天才や偉人について知ることや学ぶことは、
わが子や多くの子どもたちを「天才」に作り上げようと
願うこととはずいぶんちがいます。
天才という言葉に過剰反応する人というのは、
天才と呼ばれた過去の人物の型破りな生き方や、
天才であっても多くの欠点を抱えたひとりの人であった事実を、
勝手に自分のイメージで脚色しているように感じます。
キュリー夫人やヘレンケラーやライト兄弟の一生などを
自分の人生に重ねて、その簡単にあきらめないねばり強さや
どんな境遇でも学び続ける強さなどは無視して、
天才と言われる人が何したこれした~と自分より
下だと思って安心できるゴシップ的な話題ばかり集めてきて、
天才は~~と愚痴ばかりこぼすのをよく聞きますから。
天才とは、ひとつのことを伸ばすために、他の価値観を捨てていく生き方だという捉え方は、
オリンピックなどの世界で「人工的に天才を作ろう」と無理する場合に
親のエゴが生む考えを指していて、
実際の「天才」という言葉とは線引きしなくてはならないものだと思います。
私はこれまで「天才」とたたえられた人々は、『自分の境遇』
つまり能力、強み、環境などの『自分がもっているもの』を、
自分の力で(親に作ってもらうのでなく)
最大限に生かそうとし続けることができた人なのだと思っています。
例えば、みんなが良い大学を目指すことを教育の目標にしたとすると、
頭脳活動に向いた遺伝子を受け継いだ子や
コツコツがんばる学習欲を強みとする子が有利ですよね。
おまけに経済的にめぐまれていて、
他より早くから競争をはじめ、他の子よりたくさん学習し、
他の子より寄り道せず、他の子より学習だけに専念し、より有利な受験アドバイスをもらい、それに逆らわず、スムーズに受験をし終えればそれは可能なのでしょう。
でも、現実には、努力家なんだけど、考えるのが苦手とか、
頭はいいんだけど、コツコツすることができないとか、
能力は申し分ないけど経済的に恵まれないとか……だれもが
完璧な境遇ではないわけです。
そこで、途中までは、がんばったけど、勝ち組になれないから、
もういいや~って、自分を高めることも、勉強することも、
放り投げてしまうか、
それでも自分の境遇の中でベストをつくしていくか、
に分かれると思います。
これまで天才と呼ばれてきた人は、どんな境遇でも、自分の手札が最悪でも、
自分を見捨てず、あきらめず、育て続けた人です。
ヘレンケラーなんて三重苦です。
それでも自分の可能性を追求し続けたところがすばらしいのだと思います。
一般の人だと、ちょっと他より記憶力が悪いとか、
ちょっと小学校の学習でみんなより出遅れたとかで、自分をあきらめてしまいがちです。
でも天才として名を残した人は、
欠点を抱えたまま、自分の強みを追い続ける強さを持っていたのでしょう。
そうしてその人にスポットライトがあたったとき、
「天才って、ひとつの能力だけ伸ばすために、弱点を克服することを犠牲にしてきた人でしょう?」と簡単に結論づけてしまいがちです。
でも、実際には、もともとハンディキャップを持っていて、それにもかかわらず、自分を精一杯生かしてきた~
けれども、やっぱりハンディーはハンディーとして
成功しても残っている
そうしたナチュラルな人なのだろうと感じています。
だいたい、秀才を育てるとか、英才を育てるとか、天才を育てるとか、
まるで、ロボットの人工知能を操作するように
大人が子どもを自分の思う何かに作り上げようとすること自体に
疑問があるのです。
天才の話にしても、生きた先輩たちの道から、
大人も子どもも気づきや感動を得るなら良いのですが、
それを勝手にメソッドにして、「天才作り」を目指しちゃうと
間違った方向に行ってしまうのでしょうね~
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「天才」という言葉、日本ではタブーのように扱われている部分がありますね。
「英才」や「秀才」や「できる子」は目指せる、作れるけれど、
「天才」は生まれつきのもの
誰もが目指してはいけないもの
子どもが天才であってほしいと願うなんて、ずうずうしいにもほどがある…
そんな声をたびたび耳にします。
でも、私は、英才とか秀才とかできる子って言う言葉が、
あんまり好きではないんですよね。
受験戦争や競争社会という小さな枠のなかで
勝ち抜いていけるか…ていう
大人側からの期待や願望から生まれているような気がするからです。
そして「天才」は…というと、レオナルド・ダ・ウ゛ィンチとかアインシュタインのように、
学ぶことを愛してやまず
人生を自分の思うままに生き抜いたイメージ
が、大らか~で好きなんですよ。
「天才」とは、一般常識や他人の期待に振り回されずに、
「自分」の興味と夢を満喫して生きられる人でしょうし
幸運にも「天職」と呼べる仕事と出会えた人なのでしょう。
私は、周囲に認められるか、
その時代から「天才」という言葉を授けられるかは別にして、
子供たちには どの子にも天才のようにいきいきと生きいって欲しいなぁと思っています。あくまでも願望ですが…。
☆あなたも「天才」になれる? 10000 時間積み上げの法則という記事を見つけました。
そこで「天才」が作られる法則としているのが、
1,10000時間を費やせる努力と情熱。開始年齢はあまり関係ないらしい。
2,時代と才能が一致するタイミング
なのだとか…。
引っぱりますが、次の記事でもう少しだけ続きを書かせてくださいね。
1の10000時間を費やせる努力と情熱。
と言うと、エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という言葉が浮かびます。
本当は、エジソン自身はピピピッとひらめくことを
重視していたらしく、
(1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならないというニュアンスでこの言葉を発言したらしいのですが…。)
竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けたエジソンの姿は、
英才くん、秀才くん、できるくんからすれば、「実験オタク」や、単なる「バカ」なのかも知れません。
天才を作る時間が10000時間という話の真偽の程はどうであれ、
「何かが好きでたまらないこと」
「心底、ひとつのことに夢中になって打ち込めること」
「誰かのためにでなく、自分で自分の人生を切り開いていること」
が天才の必須条件のようです。



2の、運…



私はこれは、偶然の産物ではなく、
宇宙とうまくシンクロできているかどうか…
SQ(精神的知能の略)…意味や価値という問題を提起して解決する能力を
人生のなかで十分高める事ができたかどうかに関わっているのだろうと
思っています。
SQを高めて行くことが、自分を個性的な人生へと導き、天職と出会わさせるのだと感じるからです。
SQとは、
広い豊かな視野に立ち、自分の行動や人生に意味を見出す能力のことです。
数あるなかから、より意味のある行動路線や
人生の道を選ぶための能力です。
「SQ 魂の知能指数」によると…






IQなら、コンピューターも高いです。
EQ(こころの知能指数)は、動物達も高いです。周囲の状況を察知する能力にたけ、過たずにそのルールに従うことができるのです。
しかし、コンピューターも動物も、
なぜそのルールがあるのかも、なぜそういう状況になっているかも
問うことがありません。
SQを持っている人間は、ルールや状況を変えることができます。
限界と遊び、識別し、道徳観を持ち、厳しいルールを理解と同情で
やわらげることができます。
同情や理解が限界に達したら、限界だと悟る事ができます。





IQは、脳内の「直列的な神経配線」にもとづいているそうです。
EQは、「連想を引き起こす神経配線」にもとづいているそうです。
SQは、脳全体のデーターを統一する神経の共振にもとづいているそうです。






「天才」という言葉から、ずいぶん脱線していますが…
SQテスト

柔軟である能力(積極的かつ自発的に適応できる能力)

高度な自己認識

苦しみに立ち向かい、苦しみを利用する能力

苦しみに立ち向かい、苦しみを乗り越える能力

夢や価値に触発される資質

不必要な危害を他人に加えたくないという気持ち

多岐にわたるものごとのあいだに関連性を見る傾向

「なぜ?」とか「もし何々だったらどうなる?」という質問をし、
゛根源的な”答をもとめる顕著な傾向

心理学者が、゛場独立性”と呼ぶものであること。つまり、因習に逆らう器量を持っていること。
↑のテストがたくさん当てはまるというSQの高い人は
世間の評価はどうであれ「天才」と言えるのかも知れません。
(引用は、「SQ 魂の知能指数」ダナ・ゾーハー&イアン・マーシャル 徳間書店)
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脳の研究の第一人者である養老孟司がこんなことをおっしゃっています。
脳には3つの機能があります。「入力」「計算」「出力」です。
視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五感を働かせて
脳に情報を送り込むのが「入力」。
自分がどのように行動したらいいのか、判断のために
情報を処置するのが「計算」。
計算に基づいて行動するのが
「出力」です。出力は筋肉を動かす信号です。
運動として出力されたものは、再び五感によって入力されます。
養老孟司氏によると、脳の発育をうながすには、入力→計算→出力→入力→計算→出力
のサイクルを大きくする必要があるそうです。
野外で虫を追いかけたり、自然と触れ合ったりするような五感をたっぷり使う活動こそが脳の入力を大きくします。
外遊びに興じながら風や気温や湿度を肌で感じること、
自然のなかにある視覚や触覚を刺激する美に感動することが、五感を目覚めさせるのです。
脳というのは「なんでだろう?」という疑問を繰り返して、育ってきました。
外遊びで観察を繰り返すと、この「なんでだろう?」にたくさんぶつかります。
養老氏のお話を読んで、虹色教室に通っている子で、幼いうちから他の幼児教室に通っていて、そこで適応している子の多くに
「なんでだろう?」が少ないことが思い当たりました。
「なんでだろう?」と考える前に大人が子どもに教えてしまうからのようです。
「なんでだろう?」と考えながら育つ脳は、
人に「どうしてそうなるのか」を教えてもらってばかりだと、自分で考える力が低下します。
養老氏は、次のようなことをおっしゃっています。
虫取りをするときは、いろんな方向から見る。すると入力が変わって、その都度いろんな情報が脳みそを通る。……たとえば、このカブトムシはどうして生息地が違うだけで独自の性質を持つようになったんだろうといったことを考える。
すると地質学やらいろんな方面に興味が広がる……そうして新しい自分になるという体験を繰り返す。
養老氏のおっしゃる「入力が変わる」「自分が新しくなる」という姿、
外から見てもよくわかるときがあります。
私は、科学的な不思議を取り入れた工作をしたあとや、
遊びのなかで自分の真の才能に近い活動をしたあとや、
取り付かれたようにモンテッソーリのいう敏感期のお仕事をしたあとや、自分が見た世界を再現する遊びをしたあとで、子どもがまるで「入力」そのものが変化したように
内側から劇的に変わる姿に何度も遭遇しています。
親御さんも口をそろえて「子どもが別人になった」とおっしゃるのです。
別人になるほど子どもに変化を起こす遊びや工作とはどんなものかというと、
「入力」そのものを大きくする活動なのだと思います。
「子どもの世界の見方」に変化を起こすような遊びや工作です。
ハンバーガーを食べに行ったあとで、
ハンバーガーを作る過程から、お客さんから注文をとる様子、
飲み物の機械、仕事の一日の流れ、お金のやりとり、レジの仕組み、
割引券……そうしたさまざまな角度から眺めたものを
遊びで面白く再現するとき、子どもはその後どこに行っても
しっかり観察し、どうやって遊びに生かそうと頭を使い入力の状態を大きく広げるようになります。
エレベーターに乗ったあとでエレベーターを工作で作った子は
その後あらゆるもの対して、その仕組みに関心を持って接するようになりました。
「入力」が変化したのです。
今、幼児向けのさまざまな教材が販売されています。
+1 +2と繰り返させて暗記させていく教材は、ここがよくないと聞くと、
なら、
「絵が描いてあって具体的に見てわかるワークをさがしてこよう」
「文章題も載っているプリントをさがしてこよう」と、
教材のはしごをする方がいます。
ただ、どんなに足りない部分を補っても、
良いものを探しに行っても、ワークはワーク、
プリントはプリント、ビデオ教材はビデオ教材です。
パソコンやゲーム機に例えれば、「ソフト」のバリエーションを増やしたに過ぎないのです。
幼児期はハード部分を作る時期。
ソフトをインストールする「本体」自体の性能を大きくし、入力の容量自体を大きく
する時期です。
つまり脳そのものの機能を育てている時期には、
皮膚から、視覚から、身体全体から情報を取り込み、
さまざまな視点で物が考えられるように育っていかなければ
ならないはずです。
今これほど科学が発達し、コンピューター技術が進歩しても
ロボットの人工知能は、
人間の3歳児を越えることができないそうです。
人間の子どもは、反抗し、自分の意志を獲得し、失敗し、それから学びます。皮膚の温度からも、親のとの会話からも、日常のいたずらからも学習します。
一方、ロボットの人工知能は、外からインプットしていく情報をどんどん高速に処理できても、結局、人間の3歳児を超えられないのです。
それにもかかわらず、最近の幼児教育は、
親が自分の頭でイメージできる枠内で
子どもを賢くしようとするあまり、
わざわざこの能力が低い人工知能に対するような接し方ばかりしているように
感じます。
情報をわざわざ「プリントに印刷して」小さくして、
繰り返しインプットしていくという……
まるでプログラミングでもしている感覚で子どもに教育しようとしているからです。
何をインプットしたかという「ソフト」部分でなく、
どこからどれくらいの容量でインプットできるか、
他人の表情、ニュアンス、大気の温度などの情報も処理できるか、
自分の感情を感じ取ること、決断することといった部分がきちんと動作するのか……
そうした人工知能のまだ獲得できていない高性能な部分を可能にする「ハード」作りこそ大事ですよね。
そうした「ハード」の部分(脳のおおまかな回路)そのものは、幼児期にほぼ完成して、
そこからは、ずっとそれを使って、
さまざまなことをこなしていくことになるのですから。
○○法といった偏った幼児教育は、素人が世界最高レベルの技術者が組み立てている機械作りに
横からしょっちゅうぐちゃぐちゃと手直し(邪魔)
を加えているようなものです。
私たちは、この今の科学ではとうてい作り出すことがとうていできない
幼児期の脳が、自分で自分の脳を作り上げていこうとするシステムに対して
もっと敬意を払い、
それを一歩下がった位置から、手助けしていく必要がありますよね。
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