えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『レオノーラ』雑感

2021年04月17日 | コラム
 女性がひとりで自分のために生きようとすることの難しい時代、さらに絵筆で身を立てようとする試みは無謀にも等しいだろう。だから一九一七年生まれのレオノーラ・キャリントンは絶妙な過渡期に世へ現れたのだと思う。イギリス王室への謁見が認められるほどの名家に生まれながら、奔放な馬のように家を飛び出して絵筆を握り、マックス・エルンストとの出会いが彼女のその後を決定づけた。それでも美しくなければ、若くなければ、さらには本人の知ってか知らずか、父親の運営する巨大企業と母親の密かな金銭の支援がなければ、彼女は思うように生きられなかったのかも知れない。ジャーナリストのエレナ・ポニアトウスカの小説『レオノーラ』が直接のインタビューを始めとした資料の膨大な裏打ちを作りつつも、事績を直接記す伝記ではなく小説という形でレオノーラ・キャリントンという女性を描くことに成功しているのは、レオノーラ本人から直接言葉として得られないつながりを埋める想像が楔として主張しすぎず働いているためだ。

 主人公の「レオノーラ・キャリントンという女性」は家族と口論しエルンストと愛の言葉を囁き交わし、親友のレメディオス・バロと幻想の世界に遊ぶ。そこに生じている細かな言葉のやり取りはポニアトウスカの想像の産物だ。事実の裏打ちにも限界がある。想像が至らなければ綻びる。話運びのためにセリフを言わされた登場人物はいない。これほど会話の量が多いにも関わらず、伝記と錯覚するほどポニアトウスカの想像は精密だ。それは創作ではなく、ポニアトウスカが吸収したレオノーラ・キャリントンという女性の肖像画でもある。

 レオノーラ・キャリントンの大きな事績としてはシュルレアリスム運動に参加して、同時代のレメディオス・バロやレオノール・フィニらと男性陣とはまた別の世界を作り上げた画業だろう。日本では一九九七年に個展が開催されたことをきっかけに広く紹介されている。
シュルレアリスムの大家であるマックス・エルンストやアンドレ・ブルトンたちに才能を認められた彼女は、特にエルンストと深く愛し合い浮名を流した。
二人きりでフランスに暮らしてエルンストの本妻に引き離される様子はキャリントンの小説『リトル・フランシス』にまで昇華されている。『レオノーラ』においても二人の関係は取り上げられているが、二人の愛し合う時間の頂点は『リトル・フランシス』のほぼ移植で賄われ、とちらかといえば関係の進行を時系列とともに第三者の批評混じりの視点で軽く触れられており、本格的に文章が生き生きと動き出すのは三十八章の「レメディオス・バロ」からだ。ここから『レオノーラ』は男性たちや両親に知らず識らず守られていた女から脱皮して、自分を表現する手段に過ぎなかった画業は現実の世界に評価として組み込まれ、地に足をつけて目を開いてゆく。

 気がつくと息子たちは成人し、ポニアトウスカも深く関わったメキシコの学生運動「トラテロルコの夜」に自分は若者の煽動者として糾弾される立場になり、社会に組み込まれたレオノーラ・キャリントンは成熟した大人として老いていた。とくに具体的な描写が書かれているわけではないが、この老いの姿が美しく文字から現れるのはポニアトウスカが女性だからこその仕事だと思う。それでも若い頃のようにあちこちと飛び回るしなやかさは落ち着きに変化していた彼女を最後の最後に少女が馬へ変じて連れ去ることで、ポニアトウスカはこの一連の言葉が「お話」であることを宣言しつつ本を終わらせる。息継ぎ無く書ききった後味の爽やかな稀有な本だと思う。

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