ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

ネバーランド

2017-03-31 20:12:09 | 映画のレビュー

ネバーランド」 ジョニー・デップ主演。ケイト・ウインスレット共演の作品。

大好きな映画です。こういうのが、本当に好き。ストーリーも、映像も、ムードも好みのつぼにはまった作品であります。

タイトルを見ただけで、ピンときた方もいらっしゃるかもしれませんが、これはピーター・パンの生みの親である作家、ジェイムズ・マシュー・バリの物語。
彼が、永遠の名作「ピーター・パン」を創造したきっかけとなる、悲恋を100%ではないにしろ、史実に沿って描いたものです。

何と言っても、バリ演じるジョニー・デップがいい! ジュリエット・ビノシュ共演の「ショコラ」や、題名は忘れたものの、19世紀ロンドンの切り裂きジャックをモティーフにした映画でとてもいい味を出していた彼……本当に様々な役が演じられる、大スター。インディアンの血を引く容姿も、どこかエスニックな魅力があって、他のスターとは違う味わいががあって素晴らしい!

妻との間は、冷えつつある花形劇作家バリ。彼がケンジントン公園で愛犬を散歩させていた時出会った、男の子ばかりの幼い兄弟と美しい母親。彼らの父親は亡くなっていて、ケイト・ウンスレット演じるシルヴィアは、一人で子供達を育てざるを得ない状況でした。
少年たちと心を通わせた、バリの胸の内に、誰も想像もつかなかった素晴らしいファンタジーが生まれるものの、それはシルヴィァへのかなわぬ恋をも意味したのです。

お互いに惹かれるものを感じながら、決して結ばれることのないバリとシルヴィア――バリが妻帯者であるここともそうなのですが、この時すでにシルヴィアには病魔がしのびよっていたのです。

ああ、何てドラマチックな、と言ってしまいそうですが、これはほぼ実際、この通りだったようです。美しいロンドンの緑、紳士淑女の行き交う庭園、気品を感じさせる家――映画には、20世紀初頭の古き良き時代の英国がみずみずしく描き出されていて、こうした時代、地上ではかなわなかった恋などがからみあって、「ピーターパン」という奇跡的なファンタジーが、誕生したと思ってしまうのです。

「ピーターパン」を読んだ方も、名前だけしか知らない方も、ぜひ堪能してほしい美しい映画!

マリー・アントワネット

2017-03-30 21:26:45 | 映画のレビュー

ああ、ついに観ました……かの「マリー・アントワネット」を。
観終わった感想は――とっても面白かった! でも、それだけじゃない、充実感もあったというのは、実はこの映画、初公開された2006年、観に行きたいと思っていたのに、観ずじまいだったという過去があったから。 当時、この映画を観た人が「すごく面白かった。なんなら、もう一度観に行きたいくらい」と言っていたのも、印象に残っているくらいなんです。

さて、この映画――かの、映画界の巨匠フランシス・フォード・コッポラの娘である、ソフィア・コッポラの監督作ということも、ずいぶん話題になったものでした。「ゴッドファーザー」を生み出したDNAが、断頭台の露と消えた悲劇の王妃を描くなんて、考えただけでも、スリリングですもの。

冒頭、オーストリアからフランスに輿入れする少女時代から始まって、マリー・アントワネットを描くやり方は、(多分)史実に沿ったもの。主演女優が、美人とは言えないにしろ、ブロンド・白い肌が魅力的な女性であるのも、実在のアントワネットを彷彿とさせます。 フランス民衆の怒りを買い、あの大革命を引き起こした張本人は、本当に、こんな罪のない(あまり、思慮深くないともいえる)、今を楽しむことでいっぱいの女性だったのでしょうしね。 宮殿のしきたりや、世継ぎ問題なんて、庶民には想像もつかない重圧もあったはずだし……。

そして、この映画をいろどるのは、画面にあふれかえる鮮やかな色彩! マリー・アントワネットたち貴婦人の着る華麗で女性的なドレス、ラデュレがこの映画のために提供した色とりどりの夢のようなお菓子たち……実際に、この時代のベルサイユやトリアノン宮は、おとぎ話の世界が現れたように、華やかだったに違いありません。
   
パステル調の美しいドレスを着て、傍らには、瀟洒なケーキたち――女性なら、誰でもため息をつくはず。ケーキも、ピンク色で、まわりには薔薇の花さえ飾られていて、この世のお菓子とは思えないくらいなのであります。


けれど、夢はいつか覚めます。ある朝、マリー・アントワネットを襲ったのは、美しい装飾品や豪奢な料理、ボンボンやマカロンからなる「おとぎ話」の世界ではなく、怒り狂った民衆の怒号と襲撃でした。
最後の日、国王夫妻の食卓に並ぶのが、美しい料理でなく、深海魚を思わせる奇怪な魚を盛りつけた皿だったのも、夢の終わりとして象徴的ですらありました。
宮殿から、牢へ護送される馬車に乗るルイ十六世夫妻。馬車の窓から、外を眺めるマリー・アントワネットに王は訊ねます。「一体、何をみているんだい?」
それに、答えるマリー・アントワネット。「庭の並木にお別れを言っていたの……」――深く余韻の残るラストシーでした。

ある日の日記

2017-03-30 20:58:58 | ある日の日記
春めいた暖かい日、ランチを楽しむために外出しました。
 場所は、岡山大学構内の「Jテラスカフェ」。  

全面ガラス張りの曲線が美しい店内からは、広大なキャンパスや並木(ここ、秋になったら、銀杏が金色の林みたいになってて、とっても綺麗なの)や車道が見える、絶好のロケーション。

 
野菜お弁当がとても美味しいので、楽しみにしていたのですが、メイン料理が今週は、「ヒヨコ豆と豚肉の煮物」。それに、黒豆●の入ったおにぎりに、サラダ、スペイン風オムレツなどが入っているのであります。
ああ、いい気持ちだなあ~。このところ、落ち込んでいたのだけど、料理から元気がもらえそう


   食後の珈琲は、こんな感じ。
      
珈琲は、マグカップに入っているのだけど、下の受け皿が、アフリカの民芸調のような、中近東風のデザインのような、で色使いも好き。追加オーダーした「スパイスのクッキー」(左側)も、おんなじテイストの皿に盛られていて、こういうエスニック調もいいな。

 春の日ざしが、窓越しにきらめいていて、まるで近未来の温室にいるみたい。

ある日の日記

2017-03-16 22:32:27 | ある日の日記
いつものように、7時過ぎ目覚める。それから、ノエルの散歩へ行った後、お墓掃除に。

年に4回あるお墓掃除――もう慣れっこになっていて、ペットボトルに入れた水や、雑巾、ほうき、供えるお花などを持って、出かける。
お墓って、一人で行くには、イヤだけど、たいてい近所の方が自分の家のお墓掃除に来られていて、山の雑木林の中に一人ぼっちということはないのだ。


冬の間につもった落ち葉を掃きながら、思い出していたのは何年も前、二十代の頃4年ほど習っていた茶道の先生に、ここで出会ったこと。
先生の家ももとは、この一帯にあったとかで、ご家族と掃除に見えられていたのだが、本当に十五年ぶりくらいの再会だったな。

しばらくお話して楽しかったのだけれど、「もう引退したいんだけど、生徒さんがやめたらぼけますよ、と言って引退させてくれないの。だから、今は家で少し教えているだけ」とおっしゃっていたっけ。
今も、元気でいらっしゃったらうれしいのだけど。


帰宅して、昼食はラーメンを食べに車で。 一度も行ったことのないお店だけど、割引券が新聞にはさまれていたのでごわす。
お店は大きいし、結構新しいし、お客さんはいっぱい――だから、期待もスゴ~ク高まっていたのだけど、まあ美味しくないったらない……ラーメンもギョーザも、粗いとしかいいようのない味!
こんなまずいところに、客が押し寄せてきて、うれしそうに食べている不思議。ああ、世の中、わからんことが多すぎる。

本をめぐる日々

2017-03-15 21:57:18 | ある日の日記

週末、「月虹塾」三月例会があったので、出席。小説を書く際のプロットをうまく作るやり方を指導してもらうなどしたのだけど、私も考えることが。

小説として「魅力がある」とか「面白い」とはどういうことだろうか? 有名な作家のものであっても、退屈を感じ、最後まで読みきれないものもある。これはどこかで書かれていたのだが、「よくできた小説には、みな謎がある」というものがあったっけ。
確かに、それはそうだろうと思う。その「謎」が読者を最後まで惹きつけていくのだ。ミステリーや探偵小説などでなくても、純文学だって「人間というものの謎」を描いている。

さっき、ドフトエフスキーの「悪霊」(これが、上下巻ある大作で、なかなかに難解で、恐ろしい内容なので、読むだけでずい分消耗してしまった)を読み終えたところなのだけど、このロシア文学の巨星が描いた物語にも、大きな謎があるように思う。
小説の陰の主人公と言える美貌の青年ニコライ・スタヴローギン――彼の存在そのものがブラックホールのようで、底知れない深淵をのぞいているよう。虚無と悪徳と、情欲と。その反面、自らの罪が体現する「悪霊」(スタヴローギンの枕元に立つ、正体の知れない幽霊のようなもの)におびえ、僧院へ、罪の告白をする青年――それが19世紀末ロシアの国家転覆を企てるニヒリストの乱と結びつくのだが、当時すでに、現代人をとらえている「病」が現れているのに、驚く。

ドフトエフスキーの小説を読むと、あらゆるシーンで、息詰まるようなスリリングな感じ、「これから何が起こるか?」という緊迫感が読者をひっぱっていくのに気づく。これこそが、この文豪を、他のあらゆる歴史上の大作家とは違い、現代でも多くの人々を惹きつけている秘密ではないかな、と思ったのだけれど、これは間違っている?

若者のすべて

2017-03-15 21:04:28 | 映画のレビュー

懐かしい「若者のすべて」がリバイバル公開されるというので、行きつけのミニ・シアター「シネマ・クレール」へ観に行ってきた。

もちろん、ルキノ・ヴィスコティの1960年製作の映画である。学生時代見たっきりというから、この映画に再会するのも、23年ぶりくらい。ああ、懐かしいなあ~。

大学時代は、とにかくヴィスコティの映画が大好きで、「ベニスに死す」はもちろん、「家族の肖像」、「ルードヴィヒ」も繰り返し繰り返し観たもの…・…あの華麗な映像がもういちど見れる、と思いきゃ、これはそうした晩年の絢爛たる作品とは違うのであった。  ネオリアリズムというものが、戦後のイタリア映画を席巻していて、貧しかったり苛酷だったりする名もなき人々の生態を克明に描いたドラマが当時は、受けていたのだ(イングリッド・バーグマンの夫だったロベルト・ロッセリーニなんか、そうね)。

ヴィスコティも、若かりし頃は、「赤い公爵」と呼ばれたほど、プロレタリア運動に熱中していた過去があり、その初期作品もちょっと、小林多喜二の「蟹工船」の趣がある?

貧しいイタリア南部の村から、大都会ミラノにやってきた一家……イタリアのマンマを体現するかのような母親とその息子たち。彼らは五人兄弟なのだが、一足先にミラノにやってきていた長男を頼って出てきたのだ。こう書くと、もうお分かりのように、この映画はイタリアの南北問題と、田舎から出てきた家族が、都会で厳しい現実に翻弄されるさまを描いたもの。  ここでの主人公は、アラン・ドロン演じる三男ロッコで、副主人公は次男シモーネといっていい。  善人で聖人のような趣さえ持つロッコ(これを、あの悪の華のようなドロンが演じるというのが、とっても面白い)と元は善良でありながら、都会の毒に身を持ち崩し、落伍してゆくシモーネの対比が、とても面白いのだけれど、彼らを描く視線の残酷さは、さすがヴィスコンティ―――人間を描いて、これほど厳しく、その非情さが、深い余韻を残す映画作家はいないだろう。

そして、特筆すべきは、やっぱりドロンの美しさ! 「太陽がいっぱい」と同時期の、この作品で、彼の俳優としての魅力は出尽くした感さえしてしまう……「地下室のメロディ」や「パリの灯は遠く」などの佳品も素晴らしかったけれど、この若い日の鮮烈さは、それだけで別格なのだ。
アニー・ジラルド演じるナディアも、映画に迫真のリアリティを与えていて、三時間もの映画が全く長く感じられなかったほど。商売女で、始めはシモーネの恋人、のちには、ロッコと愛し合うようになるナディア。偏執的なシモーネに付きまとわれ、後には湖のほとりで彼に殺されるのだが、単なる薄幸の女性とは違う、ふてぶてしさ・破滅型ぶりが、何とも魅力的。
映画の最後は、ロッコの顔写真が大きく載ったポスターが画面にひるがえる。愛する兄シモーネを救うために、大金が約束されたボクシング選手とならざるを得なかったわけだが、そこへ流れる歌がせつない。「我を生みし、はぐくみし、母なる故郷・・・・・・」 ロッコが夢見たオリーブの実がみのる故郷への帰郷はかなうことはないだろう、と暗示して、この物語も終わる。 貧しく、悲劇的でさえある人生。しかし、そこには、神話を見るような輝きさえあるのだ。

アラビアの女王

2017-03-05 08:50:37 | 映画のレビュー

ニコール・キッドマン主演の「アラビアの女王」を観に行く。
大好きなニコール・キッドマン。そして、舞台は、20世紀初頭の大英帝国華やかなりし時代で、舞台は中東。異郷に咲く、植民地文化。そして、キッドマン演じる実在の女性、ガートルード・ベルというのは、女性版「アラビアのロレンス」ともいえるべき存在。

そうした知られざる、英国女性を描いたドラマというのだから、期待はいやでも高まろうというもの!

富裕な家庭に生まれたガートルードは、当時女性で初めて、オックスフォード大学へ進み、そこも主席で卒業したという才媛。そうした彼女が、イギリスの上流社会の退屈さに倦み、テヘランの大使館で働きはじめるというところから、話は始まる。

大使館の華麗な暮らしぶりには、思わずホウッとため息が出そう。この時代のヨーロッパ文化は、本当に贅沢で華麗。私は、メリル・ストリープが主演した「愛と哀しみの果て」も大好きで、何回も観ているのだが、ストリープ演じる、作家アイザック・ディネーセンがアフリカの地へ行くところは、本当にすごかった。
列車にいくつも積んだ木箱――そこには、ボーンチャイナ(と思われる)製の瀟洒なテーブルウェアがぎっしりとつまっていて、彼女が地の果てだろうと、優雅な生活を続けるつもりだということが、はっきりわかったのだ。

この映画でも、ガートルードのファッション――例えば、肩に羽織ったカシミール織りのストールなど――にも、当時の絢爛たる美意識があらわれているのだけど、どっこい彼女はそんな生活に満足する女性ではなかった。
大使館職員の男性との悲恋を経て、未知の砂漠への冒険にのりだしてゆく。ベドウィンといった現地民の生活を調査するという名目で、危険な旅に出ていくのだが、これは当時の情勢に逆らうことでもあった。

この頃、オスマン・トルコ帝国は断末期を迎えようとしており、そこへヨーロッパ列強が介入しようとしていたのだ。彼女は、砂漠のキャンプでアラビアのロレンスにも出会う。(映画では、二人の間に、親密なつながりがあったように描いてるが、実際はほとんど接点はなかったらしい)
一人の女性冒険家が、時代情勢によって、英雄に仕立てられ、英国とトルコ側との交渉に立ち会ったり、中東の国の国境線を決定したりすることがよくわかったのだが、これを可能にしたのはやはりガートルードの、類まれな勇気、果断さだったろう。

ただ、惜しむらくは、一人の女性のドラマチックな半生を描いたストーリーや、ニコール・キッドマンという素晴らしい女優の主演という、魅力的な要素にもかかわらず、映画自体が駄作なこと。
ガートルード・ベルという知られざる女性の姿を浮き彫りにするどころか、恋愛面ばかり強調した「ハーレクィン」っぽい感じが目立ってしまっているのだ。


それでも、第一次大戦前後のヨーロッパ文化は好きだなあ…。

つづきの絵本屋

2017-03-04 21:00:21 | アート・文化

今日、倉敷の絵本専門のお店「つづきの絵本屋」へ行ってきました。ここ、ずーっと行きたかったんです。駅の北側の住宅地をてくてくと歩くと、白い壁と木が優しい雰囲気のエントランスが出迎えてくれました。
写真からではよくわからないと思いますが、多角形の形をした小さな塔のような形になっていて、中を埋めつくしているのは、色鮮やかな絵本の世界!
        
   こんな感じにレイアウトされています。この様子を見て、何か思い当たりません?  そう、図書館の児童書コーナーです。
それというのも、オーナーの都築さん(これが、店名の由来でもあるのだとか。でも、店内の隅には、柏葉幸子の「つづきの図書館」の本も飾られていて、私が「あっ、やっぱりこの本のタイトルからとったのですね?」と話しかけたところ、「この本、大好きなんです」とのお答えが返ってきました)は、小学校や大学の司書も勤められていたのだとか…。

こんな風に、木に囲まれた中に、楽しい本がいっぱいに並べられているのを見たら、誰だって幸せ気分になるはず。 同じく絵本好きの母との間で、会話が盛り上がっていました。


     
紅茶の資格も持っているという、都築さんの淹れられる紅茶と手作りのお菓子を楽しむこともできます。もちろん、わたし達もいただきました!
 紅茶は、ノーベル賞の晩餐会で振舞われるという、北欧製のお茶で、華やかなフルーツと花の香りが素晴らしい一品。(紅茶を上手に淹れるって、難しいです。だから、美味しい紅茶の巡り合うと、うれしいのであります)   お菓子は「大人のためのフルーツスコーン」という名前ですが、その通り、甘酸っぱいフルーツの合い間に、複雑なスパイスの味わいがして、これも美味しい!

また、ぜひ来たいお店。お気に入りの空間がまた一つ増えました。

p.s本をひろげて、美味しいお茶とお菓子を楽しむ――これにまさる楽しみは、そうそうないような気がするなあ。

ノエル通信

2017-03-04 20:41:47 | ノエル
     
毎度おなじみ、「アトリエ・ドゥ・ノエル」のノエルです。

相変わらず、わんぱくといいたいのですが、おとついの夕方、散歩へ行こうとしたところ、気にかかる変化が……。

その日は雨が降りそうだったので、傘を持っていこうと思い、上の物干し台にひっかけていたのを取りあげようとしました。ところが、その時ノエルが、ひどくおびえたのです。
もう一方の手でリードを持っていたのですが、目をパチパチしばたき、しきりに後ずさりしようとする――傘で殴られるとでも思ったのでしょうか?

でも、一度も(誓って)そんなことしてないし、今までが「怖がる」なんてことがなかった子。子供の頃や1~2歳の頃など、いたずらざかりで、飛びかかってくるばかりしたもの。そのたびに、怒って、(時には)パチンと叩いてやったりしたもんですが、それも平気のヘ~ザだったものであります――それなのに、この様子は…?

そういえば、昨年の秋、獣医へ連れていった時、獣医さんや待合室のお客さんたちに、喜んでとびついていくのはいつも通りだったのだけど、診察室でぶっとい注射を打たれた時、おびえて悲鳴をあげましたっけ。そんなことも、今まで一度もなかったことです。

100ワットの💡電球のように明るく、ものを怖がるなんてことはみじんもない(ただし、仲間の犬に対しては、別)犬だと思っていたのですが、年を取るとともに「世の中には、怖いことがあるんだ」ということがわかってきたのかもしれません。

人間だって、子供の頃は大胆に、恐れを知らずにふるまえたけれど、大人になると不安がいろいろあるものね。