goo blog サービス終了のお知らせ 

虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

子育てや愛着形成についての記事をまとめました♪

2010-07-26 07:06:15 | 記事のまとめ(リンク)
今日は、滋賀のダンボール工作のイベントに行ってきます。晩か明日にはイベントの様子を記事にアップしますね。

大阪に(日本に)こんな子供向けの教育施設が欲しい!!

大阪に(日本に)こんな子供向けの教育施設が欲しい!! 2

「愛着」の形成がうまくいかなくなってきた現代 1

「愛着」の形成がうまくいかなくなってきた現代 2

「愛着」の形成がうまくいかなくなってきた現代 3

「愛着」の形成がうまくいかなくなってきた現代 4

「愛着」の形成がうまくいかなくなってきた現代 5

国に求めたい子育て支援の形 1

国に求めたい子育て支援の形 2

国に求めたい子育て支援の形 3

国に求めたい子育て支援の形 4

国に求めたい子育て支援の形 5

国に求めたい子育て支援の形 6

国に求めたい子育て支援の形 7

国に求めたい子育て支援の形 8 (見守りについて)

国に求めたい子育て支援の形 9 (コミュニケーション能力と内言の発達について)


子育てで気をつけてきた3つのこと

子育てで迷ったら 一休さんの名裁き♪

子育ての矛盾

にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る)

夏のお出かけアイデア

2010-07-24 12:11:11 | 記事のまとめ(リンク)
「知的好奇心を拡げるにはどこに連れていってあげるといいでしょうか?」
という質問を受けることがよくあります。

「せっかく博物館や科学館に連れて行ったのに、
そこではしゃいで終わり……
あまり心に残っていないような……
まだ時期が早かったのでしょうか?」

という声も聞きます。

お出かけを、子どもの知的な好奇心を膨らますきっかにするには、
ちょっとしたコツがあります。

『子ども目線』の楽しみを大切にする

ということです。
あれもこれもと「すばらしい」何かを与えようとすると、
子どもにとっては、

味の濃すぎる料理を与えるのと同じで、

害はあっても、何も良いものは残りません。

子どもを博物館に連れて行く場合、
例えば、行き帰りの駅で、駅に置いてあるスタンプを押したり、
駅のエレベーターに乗ったりしたことが、
子どもにとっては最も楽しかった出来事として
残ったりします。
子どもの発達や個性に応じて、ちょうど良い興味の濃さや内容があるので、
そうしたささやかな体験こそ、
子どもの知的な好奇心の芽となることが多いのです。

駅のエレベーターが大好きな男の子は
ブロックでエレベーターを作る際、2つ扉を作り、
1階で乗るときは外に向かって開き、
モノレール乗り場である2階につくと、駅側の扉を開けるように
工夫していました。

駅のパンフレットを、子どもに「次にどこに行ってみたい?」と選ばせて、
お家でそれを貼って楽しんだり、ゆるきゃらに興味を持てば、
本当にその地にお出かけしてみたりするのも楽しいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<駅でもらえるパンフレットで地域の絵本作り>
観光案内のパンフレットや
フリーペーパー
カラー写真満載ですね。

読み終わってポイッ!では
とても もったいないです。

おみやげや 観光名所 地図などを 
切り抜いて貼ると
りっぱな絵本になります。
また 自分で情報を整理し発表していく力を
伸ばします。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<お出かけ先でゆるきゃらを見つけてこよう!>
以前、虹色教室では「ゆるキャラ」が
流行していた時期があります。
ゆるキャラ?

ご存知の方もいるかも知れませんが
地方自治体のPR用に作られた
ゆるゆるのキャラクター。

富士山の姿をした
静岡県の「ふじっぴー」や
岡山県のカブトガニの姿をした「カブニくん」
など地域の特徴や特産品が
そのほのぼのとした
かわいらしい姿からわかってしまう!!キャラクター。

こんな面白いものを 子どもの教育に生かさないわけには
いきませんね。
ちょっと遊べば 県名やら特産品が
それこそ ゆるゆる~と頭に入ってしまいます。

写真は 「ゆるキャラの本」(500円)と
それに載っている各県代表47体の
ゆるキャラを切り取ってお人形にしたものです。

「ゆるキャラの本」には
47体のキャラクターの写真が
どれも大人の手の平サイズでついています。

それを切り取ってダンボールに貼ってつくりました。
人形の裏には 県名 名前 くわしいDATAを
貼りました。

このゆるキャラ…一番初めに飛びついたのは
2,3歳の
あんぱんまん大好き世代。

「トリピーは 鳥取県でぇ、梨が好きなんだよ。」と
いった会話が 
教室のたびに なされていました。
少しお姉さんの幼稚園児は
帰省先の「ゆるキャラ」について
田舎での出来事とともに話してくれました。

さて 今年は 「どこでもどらえもん 日本旅行ゲーム」です!
この人気は 年間を通して衰え知らず…。
定期的に出してきては
「金しゃちドラ(名古屋)」とか
「かぼすドラ(九州 沖縄)」「坊っちゃんドラ(愛媛県)」
のカードを使った遊びを
しています。

こうしたカード遊びは 工夫次第で
1、2歳くらいから楽しめます。
お家で ちょうどいい「赤ちゃんルール」を作って
遊んでくださいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<お出かけ先での注意>

こういう活動も、親が主体になりすぎて、
子どもに「興味を持ってほしい」思いが強すぎると、
子どもの好奇心はかえって育ちません。

子どもは自分で見つけたもの、自分で決めたこと、自分で作ったもの、
自分の心が揺さぶられたものが好きです。

親が「してごらん」「みてごらん」としつこく言うと、
たちまち、興味が薄れてしまうのです。

夕べ息子が、こんなことを笑いながら言っていました。
「テレビゲームばかりやりたがる子にやめさせる簡単な方法があるよ。ゲームしなさいと言い続けたり、1日2日、好きなだけ、それこそ一晩中とかゲームをさせたら、みんなすぐに飽きるよ」
何でも、ちょっと飢餓感があるから魅力的なわけで、
周りから興味を持つことを期待されたり、好き放題できたりすると、
ちっとも面白くないんですよね。

子どもが知的なものに興味を拡げていく瞬間というのは、
本当に小さなささいな個人的な経験です。

ちょっと珍しい石を拾うことは、
●●博覧会に長蛇の列に並んで連れて行ってもらうよりも、
「子どもに図鑑で種類を調べてみたい」「どうして、石は丸いのかな?」という
気持ちを起させます。
「どうして?」「なぜ?」という言葉はなくても、
しつこく何かを覗き込んでいるとき、
好奇心が渦巻いていることがよくあります。

そうしたときに、濃い味の知的刺激のシャワーで、
それを洗い流してしまわず、
子ども目線でそうした子どもの発見に寄り添うことが、子どもの
知的好奇心を育むコツとなります。
(濃い味というのは、大人がアクションを起すのが早すぎたり、
結果を求めすぎたりすることも含まれます)

JR大阪駅に化石探しに行ってきました!!(いっぱい見つけたよ)

JR大阪駅に化石探しに行ってきました!!(いっぱい見つけたよ)2

JR大阪駅に化石探しに行ってきました!!(いっぱい見つけたよ)3

にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る)

子育てで気をつけてきた3つのこと

2010-07-16 08:52:35 | 記事のまとめ(リンク)
私のかなり手抜きでおっちょこちょいな子育ての中で、
大事にしていたことが3つあります。
子どもが大きくなるにつれて、その3つに注意していれば、子育てって、後は何とかつじつまがあってくるんだな~と感じることが多々ありました。

<1つめのことと長い前置き>

私はずいぶん幼いころから、表面的な出来事や人の言動の背後にある
目には見えない力関係やエネルギーの流れを
敏感に意識していました。
無意識の世界のやりとりのようなものです。

それは、父と自分との間にある奇妙な力関係から気づいたことでもあるし、
妹と母との間で、
日夜繰り返されるドラマを
外から眺めるうちに感じたことでもあります。

また団地暮らしという環境ゆえに敏感になったものでもあります。

私の父は、これまでもブログで何度か書いていますが、子煩悩だけれど、
粗暴でわがままで、母からすれば今でいうDV夫。

ギャンブル中毒で、周囲のだれからも恐れられていました。

スポーツや肉体労働で鍛えあげた巨体で、女子どもに暴力を振るうんですから、
一睨みされたら最後、誰も父に反抗できる人はいませんでした。

一方、私は喘息や鼻炎や起立性の低血圧やら貧血やらで、身体が弱く、
(そんな私も当時は毎日外遊びをしていましたが)内向的で引っ込み思案な性格で、とにかくひ弱な印象の子どもでした。

それにもかかわらず、私は父をちょっと小ばかにしていて、
「お父さんは私のことを怖れてる。私が怖いんだ」と感じていました。

DVの人というのは、暴力を振るっていないときは、ベタベタと優しくする~って話をよく聞きますよね。
私の父も同じく、激怒していないときは、何か買ってくれようとしたり、
お小遣いをあげようと言ったり、子煩悩そのものの姿を見せたりしていました。

妹やいとこは、父に当時はまだめずらしいドーナツ屋さんやレストランに連れて行ってもらったり、おもちゃを買ってもらったり、
お小遣いをもらったりすると、
もう目の色が変わって、父の思うままになっていました。
父がお店の近くまで子どもたちを連れて行きながら、急に気が変わったからと帰りはじめたりすると、半泣きになってすがって、父の機嫌を取っていました。

私は父がそうやって人の心をコントロールしようとするやり口を
軽蔑していましたし、
もともと、外食にもおもちゃにもお金にも
興味がなかったので、
そうしたドラマの中ではいつも部外者でした。

すると、父は今度は私に嫌がらせを言ったり、にらみつけたり、げんこつでこづいたりするのですが、
それに対してもお腹の中で、そうした父の幼稚さをちょっと小ばかにしているもんですから、怖がりもしませんでした。

そんな私を父がどこかで恐れている、怖がっているというのは、
妹や母には遠慮のない父が、
私の前では途方にくれた小さな子どものようにも、老いた老人のようにも見える
弱々しい一面を時々見せていたからです。

私は、相手が自分の前に釣らすエサに無関心だというだけで、それがかなり大きな力になりうることを感じ取りました。
また、表面的に言葉でかわされたり、目で見える出来事の後ろには、
いろんな力がうごめいていて、さまざまな見えない力関係が成り立っているのだと思いました。
↓のような子どもの頃の出来事も、ドラマの背後のエネルギーの流れを私に気づかせたものです。

☆ だ~れが 殺したクックロ~ビン?? 1

☆ だ~れが 殺したクックロ~ビン?? 2

虹色教室にやんちゃですぐ口答えする子が来た場合も、
私はすぐさまその子たちが私を巻き込みたいと思っている『力のゲーム』を
行えない状態にするので、
わがままが癖になっている子ほど、素直に私の言葉に従いがちです。

(「ぼく誰々君いじめてやったんだ!」とか「~しんじゃえ」「つまんない」とか言う子に、
ショックを受けたり、言葉でわからせようとしたり、悪い子と決め付ける態度を取ったりすると、たちまち、その子の力争いのゲームに巻き込まれて、
過去にその子が周囲の人と演じてきた悪い関係やドラマを繰り返してしまいます。
そうした言葉は跳ね返さずにきちんと受け取って、こちらから伝えたいことをはっきり言うと、子どもはたいてい素直に従います)


それがその子お母さんとの間だと、お母さんが注意し、困惑するほど、子どもは
言うことを聞かなくて、好き放題するという繰り返しが続いていることが多いのです。

私の母と妹の関係もそうでした。
表面的なやり取りは、
妹からのおもちゃを買って欲しいとか、もっとテレビが見たいとか、
母からのそんな贅沢許しませんとか、テレビは一日~時間まで、とか
の言い合いなんですが、
お互いの言葉が相手の気持ちを鎮める方向に働かず、

妹の方は、むしろいっそう気持ちが高ぶって、テレビが見れないんだったら、
すべて終わりだ~もう何もかもめちゃくちゃにしてやる~
くらいの勢いになっていくし、

母は母で、どうしてこんな子産んだんだろう~こんな子いらない~思いきりおしりをたたいて思い知らせてあげなくては……
くらいの追い詰められた気分になっていくんです。

そこまで激しくやりあっているものが、『魔法使いサリーちゃん』ならまだしも、
『デビルマン』ですから……私は母と妹の気が知れませんでした。
いや、そこは、テレビ番組じゃなくて、レストランでもなくて、

目には見えないけれど、お互いが相手を自分のものにしたいと
いうような力のぶつかり合い、
エネルギーのやりとりが背後にはある

子どもの頃はそれを言葉にできたわけではないけれど、
雰囲気で感じていました。

目に見えない力関係とかエネルギーとか無意識とか言うと、
何だかもやもやと捉えにくい感じがするでしょうね。

テレビやインターネットや宣伝広告があたり前となった現代は、
こうした
目には見えない力やエネルギーが乱用されている時代です。

人工的でクリーンで無害そうに見える場所にも、
操る側の意図があって、
無意識レベルで操られる側のひとりへと仕立てあげられてしまう
仕組みがいっぱいです。

無意識というのは意識されないから無意識です。
テレビで自分よりずっと立派に見えるタレントたちが、
口をそろえて、出された食べ物に「おいしい~!」と笑みを浮かべるのを見続ければ、自分の味覚と関係なく、
みんながおいしい~と言うときには、「おいしい~」と言うべきなんだな~
と知らないうちに学習してしまいます。

食品会社の思惑で、食品添加物いっぱいの新製品を「おいしい~おいしい~」と食べさせられてしまうくらいはかわいいもので、
しまいには政治や戦争への参加、不参加を決めるような
大きな決断をくだす際も、
自分がお留守のまま反射的にみんなに合わせる人が増えていくのかもしれません。

話がずいぶんそれてしまったのですが、
子育ての話にもどりますね。

大人の場合、自分が感じていることを無視して、
操る側や力を乱用している側に同調する悪い癖がつく程度ですむものの、

子どもの場合、操る側や力を乱用している側が期待していることが、
自分が楽しいことなんだ、うれしいことなんだ、欲していることなんだ~と
間違っちゃうこともよくあります。

そうして子ども時代から自分がスカスカのまま、周囲の思いを
自分の思いと勘違いして育ってしまった子の
犯罪や自殺や心の病があとを絶ちません。

だから私は、わが子が何ができるようになったか とか、
何ができないか とか、
先生からどう評価されているか とか、
何を食べ、何を着て、どんな家に住んで、どんな学校に通うのか、
なんてことは、ほとんど気にかけませんが、

自分の心には細心の注意を払っています。

エゴに絡め取られて、間違った判断を下さないように、
時々周囲のノイズから離れて、

なるべくクリーンな
状態を保つように気をつけています。
それはけっしていつも良い人、良い親でいることではないです。

良い人、良い親であろうという思いだって
惰性で仮面のように貼り付けていれば、

叱るときに叱れないし、ルーズなくらいでいいときにやりすぎてしまいますから……。

ある程度ダメな親でも、
子どもの人格や魂に対して、
純粋で正直な気持ちで向き合えたなら、
子どもはとても幸せなんだと思うのです。

私も子どもの頃、最も幸せに感じたのは、母が自分の好きな針仕事に
夢中になって、母自身の夢を生きているのを
感じるときでした。そうしたときは、
私は私で、自分にとって
大事な何かを探しに行きたい気持ちに駆られるのです。

しかし、母が果たせなかった自分の夢を私の上にかぶせて
あれこれ期待するときには、
心が萎縮し、
この世は何て退屈でつまらないところだろう!
と感じていました。

そんなわけで、私が子育てで、気をつけてきたことのひとつは、

自分の心に注意する、です。
子どものことで問題にぶつかった時には、
必ず、子ども時代の自分(インナーチャイルド)の気持ちに
おうかがいを立てています。
どんな親であってほしかったのか、子ども時代の私は今の私に訴えます。
すべてを呑むわけにはいかないけれど、正直に対応するわ~……と、現代の私はインナーチャイルドと会話しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<2つめのこと>
私の母は、
私が何を言っても、何をしても、
良いように解釈して、ひたすらかわいがってくれました。
ですから、私には母から叱られたリ、注意を受けたという記憶が
皆無といっていいほどありません。

そんな風に猫かわいがりに愛してくれる母に対して、
私はいつも複雑な気持ちを抱いていました。

というのも、私のふたつ年下の妹は、
それはそれは極端なほどに、朝から晩まで叱られ通し~と言っていいほど、
毎日毎日、母とぶつかり合っていたのです。
それは妹がまだ赤ちゃんで、昼夜を問わず一日中わめくように泣き続けていたころからはじまって、2~3歳の反抗期も、幼稚園児、小学生、中学生となっても、
どの時期として落ち着いた良い関係というのはなくて、
いつも母と揉めていたからです。

ですから、私は母から特別にひいきにされる度に、胸が苦しくて、
うれしさと同じくらいさみしく悲しい気持ちを感じていたのです。

母にすれば、内気で、けっして反抗しない私の態度に、
自分が良い母であるという証明や癒しを求めていたのかもしれません。

私をひたすらかわいがることで、
理想どおりいかない妹の子育てを頭から抹消して
理想の子育てを自分はしているのだと思い込みたいようなふしがありました。

母は、おとなしくてまじめで気が優しい性格で、良い子良い子した子どもが
そのまんま正直で純真な心のままで大人になったような人でした。

そんな母が父のような荒っぽいギャンブル漬けの人と結婚したのですから、
それまでの成長の中でどれほどバランス悪く
『良い人』としてしか生きてこなかったのか
わかります。
母は自分の中に『悪い人』をほんの少し受け入れることさえ
拒絶して、
自分の人生のバランスを取るように『悪い人』を自分の代わりにすべて引き受けて生きてくれる父と結婚しました。

そうして生まれた長女の私には、自分の『良い人』のイメージをかぶせ、
父似の妹には、自分の中の『悪いもの』をすべて押し付けて見ていました。

そんな子ども時代の暮らしの中で、
私はいつも変わらぬ愛情を降り注いでくれた母に対し、
どこか屈折した思いを抱いていて、
母の死に際に私が間に合わず、
妹が心を振り絞るように泣きながら最後を看取った事実に、なぜか、ほっとする気持ちを抱いたのです。

私が母に屈折した思いを抱いていたというのは、
母はとにかく優しい人ではあるけれど、周囲に可愛がられて育った
未熟で弱さも残った性格で、

普段はとても優しくて、
食事のことでも、服のことでも、習い事や友だちのことでも
それは気を配ってくれるというのに、

肝心かなめの、子どもが大きな問題にぶつかったようなときには、
自分が一番パニックを起していて全然頼りにならなかったことでした。

中学に上った妹が
たびたび問題を起したときには、
教師や相手側の言うことを鵜呑みにして、簡単に妹の気持ちを踏みにじったり、裏切ったりする一面もありました。

それで、私は自分が子どもを育てるときには、

大きな問題が起こったときこそ、

しっかりと親になろう!

誓いました。

いつ自殺するかもしれない母をなだめたり
はげましたり、母に向かって妹の良い面を話して聞かせたりしながら過した
思春期に強く強く覚悟した言葉でした。

そうして、親になった私は、
普段はかなり手抜きだけれど、
肝心の子育ての急所には、自分の精神力の全てを振り絞って、
覚悟して挑むようにしています。

受験なんかでも、子どもがうまくいかなかったときに、
親まで泣いていたのでは、子どもは苦しみから立ち直るだけでなく、
親の不安まで背負い込まなくちゃなりませんから……
そうした時ほど
けろっとしています。
だからいつもは適当な親なんですが、
こうした本当に子どもがSOSのときは、子どもたちがしっかり頼りにしてくれるので、うれしく感じています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子育てで気をつけてきた3つめのことは、長くなるのでリンクしておくことにします。
☆子育てで気をつけていた3つめのこと 1
☆子育てで気をつけていた3つめのこと 2

☆子育てで気をつけていた3つめのこと 3

にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る

学校に通いだしたら、どんどん勉強嫌いになっていく? 8 (子どもから地頭力を奪わない子育て)

2010-07-11 14:13:23 | 記事のまとめ(リンク)
サッカーのワールドカップ、すごい盛り上がりでしたよね。
私の周辺でも「応援で徹夜して眠くて眠くて~」なんて声を
たくさん聞きました。
最近ではビデオ録画ができますから、何も仕事に支障が出るような夜更かししなくたって、翌日、時間があるとき見ればよいことなんだけど、

やっぱり気持ちの盛り上がりも臨場感も違うから、
寝不足がなんだ!絶対見逃せない~!

というのが、サッカーファンの思いでしょう。

勝つか負けるか先が読めない状態で、
試合を見るのと、

勝負の結果を知った上で、スポーツ中継を見るのとの

ドキドキする思いや面白さのちがいは、
けっこう誰にでも理解できることなのかもしれません。

けれど、「勉強」となると、
解き方や答えがわかっている状態で学んで、
たとえそれが義務のような訓練のような学習だって、
他の子より楽に先に進めていいんじゃない?
と思ってしまいがちなんですよね。

先行してたくさん知識を与えておくことが、
それが学校教育の範囲を超えて幅広い知識なら
「地頭力」がついたと考えてしまう方もいます。

『地頭力』が育つ幼児期 (シアトルからのお客様)
『地頭力』が育つ幼児期 2

『地頭力』が育つ幼児期 3

『地頭力』が育つ幼児期 4
『地頭力』が育つ幼児期 5
『地頭力』が育つ幼児期 6
『地頭力』が育つ幼児期 7

で、
『地頭力を鍛える』問題解決に活かす「フェルミ推定」 
細谷 功 東洋経済新聞社
という本を紹介させていただきました。

この中で、地頭力に逆行する、
「フェルミ推定が必要な6つのタイプの症状と処方箋」として、
次のようなものがあげられていました。(簡単に要約しています)

★「検索エンジン中毒」の症例 
頭が働くより先に手が動いて検索しているいわゆる「コピペ」族。
その結果考える力が退化している。

★「完璧主義」の症例
不十分な情報では作業に着手できない
精度が低い結果を出すくらいなら何も出さない方がよいと思っている

★「情報コレクター」の症例
常に仮設より先に情報を集めはじめる

★「猪突猛進」の症例
周りが見えず自分の視野で猛進する。

★「セクショナリズム」の症例
全体の最終アウトプットを意識せずに
とにかく自分の範囲だけ完璧にしあげることに専念する

★「経験至上主義」の症例
事象を一般化して議論することを嫌う。他者から学べることはないと思っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

子育ての世界でも「地頭力」という言葉がもてはやされていますが、

「検索エンジン中毒」や「情報コレクター」といった

むしろ地頭力を使うときには邪魔になるような思考回路を
幼児に刷り込んでいるように見える場合があります。

それは『地頭力』が、幅広い知識を持っていること
と勘違いされているからのようです。

「考える素材をたくさん持っていること」が、
「考える力があること」と誤解されているのです。

もちろん知識があることや記憶力があることは、
悪いことではないでしょうが、
反射的にそれしかできない子にしてしまうのは危険!と感じています。

子どもが本来持っている、今、必要なことの焦点をあわせて
集中する力が失われ、自分の記憶の情報と、
目にしているさまざまな情報に向かって、
しじゅう気が散っている子をよく見かけるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
話が急に変わるのですが、
ベネッセがおこなった夏の宿題についての親向けのアンケートで、
約4割の親御さんが、
「自由研究」が最も手こずると答えたそうです。

* 自由研究の理科はどうかと思う。実験に失敗したら書けなくてまた別のものをさがしている。
* 自由研究の課題を自分で決めなければならないが、もう少し、先生や学校から、ヒントのようなものがあれば良いと思う。
* 自由研究など、子どもに任せるものについては、せめて手順(調べ方、まとめ方など)を理解させてほしい。白紙の状態で親に丸投げされても困る。

といった親たちの声が並んでいました。

確かにわかる気もするのですが、
もともと勉強って、社会に出て、それまでにやったことがない仕事に着手して、
自分で決めたり、自分で問題を解決したりできるように
子どもを鍛えていくものですよね。

高学年に多い「自由研究」の課題は、
「初めての体験に困る」とか「どうすればいいか自分で悩む」とか、
「何をすればいいか自分で調べてみる」とか、
「わからなければ友達や先生に相談してみる」とか、
「ちゃんとできない自分に向き合う」とか、
「自分のことは自分で責任持つ」とかいう体験をさせるためにあるようなものだと思うのです。

昔の子は危険な川遊びなどで、そうした経験ができましたが、
今、そんな危険なことを子どもにさせることはできませんよね。

せめて子どもが「ちょこっと自由研究で困る」くらいは見守ってあげて、
子ども時代にきちんと「困る」体験をさせてあげないと、
将来の生き辛さを思うと
今の子はつくづくかわいそうだな……と
息苦しくなってしまいました。


にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る




人を天才にするという方法と 天才という言葉  2

2010-07-06 22:42:34 | 記事のまとめ(リンク)
天才や偉人について知ることや学ぶことは、
わが子や多くの子どもたちを「天才」に作り上げようと
願うこととはずいぶんちがいます。

天才という言葉に過剰反応する人というのは、
天才と呼ばれた過去の人物の型破りな生き方や、
天才であっても多くの欠点を抱えたひとりの人であった事実を、
勝手に自分のイメージで脚色しているように感じます。

キュリー夫人やヘレンケラーやライト兄弟の一生などを
自分の人生に重ねて、その簡単にあきらめないねばり強さや
どんな境遇でも学び続ける強さなどは無視して、

天才と言われる人が何したこれした~と自分より
下だと思って安心できるゴシップ的な話題ばかり集めてきて、
天才は~~と愚痴ばかりこぼすのをよく聞きますから。

天才とは、ひとつのことを伸ばすために、他の価値観を捨てていく生き方だという捉え方は、
オリンピックなどの世界で「人工的に天才を作ろう」と無理する場合に
親のエゴが生む考えを指していて、
実際の「天才」という言葉とは線引きしなくてはならないものだと思います。

私はこれまで「天才」とたたえられた人々は、『自分の境遇』

つまり能力、強み、環境などの『自分がもっているもの』を、
自分の力で(親に作ってもらうのでなく)
最大限に生かそうとし続けることができた人なのだと思っています。

例えば、みんなが良い大学を目指すことを教育の目標にしたとすると、
頭脳活動に向いた遺伝子を受け継いだ子や
コツコツがんばる学習欲を強みとする子が有利ですよね。
おまけに経済的にめぐまれていて、
他より早くから競争をはじめ、他の子よりたくさん学習し、
他の子より寄り道せず、他の子より学習だけに専念し、より有利な受験アドバイスをもらい、それに逆らわず、スムーズに受験をし終えればそれは可能なのでしょう。

でも、現実には、努力家なんだけど、考えるのが苦手とか、
頭はいいんだけど、コツコツすることができないとか、
能力は申し分ないけど経済的に恵まれないとか……だれもが
完璧な境遇ではないわけです。

そこで、途中までは、がんばったけど、勝ち組になれないから、
もういいや~って、自分を高めることも、勉強することも、
放り投げてしまうか、

それでも自分の境遇の中でベストをつくしていくか、

に分かれると思います。

これまで天才と呼ばれてきた人は、どんな境遇でも、自分の手札が最悪でも、
自分を見捨てず、あきらめず、育て続けた人です。
ヘレンケラーなんて三重苦です。
それでも自分の可能性を追求し続けたところがすばらしいのだと思います。

一般の人だと、ちょっと他より記憶力が悪いとか、
ちょっと小学校の学習でみんなより出遅れたとかで、自分をあきらめてしまいがちです。
でも天才として名を残した人は、
欠点を抱えたまま、自分の強みを追い続ける強さを持っていたのでしょう。

そうしてその人にスポットライトがあたったとき、
「天才って、ひとつの能力だけ伸ばすために、弱点を克服することを犠牲にしてきた人でしょう?」と簡単に結論づけてしまいがちです。
でも、実際には、もともとハンディキャップを持っていて、それにもかかわらず、自分を精一杯生かしてきた~
けれども、やっぱりハンディーはハンディーとして
成功しても残っている
そうしたナチュラルな人なのだろうと感じています。

だいたい、秀才を育てるとか、英才を育てるとか、天才を育てるとか、
まるで、ロボットの人工知能を操作するように
大人が子どもを自分の思う何かに作り上げようとすること自体に
疑問があるのです。

天才の話にしても、生きた先輩たちの道から、
大人も子どもも気づきや感動を得るなら良いのですが、
それを勝手にメソッドにして、「天才作り」を目指しちゃうと
間違った方向に行ってしまうのでしょうね~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「天才」という言葉、日本ではタブーのように扱われている部分がありますね。

「英才」や「秀才」や「できる子」は目指せる、作れるけれど、
「天才」は生まれつきのもの
誰もが目指してはいけないもの
子どもが天才であってほしいと願うなんて、ずうずうしいにもほどがある…

そんな声をたびたび耳にします。
でも、私は、英才とか秀才とかできる子って言う言葉が、
あんまり好きではないんですよね。
受験戦争や競争社会という小さな枠のなかで
勝ち抜いていけるか…ていう
大人側からの期待や願望から生まれているような気がするからです。

そして「天才」は…というと、レオナルド・ダ・ウ゛ィンチとかアインシュタインのように、
学ぶことを愛してやまず
人生を自分の思うままに生き抜いたイメージ

が、大らか~で好きなんですよ。

「天才」とは、一般常識や他人の期待に振り回されずに、
「自分」の興味と夢を満喫して生きられる人でしょうし
幸運にも「天職」と呼べる仕事と出会えた人なのでしょう。
私は、周囲に認められるか、
その時代から「天才」という言葉を授けられるかは別にして、
子供たちには どの子にも天才のようにいきいきと生きいって欲しいなぁと思っています。あくまでも願望ですが…。


☆あなたも「天才」になれる? 10000 時間積み上げの法則という記事を見つけました。

そこで「天才」が作られる法則としているのが、

1,10000時間を費やせる努力と情熱。開始年齢はあまり関係ないらしい。

2,時代と才能が一致するタイミング

なのだとか…。

引っぱりますが、次の記事でもう少しだけ続きを書かせてくださいね。
1の10000時間を費やせる努力と情熱。

と言うと、エジソンの
「天才は1%のひらめきと99%の汗」という言葉が浮かびます。

本当は、エジソン自身はピピピッとひらめくことを
重視していたらしく、

(1%のひらめきさえあれば、99%の努力も苦にはならないというニュアンスでこの言葉を発言したらしいのですが…。)

竹のフィラメントを発明するのに1万回失敗しても挫折せずに努力し続けたエジソンの姿は、
英才くん、秀才くん、できるくんからすれば、「実験オタク」や、単なる「バカ」なのかも知れません。
天才を作る時間が10000時間という話の真偽の程はどうであれ、

「何かが好きでたまらないこと」
「心底、ひとつのことに夢中になって打ち込めること」
「誰かのためにでなく、自分で自分の人生を切り開いていること」

が天才の必須条件のようです。

2の、運…

私はこれは、偶然の産物ではなく、
宇宙とうまくシンクロできているかどうか…
SQ(精神的知能の略)…意味や価値という問題を提起して解決する能力を
人生のなかで十分高める事ができたかどうかに関わっているのだろうと
思っています。
SQを高めて行くことが、自分を個性的な人生へと導き、天職と出会わさせるのだと感じるからです。

SQとは、
広い豊かな視野に立ち、自分の行動や人生に意味を見出す能力のことです。
数あるなかから、より意味のある行動路線や
人生の道を選ぶための能力です。

「SQ 魂の知能指数」によると…

IQなら、コンピューターも高いです。
EQ(こころの知能指数)は、動物達も高いです。周囲の状況を察知する能力にたけ、過たずにそのルールに従うことができるのです。
しかし、コンピューターも動物も、
なぜそのルールがあるのかも、なぜそういう状況になっているかも
問うことがありません。

SQを持っている人間は、ルールや状況を変えることができます。
限界と遊び、識別し、道徳観を持ち、厳しいルールを理解と同情で
やわらげることができます。
同情や理解が限界に達したら、限界だと悟る事ができます。


IQは、脳内の「直列的な神経配線」にもとづいているそうです。
EQは、「連想を引き起こす神経配線」にもとづいているそうです。

SQは、脳全体のデーターを統一する神経の共振にもとづいているそうです。


「天才」という言葉から、ずいぶん脱線していますが…

SQテスト
柔軟である能力(積極的かつ自発的に適応できる能力)
高度な自己認識
苦しみに立ち向かい、苦しみを利用する能力
苦しみに立ち向かい、苦しみを乗り越える能力
夢や価値に触発される資質
不必要な危害を他人に加えたくないという気持ち
多岐にわたるものごとのあいだに関連性を見る傾向
「なぜ?」とか「もし何々だったらどうなる?」という質問をし、
゛根源的な”答をもとめる顕著な傾向
心理学者が、゛場独立性”と呼ぶものであること。つまり、因習に逆らう器量を持っていること。

↑のテストがたくさん当てはまるというSQの高い人は
世間の評価はどうであれ「天才」と言えるのかも知れません。


(引用は、「SQ 魂の知能指数」ダナ・ゾーハー&イアン・マーシャル 徳間書店)

--------------------------------------------------------------------
脳の研究の第一人者である養老孟司がこんなことをおっしゃっています。

脳には3つの機能があります。「入力」「計算」「出力」です。
視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五感を働かせて
脳に情報を送り込むのが「入力」。
自分がどのように行動したらいいのか、判断のために
情報を処置するのが「計算」。
計算に基づいて行動するのが
「出力」です。出力は筋肉を動かす信号です。
運動として出力されたものは、再び五感によって入力されます。

養老孟司氏によると、脳の発育をうながすには、入力→計算→出力→入力→計算→出力
のサイクルを大きくする必要があるそうです。
野外で虫を追いかけたり、自然と触れ合ったりするような五感をたっぷり使う活動こそが脳の入力を大きくします。

外遊びに興じながら風や気温や湿度を肌で感じること、
自然のなかにある視覚や触覚を刺激する美に感動することが、五感を目覚めさせるのです。

脳というのは「なんでだろう?」という疑問を繰り返して、育ってきました。
外遊びで観察を繰り返すと、この「なんでだろう?」にたくさんぶつかります。
養老氏のお話を読んで、虹色教室に通っている子で、幼いうちから他の幼児教室に通っていて、そこで適応している子の多くに
「なんでだろう?」が少ないことが思い当たりました。

「なんでだろう?」と考える前に大人が子どもに教えてしまうからのようです。
「なんでだろう?」と考えながら育つ脳は、
人に「どうしてそうなるのか」を教えてもらってばかりだと、自分で考える力が低下します。
養老氏は、次のようなことをおっしゃっています。

虫取りをするときは、いろんな方向から見る。すると入力が変わって、その都度いろんな情報が脳みそを通る。……たとえば、このカブトムシはどうして生息地が違うだけで独自の性質を持つようになったんだろうといったことを考える。
すると地質学やらいろんな方面に興味が広がる……そうして新しい自分になるという体験を繰り返す。

養老氏のおっしゃる「入力が変わる」「自分が新しくなる」という姿、
外から見てもよくわかるときがあります。
私は、科学的な不思議を取り入れた工作をしたあとや、
遊びのなかで自分の真の才能に近い活動をしたあとや、
取り付かれたようにモンテッソーリのいう敏感期のお仕事をしたあとや、自分が見た世界を再現する遊びをしたあとで、子どもがまるで「入力」そのものが変化したように
内側から劇的に変わる姿に何度も遭遇しています。

親御さんも口をそろえて「子どもが別人になった」とおっしゃるのです。

別人になるほど子どもに変化を起こす遊びや工作とはどんなものかというと、
「入力」そのものを大きくする活動なのだと思います。
「子どもの世界の見方」に変化を起こすような遊びや工作です。

ハンバーガーを食べに行ったあとで、
ハンバーガーを作る過程から、お客さんから注文をとる様子、
飲み物の機械、仕事の一日の流れ、お金のやりとり、レジの仕組み、
割引券……そうしたさまざまな角度から眺めたものを
遊びで面白く再現するとき、子どもはその後どこに行っても
しっかり観察し、どうやって遊びに生かそうと頭を使い入力の状態を大きく広げるようになります。

エレベーターに乗ったあとでエレベーターを工作で作った子は
その後あらゆるもの対して、その仕組みに関心を持って接するようになりました。
「入力」が変化したのです。
今、幼児向けのさまざまな教材が販売されています。
+1 +2と繰り返させて暗記させていく教材は、ここがよくないと聞くと、
なら、
「絵が描いてあって具体的に見てわかるワークをさがしてこよう」
「文章題も載っているプリントをさがしてこよう」と、
教材のはしごをする方がいます。
ただ、どんなに足りない部分を補っても、
良いものを探しに行っても、ワークはワーク、
プリントはプリント、ビデオ教材はビデオ教材です。

パソコンやゲーム機に例えれば、「ソフト」のバリエーションを増やしたに過ぎないのです。

幼児期はハード部分を作る時期。
ソフトをインストールする「本体」自体の性能を大きくし、入力の容量自体を大きく
する時期です。

つまり脳そのものの機能を育てている時期には、
皮膚から、視覚から、身体全体から情報を取り込み、
さまざまな視点で物が考えられるように育っていかなければ
ならないはずです。

今これほど科学が発達し、コンピューター技術が進歩しても
ロボットの人工知能は、
人間の3歳児を越えることができないそうです。
人間の子どもは、反抗し、自分の意志を獲得し、失敗し、それから学びます。皮膚の温度からも、親のとの会話からも、日常のいたずらからも学習します。

一方、ロボットの人工知能は、外からインプットしていく情報をどんどん高速に処理できても、結局、人間の3歳児を超えられないのです。

それにもかかわらず、最近の幼児教育は、
親が自分の頭でイメージできる枠内で
子どもを賢くしようとするあまり、
わざわざこの能力が低い人工知能に対するような接し方ばかりしているように
感じます。

情報をわざわざ「プリントに印刷して」小さくして、
繰り返しインプットしていくという……
まるでプログラミングでもしている感覚で子どもに教育しようとしているからです。

何をインプットしたかという「ソフト」部分でなく、

どこからどれくらいの容量でインプットできるか、
他人の表情、ニュアンス、大気の温度などの情報も処理できるか、
自分の感情を感じ取ること、決断することといった部分がきちんと動作するのか……
そうした人工知能のまだ獲得できていない高性能な部分を可能にする「ハード」作りこそ大事ですよね。

そうした「ハード」の部分(脳のおおまかな回路)そのものは、幼児期にほぼ完成して、
そこからは、ずっとそれを使って、
さまざまなことをこなしていくことになるのですから。

○○法といった偏った幼児教育は、素人が世界最高レベルの技術者が組み立てている機械作りに
横からしょっちゅうぐちゃぐちゃと手直し(邪魔)
を加えているようなものです。

私たちは、この今の科学ではとうてい作り出すことがとうていできない

幼児期の脳が、自分で自分の脳を作り上げていこうとするシステムに対して

もっと敬意を払い、
それを一歩下がった位置から、手助けしていく必要がありますよね。




にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る

人を天才にするという方法と 天才という言葉 1

2010-07-06 22:33:23 | 記事のまとめ(リンク)
(時々、過去記事の整理をしています♪)
(昨日、もう一度、メールをしなおしましたが、もし今日中に(メールがついたという)お返事のない方には、お電話しますね)

若い頃、保育所でアルバイトをしたときも、
わが子が幼いころ、子育てサークルの手伝いをしていたときも、
私……子どもたちには、モテモテでした。

(大人とは? 仲が良かったり、悪かったり……しつつ大事な親友と呼べる人だけが一人増え、二人増え、年の数だけ大事な友達がまわりに残っていってる感じですが……)

あんまり子どもにかまうほうではないし、はっきり注意もするんだけど、
子どもがわらわら寄ってきて、
背中に乗ったり、腰に巻きついてきたりして、「大好き!大好き!」と言い寄ってくる……
はどこに行ってもよくあることでした。
教室の3~4歳の子のお母さんが、「娘が奈緒美先生がパパより好き!というので、パパががっくりしてました」と言って笑っていたこともあるのですが……
そう……子どもには好かれるんです。
(親しくしているブログのいけいけさんもそうらしい)
おかげで、教室に来るのを子どもたちが毎回心待ちにしてくれるので、
教室運営がとっても楽なんで助かってますが……。

子どもたちが、私のことを「好き」と感じるのって、
本当は、子どもは「自分が好き!」なのだと思います。

私はブログではこの通りおしゃべりきわまりないのですが、
子どもといっしょにいるときは、たいてい「聞き役」なんです。
何か教えることは、過す時間の比率からするとほんの少しだけです。
話を聞くだけでなくて、行動から発信してくるものも聞く、
ぐずぐずやわがままから発信されるものも聞く、
子どもが何が好きか、何が面白いと感じているのか、どんなことを思いついたのかなど……とにかく子どもの内面から出てくるものに「耳をすます」ことが、私自身好きだし、一番興味があることでもあるのです。

それは、私が子どもにしてほしいことを子どもはできるかな?と確かめることではないし、子どもに教えたいことを、子どもが喜んで聞くかどうかとも
ずいぶんちがいます。

相田みつを氏が『育てたように子は育つ』のなかで、

教育とは、あらゆる子どもが必ず持っているその子の固有の長所を見つけて、それに感動してやること、そしてそのことを子どもに伝えてやることだと思う。
短所を探し出して直してやることなど、本当はしなくてもよい
ことだとさえ思っている。
容易なことでは直せないし、その前に子どもの人格を、元も子もない状態に壊してしまうことが多い。

とおっしっています。
「教育」って、そういうもの……と私も感じています。

子どもは、ただ、「聞いて!聞いて!」「見て!見て!」と
自分を外に向かって開いていって、
それをじっくり見て聞いて、「すごいね~」って感動してくれる人が好きなんですよね。
たったそれだけのことで、全身で「大好き」を表現してくれる
愛らしい存在です。
「聞いて!聞いて!」「見て!見て!」のあとは、
「もっと聞いて!」「もっと見て!」が……
そのあとは、「もっともっと聞いて!」「もっともっと見て!」があります。
(まだまだ……つづく……)
それも親や大人が喜びそうもない
親の価値観とは異なる部分で感動してもらうと、「個」としての
その子の喜びがあふれ出てくるように見えるものです。
教室で、算数クラブの最中、テーブルの下にもぐってゲームをするというのを考え付いた子がいました。
「面白いよね。なかなか思いつかないよね」と他の子たちと感激していたら、
その後、その子の独創的な発想が炸裂し、しまいには、算数の学習でもたくさんの良い方法を思いついていました。

そうやって、外から返ってくるフィードバックで
子どもは自分に自信をつけて、自分が好きになっていくんですよね。
自分が好きだと勉強だってスポーツだってがんばって
より良い自分を演出しようとします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アインシュタインファクター』ウィン・ウェインガー リチャード・ポー共著
                          きこ書房
は、学習促進効果研究に生涯を費やしてきた人々の25年間の集大成です。
とてもすばらしくて、よみやすい良書です。
子どもの教育にもとても役立つと思っています。

この著書の中に
オリジナル・オブザーバー
になることは天才へのひとつのステップのようなものとあります。
4歳くらいまでの子は、みなオリジナル・オブザーバーであって、
それがIQテストのばらつきの理由のひとつとも言われているそうです。

オリジナル・オブザーバー……??
とは、

つまり、『推定ではなく、知覚する人』
のことです。

一般に私たちは、専門家という言葉に弱くて、専門家の言動を
盲目的に信じてしまいがちですよね。
素人は口をはさむな!と。
しかし、現実には、さまざまな分野で偉大な発見を成し遂げているのは、
まぎれもない素人なのです。
物理学の教授が認めなかったアインシュタインしかり、
シューマンしかり、マイケル・ファラデーしかり。

天才たちの偉業はすべて、型にはまった意見に疑問を感じる
ことから生まれているのです。

彼ら素人を天才にしたものは何か?

幼児期や学生時代、あるいは社会に出てから
つまらない批評家たちの声に負けないパワーを持っていたということでもあります。

知っているということは、もちろん大切で、「教える」ことは
教育の基本にもなっています。
ただ、『知りすぎて』いたために、解決法を
思いつかないことも
世の中ではよくあることなのです。

本当の解決法とは、私たちがすでに『知っている』ことから、
実際に知覚していることに意識を集中させたとき
生まれてくるもののようだからです。


4歳くらいの子は本来、教えられたフィルターを通して物を見ずに
本来の知覚のままに物をながめて考える
オリジナル・オブザーバー
です。
しかし残念なことに、子どもたちは大人たちから『オリジナルオブザーバー』
であることを いけない ことだと教えられていきます。

そのため、本来持っているかもしれない
『天才的』な能力を発揮することはなくなってしまうそうです。

『アインシュタインファクター』のなかには、知力開発の研究者である
キャサリン・コックが、アイザック・ニュートン、トーマス・ジェファースン、ヨハン・セバスチャン・バッハなど、
歴史上の天才たち300人を調査して、
驚くほど類似した習慣や性格上の特徴パターンがあることを
明らかにしています。

調査の結果、天才の兆候のひとつとして、
幼いときから日記や詩、友人や家族に宛てた手紙などで
自分の考えや気持ちを雄弁に語る傾向があるということ

なのだそうです。

それは作家だけでなく、政治家や科学者などあらゆるジャンルの天才に通じます。

自分の考えや経験、感じたことを日誌や日記、手紙、書物に描くことを習慣にしている人は、1パーセントにしか満たないそうです。
不思議なことに世界の頂点に立った人たちは
すべてこうした1パーセントのうちのひとりなのです。

この話を読んで、教室に来る大勢の子どもたちを眺めて見ると
どの子も「聞いて!聞いて!」「見て!見て!」
が溢れていることに思い当たりました。
そして、大人がきちんと耳をすませて、自由に自己表現する手立てさえ
あたえてあげれば……
それを大人の考えで評価を下したりしなければ、
次第に、それは「書く」「描く」「作り表現する」習慣へと、変化していくのです。

そして、子どもたちを見ていると、どの子も、
オリジナル・オブザーバーなのです。
たとえ、その発想や考えが幼稚で間違っていても、
励ましていると、それはすばらしいものへと進展していきます。

でもこうした子どもの内面から外へと発信されるものは、
子どもは受動的に大人からインプットを受ける存在という見方が強いと
受信しにくくなります。
読み聞かせや語りかけのような
本来子どもに真の栄養となるものさえ、
子どもが発信するものにゆったりじっくり聞き入る気持ちがなければ、
子どもが本来持っている天才の兆候をつぶしてしまいかねないのです。


「あなたの気持ちがしりたい」
「あなたの見たものが知りたい」
という大人の子どもに向かってゆっくり開かれた態度は、
子どもの表現したいという思いを刺激します。
たとえ子どもの感情が負のエネルギーに満ちたものであっても
評価をくださず、大人がしっかり受け止めてあげれば、
それは子どもの心に正しい判断をくだす時間を与えます。
また、自分の心を偽らず、何でも書いて表現する意欲へと
つながっていくことでしょう。

神経学者たちは、遺伝や外部からの刺激ではなく、
むしろ私たち自身の自発的な表現行動がフィードバックの
輪を作り、
これこそが私たちの脳の大部分を発達させる
といっています。
それを『表現の回路』と呼んでいます。

教育、特に幼児教育と家庭教育では、
大人が子どもに対して、
動物に調教するように何かを教え、練習させるのではなく、

子どもが自分の見聞きしたものを自由に表現することを応援する

子どもの喜びに共感する態度

こそ最も大切なのだと感じています。


私は学習促進効果の研究で『天才』が調べられているため、面白く感じて、
この話を取り上げていますが、
別に天才を作りあげたいと思って何かしているわけではありません。

きちんとした「しつけ」や「コミュニケーション能力」を発達させることも
とても大切だと感じています。
現在は確かに、最低限のことができない人も多い……でもそれは、
自己表現を重視して、幼児期にしつけをおこたったからそうなったわけではありません。

むしろ、生産と消費が際限なく欲求や欲望を生むなかで、フロムのいう「現代社会の過剰と倦怠」といった
退廃的なムードが多くの人々に浸透しているからではないでしょうか?
自分の勲章にできるような子に育てようとする大人の思いが、
思い通りの子に作り上げたいという気持ちを生み、子どもから自主性や主体性や創造性を奪ってもいます。
ブログを書いていると「通りすがり」という匿名性のもとで、「天才」といった一部の言葉に過剰反応して愚痴っていったり、現代の子どもを非難していく方がいるのです。
子どもの問題は、大人の姿や態度そのものでもあります。
批判ではなく、自分の内面に光を当てる作業こそ大事なのではないでしょうか。




にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る

自閉症の子とともに過した時間 ♪

2010-07-05 12:16:29 | 記事のまとめ(リンク)
先日、用事で市の施設に行ったら、
以前の記事に書いた 工作の最中に暴れまわっていた男の子
会いました。
その子は、私が工作を教えに行っていた期間、
毎回、暴言を吐いたり、暴れて物を投げたりして、
その都度、私との間で激しいバトルとなっていました。

が、そうして激しくぶつかりあって別れたにもかかわらず……

久しぶりに会うと 満面の笑みで寄ってきて、
「先生!ぼくと よくけんかしたよなぁ!」と言うのです。
思わず噴出してしまいました。
数人のお友達にも
「ぼく、この先生とよくけんかしたんだ!」とうれしそうに、
説明しています。
私も その子がお友達とうまくやれているようなので、すっかり
うれしくなってしまいました。

私は、子どもが問題行動を起こす場合、我慢したり、迷ったりせず、
やったことの何がどう悪いのか、
軽い気持ちでしたことがどういう結果を生むか、
はっきりピシャリと言うので、

あまりに荒れるので、周囲が腫れ物に触るように接している子の場合、
私が注意することで、子どもはさらに暴れたり、暴言を吐いたりすることがあります。

それでも、やっぱり目に付いたときに ダメはダメ!と、
言っておいた方が 私の精神衛生上にもいいし
子どもも、回数踏めばわかってくるものです。

子どもがヒートして大騒ぎをしている間……
私は、
その子の良いところと 、その良いところを大切にしていたら、
きっと来るだろう明るい未来のことを、
こんこんと言い聞かせます!!
子どもは、
「うるせー」とか、わめいてますが、
(そういうの……うざいおばさんなんですよね
何度も繰り返していれば、本当かなぁと信じ始めます。

なぜ、信じ始めたとわかるかと言えば、
発達障害のある子の中には、それまで周りから言われてきた自分の暗い将来のことを
信じきっていて、いじけるたびに、 
それを言うくせがある子がいるのです。

でも何度もいい所や良い未来を教えていると、
そうした暗い発言が、
みるみる減ってくるんです。

お友達に乱暴をしたり暴言を吐いている子を見つけたときは、
「意地悪なこと言いそうになったら 一回でもがまんしていたら、
仲のいい友達が増えてくるよ。
○くんのさっぱりしてて勇気があるところを、
いいなって思ってくれるようになるよ。」
といった感じに、その子の長所を言い聞かせます。

「そんなことをしたらお友達が
いなくなるよ。」なんて、言い聞かす必要は、
ないと思います。
発達障害を持っている子は
深く考えずに
「ぼくには一生 友達がいない!」と断言したりします。

叱るのも、感情的になるのも、時にはOKだけど、
子どもの未来を暗い想像で彩ることだけは、
絶対してはいけないこと!!
と感じています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今日は自閉症の子たちといっしょに過した時間を記事にしたものを整理しました。

★(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 1
★(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 2
★(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 3
★(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 4
★(鎌倉で……)知力、能力、意欲を引き出すってどうするの? 5
★(鎌倉で……)意欲的に算数に取り組むための教材 6
★(鎌倉で……)意欲的に算数に取り組むための教材 7


自閉症の☆ちゃん♪ かかわりたい気持ちを引き出すコツ

自閉症の子に新しい遊びを教えていく方法

自閉症の子に 気持ちを教える方法

できないところより できるところに注目する♪

☆できないところより できるところに注目する(2)

☆自閉症の子に言葉のクイズを解かせるコツ

☆同じことばかり繰り返してしまう‥自閉症の子


にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る



多元的知能に関する過去記事です♪

2010-07-05 12:11:03 | 記事のまとめ(リンク)
多元的知能に関するご質問をいただきましたので、過去記事を紹介させていただきます♪


このブログでも何度か取り上げさせていただいたMI理論…
「多元的世界の世界」の著書のエピソードのタイトルは「2013年のMI理論」

その中に、

2013年までに知能が多元化に値するという考えがより幅広く
受け入れられているなら、私は本当に満足するだろう

と著者の痛切な願いが書かれていました。
私もMI理論が教育の世界に浸透していくことを、切に願うもののひとりです。

2013年に近づきつつある今、多元的知能という考えは
多くの方に受け入れられてきたのでしょうか?

最近はかつてのような成績至上主義は影をひそめていますね。
私は、脳科学の進歩などのおかげで、
年々、そうした多角的な視野に立った教育法が
理解されているように感じています。

『子どもの脳が学ぶとき』の著者の戸塚 滝登先生が教育現場で実践されていた
教育も、このMI理論を素晴らしい形で教育現場に生かしたものであると思います。
親子レッスンでお会いする親御さんたちも、大きな視野で子どもの教育を捉えている方が多いです。

やっぱり2013年に向かって、一歩一歩、教育は進化しているのでしょうね。
数年すると、人の育ちを多元的に見て、
教育の世界に役立てていくことが当たり前のこととなっていることを
願っています。

多元的知能の関する過去記事です。


☆ 多元的知能を評価するテスト!? 1  IQを超える試み


☆多元的知能を評価するテスト!? 2 エジソンくんは救えるのか?


☆多元的知能を評価するテスト!? 3 科学編

☆多元的知能を評価するテスト!? 4 学業成績とは何でしょう?

☆ 多元的知能を評価するテスト!?5 得意分野と不得意分野




にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る


にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る

学習の 効率 をよくするにはどうすればいいのですか?

2010-06-30 07:44:57 | 記事のまとめ(リンク)
☆幼児期には最上位のフレームワークの要素に注目して教育することが大事!
☆幼児期には最上位のフレームワークの要素に注目して教育することが大事! 2

の記事に、
「遊びと学びの中間ゾーン」に踏み込んでいくことで「効率」は
鍛えられるのでしょうか? というコメントをいただきました。

「遊びと学びの中間ゾーン」に踏み込んでいくことと「効率」には深い関係があると思います。
それとは別に学習の全体像をつかんで、急所を押さえて学ぶということも大事だと感じています。

虹色教室には、月1回だけレッスンに通ってきていて、中学入試の学習内容をどんどんマスターしていっている3,4年生が通っています。
宿題を出すわけでもないので、本来、月に2時間学ぶだけでそれほど能力が上っていくのは難しいことだと思います。
でも、現実に急速にさまざまなことができるようになっています。

なぜか……?というと、
まず私はどんどん魚を食べさせるのに力を入れているのではなく、
「魚の釣り方」を教えているからだと思います。

ゆるやかな階段を作って確実にマスターさせるのではなく、

問題がどんなに複雑になってもシンプルな線分や面積図になおす方法……

複雑なものを赤ちゃんでもわかる簡単なシンプルなものに翻訳する方法を
教えているので、

ひとつ覚えれば何にでも応用が利きます。

また宿題は出さないけど、プラモデル作りやボードゲームでの遊びを
お家で十分できるようにして、
子どもが自分から喜んで
設計図を読み取ったり、ルールの本を読み解いたりして
能力を高められるようにしています。

また☆「脳が喜ぶ」勉強法の記事でも
書いた

人間の脳は 簡単でも 難しくても働きが悪くなるので、
今の自分のレベルにちょうど合った学習をして
脳内で快楽を感じる物質 ドーパミンがどっとでるようにしていることです。

自分でレベルを合わせる…
というのが大切。
それを繰り返すと 脳そのものが
とても優れたものに 変わってくるそうですから。

虹色教室の子たちには難なく難しい問題を解いていく年長さんたちや
かなり難解な問題をささ~っと解いてしまう小学生がいます。
そうした子たちと、易しいレベルの問題にもつまずく小学生の子を見ていると
能力そのものはあまり変わらないです。

かなり違うのは、易しいレベルの問題にもつまずく小学生の子は
いつもはじめにヒントや答えがしるされている簡単な学習からスタートして
反復練習をしているので、
問題を見たとたん、頭をぼや~っとさせて、
普段、おもちゃをねだるときや、テレビゲームをするときには
発揮できるような集中力や思考力を使わないで
催眠術にかかったような穴を埋めてく作業感覚で
学習をしているのです。
勉強に対する錯覚や思い込みがたくさんできている様子です。
文章題は、よく読まなくても出来る問題ばかり解くうちに、数字だけ見て解くくせがついています。見たことがないものは解いたことがないので、「やったことがないから解けない」と言って考えようともしません。

虹色教室の子たちは、問題の急所を押さえる練習をして
短時間に問題の全体像を把握する練習をしているので、とても効率がいいです。
いつも少ない量だけど、やったことのない問題にチャレンジしているので、
毎回本気で考えて解いていきます。

力の注ぎどころがわかっている感じです。
そうした集中力をつけるために、
私は幼児や低学年の子にだらだら何十分も勉強させるようなことは
絶対させないようにしています。

まずこの時期の子は、お勉強モードに入ったら
全力投球して考えさせたいからです。
子どもの気持ちが盛り上がって
問題を解きたい!という気持ちが伝わってくる以上には知的な問題はさせません。
「もっとやらせて!」というところで、さっさと終わらせます。

持久力をつけるために、本人が楽しめる遊び……
折り紙やトランプゲーム、積み木遊びなどをたくさんすることも大事です。

それと☆幼児期には最上位のフレームワークの要素に注目して教育することが大事! 2
の記事でも書いたように

遊びを通して脳そのものの性能を良くして
少しのがんばりで、すばやく学べ、たくさん吸収できるようにしておくことも
効率を大きくアップさせてくれると思います。

学習の急所を押さえて解く

魚を食べさせるのに力を入れているのではなく、
「魚の釣り方」を教える

ことで効率的に難しい問題も解けるようになる……ということを書かせていただきました。
でも、ちょっとわかりにくいですよね。

そこで、年長さんの3人さんのレッスンの様子から
学習の急所を押さえる方法をどうやって教えているのか説明しますね。

今日はSくんが田舎に帰省中で、TくんとYくんのふたりのレッスンです。

最レベ1年生の

和差算の問題にチャレンジしました。

だうすけくんと かなこさんが といた さんすうのもんだいの かずをあわせると、11もんになります。
だいすけくんは かなこさんより 3もん すくなく もんだいを ときました。それぞれなんもんときましたか。

という問題です。

こうした問題は、いつも考えずに作業のように問題を解いている子だと、11-3とか、11+3などと、とんでもない計算をすることがあります。

TくんとYくんには、まず問題をよく読んでもらって、
最初の設定のあわせて11もん……とある11個の積み木を手元に用意して、

だいすけくん

かなこさん

のふたりのために問題にそって、積み木を分けてもらいました。
そうしたとき、大事なのは、

だいすけくんは かなこさんより 3もん すくなく ……の部分。

積み木だと3個ちがうわけですから、まず、3個をだいすけくん、かなこさんのどちらが多くて、どちら側に3個を置けばいいのかを最初に集中して考える。

その後で、残った積み木は同じ量ですから、
同じ数に分ける。

という手順で解いてもらいました。

算数の問題は、
こうした問題の解き方をひとつしっかり理解すると、問題が難しくなってきても
どんどん解けていけるような部分があります。

算数は、おもちゃの剣と剣を比べて……どっちが長い?ってするのの延長線上にあります。
そこで、大事なのは
どれだけ長いのか、ちがいのある部分にきちんと注目すること。
AはBより少ない~なんて言葉も、ならこっちが多いんだとシンプルなまぎらわしくない形にすぐ変えれること。

に慣れていくと、
問題を読んでいるうちに何がなんだかわからなくなって、エネルギーの注ぎどころがぶれて、解けなくなった、間違ったとならなくなります。

最初に何から手をつければいいのかな? 確定しているものは何かな?
比べる形に線であらわすとどうなるのかな?

そうした考えていく上で必要な手順さえ
身につければ、6年生の問題であっても
それほど複雑なわけではないのです。
複雑に見せられているだけです。
そうした錯覚を、簡単な手順の中で、シンプルに整理していけば、
こんがらがることはありません。

といってもTくん、Yくんは、これまで遊びやゲームのなかで
こうした概念にたくさん慣れているので、こうした問題に触れていますが、
お家で子どもに教えていく場合、小学生になってからで十分だと思います。

それより幼児期は工作やゲームで
量の多い少ないを感覚で捉えたり、
自分の損得を言葉によってだまされたりしないようにしていくことが、
算数の得意な子を作ると思います。

にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る

創作活動で育むイメージする力、考える力、意欲  1

2010-06-30 07:16:20 | 記事のまとめ(リンク)
サンテグジュペリの『星の王子様』は、

「子ども時代、何度か読んだことがあるけれど、
当時はよく意味がわかっていなかったな~
今だと心の深い部分でしっくりするな~」

と感じる童話のひとつです。

サハラ砂漠の不時着した主人公が
星の王子様に
「羊の絵を描いて」とたのまれて、
しまいに投げやりになって、
簡単な箱を描いて、「君の欲しがっている羊はこの中にいる」と告げると
王子様が顔を輝かせて

「これはまさに私が欲しかったものだ!!」と大喜びし、
「中に羊の餌も一緒に入っていますか?」とたずねるシーンが、
あります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ただの箱」の中に
想像するものをありありと見て、
心を躍らせる

のって、子どもだからこそできる
すごい才能だな~っと思います。


虹色教室通信 別館  つくるんクラブ
で、ティッシュ箱に折り紙2枚貼って、少し切り込みを入れただけ……
という「へんてこりんなゴミ収集車の工作」を
紹介したところ、
次のようなコメントをいただきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先日このごみ収集車を一緒に作ったところ、めちゃめちゃ喜ばれました~!ありがとうございます!
初めは、かなりいい加減な仕上がり具合になってしまい「こ…これを大好きなごみ収集車(息子はごみ収集車大好きなんです)だと言って納得するんだろうか」と心配しましたが、とんでもない!すごく喜んで遊びました♪そして今日またこのごみ収集車を出してきて「[息子]のごみ収集車…カッコイイ☆」とうっとりしたカンジで言ったんです~!つくづく簡単工作ってすごいな~と思いました。それにこの作品の魅力がイマイチ把握できてなかった自分…まだまだだなぁと思いました(笑)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そうなんですよ!
子どもって……

想像力で補う部分が多いほど
目を輝かせるんですよ~

子どもって、どの子も星の王子様そっくり!

おりがみをくるくる丸めて、「まきずし」「望遠鏡」なんて作品でも
とっても満足して、大事そうに持って帰りますから。

そういえば、今朝、
うちの子たちと携帯のゲームについて話していたとき、
息子がこんなことを言ってました。
「ゲームで自分の技を磨いて、攻略していくことに喜びを見出すのじゃなくて、
誰かに自分の代わりに点数を稼いでもらって、
とにかく得点だけ競いたいって子が増えているんだね。
(私のは話を聞いて言ってます)

最近さ、もうどの子も受け身な遊びには飽き飽きしてきては、
いるんだよね。
ゲームするのも、テレビ見るのもめんどくさい~て声もよく聞くから。

遊びって、結局
自分で主体的に創造的に関わらないと
本気で楽しいって思えないものだよ。
でもさ、最近は、
自分でさあ、何かしよって思うと、外遊びでも
ハードルが高くなってるよね。
あれやってみよ、これやってみよって
気楽に何かできない雰囲気があるじゃない……」

そうか……ハードルが高いのか……と考えていて、
あっという間工作に子どもが目を輝かせる理由がちょっとわかった気がしました。
「またやりたい」「お友だちにできること見せてあげたい」「自分で遊びを提案したい」と子どもが思ったとき、
ハードルが低いのですよ~
簡単な工作は……!!
簡単実験もです。
たくさんこうした体験を積むと、
自分自身で、自分の時間を豊かにしたり、
自分の欲求を満たしたり
自分で自分を喜ばせることが上手になってきます。

それで、いつもいきいきとして意欲的で
情緒が落ち着いた子になってくるのです。


☆工作をさせるときのポイント (3、4歳児3人レッスン)

☆ミニティッシュの箱で作る工作♪ と算数学習

☆工作と勉強の中間ゾーン

☆Sくんのプロペラマシーン改造案♪

☆ブロック教室で学んでいる 5つの機械を作る基本的なしくみ です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(過去記事から♪)
仲の良い……とても信頼できる友だちや知人、数名から、相田みつをの本を
いただいたことが何度かあります。
口を揃えて言うのは、「大衆的だと思って敬遠していたけれど、とてもよかったの」という言葉。
私も、読むたび、年々、
その良さが、心に響くようになった気がします。

一番好きな著書は、

相田みつを 書 
佐々木 正美 著 

の『育てたように子は育つ』

この本には、子育ての実話が相田みつをの書といっしょに載っていて、
とても考えさせられるものです。

ささいな親の注意にカッとして、母親のろっ骨を折ってしまったり、窓を割ったりする若者に共通しているのは、
小さい頃「素直ないい子」なのだそうです。
「やらなければならないこと」を優先する習慣がついて、
本当にやりたいことをやる能力を失ってしまったのです。

それに大きな悔いと不満を感じ、混乱し、人生をやり直そうとしているかのような行為。
両親は自発性や創造性が育つよう、干渉し過ぎないやり方で根気よく
やりなおさなくてはならないそうです。

相田みつを の 待つ という美しい書に、
佐々木氏が次のような話をそえています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子どもに限らず草花でも農作物でも、何でも育てることが上手な人は、
待つことが上手な人だと思う。待っていることに喜びや楽しみを感じていられる人である。
日常で、最善をつくしているという実感があれば、待つことの楽しみは最大になるであろう。結果を問わない気持ちができていれば、待つことは安らぎでもある。

子どもを育てるとき、努力と結果を問題にするならば、先の結果より、努力の「今」に共感してやりたい。
休息の「現在」であれば、その現在を静かに見守ってあげたい。

休息が終わって活動を再開するのを、いつまでも待ってやりたい。
はた目には待ってやったことが無駄だったように見えても、かけがえのない親子のような関係の者にとっては、苦楽を分かち合ったものにしかわからない
存在の重みの感動が必ず残る。
だからじっと待ってやりたい。

子どものなかの自律性や自立性は、待ってやるからこそ育つ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
わが子も、教室の子も、とてもすばらしい成果を目の当たりにするとき
というのは、他のようにできなくても
のんびりゆっくり待ってあげた結果だな~と思います。

好きなことばかりして、苦手なことから逃げてばかりいる
すぐお友だちに手が出る
かんしゃくを起す
よく泣く
何をするのも遅い
よく忘れる 

子どもが大人の期待通りに動いてくれないときに、
しつけたり、子どもに正しい見本を見せたりして最善はつくす

でもできるできないは、時を待つ~

とのんびりゆっくり構えていたら、どの子もすばらしい才能をしるし
はじめます。
特に、他の子の何倍も時間がかかって、それを待っていてあげた子は
本当にすばらしい力を発揮し始めるんですよ~。

わが子にしても、「この子のこういうところすばらしいな~」と感激する
部分は、教えた結果でなく、「待った」結果、身についたことばかりなのです。

「小さい頃にきちんとしつけないと、わがままな子に育つ」と言って
おどす人は多いと思います。
でも、小さい頃に親の言いなりでいい子をしていても、
思春期になれば、ほとんどの子は生意気で軽はずみな行動が多くなってきますよね。
でも、待ってあげる という親の姿勢は、
子どもの心に深く届いて、義務ではなく自分の本心から生じる
優しさを生むように思います。

かつて勉強を見ていた近所の子に、
大きくなって久しぶりに会うとき、
小中学生の頃は
好き放題言うので、私もずいぶん勝手を聞いてあげたものだけど、
本当に優しくしっかりした子に育って、
自分で考え、ばりばり仕事しながらがんばっている姿を見て
うれしくなるのですよ~
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
写真はブロックで前方後円墳を製作中の男の子。
にほんブログ村 教育ブログ 幼児教育へ



web拍手を送る