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虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

スーパーのちらしで算数タイム

2012-08-23 10:48:15 | 算数

スーパーのちらしから切り取った食品の数々。

透明のテープでコーティングしてあります。

しょうゆやドレッシング、食パン、ソーセージ、お肉、卵など

見ているだけで、「うちにもあるある!」「買ったことある!」とはしゃいだ声があがります。

 

算数の問題を出す前にそれおれ好きな食材を自分で選んでおいてもらうと、

「自分で選んだ食材」や「友だちが選らんだ食材」とあって

問題を解く意欲が高まります。

問題は、それぞれの子の能力に合わせてレベルを調整しています。

 

ユースホステルで行った算数の今回のテーマは「□のある計算」なので

次のような問題です。

 

①牛乳は100円、ソーセージは100円、それとお肉を合わせて買うと、

350円になりました。(消費税は考えません)お肉の値段はいくらでしょう?

 

②ジュースは1本100円です。ジュースを3本と菓子パンを買うと、520円になりました。

菓子パンはいくらでしょう?

 

など。

子どもたちは、大喜びで問題にチャレンジしていました。

ユースホステルでゲーム。

分子モデル作りに夢中になる女の子たち。


学校に通い出したらどんどん勉強嫌いになっていく? ③

2012-08-22 16:56:26 | 教育論 読者の方からのQ&A

陸やどかりを教室で飼いだしてから、ブロック製作や工作への熱心さが
急激に変わった子が何人かいます。

陸やどかりを入れるための公園や家作りを,
子どもたちとよくします。
★やどかりから学びの輪 1
★やどかりから学びの輪 2 ヤドカリ新聞と 算数の難問
やどかりって次にする行動が読めませんから、
囲いはこれくらいの高さで大丈夫と思っていても、
仲間のやどかりを踏み台にして登ってみたり、階段状になっている部分を使って高いところに登った後で、囲いに移ってみたりと、
思わぬ知恵で脱出を企てるのです。

すると、その意外性に子どもたちは驚き、大笑いしながら、
さらに囲いを高くしてみたり、
次に何か作るときには機能にも注意するようになったりと、
作るときよく考えるようになってきます。

子どもって小さい生き物が大好きですよね。
生き物って、先が読めなくて、
『明後日』の感覚を生み出してくれるものだからかなぁと感じています。

私はこれまで何度か多人数の子どもが集まる市のお祭り会場で
工作のブースを任されていたことがあります。
『工作屋さん』という名前で、携帯電話、パソコン、DS,たまごっち、UFOキャッチャー
などを紙工作で作るのです。
紙工作の本に載っていないような私が考えた「へん工作」です。

作るものに関しては、見本を見ればすぐできるような易しいものなのですが、
真似しても良し、オリジナルに発展させてもよしという自由度の高いものにしていると、
高学年や中学生の子もおもしろがって作っていってくれました。
工作するときのおしゃべりを、心から楽しんでいて、
最初は照れながら参加していた子が、小さい子の分まで作ってやるよ~という展開になったりします。

この高学年や中学生の子もおもしろがって作っていくって、
他の場所では何度も苦い思いをしているのです。

NPO法人の方々が開いている同様のイベントで、
他の方がしている『工作』ブースのお手伝いをしたことがあります。
何度も何種類も。

すると、工作の難易度に関わらず、お客さんは圧倒的に幼児と小学校低学年までの生徒なのです。

小学校3年生くらいになると、
「え~工作? つまらんし~。あっちいこ」と、
工作ブースと気づくや否や
顔をしかめて去っていきます。

工作素材はなかなか良い物で、びっくり箱とか、ゲーム性のあるおもちゃが作れるなど、私の考える「へん工作」よりよっぽど立派なものなのです。
ただ、市販の工作キッドや子ども向けの雑誌の工作のふろくに近い
画一的な完成品を目指す工作ではあります。

私がそのとき気になったのは、低学年くらいまでの子が
そうした工作を喜んでするにもかかわらず、同じ製作活動が、
中学年以降の子から、軽蔑や
怒りさえ引き出していたことです。

私は自分ひとりで企画して子どもに工作させるときは、
見本があってもかなり自由度が高く
コミュニケーションを楽しみながら進めて行く形をとっています。
工作とは名ばかりの作品となることもありますが、
その子の個性が十二分に発揮できる機会にはなるのです。

すると、低学年までの子よりも、むしろ中学年以降の子の方が
技術も向上し、自分の思いが確実に表現できるようになるため、
熱心に楽しそうに製作に参加しているのです。

工作の場でも学習の場でも、
私は子どもの成長というものを実感しています。

しかし、画一的な先が予測できる場では、低学年までの子のが
優れていて、年齢が上るごとに
やる気も作品の完成度も低下していくのです。
子どもがだんだんダメになっていく~というイメージです。

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『他人を見下す若者たち』 速水敏彦 講談社現代新書
のなかで、
著者が、
愛知県のK市の小中学校のベテラン先生に、
現在教室で接している子どもたちと、
新任の頃対面していた子どもたちの
「感情の持ち方」や「表現の違い」についてたずねた結果が、
紹介されていました。

昔の子今の子の感情を
おおまかに比較すると、

今の子は「怒り」を感じやすく、(極端に怒りやすい子が多くなった)
「悲しみ」にくく、
「喜び」にくくなったそうです。

感情に規制をかけていて、素直に喜びを表現できない子も多いそうです。
班で勝った時も、「喜ぶのは負けた子に失礼だからやめよう」と勝った班のリーダーが言ったのだとか。大人が子どもの感情をコントロールしすぎて、だめにしてしまっている……とも。

「恐れ」の感情が減り、
好奇心という面での「驚き」の感情も少なくなっていて、
「面白さ」は、軽くて表面的なおもしろさにだけ反応するようになったそうです。

感情というのは、幼児期、子どもの年齢や、
感情の発達段階に応じて、親から適切なサポートを受けることによって
感情への向き合い方や、対処の仕方を学んでいくものです。

最近の子が、極端に怒りやすくなる一方で、
他の感情が乏しくなっているのは、
気になりますね。

幼児と小学生の環境や接し方への見直しが、
本当に必要な時期にさしかかっているのかもしれません。

私がとても気になったのが、
非常に多くの先生は、今の子が、「好奇心をあまり感じていない、表出していない」とする見方をしていることです。
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「情報が溢れているので、面白がらない。昔は先生が筋道を立てて話しをすると今はすでに塾で教えてもらっている」

「以前、中一は英語の授業中、活き活きとして活気に溢れていたが、小学校から英語を習っている今の中一は、新鮮味を感じていない」

「むかしは手品をすると、その種を教えてほしがったが、
今の子は『ふーん』と言って通り過ぎてしまう。
好奇心はない。喰らいついてくるということがない。飽食の裏返しか。」

「知的好奇心を外に出すのを押さえる。知識の豊富な子がいるからその程度のことを言っても馬鹿にされると思っている」
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といった現場の先生の声が、紹介されていました。
好奇心……ということに関しては、
算数クラブ、科学クラブをして、
初めて参加する子たちと出会うと、

年長さんで、もうすでに、何を見ても
面白くない~実験は義務、工作も義務、プリントの成績は良い、しっかりもしてるし片付けもできる、でも友だちと遊ぶのさえ義務のように見え疲れている~

という「しっかりさん」に会うことがあるのです。

また、4歳くらいで、実験や工作や新しい知的な課題やゲームに
「ぐだぐだ~」っと意欲のない態度をしるす子がいると、
たいてい4歳のその時点までにやめた習い事も含めて、
2つは何かお教室に通った経験がある子なのです。

私が注意深く接しているのは、
4歳ですでに2つ以上、何か習いごとを経験がある~といった子たちです。

独特の冷淡さを持ち合わせていて、わざわざやどかりを危険な場所におくので
可哀相だからやめるように注意すると、
「死ねばいいねん、死ねばいいねん」と、笑いながら友だちと
はやし立てたりします。(そういった複雑さを持った子はひとりではなく、
数名通ってきています)
といって、ふだんは良い子で人間関係能力も高く、お友だちとも上手に遊べるのです。

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サッカーのワールドカップ、すごい盛り上がりでしたよね。
私の周辺でも「応援で徹夜して眠くて眠くて~」なんて声を
たくさん聞きました。
最近ではビデオ録画ができますから、何も仕事に支障が出るような夜更かししなくたって、翌日、時間があるとき見ればよいことなんだけど、

やっぱり気持ちの盛り上がりも臨場感も違うから、
寝不足がなんだ!絶対見逃せない~!

というのが、サッカーファンの思いでしょう。

勝つか負けるか先が読めない状態で、
試合を見るのと、

勝負の結果を知った上で、スポーツ中継を見るのとの

ドキドキする思いや面白さのちがいは、
けっこう誰にでも理解できることなのかもしれません。

けれど、「勉強」となると、
解き方や答えがわかっている状態で学んで、
たとえそれが義務のような訓練のような学習だって、
他の子より楽に先に進めていいんじゃない?
と思ってしまいがちなんですよね。

先行してたくさん知識を与えておくことが、
それが学校教育の範囲を超えて幅広い知識なら
「地頭力」がついたと考えてしまう方もいます。

『地頭力』が育つ幼児期 (シアトルからのお客様)
『地頭力』が育つ幼児期 2

『地頭力』が育つ幼児期 3

『地頭力』が育つ幼児期 4
『地頭力』が育つ幼児期 5
『地頭力』が育つ幼児期 6
『地頭力』が育つ幼児期 7

で、
『地頭力を鍛える』問題解決に活かす「フェルミ推定」 
細谷 功 東洋経済新聞社
という本を紹介させていただきました。

この中で、地頭力に逆行する、
「フェルミ推定が必要な6つのタイプの症状と処方箋」として、
次のようなものがあげられていました。(簡単に要約しています)

★「検索エンジン中毒」の症例 
頭が働くより先に手が動いて検索しているいわゆる「コピペ」族。
その結果考える力が退化している。

★「完璧主義」の症例
不十分な情報では作業に着手できない
精度が低い結果を出すくらいなら何も出さない方がよいと思っている

★「情報コレクター」の症例
常に仮設より先に情報を集めはじめる

★「猪突猛進」の症例
周りが見えず自分の視野で猛進する。

★「セクショナリズム」の症例
全体の最終アウトプットを意識せずに
とにかく自分の範囲だけ完璧にしあげることに専念する

★「経験至上主義」の症例
事象を一般化して議論することを嫌う。他者から学べることはないと思っている。
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子育ての世界でも「地頭力」という言葉がもてはやされていますが、

「検索エンジン中毒」や「情報コレクター」といった

むしろ地頭力を使うときには邪魔になるような思考回路を
幼児に刷り込んでいるように見える場合があります。

それは『地頭力』が、幅広い知識を持っていること
と勘違いされているからのようです。

「考える素材をたくさん持っていること」が、
「考える力があること」と誤解されているのです。

もちろん知識があることや記憶力があることは、
悪いことではないでしょうが、
反射的にそれしかできない子にしてしまうのは危険!と感じています。

子どもが本来持っている、今、必要なことの焦点をあわせて
集中する力が失われ、自分の記憶の情報と、
目にしているさまざまな情報に向かって、
しじゅう気が散っている子をよく見かけるのです。

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話が急に変わるのですが、
ベネッセがおこなった夏の宿題についての親向けのアンケートで、
約4割の親御さんが、
「自由研究」が最も手こずると答えたそうです。

* 自由研究の理科はどうかと思う。実験に失敗したら書けなくてまた別のものをさがしている。
* 自由研究の課題を自分で決めなければならないが、もう少し、先生や学校から、ヒントのようなものがあれば良いと思う。
* 自由研究など、子どもに任せるものについては、せめて手順(調べ方、まとめ方など)を理解させてほしい。白紙の状態で親に丸投げされても困る。

といった親たちの声が並んでいました。

確かにわかる気もするのですが、
もともと勉強って、社会に出て、それまでにやったことがない仕事に着手して、
自分で決めたり、自分で問題を解決したりできるように
子どもを鍛えていくものですよね。

高学年に多い「自由研究」の課題は、
「初めての体験に困る」とか「どうすればいいか自分で悩む」とか、
「何をすればいいか自分で調べてみる」とか、
「わからなければ友達や先生に相談してみる」とか、
「ちゃんとできない自分に向き合う」とか、
「自分のことは自分で責任持つ」とかいう体験をさせるためにあるようなものだと思うのです。

昔の子は危険な川遊びなどで、そうした経験ができましたが、
今、そんな危険なことを子どもにさせることはできませんよね。

せめて子どもが「ちょこっと自由研究で困る」くらいは見守ってあげて、
子ども時代にきちんと「困る」体験をさせてあげないと、
将来の生き辛さを思うと
今の子はつくづくかわいそうだな……と
息苦しくなってしまいました。


学校に通い出したらどんどん勉強嫌いになっていく?  ②

2012-08-22 16:46:40 | 教育論 読者の方からのQ&A
虹色教室では、子どもたちと小さなものから大きなものまで、
さまざまな創作活動をすることがよくあります。
子どもの興味に引っかかったものを、先行きについては『あいまい』なまま
気の向くままに、
その都度、学べそうな要素をいろいろ盛り込みながら作っていきます。
こうした制作活動は、たいていの場合、
いつも最初に期待していたよりも何倍も良い結果を得て終わります。

はじめ結果が読めないのは、その子その子の個性が混じるからです。
子どもによって、作ってるうちに、歴史や地理に強い興味を抱くようになったり、緻密に計算された作品を作るようになったり、根気が伸びたり、
自己肯定感が上って、何ごとにも積極的になったり、
算数や理科が得意になったりとさまざまです。

そんな風にそれぞれが得るものは異なるけれど、
手でする作業と、自分のなかの美を感じる気持ちと接触した後って、
必ずといっていいほど、
期待以上の結果を手にすることになるのです。

何かすごい作品を作ろうと力むのでなくて、
面白そうだ~というアンテナにかかった作業にモクモクと熱中してみることで、
子どもは素直になり、落ち着き、個性的な「自分」という感覚や、
自由な生命力を取り戻すように見えます。

積み木で、幼稚園や小学生の子たちと、
海上のピラミッド モン・サン・ミシェルパルセノン神殿を作ったことがあります。
そうした製作はたった一日の出来事ですが、
その後、教室では、
古代のカレンダー ストーンヘンジ
ピサの斜塔、コロッセオなど遺跡を作る子たちが続出し、
学習への集中力や海外の文化に対する興味が高まりました。

日比野克彦氏と鷲田清一氏は、アートの

絵でも工作でも何かをつくることで、気持ちを共有したり、
コミュニケーションの輪が広がったり、新しい発見ができたりする

という機能に着目しています。

「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」の3つは、
虹色教室でも、製作活動中やその後で起こりやすいことです。

子どもが作品を作ったとき、時折、それを教室に飾っておいてあげると、
「私も飾って!」と言い出す子がいて、
描いたものを「誰か」が見てくれることがうれしくてたまらないという気持ちが、他の子の作品にも興味を持ち、
自分の中にその良さを取り込んでいこうする態度に変わるときがあります。

また、ひとりの子の作品が、たくさんの子の心を揺さぶって、電子工作や歴史的な建造物を作るといったことが流行することがあります。

だれかが発見した科学的な仕組みを、
別の子たちが別の作品で利用することが流行るときもあります。
「新しい発見を発表しなくちゃ!」というワクワクする気持ちと、小さなアイデアが広範囲に影響を及ぼす力に子どもひとりひとりが感動する気もちを持っています。

教室では、自然に遊びが共同制作へと流れていくことがよくあって、
ピタゴラスイッチのような装置ややどかりハウス(だんだん巨大化して屋根つきを作ります)などを、
「ぼくは、ここするから、そっちたのむよ」「これどう?いいでしょ?」「うん、すごいすごい!」といったやりとりをしながら、
熱中する姿がみられます。
完成の喜びが、「磁石について、くわしく調べたい」「恐竜の時代について研究したい」など、強い知的好奇心に結びつくこともよくあります。

製作の場で、
「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」が活性化されることと、
日比野氏の『明後日』の感覚といったものはつながりがあると感じています。

「こういうものを作りなさい」「それぞれ個人で」
など、ルールや先行きがかっちり決まりすぎていると、
ただ作った~で終わっちゃいがちなんですね。
子どもを見ていると、人って個人的に何か上達することよりも、人とコミュニケーションを取ることや、互いに響きあうとき、誰かの役に立ったとき、
認め合ったときに、
一番いきいきするんだなと感じています。良い作品ができたとき、高い点数をつけてあげるより、
「みんなに、どうやったら
こんな風にできるのか教えてあげてちょうだい。
みんなに、どこを工夫したか説明してあげてね!」
と言った方が誇らしげな顔をしているのです。


日比野氏の言葉に、次のようなものがあります。
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そう展覧会でも、「この絵いいよね」という人もいれば、無言で通りすぎていく人もいる。
絵は同じでも、判断は百人百様です。
絵はダンボールに絵の具がのっているだけのものですが、人によっては、見た瞬間に時空を超えることもできる。
それって、芸術の力としては、絵描きの力よりも見る力のほうがすごいんじゃないか。
それで、だんだん、見る力のほうに興味が移ってきました。
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子どもに創作させるとき、「わが子が何を作ったか?」「他の子より上手か?」という点だけ気にかける親御さんはいるのです。
でも、本当は何も作っていなくても、他の子の作品を「見る」だけでも、
見る力が高まっているんですよね。

「見る」力だけでなく
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ で取り上げた
さまざまな力が、製作をお友だちと共有しあう場では、向上するのだと思います。

脳への「入力」自体が変わる、と言っても過言ではないのでしょうね。

日比野氏は美術を日常のなかに機能させる機会を広げることを、
自分の役割と感じておられます。

美術を日常のなかに機能させる大切さって、すごく感じた出来事があります。
去年、母の死の後、
私は母への供養の意味もあって、曼荼羅風の絵を何枚も描きました。

どうして曼荼羅かというと、
母が末期癌におかされて入院中、「暇つぶしに」と、
色鉛筆のセットと分厚い曼荼羅塗り絵というのを持っていったことがあるのです。
母は、クリスチャンだったので、曼荼羅とかかわりがあるわけじゃないのです。ただパッチワークが好きだったので、
曼荼羅が母の縫うパッチワークのパターンのようにも見えて
買っていったのです。

数日後、入院先を訪れると、母のベッドに
向かいのベッドの人がやってきて、
「○さん、ありがとう。2枚も塗らせてもらっちゃったわ。心が落ち着くわ~ほんとに楽しいわね~」と言って、例の曼荼羅塗り絵を差し出しました。
母に塗り絵の進行状態を見せてもらうと、何十ページももう塗られていて、
メモの欄に、病室の人らしき名前や看護士さん、実習生の方などの
名前がつづられていました。

塗り絵の隙間には、○さん(母)に出会えて、私は感動しました。この塗り絵作業に(勝手にプロジェクト化していたのでしょうか?)
参加させていただけて、どんなにうれしかったか……といったメッセージが、
看護の実習生や看護士さん、病棟内の友人によって、いくつもいくつも書かれていました。

この曼荼羅塗り絵は母の形見としてもらおうかと思ったのですが、母が旅立つとき棺の母の顔の傍らに入れさせてもらうことにしました。

母のいた病棟は病が重い人が多くて、
暗い気が立ち込めているような感じがあったのに、
きゃっきゃっとはしゃぎあう高校生たちのような
雰囲気で、塗り絵をしてよろこんでいる病棟の人々の姿と、それぞれの個性が
あらわれる色遣い、タッチなどの面白さが
今も目に焼きついています。

私も、スケッチブック一冊分、曼荼羅の絵を描き続けて、
ようやく母の死を静かに受け入れられる心境へと移っていった
気がします。

アートの力すごいですね。

病棟の空気を一新したアートの力が、子どもたちの無気力な心に
変化を起してくれないかな?
とそんな夢を抱きました。
 
 
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子ども時代、私を「本好きにさせよう」という意図を持って
接する大人はいなかったけれど、
その人の存在から本への愛情が溢れてくる大人というのはけっこういました。

昔の大人たちの姿を思い返すと、
今のように、まるで全国チェーン店の統一規格を順守するように、
「図書館司書」してます~「先生」してます~、「親」してます~、
なんて人はめったにいなかったのですよね。

今は図書館に行ったら、司書の方は画一的に決まった図書館の仕事をきっちりこなしているわけですが、その言動に、
子どもたちに「本の面白さを伝えたい」というような
個人的な気持ちがにじみでるような場面ってまず見かけません。

でも、私の子どもの頃は、
もうちょっと自分らしくて自由な職業人や親がいっぱいいて、
子どもに対して、ちょっとおせっかいで親切でした。

ですから、図書館に行けば、図書館の司書の方々にかわいがってもらえて、
相談に乗ってもらったり、本を薦めてもらったりできて、
いつのまにか本の世界にのめりこんでいくということがありましたし、

友だちのお母さんが、私が本が好きだと気づくやいなや、
自分の子他人の子なんて枠を超えて、遠方の図書館までわざわざ連れて行ってくれたりしました。

小学校の教室には、学級文庫として、図書室からピックアップしてきた
担任の先生オススメ本が何冊か並んでいて、
終わりの会で、先生がその本の魅力をおもしろおかしく解説してくれるのです。

すると、どの子もいてもたってもたまらないほど本が読みたくなって、
「きりつ れい さようなら~」と終わりの挨拶がすむやいなや、
ダーッと学級文庫の棚に駆けて行って、本の奪い合いです。
今思うと、星座の本とか堅苦しいものも多かったのです。
でも、奪い合うから、どれも魅力的に映っていたものです。

コミュニケーションがもたらすものがもっと信じられていたというか、
きちんと機能していたというか……
人から人へ、
本の面白さや学ぶことの魅力や物作りの楽しさが
言葉や態度や、いらんおせっかいとして、
子どもに伝えられていたし、子どもだって人間だから「口コミ」に弱くって、
「なになに?」と話に乗るうちに、いつの間にか、
読書や製作や学習にはまっていくところがありました。

こうした話を書くと、「今の学校では不可能」とか「今の図書館では不可能」とか、全国で統一規格にできそうにないから……という理由で、
よく考えてみもせずに、意識から排除してしまう方がいます。

私は、みんなで足並みそろえて「目に見える何か」をしなくたって、
誰かが、ちょっと自分の「遊び心」や「子ども心」に自由を与えて、
何の得にもならなくたって、
「他所の子が喜ぶ顔がうれしい」「他所の子が意欲的にがんばるようになるのもうれしい」という気持ちを抱くだけでも、
現代の子どもたちの環境は、飛躍的に温かいものに
変わっていくと思うのですよ。
そうして愛情を与えられた子が他の子に優しさや学びへの意欲を伝えて、
そうしてめぐりめぐってわが子も成長していくことに
なると思うのです。

かつては、親にしても、誰々ちゃん、誰々くんのお母さん、お父さんという部分と、
「誰々~の」がつかないただの「大人」の部分も残っていて、
他所の子も自分の子のように扱うことがある分、自分の子に密着する感じは薄かったです。

といっても、私が育った次代は、★教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 6で書いたように、人間関係が希薄でゆがみを持ち始めた頃でもあったのですが……。

以前、次のような記事を書きました。
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昔の親たちは、
現代のように教育から幼稚園選びから子どもの服選びにいたるまで、
熱心だったわけでも、上手だったわけでもありませんが、
あんまり不安も抱かずにそこそこに子育てしていました。

やんちゃでやんちゃで、虫やかえるを次々殺したり、
勉強もせずにけんかばっかりしているような子も
男の子はどの子もそんなもの~と見過ごしていれば、
立派な大人になって、ちゃんと働いているもの……
その程度の子育てスタイル、子育て観で十分、世間に通用していましたし、成功もものにできました。

何で昔の人はそんなにも大らかに子育てできたのでしょう。

その理由のひとつは、子どもを何のイメージに重ねていたか?にあるように思えます。
農業や牧畜が主な仕事だった時代は、
『生命あるもの』『変化するもの』の育ち方に、子どもを重ねて見れたのだと思います。

小さな竹のこが、ある時期が来れば人間の背丈を越えて、大きく成長することを知っていれば、
毎日竹の子が何cm何mmか?と測っては、
根腐れするほど肥料や水をかけるのがどれほどバカバカしいか検討がつきます。

いくら良いとこ取りでいろいろ取り入れたらいいといったって、
パン種を膨らます前にちょっとでも焼き釜に放り込んでしまえば、問題があることくらいわかります。

物にはタイミングや時期があること、たとえ良いこと良いものでも、
そうしたタイミングが狂うと、とんでもない問題につながること。
自然の動植物に近い子どもは、あるがまま、その自然な成長を信じることが
一番なのだ。

と昔の人は体験的に知っていたのでしょう。

なら今の子育ては、何の上に子どもの姿を重ねているのでしょう?

私には、買い物で手に入る『商品』に子どもがイメージされているように感じてなりません。
完全装備でいろんなアイテムつきで売られている『お子ちゃまロボット』です。

親同士、公園や習いごとの場や幼稚園や学校で、自分のおもちゃを披露し合い、

新たに自分が付け加えたワザやら、
おしゃれアイテムや
バイリンガルやら素早い計算といった付加価値を

見せ合いたい、自慢しあいたい、
自分たちの目の前で動かしてみて
動作確認がしたい、新しくアイテムを加えて満足したい

そんな思いが渦巻いているように見えるのです。

ですから、親たちのまなざしの中で、
子どもはそれぞれの個性を持っていて、自分のペースで、
何が自分に必要か、何を自分の願いとしようか……と
たくさんたくさんの失敗と
挫折感、思うようにならない現実の中で自分でそれらを発見し
たくましく成長していく『生命あるもの』のひとつではありません。

たとえ相手が赤ちゃんでも、園児でも、
今、目の前で、完全に自分が思い描く子どもの姿通りの動作確認ができないんだったら、
不良品だわ、返品したいわ、絶望的だわ、
とんでもないものを買っちゃった……

という気分に落ち込んでしまいます。

どの子も天才に変えます!なんて謳っている工場があるのなら、
心なんて、ばらばらになってもいいから、放り込んで何とかしてもらいたい!
と必死に考えてしまいます。
だって『お子ちゃまロボット』は、みんなからすごい!すばらしい!と
賞賛されるためにあるのですから、
心なんて必要ないのです。
行為あるのみ、動けばOKです。

それならば『お子ちゃまロボット』である現代の子どもが、
一番望んでいる『親からもらいたいまなざし』というのは
どういうものなのでしょう?

『ピノキオ』を『人間の子ども』に変えた魔法のように

『お子ちゃまロボット』を、『自分の喜びや願望や意志や意欲を持った普通の人間の子ども』に変える魔法ってあるのでしょうか?

子どもが望んでるのはコレじゃない? って、
私が思うのは、

「たとえ、世界中の人があなたにダメ出しをしたって、
お母さんの目に映っているのは、この世にたった一人しかいない
誰と交換することもできない 比べることなんてできない
すばらしいあなたよ。
だれかがあなたに嫌なことを言ったって、
お母さんにはあなたの欠点も足りない部分も愛しく感じているわ。」

というまなざしです。

子育ての不安をなくすには、親ばかになるのが一番なのでしょうが、今やこの自称親ばかの方々も、子どもの将来を案じて不安でいっぱいです。

親ばかって、子どもを自分の自慢材料にすることでも、
着飾ることでも、贅沢させることでもないはず……。

真の親ばかは、
現代、子どもたちに注がれ続ける
検品作業でもするようなたくさんの大人の視線を跳ね返して、

親はその子どもの唯一無二のたったひとりずつの男親、女親として、

『子どもがあるがままに存在するだけで
どれほどうれしく幸福を感じているか』
『親の目の中には子どもがどれほど完璧ですばらしいものとして映っているか』をわが子に伝えられる方々の
ことだと思うのですよ。

そうして、欠点をなおしたり、足りない部分を補ったりする仕事は、
子ども自身が、
自分でさまざまな経験をする中で欠如感を味わって、
直していく決意をし、努力していくのに
任せられる方々なのだと思います。

そんな風に親が真の親ばかになれたなら、

いつの時代になっても、
子育ては気楽で楽しく、
最後には親にも子にも成功が約束されているものになるのでしょう。

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子どもたちが、親にとっての「お子ちゃまロボット」でも、
企業にとっての「シックスポケットを持つ金の成る木」でもなくて、

「地域の子ども」「社会の子ども」「未来の大人」として、
ナチュラルに愛されるとき、
子どもにかかった無気力という悪い魔法は解けるのかもしれません。

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わが家から小学校まで歩いて2分ばかりのところです。
ちょうど学校から歩いて2~3分というあたりが、小学校の校区となっていますから、
うちの子が小学校のときは、
「家を出ても、右方向に歩いちゃだめよ。数歩歩いたら校区外だから」
と言っておかないと、校区外に出てしまいます。
それで、ちょうどうちの前の道路を駅に向かって帰宅中の先生方に見つかって、
「校区外で遊んじゃいけません」という注意を受けることになっていました。

なら、右以外の方向に行けば、校区内に何があるのかといえば、
基本、「道路」です。
仕方がないので、まじめな子たちは道路で遊んでいましたよ。

また近所の公園は、幼児向けの遊具がいくつかと、「球技禁止」の看板があって、
ここで小学生に一体何して遊べというのか疑問なのですか、
あっちもこっちも「球技禁止」の看板がかけられるようになる前は、
野球かサッカーをして遊んでいた子たちが、
遊具の影でずらっと腰掛けて、携帯ゲームにいそしんでいました。

近所で唯一、小学生や中学生が健全に遊べる場として、
児童館内に卓球場があったのですが、
あるとき、市の政策で、「子育て支援の幼児サークルなどで使うことになったので、大きな子たちは児童館への立ち入り禁止」となりました。
行き当たりばったりの政策で、卓球場を他に移転するわけもありませんから、
児童館の常連組は、
コンビニの前で、チキンやポテト(コンビニで買えます)片手に、自転車にもたれかかって何時間もしゃべっているのを見かけるようになりました。

不謹慎なのですが、
こうなると、環境破壊で食料や住居を奪われた
猿やクマや猪が、人里におりてきて悪さをするニュースの映像と
人間の子どもたちがだぶってしまいました。

学校も親も「ゲーム脳でバカになるから、携帯ゲームはしちゃだめ」と言い、
「家に友だちを連れて来るな」と言い、
「図書館は校区外だから子どもだけで行っちゃだめ」と言い、
「忙しいから図書館に連れて行ってあげるのは難しい」と言います。

習い事の後で寄り道しないよう、
居場所がわかる機能のついた携帯電話を持たせていますから、
子どもができることから、しちゃいけない選択肢を順番に引いていったら、
家の中でひとりでテレビゲームをすることしか残っていないわけです。

「そんな子どもの姿にイライラして、
子どもに文句や嫌味をたれながしつつも、
他の遊び場の選択肢を広げようとまでは思わない」

「お金さえあれば、子どもを習い事に送り込んで置けるし、
習い事後に宿題のプリントをさせておけばすむわけだから、
解決策はお金だと思っている」

そうした親御さんたちが大多数ですから、
「校区外にでちゃいけません」「~ちゃいけません」の縛りを破って、
少しばかり冒険しよう、親から自立していこうと思えば、
中学に入学するのを契機に、
ちょっと非行グループに足をつっこむくらいしか方法がないのですよね。
子供同士、野球しながら、サッカーしながら、卓球しながら、ちょっと遠出したりしながら、
揉めたり仲直りしたり、強くなりたいと願ったり、ピンチを協力して乗り越えたりして、たくましく成長する道は絶たれているのです。

実際うちの近所の子たちは、
「え、あの子が?」というまじめな子たちが、中学に入るとたちまち
そういうグループに参加して、自転車の二人乗りをして、後ろに乗ってる子がタバコをくわえてみせたりしながら、ぐるぐる地域を回っています。

昔はちょっと悪ぶっちゃう「強い子」が非行に走ったものですが、
最近では、ひとりじゃ親や先生に反抗できない「弱い子」が非行に走っている
感じです。
規則や決まりに隙間やほころびがないから、
反抗期も大変になっているのかもしれません。

こういう現状を眺めながら、
もともと子どもに良い環境とは言いがたいものを、
どうしてわざわざさらに悪い環境になるように大人たちがこぞって努力していくのか、
私には不思議でなりませんでした。

その背後には、今時の人たち特有の「ポジティブシンキング?」
な考え方と、「身体感覚」のなさがあるような気がしています。

今時と言わず、うちの親や子ども時代の近所の人々も、
恐ろしく「身体感覚」がなく、
独特な「ポジティブシンキング?」な考え方で、突っ走っていた記憶があるものの、当時はまだまだ子どもをめぐる環境が豊かで、多少の破壊行為に耐える余裕があったのです。

昭和40年代の親たちって、誰々ちゃんが習い事を始めたと聞くたび、「じゃあうちの子も……」と次々習わせて、「疲れてやる気失わないか」とか「いったい何がさせたいのか」にはまったく思いが及ばない……
という特徴がありました。

イメージの世界と現実がきちんとつながっていない感じが、
大人の言動からにじみ出ていて、
子どもながらに、「お母さんたちって少女漫画界の住人なんだ……」
「お母さん、それはドラマ!」って、危惧する状況がありましたから。

考え方がポジティブと言えば、ポジティブで、
とにかく今、自分が「正しい!」「いい!」って感じて、
スポットライトを当てているもの以外は、
ちょっとでも疑問を差し挟もうなら、
「今はまず、これに集中するときでしょ」
「ネガティブなことを考えないの」
「そんな後ろ向きなことじゃだめ」
「せっかくよい感じの空気が乱れるわ」といった感じに、(言葉にまではしないものの)
いっさい見ないし、感じないし、聞かないし、存在しないものとして扱えてしまうのです。
自分が今、「正しい!」「いい!」って思っているものが、それまで作ってきた生態系を崩すことになっても頓着しないのです。
今は、まず考えるよりも、それをすることこそ、大事なんだ!って、
自分自身も信じ込ませてしまうのです。
(よくわからないけど、ポジティブシンキングの仲間らしい……。)

そんなうちの親たちの姿を思い出すと、
「子育て支援が大事だから」って思えば、
「卓球場を利用していた子どもたちの存在を見えないもの」として
簡単に扱ってしまえる人々の気持ちが、
わからないでもないのですが……。
悩むところです……
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
私の通っていた小学校の校長が宝塚歌劇のファンだったからか
関係ないのか、低学年から高学年まで、たいてい「お楽しみ会」というのがあって、班ごとに劇や手品といった出し物をすることになっていました。
私の住んでいた吹田市は、
まだまだ開発しはじめたばかりで自然がたくさん残っていて、
同じクラスの友だちの多くは、山道をたどって、一山超えた先に住んでいました。
山道の脇は田んぼと墓場で、人通りもなく気味が悪いので、
普段は山を挟んであっちの子たち、こっちの子たちで
遊んでいました。
けれども、この「お楽しみ会」の班分けは、
容赦なくいろんな地域の子が混ざっていましたから、
山の向こうの子から、隣駅の関西大学の前のマンションに住んでいる子まで同じ班ということがありました。

子どもたちは、それぞれの家を順番にまわりながら、
出し物の内容を決めたり、劇なら脚本を書いたり、小道具作ったり、練習したりしていました。
かなり仲が悪い男の子の家に集まることがあっても、
「あ~やだな」とため息つきつつやり過ごせてましたから、
当時はそういったことが可能だったし、嫌なこともそれなりに自分たちで
乗りきる力があったんですね。

それぞれの家に行くと、それぞれのお母さんがいて、
子どもたちへの接し方は十人十色です。
放りっぱなしで子どもらまかせの親もいれば、
「エルマーと竜」という本を読みながら、それをお母さんが脚本になおして、子どもたちに劇の練習をさせる人もいました。

なかには、ちょっと困ったお母さんもいて、
「私の家を使ってちょうだい」とお菓子やジュースまでふるまって
世話をしてくれるのはいいのですが、
自分の娘を主役のお姫様役をするよう
私たちに圧力をかけてくるのです。
すると、うちの親やら、同じ班の他の子の親やらが集まって、
「なんて悪どい手口~!!」と陰口をたたいていました。

私にすれば、わが子かわいさに、「お楽しみ会」の後には、
自分の子がチクチクみんなから
嫌味言われていじめられることも省みず、
自分の子を主役にしようと奔走する母親も母親なら、

どう考えたって、「主役したい!」とか「お姫様したい!」なんて
願っているわけがない自分の子(私)を前にして、
友だちの親の陰口三昧(めったに人の陰口を言う母ではありませんでしたが、このときは妙にしつこかったです~)をしたあげく、
「順番に主役をやらせていきましょうよ」なんて、
私にとっては、「何が何でも嫌!!」って、結末に持っていこうとした
私の母も母でした。

ただ、校区が、山を挟んでますし、隣駅までかかってますから、
そんな母親パワーも、いつのまにか拡散して、
しばらくすると、また子どもに好きなようにやらせっぱなしの状態に戻りました。
それに当時は親がちょっとクレームつけたからって、
学校の先生が大騒ぎして子どもの生活に割り込んでくることはありませんでした。母親なんて、ちょっと気持ちがざわついたら、何かにクレームをつけたくなる生き物ですからね……。

幼稚園の頃からの私の夢は、
児童文学の作家になることでした。
それで、お楽しみ会では、毎回、企画と劇の脚本作りのポジションを得るために
必死でした。

だいたい、このポジションは人気がないため、
黙っていても自分のものになりやすいのですが、
他の班がテレビドラマの真似っこばかり出し物にしはじめると、
私のやりたい正統派の絵本をペープサートで演じられる内容に演出するとか、
自分のオリジナルのストーリーを採用してもらいたいとなると、
ちょっと工夫もいりました。

みんなが熱心に「何をしようか」と話あっているときには、
私は黙っていました。
ひとりが口を開くと、数名が反対して……を繰り返すうち、
どの子もめんどくさくなって、
気持ちはおやつや遊びの方に移っていって、
「もう何でもいいわ、早く決めようよ」となったところで、
私の出番で、
それまで準備していた案を「これでもか~」と出して押し切って
このポジションを得続けていました。

「あおくんときいろちゃん」の絵本を、セロファンを利用して演じたり、
自分の作った「ケーキどろぼう ドタバタ劇」を、吉本風に演出したり、
かなり心に残る出し物ができて満足でした。

長い子ども時代の話で言いたかったのは、
ここにもあった『明後日』の感覚で、
主役を持ち回りでするとか、
こうしたら苦情がでないから、こういうルールにするとか、
カッチカチに決まりで固まってしまわなかった分、
楽しかったな~何か学べることがあったな~という思いなのです。
 

学校に通い出したらどんどん勉強嫌いになっていく?  ①

2012-08-22 16:41:36 | 教育論 読者の方からのQ&A

『明後日(あさって)』の感覚って聞いたことがありますか?
アーティストの日比野克彦氏が、哲学者で大阪大学総長の鷲田精一氏との
対談中に使っておられた言葉なんですが、
目にしたとたん、
「良い言葉だな~」という感動を通り越して、
自分の生きてきた方法とか、やってきたこととか、考えてきたこととか、
そうしたもの全てに太い一本の芯が通って、
「あ~、私はこうした感覚を大事にしてきたんだ」
と納得したような気持ちになりました。


日比野氏が、

明日のことはある程度はっきりわかる。1ヶ月後のことは全然わからない。自分の絵の描き方やワークショップなどの共同作業は、
ちょうど、「明後日」のように、ぼんやりと大まかなところだけわかっている感じなんです。
……(中略)ある一つのアクションが次のアクションを生み、この人と出会ったから、このアクションにつながっていく。
いつもその連続です。
絵も同じで、大まかな方向性はありますが、「黒い線を描いた、この次はどうしよう」と、まず一手を描かないと次の一手を思いつかないものです。……(略)

と、アーティスト自身が先行きを正確に把握しないまま進んでいくプロジェクト
について、「明後日」の感覚という言葉で言い表したところ、

鷲田氏が、

そういうプロセスには、「新しい社会性」とでもいうものを模索していくヒントがあるような気がします……(続く)

といったこと答えておられるんです。

以前、教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 1
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 2
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 3
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 4
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 5
教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 6
という一連の記事を書いて、教育の場に、『ブラックボックス』という言葉が必要なのでは?……といったことを書いたことがあります。
子どもたちが、ブラックボックス化する世界に生きていることを無視したまま、、パソコンや携帯ゲームや、○○○計算や○○時間といったよさげ~な方法だけ取り入れても、子どもたちが主体的に勉強していく方向には、
機能しないんじゃないかな?
という疑問を言葉にしたものです。
(多くの方が、同じようなことを考えていたそうでした)


日比野氏の『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、村上陽一郎氏の『ブラックボックス』という言葉を目にしたときと同じような強い衝撃を受けました。
そして、この『明後日(あさって)』の感覚という言葉もまた、
「教育現場に必要な言葉じゃないかな?」
「子どもが意欲ややる気を取り戻すキーワードじゃないかな?」という
思いにかられました。

虹色教室で子どもたちに学ばせているとき、私には、
どうすれば子どもたちのやる気や意欲が盛り上がってきて、知りたい!調べてみたい!もっとがんばりたい!という気持ちになるのか、
だいたいのところ勘でわかっているんです。

それは、「自分は既存のきまったコースをなぞってるだけじゃないんだ」という感覚……というか、
「ある方向性はあるけれど、進んでいく先はガチガチに固まったもんじゃないんだ」
「自分のアイデアや考えや発言が、未来を変えてく影響力を持っているんだ」
という感覚でレッスンを受けているということです。

教室で、時々、にんじゃブームとか、日本全国のゆるきゃらを覚えようブームとか、宇宙の実験ブームとかが巻き起こるのですが、
最初の火付け役の子たちの時期には、
黒い布切れにもぐって宇宙気分を味わうことから、宇宙への興味が膨らんでいくような、教材は整ってないし、やることは見えてないしで、
言わばレッスンとしたら、「レベル低い!」状態なんです。
でも、そんなカオスな時期こそ、子どもたちは、「こうしたら?」「これしたい!」「なんでだろ?」と主体的に自分で動いて、それは熱心に学びたがるんです。
そのブームが飛び火して、他の子たちの興味も加わるにつれ、
私は子どもたちがワクワクして熱中していた学習課題を扱いやすい教材にして、
「宇宙」といったタイトルのついた箱の中に溜めていきます。

すると、大人の目には、箱を開けるだけでワクワクするような
教材パックができあがるんです。
もたつかずに、「わ~」っという感動や、
「そういうことだったのか」という知識を得るのも手っ取りばやくて、
大人は満足。
でも、最初の子たちに比べたら、ものすごく良い教育環境……のはずが、
後の子たちほど、しら~っとやる気がない状態に陥ってしまいがちなのです。
そこから、発展させて自分で調べてみようという気持ちになりにくく、
「見て、不思議でしょ?」と、笛吹けど踊らずという状態です。

同じように見えるけど、
むしろ、後の方がよっぽど魅力的なのに、
何がどうやる気や意欲を半減させるのでしょう……?

大人が何日も前から事前に準備していた魅力的なプロジェクトよりも、
下の記事のような3歳の子のふとした発見の方が、どうして子どもたちの探求心に火をつける場合があるのでしょう?

★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 1
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 2
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 3
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 4
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 5

子どもの意欲ややる気の盛り上がりって、ランダムでその日のお天気で決まっているように見えて、
やっぱり言葉にして整理できる一定のルールが存在する気がしています。

うちの息子が、小学3,4年生の頃、
ビデオカメラ片手に友だちと映画を撮ることに熱中していたことがありました。
上映会というのに、引っ張っていかれて見たら、
期待以上の面白さで、
「今度、もっと良いのができたら、公募に応募したらどう?
映像作品の募集がないか調べてあげるわ」と言ったことがあります。


すると、息子は呆れたように、
「お母さんは、遊びってものがわかっていないな~。
何かのためとか、結果とか気にせず、自由にやるから遊びで、
だから面白いんだよ」
と言い返されたことがあります。

子どもって、もともと功利的じゃないんですよね。
「遊び心」が汚されていない場や時間の中ではじめて、
いきいきと自分を発揮できるし、
思いきりがんばれるし、頭をしぼりきって考えられるのでしょう。


それと、遊んでいる途中で、映画作りが、探偵ごっこに変わるかもしれないし、
まったく別の興味へと流れていくかもしれない
という未来が固定されていない感じが、
今の集中や全力投球を支えているのでしょう。

そういえば、昔、私が通ってた小学校や高校(中学は荒れてました)は、

きちんと学校としての秩序は保たれていたけれど、日比野氏の言った
『明後日(あさって)』の感覚というものが、いろんな場の底流に流れていて、
私たちの好奇心を持続するのに役立っていたな~と思いあたりました。

 

私が、この『学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく?』なんて、
衝撃的なタイトルをつけた理由は、
神戸女学院大学文学部教授の内田樹氏の著書『下流志向』で、
勉強を嫌悪する日本の子どもとして、次のような一文を目にして、
何だか心に引っかかっていたからなのです。

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子どもたちが勉強をしなくなっているということはメディアも繰り返し報道しておりますからご存知だと思います。
手元の資料はちょっと古いのですけれども、岩波ブックレットのものです。九十九年ぐらいまでの数字しか出ておりませんが、
その後も新聞で報道されているはずですから、
このIKA(国際教育到達度評価学会)発表の数値はおそらく下がりつづけていると思います。
このデーターからわかるのは、日本の子どもたちは今や
世界で最も勉強しない子どもたちになってしまった、ということです。
         (『下流志向』内田樹 講談社文庫)

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私も、子どもたちが、小学校に通い出してから、次第に学習が伸び悩んでくることについて、過去にこんな記事を書いたことがあります。

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地域の親御さんたちの集まりに出たとき、

利発でハキハキした幼児を育てている親御さんに
小学校高学年や中学生の子を持つ親御さんたちが、
「かしこいのは今だけよ~小学校に上ったらどんどんフツーの子になるから…」
とアドバイスしているのを聞いたことがあります。

この先輩母さんたちは、
別段、意地の悪い気持ちからそうしたアドバイスをしているわけでもなくて
よくある事実…自分たちが経験したことをそのまま口にしているだけなのです。
現実に幼児期に輝いていた子たちが
小学校生活を送るうちに
ごくごく平均的な能力の子に近づいていく…のはめずらしくありません。
小学校受験を終えて、有名な私立の小学校に通っているという子も
同じような道をたどるとよく聞きます。

私も月一度の工作教室をしていたころ、こんなことが何度かありました。
幼児期には言語力も思考力も発想も巧緻性もずばぬけているな~と感じていた子が小学生になった後、
親御さんとお会いしてお話すると、
算数や国語の成績も普通で、あれから工作をすることもない…とおっしゃるのです。
とても賢い子ですから、それは一時期のことで、
高学年、中学生になると伸びてくるのかもしれません。

それにしても、なぜ幼児期に能力が高かった子が
だんだん学力が平均化していくのでしょう?

私は小学生の暮らしや遊びから
脳に良いもの 脳を育てるものが
どんどん失われているからではないかな…と感じています。

塾や習い事に行っている時間が長いと
頭を使っているように錯覚しますが、
実際には脳の一部分を慣れによって鈍らせた形で繰り返し使っていることの方が
多いと思います。
主婦にしてもパートで同じような作業を繰り返していると
しんどいし、確かにその仕事の効率は良くなり技術もマスターするでしょうが
脳そのものが高度になるわけではないですよね。

私が子どものころは、小学○年生 の付録は
説明書とにらめっこしながら何時間もかけて作らなければならないものばかりでした。
田舎に帰省すれば将棋や難しいゲームを習って
年上の子のグループに入れてもらってました。

小学校ではあやとり、シャーリング、編み物、お手玉、読書などが
休み時間のみんなの楽しみでした。
放課後は友だちといろいろ計画しては実行し、失敗しては学びました。

遊び時間も長かったから話したいこともたくさんあって
「せんせい あのねという作文帳には
毎日書きたいことがたくさんありました。
親に聞いてもらいたいこともたくさんあったし、
友だちとじっくり話すこともいろいろありました。
先生に読んでもらったお話は、そのまま妹や近所の幼い子に
話してあげていました。
また暇な時間がたっぷりあったので、読書もずいぶんしました。
特にかつての子が賢かったわけでもないでしょうが、
塾に行く子なんてめずらしかったけれど、学校の勉強についていけない子はほとんどなかったように思います。

それが最近の小学生の暮らしや遊びは、

話す 表現する 相談する 友達に習う あこがれる 
聞く 読む 書く 見る 考える 改良する 発想する 想像する 推理する
作る 学ぶ 感じる 感じたことを伝える 選ぶ 反省する 計画する
熟練する 達成する

など…放っておいても小学生が内側からの衝動で
自然に発達させようとするものを伸ばせる
時間も環境も精神的な基盤も
貧しいのです。
そうしたものの代わりに
テレビやビデオや携帯や携帯ゲームや習い事などが
隙間を埋めています。

私は、小学生には、表面的な成績につながりそうな勉強や
外から評価される習い事の技術を上げることにばかりさせるのでなく

脳を育てる

という観点からのアプローチが大事なのじゃないかな? と思っています。

それは、その子のやってみたいという活動…
(ビーズのアクセサリー作りやキャンプでも秘密基地作りやお料理など)
にじっくりかかわらせてあげることです。子どもは自分の脳に必要な活動を
その時期ごとにやりたがりますから…。
その後、親子で言葉を使って感想や感動を伝えあうと
良いのではないでしょうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上の記事に対して次のようなコメントをいただきました。

「正しい生活習慣や道徳教育、豊富な自然環境、
内側からの衝動による主体的な遊びをたっぷり…
などだけで、勉強という意味での学力がつくかというとそうでもないような気がするのですが、
どうでしょうか?

最近その様な事を考えていて、先生の少し前の記事
『2、3歳児の遊びを知的な学びの世界につなげるには」
というような事がとても重要なポイントなのではないかな、と感じています。』



とても大切な指摘だと思います。
そうなんです。小学生の生活や遊びに豊かさを取り戻してあげることは大切。
でもそれだけでは、まだ足りないものがあって、
いろいろやらせたことが、そのまま学習意欲に結びつくかというと
わからないですよね。

うちの子の小学生時代、子育て環境をナチュラルで良いものにしよう~と
がんばっている方々と、
よく交流していました。いくつかの親子のサークルにも参加していました。
いっしょにキャンプに行ったり、
子どもたちに演劇を見せたり、泥んこ遊びや手芸や料理をしました。

確かに、そうした活動は子どもたちをたくましくも
自発的も利発にもしているようでした。

けれど私は何か物足りませんでした。

ひとりひとりの子どもは個性的で魅力的な子なのです。
ただ親たちのがんばりが、
子どもたちのやる気や活力に火をつけているというより、
空回りしているような、大人と子どもの温度差を感じたのです。
イベントの合間に、子どもたちがずらりと並んで、マンガを読んでいる姿にも
少し引っかかりました。

何が物足りなかったのか……と言えば、

子どもたちのエネルギーがいつも分散してしまって、
知的なものや、自分自身を向上させていく方向に
つながっているように見えなかったのです。

参加している子どもたちはそれぞれ塾や習い事にも通っていました。
そうして豊かな体験もして…それでも、ひとつひとつのイベントが、
あ~面白かった~で終わっていくのはなぜなんだろう?
と感じていました。

エネルギーが分散してしまう…
そう感じた理由は、
子どもたちが、自分を、
肯定的で将来さまざまな可能性が花開いていく存在として
イメージしていないように
感じたからです。
小学生の中学年くらいで
30代後半の主婦のつぶやき…みたいな自分へのあきらめの
言葉があるのです。
またあこがれて自分の将来のイメージを重ねられる人物が、
いないようなのです。

自分という核がない感じ

これは現代の子に共通するものなのかもしれません。

勉強してがんばって自分を大きく成長させたい 夢を実現させたい
という意志のない子に勉強をさせることは、
難しいです。
エネルギーの方向が
これから訪れる未来の方向に向かわずに
今すぐ受けれる快感のところでとどまっている場合、
いくら周りが熱くなっても、本人のやる気は年々冷めていくのではないでしょうか。

多くの親御さんは
子どもが何かできるようになることにはとても興味を持っています。
能力が他人からどう評価されるかにも関心があります。

けれども
子どもの心が何を欲しているか
夢見ているか
あこがれているかに無関心な方は多いです。
学習に対する意志や意欲を高めるよりも
義務でがんじがらめにして、やらねばならない状態を作って
子どもを操作する方が手っ取り早いと感じている方もいます。

子どもを操作したくはない
それに操作してもうまくはいかない…

ならどうすればいいの? と悩んでしまいますよね。

私は学習に対する意志や意欲は、

適度な飢餓感から生まれるように感じています。

食での飢餓感ではありません。
さまざまなものが与えられすぎたり、環境が整いすぎたり、何でもできすぎたり、ほめられすぎたり、やることが最初から決まっていたりせずに
ちょっと足りない、物足りないという経験から生まれる飢餓感。
それが
足りないものを補おう、欠如感を埋めようという気持ちや、
より良い状態にあこがれる気持ちを育くむように思うのです。

刺激が強くて、何でもすぐ満たされる生活をしていると、
地味な活動には少しも心が動かなくなります。でも勉強って本当に地味な作業の連続でもあるんですよね。

例えば、質のいい学習ソフトが出てるので、DSで勉強すると手っ取り早く知識を吸収することができます。
けれども、そうした学習法を繰り返していると、

地味に紙工作をするときのように、刺激が少ない対象に自分から創造的に関わっていこうとする態度が失われるように思うのです。

とにかく勉強って、
どこまでいっても『地味』な相手です…。

それを好きになって、何年間も努力し続けよう…と思うなら、

自然の不思議に心を動かされたり、
手作業をすることに心地よさを感じたりするような
今の時代を逆行するような地味~な感性が必要だと思うのです。

みんなからスポットライトを浴びて表彰されなくても、
親から認めてもらったり、好きな先生からちょっと褒められることに
喜びを感じられる感性が必要だと思うのです。

知りたいな~なぜだろう!という欲求が満たされたときの満足感。
自分のできるようになったことを、お友だちから「教えて~」と頼まれるときの誇らしい気持ち。
ひとりだけできなかったことを、何とかがんばってできるようになったときの達成感。

教育産業の都合や大人のエゴに絡んだものが、子どもの世界を引っ掻き回さなければ、いつの時代の子も、学習にリンクしていくそうした地味~な喜びを、心地よく感じる存在です。

でも、今の時代、先に強すぎる刺激を受けすぎると、(食前にお菓子を食べてしまったときのように)地味~な喜びを感じる感性が鈍ってしまうのではないでしょうか。

子どもの脳を育てるためには
環境と遊びが大事♪

でもそれだけでは足りないですよね。

何が足りないのでしょう?

子どもが自分の人生を自分で歩んでいるという実感

自分でできるようになりたいと感じること。やりたいことを選ぶこと。うまくいかないときに自分で悩むこと。飽きたときに自分で決意すること。
親や先生がやるべきことを決めて、ただ受動的にそれをこなすだけでは、高学年を過ぎるころには、だんだんエネルギーが枯れていきますよね。

適度な飢餓感

知的な遊びを楽しく感じるくらいの刺激の強すぎない暮らし。
工作に喜んで取り組めるくらいの、努力なしに結果を手にしすぎない暮らし。

遊びの世界が技術をマスターすることや
知的な好奇心を満たすこと
好奇心を広げることにリンクしていること。

読書が子どもの義務ではなくて、
家族にとっての楽しみであること。

あこがれたり、知的な興味を共有しあえる仲間がいること。

『個性と才能を見つめる総合学習モデル』J.S.レンズーリ
で紹介されている子どもの個人の才能を適切に伸ばす環境を
用意する。
(これに関しては、またの機会にくわしく紹介しますね)

そうしたことのひとつひとつがとても大切なのだと思います。
もちろん幼児にとっても!

ただ足りないものがあるからと
あせる必要はないと思います。
まず何が足りないか気づいた時点で、
大きな進歩ですから。
足りないもの…というのはプラスするより、
今あるものから何かを減らしていくとうまくいくものがほとんどのはずです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
上の記事を書いたとき、
私は自分の感じとしては持っていたものの、言葉にすることができなかったし、それが言葉になることを意識したこともなかったので取り上げなかったのですが……

前回の記事で書いた
『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、

この感覚が、あまりにも子どもの世界から取り除かれてしまったことも、
子どもの意欲低下や無気力の理由のひとつにちがいないと強く感じました。

ちょうどできあがった電池で動くおもちゃでばかり遊ぶのと同じように、
完成度が高く全て管理され、自分の進路は遠い先まで見えすぎるほどに見えてしまうことへのしらけた気持ち。
かと思えば、これも電池製のおもちゃと同じようにからくりや理由がわからない
ブラックホールだらけの世界。

そうした世界で、
学ぶことに、魅力や愛情を感じたり、
学ぶことで、責任感や自立心を育むのは難しいですね。

なら、どうすればよいのでしょう?
私は、前回紹介した日比野克彦氏と鷲田精一氏との
対談の中にその答えのひとつが隠れているように感じました。

ロボット化する子どもたち 1

2012-08-21 06:18:51 | 教育論 読者の方からのQ&A

 

ロボット化する子どもたち  「学び」の認知科学 (渡部信一 大修館書店)

を読みました。

今年読んだ本の中で一番のヒットです。

 

本の表紙に印刷された言葉。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

指示されたことはできるが、自分の判断で行動できない子ども。

学習意欲をなくし、ニート化する若者たち。

いま、子どもや若者がロボット化している。正しい知識を簡単なものから

一歩一歩積み上げていく。このような教育の常識は本当に正しかったのだろうか?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「ロボット開発と同じような行き詰りが、現在、子どもや若者の教育において

起こっている。」

と現在の教育のあり方に警鐘を鳴らす著者の渡部信一先生。

20数年前に、脳科学に興味を持って脳損傷の患者さんと日々接していた頃の渡部先生は、

脳の解明が人間の知的活動の解明につながると信じていたそうです。

しかし後に「自閉症」の子らとつきあうようになって、その考えは根本から

くつがえされたのだとか。

 

「人間(特に子ども)は、脳に効率よく正しいとされる知識を蓄積しただけでは

何も成長しない。」ということに気づいたのです。

 

 


ドールハウス作り と 教室のお盆休み

2012-08-20 20:07:07 | 工作 ワークショップ

 

年長さんグループでドールハウスを作りました。

わたしは家の土台の作り方と家具の作り方の基本を教えた

だけなのですが、工作大好きの3人が集まっていたので

自分でもりもり作っていました。

くまの人形にはストローをつけて動くようにしていました。

↑ドラム式の洗濯機なのだそうです。

↑ 「床は角だけ落とすとハートの形になるからそうする!」と★ちゃん。

 

写真がやたらまぶしく写っているのですが……お盆休みに床のカーペットを

貼り替えたんです。

海外旅行とユースホステルのレッスンの合間で、かなりヘロヘロだったのですが、この期を逃すと

また日常の家事で精いっぱい(それすら中途半端)という時間に追われる生活に戻ってしまうので

思い切ってカーペットを貼り替えて、家具の配置換えもしていましました。

おかげで教室が少し広々とした感じになりました。

(製作中の子ども神輿は、家族旅行のため今年の夏に使っていただくのは

諦めて、来年の夏までにぼちぼちと作っていくことになしました。)


『メタ認知についての記事』にいただいた質問へのへのお返事 1

2012-08-20 07:52:08 | 教育論 読者の方からのQ&A

お正月の読書三昧(『メタ認知』など)5

の記事に次のような質問をいただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

過去記事に失礼します。『情報を伝え合って体験する際には、

大人の側がそうしたことを把握していることと、

かなりの柔軟性が必要だと思うのよね』とは、具体的にどういうことですか?

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これはわたしと息子の会話のなかで、わたしが息子に言った

「最適化……そうなのよ。
最近、幼い子を育てている方々と接していると、経験の前に、
わが子に与えたい経験を最適な状態でセッティングするための情報を得ようと、常に情報集めをしているように感じるときがあるの。

そこには、子どもに最高に合理的で価値があり、濃度の濃い体験を与え続けたいという気持ちが見え隠れするのだけれど……。

たとえば、私がトルコのアイスを買いました。トルコの方の国民性や、屋台の雰囲気を体験しました……とブログで紹介したとすると、

それはどこにありますか?
とたずねられて、一直線にそこへ向かい、帰宅後、トルコの地図や図鑑を確かめるという方がいたとすると……とてもそういう方は多いのだけど、

その体験に、~へ行こうとすると思ったより遠くて、疲れたところで、偶然、おもしろい店を見つけた、という

見つけたとか、疲れたとか、甘い物食べていると疲れも我慢できてしまったとか、目的以外の道草のおもしろさとか、自分や子どもの持っている感性やアンテナを初めてみる環境に投げかけるとか、不確定要素との出会いを楽しむ

といった自分独自の体験がなくて、

最適化され、意味や言葉で切り取られた体験のみが子どもに与えられている……それは、ブラックボックスとなりつつある現代の世界を
さらに奇妙なものにしているように感じるのよ。
だから、情報を伝え合って体験する際には、大人の側がそうしたことを把握していることと、かなりの柔軟性が必要だと思うのよね」


のなかで話したことです。

『情報を伝え合って体験する際には、

大人の側がそうしたことを把握していることと、

かなりの柔軟性が必要だと思うのよね』とは、情報を頼りにして、

まるでマニュアルでも実行するように

子どもに体験を与えるとすれば、それはブラックボックスとなって素のままの生のありのまま姿が見えなくなりつつある

現代の世界を、よけいわけがわからないものにしてしまうかもしれない、

という危惧について言っています。

 

それを情報発信する側も受信する側も

理解していること、意識していることが大事、ということです。

 

情報をそのまま与えるのではなくて、

参考にしつつも、自分や子ども独自の視線でそれを捉えなおしたり、

オリジナルの興味や価値を見出したり、

得た情報から全く新しい何かを生み出していくような創造性を常に持っておくような

柔軟性が必要だと感じているのです。

 

 

今の時代、出かけるにしろ、子どもにおもちゃを与えるにしろ、教育するにしろ、

情報を見比べて、一番、自分にヒットするものや、「うちの子に最適」と思うものを

選らんでから体験する、

体験させる、のがあたり前になっていますよね。

 

「これこれしたら、こんな感動を味わえますよ」

「これこれしたら、こんな効果がありますよ」

「これこれすると、こんなお得な体験ができますよ」と、いう情報はちまたに溢れています。

 

自分がその体験をどのように感じ、

どんな効果やお得感を得るかといったことまで、

あらかじめ最適な組み合わせをパックして、「さぁ、いざ体験!」

という方は少なくありません。

 

でも誰かが「すばらしかった!」「こんな効果があった」という体験は、

「良かった」と思う以外のその人の体験の流れのなかでの

すばらしさであり効果であって、

「よかった」という話を聞いて、良かった部分にフォーカスして体験しようとすると、

映画の感動シーンだけを見たり、本のラストシーンだけ読んだりするのと変わらないものになってしまう

のではないでしょうか。

 

もし子どもにそうした体験ばかり与えていれば、

ある面で、鈍い感性を育んでしまうように思うのです。

 

たとえば、「理科の好きな子になってもらおう」「科学に興味を持ってもらおう」

と思って、科学の実験ショーのようなものや、

小さな実験をさせてくれるイベントに子どもをたびたび連れて行くとします。

 

それ自体は悪いことではないけれど、

実際にはそういう刺激的な体験が多い子は

「コップに冷たい水を入れたら、コップのまわりに水滴がついてたんだけどどうして?」とか、

「自分の影の濃さって、日によって違うのかな?」とか、

雨の日にコップを外に出しておいたら、どれくらいの時間で水がいっぱいになるんだろう?」

なんて話には、

「そんなの科学じゃない」「くだらない」「つまんない」「それがどうしたの?えっ?」

と鼻もひっかけないことが多々あるのです。

 

もともと子どもは大人が気にもとめないようなささやかな不思議に心を動かされて、

「どうして?」「なぜ?」と問いかけたり、

輪ゴム1つ、磁石1個であらゆることを試してみるような

探求心を持っています。

 

でも食前にお菓子を食べすぎたら、ご飯がおいしく食べられなくなるのと同じように

最適化された最初から効果を約束されたような体験ばかり与えられたら、

そうした子どもらしい感性が鈍磨していっても仕方がないのです。

 

もちろんそれは「科学のショーや実験ができるイベントに

子どもを連れて行ったらよくない」という話ではありません。

 

 そうした体験を与える大人が、それがその子独自の生の体験となるように、

その子独自の視点、その子独自の感じ方や興味を大事する柔軟性を持っている必要があるな、と思っているのです。

それから

あくまでも、自分が期待している情報通りの効果を子どもに求めたらいけないですよね。

 

お家に帰って、工作やごっこ遊びで再現するなどして、その子サイズの理解を助けることも

大事だと思います。

 

教室で子どもたちとお出かけする際は、「何を子どもたちに教えたいか、与えたいか」ではなく、

「その子が何に惹かれていたか」「その子がどんな感性で展示物と関わっていたか」などを

よく観察して、教室に帰ってきたから後の活動の方を体験のメインにしています。

 

国立民族学博物館に行ってきました 1

国立民族学博物館に行ってきました 2

国立民族学博物館に行ってきました 3

国立民族学博物館に行ってきました 4

国立民族学博物館に行ってきました 5

国立民族学博物館に行ってきました 6

国立民族学博物館に行ってきました 7

国立民族学博物館に行ってきました 8

 


算数のセンス・国語のセンス・科学のセンス 3  ユースホステルのレッスンから

2012-08-19 15:13:55 | 国語

↑ 記憶力を競うゲームをしています。

 

ユースホステルでのレッスンに参加した三年生の●くんのお母さんから

次のようなコメントをいただきました。

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お泊りレッスン、ありがとうございました。
 奈緒美先生に、「急に成長した」「ADHDの部分がおさまってきている」と言っていただき、本当に嬉しかったです。
 言われてみれば、最近は自分をコントロールできている事がたくさんありました。
 そんな余裕もあってか、息子は今まで以上に奈緒美先生とする勉強が楽しかったようです。
 「一週間に一回は奈緒美先生のところで勉強したい」「奈緒美先生のところを塾にしたい」と言って余韻に浸っていました。
 また、私が驚いたのは、息子が一番楽しかった事として、性格判定のような?文章を読んだことを挙げていることです。(この時間、私は次男と遊んでいてレッスンを見ていなかったのですが、風のような人~、という文章だったとか)
 文章を読むことは嫌いと決め付けていたので、面白い文章だった、と言われて、やっぱり奈緒美先生の導入ってすごいな~、と思いました。
 とても楽しく長く濃いレッスン、ありがとうございました。
 ご一緒させていただいた保護者の方々にも、感謝です。

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●くんは多動気味で、衝動性のコントロールをするのが難しいため、学校で不適応を起こしていたようです。

でも、この1年ほどで、急に落ち着いてきました。

IQがとても高くて、数学的なセンスが飛びぬけていい子なので、

学校の授業が易しすぎて退屈していたのも荒れていた原因だったのかもしれません。

自分の能力を限界まで使いきる面白さを実感することで、

無駄なことに過剰にエネルギーを消耗することなく

目的を定めて集中できるようになってきました。

 

今回参加してくれていた別の3年生の子も、同じように

IQが高くて数学的なセンスが抜群にいいものの、衝動性のコントロールに困難を抱えていたのですが、

工作や自然体験、勉強で本気を出すことなどで自分を制する力がずいぶんついていました。

 

「どちらの子も算数は大得意だけれど、

人の気持ちを察するのはちょっと苦手」というタイプなのですが、

そのふたりを含めて3年生の男の子たちに

意外なほど好評だったのが、慶應湘南藤沢中等部の国語の入試問題を

使ったレッスンでした。

1,2年生の男の子たちにはあまりピンとこない課題のようでした。

 

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水のような人がいる。

たとえば湖。何かにふれ合うと、少しのことで、さざ波がたったり、すぐにゆれたりするけれど底の方は静か。

ひとりの時はしずか。

 

たとえば沼。

葛藤が好きで、土や藻が入りまじり、混とんとしている。

不透明で、すぐ前のことしか見えない。だけど、心が落ちつくと、

いつか澄んでやわらかな水となる時が来るかもしれないひと。

 

たとえば川。

どんどん先へ進む。広い海をめざして、たくさんのひとい会って別れる。

(略)

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上の詩は、「木のような人」「花のようなひと」

「草のようなひと」「風のようなひと」「土のようなひと」「岩のようなひと」と続いていて、

問いは、「木のようなひと」とはどのような人だと思いますか、

他の部分の書き方にならって答えなさい、

というものです。

 

はじめに「○のようなひと」ごとに読みながら、

「これって誰だろう?」と雑談する時間を設けました。

 

難しい比喩を多用している文章なのに

3年生の子らの心に強くヒットしたようで、「これは★くんだよ。ほら、ゆっくり話をしたりできないけれどいつも

明確。自分の答えを持っているってそうだから」

「ぼくは風のようなひとだ。自由が好きで基本的に一人が好きなのに、時々寂しがりになって、誰かに

寄りそって、めんどうになって去っていくって、ずばり、ぼくだよ」

「■(弟)は草のようなひと。ふみつぶされても、いつの間にか復活なんて

まさにそうだもん」

「うちの弟も草だよ。

見た目はやさしく能天気。でもしっかりもので、それから現実的なひとってところがまさに

◇(弟)そのもの」

という会話が大盛り上がり。

 

いっしょに参加していた1、2年生の子らにはピンときていないように見えた

「現実的なひと」とか「葛藤が好き」とか「混とんとして」とか

「ゆるぎない安定を心の中にもっている」「人間味があって、はためいわくだったりするのに憎めない」なんて言葉が、

3年生の子らには、

「わかるわかる!あれあれ~!!」と

表情を

パーッと輝かせワクワク感を起動させるスイッチとなっていたのです。

 

外からはただの暴れん坊にしか見えない男の子たちも、

9歳くらいになると、自分や友だちのことをメタな視点で眺めるように

なってくるんだな、と驚きました。

↑ 3年生のやんちゃくんが持ってきてくれたレゴで作ったわたしの名前のプレート。

ねんどの玉を作るマシーンが詰まったら、誰に言われるでもなく

詰まりの原因を見極めて、

横の蓋をあけて、細い棒で詰まった物を取り出していました。


算数のセンス・国語のセンス・科学のセンス 2  ユースホステルのレッスンから

2012-08-18 20:11:19 | 教育論 読者の方からのQ&A

中学入試の問題は積み木や折り紙のパズルのような問題がよく出ます。

教室の子がみんな受験するわけではないのですが、

「勉強ってゲームやパズルみたいに面白いんだな」と気づいてもらえたら……と、

お泊りレッスンでは入試問題に取り組むことがよくあります。

 

テキストは、『ピーターフランクルの中学入試を楽しく解こう』

慶應湘南藤沢中等部(この学校の問題は公式を知らない中学年の子でも

思考力さえあれば解けるものがけっこうあるので)の赤本など。

 

 

折り紙を何度か対角線で折ってから、図の車線部を切り落とした図形を

重ねると、面積はどうなるか、という東大寺学園中の問題。

 

実際はイメージして結果を予測して解かなくてはならない問題ですが、

解いているのは3年生までの子ですから、

折り紙を指示通りにカットして、結果を調べる活動をしました。

 

子どもたち、思った以上に面白がって解いていました。

折り紙の問題は楽しいです。

 

もうひとつ子どもたちが大喜びして解いていたのは、

 

立方体の物体をいくつか積み上げたものを、

正面、真横、真上から見た図を見ながら、

体積が一番大きいケースと一番小さいケースを当てる問題。(跡見学園中)

カラフルなサイコロがやる気をそそったようです。

 

毎年、ユースホステルなどの夏のレッスンだけに通ってくれている小学2年生の★くんは、

(お家では先取り学習等はいっさいしていないそうです)

こうした推理して考える中学入試問題にすっかり夢中になっていました。

初体験のアルゴにはまって、何度、対戦しても飽きない様子でもありました。

数年前の夏、初めて出会った当初は、何をするのもイヤイヤ取り組む

意欲の薄さがちょっと気になっていました。

が、会うたびに、考えることが大好きになっていきました。

今では新しい課題にくらいついていくような態度やどこまでもねばり強く考えていく態度が

頼もしいばかりです。

 

子どもたちのほとんどが苦戦していた時計算。

短い針が進む30度をゲームの駒を並べて表現し、

長い針が60度進む間に短い針が何度進むのか考えました。

 ↑かなり盛り上がった面積算クイズ。

面積の求め方をはじめて学んだ子たちも、

自然と上のような問題が解けるようになっていました。


算数のセンス・国語のセンス・科学のセンス 1  ユースホステルのレッスンから

2012-08-18 16:08:41 | 算数

↑ 左はダイヤモンドの分子モデルの一部

科学クラブの男の子たちを中心にした

ユースホステルでのお泊りレッスンに行ってきました。

科学クラブのメンバーのひとりが分子モデルに興味を抱きだして、構造を紙のスケッチして教室に持ってきてくれたので、

「いい機会だから教室で流行らそう!」とばかりに分子モデルキットを購入しました。

 

こうしたものに触れて、「きれい!」「神秘的!」って感動する心を育てることって大事だな、と感じています。

 

でもこうした教具が、「化学好きになってほしい」「将来の学習のプラスになれば……」という大人の期待の押し付けに

なってしまうと、

子どもの化学への興味につながることにもあれば、

興味を潰してしまうこともあると感じています。

子どもの好奇心や興味が響きあい、自分を高めていこうとする意志が目覚める場や時間を

作りだすように工夫しています。

 

 

 

「アルゴが得意!」という男の子と「アルゴは初めて」という1~3年生の

男の子たちの対戦。

回を重ねるうちに、確率的に考えて、どのカードが一番当てやすいか、

勘でわかるようになってきます。

このように「当たりを付ける」感覚を育てることは

とても大事だと思っています。

箱内をビー玉が転がっていきます。

 

工作タイムの様子です。↑