ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

お部屋デビュー

2014-11-29 20:47:31 | ある日の日記
リフォームもようよう終盤にさしかかり、まだ完成はしていないのだけれど、寝室棟に引っ越し。といっても、コンセントはまだきちんとついてはいないし、珪藻土の壁土はまだ塗られていない--階段のてすりもついていないという状態……12月1日~3日ギャラリーを開くというので、少し早目にお引っ越しできることになってというしだいなのです。

それでも、ギャラリーの準備の掃除やらなんやらですごーく忙しく、ブログを書くひまもありませんでした。このパソコンも書斎から、リフォームをきっかけに私の部屋に引っ越し…できればよかったのですが、それは無理なよう。大きなクローゼットと洋服を入れる引き出しの家具をとりつけたせいで、以前より部屋がこじんまりしたから、あまり家具は置かない方がいいし--。ベッドも置かないことにしました。

まだ仕上がっていないとはいえ、新しい部屋はスゴーク気分がいい! あちこちの造作をしみじみ見ていると、大工さんの技術に驚いてしまいます。忙しいところを頼みこんで、工事をしてもらったのに、隅々まで綺麗に仕上げられているのですから。階段を作るのに、少し時間がかかったような…と思ったら、寄木細工のように小さな木のパーツを組み合わせた凝った造り。  部屋の床もオーク(樫)の木を使った色調が何ともいえず良いです。

新しい巣(?)の様子にとても新鮮な気分なのですが、問題はわたしの持っている小物がスゴークカラフルなこと。何だか十代の子の部屋かと思ってしまうわね」とは母の言。 我ながら、「オトナの部屋」とはとても思えませんです、はい。

「原因」と「結果」の法則

2014-11-19 15:58:02 | 本のレビュー
K先生からお借りした本。最初、私の嫌いなハウ・ツー本かと思ったのだけれど、さにあらず。百年以上前の1912年に若くして亡くなった英国の哲学者が、書き遺した本だということ。一世紀以上も、静かに読まれ続けていて、隠れたロングセラーなのだとか。おまけに著者のジェームズ・アレンの生涯は、ほとんど謎のヴェールに包まれているとか・・・。
何だか、凄く面白そうでしょう? こういうエピソードがあると魅力的きわまりない本のよう。

ところがであります。哲学者が書いたというせいか(?)言葉の表現が極めて抽象的で、詩的な引用も多く、意味がわかりにくいところも。でも、よーく集中して読めば、言いたいことはおのずと明らか。つまり、「あなたが心の持ち方を変えれば、環境(あなたのまわりの世界)も変わり、それがあなたを成功に導くということ」--そんなこと、当たり前じゃないか。小難しい表現をやたら使って、言わなくても誰でも知っていることだよ――と言いたくなったのだけれど、最後まで読むことにしました。

「良い思いや行いはけっして悪い結果を発生させませんし、悪い思いや行いは決して良い結果を発生させません。…この法則が自然界の中で機能していることは誰もが知っています」
「夢は現実の苗木です。この世界で」これまでに達成された偉大な業績のすべてが最初はたんなる夢にすぎませんでした。樫の木は、しばらくの間ドングリの中で眠っています。鳥たちは、しばらくの間、卵のなかで待っています。そして、人間の美しいビジョンのなかでは、それを実現させようとして、天使たちがせわしなく活動しています」

本文中から少し引用したのだけれど、すごく当然のことを格調高く、まわりくどく言っているでしょう? 真実のことは、誰が言っても同じことなのでは?

--というのがこの本を読んでの感想なのですが、気になったのは著者のアレンの表現が、神秘主義的な感じがすること。巻末に説明された生前のエピソードを読んでも、アレンは毎朝夜明け前、丘の上まで散歩に出かけ、神と交信していたという不思議な生活を送っていたそう。 20世紀初めといえば、精神医学や心霊主義が静かな熱病のように蔓延し、人々が心の神秘に思いをはせた時代。そうした時代が、このような興味深い人物を生んだのでしょうね。

真っ赤なクリスマスツリー

2014-11-19 15:43:25 | アート・文化
離れに飾ったクリスマスツリー…ではありません。 園芸店で買ってきた大きなポインセチアなのであります。
真っ赤な花がちょうど、ツリーの形に形づくられており、かなりビッグサイズ!の大きさ。 こうやって、窓辺に置いておくと、なかなか見栄えがして楽しいです。

きらきら光る電球やオーナメントはないけれど、これも楽しいクリスマスを彩ってくれるはず。花と葉の赤と緑は、クリスマスの色でもあります。

スイスと箱根って似てる?

2014-11-17 17:38:07 | テレビ番組
この間、一週間ぶりにTVを観る。「世界不思議発見」という長寿番組で、この日はスイスと箱根の不思議なつながりを特集したものだった。 何だか、面白そう。スイスの風光明媚な映像もたっぷり観れることだし・・・。

この二つ、規模と知名度は圧倒的に違うとはいえど、どちらも古くからの観光地。けれど、この二者、切っても切れないつながりがあるんである。さて、それは何か? というほど、意外なものでも何でもなくて、答えは鉄道でありました。スイスと箱根--どちらもが、スィッチバックという方式の鉄道運行を実地しているのだ。 険しい山岳地帯を通ってゆく上では、一度、上がると、いっぺん後ずさりしてまた上に上がるという方式が有効。 車窓の風景をじっくり楽しむのにも、この方法が良いとか。

でも、スイスと言えば、あの堂々たるアルプス山脈。世界に冠たる美しいアルプスと、箱根の山を比べるのは、ちょっと・・・という気がしないでもありませぬ。 知ったかぶりできるほど、箱根についての知識などなく、学生時代に新宿からロマンスカーに乗って、半日遊んできたという歴史があるだけなのだけれど、ひなびた風情の通りには、寄木細工や土産品が並ぶ、お年寄り向けの観光地だったような…。もちろん、ピカソの作品を多数展示した素晴らしい美術館(外には、ヘンリー・ムーアの彫刻もあったと記憶している)や庭園はあったけれど。 あの電車、そんなに凄かったかなあ? 初夏には、あじさい電車と呼ばれるなど、結構日本情緒たっぷりの乗り物のように思ったんですが。 右に左に太古から続く氷河や森林、尖った鋭角的な白い峰を頂くアルプスを観ながら、赤い流星のように走ってゆく「氷河特急」とはイメージが違うなあ。

それでも、箱根だって負けてはいない! 滝連太郎の「箱根の山は天下のけん」という曲だってあるのだ。 その昔の人々にとって、高い山の向こうに開ける箱根の地は、単なる避暑地などでなく、砂漠に忽然とあらわれるオアシスのようなところであったはず。 

番組では、鉄道から始まって、スイスと箱根の類似点を「重箱の隅をほじくるように(?)」微に入り、細に入りレポートしていたのだが、今度箱根を訪れることがあったなら、「日本のアルプス」と呼んでみたいな。

晩秋の庭にて

2014-11-13 09:28:47 | ガーデニング
ノエルハーブガーデンにも、秋の終わりの気配がしのびよりつつある。欅の木々も、深い赤や黄に色づき、燃えるようでさえある。
夏の間、短い命を謳歌していた蝶や蝉たちの姿ももうなく、冷たい冷気さえ漂い、静かな秋の日が照っているーー。見る人の心にもひたひたと波が寄せてくるような、寂しさが感じられる季節。庭のベンチに座っていると、腕にも首筋にも淡い日差しが、差し込んで、ものがなしくさえなってしまう。

それでも、木々から落ちた紅葉が地面に散り敷いて、そこに黄金色の夕陽が照っている有様など、寂寥感とともに、豪奢な気配さえきざしているのだ。 衰退に向かう前の、刹那の輝きとでもいったら良いのだろうか――。

庭のベンチに座っていると、素晴らしく豊かな気持ちになってしまう。華麗な絨毯のように広がる落ち葉の堆積、葡萄小屋や木々にさしこむ金色の光…何と贅沢な季節なのだろう。秋の光の透明さは、フェルメールの絵画にも匹敵する美しさだ。どこか遠くで、火を焚く煙が一条上がり、家路を目指していく鳥たちの姿も、夕空に見える--私は、この天然の大広間にもう少し座っていたい。空から、星が降りてくるまで--。

伝言板

2014-11-13 08:56:14 | アート・文化

 

12月1日~3日、「アトリエ・ドゥ・ノエル」のギャラリーを開催する予定です。。
時間は、朝11時から夕方5時まで。

出展は、

  創作人形・・・神崎節子
  プリザーブドフラワー・・・平下智恵

  組み木・・・仲達浩育
  カリグラフィー・・・竹並麻夕子

鮮やかなシクラメンの香り(?)とともに、お待ちいたします。


ある日のひとりごと

2014-11-11 21:55:32 | 本のレビュー
考える力が後退しつつある。子供の頃から、あんなに読書が好きであったはずなのに、せっかく面白そうな本を見つけても、読んでいる途中で、考えがあっちいったり、こっちいったりでいつの間にか本の世界から離れていることもしばしば。
そんな訳で、本を幾冊も枕元に並べて「つんどく」そのもの。 ああ、情けなし。このていたらくや、いかに?

ここで思い当たったのであるが、子供の頃、大人たちが「本は、心の糧。心が若く柔軟なうちにいっぱい本を読めよ」といっていたのも、こういう将来を見通してのことではないか? 当時、小学校の図書館には、若い読者向けにノベライズされていたのだろうけれど、モーパッサンの「女の一生」とかジッドの「狭き門」とか、とても子供向けとは言えない名作が並んでいたもの。それをかたっぱしから借りて読んでいたのだが、時代背景や大人の世界の隠微(?)な雰囲気など、小学生にわかるはずもないのに、読めたのはそれが名作たるゆえんなのだろうが、それよりも「若いから」ではないだろうか?

若い時は、脳が海綿のようにしなやかに働いてくれて、大作を読めるのである。小説の滋味が分かる成熟世代になる頃には、名作なんて読む気力もなくなっている場合がほとんどじゃないか。トルストイの「アンナ・カレニナ」とかドフトエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」なんていう長大な小説を読めるのは、せいぜい大学生くらいまでだと、言っていいような気がする。 今、読めなんていわれたら、気絶します・・・。
そんな訳で、離れの「ノエルの本棚」の前に立って、本の背表紙を見ながら、唸っている私。トーマス・マンの「魔の山」も、ダンテの「神曲」も二度と読む日は来ないだろうなあ。 知力もスタミナも、確実にすり減らしている身としては。

今、最も欲しいものは「時間」と同時に、本をうわばみのように飲み込む活力。魅力的な本に出会ったら、時間を忘れて、書物の世界につかりたいもの--。これは、悲願であります。

煙突掃除の少年

2014-11-08 09:24:50 | 本のレビュー
ハヤカワミステリポケット文庫から出版されたもので、著者はバーバラ・バイン。これは、ルース・レンデルの別名義である。どうして、画像がないかというと、図書館から借りたものであるため。(こういうのにも、所有権みたいなものが発生する?)

ルース・レンデルといえば、現代英国ミステリの大御所。その割には、ほとんど読んだ覚えがない。以前、2,3冊読んだ記憶があるのだが、あまりに陰気くさい内容と陰惨なムードに辟易してしまった。これは、仏のカトリーヌ・アルレーの「わらの女」が名作と讃えられるも、不快な読後感を残すのと似たようなものかもしれない--。

さて、この「煙突掃除の少年」。素晴らしい傑作である。たとえて言えば、難解なジクゾーパズルをはめていって、それが完成した時、得も言われぬ美しい絵画に変身したとでもいうような。  謎解きの妙、巧みに張られた伏線、そして描かれる人物像の迫真力--これほどよくできたミステリに久しくお目にかかっていないといえば、ほめすぎだろうか?

物語は著名な作家、ジェラルド・キャンドレスが心臓発作で死んだことから幕を開ける。彼が溺愛した二人の娘たち--サラとホープ。彼女たちは美しく、頭も良く、順調にキャリアを重ねているが、母親のアーシュラとは疎遠の関係にある。これは、ジェラルドが、娘たちに母親を必要としないように仕向け、自分が彼女たちの愛情を独占していたため。 彼は、結婚生活のほとんどの間じゅう、妻を無視し、冷笑してもきてきた。

サラは、父の編集者から、作家ジェラルド・キャンドレスについての回想録を書かないか、と打診され、さっそくとりかかるのだが、ここで衝撃的な事実がわかる。 父は、ジェラルド・キャンドレスではなかった――ジェラルドとは、70年も昔、死んだ少年の名。 彼は、少年の名前と戸籍を盗んだのだ。 父は誰だったのか――?  そして、なぜ名を変えねばならなかったのか?

ここで、ジェラルドが自分の本に紋章がわりに小さな黒い蛾を用い、それが「煙突掃除屋の息子」という俗名を持つこと、彼が霧を異常に恐れることが巧みな伏線となっている。物語の最後--「霧」が現れ、それが晴れ上がるように、最後の謎が解けていき、ジェラルドが何故姿と消さねばならなかったかが、読者の前にさしだされる。 なんという、素晴らしいエンディングだろう。 

サラとアーシュラの内面を描く、作者の筆致も巧みである。彼女たちが実在し、そこに佇んでいると感じさせられるほどに。長年夫や娘たちから無視され続けてきた、アーシュラの孤独・・・彼女はひび割れた海綿のようにさえなってしまっていたが、自己の解放と独立を成し遂げようとする。娘のサラも、愛した父の真実の姿が浮かび上がるにつれ、自分の孤独を見据えざるをえなくなる。だが、彼らの孤独は決して、重なりあうことなく、溶けあうこともない。

第一級のミステリとしてだけでなく、「作家」という人間の謎、一種の怪物性を焙りだした小説といしても読める。 -->

犬たちに寄せて

2014-11-06 18:28:35 | 社会・経済
TVのニュースで、栃木県で、小型犬の死骸が大量に不法投棄されていると報道していた。先月末にも、20匹以上の犬の死体が発見されたばかりだというのに・・・。 なんて、心ない人もいることだろう。 手に余るようになったからと言って、犬たちを捨てたり、殺して放り出すととは・・・。 本当に腹が立つ、し悲しい。

史上空前ともいえるほどの、ペット天国が到来したかと見え、ペット飼育数や彼らにかけるお金が増加しているとは、よく聞くけれど(普通の愛犬家からは、ゆきすぎかと思えるほどの愛するペットのために、をうたう雑誌も発行されていたりして)、保健所で抹殺処分される犬は、相変わらず存在するし、すべての犬が幸せになれるとは限らない。

今でも、胸に突き刺さる情景として記憶しているのだが、もう十年以上も前、海辺の近くの山をドライブしていたことがある。貝塚があったりして、名所旧跡もある場所なのだが、荒れ果てていて、寂しい感じがしたことを覚えている。頂上付近に達した時、ミモザが茂る脇道から、犬が何匹も出てきた時、本当にびっくりしたっけ・・・。

よく見ると、犬は斜面の上やあちらこちらにもいて、野犬の群れをつくっているらしい。その中には、血統書つきの犬も何匹もいて、ぼさぼさの毛をしたゴールデンリトリバーを発見した時は、家にいるはずのノエルを思い出して、叫びたくなったほど。思うに、山まで犬をこっそり捨てに来る人が後を絶たないのだろう。 そして、犬たちは観光客の残していくお弁当や食べ物を食べたりすることで、生きているのだろうか?

野犬と化した犬は、怖いと言われる。けれど、彼らの目には悲しみが漂っているはずだ。 捨てられ、傷つき、彷徨う獣としての――。 ニュースなどで、悲しい現実に触れるたび、私にはミモザの黄色が炎のように燃えていた山と、荒れた毛をした犬たちの姿を思い出すのである。 あそこに、今も彼らはいるのだろうか――?

ツタンカーメンの青い花

2014-11-05 18:34:58 | ガーデニング
スーパーへ、食料品を買いに行った時、入り口の園芸コーナーで見慣れぬ植物が目にとまる。 見た目はそれほど変わっていなくて、綺麗な淡い紫のヴィオラなのだが、その名が「原種ヴィオラ ツタンカーメン」なのだ。

以前、このブログでも「ツタンカーメンの豌豆」や「矢車草」について書いたのだけれど、これも古代エジプトの少年王ツタンカーメンと関係があるのか? 原種と注釈がつけられていることと言い、勿忘草の青にも匹敵する柔らかな美しい紫といい、いかにも由緒(?)ありそうな植物である。 四千年も昔、ナイル河畔の王宮の庭に、このヴィオラが青い褥のように群がり咲いているところまで想像して、うっとりしたのだが、果たして古代から伝わる植物なのだろうか?

今日は、他の荷物が多くて買わなかったけれど、ノエルハーブガーデンにも、この小さな気品に満ちた花が仲間入りするのも、素敵だなあ・・・。