ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

ジャクリーン・ケネディ

2013-07-31 20:46:52 | アート・文化

Photo


Photo_2


私はジャクリーン・ケネディの顔が好きである。えらの張ったやや四角い感じのする顔に、目と目の間が離れているのが、印象的。この人は、オードリー・ヘプバーンと並んで20世紀を代表するファッショナブルな女性と言われたのだけれど、個人的にはジャクリーンのファッションセンスの方が素敵と思わせられる。

生前は、その生き方を含めて、さまざまな話題を提供したが、かなり複雑な人だったのではと思う。インタビューにも答えることも、本を出版することなどもなく、かたく沈黙を守り続けた。大統領夫人だった時も含めて、オナシスと結婚してからは、その天文学的数字にのぼるショッピングに憂きみを費やし、利己的に自己愛にのみ、生きた人だったのだろうか?

伝記を読んでも、そこには載っていなかったから、どこで知ったのかはさだかでないのだが、ジャクリーンが少女時代に書いたという詩を、読んだことがある。心に深く余韻が残るような、透明なものだったと思う。こんな詩が書ける人が、地位や名声に固執するだけの世俗的人間だったとは思われない。若い頃の彼女を知っていたある人は、「私が知りうる限り、もっとも複雑な内面を持つファーストレディーでした」と言っている。

やっぱり60年代のファッションは素敵ですね。イブ・サンローランやヘプバーンなど、伝説的なファッションのイコンが登場した時も、この頃。

コメント

成長してる?

2013-07-31 19:35:13 | ノエル


007

今日、トレーナーさんにノエルのレッスンに来ていただいた。「ずいぶん、しつけができてます」とほめていただいたのだけれど、そんなに良くなってるかなあ?

  003_3


これは、去年の9月の一歳になったばかりのノエルの写真。見た目的には、おでこの丸顔と、大きな輝く目の、今とそっくりの姿。ということは、あんまり成長が見られないような・・・・・・。これって、犬の童顔ってこと?




コメント

私の机

2013-07-29 18:16:25 | カリグラフィー+写本装飾

013


これが、私がカリグラフィーの練習などするのに使っている作業台である。中央におかれた赤い革(スエード)は、字を書く際の下敷きに使い、革の下には傾斜台があり、それをたてかけて字を書く。

カリグラフィーは言うまでもなく、文字を美しく書くこと。でも、私は字を書くのが苦手。それを左利きせいかなあ、などと言ったりしているのだが、やはり努力が足りないのであります(文句が言えるほど、練習してないし)。

さて、今大阪に「貴婦人と一角獣」のタペストリーの展示が来ている。この美しい芸術品は、写本と相通じるものがあり、私も目のこやしと勉強のため、見てこようと計画している。

コメント

2001年宇宙の旅

2013-07-28 11:40:40 | 映画のレビュー

Photo

衛星放送で、映画「2001年宇宙の旅」を観る。これまで幾度も観ているのだが、何度観ても素晴らしい傑作! 原作のアーサー・C・クラークも映画監督のスタンリー・キューブリックもどちらも天才。この二人の天才がタッグを組んだ時、このような映画史上に残る作品が生まれたという訳。

ストーリーは今更言うまでもなく、有名だしある意味でとても抽象的なので、ここでは映画のディテールに関する部分のみを言った方がいいかもしれない。月の上で発見されたモノリスという黒い不思議な石板。地球上の物質でできてはいず、つるつると滑らかな鉱物でできているらしく、まるでオニキスを思わせるような輝きがある。この石板は、どうやら地球外文明の遺産らしいのだが、だれがいつ何のために、設置したのだろう?  

その謎を求めて、ディビッド・ボーマン始め数人の乗組員を乗せた宇宙船が木星へ旅立つ。人口冬眠で眠っている乗組員をのぞいて、船内で活動しているのは、ボーマンの他、デイブという同僚、ハルというスーパーコンピューターのみ。このハルというコンピューター、マニアの間ではすっかり有名になったけれど、ボーマンと交わす会話など人間臭く茶目っけたっぷりで、愛嬌がありすごく可愛い! ずうっと先の未来には、ほんとにこんなコンピューターができるんだろうか?

でも、現実は可愛いなどと言っていられず、彼が変調をきたし、反乱を起こしたせいでボーマン以外の乗り組員はみな死んでしまう。船長としての決断を自らに下したボーマンは、ハルの心臓部に入り、彼の回路を切断していくのだが、この時ハルの歌う「デイジー」の歌声が心に沁み入って、いつまでも離れない人は多いだろう。

そして、ひとりぽっちになってしまったボーマン一人を乗せて、木星をめざし、広大な宇宙空間を超えてゆくのだが、この時の映像が素晴らしい! 宇宙の美しい映像に「美しく青きドナウ」の音楽をぶつけてくるキューブリックのセンスも凄いとしかいいようがないけど。

最後、アメリカ東部の高級ホテルのスートルームを思わせる不思議な部屋にたどり着き、老人に化した自分の姿を見るボーマン。それはやがて死の床に横たわるボーマン自身の姿となり、彼は巨大な赤ん坊--スターチャイルドとなって青く輝く地球を見降ろしている。この謎に満ちた有名なラスト・・・これは本当に一度見たら忘れられない映画だ。多くの人が「難解でわからない」といったこのラストシーン・・・私はクラークのSFは名作「幼年期の終わり」を含め、幾つも読んでいるので、クラークがこの作品にこめたかったメッセージは何となくわかる。

今まで、映画を観た人も観なかった人もぜひ「2001年宇宙の旅」を読んでほしい。クラーク節としかいいようのない名文とともに、新鮮で広大な宇宙観が開けてくるはず。

コメント

2013-07-27 20:24:35

2013-07-27 20:24:35 | ガーデニング

夏風邪でダウンしています。一日を部屋の中で、ぐったり過ごした後、夕方ガーデンに顔だし。ノエルの散歩は両親に行ってもらうことになりましたが、庭の緑や木の幹にとまる蝉を見ていると、以前書いた童話のことを思い出しました。

それは、ある夏の朝、庭で同時に生まれた薔薇と揚羽蝶の物語。二人は友達になるのですが、やがて、嵐が過ぎ去った後、薔薇は無残な姿になり、やがて花びらをちらして枯れてしまいます。その後も、揚羽蝶は庭を飛び回るのですが、薔薇がいなくなってしまったことが悲しくてたまりません。そのうち、揚羽蝶の綺麗な羽もぼろぼろになり、すっかり弱り切った彼は、かつて薔薇が咲いていた茂みの上までたどり着くと、死んでしまいます。ポトリと地面に落ちた蝶の体を蟻たちが巣にまで運んで行き、その上を秋の日が照らしていた--というすじでした。

これは夏の庭を題材にして、夏から秋の間に短い命を精一杯輝かせる生き物の姿を描いたつもりなのですが、今目の前には、夏の盛りの生物たちの饗宴が繰り広げられています。自然って、つくづくいいですね。若い頃は、お洒落とか綺麗な小物とか表面的なものばかり追っていましたが、ようやく内面的な、本当のものがわかりかけてきたようです。

コメント

紙製品が好き

2013-07-25 17:58:38 | ある日の日記

    007_2


レターセットや外国製のカードといった類に目がない。上の写真は、イタリア製のもの。フィエレンツェ独自の花模様が印刷されている。(でも、私はすごく字が汚いので、せっかくの手紙もパソコンのワードで作成してしまうのだけど)

     014


そして、この真ん中のノートはイル・パピロのもの。イタリアへ行った時、マーブル模様のレターセットや文房具がいっぱいあって、「わあ、素敵」と思い、店の写真まで撮ったのに、買ったものは少し。その時買った、カードやハガキも使ってしまって、「もっと欲しかったな」と思う。

左のアンモナイトのデザインが金で型押しされた薄青のカード。これも、使う機会などなく、大切にしまって、時々眺めるのみ・・・・・・どうして、こんなにお洒落な紙製品に目がないのかな? 我ながら不思議です。

コメント

古代の美

2013-07-25 14:11:51 | アート・文化

市内の美術館で、「古代ガラス展」をしていたので、観に行く。実に、実に素晴らしい!

エジプトやミケーネ文明、ササン朝ペルシアなど、東地中海沿岸のさまざまな国々の工芸品が展示されている。装飾品やネックレス、壺や皿・・・・・・一点一点が芸術品としての完成度と気品を兼ね備えているのだが、古代人はどうして、これほどのものが生み出せたのだろう?

エジプトや古代ギリシアで作られたという装身具の、あえかに繊細で、奥深い美しさを見ると、現代の一流ジュエラーの、何億円とかいう豪華な宝石も、光を失ってみえてしまう。これは、建築分野についても同じで、現代の建築技術の粋を集めて作られた、超高層建築が、古代の神殿の壮麗な美しさ、中世の教会建築の幾重にも彫刻をちりばめた、重厚さにおよびもつかないのと同じだろう。昔の人たちの、精神力の高さを思う。

文明も滅び、そこに君臨していた王族も、国も街並みもすべて、消えてしまった。それから長い長い時がたって、一人の考古学者が埋もれた砂の中から、水さしや壺の破片を拾い上げる。落ち着いた美しさを持つ、それらの工芸品を作ったのは、失われた王国の、名もない職人であったかもしれない・・・・・・。美術館に収められた、それらの品は、何かを囁いてくれそうな気がして、ふと立ち止まってしまう。

コメント

散髪したよ

2013-07-23 08:11:15 | ノエル

001

エヘヘ・・・・・・昨日、ヘアーサロン行ってきたの。サマーカットして、シャンプーもしたんだけど、ぴっかぴかになってるように見える? まあ、すぐプールに入ったり、土の上を転げ回ったりして、どろんこになるんだけどね。(注:犬のすごいところは、泥だらけになっても、いつの間にかすぐ綺麗になること。野生動物を見ても、わかるよね)

僕は、月一回シャンプーに行って、月一回トレーナーさんにトレーニングに来てもらってる。人懐こく、明るいというのは、トレーナーさんやトリマーしてくれる学生さんたちの評。これって、いいことなのかな? 多分、そうだよね。

003


そして、これはシャンプーに行ったしるしのリボン(これって、洗濯屋さんのタグとか、テディ・ベアの耳のとこについてる商標みたいじゃない?)の上に、月見草をそえてみたもの。僕があんまりふざけるんで、いいように写真がとれなかったけど、月見草の優しい黄色と僕の毛の色が凄くあうのだ。誕生日には、花の冠をかぶせてほしいかな。

コメント

小川洋子の世界

2013-07-22 17:13:08 | 本のレビュー

001


小川洋子の新刊「いつも彼らはどこかに」です。現代日本の純文学を代表する作家ですが、私は彼女のファン。ハードカバーの本は滅多に買いませんが(面白くない本が多いし、ハードカバーの重みに見合わない内容だと、買った後、腹がたって後悔するので)、小川洋子なら迷わず買えます。

さて、この短編集は動物が隠れたスパイスのように、作品の背後に見え隠れしています。それも犬や猫といったありふれたものでなく、ビーバー、架空の動物ハモニカうさぎ(手を口に持っていくしぐさがハーモニカを吹いているようだからって!)、チーター、蝸牛などなどです。小川洋子らしく詩情あふれ、同時に奇妙な異世界を描いていますが、私が最も気に入ったのは、「ビーバーの小枝」という作品。

                      002


これは作者自身が、「ほとんど実話です」と明かしていますが、一人の作家が自分の本を長年に渡って訳していた翻訳家の死をきっかけに、異国の深い森の中にある彼の家を訪れることに。そこには、翻訳家の息子と彼の恋人がいて、作家は言葉がおぼつかないながらも、外国人の彼らと交流をかわすのですが、ふと森の中で小枝を拾うことに。それは、皮がすっかりむけられ、つるつるとしたオブジェを思わせるもの。ビーバーが歯でかじったものと教えられ、また翻訳家が、小説を翻訳する際、その小枝を机の上で儀式のように並べ替えたものだとも知らされます。

このビーバーの小枝を持ちかえった作家。小説の最後はこう締めくくられています。「その小枝は、ビーバーの骨の隣に置かれている。書きかけの小説の前に座り、昨日までの分を読み返そうとして呼吸が整うのを待っている間、あるいは誰もが寝静まった真夜中、どうにも行き先が見えず立ち往生し、ついため息をもらしてしまうような時、ビーバーを見やる。小枝を掌に載せ、しばらくじっとしている。するといつか訪ねた遠い森の風景がよみがえってくる。・・・・・・もう決して会えない人も、たぶん二度と会うことはないだろうと思う人も、骨の姿でしか出会えないものも、隔てなく私の胸の中に浮かんでくる。皆。自分の仕事をしている。私は小枝を置き、再び小説を書き始める」。

 

 

コメント

ベニスに死す

2013-07-20 21:46:17 | 映画のレビュー

         Photo

今日の話題は、あのルキノ・ヴィスコンティの名作「ベニスに死す」であります。かの淀川長治さんも「映画のダイヤモンド」と讃えたほどの傑作。映像、音楽、舞台となるベニスの街と避暑地の美、そして何よりも少年タジオの美しさが素晴らしい!

原作はいうまでもなく、トーマス・マンの同名の作品。私は、マンの原作も大好きで、こっそり「終生の愛読書」の一つに数えているのですが、ヴィスコンティは原作に勝るとも劣らぬ、美的世界を作り上げていて、さすが! 20世紀初頭のヨーロッパ世界。高名な作曲家アッシェンバッハは、療養のためベニスの避暑地へやってきます。舞台となる海辺のホテル、浜辺やホテル内を行き交う夫人たちのファッションなど、瀟洒で優雅な貴族文化の最後の残照を思わせ、ほうっとためいきをつかされます。

初老の音楽家アッシェンバッハが、ホテルのロビーで見出したのは、世にも美しい少年タジオ。亜麻色の髪に、ルネサンスの画家ボッチィチェリ描く天使のように、ノーブルな容姿。セーラー服に、金モールの釦が光る服、ボーダー模様の海水着など、華麗なファッションで画面に現れるさま(ファッション界の大御所、ピエロ・トージがデザインしているそう)は、アッシェンバッハならずとも、虜になってしまうでありましょう。

                         Main



この一生を芸術に捧げた、古き良きヨーロッパの知性と感性を代表するような人物アッシェンバッハ・・・彼はその良識や年齢を顧みず、タジオを目で追い続け、ついにはベニスの街を散歩するタジオ一家を追いかけてゆくほどになります。これだけだったら、ただの変態おじさんですが、タジオに話しかけようとしながら、言葉もかけられないシャイさが、奥ゆかしさ(?)を醸しているみたいですね。

しかし、この時、ベニスの街は船で運ばれたコレラが、蔓延する死の街と化しつつありました。美しい街が、徐々に冒されつつあるさまは、壮麗な建築が崩れつつあるさまを思わせ、鬼気迫ります。私もベニスを訪れたことがありますが、この街の華麗で、病的な美しさは、タジオの美貌そのもののようです。芸術家を死の淵に誘う、「つれなき美女」のような少年。

結局、アッシェンバッハはコレラに罹り、浜辺で遊ぶタジオを見ながら死を迎えます。自らの若さを取り戻そうとでもするかのように、髪を染め、化粧をした異様な姿で・・・。

この映画で他に印象的だったのは、タジオの母を演じたシルバーナ・マンガーノの美しさ。貴族の貴婦人然とした優雅な姿ですが、この女優はイタリアではソフィア・ローレンと並ぶ大女優。「ソフィア・ローレンがタジオのおっかさんを演じたら、おかしいでしょう」と言った方がいましたが、確かにあのバナナの入りそうな大きな口をしたローレンでは・・・無理ですね。

私が不思議に思うのは、アッシェンバッハの視線を受け止めるタジオの心。彼は時々、アッシェンバッハの方を振り返るのですが、「このおじさん、ちょっとからかってやれ」という気持ちなのか、いかにも名士然とした紳士に興味をもたれてまんざらでもないのか--それとも自分の美貌に惹きつけられる人には慣れっこになっていて、何も感じないのか? でも、私の希望もアッシェンバッハのような死に方。世にも美しいものを見ながら、恍惚として、あの世へ旅立てたら、素敵。

コメント (9)