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ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

犬たちに寄せて

2014-11-06 18:28:35 | 社会・経済
TVのニュースで、栃木県で、小型犬の死骸が大量に不法投棄されていると報道していた。先月末にも、20匹以上の犬の死体が発見されたばかりだというのに・・・。 なんて、心ない人もいることだろう。 手に余るようになったからと言って、犬たちを捨てたり、殺して放り出すととは・・・。 本当に腹が立つ、し悲しい。

史上空前ともいえるほどの、ペット天国が到来したかと見え、ペット飼育数や彼らにかけるお金が増加しているとは、よく聞くけれど(普通の愛犬家からは、ゆきすぎかと思えるほどの愛するペットのために、をうたう雑誌も発行されていたりして)、保健所で抹殺処分される犬は、相変わらず存在するし、すべての犬が幸せになれるとは限らない。

今でも、胸に突き刺さる情景として記憶しているのだが、もう十年以上も前、海辺の近くの山をドライブしていたことがある。貝塚があったりして、名所旧跡もある場所なのだが、荒れ果てていて、寂しい感じがしたことを覚えている。頂上付近に達した時、ミモザが茂る脇道から、犬が何匹も出てきた時、本当にびっくりしたっけ・・・。

よく見ると、犬は斜面の上やあちらこちらにもいて、野犬の群れをつくっているらしい。その中には、血統書つきの犬も何匹もいて、ぼさぼさの毛をしたゴールデンリトリバーを発見した時は、家にいるはずのノエルを思い出して、叫びたくなったほど。思うに、山まで犬をこっそり捨てに来る人が後を絶たないのだろう。 そして、犬たちは観光客の残していくお弁当や食べ物を食べたりすることで、生きているのだろうか?

野犬と化した犬は、怖いと言われる。けれど、彼らの目には悲しみが漂っているはずだ。 捨てられ、傷つき、彷徨う獣としての――。 ニュースなどで、悲しい現実に触れるたび、私にはミモザの黄色が炎のように燃えていた山と、荒れた毛をした犬たちの姿を思い出すのである。 あそこに、今も彼らはいるのだろうか――?
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21世紀の空海

2014-04-15 13:00:24 | 社会・経済

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今朝の新聞に、一面をまるごと使って、高村薫のルポルタージュ記事が! 「21世紀の空海」と題された記事は、作家が「空海ゆかりの地や東日本大震災の被災地を僧侶たちと歩き、空海の実像に迫り、日本の祈りを描く」という趣旨のもので、これからも続けられるらしい。

それにしても、震災の跡地を自身の目で見て歩き、歴史上最大の宗教者と結びつけて、思索を巡らすなど、さすがは高村薫! 尊敬し、その見識と人生観に深い信頼を寄せられる作家を持つということは、本当に幸せなことである。

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被災地には、今も荒涼たる光景が広がっているという。 放射能がまきちらされているはずの福島の地を、恐れることなく歩き、寺院を訪れる作家。 紙面には、一枚の感動的な写真が大写しで写しだされている。 道端に設けられた慰霊台とその横に立ち尽くす高村薫--吹き付ける冷たい風が感じられるばかりに、コートの前をかきあわせ、かすかに眉をひそめる表情・・・ここには、深く心を打つものがある。 作家の内面が、不意にむき出しにされた決定的な瞬間といえばいいのか・・・。

岩手県の仮設住宅には、山伏が法螺貝を吹き、僧侶たちがお経をあげる。どんな状況にあっても、信仰は慰めとなり、民衆には祈るしか手立てがないのかもしれない。

日本史上に、高峰のようにそびえたつ空海。密教思想を日本に紹介し、高野山に寺院を開き、さまざまな「弘法大師」伝説をも生んだ。彼が、この被災地の惨状を見たら、何と言ったであろう?

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ある日の新聞から

2013-10-31 10:30:15 | 社会・経済

家で取っている地方紙の論説欄から--

<年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても どうかそのままの私のことを理解してほしい>

<服の上に食べ物をこぼしても・・・同じ話を何度も繰り返しても・・・あなたの人生の始まりに私がしっかり付き添ったように 私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい>

これは、シンガーソングライター、樋口了一さんの「手紙」という曲の歌詞なのだそう。論説は、このあと介護について書きつづられていくのだけれど、私は年老いた親が子に語りかけていくせつなさに、心が震えてしまった。

人は、誰しも年老い、体の自由もきかなくなり、この世から消えていく準備を始めなくてはならなくなってしまう。 生まれたばかりの赤ん坊の時の、天使みたいな笑い顔、生きることが楽しくて仕方ない小さな子供時代をへた後の「戦い」としかいいようのない、苦しみや喜び。 人生とは、楽しい映画みたいなものではない。 そうした葛藤や時々の幸福を通り過ぎた後、老年期が、心暖まるものであれば、と誰しも願っているに違いない。

老いることは、悲しいかもしれない。けれど、晩秋の紅葉がこの世のものとも思われない、華麗な色彩を溢れださせるように、人も散ってゆく前に、素晴らしい心の風景を見ることができるはずだと思うのだ。

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ミツバチの受難

2013-09-14 10:08:07 | 社会・経済

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 もう、十年も前から騒がれていたけれど、蜜蜂が巣箱から失踪したり、大量に死んでしまったりする事件が勃発している。これは、「自然界のミステリー」として、色々憶測されたりしたのだが、丸っこい体に、つぶらな黒い瞳、せっせと蜜を運ぶ可愛らしい様子をした蜜蜂に心なごむ人は多いはず。 この働き者の蜜蜂に、一体何が起こったのだろうか?

この間、TVで見たところでは、ある種の農薬(名前を忘れてしまった)が、蜜蜂の大量死に関連しているのでは、と疑われているらしい。 欧州では、すでにこの農薬の使用を自制する動きもでているのだとか・・・。 蜜蜂を駆除してしまうほどの威力を秘めた農薬--それは、人間にも害を与えるはずではないだろうか? 

蜜蜂は、クマから人間まで大好物のハチミツを作ってくれるだけでなく、農産物が実を結ぶのに必要な受粉の仲介者でもある。 彼らがいないと、かぼちゃもトマトも、リンゴなどの果樹だって、実ることはない。  考えてみれば、私たちの生活は、この小さな虫たちの恩恵をこうむっているのだなあ・・・。

「みつばちマーヤ」の物語が浮かぶ人もいるだろうけれど、春の野などで、ぶんぶんと小さな羽音を立てながら、花にとまるミツバチの姿も、誰しも見たことがあるはず。 この小さな体で、素晴らしい仕事をなしとげるミツバチが、痛めつけられ、姿を消してしまうのだとしたら、本当に悲しい。 レイチェル・カーソンが「沈黙の春」で、農薬などの化学物質が生態系に及ぼす危険を示唆してみせたのは、ずっと昔のことである。 この名著とされる著書は、あらゆる場所で引用されているけれど、 私たちは賢くなったとは言えないのだろうか?

もっと、自然の言葉に、謙虚に耳を傾けてみたい。 ミツバチの愛らしい姿が、たくさん見られるようになる日が来る、その時まで。

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最近、思うこと

2013-07-02 21:42:50 | 社会・経済

今、お洒落をする人が減っているような気がする。価格破壊の激安ファッションが定着したせいかもしれないけれど、高級志向とか洗練された格好をするということ自体がダサイ(あっ、これも死語だ)とされてしまっているようだ。

そういう私だって、若い頃は都会の街を歩いたり、洒落たカフェで休んだりするのがたまらなく好きだったけれど、そんなこと、もうどうでもよくなりつつある。ショーウインドーの中の洗練された商品を見たって、さほど胸もときめかなくなっている。でも、日本全体がそうなりつつあるらしいというのは、どうしたことか?

物が欲しい、ばりばり会社で働きたいという欲望が薄れてきた分、かつてのように社会を一つにまとめていた価値観の均一化もなくなってきた。今の人々のつながりは、会社や地縁をもとにしたものでなく、趣味などでつながるネットワークになっているように思う。これは、個々の小さな集団がばらばらに存在しているということだろう。社会や経済の地盤沈下とあいまって、農業に身を投じる人も多くなった。故郷とはまったく違う山間地などへ行って、棚田作りなどを始める人もいるそうだ。

これは、一体どういうことなのだろう? 高度成長期から、バブル期、そして長い模索期から一転して、これまでとは全く予想の違う未来像が開かれるような気がしてならない。私は、漠然と勝手に思うのだが、行政や経済機関の中枢としての都会とは別に、農村型のコロニーがあちこちに散在し、趣味を同一にする人の結びつきもかつてないほど強くなるーーー社会人としての生活より、一個の人間としての生活を選択する人の数が増えるということかもしれない。

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文明の終わり

2013-06-07 13:38:18 | 社会・経済

人間が文明をもって、数千年の時が流れた。だが、この繁栄にも、終わりはあるはずである。なぜなら、形あるものは、消え去ることが必然だからだ。

 思えば、チグリス・ユーフラテス河畔に文明の灯がともってから、人間の歴史は発展・拡大の一途をたどっていったが、それが飛躍的なスピードになったのは、やはり産業革命以後のことだろう。人口はハイスピードで増え続け、交通機関一つとっても、馬車から鉄道、自動車、飛行機へとめまぐるしい速度で、文明の利器も進歩した。

そして、この日本でも江戸時代は平均40年あまりだった平均寿命が、戦後は80歳を越えるなど、人が長く生きる時代となった。若年人口が圧倒的に多く、老人は稀だった古代・中世・近世の社会を見ると、長寿で、文明の恩恵をふんだんに受けることのできる現代は理想といえるかもしれない。

だが、はたしてそうだろうか? 1970年にローマ・クラブは「成長の限界」を提言し、地球上の資源は有限なのに対し、人口がこのまま増えていけば、100年内に地球上の成長は止まるとの見解を示した。成長が止まる--これは、人間の文明が飽和地点に達し、衰退の道をたどっていくことを暗示しているのかもしれない。現在でさえ、世界はあまりにも複雑で、その複雑さのあまり分裂の様相を呈してさえいる。

 確かに数十年前までSFが、明るく希望に満ちた未来世界を描きだして見たのに比べ、現代は希望を抱きにくい、状況にあるなあ、と思ってしまう。昔、学生時代アーサー・C・クラークの「楽園の泉」というSF小説で、25世紀の地球を舞台に、宇宙エレベーターをつくろうと奮闘する、工学者ヴァニヴァー・モーガンの物語を愛読していたけれど、宇宙に歩を踏むまで、地球と人間の歴史がずっと続いてほしいと思っている。

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この世の片隅で

2013-05-22 14:30:28 | 社会・経済

毎朝読む新聞や、TVでショッキングなニュースを目にする。幼児虐待や、動物たちの殺処分などだ。それらを目にするたび、あわててTVを消したりなどし、その現実を頭から追いはろおうとする。どうして、こんな悲しくつらいことがあるのだろう? しばらく気分が落ち込んでしまう。こんなことは滅多にあってはならないはずなのに、しょっちゅう報道される。だからといって、こちらが、慣れてしまうわけではない。いや、慣れることはできない。
 この世に生まれながら、虐待を受け、あげくは殺されたりまでする子供たち--この子たちは短い人生の中で、心から楽しいと思えたり、笑ったりすることもあったのだろうか? こんな目にあわされながら、その名前がまるで、少女漫画かアニメから取ったかと思えるほど凝っているのも悲しい。TV画面に映る、子供たちの幼い顔やまっすぐな瞳を見ると、泣きたくなってしまう。
 そして、牛や鶏や豚といった家畜たち。インフルエンザとか口蹄疫が発生するたびに、多くの家畜たちが殺される。「鳥インフルエンザ発生につき、鶏数千羽を処分」--こうしたニュースを耳にすると、横たわる無数の鶏と、彼らを飼育してきた人々の心労を思って、言葉も出ない感じになってしまう。もちろん、伝染病は怖いけれども、動物たちが可哀そうでならない。
私たちが毎日、平和に楽しく過ごせているのも、不幸な出来事があるのも、どちらもこの世の片隅の出来事なのである。世界はあまりにも、広く複雑だと、年齢とともに感じるようになってきた。

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