高霊の宮殿の場所から「大王」と彫られた土器が出土 

2024-07-11 21:52:13 | 歴史に照らして整合性を!
 

【独自】泥岩層から出土した大伽耶初の「大王」の痕跡…

1500年の謎を解くか

登録:2024-07-09 07:09 修正:2024-07-09 07:56
 
伽耶人が用いた最高指導者の呼称の謎 
高霊の宮殿の場所から「大王」と彫られた土器が出土 
伽耶が支配者に新羅のように「大王」と呼称したと推定 
 
 
「大王」と刻まれたと推定される土器のかけらの銘文の細部と土器のかけらの全体像。土器のかけらの下段に「大」の字とその下に一部字形が崩れた「王」または「干」と読める不完全な1文字が連続して浮き彫りになっている=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 大伽耶は、約1500年前に慶尚道西部と全羅道東部にかけて繁栄し、新羅と競合した強力な小国家だった。大伽耶の人々が最高首長を当時の新羅のように「大王」と呼んだことが推定できる遺物が出土した。

 先月27日に発掘調査が終った高霊(コリョン)の大伽耶邑延詔里(テガヤウプ・ヨンジョリ)555-1番地の「大伽耶推定宮城跡」I-1区域の堀(防御用の池)跡の内部の底の泥岩層から出土した土器のかけらがまさにそれだ。先月21日に発掘機関である大東文化財研究院が、宮城跡と堀跡についての現場説明会を開いた直後に出土した、6世紀初めごろの大伽耶系の土器で、未公開の遺物だ。

 この土器のかけらを調べたところ、下の部分に明確な「大」の字と、一部字形が崩れて「王」または「干」の字と推定できる不完全な形の1文字を垂直の構図で続けて浮き彫り(陽刻)にした模様が確認された。

 「大」の字は全体が明確に表れ、その下の字は上の部分の画だけが残っているが、「王」であることが明らかだとする見解が有力だ。慶北大学のチュ・ボドン名誉教授ら古代金石文を研究する一部の歴史学系の専門家らが事前に鑑識した結果、「王」の字であることがほぼ確実だとする意見を提示したことが分かった。

 
 
慶尚北道高霊郡大伽耶邑内の大伽耶の宮城と推定される遺跡の堀底で発見された、「大王」と刻まれたと推定される土器のかけら=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 「大王」と判読する場合、出土場所が明らかな大伽耶の遺物から「大王」という呼称名が確認された初の事例となる。大伽耶が最高首長を「大王」と呼んでいたという実物の資料になるという点で、支配勢力内部の階層構造を把握する具体的な端緒を発見したという意味が大きい。

 「三国史記」や「三国遺事」などの朝鮮半島の歴史書には、高句麗や百済、新羅の首長は「王」と呼ばれ、新羅の場合、6世紀初期に仏教を公認した法興王の時代に「大王」という称号を使用していた記録が伝えられているが、大伽耶の人たちが首長をどのように呼んでいたのかについての歴史的資料はない。

 ただし、朝鮮半島関連の歴史的記述の歪曲が激しいという指摘を受けている7~8世紀の古代日本の歴史書である「日本書紀」には、慶尚南道咸安郡(ハマングン)一帯にあった安羅国(安羅伽耶)と伽耶(大伽耶)では王という称号が使われていたという内容が残されている。このような脈絡から、大伽耶の首長が「大王」という称号を用いていたのは、伽耶帝国の他の伽耶勢力の間で優れた地位を誇示し、新羅や百済とは同格の国であることを示そうとする意味があるものとみられる。

 
 
「大王」と推定される字が刻まれた土器が出土した大伽耶の宮城と推定される遺跡の土城壁の下の堀の様子。底面に黒ずんだ泥岩層が見える。ここから銘文土器が出土した=大東文化財研究院提供//ハンギョレ新聞社

 出土場所が宮城跡と推定される遺跡の下方の堀の底である点も重要だ。土器自体が、学界が実体を追跡してきた高霊の大伽耶の宮城跡であることを立証するもう一つの考古学的根拠になるためだ。

 大伽耶系の遺物で「大王」の銘文が出土した先例としては、1990年代から忠南大学博物館が所蔵している「大王」と刻まれた大伽耶系大型土器の有蓋長頚壷(蓋付きの首の長い壷)がある。しかし、出処不明の盗掘品の性質を持つ購入品であるため、信憑性に劣るという限界がある。

 出土した大伽耶土器のなかでは別の銘文が刻まれた事例も珍しいが、一部報告された事例が知られている。慶尚南道陜川郡苧浦里(ハプチョングン・チョポリ)から出土した「下部思利利」と記名された土器が代表的で、大伽耶が古新羅のように地方行政単位で部体制を整えていたことを示す遺物とされる。

 
 
忠南大学が所蔵する「大王」と彫られた有蓋長頚壷と、この壷の蓋と胴体の部分にそれぞれ刻まれた「大王」の文字=国立金海博物館提供//ハンギョレ新聞社

 大邱韓医大学のキム・セギ名誉教授(考古学)は「大伽耶は他の伽耶の小国とは違い、5世紀末に中国南朝の南斉に使節を送り、首長が公式に爵位を得て、その後は新羅のように古代国家級に成長することになる」とし、「大王と刻まれた土器の発見は、古代国家の段階に達した大伽耶の国家体制の実体を示す重要な成果とみられる」と述べた。

 大東文化財研究院は9日午後2時、大邱市頭流洞(テグシ・トゥリュドン)にある研究院の建物で、古代史や考古学の専攻者らを招待し、銘文土器を公開して意見を聞く説明会を開く予定だ。

ノ・ヒョンソク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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遺体はミイラ状態だったという。警察は零下の気温と遺体の上を覆った氷のため、遺体が保存されていたと説明した。服と登山靴、ヘルメット、アイゼン、結婚指輪なども、ほぼ元の状態を保っていたという。

2024-07-11 11:02:57 | しらなかった
 

22年前に遭難した米国人登山家の遺体発見

「山の一部だった父が帰ってくる」

登録:2024-07-11 07:53 修正:2024-07-11 09:38
 
ペルーの雪山で22年前に失踪した米国人登山家 
最近遺体発見…火葬後、遺骨は家族のもとに
 
 
ペルーのワスカラン山で5日、米国人登山家のウィリアム・スタンプルさんの遺体が収容された/AP・聯合ニュース

 ペルーで最高峰を登山中に行方不明になった米国人の遺体が22年ぶりに発見され、家族のもとに戻ることになった。

 9日(現地時間)、英国ガーディアンなどの海外メディアは、ペルー警察が最近、ワスカラン山(標高6768メートル)の標高5200メートルの地点で、1体の遺体を発見したことを明らかにしたと報じた。警察は5日、雪山登山ガイド会社所属のガイドらとともに遺体を収容し山のふもとに移した。

 死亡したのは、22年前に登山中に行方不明になった米国人のウィリアム・スタンプルさんだと確認された。スタンプルさんは2002年6月24日、知人2人とともに登山し、雪崩れに遭い遭難した。当時スタンプルさんは58歳だった。一緒に遭難した知人のうちの1人の遺体はすぐに発見されたが、もう1人の遺体は現在まで発見されていない。

 スタンプルさんの遺体はミイラ状態だったという。警察は零下の気温と遺体の上を覆った氷のため、遺体が保存されていたと説明した。服と登山靴、ヘルメット、アイゼン、結婚指輪なども、ほぼ元の状態を保っていたという。警察は所持品の運転免許証とパスポートから、スタンプルさんの身元を確認した。

 
 
ペルーのワスカラン山で5日、米国人登山家のウィリアム・スタンプルさんの遺体が収容された/AP・聯合ニュース

 行方不明者の遺体の発見は、異常気象とも関連があると分析されている。ペルー政府は、異常気象で万年雪(氷河)が溶け、氷に埋もれていた登山客の遺体が出てきて発見される事例が大幅に増えたと明らかにした。全世界の熱帯地方の氷河の約68%がペルーにあるが、熱帯地方の氷河は異常気象に特に脆弱だ。ペルー政府が昨年11月に発表した報告書によると、異常気象によってこの60年間でペルーの熱帯地方の氷河は56%減少した。

 22年ぶりの遺体収容の知らせに接したスタンプルさんの家族は驚いた。スタンプルさんの娘のジェニファーさんはCNNに「(知らせを聞いて)心が沈んだ。22年間、父がそこ(ワスカラン山)にいるという事実を受け入れてきた。父は山の一部で、もう父を取り戻すことはできないと思っていた」と述べた。彼の息子のジョセフさんは「22年たっているので、少しショックを受けた」としながらも、「今は希望を持って父を家に迎えるとき」だと述べた。

 スタンプルさんの妻のジャネットさんは、夫の遺体収容について、「多くの人の祈りに対する答え」だと語った。ジャネットさんは、「夫は登山を本当に好きだった。彼は山の頂上にいるとき、神に最も近づいたような気持ちになると話したりしていた」と回想した。スタンプルの遺体はペルーの首都リマにある葬儀場に移されて火葬される予定で、その後、遺骨は米国の家族の元に戻る。

キム・ユンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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