ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

髪型って、不思議

2015-09-30 12:03:33 | アート・文化
この間、ストレートパーマをかけた。
もともと、髪に癖があってなかなか「手なづけられない」状態だったのだが、ここ2、3年その癖がパワーアップしてすごいことに。本人はボブカット(ほんと?)のつもりでも、鉢姫みたいなお椀をかぶったような具合である。さらに、雨や曇りなど、湿気の多い天気ともなると、髪がぶわ~と広がってしまい、「何じゃ、これは」となってしまうので、とうとうパーマをかけることに。

実は、私、パーマをかけるなんて生まれて初めて。この「初体験」にドキドキしながら、向かいあったのだけど、いつもの
「カラー」とそう変わることない施術で、「これで、あのしつこかったハネがまっすぐなるのだろうか?」と半信半疑だったのだが、いざ終わってみると、私の髪は子供の頃の「まっすぐなおかっぱ」を取り戻していたのであった!


さわっても、なでても、まっすぐな髪…う~ん、ちょっと感動してしまった。こんなことなら、もっと早くストレートパーマをかけるんだったな……。


それ以来、「髪型」というものが、奇妙に気になる私。こないだ、音楽家バッハとヘンデルの肖像画を見たけど、この時代の人って、すごい髪をしてたんだ…。太陽王ルイ14世もそうだけど、男性が波打つ豊かな髪のかつらをかぶって、そこに大きなリボンをとめたりしていた時代。日本でも、武士のちょんまげって、「そういうものだ」と思っていたけど、冷静に考えたら、かなり変。
頭の半分ほどは、スキンヘッド(さかやき<月代>というらしい)。それで後の半分ほどは髪を長くし、その髪を束ねてもとどりを作っているなんて、誰が、どういう美意識で考案したのか?  昔の人に今の、ヘアスタイルやファッションを見せたら、どう言うことだろう?

そして、あの平安時代の絵巻物。ぼたもちみたいな顔をした姫君たちが御簾の影にいる姿を描いたものが多いけれど、あれはかつらではなく、本物の髪。多分、生まれた時から伸ばしていたのだろうな――と思うのだが、床にまで長く伸びる髪。あれって、どういう美意識から来ているのだろう? 汚いとか気味悪いとか思わないのだろうか?
そんな長い1メートル以上はある髪の毛が何本も床に落ちていたりしたら、ぞっとするだろうけれど…。

この時代の人は季節の花をつけたひと枝を、詠んだ和歌につけて贈ったりして「風流心」の極みに生きていたように思われるているけれど、床をひきずる髪が、そのまま床のほこりを掃くほうきになっていたり、同じように長い十二単のすそが汚れることを何とも思わなかったのかしら?

古代エジプトでも、「女王クレオパトラ」と聞いて、人々がイメージする、あの髪形。そう、あの髪形。海苔をはりつけたようなまっすぐの髪が、ギザギザと何段にもわかれて、階段状になっているものだが、あんな髪型が、本当に可能だったのだろうか?
実在の、古代エジプトの人々は、スキンヘッドで、かつらをかぶって、生活していたのだが、今残っているそれを見ても、ゆるく波打つ茶褐色の髪がのびる「フツーの髪型」である。
クレオパトラの髪は、今のヘアーアーティストにも作ることが難しい「超絶的」ヘアスタイルでありましょう。

でも、いにしえのエジプトの女性が本当にしていた髪型――髪を細くみつあみ状に束ねたものを、幾つも幾つも作り、その先を黄金でできた装飾品でまとめ上げるというもの。これは、本当に芸術的で素晴らしいもの。現代のファッションにもあうだろうと思うけれど、誰もしないようであります。残念。



散歩の時間

2015-09-25 18:31:20 | ある日の日記
空がゆっくりと暮れて、夜がはじまる前のひととき、ノエルを連れて散歩にでかけます。出会う風景や空の色、そしてノエルの姿も写真に撮ったら、いいのだろうなあと思うのですが、カメラの設定がいつの間にか変わってしまったらしく光の入ったような変な画像になってしまうのです。その設定をどう直していいかもわからないので、文章だけで…ごめんなさい。

昔から散歩というものが無性に好きでした。若かった頃は、街まで片道5キロ、帰りも歩いて合計10キロくらい歩いて、へっちゃらだった私…今はとても無理です。


車でも電車でもなく、二本の足で歩くと言うことは、風景がじっくり親しみ深く見えるということです。そして、通りすぎる家々や、木立、目を引く建物などを見るのは、楽しいですね。なんてことないものが、興味深く見えたり、色や匂いまでが記憶に刻まれたり…。

旅先でも、時間があったら、土地の周囲を散歩してみたいもの。有名な観光地を訪れたというだけではない、独特の思い出ができそうです。

伝説のジャクリーン

2015-09-23 18:36:10 | 本のレビュー

「伝説のジャクリーン」扶桑社。カトリーヌ・パンコル著。阪田由美子訳。
 
若い頃に買った本だが、数日ほど前再読。

私は、昔からジャクリーン・ケネディのファンで、その人生については大体知っているのだけれど、この本は訳文の流麗さも素晴らしく、扉に何ページか載せられたジャクリーンの写真の美しさと共に、何とも魅力的な本にしあがっている。

これが、扉ページの載せられた(多分、大統領夫人だった頃の)ジャッキーの写真。独特の目と目が離れた癖のある顔立ちや輝く瞳とともに、ジャクリーン・ケネディ・オナシスという人の魅力が存分にあらわれでているのではないだろうか?
そして、自分の魅力を知りつくしたファッションの素晴らしさ!も。

誰もが知っているように、彼女はアメリカの歴史に残る英雄JFKの妻であり、その暗殺後ギリシアの海運王オナシスと結婚した。このけたはずれの男たちと結婚したジャクリーンというのは、どういう人だったのか?

大統領夫人だった頃から、ジャクリーンは、ホワイトハウスの室内装飾やらインテリア、高級デザイナーの服に浪費したといわれる。抜群のセンスに恵まれていたとはいえ、室内の壁紙やインテリアを完璧にととのえたと思ったら、それをまた取り崩し、新しい装飾を考えずにはいられないというのは凄まじい。宝石、服、靴、絹のストッキング、手袋、置時計、絵画…不安を取り除いてくれるものなら、何でもよかったとあるが、ジャクリーンは有名な浪費癖とは、別に類まれな知性を持つ女性でもあった。
これが、彼女の栄光であり、悲劇であったともいえる。彼女の歴史感覚があったからこそ、ケネディ家はかくも伝説的存在になったとさえいえるのだ。

ジョン・ケネディとの生活は平穏なものとはいえなかったとも言われるが、1963年、ケネディがダラスで暗殺された時、ジャクリーヌが手配した葬儀の大掛かりさは、この若き大統領を永遠の存在にした。これ以後、アメリカはベトナム戦争など、絶頂の60年代から、泥沼の時期にはまっていくのだが、ケネディ大統領の時代は、アメリカ国民の胸に「輝ける時代」として刻まれることとなる。

ケネディの死から6年後、ジャクリーンはオナシスと再婚した。世界じゅうを驚かせ、憤慨させた結婚。ココ・シャネルなどは、「あの人が威厳をもって生まれてこなかったことは知っているわ」と言ったと伝えられているが、果たして事実はどのようなものだろう?
世界中に衛星中継されたケネディ暗殺の映像…あの時の彼女の恐怖と悲しみ。オープンカーによつん這いになり、パニック状態となった自分の姿は、一種のフラッシュバックとなり、ずっと彼女を苦しめつづけたといわれるが、そうした大きな喪失や悲劇を味わった後は、穴埋めする存在も大きなものでなくてはならなかったのではないか?
「お金につられた」と悪口を言われようとも、おとぎ話の王様のような大金持ちがあらわれたら…・。


オナシスの娘、クリスティーナはジャクリーヌを嫌い、「あの女がケネディ家の悲運を運んで来たのだ」といったとも言われる。
事実、オナシスの息子アレクサンダーはヘリコプターが墜落して死に、オナシスの先妻の突然の死、そしてオナシス自身の死も続いた。

こんな風に見ると、ジャクリーヌ・ケネディという人の佇まいには、どこか不思議な魔力があるようにさえ感じられる。繊細な芸術家の精神を持ちながら、どこか破滅的な影響を及ぼすというような…。


ある日の日記

2015-09-21 19:02:07 | ある日の日記
今日は、一日家に。
車でスーパーへ買いだしに行った外は、まるまるのんびり。

今、ジャクリーン・ケネディの伝記を読み返す傍ら、「女たちの戦国」という新書を図書館で借りてきて読んでいるのだが、戦国時代って、すごい時代だったんだわ…。日本史に暗いことは自覚しているので、これを機に、日本の歴史を体系的に学ぼうかしら?

大名の奥方たちの人生は、それとなく知ることが多いものの、身分の低い武士や庶民の女たちがいかに、戦国を生き抜いたかはほとんど資料が残っていないが、土佐で「おあんさま」と呼ばれた老婆の懐古談「おあん物語」や、淀殿に仕えた侍女お菊の大阪落城の回想録「おきく物語」が、江戸時代の人々に、一種の読み物とした愛されたというのも、初めて知って面白い。


疲れをほどよく取ってから、今晩はカリグラフィーの練習をしよう。書道というのは、心を落ち着かせて、リラクゼーションの働きをしてくれるのでは、と思う。 無心なひとときって良いものだわん。

シンデレラ

2015-09-18 15:02:51 | 映画のレビュー
ディズニーの実写映画「シンデレラ」を観る。
Yさんから、DVDをプレゼントして頂いたのだけど、劇場公開された時から観たくてたまらなかった映画。(それなのに、大きな映画館に行くことはほとんどなく、ミニシアターで、ちょっと癖のある映画ばかり観ている私…どうしてだろう?)

結局、観る機会もないままだったので、「わあ!」と喜び勇んで観ました…でも、イメージとはちょっと違っていたかも。

まず、主人公のシンデレラが、あまり可愛くない。金髪が綺麗で、清純そうなのだけど、どう見ても素朴な田舎娘といったところで、人が「シンデレラ」と聞いて思い描くような、夢のような美少女ではないのだ。 お伽噺のヒロインというのは、まず何を置いても、人々に幻想を抱かせるような美しさにあふれていなくてはならないのではないだろうか?

主人公のベラ(のちに、継母や義理の姉たちからシンデレラ<灰かぶり>と呼ばれる)が、あんまりチャーミングでなくて、がっかりした私なのだけど、継母にはちょっと魅かれるものがあったのだから、おかしなこと。継母を演じたのは、オーストラリアの美人女優ケイト・ブランシェットで、ちょっと派手とはいえ、洋服の趣味も申し分なく、猫のように輝く目と厚めの唇が、魅力的。

大体、白雪姫だって、美しさと心の清らかさではヒロインに劣るお妃の方が、面白いのではないだろうか? 毎日、毎日鏡に向かって「鏡よ、鏡。世界一美しいのは、だ~れ?」と聞く馬鹿さかげんもさることながら、変装して、醜い婆さんに化けて、白雪姫の毒リンゴを売りに行くという根性が、すでにただ者ではない。

シンデレラに魔法をかけてくれるフェアリーマザーを、ヘレナ・ボナム・カーターが演じているものの、そのはちゃめちゃなメイクアップぶりに、「あなたも、どうして、こんなところに?」と呟きたくなってしまった私。
ちょっと昔の映画ファンなら知っていると思うのだが、ボナム・カーターは、「眺めのいい部屋」など趣味のいい英国映画のヒロインを演じていた若手女優。 本人も、英国名門の血を引くとあってか、けっして美人でなく、小柄でずんぐりとした体型にもかかわらず、気品とあたりを圧する威厳があったもの。 彼女が演じるヒロインは、気は強く、プライドが高いにもかかわらず、頼りなく優しいインテリ青年に魅かれるというパターンが定まっていて、実在のヘレナもそういう女性だろう、と思いこんでいたら、鬼才監督tティム・バートンと結婚して、呆気にとられてしまった。

そうして、端正な役はほとんどなくなり、変な役どころをつとめるようになってしまったのだが、このマザーはちょっとねえ……。


豪華な配役や、舞踏会の外の夜の庭園の美しさなどにもかかわらず、映画としてはやや退屈で、平凡なものなってしまった印象がある。シンデレラは、あくまで昔話であり、お伽噺。だから、そのままのシンプルなストーリー展開にしていけばよいのに、あれこれつまらない背景やエピソードを盛り込んでしまったのでは?
ディズニーの実写映画を観たのは、これが初めてなのだけど、ディズニーの魔法はあくまでアニメだけに振りかけられるものなのかもしれない。

安房直子さんの世界

2015-09-18 14:25:37 | 本のレビュー

すすきの吹きわたる秋の野原、優しい夕日や言葉をしゃべる動物たち。小さなハンカチの上や熊のふかす煙草の向こうにかくされた魔法……安房直子さんの名前を聞いただけで、しみとおるように美しい作品世界や、それを織りなすやわらかな言葉が思い浮かびます。

児童文学好きを自認する方なら、誰でも知っているであろう名前。ところが、私ときたら安房さんの作品にふれたことなど、ずっとなく、そのお名前を知ったのも、童話教室でご一緒してる方から聞いたのが最初。
早速、図書館で幾冊かの作品集をかりてきたのですが、最初の1ページ目から、その作品世界に魅せられてしまいました。こんなに素晴らしい童話作家を今までしらなかったなんて。

そもそも、私の児童文学遍歴(?)は、欧米の翻訳少年少女もの一辺倒で、我が国が生んだ名作にてんで疎かったのです。日本の児童文学といっても、宮沢賢治、小川未明といった永遠の古典をのぞけば、グリとグラの絵本や松谷みよこさんの「ふたりのイーダ」シリーズで読書がとだえてしまっているような気さえします。

安房さんの本にふれる間もなく、彼女が50歳かそこらで亡くなってしまったことも知ったのですが、あまりに美しい童話や清らかな人柄をしのばせるエッセイなどを読むと、こんな綺麗な心を持った人は、長く地上にとどまるはずはなかったのでは、とさえ思ってしまうのです。

宮沢賢治やアンデルセンは、もちろん天才です。でも、安房ファンタジーの、優しくやわらかく、身をひたしてしまいたくなるような、魅惑に満ちた世界にふれると、「こんな素晴らしいファンタジーを紡ぎだせる人は、今までも、これからも決して現れないだろう」と思うほど。

美しいレースを編みたいばかりに、家もお母さんも置き去りにして、はるか丘越え、不思議な刺繍の学校に入ってしまう女の子。そこには、蜘蛛を思わす女性がいて、この上なく精緻で、完璧な刺繍を教えてくれるのですが、女の子がそこで過ごしたのは長い長い年月でした…というお話や、妙な女の子と知り合い、彼女が「僕」を誘ってしのび込んだ美容室から盗んだ液体をなわとびにぬると、それは「夕日の国」に僕を連れて行ってくれるというお話。 なんて、魅力的なお話ばかりなんだろう――と彼女の本を開くたびに溜息がこぼれます。

安房さんの本は、ファンタジーというものに対する憧れを、私の内にもむくむくと湧きださせ、その尽きることのない泉から、何かを学びたくなりますね。

コスモスとてんとう虫

2015-09-17 20:22:13 | ガーデニング
東京から帰ったとたん、よれよれの状態で日々を過ごしていた(その週末にあった芦屋の写本装飾教室には、がんばって行ったけど)。本を読むのも、ちょっと…な状態で、どうしてもしなければならない雑用だけこなしていたのだが、その合間にも、ガーデンには秋の気配がおしよせていた。

背をのばしてきたコスモスの中を歩いていると、緑の葉のあいまに、赤い可愛らしい実が! コスモスに赤の実なんて、どうしたこと? と思ってみたらば、丸い実には、黒い水玉模様が――。 ガーデンの虫の妖精(?)、テントウ虫であった。

あれ、はっきり見えない? すみません、もう一度…

ウ~ン、これもはっきりしないなあ。 これは、ひとえに私のカメラの腕がドベタであるためで(一番、操作の簡単なコンパクトデジカメを使っているレベルでは、カメラの腕も何もないんだけど…)、これはホントにテントウムシであります。


てんとう虫は、漢字で書くと天道虫となるらしい。天道とは、すなわち太陽。赤い丸い形が、小さな小さな太陽を思わせるといえばいえるし、半円形をした背中は、太陽や星の運行を示したドームのようでもある(昔、理科の授業で、図に示されたようなもの?)。そう考えると、背中の丸い水玉は、星の形をしていても、不思議はないかも。

個人的に、昆虫はダメで、さわることなんてとてもできそうにないのだが、テントウ虫だけは、キュートな魅力があって、好き。唯一、好きな虫といってよさそう。

だから、コスモス畑に、彼らの姿を見てうれしかったのだが、ここでふと疑問。コスモスが、薄桃色の花弁を揺らして、秋の光に舞う時、その時までてんとう虫たちは、生きていてくれるのかしら?
コスモスの花にむれるてんとう虫を見たい、と願うのは私だけじゃないはず。


年齢について

2015-09-10 21:05:10 | ある日の日記
近頃、とみに年を感じます。したい事はあっても、なかなか体も頭もついていかない。こんなことなら、若い日々を無為に過ごすのではなかった、と後悔しても仕方ないんですけれど……。

その一方で、40代になった今の方が、若い頃より「ものが見える」ようになったとも思います。出会う物事の本当の価値が、以前よりわかるようになったし、人間を見る目もできてくる。 昔は、目の前の事で精一杯だったけれど、今は過去も未来もふくめた複合的な視線で、物事に接することができるようになった気もします。

時々、わたしの心をよぎる言葉に「二十歳の肉体と五十歳の智恵を持ちたい」というものがあるのですが、これは今は亡くなったフランスの女優の名文句。 本当、言い得て妙ではありませんか! 若さの最高潮にある肉体を、成熟した智恵を持つ――これだと、本当に怖いものなし、という感じがします。

大方の人間は、五十歳を越えると、それぞれ人生経験の幅にかかわらず、それなりの世間知や人を見る目を備えてくるものです。すでにその時、人生の秋を告げる鐘は鳴っているかもしれませんが、物事の本当のうまみを味わう季節は、それからはじまるのだろうとも思います。

終わったばかりの夏。夏は、若さ全開の季節で、あちこちで若い人たちのパワーが炸裂したもの。その滑らかな皮膚やつややかな髪を見て、「若いっていいなあ」と溜息をついたものの、その実、あんまりうらやましくはないかも。 だって、当時の自分を思いかえしても、若さって、あまりに未完成で、傲慢なものだから。

「青春は、若い奴らには、もったいない」とのたまった詩人がいましたが、精神は年相応にしろ、若い肉体は手に入るなら、入れたいもの! これは、全人類の見果てぬ願望かも?




雨の東京

2015-09-09 22:10:59 | 旅のこと
帝国ホテルに2泊する、とても格安のフリーツアーがあったので、母と東京へ行ってきました。
まず、空港まで車で行って、そこの駐車場にとめておいて、羽田まで。う~ん、飛行機だと東京まで、本当にちょっとで着くのね。


ロビーに置いてある花が、とてもゴージャスで、人目を惹く大きさ。帝国ホテルは、今もかつてのライトの建築の意匠をあちこちに感じさせ、ところどころにある椅子も彼のデザインによるものでした。 他のホテルのような華美さはないかわり、堂々たる雰囲気、広々とした空間や廊下、カーペットのデザインの美しさなど、さすが!という他はない格調の高さ。何より、あらゆるものが贅沢なまでに、大きく広いのです。

朝食を取ったレストランも、木の柱が、古代ギリシアを思わせるものだったり、インテリアも華やかでありながら重厚さを併せ持つなど、場の雰囲気に圧倒されそうなほど。そして、スタッフやウェイターといった方々のホスピタリティのレベルの高さは、ちょっと比べようがないですね。 わざとらしくなくにこやかに、とまどっているとすぐ近寄ってくれる、などプロ意識のかたまりのようであります。


ただ、この旅行で文句を言う事があるとすれば、ただ一つ、ず~っと雨が降っていたこと。それも半端なものではありませんでした。それで、最初の日(着いたのが、もう夕方でした)の夜は、東京駅に散歩に行っただけ。この写真は、東京駅のドーム形の天井を撮ったものですが、やっぱりこの赤レンガの建物は、素晴らしいもの。超近代的な高層ビルばかりがある、周辺の風景の中、赤い煉瓦の駅は、何だか愛らしくさえ見えます。ここだけ、明治の空気が流れているみたい。

三日目はもう昼前に羽田に行かなくてはならないので、遊びに出られたのは、二日目だけ。しつこいようですが、天気が悪かったので、新宿まで出て、伊勢丹でずっと過ごしていました。そして、伊勢丹は、スゴーク進化してたのでありました。かつてのカジュアルさが、あんまりなくなって、キラキラしたデパートに。 来ている人達も、お洒落な人が多く、それを見ているだけで楽しめること間違いなし。

インテリア売り場の「イヴ・ドローム」で、買ったポーチ。黄色いマフラーを巻いた犬のゴブラン織りが可愛くて、購入したのですが、グレーと薄い茶を混ぜたような生地の色調が印象的なのです。

この間、行ってきたばかりなのに、再びやってきた東京。このホテルに泊まったせいか、もう一度フランク・ロイド・ライトの建築の写真集が見てみたくなりました。





地球が静止する日

2015-09-09 21:39:35 | 映画のレビュー
SF映画とか、パニック映画とかはほとんど見ないのだが、キアヌ・リーヴス主演というのだからほおっておくわけにはゆかない。
で、二時間衛星TVの前に座って見た、この映画……面白かった!

地球を思わせる巨大な球体が、突然ニューヨークの街のまんなかに現れ、そこから現れたのは、遠い宇宙から来たとおぼしきエイリアン。このエイリアンをキアヌが演じているのだが、白いぬるぬるとした細胞とも、膜ともつかぬものから出てきたのが、人間そっくりの生物だったという、衝撃的なエピソードから、物語の幕は開く。白い無表情な整った顔、年齢がわからぬ雰囲気など、キアヌ・リーヴスが人間離れしたオーラをまとっているのが、印象的。キアヌの無性格を感じさせる、俳優としての魅力が、この役にピッタリといえそう。

懐かしの美少女スタージェニファー・コネリーが、エイリアンの調査チームの一員である地球外生物学者ヘレンを演じているのだが、彼女はひょんなことからクラトゥ(かのエイリアンの名)の逃亡を助けるはめに。クラトゥは、なぜ、地球にやって来たか――?

その秘密は、徐々に明かされていくのだが、「人間は、地球を利用しすぎた」というクラトゥの言には、誰しもうなずくのでは?
人間は地球の癌だ、という言い方もされる通り、この美しい星は、自分の生み出した生命体の暴走に、瀕死のありさまなのかもしれない。

地球という惑星を、人間の手から救うために、派遣された、というクラトゥも、ヘレンとその息子とのふれあいを通して、人間という野蛮でいながら、奇妙な存在を見なおすことに。 このストーリーも良いけれど、クラトゥを守る兵士ロボットがすごい!

人間たちがあびせる攻撃など、なんのその。強大な破壊力をふりまき、最後には、地球をほろぼす無数の虫にまで変身してしまう。この虫たちが、高層ビルを破壊しつくさまは、あたかもイナゴの群れが、麦畑を荒らして回るさまそっくりなのだ。虫が文明を食いつくしてしまうなんて、ずっと昔の予言にあったような終末だけれど、この光景を見たクラトゥが、最後下した決断は、何なのか?

それは実際の映画にゆずることにして、私が素晴らしく惹きつけられたのは、最初のオープニングシーン。ハーケンを使って、雪山をのぼってゆく一人の男。これも、キアヌ・リーヴスが演じているのだが、彼の前に現れたのは、不思議な物体。深い雪のあいまに、輝く球体が回転してゆき、まるでもう一つの地球が出現したよう。 男が思わず、球体にふれると、彼の腕には、奇妙なあざが残る――もちろん、この男から採取したDNAを用いて、宇宙からの使者クラトゥが作られたわけなのだけど、雪山に現れた光り輝く星――何と幻想的な光景だろう。

小説が、幾つ言葉を連ねても、映像の持つ圧倒的なパワーに勝てない、と思うのはこんな時である。