ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

スモレンスクの聖母

2015-05-31 17:54:48 | アート・文化
今月の初め、ギャラリーに出展して頂いた白石孝子さんの、イコン画を購入しました。その時から「これは、素敵!」と思っていた「スモレンスクの聖母」です。この写真の中央に飾られた陶板に描かれた作品がそうですが、本当に、本当に綺麗!(注:左のドへたくそなのは、白石さんのイコン教室で私が制作した、大天使ミカエルです)
ヨーロッパでは、木の板に描くのが、慣習のようですが、セラミック(陶板)に描くやり方もあるのですね。マリア像と小さなキリスト…小ぶりな作品ですが、威を払う気品が感じられます。
右側にあるのは、五木寛之の小説「ソフィアの秋」。ブルガリアへ旅立った青年が、首都ソフィアで過ごすのですが、その描写がエキゾチックで何とも見事。金色の落ち葉が降りそそぐ東欧の街と、青年がそこで出会うイコンの美――高校一年生の時、読んだのですが、その時の感動は今も新しい、心に残る著です。
そして、棚の上にところどころ飾られているのは、5年前パリで買った蜜蝋のキャンドル。教会が経営している、修道女たちが作ったものばかり売っているというお店で、この花びらが浮き上がった蜂蜜色のキャンドルの外、鳥が描かれた小さなステンドグラス(?)も買ったのも、大切な思い出。 通りのくぼみにひっそりと存在しているような、けれど洗練された店でしたっけ。このキャンドルも使ったことはないけれど、火を灯すと良い香りが漂うのでしょうね。こちらは、白石さんに頂いたポストカード。白石さんが、京都のハリストス教会のために作った聖像画だそうですが、実物はきっと、とても大きいのでしょうね。黄金の背景に縁取られて立つ、人物像にも、古典様式に通ずる端正な美しさがあります。
離れの棚の上に飾られたイコン画…これを見ながら、なぜか私には、ソフィアの都にそびえたつ金色の寺院と、遠い鐘の音が聞こえてきたりするのでした。

やり直し!

2015-05-31 17:41:12 | カリグラフィー+写本装飾
昨日、芦屋の教室に行って、写本装飾の勉強。3月、4月と休講だったので、この教室も3カ月ぶり。
この日は、ダイヤパーという市松模様みたいな、飾りを彩色したのだけど、金箔がうまく貼れなくて、全体に繊細な仕上がりになっておりませぬ。
う~ん、これじゃいけない。また、やり直さねば!金箔を貼るのは、何度もジェッソを攪拌しなければ、中央に溝ができたり、とかなり難しい。まるで、生き物の赤ん坊を相手にするような慎重さが必要なんである。
それから、これは日本国内では手に入らないと思っていた左利き用ミッチェルのペン先を大量に購入したもの。何と、北海道に、こんなマニアックな品ぞろえの文具会社があったのだ。そして、この写真は、おまけのプレゼントにと同封されてあったポズトカード。スゴーク大きなキツネとそれにくるまれて眠る女の子のイラスト。ユニークで、とっても面白い!(シッポが太くて、暖かそうなのがいい)。いかにも、北の国から届いた絵ハガキという感じで、とても気に入ってます。雪の降りしきる寒い日、大きなキツネに包まれて眠るなんて、まるで幻想的な童話のよう。
   

暑いでござんす

2015-05-27 19:26:21 | ある日の日記
あ~、暑い!
まだ、5月だというのに、なぜこんなに暑いのじゃろう? と思いながら、一日を無聊のうちに過ごしましたです。
体もだるいし、変に眠い。読書しようにも、知らぬうちにうとうと…。今、夕闇の外を見ながら、ふと疑問。
私が子供だった頃は、夕暮れともなると、山のねぐらへ帰る鴉とは別に、真っ黒なコウモリがひらひらと空を横切っていったもの。
でも、コウモリなんぞ、ズーット見なくなって、久しいぞ。あの者たちは、どこへ行ったのか? 
40年以上も生きていると、生態系が子供の頃と変わっているのをひしひしと実感できます。ツバメもあまり見なくなったし、かつてはムチャクチャいた雀が少なくなって、白と黒のツートンカラーの痩せた小鳥があちこちで見られるようになりました。

人間にとっては、暑さ全開のシーズンは過ごしにくいけれど、自然界の生物達には、絶好調の時期みたい。土鳩が、ガーデンの地面の上やケヤキの木の上をちょこちょこしている様も可愛いし、蝶がひらひらするのもいいわあ。

でも、蒸し暑くてヘビー気味のわたくしは、憧れのウォーターベッドに寝てみたいと妄想中。(ウォーターベッドって、あんた古いんじゃ? そんなもの聞かなくなって、何十年にもなるような…)


ホームページ移転しました

2015-05-27 14:31:36 | ある日の日記
OCNのページオン(ホームページサービス)が2015年5月31日を持って終了します
アトリエ・ドゥ・ノエルのホームページもサクラインターネットへ引っ越ししました
新しいホームページアドレスはこちらになります

  http://adnoel.sakura.ne.jp/ 

ブックマークお気に入り等の変更をよろしくお願いします。

家にお花

2015-05-24 19:24:13 | ガーデニング
床の間に飾ったヤマボウシの花です。
座敷の中の暗がりに、白い花々がちょっぴり幽暗な美しさ。
庭に咲く季節折々の花を家のところどころに飾るのは、母の趣味ですが、お手洗いの手を洗う洗面台のそばにある花が、一番目につきますね。

今、ガーデンでは、真っ白なホタルブクロが満開の時。鐘の形をした綺麗な花を、トイレで手を洗う時、じっと見入るのも、心の贅沢というべきかも?

見る美、聞く美、思う美

2015-05-23 21:13:56 | 本のレビュー
これも、Mさんに頂いた本です。
著者の節子・クロソフスカ・ローラさんは、いうまでもなく画家バルテュス夫人の日本女性。
バルテュスといえば、二十世紀最後の巨匠とまで言われる大画家。難解でありながら、気品の感じられる幻想的な作風は、多くの人を虜にしてきました。彼は、2001年、世を去りましたが、節子さんは、今もバルテュスと住んだスイスはグラン・シャレの山荘にお住まいです。

この本は、節子さんが、その人生や長いヨーロッパ生活の中でますます強く培われた「日本の心」を語った初の随筆集とされるもの。 頁を開いて、目を見開かれるのは、その研ぎ澄まされた美意識!  バルテュスが、大の日本びいきで、日本の歴史・芸能・文学に造詣が深かったというのはともかく、自分の作品の展覧会で、絵がかけられる壁の色が気に入らないと、クレームをつける場面で、「炭俵や米袋の色がもっともふさわしい」というのは、やはり画家。すさまじいばかりの色彩に対する敏感さです。

グラン・シャレは、スイスでもっとも大きく古い木造建築と言われ、最初はホテルだったそう。ホテル時代のままの家具を多く使っているそうですが、やはり広大な家なのでしょう。幾つも幾つもある部屋には、節子さんが、頂きものの和紙の紙やリボンを閉まっておく「リボンの部屋」、バルテュスが日本の京都で買った人形などを置いた「人形の部屋」などもあるというくだりにいたっては、優雅な暮らしぶりに溜息が出ますね。

スイスの山荘にあっても、節子さんは着物をずっと着続けておられて、着物に寄せる愛情も、美的センスも並々ではないのですが、グラン・シャレの庭園で摘む薔薇を使った薔薇茶でのおもてなし、北アフリカで手に入れた香水たちの話など、読むだけでうっとりしそう。

けれど、合間合間に語られる節子さんの人生の断章も印象的です。特に、彼女を襲った悲劇――バルテュスとの最初の子である息子の文男を生後二年六カ月で亡くした――を語った「長男の生と死」は、こんなに美しい文章を読んだことは数えるほどしかなかった、と思わされたほど。
1968年に生まれた文男は、生後間もなく、遺伝性のティサックス病とわかり、「生後二年から五年までしか命が持たない」と冷酷な宣告がされてしまいます。 ローマの四季の中で過ごす、文男との限りある日々…その描写も胸に突き刺さるようなのですが、最後が圧巻です。
「部屋の戸を開けたとき、文男の最後とわかりました。
 深い深い息を何回もして旅立ちました。
 文男の安寧な相貌は、十二時頃、燦々と降り注ぐ陽光の中の、崇美な輝きの中に包まれておりました。私は天使の歌声が聞こえてくるごとくの幽境に立ちすくんでいたのでした。死の美しさの前にひざまずいて感謝したい気持ちでおりました。
 マリアの手の重みを肩に感じたとき、初めてわれに返り現実の世界に引き戻されました。マリアとしっかり抱き合って、二人で涙にむせびました。文男からは、死が何であるか、言葉ではなく、悟らされたのでした。
 このときから、自分の死にも直面する用意ができ、私の人生に恐怖に値するものがなくなったのです」
何という、魂の奥底にまで到達するような文章でしょうか。これを読み、心に入れた時、節子さんをすっかり尊敬してしまったのです。

シンプル?

2015-05-23 20:58:47 | カリグラフィー+写本装飾
作品展に出す作品を画材店で額に入れてもらった。
これで、来週、東京に送ればよし・・・といいたいのだけど、出来には満足とは遠い気分。
でも、不平を言うくらいなら、日頃もっと真面目に「字を書く」べきとは、自分でもわかっている。

題材は、三島由紀夫の作品「豊饒の海」の最終巻、「天人五衰」。私は、この本が好きで、学生時代、愛読したもの。新潮社が出した愛蔵版の若草色の美しい本も、持っている。

カリグラフィーの作品にする際、英語版の文章を何度も読むことになるのだけど、その時感じたのは、三島の華麗な文体が、英語に翻訳されると、かくも簡潔に事務的な文章になってしまうのか、ということ。 こんなの読んで、欧米人がかくも「ミシマ」に耽溺できるのかが不思議なくらい。

今度は、夏目漱石の「心」などをカリグラフィー作品にするのも面白そう。漱石の世界を表現するのだったら、やっぱり墨を使って、カリグラフィーでありながら、書体だけの簡潔平明な作品がいいな。その方が濃密に『日本』を感じさせるだろうし。

夜の物思い

2015-05-21 21:11:56 | ある日の日記
何が好きって、夜自分の部屋で、物思いにふけっているぐらい好きなものはない。
窓を開けると、夜風が入って来て、肌や髪をなぶっていくのが、心地よい。紺色の闇の中に瞬く明かりや、夜の大気に身をあずけていると、とりとめもない空想が広がって行く瞬間も好き。

実際に経験したことはないのだけれど、イタリア中部のトスカーナの丘陵の宿で、夜、窓を開けたら、糸杉の木々と素晴らしい星空が見られるだろうな、と思うと、本当に頭の中にその光景が浮かんでくる。 甘い夜風と、銀の宝飾細工のような星たち、うねり流れる小道と糸杉…。

あるいは、オクタヴィアヌスとの戦いに敗れたクレオパトラが、夜空の下に広がるアレクサンドリアの町を見おろしながら、「私はもう一度、キドノスへ行く。マーク・アントニーを迎えに」とのセリフを吐くシェークスピアの戯曲の一場面をも想像してしまう。どちらも、夜風を身に受けることから勝手に浮かんできたイメージなのだけど。かように、変に空想力が発達しているせいで、退屈することはほとんどないのである。

夜は、人にとって休息の時。五感を研ぎ澄まして、非日常の世界へ入って行くのも、楽しくございますわ。


 

ある日の日記

2015-05-20 10:39:19 | 児童文学
この五月から、「松ぼっくり」という児童文学のサークルに入った。童話を教えて頂いている先生が会長をしておられて、県下では半世紀以上もの歴史があるのだとか。

倉敷の美観地区で催される月一回の例会に初めて行く。生来の高度難聴で、話はほとんど聞き取れないのだけど、黒板に説明を書いていただいたり、隣席の人が説明してくれたりして、何とかついていけそう。皆さんの配慮に感謝のみです。

この夏、海辺である合宿にも参加することに。周囲に本好きの人や創作する人が、今までまったくいなかったので、この活動が楽しみ。

例会が終わった後、久しぶりの倉敷を散歩しようとしたのだけれど、暑いし、スゴ~イ人で、すぐ帰ることに。

帰宅後、7月の初め、東京であるカリグラフィー・ネットワーク展に出す作品を作りはじめる。(カリグラフィー・ネットワークとは、カリグラフィーの愛好者が作る団体で、全国500人ほどの会員がいるもの。去年から、そこの運営委員をしているので、やっぱり作品展に作品を出すべきだろうなあ、と思うので)。う~ん、本当、もう少し上手だったらなあ。

窓を開けると、夜風が入って来て、気持ちいい。夜の空気を感じながら、紅茶を飲むのも、ほっとするひととき。

ラウル・ワレンバーグ

2015-05-15 10:10:53 | アート・文化
ラウル・ワレンバーグという名前を知っていますか?
第二次世界大戦中、多くのユダヤ人を救ったスウェーデン人外交官です。我が国では、杉原千畝の名が良く知られていますが、英雄は彼だけではないのです。その功績に比して、その名を日本で知る人が少ないのは残念ですが、これは彼が対戦末期、ソビエトへ連れていかれたなり、今までずっと生死不明のままということも無関係ではないでしょう(すでに1947年7月に34歳の若さで世を去っているとも言われます)

ワレンバーグは、1912年、スウェーデンのストックホルムに生まれました。生家はスウェーデン人なら知らぬ者がないと言われる富と権力をもつ名家で、王室ともつながりがありました。父は彼の生まれる前に病死、母のマイは意志の強い美しい人でしたが、後に再婚しています。祖父は有名な外交官で、この祖父と母の教育が後の、国際人としてのワレンバーグの精神育成を育んだことは、想像にかたくありません。
少年時代・青年時代のワレンバーグは写真を見ても、お伽噺のプリンスのような容貌です。この名家に生まれた美しい青年が、第二次大戦の英雄になるなど、まるでそれこそ物語のようですが、現実は過酷なものでした。世界的な広い視野を身に着けていたワレンバーグはアメリカで大学時代を送りますが、卒業後は再びヨーロッパへ戻ることに。
そこで、戦時難民委員会からハンガリーに派遣され、プダペストに赴くことになりますが、そこで彼が見たのは、虐げられるユダヤ人の姿でした。ユダヤ人迫害の先鋒に立つのは、かのアイヒマン。

ワレンバーグは、スウェーデン政府から発行されたパスポートをユダヤ人に配布するなど、様々の智恵を働かせて、ユダヤ人を救おうとします。結果的に十万人ものユダヤ人を救ったといわれるのも、彼の休むことを知らない働きぶりもさることながら、その素晴らしい才気にもよるところが大きかったでしょう。

けれど、1945年、もうすぐ戦争が終わるという時、プダペストに進攻したソビエト軍に、彼は捕えられ、それから今日まで生死不明のままです。ソビエト軍が、彼をとらえたのは、様々な理由があったのでしょうが、最大の悲劇はワレンバーグの存在が長いこと忘れ去られてしまったことです。

ワレンバーグ家の人々の尽力や国際平和を願う時代の流れによって、ラウル・ワレンバーグの業績が脚光を浴び始めて久しくなります。私としては、もう20年以上も前、TVで異父妹ニーナさんが、兄ラウルの思い出を語っていた姿が今も、印象に残っているのですが、ホロコーストについて見聞きするたび、この若き外交官の面影が心をよぎるのです。