日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

覇権システムと、そして「システム」とどのように向き合い、戦えばいいのだろうか(2)

2020-10-25 | 日記


(最初に一言)

前回の記事で言い足りなかったことを最初に付言補足しておきたいので、前回記事の重要なくだりを二カ所引用して、そこに追加する内容を新たに指摘しておきたい。

先ずは一番目のくだり。

ここで注意、留意してほしいのは、私たちの「システム」それ自体の歩みの中でこうした流れが必然的につくり出されていくということを、最初に抑えておく必要があるということなのだ。覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの下位システムから成る「システム」の存在それ自体が、自ら先の関係をつくり出していく。そこには、「自己決定権」を巡る「力」の争奪戦における「差別と排除の関係」から「システム」がつくられてきたという歴史的な事情が与っている。(これについても、拙著やブログ記事を参照されたい。)

以上、最初の引用、終わり。

やはりこれだけではわかりにくい話である。既に何度もこの点に関して、私自身は言及してきたはずなのに、その都度、後になってから、もう少しあそこのくだりはこう表現すべきだったとの繰り返しで、どうしても言いたいように伝えられないから、読者にはいつも申し訳ないと思うのだが。

それで、今回は箇条書きで私の伝えたい論点をいかに述べておく。

①「システム」は、なぜ、1970年代を「分水嶺」とするかのように、{[A]→(×)[B]→×「C」}から、{[B]→(×)[C]→×[A]}へと構造転換・変容していくのか。

②その根源的理由は、「システム」が「金の成る木」としてつくり出されてきたということによる。

③そのために、「システム」は、覇権システムに象徴される暴力関係から「親分ー子分」にみる「自己決定権に」おける差別と排除の関係を「格差バネ」としながら、力の弱いところからいろいろな形に還元される資源を収奪する中で、親分に都合のいい「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係をグローバルにつくり出してきたのである。

④その形成に大きく与ったのが「親分」の力(暴力)であり、それを介して「親分」は無数の「親分ー子分」の関係を導くと同時に、それがいつしか一つに統合された覇権システムとなったのである。

⑤そうした覇権システムの下で、すなわち暴力に依拠した帝国主義関係の下で、{Aの衣食足りて→Bの衣食足りて・足りず→Cの衣食足りず}に描かれる世界資本主義システムがつくり出されてきた。なお、外側の記号{ }は、覇権システムを示している。

⑥さらに、覇権システムの下で、その暴力的帝国主義関係と、その下でつくり出された世界資本主義システムを正当化・合法化するために、{Aの礼節を知る→Bの礼節を知る・知らず→Cの礼節を知らず}で示される世界資本主義システムがつくり出されてきたのである。ここでいう「礼節」には、普遍的価値や普遍的人権、市民的自由・権利、法の支配などが含まれているのだが、この図式でもわかるように、そうした自由や人権は、最初から「格差」関係の下に置かれている。

⑦こうした覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの下位システムから成る「システム」は、その格差バネを介して、「金の成る木」としてその維持と安定、さらなる発展の歩み(高度化)を実現してきたのだが、1970年代頃になると、その格差バネが有効に聞かなくなり、そこから「金の成る木」としての「システム」はその再編成を迫られることになる。

⑧そこから、覇権システムの再編が試みられるのは言うまでもない。その意味することは、これまで歴代の「親分」を輩出してきたAグループには、もはやその親分が見当たらなくなり、そこからBグループ内に、その親分を見つけ出す動きが顕在化するところとなっていく。それは、米・中覇権連合の形成を導くこととなり、今は次期覇権国の中国に対して、現覇権国の米国が時に厳しく、時に優しく教育指導しながら、覇権国としての在り方を伝授している最中なのだ。

⑨それゆえ、70年代以降の覇権システムはなお盤石とは言えないのだが、それでも着々とその骨格とその肉付けは進んでいるのも事実である。

⑩この新たな覇権システムの下で、世界資本主義も再編され、新たな関係をつくり出していく。それは{Bの衣食足りて→Cの衣食足りて・足りず→Aの衣食足りず}の関係として描かれるのだが、ここで注意していただきたいのは、なおこの関係は実現半ばであるということである。そこからわかることは、Aのかつての先進国の住民の生活困難者の境遇はさらに悪くなるのが予想されるということだ。

⑪こうした覇権システムと世界資本主義システムの再編と手に手を取るように、世界民主主義システムも、新たに再編成されていく。それは、{Bの礼節を知る→Cの礼節を知る・知らず→Aの礼節を知らず}のモデルで示されよう。ここでも注意してほしいのは、なおこの関係はその実現の途上にあるということである。Bの中国は2,30年後には、名実ともに、いわゆる自由民主主義体制として位置付けられる国家となっているだろう。ここでも問題となるのは、Aのかつての先進諸国である。市民的自由や人権の保障もままならず、命と暮らしを守れない人々がますます増加していくのは必至である。

⑫「システム」は、このように新たなる再編成の下で、錆びかかっていた格差バネを有効に働かせながら、新たな差別と排除の関係の下に、「金の成る木」としてのその役割を担うこととなるのである。

以上が、前回の記事で補足しておきたかった第一点目のくだりに関する内容である。前回も強調したことだが、この「システム」の形成と発展、そしてその変容を見ていく際にわかるのは、「システム」の自己完結的歩み二こそまずは注目してほしいのである。あのM・ウェーバーの資本主義の見方とも通じるものがそこにはある。

すなわち、一旦動き出した「システム」は、あたかもひとりでに歩くようにその歩みを展開していくのであり、そこには自由主義や自由民主主義や社会民主主義や共産主義や保守主義や民族主義といった人為的理念なりイデオロギーを介して、外部から影響を及ぼすことなどできないということである。とくに1970年代以降の「システム」におけるAに位置した人々の命と暮らしを守る点では、何の役にも経たないということを、いや逆に、そうした政治理念やイデオロギーを振りかざすならばむしろ有害無益だということを自戒・自覚することが今は何よりも大切なのであることを、ここでも念を押しておきたい。。


それでは、次に2番目のくだり。先の一番目の話と見事に重なってくるのだが、かつての先進諸国グループに生を受けた私たちにとって、私たちの生存を危うくする脅かすものは、まさに70年代以降の「システム」の発展なのだ。別にどこかの国の直接的脅威が問題だという前に、まずはそこに目を向けるべきである。私たちの軍事力は私たちを守るために存在するのではない。「金の成る木」としての「システム」の維持、発展とその安定のために存在するものであり、軍事力のますますの整備それ自体が「金の成る木」としての「システム」には有効であり、必要不可欠な潤滑油となる。

こうした流れを踏まえて、前回の記事のくだりに目をとおしてほしい。

前回記事の二つ目のくだり、引用始め。

ずっと以前の記事でも指摘したように、私たちは{[B]→(×)[C]→×[A]}のAに位置している。「システム」は、もはや別にAに暮らす普通の国民の存在など気にかけてもいない。彼らが貯め込んだお金さえなんとかB、Cグループの経済発展に回してくれれば、それだけで十分かのように、Aの国民に向き合っているように、私には思われる。

換言すれば、「システム」は、たとえば{[B]→(×)[C]→[C']だけでも構わないのである。その他にも、Aを抜きにしたいろいろな関係が想定できるだろう。Aグループの指導者たちは、「システム」の要請に従っているかのように、Aの庶民に向き合っているのではあるまいか。これは相当に恐ろしい話なのだが、今の日本社会を見回してみるとき、庶民の命と暮らしはもはや風前の灯火と言えば、言い過ぎだろうか。私にはそうとも思えないのだが。

引用、終わり。

以上が前回のくだりの引用箇所であり、今回の記事で私が言及付言したい第2番目のところである。正直、相当に怖い、怖ろしい話であるが、読者も薄々は感じられているに違いない。毎日、この日本国内で犬猫が死ぬかのように人の命が失われている。このくだりも表現の難しい処である。犬や猫の命も元より大切であるが、そうした動物が毎日処理場で命を奪われている様を連想するのと同じように、人命も軽く扱われるようになって久しいのだが、私たちの身体のどこかで、もうどうしようもないという感情が生まれているとすれば、それはそれで問題であるのは間違いないことだ。

ところが、どうにもならない、どうしようもない空気が醸成されているのもこれまた、確かではあるまいか。私が診るに、私たちは体でもって、そういわゆる体感というそれであるが、私の「システム」論で語る「システム」の転換・変容を感じると同時に受け止めているのかもしれない。とくに年長者の者には、その中でも「団塊の世代」と呼ばれた高齢者には、それがわかるのではあるまいか。わかっているのに、どうすることもできないことに、またやるせなさを感じているのかもしれない。

私自身もどうにもならない、どうしようもないことに対して、歯がゆさや苛立ちを毎日覚え、それでまた落ち込むの繰り返しとなるのだが、私たち高齢者ならまだいい、もうそこにお迎えが来ているのが見えるから。しかし、私の私たちの子供たちや孫やそのまた先の子供たちの存在と彼らの明日の可能性を少しでも想像するとき、なんとかして此処で踏ん張り、踏み止まることは大事だろう。
   
そうした戦後生まれの彼らが平和憲法に胡坐をかいたままで、その「平和」の意味も六すっぽ考えないままに、ただただ平和は、自由は、民主主義は大事だと繰り返すだけで、その挙句が今日この日本の体たらくだとしたら、もう何をかいわんやである。それゆえ、私はそうした高齢者たちに呼びかけたいのである。

これからお迎えが来るまでの間、もう少し私たちのこれまでの生き方を振り返り、私たちが糊塗してきた問題に向き合い、それを後世の世代に伝え残すべきではないか、と。それを考えるとき、私にはどうしても避けて通れない問題があるのだ。それがほかならぬ「システム」とその宿痾に関係する問題であり、なかでも覇権システムとそれに関連した問題は、私がこれから、今まで以上に向き合い格闘すべきものなのである。

私たち日本人は、戦後この方「システム」によって押し付けられた「平和」憲法の下で、ここまで歩みを辿ってきたが、その「システム」はもはや日本と日本人の必要性を感じなくなってきているのである。もう不要とされているのだ。そうした状況におかれた日本と日本人が、否が応でも、対峙することを迫られているのは中国と中国人であるのは間違いないことだろう。

その意味でも、次期覇権国となる中国と覇権システムに関する理解を深めることは大切であろう。ところが、私たち日本人にとって、「覇権」という言葉に「親近感」を持てないのも事実だろう。そこには「平和」憲法と「第9条」とが深く関係しているのは確かであろう。誤解のないように付言すれば、「覇権」という言葉を、私はそれがいいとか悪いといった次元から用いてはいないし、先の「親近感」にしても、その意味は日頃からそうした言葉に慣れ親しんでいるかを意味するために使っただけのことである。

これからは、日本人には、この言葉とそれが意味する「親分ー子分」の「力(暴力)」関係について、それこそ今まで以上に、慣れ親しむことがより重要な勉強となるに違いない。今の会議騒動問題で盛んに飛び交っている表現の自由、言論の自由、学問の自由といったまさにそれらの「自由」の背後には、そうした自由をすなわち自己決定権としての「力」を、額面通りに発揮させる「親分」が存在しているのであり、両者は何ら矛盾しない関係に位置しているのである。先述した「礼節を知る」の礼節の中に、こうした自由や人権は含まれており、またそうした礼節と覇権システムの関係については、既に述べたとおりである。

会議騒動問題に関係した研究者の多くは大学という研究・教育機関に属している。この大学という空間もまた、私の「システム:論で語る例の「システム」を髣髴とさせるかのように存在しているのだ。すなわちかつての旧帝国大学を筆頭に、全国の大学間の序列化が編成されている。

話がややこしくなるのを避けるために、読者に想像力を働かせてほしいのだが、企業間にも大企業があり、その下に中小、下請け、孫請けといった序列関係があるだろう。官公庁においてもそうだ。警察という組織をみても、警察官僚から下はそれこそ多くの序列関係が形成されている。そうした序列関係の中で、それに呼応した「自由」が現実には享受されていくことから、そうした自由とは名ばかりの何も手にできない者の自由の方が多いに違いない。

それでは、どうして額面通りの「自由」が保障されないのだろうか。読者にはもうお分かりのように、そこにも「親分ー子分」の力の関係が歴然として存在していることによる。その力は往々にして「暴力」以外の何物でもなく、力の弱い立場に置かれた相手の自己決定権の能力(自由)を奪い取るのである。まさに、自らのそして家族の命と暮らしを守るために、親分とその仲間に対して逆らえないような関係がつくり出されていくのである。。

大学という空間、組織もまた警察組織や企業組織と同様に、小さな親分から大きな親分で構成された空間である。そして親分に群がる子分が集まり、「親分ー子分」関係としての大学、そして学会がつくられていくのである。その中にも派閥というか学閥間の争いは存在しているが、そうした何らかの閥×に加われない、最初から排除された根無し草の研究者や学閥の歴史とは無縁な大学で研究する大学院生は容易に職を得ることもままならず、彼らには表現や言論や学問がどうのといった仰々しい自由など存在していないも同然である、このような存在を看過してしまった自由論では、どうにもならないのではあるまいか。

最後になってしまったが、会議騒動問題を報道するメディアにも、先の序列化が存在しており、その先を辿っていくと、日本の大手メディアから彼らがその傘下に置かれている海外の大手メディアへとつながる、やはり「力」と「力」の「親分ー子分」関係としての「ミニ」覇権システムが存在していることに気が付く。

このような親分ー子分関係としての「力」を、暴力を背後にして、始めていわゆる表現、言論、学問の自由が、「自由」足りえるのである。付言すれば、米国の大手メディアのスポンサーは、ウォール街の国際金融資本勢力である。彼らが、覇権システムやシステムの歩みに深くかかわっていること、正確に言えば、深くかかわらされていることは、言うまでもない。

(最後に一言)

今日もお付き合いいただき感謝あるのみです。なお、タイトルを前回から変更したことを、ここで断っておきたい。

 

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