えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

伝統工芸展につっこんでみた

2009年04月26日 | 雑記
日本橋。
天下の三越さまのお隣のお隣に千疋屋がありますね。
ガムシロップ無しのレモンスカッシュはたいそう口がさっぱりしました。
待ち合わせ、メールの有無をたしかめながら緑のストローを吸い上げて、
しばし待機。

本日は三越の「東日本伝統工芸展」へ足を運びました。
しかも案内つきというゼータクな鑑賞です。
ミーハー民芸愛好家には願っても無い機会でした。

展示作品は、東日本(北限は北海道)に在住する工芸作家のもので、
陶器、漆器、染織、螺鈿、蒔絵などなどなど。
女性作家が意外にも多く、単なる技術の保護だけではなく、
もっと自意識の強い芸術性の高い作品が目に付きました。
個人的には、昨今陶器にはまっているせいもあって、
純白の白磁の大鉢がスカっとしていてよかったと思います。
「そうめんを入れたい」
と連呼し今回解説なさってくださった蒔絵師の方に迷惑をかけながら、
一通り閲覧。

やはり「今」どうなって、何をつくりたいのか、
ということは、こうした展覧会に足を運ばなければならないので、
よい機会でした。

美術、と言うものを思想や学問として捉えたわけではなく、
ただ好みのうるさいふつうの人として、こうしたものを見て
思うことは、ひどく迷っているなあと思います。
作っている当人の手がまよっているのではなくて、
作られたもの自体が、ものとしての目的がよくわからなくて、
混乱しているように思うのです。

もっとつめたく言えば、
「使用目的」においてアイデンティティを失っている「もの」が
あまりにも多すぎた、というのが本日の印象です。

確かに、きれいな螺鈿の箱や、美しい漆塗りの盆は、
その形態において「箱」であり「盆」ですけれども、
じゃあこの「箱」はどうやって使おうか、いつ使おうか、
使われている姿がみえてこないのです。
グラビアのアイドルの姿がポーズであって、普段の姿ではないように、
格好付けとして「使うことができるもの」の姿を取れても、
普段着の姿が見えてこない「使うことが出来るもの」とは
一体何なのでしょうか。

工芸は、技術の保存が重要だと、閲覧が終った後のお茶で
友人交えて語り合いました。その対話の中で、こうした技術によって
作られたものは、もう、芸術品・美術品、にならざるを得ないのだな、
という実感を得ました。
かといって、芸術的な「オブジェ」であるにはあまりにも、あまりにも
身近に過ぎる姿が工芸品の混乱を招いています。
ですが、これも対話の中で確認したことですが、工芸が工芸であるためには、
技術を「もの」を離さないことが必要です。
つまり、ものでありながら、使用される形でありながら、
オブジェにならざるを得ないというところで、ものは混乱しているのでは
ないか、と思うのです。

工芸は技術として保存したいとおもうことは人情です。
でも、つくる技術があんまりにも個人的な嗜好になっていることを
お聞きした後は、
「工芸家たちは、ほんとうに『保存』ということを考えているのか?」
と疑問ばかりが頭をよぎります。

企業では絶対叩き込まれる「お客様意識」のない工業物は、
マジで利用に耐えない可能性があることを製作者は意識すべきです。
たとえそれが、ひどく個人的な相手であったとしても、
技術の進化を進めるより、だれかにこう使ってもらいたいという祈りが
少なくとも「工」を名乗る上で大切なのではないでしょうか。

使うためにある技術が、古くなるにつれ芸術になるのはしょうがないことです。
ですが、使う人を見つけない怠慢に乗っかって、
自分の技術を最初から高いところに置いたものづくりだと、
作られたものはそれを嫌がると思うのです。
白磁にそうめんやフルーツポンチを入れてしっくりさせられる、
使いこなした上でその美をわかる感覚の人はきっといるはずです。
工芸家ひとりひとりが、いい使用者をお得意様として掴んでほしいと
切に願います。

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