ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

気が付かない……

2017-05-23 23:29:46 | 旅のこと
 最近、というかここ何年もそうなのですが、人に気がつかなくなりました。
 
 街とかどこかを歩いていて、突然声をかけられて「あれっ」とびっくりすることなんて、しょっちゅう。みんな、どうして知り合いの人に気がつけるのかな?
人の雑踏がすごくて、そんな余裕ないような気がする……。

でも、まわりにいる大勢の顔の中から、知った顔をキャッチできるのが、大方の人にとってはフツウなのかもしれません。

しかーし、私ももともとこんなノンポリだったわけでなく、若い頃は人並み以上に、すぐ人に気づいていたもの。
今も鮮明に覚えているのですが、学生時代、新宿の雑踏の中で、大学の同級生が歩いている姿を、50メートルも前から察知していたもの。もちろん、向こうはこちらのことなどまるで気が付かず、それこそ「ボーッ」とした顔で、人混みに消えていったのでありましたが。

うんにゃ。これから、まわりにもっと注意力を払わねば――緊張感を失うと、私の場合、『堕落』が待っているだけ、という気がします。



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マティス、ルオー、そしてリッツカールトンホテル

2017-05-23 23:01:01 | 旅のこと
今日、大阪へ行ってきました。あべのハルカス美術館でやっているという「マティスとルオー」展を観に行くため。

何年か前、話題になったあべのハルカスへ行くのも初めてだったのだけれど、高層ビル中にある美術館は、なかなか素敵です。
この作品展を見るまで、知らなかったのですが、マティスとルオーは生涯にわたる仲の良い友人だったのですね。

一人は、明るい色彩のモダンな作風で、もう一人は中世のモザイクを少し思わせる重厚な宗教画家……大作家同士がしばしばそうであるように、画家も強烈なエゴが邪魔して、同業の仲間と深い友情を結ぶことなどない、と勝手に思っていました。
しかし、マティスとルオーが交わした書簡からは、互いを思いやる優しさや親愛感がグッと感じられて、作品を見る以上に、これらの大画家を身近に感じてしまいます。

個人的には、ルオーの絵がかなり好きで、黒々とした太い描線の囲まれた作品世界を、深く愛しているのですが、風景画以上に、キリストやサーカスの少女の顔を大きく描いた肖像画が魅力的。

そして、二人が初めて出会ったのは、ボザール(国立美術学校)のモロー教室で、だったそう。このモローは言うまでもなく、ギュスターヴ・モロー。
以前、神戸で彼の展覧会があった時も観に行って、大きな画集も買ったものでしたが、やっぱりサロメを描いたものや、貴婦人といユニコーンを描いたものなど、忘れがたい美しさがあったなあ……。  絵具というより、宝石を砕いて彩色したのではないか、というようなきらめくばかりの美――いつか、パリのギュスターヴ・モロー美術館を訪れるのが、私の夢です。
手紙からは、このエキセントリックな唯美主義者かと思われた、モローが良き教師であり、マティスたちが深い敬愛の念を抱いていたことがわかり、まるで美術ウラ話のような面白いエピソードでありました。

さて、絵画鑑賞の後は、リッツカールトン大阪ホテルへ。 実は、ここ、20年近く前、開業したばかりの頃、泊まりに来て、その英国のマナーハウスを思わせる重厚にしてエレガントな佇まいに感激したもの。
それから後も、1,2回訪れたのですが、十数年ぶりに訪れても、時がとまったかと思うほど、以前来た時のまま。

    
   ティルームで、コーヒーのケーキと中国茶(「東方美人」という美人になれそうな名前!)で、お茶の時間。
      
    ティーポットの絵模様も好みです。

     
うまく撮れなかったけど、ロビーの花あしらいも豪奢で、素晴らしいのであります。 ああ~、いいなあ。まるで、アガサ・クリスティーの世界のよう(とは、母の言った言葉ですが)。

   
    リッツカールトンの前は、北梅田のビジネス街が広がり、その合い間に商業ビルがちらばっているという感じで、こういう清潔な美しさが好きです。
 ビルの間の遊歩道を歩いていても、間には花や樹の植生ゾーンが設けられ、きちんと手入れされているのを見るのも、うれしくなるのです。

 やっぱり、都会が好きかも。


      
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美しき誤解

2017-05-18 21:31:05 | ある日の日記
   
朝と夕のノエルの散歩の後、しばらくガーデンのチェアに座って、ボーッとしていることが習慣になっているとは、以前も書いたような気がするのだけれど、そんな私の姿が、目に入る人もいるらしい。

こんなことを家族から聞かされて、スゴークびっくりしてしまった……犬の散歩でガーデンの横の道を通る方が、「お宅のお嬢さんは、庭の椅子に座って、何事か考えていらっしゃるみたいだけど、小説の筋か、アイデアでも考えておられるのですか」とおっしゃっていたのだそう。

そんな、思索的な雰囲気に見えていたなんて……ただ、ぼーっともの思いにふけっていただけなのに。う~ん、美しき誤解ってものですね。
  
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お茶をどうぞ

2017-05-18 21:17:10 | ある日の日記

  
昔から、紅茶のブレンドということに憧れがある。
どうせなら、資格でもとればよかったのだけれど、そうはいかないから、お店に入った時など、「特製ブレンドティー」というものに、目が釘付けになってしまうのだ。

考えてみたら、とりたてて知識などなくても、あの茶葉と何とかいう花びらとかかき混ぜて、てきとうに作っちゃえそう!
さあ、作ってみよう!

となったら、どういう名前をつけようかな? それは、あれしかない。すでに、今や屋号とさえなっている、あの名前――「ノエル」であります。
来宅されたお客様に、「特製のノエル茶をどうぞ」 とオリジナルティーをすすめている、我が姿まで浮かんできたのだけど、
家族に話したら、「気持ちわるまるで、犬の毛でも入ってるんじゃないかと思うじゃない」だって。

無粋だねえ
。 
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オノ・ヨーコさんのこと

2017-05-15 22:48:41 | アート・文化
  
先日、報道で知ったのだけれど、あのオノ・ヨーコさんが認知症にかかってしまったという。そして、セントラル・パークを車椅子で散策されているところも目撃されたのだとか。
そのニュースに接した時、激しいショックを感じてしまった。

何といっても、オノ・ヨーコという人は、世間の常識を超えたスーパースターにして、伝説の魔女めいた雰囲気があり、そんな人が当たり前の人のように年をととり、病気にかかってしまうということが、今一つ実感できなかったのだ。
ビートルズのジョン・レノン夫人にじて、世界で一番有名な日本人。アメリカでも有数の大金持ちでもあり、訳の分からない(と、凡人である大衆には思える)モダンアートの芸術家でもある彼女……新聞で、「オノ・ヨーコさんが、今度はこんなことをした!」だの「ポール・マッカートニーと和解した、いや、しない」といったニュースがしょっちゅう載り、「本当に凄くて、面白い人だなあ」と読むのを楽しみにしていたのに、考えてみれば、この二年ほど、その報道に接しなかったように思う。

オノ・ヨーコさんのファンか? と聞かれると、返答に困るのだけれど、そのとてつもないパワーや存在感は、誰にも真似することのできない唯一無二のものだった。上の写真は、二十歳の頃、購入してひとしきり愛読した彼女の本(というか、本人が自分の人生を振り返った、伝記みたいなもの)を私の部屋の棚の上に置いてみたところ。表紙には、シンボルマークであるサングラスをかけた😎、今よりだいぶ若い彼女が写っている。 黒い服を着ているところが、例によって魔女めいているのだが、前の御影石とおぼしき台の上に、自身のアート作品を置いて眺めている――といった図。
とても、フォトジェニックで感度が高い肖像写真なので、ほれぼれと見惚れてしまうほど。だから、フォトを飾るように、立ててみた。


内容もとても面白く、この本を繰り返し読んだ日々から二十年以上がたっているにもかかわらず、書かれていたことをくっきり覚えている――まず、開口一番、こんなことを言ってのけている。
「私は美人で、頭も悪くないし、身体もいいし、幼い時から、廻りの人に気をつかって、随分尽くす性だし、今は、その延長で世界のために、と自分のできるだけはしているのだから、自分では何もコンプレックスを感じていない。
 それがこれだけ悪口をいわれてきた、というのはどういうことなのだろう。それがただ‘何となく‘なぞというのではなくて、私を嫌いな人間はパッショネートな嫌いかたをする。日本からでも、釘のささった人形を送ってきたりした……」とこんな風に続くのだが、どうだろう? これを読んだだけでも、比べるもののないユニークな人が浮かんでくるのでは? (『美人』というのは、客観的美意識からして、ちょっと無理があるような気がするけれど)

ただ、オノ・ヨーコさんを思う時、21世紀の人というより、今は遠い20世紀を追憶してしまう。20世紀は、世界に影響を及ぼす大スターやスーパースターが綺羅星のごとくいた時代。現代では、そんな強大なカリスマ性を持った人間は、ほとんど見当たらなくなってしまっている感さえしてしまうのである(もし、いるとしたらITの創業者くらいかもしれない)。
何はともあれ、歴史に残る女性であることは間違いなし!
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ある日の日記

2017-05-14 13:08:02 | ある日の日記
先週、創作塾「月虹塾」があった。それなのに、朝目覚めると九時半。やばい! 十時からはじまるというのに……あわてて、ノートを取って頂く約束をしている「要約筆記」の方に「三十分ほど、遅れます」と連絡し、バタバタと身支度。

連休の初め、久しぶり~に窓を磨いたせいか、その疲れが今頃出てきたらしい。やりはじめると気になって、三日かけて家じゅうの窓を磨いたのだ。三時間も続けて掃除するなんてことも、二十代の頃から絶えてなかったような気がするし…。

 こんな時は、何もせず、部屋にこもり、アルバムを眺めたり、好きな小物をいじったりして過ごすのが一番だな。
 

 
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朝の庭にて

2017-05-14 12:47:34 | ガーデニング
  
         
この白い花、何という名前だったのだっけ? でも、柔らかな緑の天蓋の合い間に、白の花が咲きこぼれ、その下のデッキチェアに座っていると、ホントに気持ちいい。

    
 下の煉瓦道に、落花しているのも、なかなかよき風情であります。


    
  ノエルも、いつも通り、ケヤキの下で、日中を過ごしている。


    
この冬は、スゴーク寒くて、ノエル葡萄小屋はデザイン上の理由で、葡萄の幹が温室の外へ飛び出ているので、毛布をちょっと巻くだけでは、葡萄が無事持ちこたえられるか、とても心配だったのだけど、本日、五月の太陽の下、立派に実がついていた。ああ、ひと安心!

     
     葡萄小屋の下は、石積みで、ごらんのようになっておりますが、以前設計士さんの発案で、石の合い間に植えられたシダ。これも、無事、緑の葉を茂らせていました。よかった!

   日々の生活の中、体力があまりないせいか、グタッとしていることが多いのだけれど、朝や夕暮れ、庭園で過ごす時間は、本当に心に風が吹き抜けていくような
   思いがしまする。
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世界一ありふれた答え

2017-05-05 12:05:04 | 本のレビュー
   
 「世界一ありふれた答え」 谷川直子 河出書房新社

 二週間ほど前に読了して、とても感動した本。この気持ちをまとめておこうと思いながら、なかなか取りかかる暇がなく、時間だけがうかうかと通り過ぎてしまいました。

この著者の谷川直子という方――実は作家、高橋源一郎夫人だった女性で、何年か前遅咲きのデビューを飾ったというのに、寡聞にしてお名前も知らなかった……。


さて、この物語、どういうストーリーかというと、市会議員の妻として熱烈の頑張ってきた中年(四十歳と書いてある)女性が、離婚後ウツ病に。その治療のため、心理臨床のクリニックに通うのですが、そこで知り合ったのは、若きピアニストのトキオ。彼は、才能あふれる音楽家だったのですが、突然演奏の時だけ右手の指が動かなくなる病――ジストニアにかかってしまったのです。絶望したトキオもまた、ウツ病にかかったという訳だが、ここで未来が閉ざされてしまった二人の間に、奇妙なふれあいが起こる、というもの。

う~ん、私の個人的好みにかなう物語だし、読んでいて素晴らしく面白い。市会議員の妻という座にしがみついて、元夫への恨みが忘れられないヒロインも滑稽といってしまえばそうなのだけど、行く手に希望を見失った状態で、右往左往する様子は身につまされるものが。 そして、対するトキオのキャラクター造形が秀抜!

ちょっぴりひねくれていて、人をコントロールすることで欲求不満を解消しようとしたりするくせに、かなりの寂しがり屋。ここで彼も言っていますが、「プロの演奏家として、一日4~5時間、ピアノを弾くのが当たり前だったし、それが人生そのものだった」――こんな音楽家が、演奏もできなくなったとしたら、その絶望は想像するにあまりあるものがあります。
トキオの家に家政婦がわりに通ったりするヒロインは、徐々に立ち直りはじめます。それは、物事の、世界の真実がわかりはじめたから。つまり、トクベツな人間など誰一人としていないということ。誰もが、完璧な自分をめざそうとするのは、その実完璧な人間などいないということ。 
この結論は、ヒロインのまゆこがトキオとピアノの連弾をする最終シーンで炸裂します。

まゆこは言います。「誰でもピアノを鳴らすことができるけれど、あなたのように鳴らすのはとても難しい。私の弾くアラベスクはあなたの弾くアラベスクとはまるで違う。その違いをあなたは生きてきたから、弾けなくなったことに我慢がならないんでしょう。  けれどあなたの価値はその違いにあるわけじゃない。違いはみんながほとんど同じだから生まれるの。
たとえば、ピアノを弾く人も弾かない人も、みんなが同じ骨を持っていることを思い出して。同じ骨を持ってみんなが生きている。あるいは死んでゆく。それだけで、十分に価値があることなの。 みんな取るに足りない存在で、私もトキオも取るに足りない存在で、でも生きているだけでそれだけで十分なの」

何という、至極当然の、そして突っ切った解答でしょう。 文章はとても平易で読みやすく、柔らかな筆致なのですが、こうした作品が書けるということ自体、著者の谷川さんは大きな葛藤をくぐりぬけてきた人なのではないかしら?

そして、トキオの到達した結論も、「オレは音楽に選ばれた人間なのだと思っていたけれど、オレなどいなくても音楽は世界に存在するんだ。いいかえたら、音楽は誰も必要としていないんだ。それが、やっとわかった」というもの。
絶望の果てに、ほのかで確かな灯りの見える、世界に新しい意味が見出せる物語。こういうのは、大好きです。 本の帯にも「今年最高の感動作」とありますが、私の今年度ベスト5には入る名作に間違いなし! 
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花をあしらって―

2017-05-05 11:55:30 | ガーデニング
   
  左側のピッチャーに挿しているのは、ノエルハーブガーデンに咲いているスズラン。 右はパンジーを中心にした小さな花束を頂いたので、それを飾ったもの。

 花って、そこにあるだけで人を気持ちよくさせるのですね。今は、ガーデンも緑鮮やかで、ノエルのそばのベンチで憩っているのがサイコーの贅沢な時間です。


          
  傍らの壁には、昨年末作成した、写本装飾の作品を飾ってみました。ガラスが写り込んで、ちょっと不鮮明にしか撮れませんでしたが。
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石斛(セッコク)日和

2017-05-05 11:38:41 | ガーデニング
   

         

   
  三十五年前に、母が初めて育ててから、今では日本庭・ガーデンのあちこちに咲いている石斛(セッコク)。
  これは、ガーデンの黒いフェンスそばに咲いているもの? それと前庭の樹にも植生しているものだろうかと思います。


  

 ごくわずかの命の花……写真が上手だったら、もっとうまく花の雰囲気を生き生きとお伝えすることができるのに。

 そして、これは花見(?)に来られたお客様が下さったパン。ご自分で焼かれたそう
 翌朝、口にしてみたら、さっぱりとした風味の食事パンでありました。 私も、以前からパンやお菓子を習ってみたいと思っているのですが、日々それなりに雑用があり、
 教室に通うというのもなかなか……であります。


  

    
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