[インタビュー]
「南北の国力と自主意識の高い今が『中立化宣言』の適期」
3月1日正午、ソウルのタプコル公園で「朝鮮半島永世中立化宣言文」の朗読イベントが開かれる。
「朝鮮半島の中立化を推進する人々」(以下、中推人)のイ・ヒョンベ常任代表らが宣言文を朗読し、付帯行事としてパンソリのイム・ジンテク名唱が演出したマダン劇も繰り広げられる。仮想の寸劇であるこの公演には、朝鮮半島周辺4大国の指導者たちが仮面をかぶって登場し、朝鮮半島の状況をめぐって激論を交わした後、朝鮮半島の中立化が最善だという結論を下す。
「朝鮮半島の中立化だけが、統一を妨げる相互不信と軍事的対峙という障害を解消し、周辺大国の利害関係から始まった抑圧の手綱を断ち切る唯一の道だ。(中略)中立化の道は、単にわが民族の生存だけのためではなく、米国や中国、ロシア、日本などを含む近隣諸国の共同利益にも合致する」。今月からオンライン署名を受け付ける「朝鮮半島永世中立化宣言文」の一部だ。
昨年6月25日に創立した中推人のイ・ヒョンベ常任代表と19日、ソウル鍾路3街駅近くの事務所で会った。
イ代表は維新時代の1974年、独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)の永久政権のために企てた「民青学連事件」の死刑囚7人(ヨ・ジョンナム、キム・ジハ、イ・チョル、ユ・インテ、ナ・ビョンシク、キム・ビョンゴンなど)の一人だ。慶北大学の卒業生であるヨ・ジョンナムとイ代表を除いた5人は、軍事裁判の一審判決から1週間後、国防部長官の決裁過程で無期懲役に減刑されたが、イ代表は一審の2カ月後に開かれた二審でようやく無期懲役の判決を言い渡された。ヨ・ジョンナムは最後まで減刑されることなく、人民革命党再建委関係者7人とともに「司法殺人」の犠牲者として生涯を閉じた。詩人キム・ジハと共に「民青学連組織員」の後輩らを操った疑いで、イ代表は4年6カ月間にわたる刑務所生活の末、1978年の光復節(日本の植民地支配からの解放記念日)に釈放された。
歴史学の教授になるために1963年にソウル大学史学科に入学したイ代表は、翌年から朴正煕政権の暴政に対抗する学生運動の尖兵の役割を果たした。1964年の韓日協定反対闘争では、キム・ジハら先輩グループが指名手配され、2年生の彼が先頭に立って6・3大規模デモを率いた。軍服務を終えて復学した1967年には、ソウル大学民主守護闘争委員会の委員長を務め、朴正煕政権がその年の総選挙で犯した違法と不正を糾弾する学生デモを主導した。盧泰愚(ノ・テウ)政権時代の1990年代初めには、経済正義実践市民連合の第2代常任執行委員長として、社会経済的正義を追求する活動にも力を注いだ。
「60、70年代は独裁権力に対する抵抗が最終目標でした。独裁者が消えれば、民主化はもとより社会経済的正義も実現すると思っていました。今になって見ると、形式的な民主主義が花開いたのは事実ですが、社会経済的正義の実現とは程遠いもので、社会の葛藤も解消されていません。このようになった最大の要因は分断と外国勢力の介入です。自主性なしには解決できません」
彼が中推人の結成に直接乗り出したきっかけは、いわゆる「THAAD(高高度防衛ミサイル)事態」だという。「韓国へのTHAAD配備問題で米中対立が発生し、4年前に中国が韓国に経済制限を加えたことで、韓国の旅行業界が大打撃を受けました。その時の衝撃が大きかった。その状況を見て、北朝鮮核問題を解決し、米中対立の被害から抜け出す道は中立化しかないと思いました。北朝鮮の核問題をめぐり、米国が二度も北朝鮮に対し、戦争をちらつかせて脅かしたではありませんか。しかし、北朝鮮が最後の生存手段である核を簡単に手放すはずがありません」
中立化とは、簡単に言えば他国の戦争や紛争に介入しないことだ。国際法上、中立国は自衛目的でないいかなる戦争にも参加せず、自国を戦争に引き込むかもしれないいかなる協定も締結してはならない。欧州のスイスやオーストリア、南米のコスタリカなどが代表的な中立国だ。大韓帝国の高宗も日露戦争を控え、中立化を宣言したが、朝鮮半島を狙っていた大国たちはこれを認めなかった。
「中立化の具体的経路」を尋ねると、イ代表は「200人以上の中推人メンバーが討論を重ねて決めた」と答えた。「第1段階は南北の同時中立化宣言です。その次に、南北国家連合を構成して中立化と統一に備える協議を行います。最後に南北と米中など、朝鮮戦争における主交戦国が平和会談を開き、中立化などを含む平和条約を一括妥結します」。彼は、北朝鮮核問題は外交や軍事的には解決できないとも述べた。「南北の人々が大同団結し、大衆運動で中立化を成し遂げてこそ、核問題も解決できます。そうすれば、韓国の自主性も確保できます」
昨年6月、朝鮮半島の永世中立化を目指し
「中立化を推進する人々」を結成
タプコル公園で宣言文を朗読
「北朝鮮核問題の唯一の解決策は中立化だけ」
1964年、大学2年生の時、「6・3デモ」を主導
“民青学連事件の黒幕”とされ死刑判決も
終戦宣言や平和協定を求める統一運動陣営からすると、中立化は多少突拍子もないと思われるのではないだろうか。「私たちも終戦宣言に賛成します。しかし、終戦宣言には北朝鮮の核をどうするかが抜けています。外国軍の駐留基地や撤退の話もありません。だから、終戦後も南北の間には緊張状態が続かざるを得ないのです。最小限の防衛力で国家を防御する中立化宣言で、北朝鮮の核問題と外国軍の撤退問題をともに解決できます」
彼は「6・15南側委員会のイ・チャンボク常任代表議長や、市民団体『キョレハナ(同胞は一つ)』のチョ・ソンウ理事長など、長い間統一運動をしてきた方々が中推人の活動を支持しており、米国の同胞団体の米州民主参与フォーラムのメンバーからも署名が多かった」と語った。中推人共同代表はチャン・ヨンダル元国会国防委員長、パク・ソクム茶山研究所理事長、ユン・ギョンノ元漢城大学総長、キム・ギョンイム元チュニジア大使で、歴史学者のイ・マニョル教授やイム・ジェギョン元ハンギョレ副社長などが顧問を務めている。事務総長はイム・サンウ元西江大学副総長。
「韓米同盟」がいわゆる国是とされる韓国で、軍事同盟を否定する中立化が現実性があるのかという質問に対し、彼は首を横に振った。「中立化に進む最大の困難は、韓国で人々の意識を(中立化の方に)団結させることです。次に、北朝鮮の人たちに協力を求めることです。その次が外国勢力です。内部勢力に力があれば、外国勢力の問題は解決できます。今の国際関係も、朝鮮半島を中心に見ると、国際力学がバランスを取る方向に進んでいます。今の韓国と北朝鮮の国力や自主意識もいつになく高い。このように内外の環境が合致しているから、中立化の可能性はあると思います」
彼は、多くの韓国人が「停戦麻痺」状態に陷っていると語る。「朝鮮戦争(1950~53年)の停戦協定後、韓国人たちは日々(停戦協定体制に)縛られて生活しています。にもかかわらず、人々は幸せに暮していると錯覚している。私が今やっているのは、この麻痺状態を壊すことです。年は取りましたが、いかなる形であれ、行動を起こさない限り何も起きませんから」
イ代表は1日に朗読する宣言文は世界主要国の政府とマスコミにも送る計画だと述べた。現在70代が中心の中推人に若いメンバーたちを迎え入れるのが急務だと強調した。「中推人に市民委員会を設置し、若いメンバーの確保に力を入れるつもり。スポーツや芸能などの職能別、そして地域別支部も作り、ニューヨークやワシントン、ベルリンにも支部を置くつもりです。また、私たちの力を見極めながら、国会が先に中立化を提起できるよう働きかけようと思っています。まだ私たちの力が及ばず、韓国政府側に話すのは見送っています。今言うのは互いの負担になりかねませんから」
イ代表は民青学連事件で、キム・ジハらとともに黒幕として学生を操った容疑で逮捕された。当時、彼はソウル大学史学科大学院を修了し、東学の創始者である水雲崔濟愚(チェ・ジェウ)の人間観をテーマに修士論文を準備していた。「後輩たちにデモをしろと言ったものですから、後ろで操ったと言われても仕方がないかもしれません。ソ・ジュンソクやユ・インテ、アン・ヤンノに、維新に反対できる勢力は学生しかいない、君たちが先頭に立たなければならないと言いました。私やチョ・ヨンネのような先輩グループと学生たちの間の連絡係はソ・ジュンソクが務めました」
ヨ・ジョンナムを除いた民青学連事件に関連した死刑囚6人のうち、唯一二審で無期減刑された。 「朴正煕政権はソウル大学に長期にわたり在籍し、学生たちを扇動し続けたとして、キム・ジハと共に私を消そうとしていたようです。ところが、キム・ジハは文人でカトリック信者でもあるため、殺したら騒がれるだろうし、私は詩人でもなく、教会にも行ってないので、『こいつにしよう』と思ったのでしょう」。彼は史学科に入学してから8年後の1971年に卒業証書を受け取り、翌年大学院に進学した。
では、ヨ・ジョンナムと彼の運命はどのように変わったのだろうか。彼は確かなことは分からないと言いながら、このような裏話を聞かせてくれた。「私が死刑を言い渡された衝撃で、当時妊娠35週目だった妻が破水し、敗血症で生死をさまよいました。早産した息子はインキュベーターに入れられました。私の母親は、息子と嫁、孫の3人が死んでいく姿を見ているしかありませんでした。一審判決が下された後、ファン・インチョル弁護士の依頼で、キム・オッキル梨花女子大学総長(当時)が朴正煕夫人のユク・ヨンス氏に会い、このような状況を伝えてお願いしたそうです。ユク・ヨンス氏は涙を流しながら夫に話してみると言ったようですが、二審の1カ月前に、ユク氏がムン・セグァンの銃弾に倒れ、命を落としました。すると、キム総長が再び大統領府に行き、娘の朴槿恵(パク・クネ)に会ってお願いしたそうです。当時、朴槿恵は政治問題には関与したくないときっぱりと断わったそうです。私が無期懲役に減刑されたのは、ユク氏が夫に話してくれたおかげなのか、それとも朴政権レベルの他の考慮があったのか、正確な内幕は分かりません」