ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

三島由紀夫レター教室

2017-01-31 23:32:20 | 本のレビュー
「三島由紀夫レター教室」  三島由紀夫 ちくま文庫


これも、手に取ったことのない三島由紀夫。三島というと、豊饒華麗な世界しか頭になかったのですが、意外や意外、かくもユーモアのセンスがある洒脱な面を持っていたとは。

まあ、彼の文学世界は、真面目に人生に切り込んだものというより、「知的遊戯」に近い面を持っていたから、こうしたエンターティメントもありかもしれませんが。

さて、この書物で、読者は「手紙魔」ともいうべき、5人の魅力的な人たちに出会うことになります。恐るべき策士にして、やり手の女実業家(というか、英語塾を手広く成功させている)の氷ママ子。その仲の良い男友達(といっても、気が合う相棒という趣で、恋愛にまで発展するのは終わり近くになってから)で婦人服デザイナーの山トビ夫。氷ママ子に可愛がられている若くチャーミングな女の子、空ミツ子、ミツ子と愛し合い結婚することとなる炎タケル、ミツ子の従兄で、落第生でTVオタクの丸トラ一(この青年が、全体の狂言回しの役どころとなるのです)――ネーミングからして、ふざけているでしょう? 思うに、この楽しい喜劇を書きながら、文豪三島はクスクス笑っていたのでは?
そう思ってしまうぐらい、この手紙のやりとりが飛び交うさま、面白いんです!

「有名人へのファンレター」、「借金の申し込み」、「同性への愛の告白」、「愛を裏切った男への脅迫状」、「心中を誘う手紙」、「閑な人の閑な手紙」、「真相をあばく探偵の手紙」と手紙の種類ごとに章立てがされているのですが、これ読んだだけで面白そうでしょう? 私もこの本を読んでいる間じゅう、片時もページを繰る手がとまらず、キャラキャラ笑ってしまったのであります。近頃、こんなにオモシローイ本には巡り合わなかったなあ……。
 
私も大いに反省しているのですが、とかく無難に礼儀正しく、とまとめてしまいがちな手紙……。パソコンメールでささっと簡単に要件をすませてしまいがちだし、スマホも傍らから離さない我々にとって、「手紙」を書くというのは、ホントーにムツカシイ!

三島氏は、手紙の本当の書き方を指南するとの意気込み(?)で、この快作を当時の女性週刊誌に連載したらしいのですが、そんな昔でももう「面白く、楽しい手紙」を書く才覚は、一般の人々の間からはすたれていたのでしょうか?
事務的な報告や、論文、日記を書くなどは、乱暴に言ってしまえばだれにでもできること――これが、エッセイ、そして手紙を書くとなると、その人の才や感性がおおいに問われるのでは? と私はニラむのですが……。
 
そして、この本の最後が、実に素晴らしいのであります。
「作者から読者への手紙」という題で、三島氏から私たちにメッセージが送られているのですが、黄金の名セリフとでもいいたい、言葉がいっぱい。
「……世の中を知るということは、他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ちうるとすれば自分の利害のからんだ時だけだ、というニガいニガい哲学を、腹の底からよく知ることです」
「手紙を書くときには、相手はまったくこちらに関心がない、という前提で書きはじめなければいけません。これがいちばん大切なところです」
「世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向かって邁進しており、他人に関心を持つのはよほど例外的だ、とわかったときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力がそなわり、人の心をゆすぶる手紙が書けるようになるのです」

まこと、その通り!三島氏の言葉を読んで、快哉を叫びたくなってしまいました。以前から漠然と思っていて、形にまでできなかった考えを、ズバリと言ってくれているのですから。
文豪は、人間通でもあるのでした。

手紙というものにノスタルジーを感じる人のために、三島由紀夫という作家を愛する読者のために、そして何より面白い本(=手紙)を読みたいと願っている人のための稀有な一冊。

ゴールデンの王子様

2017-01-27 09:02:30 | ノエル
 
満面の笑みを浮かべている母。それも、手もとに抱かれている子犬を見たら、当然であります。

実は、この子は先月、クリスマスのローストチキンを作らせていただいたおうちの、ゴールデンレトリバーの男の子。ご覧のように、とっても可愛くて、上品なの。
    
可愛いなあ、カワイイなあ……同じ言葉が、何度も何度も出てしまうくらい、見飽きない愛らしさ。ゴールデンの子犬ときたら、絵葉書やカレンダーなどいたるところに使われているけれど、この写真の男の子くらい、綺麗な子には会ったことがありませぬ。

淡いクリーム色の毛は、ふんわりと波打ち、得も言われぬ上品な微笑みを浮かべているさまは、まるで「天使」

母が、こんなに幸せそうなのも、当たり前ですね。ああ、私も抱っこするだけじゃなくて、記念の写真が欲しかったです。

ノルウェーの家

2017-01-24 22:01:53 | テレビ番組

時々、TVで「世界 こんなところに日本人」の番組を見ている。
世界じゅうの、思いもかけぬようなところに老若男女の日本人が、その村や町にただ一人入りまじって住んでいるさまをルポしたものなのだが、とっても面白い。
世間いっぱんには、全く知られていない人たちの、勇気や魅力的な横顔がうかがえて、こちらも励まされてしまうのだ。

そして、今日はインドとノルウェーに住む、どちらも三十代前半の若い女性の物語が、画面で繰り広げられていた。我が日本から、「突撃隊」のノリでリポーターが、大体二日間にもわたる長旅の果てに、彼らと対面するという趣向になっているのだが、この道行のさまも好奇心をそそる(もっとも、自分がしてみろ、と言われたら、こんな地球を一回りもするような苛酷な旅は、イヤだなあ~)。

前置きが長くなってしまったが、今回のノルウエーの北極圏の町の美しさにすっかり魅せられてしまった私――こんなに空気が澄んで、一片の汚れも存在しないような町が、現実に存在するのだろうか? 太陽がほとんどのぞかない時期は、いつも夜の世界が広がっていて、家々にともる明かりも夢のように幻想的である。出演した女性の住む家も、真っ白な木造の一軒家で、インテリアがとても素敵!  大きな窓からは、北極に近い町の風景が広がり、チャーミングな形のキャンドル立てが立っている。常々、北欧の人たちのデザイン感覚には、驚嘆していたのだが、そのセンスも、こんなに美しい自然があったら当然ではないか、とすら思えてくる。 日本にいても、洒落たインテリアや雑貨はいくらでも手に入るけれど、アジアの湿潤な空気の中では、これほど美しくは見えないのではないだろうか?

若い頃は、フランスとかイタリアに留学してみたい、と夢みていたこともあったけれど、ノルウエーの、この世から隔絶したような、幻想的な町にも住んでみたい。北国の凍てつく空気のなかでは、家の灯も、星空もオーロラも、宝石以上に美しいのだから。

カラスのおうち

2017-01-22 18:23:58 | ある日の日記

おとついの夕暮れ、シャンプー(これが、朝預けて、夕暮れの迎えに行くと、いう一日がかりの行事なの)から、ノエルを連れて帰る時、空で不気味な羽ばたきが…。
黒い一団が、空をサアーッと横ぎっていったかと思ったら、右前方の小山に向かって行っているのであります。その時、もう自宅近くだったのだけれど、おりしもラッシュ。数珠つなぎに並びながら、車の窓から、その様子を眺めていたら、おおっ! これは素晴らしい!

迫る夕闇を背景に、小山の頂上近くには、木々がぼうぼうと生えているのですが、その細長い枝のあちこちには、カラスのシルエットがくっきり。木々のねじくれた枝とそこに止まるカラスの大群は、まるで一幅の絵のよう(この表現はおかしいかな? でも、魅力的な影絵のように見えました)。

時代が変わり、地方の郊外でも田んぼが少なくなったせいか雀を見かけることが少なくなりました。変わって活躍しているのは、私の小さい頃にはほとんど見かけなくなった黒と白のツートンカラーの野鳥(雀と同じくらいの大きさだけれど、もっとほっそりしている)。そんななかで、鳥の智恵者カラスは相変わらず健在。
と思っていたのですが、最近ゴミの分別がきちんとされ、ゴミ収集所も閉めきってあるので、カラスが略奪することもあまりできなくなったらしいのであります。
お腹をすかせたカラスが、あちこち所在なげにうろついているのを見ると、何だかせつなくなってしまいます。

しかし野良猫の生んだ子猫をあちこち見かけていたはずなのに、姿が見えない――これは、カラスがくわえて飛んで行ってしまうかららしい、と聞き猫がかわいそうな反面、複雑な気分に。
どんな動物にとっても、生きていくって生易しい事ではないのだなあ……。

この日、カラスたちのおうちを初めて知った私ですが、よく考えてみると、彼らはただ枝に止まっていただけでは? カラスたちも、家というからには、「巣」を作るように思うのです。

昔読んだ物語にあったように、その巣には☆彡キラキラ光るビー玉とか鏡などのお宝を大事にしまっているのかな? と想像してしまう私でありました。

  

グレタ・ガルボ―永遠の美神

2017-01-20 20:51:31 | 映画のレビュー

おとといの朝、NHKの衛星放送で、「グレタ・ガルボ――秘密の恋」を観る。
いわずとしれた1920年代の美のアイコンであるガルボ。 その伝説的な美貌や、謎めいた人生と相まって未だに人々の関心と憧れを引き寄せてやまない存在である。

彼女のことは、ハリウッドスターとしての栄光を握る前の極貧の少女時代、映画界を去っての謎めいた隠遁生活……と一通りのことは知っていたのだが、やはり北欧の白夜のような神秘のヴェールがかかっていたことは否めない。だから、だいぶ以前、古本屋で入手した、「グレタ・ガルボ その愛と孤独」(確か、こんな題名だったと思う)上下2巻ある伝記本は、彼女の虚像が暴かれたようで、かなりショックだったもの。

伝記によれば、スウェーデンの最下層民の住む地区に生を受け、両親はまったくの無教養であった(父親は、道路掃除夫、母親も家庭の掃除婦)。おそらく、育ったアパートも、スラムに近い貧民窟であったに違いない。
ガルボの個人的友人だったという作家(といっても、かなり訳ありの人物であるらしい。この名誉棄損とでもいわれかねない伝記を残した後、謎めいた死を迎えている)は魔術的とさえいえる筆力で、少女時代のガルボの苛酷な生活を描いている。
その伝説的な成功と輝かしいスタア生活――彼女が銀幕を去ったのは、はっきりと理由が書かれていないが、晩年の彼女がその名声を利用して、金持ち連にたかる生活をしていたことが辛辣に描かれている。作家の想像力が見た、ガルボ自身の述懐として「私は、漂流しているようなものだ。年を取るにつれ、私は人に好かれない人間になっていった」というシーンがあったと記憶している。
ガルボは、華やかなロマンスが幾度もあったものの、生涯独身で夫や子供を持つこともなかった。世を去った時、84歳――36歳でスクリーンを去ってからの、永すぎる余生を彼女はどんな思いで生きていたのだろう?
哲学者ロラン・バルトが形容したように、人間の顔を越えた存在といえるガルボの美。私は、ガルボと聞くたびに、アンデルセンの童話「雪の女王」を思い浮かべてしまうのだが、あまりに完璧な美は、人を聖域に閉じ込めてしまうのかもしれない。
本の終章で、ガルボはスイスの村に隠遁している。「アルプスの花々に魅せられているからには、アルプスの一隅で花を枕にして、青空の下で永遠の眠りにつくのも悪くないと思った」とガルボは言うのだが、果たして彼女は幸福だったのだろうか?
私はロミーシュナイダーの伝記も持っているのだが、そこで伝記作家は「人々は映画スターの伝記を読みたがる。すべてを手に入れながら、その実何も手にいれられなかった人の物語を」と記していたが、これこそが真実かもしれない。

さて、このNHKのTVでは、もっと素朴な愛らしい素顔さえ持つガルボを見ることができる。大スターになる前のスウェーデン時代の、彼女の恋人――このラッセという男性は、現在では詳しい足跡をたどることもできない、秘密の恋人であるらしい――にあてて書いた手紙を読むと、この美神が、温かい血の通った女性であることがわかって、新鮮な驚きが。
そして、少女時代のガルボは太って、田舎臭い娘であったことも面白い。サンドリヨン(灰かぶり姫)が、魔法によって舞踏会に出かけていくように、ハリウッドの魔法がかけられたに違いない。
学校教育を受けられなかったことがコンプレックスだった、とガルボの知人は述懐していたが、私は彼女は極めて知的な女性だったのではないか、と思っている。だからこそ、夢のようなスター生活を惜し気もなく捨てられたのだろうし、「ハリウッド--あそこは、私が人生を浪費したところね」という肉声が残されているのだろう。そして、子供時代の辛酸が、スター生活や富、といったものに、醒めた距離感をもたらしたのだろう、とも思う。

ガルボの顔を今一度、眺めてみる。あらゆる人々が言ってきたように、女性的要素と男性的要素の溶け合ったマスク。20世紀のはじめの女性とは思えないほど、現代的で、未来的な感じさえする。その表情に漂う「謎」は、モナ・リザの微笑のようだ。

絵本

2017-01-17 21:01:09 | 本のレビュー

「絵本」 玄光社ムック。illustration別冊。2010年刊行

これまた図書館で借りてきた本。見ての通り、絵本を紹介した特集号なのだが、とんでもなく中身の濃い一冊!
現代の絵本作家をすべて網羅し、紹介しているといってもいいほどなのだが、インタビューや創作の秘密など特集が組まれているのは、かがくいひろし、酒井駒子、いせひでこの三人の作家。

かがくいひろしさんのことを今まで知らなかったのだが、この表紙の愛らしくもユーモラスなダルマさんが、その手になるもの。惜しくも若くして亡くなられたそうなのだが、残された「だるまさん」シリーズの絵本はヒットし、多くのファンを持つという。ぜひ、読んでみたい。

そして、「大人の絵本」ジャンルを開拓したとも見なされ、高い知名度を持ついせひでこさんと酒井駒子さん。やっぱり、この二人の絵はステキ。
   
いせひでこの絵本は、「ルリユールおじさん」「大きな木のような人」「にいさん」の三冊を持っているのだが、彼女の絵には宗教的な高みや求道的なストイックさを感じてしまう。
私は、十代から二十代にかけてシベリアン・ハスキーを道連れにしていたのだが、いせひでこさんもこの北国の犬を飼っていて、その思い出の記である「グレイが待っているから」を愛読書にしてからの長いつきあい。
ロングインタビューで「絵は毎日かいてこそ、プロ」の言葉からはじまるさまざまなコメントには、激しく妥協しない人柄が伝わってきて、静謐な格調の高い水彩画を知る者としては、すこし意外な感。
本当に綺麗で、高尚な絵本なのだけれど、どこかこちらを拒絶するような厳しさも感じる――というのは、私の誤解かな?


            
対して、酒井駒子さんの絵は、柔らかく、ちょっと木炭画のニュアンスも感じさせる煙るような雰囲気をたたえている。
やっぱり、こちらの絵の方が好き。幾多の文芸書の表紙に使われていることからもわかるように、物語を感じさせる絵でもある。
上の写真では、酒井駒子の絵本がいくつも紹介されているだけれど、見たらほとんどというか「きつねの神様」も「「くまとやまねこ」、「ビロードのうさぎ」もノエルの本棚に並んでいる……大好きな絵本作家であります。

巻末には、全国の絵本屋が紹介されていて、「行ってみたいなあ」と涎が出てしまいそう。神保町には、すごくチャーミングな絵本書店があるらしいし、学生時代にのぞいたきりで記憶から薄れている青山の「クレヨンハウス」もまた訪れたい!
思うに、絵本とは幼い子供のためだけではなく、大人にとっても幼年時代へ回帰させてくれる「どこでもドア」みたいなものであるはず。

葡萄のこと

2017-01-17 20:46:39 | ガーデニング

これは、少し前の温室の風景。
秋のはじめか、葡萄が実っているさまが見えますね……ああ、これを今年の夏も見られたら良いのに……。

ここ連日の大寒波。温室の葡萄はどうなるのかとても心配です。というのは、ノエルガーデンの温室は白い木造のとっても可愛らしいものなのですが、外見優先のあまり、葡萄の木の幹を温室から外に飛びだすようにデザインしてしまっているの。

建築家さんがデザインして下さっただけあって、見栄えは申し分ないのですが、中の葡萄にとっては苛酷であるかも。
このマスカット・オブ・アレキサンドリアという高貴な名前の葡萄は、私が小学2年生だったかの頃できた温室にあったものですから、もう40年くらいの年数でしょうか。
葡萄の寿命が何歳であるかは知らないのですが、当時近隣にあった葡萄の温室もまったく見当たらなくなりました。

農家が葡萄栽培をする時代も終わったのでしょうが、「葡萄の木が年を取ったから」とも聞きました。

この夏、ノエル葡萄小屋で、緑の天蓋を見ることができるか――とても気になってたまらない日々。葡萄の木さん、この冬を頑張って越してください。祈るような気持の私です。

ある日の日記

2017-01-15 22:58:54 | ある日の日記

街に出たついでに、フランス菓子のお店「スーリィ・ラ・セーヌ」でお茶。
ここのケーキは、すごく濃厚なのだけれどやっぱり美味しい。
パリというより、フランスの田舎町のちょっと小粋なお菓子屋さん、という感じの内装で、これも結構好みです。

毎日、のんびりと暮らしているはずなのですが、家の用事をする以外の時間は、まるごと読書にあてたいのでカリグラフィーをする暇がない…。トホホ。

最近気づいたのですが、私は習字としての文字を書くより、飾り文字が好き。古い時代の写本から自分の気に入ったものを模写したり、自分でデザインしてみたいなあ、と思っているのです。
今を去る十年近くも前、京都のMGスクールというものを知り、そこでスイス人の世界的なカリグラファー、ミュリエル・ガチーニ先生から飾り文字というものを教えられて、その美しさに激しいショックを受けたことを、昨日のように思い出します。(そのスクールで、私はすごい劣等生だったのですが)
ああ、もっと時間を有効に使うことを学ばねば…作品を作る達成とは程遠いままで終わってしまいますね。

坪田譲治の世界

2017-01-15 22:18:59 | 本のレビュー

が郷土が誇る、歴史的な児童文学者、坪田譲治氏。
それなのに、それなのに(思わず、声が小さくなる)今まで、一度も読んだことがありませんでした。

しかし、これは私のせいばかりではなく、名前が良く知れ渡っているわりに、書店の児童書コーナーでも、坪田譲治の名前を今ではほとんど見かけないよう。
新見南吉の「手ぶくろを買いに」や「ごんぎつね」、小川未明の「赤い蝋燭と人魚」(これは、酒井駒子の美しい挿絵入りのものを持っています)などは、燦然たる名作として、広く読まれているのに…。

何年か前、母の友人の方が坪田譲治の遠い親戚にあたるのだと聞いて、この作家を近しく感じだしたのですが、図書館で上の写真の本を借りるまで、またしばらく時間があいてしまいました。
そして、ついに初めて出会った、坪田譲治文学――これが、とても素朴でユーモラスで面白い!
1890年生まれというから、バリバリ明治生まれの人で、作品世界も遠い郷愁を感じさせるものとなっているのだけど、ホント楽しくて、幸せな気持ちにさせてくれるのです。
ああ、もっと早く読んでおくんだった…と後悔したのは言うまでもありません。

晩年になってから書かれたエッセイとも童話ともつかない作品には、私の家が檀家であるお寺もしっかり出ていて、明治の半ばの大水が出た時(旭川の堤防が決壊したのだそう)、自宅の門から小舟に乗って(これが面白いです。普通歩いて通るしかない門を、そこが川のようにあふれかえっているからという理由で、舟に乗るとは)、そのお寺に避難するところなど、情景が目に浮かびそう。 避難したのは、お寺の本堂だというのですが、私の知っている今の本堂と同じだったに違いありません。

とっても、ほのぼのとして、豊かな空想が描かれた坪田譲治の世界。ぜひ、もっと読まれるようになることを願ってやみません。

P.S と、私がヘンに強調するのは、今人気だという児童文学作家の本が面白くないような気がするからです。出来の悪いマンガみたいなテラテラした表紙のついた、ライトノベルとかライトミステリーと分類するらしい文庫本には、話が途中で空中分解しているお粗末なものまであるのですから。

狼を日本に呼び戻す話

2017-01-13 23:01:12 | ある日の日記

パンフレットで見かけたのだけれど、日本国内ではとうに絶滅したはずの狼を再び呼び戻す運動、というのがあるらしい。
日本オオカミは、最後の一匹が明治時代だったかに死に絶えて以来、彼らのDNAを伝えてくれるものはいないはずだから、海外から狼を導入するのかもしれない。

その言うところによれば、鹿やイノシシの被害は甚大で、木々や樹皮が食い荒らされている。これは、自然破壊にもつながる上、鹿の生息数は増える一方。自然の生物連鎖を正常なものとし、自然環境を維持するためには、狼を日本に再びよみがえらせるべきというのだ。(鹿が増えすぎて、困るというのは、神社の境内に無数にいるように、『神のお使い三』として大切にされてきた歴史があるからだ、と思うのだが)
この点もしっかり強調されていたのだが、狼は人間を襲うことは、ほとんどないのだとか。

「凄いアイデアがあったものだなあ」と私はびっくりしてしまったのだけれど、ずっと昔の日本人のように、山奥や森で、オオカミの姿を見ることが可能となったら――それは、ダイナミックで魅力的な自然界の出現だろう。しかし、生物ヒエラルキーのほぼ頂点にいる狼は、きっと数を増やし、人間の生活を脅かすに違いない、とも思うのだ。
その結果、人間に射殺される狼なんて絶対に見たくないし、自然保護地域で人間に監視されながら生きる姿も、彼らのような誇り高い獣には似つかわしくない。

オオカミは、日本が深い森や藁ぶき屋根の村落や、囲炉裏に囲まれた生活と同時に失ってしまった「永遠に手の届かない」夢であるべきなのだ。