ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

羊皮紙の世界

2021-05-28 18:04:52 | カリグラフィー+写本装飾

数日前の新聞に、驚くべき記事を見つけた。「羊皮紙の魅力を伝えたい」とのタイトルが打たれた記事に登場しているのは

――実は、この「羊皮紙のすべて」という本(青土社)を出版された八木さんは、私が以前、何度も羊皮紙を入手した専門家。

 ヴェラム(子羊の皮)という上質な羊皮紙は高価で、その小さなサイズのものをいつも購入していたのだけれど、八木さんが講師として指導されたワークショップを受けに東京へも行ったことがあったっけ。あれは、もう十年以上も前になるだろうか……。

そのワークショップでは、木の台に、放射線状に紐を括りつけられていた羊皮紙を見たり、自分でもお手製の小さな羊皮紙を作り、それを伸ばしたり、磨いたりする作業がとても新鮮だった(具体的に何をしたかは、もうだいぶ忘れてしまっているのだけれど)。

それにしても地方のローカル紙にさえ、羊皮紙が紹介されるなんて! とても嬉しい🐑

ここでアラビア書道についてもふれられているけれど、私もちょこっとやったことがあります。先が平たく割れた竹製のペンで、摩訶不思議なアラビア文字を書きつけるのだ。アラビア語なんて、まったく読めないけれど、その蛇に似たリズミカルな線には、何とも言えない魅力を感じてしまう。

以前トルコに行った時、アヤソフィア寺院で、黒い円状の板に黄金色で書かれたアラビア文字を見たけれど、とても華やかな美しい文字だった――カリグラフィーも、紙の世界も本当に、奥が深いものなのだな。


ドクトル・ジバゴ

2021-05-21 14:44:53 | 映画のレビュー

映画「ドクトル・ジバゴ」を観る。デビッド・リーン監督、オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティ主演。言わずとしれた名画である。

二十年近く前観たきりで、今回が二度目の鑑賞――でも、やっぱり素晴らしかった! これほどの圧倒的なスケールや重量感溢れる映画は、現代ではもう不可能だろうなあ、としばしため息。 制作された年代が年代なので、実際にロシアで撮影されたのかどうかはわからないのだけれど、スクリーン全体に、ロシア革命を背景とした大ドラマの鼓動が息づいている。さすが、「アラビアのロレンス」や「ライアンの娘」を撮ったデビッド・リーンならではの、大河のごとき迫力!

言わずと知れた名画なので、ストーリーを紹介するのも気が引けてしまうのだけれど、ざっと述べると――いかにもソ連の計画経済を思わせるダムの作業場。そこに、高官であるイェルグラフがやって来る。彼は、腹違いの兄で、素晴らしい詩人であったユーリ(彼が、「ドクトル・ジバゴ)の娘を探していたのだが、このダム現場で働いているソーニャという娘がそうだと確信する。

イェルグラフは、ソーニャを呼び寄せ、彼女の両親であるユーリとラーラのことを切り出すが、彼女は両親の名も顔を記憶していなかった。ソーニャのために、イェルグラフは、ドクトル・ジバゴ=ユーリの物語を語りだす。

ここで場面は一転して、19世紀末のロシア革命前夜に移る。優秀な成績で医者となったユーリは、遠縁の娘であるソーニャとの婚約も整い、順風満帆な将来が約束された若者だった。しかし、彼はある夜、恩師の老医師と共に、仕立て屋のアトリエ兼自宅に案内される。そこの女主人が服毒自殺を図ったためだ。彼女は、自分の愛人の弁護士コマロフスキーと娘ラーラの間に不義の関係があるのを苦にしたため、自殺を図ったのだが、この時ユーリは運命の女性ラーラと出会う。

ラーラはコマロフスキーの毒牙にかかりながら、熱烈なボリシェビキの青年パーシャという恋人もいた。ユーリも当初の予定通りソーニャと結婚し、ブルジョワの医師として生活……するはずだった。

だが、間もなくロシア革命が始まり、ユーリの家も、押しかけて来た人民に占領される始末。思いあまったユーリとソーニャ、息子のサーシャ、ソーニャの父親たちは、別荘のあるウラルを目指すのだが、この時乗る列車のシーンが凄い。

まるで、アウシュビッツに運ばれるユダヤ人たちのような、過酷な旅をしなければならないのである。家畜のように列車に詰めこまれ、小さな窓があるきり。床には藁が敷かれ、どうやらそこが夜の間のトイレとなり、朝は汚れた藁を列車の外に放りだす――今まで優雅な生活をしてきたユーリやソーニャ達には考えられない旅だったはず。しかし、この時、ロマノフ家の皇帝一家は銃殺されていたし、国自体が不穏なざわめきに包まれていたのに違いない。しかし、それでも列車の外に広がる、雄大なロシアの自然は美しい。白銀の世界は、どこまでも広大に広がり、その上で人間達がいかに惑っていようとも、ちっぽけなドラマに過ぎないと言っているかのようですらある。

ようやくたどり着いた美しい別荘も、人民たちの手によって押収されており、ユーリ一家は別荘そばの、粗末な一軒家に住まざるを得なくなる。しかし、赤軍と白軍の戦いに軍医として駆り出されたユーリは、そこで看護師として勤務していたラーラと再会する。知らずうちに、惹かれ合い、愛を確かめ合う二人だが――。

                                   

この後、ユーリはパルチザンに拉致される。その間、妻のソーニャ達は国を追われ、パリに亡命する。紆余曲折の末、コマロフスキーの説得で国外へ脱出することになったユーリとラーラだが、その時、二人は永遠に別れ別れになってしまう。

時が流れ、路面電車の中から、片時も忘れることななかったラーラを見かけたユーリは、電車を降り、彼女を追おうとする。だが、すでに心臓を病んでいた彼は、発作を起こし、その場で倒れ死んでしまう――

大ざっぱだけれど、こういういきさつをイェルグラフは、ユーリの娘であるソーニャ(なぜか、正式な奥さんと同じ名前)に語るのだが、やはり両親の記憶がない彼女は恋人であるエンジニアの青年に呼ばれ、その場を去ってしまう。しかし、この時、ダムが大量の水を放出している場面がクローズアップされたのが、凄い迫力で面白い。ああした激動の時代を踏み超えて、ソ連という国ができあがり、国かけての計画経済を実行しているのだということ。それが、ダム現場を映し出すことで、よく浮き出ていたと思うのだ。

些末的なことかもしれないけれど、この映画を観て「あっ、面白いな」と変なことに感心してしまったことが幾つもある。例えば、ラーラの母親が熱を出して、コマロフスキーと夜会に出られないというシーン。ここで、温度計が出されるのだが、それが私が子供の頃まで使われていたような、赤い水銀の目盛りがあるガラスの温度計なのだ。ふ~ん、十九世紀末とか、二十世紀初めには、こんな温度計がもう出回っていたのか……(今は、オモチャの拳銃のような、額にかざして、すぐ体温が計れるというものですけど)。

そして、百数十年も前、今のヨーロッパの街を走っているのとそっくり同じ、路面電車が市民の足として活躍していたのだということも。


リフレクソロジー

2021-05-17 06:25:14 | ある日の日記

今年になって、独学で勉強したリフレクソロジー。 コロナ禍で、他にする人もいないので、家族に施術したりしています。

 

     

上の写真は、DVD教材の施術の手順をレクチャーしたもの……今も、やり方の順番がよくわからないので、DVDを傍らにして、やっています。両足で、一時間ほどかかるのですが――。

人の体にマッサージするのって、「癒し」という感じで、良いな。


密やかな結晶

2021-05-16 17:43:18 | 本のレビュー

小川洋子の「密やかな結晶」を読み直す。といっても、以前読んだのは、私がまだ大学生の頃だったと思う。その時は、ハードカバーの分厚い新刊を購入したのだが、それがいつの間にか手元から離れてしまい、上の写真は新しく買った文庫本。

でも、それも何年も前で、長いストーリーを読みきることができず、途中やめにしてしまった……なのに、最初に読んだ時の鮮烈な感動は強く、ストーリーも物語の雰囲気もくっきり覚えていたもの。

コロナで、私たちの住む地方はかなり深刻な状況に陥っている――外出も思うようにできない日々、ふと、この本のことを思い出し、門の横の小さな小屋にある本棚から取り出してきた。

ストーリーは、それこそ密やかで、どこか諦めに似たムードが全体を支配している。はじめ、これを読んだ時はディストピアという表現こそは浮かばなかったものの、北欧の静かで寂寥感に満ちた映画のシーンを思い浮かべてしまった。

どこかにあるはずの島が舞台なのだが、ここでは秘密警察という恐ろしい機関が存在し、島の人々を監視している。この島では一つずつ、何かが消滅し、人々はそのなくしたものの記憶さえも失ってしまう。時に、消滅の記憶を失わない人たちがいて、秘密警察はその人たちを連行し、抹殺する。そして、消滅したものも、すべて消去するのが彼らの仕事だ。

主人公の「わたし」は若い作家の女性なのだが、彼女も一つ一つ記憶を失ってゆく。胸に空洞がぽっかり開いてゆくのを自覚するものの、それをどうすることもできない。「わたし」の母は彫刻家だったが、記憶をなくすことができないため、秘密警察に連行され殺されてしまった――そんな彼女の心の支えは、両親が健在だった頃から家に出入りしていた、器用で心優しいおじいさん(もと、フェリーの運転手)。

このわたしとおじいさんの心の交流が、繊細な優しさに満ちていて、それがこの沈んだ物語を導く灯りとなっている。わたしは、自分の小説の最大の理解者である編集者Rが、記憶を失うことができない人間の一人であることを知る。このままでは、秘密警察の「記憶狩り」に追われてしまう。だから、おじいさんの手を借りて、自分の家の秘密の小部屋に彼をかくまうのだが、島から大事なものは、どんどん消滅してゆく――というのが、大体の筋。

ここに登場する「秘密警察」が、ナチスそっくりであることや、彼らの「記憶狩り」の有様はユダヤ人抹殺を思わせることは、この物語を読んだ人には一目瞭然のはず。おじいさんは途中で死ぬし、「わたし」も最後には自分自身を消滅させてゆくしかない。けれど、こんな希望のない話であるはずなのに、この「密やかな結晶」はとても美しく、いつまでも、この世界に身を浸していたいとさえ思わせるほどだ。

これは、小川洋子の文章の魔力のせいなのだろう。「わたし」がストーブの上で煮るシチューや、乏しい野菜で作る料理。半地下となった洗濯室や、母親の遺品の彫刻――すべての描写が、キラキラするというのではなく、真珠の光沢を思わせるほのかな輝きに満ちているのだ。

おじいさんと、彼の住んでいたフェリーが海に沈みかけているのを見ながら交わす会話さえ、何とも言えず素晴らしい。

北の物憂い海と、深い静けさに満ちた島の情景が目に浮かびそうなほど。「わたし」もおじいさんも現状に対して怒り狂うということはなく、静かな諦念を抱いているかのよう。

世界が終わる時というのは、阿鼻叫喚すさまじい光景がある訳ではなく、こうした沈んだ色に包まれているのかもしれない。

と、ここまで読んでいて、気が付いてしまった。この「密やかな結晶」を何十年ぶりかに読み返したくなったのも、この島で消滅するということに耐えながら、生きている「わたし」やおじいさんの状況が、今のコロナ禍に重なる部分があったからだと、いうことに――。

だからこそ、この作品が昨年ブッカー賞の翻訳部門にノミネートされたのだと思う。(発表されてから、三十年近くも経つというのに)


ティーカップ

2021-05-04 15:14:53 | アート・文化

もうすぐ母の日――兄の家族が持ってきたのは、スージー・クーパーの「ドレスデンスプレイ」のティーカップ。有名なデザインなので私も知っていましたが、1930年代に作られたというだけあって、どこかレトロな味わいが素敵なティーカップ。 描かれた花は、何だかチューリップっぽいような……。気楽にティータイムを楽しめるといった感じの可愛らしいカップであります。

早速カップボードに並べてみましたが、左側にあるマイセンのアンティークは、さすがに上品。しかし、「気楽にお茶を」とは言えない重厚さがありますね。

今日の夕食は、久しぶりに「炒飯」を作ろうと思っています。中華鍋がないので、フライパンを使うことになるのですが、どうぞ失敗しませんように‼