小池晃書記局長は19日、国会内で記者会見し、「自民党全体が組織ぐるみで、システマチックに裏金づくりをしていたというものだ。極めて重大であり、戦後最悪の金権腐敗事件だ」と批判

2023-12-20 12:13:50 | 岸田・石破の早期退陣を望む声が多い

2023年12月20日(水)

安倍派・二階派を強制捜査

自民党政治を終わらせよう

政治の責任で真相解明し 法の大穴ふさげ

小池書記局長が会見

写真

(写真)記者会見する小池晃書記局長=19日、国会内

 東京地検特捜部が自民党の「清和政策研究会」(安倍派)と「志帥会」(二階派)の事務所に強制捜査に入ったことを受け、日本共産党の小池晃書記局長は19日、国会内で記者会見し、「自民党全体が組織ぐるみで、システマチックに裏金づくりをしていたというものだ。極めて重大であり、戦後最悪の金権腐敗事件だ」と批判しました。

 小池氏は、問題の事件の悪質さについて、1994年に「政治改革」と称しながら企業・団体によるパーティー券購入を認めた政治資金規正法改定が行われたことに触れ、「その『法の大穴』をくぐって、企業から賄賂をもらうのではなく、自民党側が錬金術のように資金をつくったのが今回の事件だ」と指摘。リクルート事件やロッキード事件などの企業側から賄賂が提供され政治がゆがめられた事件とは異なる悪質さがあると強調しました。

 さらに、岸田文雄首相が「捜査の進展とともに、全容や原因、課題などが明らかになると認識している。推移を見ながら必要な対応を講じていきたい」と述べているが、「まるで人ごとで、検察の捜査に丸投げだ」と批判。「自民党総裁として真相解明の陣頭指揮に当たり、徹底した改善をする責任がある」と述べました。

 また、自民党の茂木敏充幹事長が「大変遺憾だ」と言いながら、「(キックバックは)自制・自粛すべきではないか」と発言していることにも触れ、「出口で『自粛』すればいいという話ではなく、入り口からシャットアウトする必要がある」と指摘。「パーティー券を企業や団体が購入することを禁止するという形でシャットアウトする―『法の大穴』を完全にふさぐことが政治の責任だ」と述べました。

 その上で、「ロッキード事件の時には、検察の捜査とともに国会が国政調査権を発動し、検察と国会が『車の両輪』となって真相解明が進んだ。証人喚問なども含めて徹底した国会としての役割の発揮が求められている」と強調。野党各党に協力を呼びかけていくと表明しました。

 記者から岸田政権の退陣について問われた小池氏は、「これだけ重大な事件が起きている以上は“責任を取って総辞職を”という声が上がるのは当然だ」としつつ、「自民党の中での政権のたらい回しでは問題は解決しない。大臣の辞職や内閣総辞職だけでは解決しない段階にきている。自民党の政治を終わらせることが必要だ」と強調しました。

 また、日本共産党が国会に提出した「企業・団体献金全面禁止法案」について各党に協力を呼びかけるかと問われ、「野党各党に党としての提案も示し、賛同を求めていきたい」と述べました。

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19日午後、徐京植さんの家族は、徐教授が前日夕方、日本のある温泉で突然亡くなったと伝えた。徐京植さんの祖父は1928年に朝鮮から日本に渡り、本人は1951年に5人兄弟のうち4番目として生まれた。

2023-12-20 12:03:56 | 韓国を知ろう

在日朝鮮人作家の徐京植さん死去…

「ディアスポラ」の多難な生涯を終えた

登録:2023-12-20 09:02 修正:2023-12-20 10:16
 
『私の西洋美術巡礼』、『ディアスポラ紀行』など 
マイノリティの目で普遍的な倫理を探求した「半難民」
 
 
2019年8月、「ハンギョレ21」で開かれた対談に参加した徐京植さん=キム・ジンス記者//ハンギョレ新聞社

 在日朝鮮人2世として故国の民主化運動にかかわっただけでなく、辺境人または離散者(ディアスポラ)として韓日両国に国家主義と植民主義を乗り越えることを求めてきた徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学名誉教授が死去した。享年72。

 19日午後、徐京植さんの家族は、徐教授が前日夕方、日本のある温泉で突然亡くなったと伝えた。徐京植さんの祖父は1928年に朝鮮から日本に渡り、本人は1951年に5人兄弟のうち4番目として生まれた。「在日朝鮮人としては比較的恵まれた」家庭で育ち、十分に教育を受けた徐京植さんは早稲田大学に進学してフランス文学を学んだ。

 しかし、大学在学中の1971年、韓国に渡ってソウル大学に留学していた2人の兄、徐勝(ソ・スン)さんと徐俊植(ソ・ジュンシク)さんが、軍事政権がでっち上げたスパイ容疑(国家保安法違反)で拘束される「在日韓国人留学生スパイ団」事件が起きた。徐京植さんは日本で2人の兄の釈放を求める救命運動を展開したが、その発言は必然的に故国の民主化だけでなく、戦後日本の責任問題などにも及ぶものだった。当時、この救命運動には藤田省三、和田春樹など日本のリベラル・左派知識人たちも参加した。徐京植さんは日本社会で長期囚の家族として『長くきびしい道のり:徐兄弟・獄中の生』(1988)などの著作を出すことで、日本社会に向けて発言した。

 幼い頃から西洋美術を探究しようとしたが、在日朝鮮人の彼は韓国政府が発給したパスポートなしには渡航することができなかった。日本社会に閉じ込められ、これといった希望もなく、2人の兄の救命運動をし、両親まで亡くなった後の1983年、徐京植さんは思わぬことでヨーロッパに行くチャンスを手にした。当時、3カ月にわたりヨーロッパを回りながらあらゆる美術作品を目にした経験は、徐京植さんを本格的な「作家」の道へと導いた。1991年に日本で出版された『私の西洋美術巡礼』は翌年、韓国でも同じタイトルで翻訳出版され、韓日両国で広く読まれる彼の代表作となった。同書には単純な旅行記や美術評論ではなく、東西古今を通じて「差別と迫害に抑圧された証拠、これに抵抗して死んでいった証言」と向き合った自身の「苦しい独白」が盛り込まれている。

 
 
徐京植さんの代表作とされる『私の西洋美術巡礼』(韓国語翻訳版)の表紙//ハンギョレ新聞社

 徐京植さんの二人の兄は冷戦が終わって韓国の民主化に進展があった1988年と1990年になってようやく出獄したが、救命運動を行ううちにすでに40代にさしかかった徐京植さんは、日本の大学で若者たちを教える仕事を始めた。1990年代、徐京植さんは批評家として日本の保守右派だけでなく、国家主義に反対するという口実で歴史的責任を疎かにするリベラル知識人の「頽落」にも対抗し、積極的に発言した。在日朝鮮人、すなわち辺境に立ったマイノリティというアイデンティティに対する質問と感覚から出発し、普遍的に到達する倫理について悩んだ彼の発言は、冷戦後の時期にかえって国家主義、帝国主義、植民主義に陥り、差別を日常化している韓日両国に警鐘を鳴らした。自分を「難民」でも「国民」でもない「半難民」と称する彼の用語は、これを端的に示している。このような考えを旅行の中に盛り込んだ『ディアスポラ紀行-追放された者のまなざし』は、徐京植さんのもう一つの代表作に挙げられ、韓国でもディアスポラの概念に対する関心を呼び起こした。この他に徐京植さんには『半難民の位置からー戦後責任論争と在日朝鮮人』、『汝の目を信じよ!統一ドイツ美術紀行』、『私の西洋音楽巡礼』、『超越画廊-私の朝鮮美術巡礼』、『日本リベラル派の頽落』などがある。

 
徐京植のもう一つの代表作『ディアスポラ紀行-追放された者のまなざし』(韓国語翻訳版)の表紙//ハンギョレ新聞社

 2000年に東京経済大学常勤教授になった後、徐京植さんは何よりも「芸術」を媒介に学生たちに「教養」教育を行うことに力を注いできた。講壇だけでなくシンポジウムや展示などを通じて自ら様々なアーティストや研究者、活動家をつなぐ懸け橋になろうとした。2006年からは2年間、韓国聖公会大学でも研究教授として働いた。2021年に定年退任したが、退任記念文集で編集者たちは徐京植さんのこの時期を「教育者・文化運動の時代」と評した。東京経済大学には毎年在日朝鮮人の学生が徐京植さんに影響されて入学し、後学として在日朝鮮人のアイデンティティに関する研究を続けている。

 徐京植さんは2005年から18年間にわたり、ハンギョレにコラムを書き続けた。今年7月最後に書いたコラムで、彼は「真実を語り続けよう」と呼びかけた。「私たちも、勝算があろうとなかろうと『真実』を語り続けなければならない。厳しい時代が刻々と迫っている。だが、勇気を失わず、顔を上げて、『真実』を語り続けよう。(…)世界の隅々に、浅薄さや卑俗さと無縁の、真実を語り続ける人々が存在する。その人々こそが私たちの友である」

チェ・ウォンヒョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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