ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

コンビニがやってきた

2013-05-31 21:42:43 | ある日の日記

近所にコンビニができた。それで、今日が開店日。うれしくて、今日だけで、三回も行ってしまう。こんなこと書くと、まるでどこか山の中の僻地にすんでいるみたいだな・・・。
 普段は、ほとんどコンビニなんて行くことはない。料金の払い込みとコピーをとる時くらいである。弁当や、おにぎりやお菓子を買うことなんて、なかったなあ・・・。コンビニが私の生活の友であったのは、はるか昔の学生時代である。それが、今日のぞいてみると、実に魅力的な商品が並んでいるんである。こりゃ、スーパーなんかより、面白いかも。レトルトパックに入った豚汁やら、ハンバーグやら、コンビニ仕様のちょっとリッチな惣菜・・・ああ、おいしそう。

 さっそく、有名なラーメン屋の味を再現したというカップラーメン、チーズパンなどを買う。帰宅して食べると、期待にたがわぬおいしさ。うん、ここ当分、コンビニがマイブームになりそうである。何せ、冷蔵庫がわりに使えそうなほど、近所にあるのだ。
 それで、思ったけれど、子供の頃、雑貨店とか駄菓子屋というものがあった。ばら売りの駄菓子やら、菓子パン、アイスクリーム、果ては縄跳びやら虫とり網などというものまで売っているという、考えようによっては訳のわからぬ店であった。こういう店は、町内に一、二軒はあって、通っていた小学校のそばにもあった。運動会の時など、こっそりと校門を出て、その駄菓子屋へ行き、ジュースを買って飲んだこともあったっけ。
 

 そういう店が、姿を消していったのは、いつ頃だったろう。私が中学に上がる頃というと昭和六十年前後には、雑貨店は絶滅にひんしていたのじやなかろうか?  あれも、昭和を担った輝かしい(?)文化の一端であったと勝手に思っている、私としては、今の子供たちは「買い食い」の愉しみを知らない分、気の毒な気がする。蛍光灯が明るく輝く、無機質なコンビニ空間では、薄暗い木造の駄菓子屋の秘密めいた面白さなんて味わえないでしょう?
 といっても、マンガ「ちびまるこちゃん」を読むと、ちょっと違うかもという気がする。作者のさくらももこさんは、私より五歳くらい年長のはずだと思うのだが、ここに描かれた紙芝居屋とか、雑貨屋の雰囲気が、私の記憶にはないのである。古い木のショーケースに大きな容器が幾つも並べられ、そこに、ばら売りのお菓子が一種類ずつ売られているとか、自転車に乗って、紙芝居を見せにくるおじさんの存在とかである。これはもう、アミューズメントパークの昭和レトロ商店街の世界だなあ。
 

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本は最高の贈り物 その2

2013-05-30 09:43:24 | 本のレビュー

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昨日に続いて、本の話題です。この本、「澁澤龍彦との日々」は、Mさんから頂きました。ギャラリー、「アトリエ・ドゥ・ノエル」に幾度も出展してくださった染織作家さんのお友達で、今まで東京から三度もギャラリーにいらしてくださったのです。
 離れの本棚に並べてある、どちらかというとマニアックな傾向のある本たちを見て、「ここにある本はほとんど読んでいます」とおっしゃったのには、びっくり!凄い読書家の方もいらしたものです!そして、以前もシャルル・ペローの「眠れる森の美女」の美しい愛蔵版を下さったのですが、挿絵も非常に綺麗で、私の好みのつぼにすっかりはまってしまった本。これも、今では離れの書棚に並んでいます。
 
 そして、この本。これも綺麗な本ですね。表紙のモノクローム写真の薔薇が、何ともいえません。三島由紀夫と並び称された、耽美派の作家澁澤龍彦の夫人が夫亡き後、回想を綴った本なのですが、文章も明朗で、気どりのない伸びやかなもの。夫人の人柄がしのばれ、描かれた澁澤龍彦本人よりも、魅力的にさえ見えたもの・・・。
 といっても、澁澤龍彦は、大学時代すっかり惹きつけられていて、二十代半ば過ぎまではまっていた作家。その私生活のエピソードがてんこもりなのだから、面白さは圧倒的(それにしても、書棚に並んだ本を見ただけで、私の趣味や好みのものがわかってしまうなんて、Mさんの慧眼もおそるべし・・・)です。ここに書かれた昭和終わり頃の鎌倉の風景や自然、文壇仲間との交流は興味深いのですが、もう人々の記憶から薄れつつある作家の名前などもあり、鎌倉の豊かな自然とともに、昭和も遠くなってしまったなあと思わされてしまいました。
全国の澁澤ファンの方は、ぜひご一読を!

 

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本は最高の贈り物

2013-05-29 15:11:06 | 本のレビュー

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今日、ポストをのぞくと、小包が入っていました。児童文学作家の岡野薫子さんからです。中を開けてみると、こんな美しい本が!深い紫に、銀杏を思わせる黄色の帯、金で刻印したかのようなタイトル、そしてきわめつけは岡野薫子さん自身の手になる梟と弦楽器の絵の素晴らしさ・・・中身が大切なのはもちろんですが、美しく装丁された本を見るとそれだけでうれしくなってしまいます。
 岡野薫子さんは、「銀色ラッコの涙」などで知られますが、もう十年ほども前、私が出したファンレターがもとで、途中とぎれたこともあったものの幾度もお手紙をいただきました。小学校の三年の時出会った「ふたりのプリズム」という本が大好きで、この本はなくしてしまったのですが、もう絶版で手に入らないことから、作者の岡野さんに、手紙をさしあげたのです。これは戦時下の東京に生きた、昆虫好きの活発なニレちゃんという女の子と現代に生きる少年が時空を超えて交流する、素晴らしいファンタジーです。今でも図書館などでは読めるはずだと思います。
 昨年、吉備路文学館へ児童文学者坪田譲治の企画展のため、東京から来られた岡野さんにお目にかかる機会があったのですが、対談のスケジュールなどがあったため、ゆっくりお話する時間もないままでした。さて、この本--「都会の蜃気楼」という題名。児童文学ではなく、大人向けの短編集だとのことで、帯を読むと、私の大好きな幻想やちょっとミステリーの味わいがあるもののよう。大切に読んで、感想をお送りしようと思います。

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古代エジプト幻想

2013-05-27 21:03:31 | ガーデニング

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今日、カリグラフィー・ネットワーク作品展に出す作品を宅急便で、東京に送る。といっても、ここのところ色々忙しく、作品は三年半ぐらい前のもの・・・そんな昔のものを出すなんて、と我ながら思うけれど、他に適当なものがなかったのだ。もっと、まじめにカリグラフィーをやって、少しでも上達できるようにならなければと思う。新しい作品もつくるようにしないと・・・。
 さて、上の写真だけれど、ガーデンの風景の中に、矢車草が映っている。(はっきり見えないけれど)懐かしい色調の紫や青の色の花が咲くのだが、実はこれ、はるかな昔からあるもの。
かの少年王ツタンカーメンが死んだ時、王妃アンケセナーメンは矢車草の花束を棺の上に置き、哀惜の念をあらわしたとか。カーターがツタンカーメンの墓を発掘した時も、矢車草は原形をとどめていたけれど、触れると粉々にくだけてしまったとか・・・。
はるかな古代エジプトの時代、ナイル河畔の王宮の庭園で咲いていた矢車草を思い浮かべると、まるで時空を超えてしまうような、不思議な気分になってしまう。こんなことを思っていたら、今日偶然にも、「ツタンカーメンの豌豆」なるものをいただいた。これも、ツタンカーメンの墓から発見されたという、古代の豆を現代によみがえらせたもの。現代のつやつやした緑のえんどう豆とちがって、紫がかったさやは、ごつごつして不格好とさえいえるもの。それでも、味は今とは違う野性味があって、これはこれでなかなか得難い。
5月の終わり、子供時代エジプト考古学者に憧れた子供時代を思い出す、私でありました。

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麗しのロバート・レッドフォード様

2013-05-26 14:57:53 | 映画のレビュー

こないだ、衛星TVで、「モンタナの風に抱かれて」を見た。主演はロバート・レッドフォード。ジジャジジジャーン!今は、懐かしの美男スタアであります。
 ほんといって、この映画、何年も前に見た覚えがあるんだけど、原題名は「ホース・ウイスパラー」--馬に囁く人という意味。突然の悲劇的事故で、足を失った少女と、重傷を負った馬。彼らには、体だけでなく、心にも深い傷が刻まれてしまう。馬(名前はピルグリム)は、顔にも醜い傷ができ、人を寄せ付けない暴れ馬になってしまう。安楽死もすすめられる中、少女の母は、モンタナにいる馬の専門家ボブに、ピルグリムを治してくれるよう頼む。そして、トレーラーにピルグリムを乗せ、娘とともに、ニューヨークからはるばるモンタナにやってくる--というストーリー。なかなか面白いけど、いかんせん長い!三時間もあるのだ。
 心の病気になった馬を治す話というのも、興味深いけれど、画面にアップで映るピルグリムの黒い瞳や、表情がかわいい。馬って、繊細なハートを持っているのだなと思わされる。問題は、少女の母(雑誌のやり手編集長)とレッドフォ-ド演じるボブの間にかわされるロマンス・・・そんなのどうでもいいとは言わないけど、結構退屈。まじめな恋愛って、本人以外は退屈なもの。大写しで映されるレッドフォ-ドも老いは隠せず、皺が深く刻まれ、肌もたるんでいる。う~ん、一代の二枚目スタアも年を取った・・・と自分は棚にあげて感慨にふける私。
 この映画のボブと似た雰囲気を持つ男性像を演じたレッドフォードと言えば、「愛と哀しみの果て」(なんと、安っぽくセンスのない題名だろう。このアフリカを舞台にした一代叙事記が、まるでハーレクインロマンスのようである)の飛行家デニス・ハットンだろう。原作者アイザック・ディーネーセン自身であるカレンをメリル・ストリープが演じていたが、当時中学生だった私には、レッドフォードは「なんかかっこつけてて、この人凄いナルシストかも」という印象を与えたのみ。りっぱにおじさんの年齢なのに、少女漫画のような容姿や、二枚目然とした物腰は気恥ずかしくさえ見えたのだ。
だが、今の映画界を見るに、人が理想と感じる、ヒューマニスムが感じられるスタアなんてもういない。レッドフォードの前は、グレゴリー・ペックなんかがそうだったろうけど。レッドフォードももう七十過ぎ--古き良き時代のアメリカが遠くなったことを思い知らされる。
 

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クロアチアの風

2013-05-25 07:07:37 | 旅のこと

おとついの夜、両親がクロアチア・スロベニア旅行から帰ってきた。近年、何かと脚光を浴びているアドリア海沿岸の国々である。 ヨーロッパの歴史上、イギリスだとかドイツみたいな大国ではなかった分、観光客慣れした、手あかのついてない、ヨーロッパ中世が息づいている場所かと思えば、さにあらん、観光客でいっぱいだったとか。
 世界遺産が幾つもあり、そこに日本人をはじめとする東洋人の観光客が押し寄せていて、疲れたとか・・・。ううむ、観光パワーおそるべし。私が、クロアチアの旅行案内書を見たとき、「なんだか、地味で華やかさに欠けるなあ」と思っていたのだが、ここは宮崎駿夫アニメの「紅の豚」のモデルにも使われたらしい。(「紅の豚」面白かったです。20世紀初めの古きヨーロッパの雰囲気が、よく出ていました)
 でも、思うのだが、日本人(いや、どこの国でもそうなのかもしれないが)の旅行熱は、観光対象となる国が、一過性のブームのように変わるんじゃないかと思う。今は、クロアチアやトルコが脚光を浴びていて、その前はオーストリアやチェコといった中欧だったように思う。私が大学生だった頃は、バリ島が一種のブームだったなあ。今では、バリ島って、かつてのような魅惑的な語感をともわないような気がする・・・。
 クロアチアと言えば、ずっと昔はセルビアといわれていた国じゃないだろうか? 私がこの国の名前を知ったのは、懐かしいアルセーヌ・ルパンものの中でだったと思う。どういう題名のシリーズだったか忘れたが、秋のフランスの葡萄畑をサイクリングしていた父子が、古い城館そばで雨宿りする。その時、父親の方が、黒衣に胸にトカゲのブローチをした女に刺殺されたことから、事件の幕が開く--というストーリーだったと思う。そのトカゲのブローチをした女が、セルビアの公女だったというのが、深く印象に残っていて、セルビアという国名が頭に刻まれたらしい。
 両親が買っきた土産物の中には、何本ものワインやクロアチアにはたくさんあったというラベンダー畑からつくられたというラベンダーのポプリがあったが、私が気に入ったのは、クロアチアの紋章がついたキーホルダー。紋章が屋根いっぱいに刻みこまれた教会もあったそうで、私も見てみたかったなあ。

P.S  クロアチアのもう一つの魅力は硬貨のデザインが何ともキュートなこと。銀色をしたコインの中には、熊や魚、鳥、植物といった美しい図柄が刻印されているのだ。古代ローマの皇帝の横顔を刻みこんだ古代の通貨を同じくらい、素晴らしい傑作だと、個人的に思っています。

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この世の片隅で

2013-05-22 14:30:28 | 社会・経済

毎朝読む新聞や、TVでショッキングなニュースを目にする。幼児虐待や、動物たちの殺処分などだ。それらを目にするたび、あわててTVを消したりなどし、その現実を頭から追いはろおうとする。どうして、こんな悲しくつらいことがあるのだろう? しばらく気分が落ち込んでしまう。こんなことは滅多にあってはならないはずなのに、しょっちゅう報道される。だからといって、こちらが、慣れてしまうわけではない。いや、慣れることはできない。
 この世に生まれながら、虐待を受け、あげくは殺されたりまでする子供たち--この子たちは短い人生の中で、心から楽しいと思えたり、笑ったりすることもあったのだろうか? こんな目にあわされながら、その名前がまるで、少女漫画かアニメから取ったかと思えるほど凝っているのも悲しい。TV画面に映る、子供たちの幼い顔やまっすぐな瞳を見ると、泣きたくなってしまう。
 そして、牛や鶏や豚といった家畜たち。インフルエンザとか口蹄疫が発生するたびに、多くの家畜たちが殺される。「鳥インフルエンザ発生につき、鶏数千羽を処分」--こうしたニュースを耳にすると、横たわる無数の鶏と、彼らを飼育してきた人々の心労を思って、言葉も出ない感じになってしまう。もちろん、伝染病は怖いけれども、動物たちが可哀そうでならない。
私たちが毎日、平和に楽しく過ごせているのも、不幸な出来事があるのも、どちらもこの世の片隅の出来事なのである。世界はあまりにも、広く複雑だと、年齢とともに感じるようになってきた。

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ノエルの変身

2013-05-21 16:38:28 | ガーデニング

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これが、我が家のノエルです。このワンコさんは、皆さんの目にどんな子に見えますか?カモミールの花畑の中、椅子に座っているしとやかなレディに見えますでしょうか?  見えない?
 でも、今では、ある程度レディの域に近づいているのであります。何しろ、半年前まではひどかった。飛びつく、ふざける、言うことは聞かない。そして、男の子でもそういないんじゃないかというぐらい、乱暴者だったのです。「この子、本当は男の子じゃないかな? 生まれた時は女の子だったけれど、いつの間にか性転換したのかも」という冗談が、半ば本気で囁きかわされたほど。顔も、前の初代ノエルがいかにも・・・・的美少女だったのに引き換え、りりしいものでした。
 そうして、手を焼いていた時トレーナーさんにトレーニングしてもらうようになってから、だんだんとおとなしく、聞き分けがよくなってきたのです。今、空前のペットブームで、犬を連れいている人の姿もよく見ますが、ほとんどトイ・プードルなどの小型犬。ノエルのようなゴールデン・レトリバーも少なくなりました。ちょっと、さびしいかも。
それでも、犬は人生を豊かにしてくれる存在であることは、確かです!

 
 

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アガサ・クリスティー的楽しみ

2013-05-20 11:39:50 | 映画のレビュー

昨日の昼下がり、ミス・マープルものの「青いゼラニウム」というテレビ映画を見ながら、お茶した。ご存じ、ヴィクトリア朝生まれの骨董的老婦人ミス・マープルが、難事件を解くというミステリである。「さすがは英国!」と思わせるガーデンや古い家の美しさ、そこかしこに立ち上る古き良き英国の雰囲気・・・と魅力満点の舞台装置なのだが、この「テレビ映画」というところに問題あり。以前も、ミス・マープルもので原作をすっかり変えてしまい、安っぽいドラマにしてしまって、あろうことか犯人やその動機さえ変えてしまっているという代物さえあったのだ。どーして、そんなことする?
 それにしても、アガサ・クリスティーはなぜこんなに変わらぬ人気があるのだろう? 私も小学4,5年生の頃から読んでいて、十代はすっかりクリスティーにはまっていた。大英帝国華やかなりし頃のイギリスの魅力、洒落た舞台設定、ストーリーテリングの巧みさ・・・といろいろ理由はあるのだろうが、私は「意地悪さ」もあげたい。大体、クリスティーはなかなか意地悪である。セント・メアリ・ミードという村に住む、品の良いオールドミスであるはずのミス・マープルも例外でない。育ちが良く、品が良いはずなのに、ゴシップ好きだし、人間観察も愛情が感じられるというより辛辣なところもある。
 他の作品でも、使用人に対して「ああいう階級の人たちは・・・」とか、知的でない女性には「おつむが空っぽで」とか辛辣な言葉は枚挙にいとまがない。クリスティーほどのスケールの大きな才能があれば、「いい人」である必要はないだろうけれど。それに、表現に「毒」が感じられるのは、読者にとって大きな魅力である。
 そして、わたしもアガサ・クリスティーが大好きである。昨年旅行したトルコでも、イスタンブールのシュルケジ駅にはクリスティーの写真が壁にかけられたいた。「ああ、80年かもっと昔、クリスティーもこの駅に降り立っていたんだな」と思うと感無量であった。オリエント学者を夫に持ったクリスティーは中東を舞台にも、幾つかの作品を残している。私の好きなのは、「メソポタミアの殺人」だ。

 

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5月のガーデン

2013-05-19 10:21:19 | ある日の日記

ガーデンに出て、水をまく。面倒くさい作業のはずなのだが、まだ盛夏には時間がある、この時期の水撒きは苦ではない。夏に近くなるにつれ、庭の緑も濃くなって、黒ずんでさえくるのだが、春や初夏の庭の緑は柔らかみを帯びて、「きれいだなあ~」と思ってしまう。と、まるで自分のもののように言っているけれど、このガーデンは母のもの。日常は母の管理のもと、草取りから花の世話、水やりとぜーんぶ彼女がやっている。
 家の前の和風庭園の方まで手が回らないので、ハーブガーデンに水を撒くだけで精一杯。それでも、カミミールの花々が小さな草原のように見えたり、ワイルドストロベリーが濃い緑の葉の下で宝石のように輝いていたり、サクランボの赤い実が温室の窓越しに見えるのは、何ともしれない喜びを与えてくれる。ガーデニングというのは、ひょっとしたら、素晴らしく贅沢なことではと思わされるのだ。
 ボリジの葉にテントウムシがいるのを見つけたり、揚羽蝶によく似てはいるけれど、青い模様の蝶が飛んでいたり・・・・・・自然って素晴らしいなあ。ただ、気になることがある。ここ数年、夏になると蝉が異常発生して、庭の木々に恐ろしいほどの数の蝉がとまっているのだ。以前、どこかで蝉は28年ごとに異常発生するとか聞いたことあるけれど、これはどうしたことか?この地球の高温化と関係があるのだろうか?
 ミンミンうるさく鳴く蝉を見ると、「まあ、7年も地中に耐え忍んで・・・」と哀れを催す気分になどなれないのも事実。愛犬ノエルときたら、「どーじゃ? こんなもん」と木に飛びつき、蝉を食べてしまうほどワイルドな犬なのである。そして、ガーデンを見ても蜜蜂がいない。私が子供だった頃は、もっといたはずなのに・・・・・・。田んぼの減少と比例して、雀が少なくなってしまったように、自然界にも大きな変化が起こっているのかもしれない。どうか、今から百年後にも、夏の昆虫取りを楽しむ子供たちの姿が見られますように。
 

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