えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:第九回日経能楽鑑賞会 能「融」シテ 友枝昭世 二〇一五年六月四日 国立能楽堂

2015年06月13日 | コラム
・月から朝日を

「能の場合は、口伝されるのは意味である。――そして意味とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。」
――『なにもない空間』 ピーター・ブルック

 白い足袋が身体を運んでいる。手すりの下から覗く足袋の一足と、手すりの上に現れている老人の身体は別物のように、しかし全く同じ拍子で動いていた。橋掛を越える手前でやっと足袋と身体が繋がり一体になる。拍のような呼吸を置いて、四つの柱で囲まれた舞台へ友枝昭世は身体ごと足を踏み出した。ワキ柱の傍らで端坐する僧の宝生閑は既にこれから舞台の中央へ出でんとする老爺が人ではないことを既に知っているようだった。腰蓑をつけ田子を提げた老爺は掴んでいた田子の紐から慎重に手を離し、「月も早」と屋根に遮られた国立能楽堂の空を見上げる。夜が始まった。

 能『融』は真夜中を作り出す能だ。京を訪れた一見の僧は荒れ果てた六条河原の院に足を留める。そこに突如として現れた前シテの汐汲みの恰好をした翁へ訝しげに僧は問う。「ここは海邊にてもなきに、汐汲みとは誤りたるか」翁は答える。「河原の院こそ鹽竃の浦候よ」。かつて左大臣源融が贅を尽くした館の旧跡に立ちながら二人は詞を交わす。屋敷の庭に塩竈を作り、毎日遠くから海水を運ばせては塩焼きの様を愉しむ豪奢を翁は吶々と僧へ語る。そこへ月が翁の言葉と共に現れる。仕事の帰路で足元の花を見つけるように顎をふいと上げるだけで友枝昭世は月を示し、夜を分からせた。三年前の友枝昭世の『融』の老爺が人間と亡霊の中間ならば、此の時の老爺は出の一歩から亡霊だった。宝生閑の僧は自身も半ば幽鬼となりながら、翁の亡霊と共に『融』の月下の光景を組み立てていた。

 翁の野太い声が淡々と波のように染み渡り、凪の水面に落ちる葉のように身体が舞台をゆるやかに流れてゆく。舞台の外へ身を乗り出し両肩の田子で水を汲んだ。田子を掛けた肩を前掲してわずかに水の重みを感じさせつつ幻のような歩みの軽さはそのままに、田子を床へ置くと老爺は舞台から下がった。

 スポットライトが明るく照らす能舞台に夜は更けてゆく。地元の人間である(今回は彼が唯一の観客と地続きの人間に見えた)里人が翁の語った内容と同じことを語る間、僧は黙して既にそれを熟知している様を示していた。深夜を迎え、弔いのために僧は廃墟に座り続ける。笛が呼ばわるように空間を割いて鋭く鳴り響いた。幕が上がり現れたのは中将の面、融の大臣の亡霊である。現れる彼を知っていたはずなのにはっと息を呑んでしまった。狩衣と袴が死に装束のような生気のない純白に光り、鉢巻をつけず切りそろえた下ろし髪を前後に垂らした若々しい姿のそれは間違いなくこの世に執着する幽鬼だった。袖が翻る。金糸銀糸で雲を縫い取った象牙色の狩衣の隙間から金と黒の円の模様が見え隠れする。腕を大ぶりにするような荒々しさはないが、面の壮年の男が顰めた眉の煩悶を映し出すように手足は激昂を以て力強く動いた。ともすると引きずり込まれそうな恐い舞台の上で僧は舞を見守る。融の大臣は幕の寸前まで戻りそのまま退場かと思わせながら、舞台の上――六条河原の院の廃墟――に後ろ髪を引かれるようにするすると戻ってゆく。そして舞う。地謡が朝の訪れを謳うと亡霊は鮮やかに夜から去った。三年前には分からなかったかれの遺す余韻は、眠りから目覚める早朝の一瞬に似ていた。

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