりしぼるサウル。彼にも、遠からず死が待っているはずなのだから――。


当時のゾンダーコマンドと呼ばれていた人は、どんな思いで日々を生きていたのだろう? 赤いペンキで大きく書かれたバツ印。仲間をガス室に送り、その遺体や室内の清掃をしなければならない、とは囚人の中でも一番残酷な立場ではなかったではないだろうか?  列車から降ろされたまま、何も知らず、ガス室に誘導されるユダヤ人たちの姿を、日々見ねばならなかったのだから。   彼らの背中に刻まれた印は、ダビデの黄色い星と同じくらい残酷なもの、と私の目には感じられた。

ホロコーストはまだ語りつくされた訳ではない。そして、そこから目をそむけてもならない。 そのことをサウルの行動が教えてくれる。

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動物園のこと

2016-03-15 20:59:36 | テレビ番組

夕方、TVで地元の動物園が市営化されるかもしれない、とのニュースが流れる。

そして、画面に現在の動物園の様子が流れたのだが、「ああ」とため息をつきたくなるほど施設が老朽化している。
錆びかけた檻の金具、ペンキのはげた看板……動物園を楽しく夢のある場所にすべき、とはいうもののどうしたら良いのだろう?

全国的にも動物園は、経営が困難らしく、話題の北海道の動物園へ行った時も施設が古びているのに驚いたことがある。
外来のテーマパークばかり大流行りで、生きた動物たちが暮らす場所が、こんなに殺風景であっていいはずがない。

子供の頃、動物園に遊びに行った時、象の片足が鎖でつながれているのを見て悲しい気持ちがしたこともあったけれど、動物園の未来を考える分岐点に来ているのでは、とも思う。
シンガポールへ旅行に行った時、ナイトサファリで見た動物たちのダイナミックな生態が、とてもスリリングだったのだが、日本でも動物を狭い檻に閉じ込めるのではなく、サファリ形式で(あくまで人間の安全を確保する立場で)、野性動物たちと交流する「動物園」のあり方を自明のものとすれば良いのではないだろうか?

21世紀の動物園は、動物たちが自然に近い環境で自由に歩き、人間がそれを垣間見る、という「開かれた場所」になれば…そうすれば、私が子供の頃感じた悲しさも、閑古鳥が鳴く今の動物園の現状も払拭されるはず――だと思うのだけど。
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こんな暮らしができたら・・・

2016-03-14 16:02:29 | ガーデニング

   寒く暗い日々が続く、3月。もっと、春めいてくれればいいのに、と思いながら駐車場からノエルハーブガーデンの煉瓦道を歩いていると、樹の下に清楚に咲くスノーフレークを発見。 確かに春は来ているのでした。
 先日書店で、発見したベニシアさんの本「ベニシアの庭づくり」…う~ん、なんて素敵な暮らしなんでしょう。 ため息ものです。
   
 蜜蝋のワックスで日本家具を磨いたり、庭先からとってきたハーブをお料理や化粧水、石鹸に使ったりして。
本の中で紹介されていた「よもぎのパンケーキ」なんて、とてもおいしそうで、ぜひ作ってみたいと思わされます。
パンケーキ自体で美味しいのに、ここに日本的なハーブ、ヨモギのほろにがさが加わったら、どんな風味がするのかな?

以前もベニシアさんの本(「ベニシアのハーブ便り」という本でした)で、「月桂樹のプリン」というのが紹介されていて、真似して作ってみたら、とてもおいしかったのでした。

我が家のガーデンは、母のものなので、私など植物については何も知らないといっていいのですが、ハーブを自由自在に使う生活や、庭が生活の中心にあるというライフスタイルには、憧れてやまないのです。
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魔女グレートリーーアルプスの悲しい少女

2016-03-14 15:44:54 | 本のレビュー

昨日、郵便ポストに届いたこの本。
ああ、何十年ぶりの再会か!  実は、私が小学校の時愛読していた少女マンガ「魔女に白い花束を」(曽根まさこ作)――この中世スイスを舞台にしたお話しは、ある村に流れ者としてやってきた黒髪の母娘が魔女として糾弾され、火あぶりにあうという悲劇なのだが、主人公の少女グレートリと村の若者アロイスの悲恋やら昔のヨーロッパの民俗が興味深く語られていて、とても面白かったもの。

曽根まさこさんのオリジナルではなく、原作が牧神社というところから出された「魔女グレートリ」ということまではっきり覚えていた(この少女マンガの本が手元になくなってから、長い時がたつのに)くらいだから、よほど子供心に印象に残っていたらしい。


そうして、ふと思い出して探し当てた原作。「稀少本」との紹介で、長野県の古本屋にあるのを発見!
1975年発行というのだから、もう40年以上も前の本――手に入れられて、本当にうれしい!
これで、しばらく楽しめそう。

母が「いかにも、あんたの好きそうな本ね」とチクリ。 はい、こういった題材が大好きなのであります。
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クリオネのしっぽ

2016-03-10 19:53:18 | 本のレビュー

「クリオネのしっぽ」 長崎夏海作 講談社。

昨年の坪田譲治文学賞受賞作。
先月、原作者 長崎夏海さんの講演会があり、その後「松ぼっくり」(岡山児童文学会)で長崎さんを囲んで談話会があったというのだが、用事があり出席できなかった。
それで、遅ればせながらこの作品だけでも、と読んでみたのだが(考えてみれば、坪田譲治賞を取った本なんて、一冊も読んだことなかったなあ)、面白かった!

題材自体は、目新しいことはない。中学2年生の美羽は、ごく普通のいい子だったのだが、ある事件をきっかけに、「あの子、怖いね」と周囲から敬遠されるように。
父親は家を出て行ってしまって、妖精のような、と言えば聞こえは良いけれど何だか頼りないママと二人暮らし。
そんなある日、近くの中学校の問題児幸栄(サッチ)が転校してくる。ポニーテールに結った美少女サッチは、聞きしにまさるワルで、何かにつけて美羽にかかわってこようとする――。

ストーリー自体は、よくある設定かな? という感じなのだが、キャラの造形が素晴らしい! 美羽もサッチも、美羽に唯一人親身に接してくれるクラスメート唯ちゃんも、ページから立ち上がって見えるかと思うほどに、実在感があるのだ。
「宝塚の男役」かと思うほどに背が高くボーイッシュな魅力のある美羽の姿が目の前に浮かんできそうだし、そのちょっぴり大人びた内面もストレートに、こちらに迫ってくる。

時代や場所は違え、誰もが14歳だった頃の自分をせつなく思い出すはず。こんな追憶が浮かんでくるのも、真に良質な児童文学作品のもたらす魔法に違いない。
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手紙教室

2016-03-09 15:18:19 | ある日の日記

同人誌のサークルに入った頃から、手紙を頂く機会が増えた。

この手紙というのが面白い。実は、もともと紙やステーショナリーが大好きな私にとって、手紙も好きなテーマ。
昔は、フィレンツェで買った伝統工芸の手作りのレターセットやこの街独特の花模様のカードなどをせっせと愛用していたのだが、そこまで凝るより、大事なのはやはり中身!

「心」のない手紙はすぐ見破られるし、ありきたりのことを書いても面白くもなんともない。パソコンのEメールなら軽いノリで、それとなくまとめることができても、手紙はとなると話は別。 といっても、字がとっても下手な私は、便箋にパソコンで文章を印刷してなどいるのだから、「心がこもっていない」と言われても、仕方ないかも。


失礼のないように、といっても押しつけがましくなく、温かみのある手紙を書けるようになると、どんなにいいだろうと思いながら、いつも「手紙タイム」しているのだけど、自分のこと以上に興味深いのが、頂く手紙。
たいていの方は、シンプルな白封筒か、花模様の封筒という体裁で、黒いボールペンで文字を書いてくださるのだが、あたりさわりのない文章にも、その方の人柄が感じ取れるのが楽しい。
感受性の豊かな方だな、とかとぼけた味わいがあって面白いというのもあれば、何だかこの方は四角四面だなあ、というものもあるLetter.

ここでふと思い出したのだが、確か三島由紀夫が「手紙教室」とかいうユーモラスな手紙の書き方指南の本を出しているのを、書店で見た記憶が(実は、読んでいない)…。
ずっと昔には、文通というコミュニケーションが一大文化だったし、平安時代の王朝文化では、香をたきしめた紙に和歌とか花さく枝を添えて贈ることが美意識の先端だったりしたこともあるのだ。 この現代でも、「手紙の書き方教室」というカルチャー教室があれば、人気が沸騰するのでは? なんて。


<追伸>
若い頃、欧米の翻訳ミステリーや怪奇小説を偏愛していました。そこで、小道具として登場するのが、謎を秘めたり、、奇妙だったりする手紙。
シャーロック・ホームズものの冒険譚には、貴族から寄越された手紙の描写が出ていたり、A・クリスティーの本には、「蜘蛛の巣のようにもつれた、細いペンで書かれた手紙」なるものがあったり、と「一体、どんな手紙なんだろう」と好奇心を刺激されたものです。
今は、広く見られるようになった赤い封蝋や押印のスタンプも、当時はどんな使われ方をしていたのでしょうか?
こんな偏愛(?)趣味のせいで、「Jからの手紙」という怪奇小説もどきの短編を書いたこともありました。
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ノエル通信 春の号

2016-03-06 21:21:28 | ノエル

毎度おなじみ、ノエルだよ。
3月に入って暖かくなりだしたものだから、日中をガーデンで過ごせるようになった。冬の間は、ノエルハウスにこもっていたの。
春の訪れとともに野外に出られるなんて、牧草地のジャージー牛みたいだな。といっても、僕、牛なんて、じかに見たことないんだけどさ。


そして、お楽しみは散歩の前や後に放してもらい、ガーデンじゅうを駆け回ること。ガーデンは、僕の運動場にもなるってわけだ。
放してもらったら、サッカーボールとかくわえて、転げまわって遊ぶんだけど、今日の獲物はプラステックか何かでできた植木鉢(ちょっと、木製に見えるよう茶色く塗られている)。 
   
 それで、水仙の茂みの間を寝転んでいるところを、パチリとされたって訳。 フフ。空模様は曇りだけど、今日は気分がいい。ノエル日和だよ。 
                             
                 
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