朝鮮が作った米で
日本の消費支える…帝国のフードシステムから見た経済史【レビュー】
紅参と酒税は総督府の財源に
植民地の食料産業研究によって明らかに
「1次史料を用いて客観的な理解を追求」
『飲食朝鮮―帝国が再編した食経済史』
林采成著、イム・ギョンテク訳|トルベゲ刊|3万2000ウォン
朝鮮半島に対する日本の植民地支配は、政治と外交、軍事などの分野に限定されたわけではない。生存に必要な食材や食文化でも植民統治の影響は明らかだった。米が足りなかった朝鮮半島からむしろ日本に米が流出し、それによって植民地の朝鮮人の体格が低下したのは端的な例だ。日本の立教大学経済学部教授の林采成(イム・チェソン)氏による研究書『飲食朝鮮―帝国が再編した食経済史』(原著の副題は「帝国の中の「食」経済史」)は、米や牛、明太子、牛乳、ビールなど9種類の食料産業と飲食文化を通して日本の朝鮮支配が持つ経済的意味を掘り下げる。
著者は議論を展開するために「フードシステム」という概念を導入する。フードシステムとは、食料の生産から流通・加工を経て消費行為に至るまでの全過程を意味し、生物学的な側面と政治・経済的側面、社会文化的側面を併せ持つ概念だ。日本による植民地時代の朝鮮半島の経済状況をめぐり、植民地近代化論と収奪論が両極端で対立している状態で、可能な限り統計や文献などの1次史料を用いて「事実に基づいた客観的な歴史理解」を追求したと著者は明らかにした。
強制合併に続く土地調査事業が終わると、朝鮮における日本人の耕作地の所有面積が急増した。1932年になると日本人が朝鮮内の水田全体の16.1%を所有することになるが、そのうち88.8%が小作地であり、ほとんどの日本人が植民地の地主だった。 朝鮮総督府が推進した「産米増殖計画」により米穀生産が大きく増えた。生産された米穀のうち輸移出量は1912年には4.5%に過ぎなかったが、1921年には21.9%に増え、1936年には51.4%を記録するに至った。日本の1人当たりの年間米消費量が1930年代まで1.3石前後を保っていた一方、朝鮮の米消費量は併合の頃の0.9石ほどから、1930年代前半には0.5石前後にまで落ち続けた。その理由がここから分かる。朝鮮の米消費を抑え日本の米消費を一定水準に保つこのような政策は、朝鮮人の栄養供給と身体発育に致命的な結果をもたらした。著書によると、「成人男性の身長は1900年代から1920年代半ばにかけて約2センチ大きくなったが、1920年代半ばから1945年まで約1~1.5センチ小さくなった」という。
朝鮮から日本に持ち出されたのは米だけではなかった。牛も毎年5~6万頭が日本に移出された。1923年に農家100世帯当たりの畜牛頭数は朝鮮が56頭、日本が24頭であり、畜牛総数は朝鮮が161万頭、日本が143万頭だった。日本牛の屠殺率が出産率を大きく上回り、牛の市場構造が慢性的な供給不足に陥り、朝鮮牛がそれを埋めることになった。その結果、日本牛の頭数は増加した反面、朝鮮牛の頭数の増加は停滞した。それだけでなく、概して出産率も高く役用牛としても優秀な朝鮮の2~3歳の雌牛が日本などに流出した結果、朝鮮牛の体高と体重が1920年代から1940年代まで低下し続けるなど、朝鮮牛の劣等化が進んだ。このような米と牛の事例から分かることは、植民地朝鮮が日本の食料基地に転落したという事実だ。
朝鮮の特産品として特に中国で人気が高かった紅参は総督府の専売の対象であり、総督府の財政の安定的な収入源となった。総督府は日本の財閥系資本である三井物産に紅参の海外独占販売権を与え、三井物産は紅参販売だけでなく生産過程にも関与するなど影響力と収益を拡大した。
1919年に酒精式焼酎の工場が平壌に設立されたのを皮切りに、新式の焼酎工場が相次いで出現すると、総督府は「朝鮮酒税令」と度々の改正令を通じて酒税を増やし、それが総督府の財政における最大の税収源となった。1933年12月に大日本麦酒が永登浦に朝鮮麦酒工場を建て、翌年には麒麟麦酒も朝鮮で生産した「キリンビール」を販売し始めたことで、朝鮮人の麦酒消費が大きく増えた。それが再び総督府の財政に役立った。総督府はまた、煙草製造を専売事業とすることで、「植民地民の嗜好を充たしながら、統治および開発の財源を確保できた」。日中戦争と太平洋戦争に突入してからは、朝鮮で生産された煙草が中国や南方の占領地を含む「大東亜共栄圏」各地に送られた。
ビールと同様に、牛乳は日帝の植民地支配の副産物として朝鮮に導入された。開港直後から仁川や釜山などの居留地の外国人を中心に搾乳業が始まり、次第に朝鮮内に広がっていった。日本を経由して牛乳という「文明的滋養」が朝鮮内に新しい食文化として導入されたのだ。牛乳をほとんど飲まなかった朝鮮人も、小規模ながら牛乳の消費に取り込まれた。牛乳と共に練乳、粉ミルク、バターなどの乳製品も朝鮮で消費されたが、これらはほとんど西洋諸国からの輸入品だった。
朝鮮は気候と土質がりんご栽培地として優れた条件を備えているが、在来りんごは品種改良された西洋りんごに比べて商品性が劣った。開港後に宣教師らによって西洋品種が導入され、市場販売を目的とする産業展開が行われた。朝鮮のりんごは植民地時代に急激に生産が増加し、朝鮮内の消費が増えただけでなく、朝鮮半島から近い西日本地域などへの輸移出もまた増えた。ところが特記すべきことは、輸移出の対象になるのは良質のりんごであり、その残りが朝鮮内で消費されたという点だ。一方、咸鏡道の地域民が自家用で作って食べ、一部だけ現地で販売されていた明太子が、日本人の嗜好品となったことで商品化され、戦時下では国家管理対象になったのは興味深い現象だ。
このように9種の食料を通じて植民地朝鮮のフードシステムを考察し、それが植民地解放後に韓国で再編される過程も合わせて探った著者は、結論でこのように語る。
「植民地時代の朝鮮のフードシステムの形成と再編は、国家独占および租税と相まって総督府の財政と密接な関係を持っており、植民地統治を支える財源にもなった」
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