日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」の自己完結運動の歩みとその関係から見た中・日経済協力構想実現とその帰結(2)

2018-10-28 | 社会 政治
「システム」の自己完結運動の歩みとその関係から見た中・日経済協力構想実現とその帰結(2)

昨日の続き、今日の話で強調したい点は、少し前の安倍首相やその取り巻きの御用仲間連中がどんなに勇ましい発言を繰り返してきたとしても、10年、20年後においては、私のモデルで描くセカイの歩みとその関係を維持発展させていくように、露払いの役割を担う以外に何もできないというのを露呈したことを銘記すべきということである。
東シナ海での、尖閣諸島における「不法採掘」や、中国船による、また中国空軍による領海や領空の主権侵犯行為にあれほど騒がしい動きを示していた、ほんの昨日までの勇ましい安倍首相シンパの「日本」と「日本人」はどこへ行ってしまったのだろうか。まるで、戦後のGHQによる占領下の「日本」と「日本人」が、今度は中国の占領下におかれたかのような雰囲気が漂っている。

こうした流れはこれからも続いていく。そろそろ国民も騙されないように、政治とは距離を保つことが大事なのだが、そうした自覚の有無にかかわらず、ますます私たちが{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの歩みとその関係の中に吸い込まれていく圧力に抵抗するのは難しいことを悟ることが大切だ、と私は指摘しておきたい。

先の図式は、共時的関係を示していることから、以下のように書き換えられることにも注意してほしい。
すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}①のセカイの歩みとその関係は、{[B]→×[A]→(×)[C]}②のセカイの歩みとその関係として描けるということである。

今回の中・日両国間の経済協力構想とその実現の背後にあるのは、こうした②{[Bの中国]→×[Aの日本]→(×)[C]の第3国}のセカイとその関係を深化させたいとのシステム(の自己完結運動の歩みとその関係)から導かれる構造的圧力である。

こうした圧力の下で、1970年代までのA、B、Cと異なり、CはⅠ期の前期段階にずっと据え置かれていたのに、70年代以降のCはⅠ期の前期から中期、そして後期へと高度化の道を歩む傾向にある。勿論、℃グループを構成するすべてに該当するものではないものの、そうした方向性に置かれていることは否定できない。

同様に、Bグループも、Ⅰ期の段階からⅡ期の段階へ、そしてⅢ期の段階へと高度化する方向性にある。Bの中でも中国やインド、ロシアやブラジルはすべてそうした方向へ向かっているが、今はⅠ期の後期からⅡ期の前期、あるいは中期の段階の移行期に差し掛かっている。

こうしたBとCの高度化に向けての動きは相互に補完的関係にあり、それぞれはお互いの高度化を助ける形で動いているのだが、ここで大きな役割を担っているのがAグループの存在である。AグループはⅡ’期の前期から中期、そして後期を経て、Ⅲ’期の前期から中期へと移行する過程にあるが、そうしたAにおける低度化の動きがB、Cの「衣食足りて礼節を知る」営為の実現を促進するように、自らは「衣食足りず礼節を知らず」の営為に甘んじていく流れを甘受するのだ。

こうした歩みが、さらに①の図式で示したシステムの歩みとその関係を維持、発展させ、そしてますます強固となるように、共時的関係を構成するのである。

私はこれまで拙著や拙論において、またブログ記事でも少し形を変えて論じているように、従来の右翼的、左翼的議論ではとてもこうしたシステムの歩みとその関係が含み持つ問題に向き合えないと主張してきたのだが、これからなお一層、そうした傾向がはっきりと理解できるだろう。もうその時には遅すぎるのだが。

逆から見れば、システムは私のような見方をする者が臍(ほぞ)を噛(か)んで生きていかざるを得ないように、いつも仕向けるのだ。システムに提供された右翼的、左翼的論壇が相互に献花しながら、そこに多くの読者をひきつけて彼らのエネルギーを消耗させる。それこそシステムの狙いである。

フランス革命は、まさにシステムの歩みとその関係を維持、発展強化させた出来事だと私は理解しているが、「革命」によりつくられた右翼と左翼の集団は、そしてその後の政党は、システムの歩みとその関係を擁護することを大前提としながら、資本主義対社会主義(共産主義)、民主主義対全体主義云々の不毛な議論を繰り返してきた。

私がいつも思う疑問の一つに、多くの論者は今日の社会が抱えている問題をいきなりそれは資本主義に起因しているとか、否民主主義が攻撃されているとか云々の議論から始めることだ。どうしてそんな発想をするのだろうか。なぜ私がモデルで描いたシステムの歩みとその関係にまで目を向けようとしないのか。

なぜ、いきなり民主主義と帝国主義は水と油だとか、相反する関係にあると決めつけてしまうのか。

共産党の志位委員長は、中国の覇権主義に反対するというのだが、彼が礼賛するアメリカの民主主義は、いやそればかりか市民革命を経験したオランダやフランスやイギリスもそうであったが、覇権国あるいは世界の強大国ではなかったか。

覇権主義に反対するのは結構なことだが、その一方で中国との経済協力関係を歓迎するのであれば、彼も何かをごまかしているのだ。私のモデルのシステムの歩みとその関係を支えているのだから。その意味では安倍首相も志位委員長も「同じ穴の狢」ということだろう。

私は初めからそのムジナであるとの自覚をしているが、システム人である限り、誰かを偉そうに非難したり、批判できないのは、これまた確かである。

それに関連して言えば、今また自己責任論云々で安田さんというジャーナリストが批判、非難の的になっているらしい。3億円を身代金として用意したとか、それは税金であるとか。もしそんなことを言う輩がいれば、私は言いたい。それでは東京電力や原発は安全だとかのコマーシャルをしていた連中は、事故後に彼らの責任を引き受けたのか。東電は今も税金を使い続けているではないか。

放射線の被爆に苦しむ婦女子や多くの人たちに、原発関係者は彼らの責任を取ったのか。私はそんな危ないものはいらないと言い続けてきているが、原発推進論者hそうした声を無視して、安全だ安全だと嘘をついた挙句、あっまひさっま事故を起こした後も、被爆した者たちに十分な補償も救済処置も取らないで、税金だけはもらい続けているのだから。

私たちは、なぜ弱い者には偉そうなことを言うのに、強い者には何も言えないのだろうか。今の安倍首相ならその理由がよく分かるのではないか。プーチン氏、習近平氏、トランプ氏の前で、おとなしくふるまっていたのだから。

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